国鉄大阪鉄道管理局(以下、大鉄局)は、新快速をデビュー当初から列車線(外側線)を走らせたいと本社に請願していた。
当時は山陽線方面に昼行優等が走っていたが、新快速は日中のみ1時間毎の運転と言うことでモデルダイヤグラムを作成。列車線に新快速を走らせても本社運行の優等列車の本数に支障が出ないと主張。 だが、本社が許可する事がなかった。
昭和61年の日中、当時中学生だった私は立花駅で数時間、列車の撮影を兼ねてホームに居た。
13時頃から14時頃の1時間だと記憶しているが、大阪方面に向かって走る電車線走行の「電車」は12本もあるのに、列車線を走った「列車」は急行1本と貨物2本だった。
当時は山陽線方面に昼行優等が走っていたが、新快速は日中のみ1時間毎の運転と言うことでモデルダイヤグラムを作成。列車線に新快速を走らせても本社運行の優等列車の本数に支障が出ないと主張。 だが、本社が許可する事がなかった。
昭和61年の日中、当時中学生だった私は立花駅で数時間、列車の撮影を兼ねてホームに居た。
13時頃から14時頃の1時間だと記憶しているが、大阪方面に向かって走る電車線走行の「電車」は12本もあるのに、列車線を走った「列車」は急行1本と貨物2本だった。