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【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践12 [転載禁止]©2ch.net YouTube動画>23本 ->画像>15枚
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お釈迦さまの教えとヴィパッサナー冥想に関心のある人、実践している人、
体験や変化を 実際に経験している人、初心者、先達の方々、預流果の方々、
更なる成長を求めて語り合いましょう。
前スレ
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践11
http://2chb.net/r/psy/1425309691/ ※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、日本テーラワーダ仏教協会やそこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。
日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など多種多様な団体があります、
諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違いもあります。
そこを踏まえてご参加ください。
>>1 乙です。レス番みて慌てて立てようと思ったらもう立ってたw
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,. 、 / /
,.〃´ヾ.、 / /
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,、 ,r'´ ||--‐r、 ', 盛り上がって来たのじゃ!
l.l. ,..ィ'´ l', '.j '.
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l! ....:.:.:.:.:.:ヽ、 ,l \
ゝ、.,_ ---‐‐‐----ゝ、ノ
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仮の話をする。
凡夫ならまだいい。
聖者でありながら、過ちを行ってそれを改めることをせず、更に過ちを重ねるならば、
お釈迦様の顔にドロを塗るのも甚だしいよ。
聖者の集いであるサンガを汚すことに他ならないと思う。
とはいえ、本当にもし誤魔化しが必要な状態なら、
一番苦しいのはご本人であることは間違いないので、
「燃え上がるアスピレーション」とやらを回向して差し上げたい気がするw
仮に聖者としても、不還果にいくまでは欲界の罠にはまることもあるわけだから、
何かを盗んだり、男女係の問題を起こしても仕方ない。
だから、問題はやっぱりその後だと思う。
本当に単なる推測の域を出ないからこれ以上は控えるが、
せっかくイチから始められる機会なのだから、
ちゃんと考えてスタートして欲しい。
前スレの
>>998 >オレもあの傳修院のHP読んで正解が一つに絞られた瞬間にすっと冷めましたからね
あれ読んで正解がひとつに絞られる?
しつこく投稿で申し訳ないがw
ミャンマーで修行されていた時は悪行為はなかったのに、
慈しみ、善意で日本に来て指導を開始し、
環境が違ったために仮に悪行為に至ってしまったならば、
本当に申し訳なかったと思う。
アスピレーションでお返しするしかない。
もちろん、一定の自己管理はお願いしたいがw
先生が生徒に手をつけるのは、学校ではタブーですのでw
禅師さえも欲情してしまうようなセクシーな女性会員もいたのですか?
性欲は男性の重要問題だから、ここは禅師も男気見をせて
ありのままを告白されたほうが、ブッダの教えにかなってると思います。
ブッダも過去生の修行時代、王女の美しい肉体に心を奪われて欲情してしまったという逸話が
ジャータカにありましたね?お釈迦様でさえ美女を見て心を奪われた過去を告白されました。
お釈迦様はご自身の過ちを正直に語られる勇気があります。
>>13 それは禅師にも情状酌量の余地がありますね。
しかしあんなにCQ(コレクティブインタビュー。アーナーパーナーサティの指導)が厳しかった先生はいない
「24時を回ってしまってから一日の修行のタスクを慌ててこなしましたが、これは60日行、継続的な修行が途切れてしまったのでしょうか」
との質問に、
「これこそ仏教徒の態度です。修行に対する緊迫感です。皆さん帯紐を締め直してください。いい機会だからいいますね。(皆さんは)甘すぎるーー」
と続けられたことを思い出し鑑みますと、やはり今回の件は釈然としません。
冴えんなぁ
わしゃ涙が出た。
年に3回あるかないかじゃがのw
この道は、仏道は、人知れず涙の出る道です。
こんな道は、現代にはなかなかない。
なんとなく利益を模索して、なんとなく笑って泣いて、いきなり人生が終わっているのです。
これは、これこそが、サンカーラドゥッカ、輪廻の淋しさだと思われます。
とにかくつまらない。
瞑想の技法を学びにきたり、アビダンマの知識を学びにきたりしているだけの人もみられました。
なんとつまらなく、ダサいことか。
まあそれでもいいんだけどもも。
禅に、珍重ってありますね。
あれなんですね、本当は。。
この際雲水にでもなるか。まあーそれもつまらんじゃろな。
わしももがいております
だから
「さっさとニーバーナ入りしたい」
とかいうコメをみたけれど、そういうのワカラン。
なんだその即物的な発想は。だから嫌いだよ、仏教戦士どもは。
あれをしたらこれを得られるとか、そんなんじゃないから、人生は。
熱が出たとき看病してくれたかーちゃんの顔思い出してみろ!!
おまえら!!
仏教なんて辞めちまえ、そんなんじゃ。
とば口にさえ立ってねーんだよ、、
もういい。
出勤の準備しなきゃ。
じゃーな。
>>17 禿同。
いろいろ書いたが、とにかく信じ難い。
あの「修行」の世界観に惹かれていたので、心の整理が難しいw
修行の終わりがあるの初期仏教なので、
いつまでも修行続ける大乗仏教の世界観には同意しかねるが、
「修行」には変わりはないと思うw
>>9 はい。あくまで自分の中での正解ですけどね。
ざっくり3つのシナリオしか考えられないんですよ。
1)主要スタッフ全員が結託してでっち上げで禅師をハメた
2)禅師の破戒はなく、主要スタッフが全員騙された
3)禅師の破戒が事実あった
前スレでも書きましたが、
>会に出ているとスタッフの方々と直に話すし誠実さとダンマを追求する熱意も知ってるからね
>あの人達が一人残らず結託してでっち上げで禅師をハメるとは考えられないな
>会に行ったこと無い人から見ると禅師の言葉しか響かないんだろうけど
がわたしの感触なので、1)の可能性は捨てました。
彼らが「おう淫行話でもでっち上げてマハカルの奴ハメてやんね?」「おういいね、オレ達なんの得も無いけど面白いやるか、お前もどう?」「待ってました」てな感じで話しているところをリアルに想像できるならまた別ですけどね。わたしは違うので。
最初2)だと思いましたよ。「あー、スタッフの人達だれかの偽情報に騙されてるよ絶対、もー」って思いましたもの。
そこで禅師からのメールがあり、マハーカルナー傳修院のHPのアドレスが。
仮に2)であって禅師からみて自分が潔白でスタッフが騙されているか誤解の産物であることがわかっているなら、
どういうメッセージを旧スタッフに投げかけますかね。長年自分を支えてきてくれた同じ仏道を歩む同胞が一時の誤解から五逆を犯そうとしているとしたら?
そのようなメッセージを期待して傳修院のHPや禅師のTwitter発言を読むと、
「悪意ある行為を為した人達へ」「おどろおどろしいバイブレーション」「Dosaが蟻塚の蟻のようにうごめいています」
言葉の感触やイメージの問題じゃないですよ
あれは、相手が決して戻らないことを知っている人の発言です
これが決定打です。
わたしの中で2)は消えました。
実際、2)の可能性は完全にゼロではないと思いますが、
仮にそうだとしても五逆に落ちようとしてる同胞にかける言葉があれでは、わたしはちょっと無理ですね。
そういえば昔、
アビダンマ講座などの音声を共有するMLがあって、そこで禅師の悪口?が云々って話があったね。
関係あったりするのかな。
>>18 >瞑想の技法を学びにきたり、アビダンマの知識を学びにきたりしているだけの人もみられました。
>なんとつまらなく、ダサいことか。
あー、オレなんか若干このタイプに近いですね。
あんまり嫌わないでくださいw
あの場に全てを求めているわけじゃ無いってだけですし、一応世界の真相を模索してることは同じですからね。
>>23 あったあった
たとえ信頼できる人との間でも音声データの共有はダメですよってクギ刺されましたよね
でもあれはアビダンマの内容に関するツッコミをちゃんと説明できない場でされるのは良く無いからじゃなかったですか?
>>25 それと同じ時かは分からないけれど、
悪口?書いている人は後で来なさい、来なければ破門的な厳しい言い方されてた事だけ記憶にある。怖って思った。
>>22 2)はありえないという読みは筋が通っていると思います。
私は外部から見ている立場ですが。
この破戒の件、禅師のメールアドレスに質問投げた人いる?
こうやってても埒あかなそうなので、
直接問い合わせて、納得する必要ある気がしたよ。せっかく受付あるんだし。
アスピレーション溢れていればきっと気にならないのだろうなw
>>29 他人に頼ってどうするのじゃ?
南無南無 (‐人‐)
>>31 このスレにたむろってるオレが言うのも何だが
坐禅がキツいものだと思ってるなら、それ座り方間違ってるからな
肉体的な問題でなく、座ってるときの自己のあり方のほうな
話し合いもできず、参加者へのアナウンスもできないような、想像を絶する大問題って
いったい何なんですかね。
>>前スレ889
Wikipedia見る限りではブッダゴーサ長老の『清浄道論』じゃなくてサーリプッタ長老直説の『無碍解道論』でいくとか書いてあるし
この場合、原理主義なのは禅師の方針の方なのでは
「原始仏教」原理主義
>>22 >一時の誤解から五逆を犯そうとしているとしたら
そもそもサンガって比丘の集団でしょ
マハーカルナー禅師と弟子の集いじゃない
よって五逆罪に抵触することはあり得ない
(仮にマハーカルナー師が預流果以上だとしても)
聖者非難したら悟れない、禅定が得られない、人間、天界に生まれないだったかな
地獄に行くの確定ってのはないでしょ
http://arana-vihara.blogspot.jp/2009/05/blog-post_31.html 六道は天上界も含めての
生き地獄じゃよ。「天人五衰」
>>28 自分の中では決着したと思いつつ、メールで聞くこともずーっと考えてたんですが…
オレはやっぱメールしないです
やっぱり禅師の方からちゃんとした説明が出ないとね、個人個人が問い合わせるのではなく
旧スタッフが戻らないことにあれほどの確信を持った発言を傳修院のHPに書けるということは話し合いはされてるはずだし
もし潔白なら、ちゃんと公開の場で具体的にどのような疑惑がこれだけあってそれぞれのケースでこういう状況なのだから潔白だと説明できるので
もし潔白ならそれやるだけで旧スタッフを悪趣から救えるんだから、真っ先にやるべき事
それが無いことが事実を雄弁に語っている
オレにはそうとしか思えない
事件の内容がDVやセクハラである場合、その証拠というのは個人のプライバシーのことだから、
もしかしたら証拠は公にならない、あるいは出来ない可能性もある。
その場合、加害者側が聖者を名乗って、仏法僧の名を水戸黄門の印籠のように掲げ続ける状況が
長引く可能性はある。
>>38 ありえますね。
>>37 旧HPに近づくと四悪趣への一本道、とかいう言葉も新Twitterアカウントの発言にあったかと思いますが(新HPにもあったかも)、
真面目な仏教徒の人は業理論と輪廻説を本当に信じているのだろうから、
四悪趣への一本道とかいう表現のもたらす威力は強力になってしまうんでしょうね。
「何が悪業か」を自分だけが分かるんだ、という特権的な人(指導者)が居ること自体は必ずしも悪いこととはいえないけれど、
その特権的な立場は、使いようによってはカルトの道具にもなる危なっかしいものですね。
真面目な仏教徒の人が、「○○をしたら四悪趣」みたいな「予言」に対抗するには、
いったん輪廻説を疑わないといけなくなるんじゃないですか? どうなんでしょう。
関係する皆さん、仏教徒としてのセンスと良識が試されている場面だと思います。
>>39 結局、師が本当に「業の報い」を見通す能力があって、しかもウソはつかない人だと信じれるのだったら、師の言うことをそのまま信じているのは仏教徒として理にかなったことなのでしょうし、
逆に、師にそういう能力が充分にあるわけではないとか、ウソをつくこともある人だと思えるのだったら、師が「業とその報い」について語っても信用はしない、という対応もできる。
結局、どういう身の振り方(業)がどんな報いをもたらすかという観点で見ても、今回の場合、師の信用問題に帰着するように見えますね。
>>39 あと、師が「旧HPにはおどろおどろしいヴァイブレーションがある」とか「そこに近づいたら四悪趣への一本道」とか言っていたとしても、
師のそういう「業理論」、つまり個々の業とその報いがどうなるかという、師の「予言」みたいなものを、
相対化する人(他の指導者)が近くにいないのが問題ではないですかね。いるんでしょうか?
「私にはそんな報いが来るとは見えないですよ」と誰かが相対化できたほうがいいはずなんですが。
そうではないのですかね。
運営スタッフから罪状を突きつけられて、その返答が「ダンマの輪を止める試み」(mahakaruna.onlineより)とあるように、
話のすり替えで対応しようとしてるでしょ。
表面的に確認できる事象からも、すでにけっこう深くまで読めなくはないんですよ。
>>39 37だけど、ガチの仏教信者なら輪廻で悪趣こわいかもしれないけど、オレみたいななんちゃって仏教徒は全然ですよ
大きな輪廻(生まれ変わりを伴う方)は見たこと無いですしw
瞑想会の場にいた人でもガチどんくらいいるのかな…
そもそもオレは自分の中の誠にしたがって生きたいから仏教に共感してるんであって、優先度が違います
悪趣に堕ちるぞって言われて仮にそれが真実で世界の法則だとしても、自分の心と違えば、それは世界が悪いって言って、毅然として行くだけですわ
>「信ある人々の信を破壊し」
(mahakaruna.onlineより)
比丘の権威を悪用して、隠れて裁判沙汰の破戒行為をした人がいたとします。
信を破壊したのは、犯行を取り締まった人でしょうか。
それとも破戒した人でしょうか。
こういうすり替えが多いです。
よくよく注意して聞くようにして下さい。
>>45 「生まれ変わりの様子を見た」としても、見たそれが事実のとおりなのかどうかという問題も出てきますよね。
悪因悪果・善因善果とか、輪廻とかいうふうに表現できる瞑想体験がテーラワーダの修行階梯の中にあるらしいのは知っていますし、
それはそれでいいんですが、
個々の具体的な業とその結果を個別に語る(予言する)っていうのは、
業理論というか仏教の因果論という理論を、
現実の事例にあてはめているわけでしょう?
そのあてはめが正確で正しいのか? ということがまず問題ですよね。
業とその報いを個別に見通せるという人など滅多にいない以上、
どんな「報い」を予言しても嘘(や間違い)がほとんどバレないという危うい構造に見えますね。
特に師匠格の人が一人しかいない環境というのはこの意味で危ういのでは。
>>45 輪廻説は仏教に要らない、と公言している僧侶(ただし禅宗)もいますし、輪廻説に対する態度も人それぞれですね。
だんだんと、ハッキングのカラクリが
わかってきたよ
まあ若くない人は知ってると思いますけど、
指導者のことを「個人のカルマとその報いを見通せる人」と信じ込んでしまったせいで、
指導者の言うことに逆らえなくなってしまったのは、
1995年のあの団体の信者たちが嵌った陥穽だったわけで、
それと同じことがあるとは言わないけれど、
宗教者が言う「○○をしたらこんな報いがある」みたいな物言いには、
注意を払ったほうがいいと思いますね。
一応、ある程度、日曜に行って聞いていたので補足すると、
禅師は、業をきちんと見通すことはほぼ出来ないと明言してるよ(出きるのはブッダぐらい)。
Twitterの一本道云々は、俺は分かりやすさを重視した譬喩みたいなものという理解をした。
このツイートは、あまり禅師らしくないよ。
>>46 隠れて裁判沙汰の破戒というのは、事実確認がとれてて証拠もあると思っていいのですかね。
証拠ないなら名誉毀損な書き方だと思うので、念のためw
なので、業(カンマ)の話をもって瞑想会への参加者を操ったという可能性はほぼほぼ無いと思う。
会場では付き人なしで禅師には面会が不可だったし、こっそり裏で何かするでもしないと、少なくとも男女関係の問題は起こせないw
裁判沙汰ってのがよく分からないし、
なぜ今?ってのもある。
鈴木一生さんがいなくなったことと関係あるのかな。
>>52 わたしは潔白を証明するために何の努力も要りませんが、嘘と隠し事がある人は大変でしょうね。
瞑想会の会場は仕事場ですから、仕事の顔しか見せません。
それ以外の場所にいる時間の方が圧倒的に多いわけで、瞑想会参加者のみなさんは
そこの部分はご存じないわけです。
自分には知らない側面があるということを自覚することは、理性的な態度にとって
とても大切な基礎ではありませんか。
>>54 もしも、その「裁判沙汰」が男女関係なら、
女性によっては、誇大妄想癖で回りを巻き込んで大事にしているという可能性も捨てきれないので、
話だけ聞いて真に受けて喋るのは危険かなとw
>>37 同じように思ってたけど、
よく考えると、相手に怒りがある時に
それを否定すると火に油を注ぐ感じになるので、
もしかしたらそれで言わないのかもとちょっと思った。
怒りがあるときは口を開くな、と話していた記憶もあるし、
とにかくこれ以上、問題を大きくしたくないのかなとも。いい方に解釈しすぎかもだけどw
>>58 あー、まあ確かにその可能性はゼロじゃないけど…w
まあ解釈はいろいろなのでお任せしますw
水源禅師法話集 41 - ekayana-vihara.com
http://www.ekayana-vihara.com/wp-content/uploads/2015/11/%E6%B0%B4%E6%BA%90%E7%A6%85%E5%B8%AB%E6%B3%95%E8%A9%B1%E9%9B%8641-2.pdf 41ページ付近から
>(マハーカルナーさんの)本名は、比丘の名前はカルナーチャラ。比丘戒を 16 年
>前に除名されました。パオでは比丘戒は受けられないようになっています。パオでは誰一人、
>知りませんでした。マハーカルナーという人を誰も知らない、先生も知らない。
>
>大変なことになるよ。他の
>人をだますことになるのだからね。この方(マハーカルナーさん)は在家の資格しかないの
>ですよ、パオで。選ばれるわけもないわけなのですよ。
>
>「8 カ月で全過程を修了した」と、とんでもない。
>
>「マハーカルナーさんは 8 カ月で全過程を修了した」と言うけれども、そういう人物はい
>ないのです。真っ赤なウソでした。
>
>パオでは、いまだに「マハーカルナー」は登録されていません。「どうして比丘戒を受けた
>か」ということも誰も分からないわけ。誰も知らないよ、パオでは。どうして受けられるの
>かも知らない。1 回、除名されたら、南伝では受けさせません、そんなことしたら。だから、
>日本の人が知らないと思って、これだけデタラメやってよいのですか? ということ。それを
>喧伝してバーッと広めて。間違って、この人たちが信じ込んだらどうなるのですか、あなた?
>因果の関係で、その責任はどうとりますか? これから。
>私は冗談で言っているのではないよ、真剣に言っているのだよ。それも 20 年、30 年、勉
>強して言うのだったら分かるけど、仏教の専門家でもないのに「手を付けるな」ということ。
>
>正々堂々と本当のことを言って「パオ森林僧院 日本総本部」をつくればよいのに、そうい
>うことを(パオ森林僧院 モーラミャイン本部の)事務局長も誰も知らないわけ。どこからこ
>の話が出たかも、誰もパオでは知らない。日本だけは「知っている」と言う。というふうな
>イカサマに思われるよ。このカレンダーに載っていないの、日本は。分かりますか? 載って
>いないの、日本道場は。
どうでも良い話かもだけど
マハーカルナーって法名ってご自分でつけたんだろうか?男性比丘に女性名詞で名づけるって普通なのかな
カルナーは女性名詞だから男の子にソフィアってつけるようなものだけど・・・
たとえばスマナサーラ長老はサーラが男性名詞
パオ系のスリランカ比丘だとアリヤダンマ大長老は、ダンマが男性と中性だから男性・・・
>>60 それURLクリックするとリンク先で404 not foundになるから、URLの載せ方を変えたほうがよいかと。
>>62 ファイル自体は消えてるわけではないんで。
>>60 >>65 両方とも去年(だったかな?)に読んで知っていたけど、
これほど食い違う情報が出てくると困惑しますよね。
http://www.ekayana-vihara.com/wp-content/uploads/2015/11/%E6%B0%B4%E6%BA%90%E7%A6%85%E5%B8%AB%E6%B3%95%E8%A9%B1%E9%9B%8641-2.pdf P.24から
>経典をいかに深く考えても、これは通過できない
>ようになっています。経典自体が存在しないわけです。アビダンマでもボチボチボチ抜けて
>いるわけ。ボチボチ抜けている。
>なぜかといったら、「ブッダゴーサは阿羅漢ではない」と、なぜなら「阿羅漢は字を書かな
>い」って。だから、経典を集めて書いたアビダンマを「阿羅漢が書いた」と思っているのだ
>けれども、「実体は違う」ということ。確かに内容を見たら、絶対、通過できないようになっ
>ています。パオの教科書も落とし穴いっぱい作っている。そのまま回答したら放っておく。
>韓国である在家の人が「全部、通過した」と言うから、よくよく話を聞いてみたら、ナーマ・
>ルーパのところで間違った回答をしているわけ。私もその人には説明しない。私の弟子のナ
>レンダ・セヤドーには「実はこうなのですよ」と。「絶対これは秘密だから、言ってはダメだ
>よ」と。言ったら、すぐにまねをするから。
水源禅師の私見?これ
パオではこんなこと教えてるの?こんなこと言ってたらサンガ裁判で訴えられてカルト認定されるんじゃいの?
こちとら初期仏教オタクですしネット上の禅師の噂は大抵読んでますですw
しかし日曜瞑想会の参加者じゃない無関係の人にまで、あーでもないこーでもない言われてると
自分ちが燃えてるときにヤジ馬にスマホで写真を撮られてるようで、ちょっとイラつく…
いやちょっと愚痴ってみたwww
はいこれが2ch平常運転ですね
オレもいつもはヤジ馬側でしたw
すまんの
>>35 ↓これって、一般的に非難されるような内容を非難した場合も当てはまるってことですかね。
C聖者非難障害
聖者だと知っていても、知らなくても聖者の徳や戒などを非難すると善趣再生、禅定、道、果の障害となるが懺悔すれば滅罪される。
>>70 コーサッラ西澤氏によると
聖者(テーラワーダでは預流果以上)は比丘なら律、在家なら戒を破るようなことは絶対しない、とのこと
https://ameblo.jp/2430soken/entry-12320666414.html 自分が読んだのは『サーラサンガハ』のエピソードで
聖者の師匠が托鉢から帰るときに調子が悪くなってどうしても道端で食事しないといけなくなったときに
弟子が「意地汚いことをしないでください」みたいなこと言ったらアウトってのはあったな
ただし謝罪すればチャラらしい
聖者じゃないのに「聖者のふり」して人を騙すことことも相当じゃないでしょうか。
聖者が「他者を非難し」「法廷で戦う準備に入る」でしょうか?
>>71 なるほど。
パオ・セヤドーの道場主向けのリトリートは、
最初の悟りを得た人とあるので、
とすれば、パーラージカを犯すというのはやはり考えにくいことになりますね。
>>73 もし自宅が泥棒に入られたら、
いくら仏教徒でも、そこは社会で当たり前にすべきことはすべき(警察を呼ぶ)と仰ってましたよ。
結構現実的でした、そこは。
>>74 でも水源さんは「確認とったけどマハーカルナー氏は一度パーラジカになって、在家だった」って言ってるわけで
これからもマハーカルナー氏にガチでついていきたい人は実際にパオの本部に確認とった方がいいんじゃないかな
>>74 とはいえ、「悪趣に落ちない」が経典の記述であって、
仏法僧への信があるから全て犯さないというのは西澤氏の見解とも読めますので、
悪趣に落ちないパーラージカであれば、犯す可能性もなくもないかもですね。
>>76 違う人と間違っているように読めましたが。
ひとはいろいろ師匠を求めるんですね。ですが師匠はお釈迦様一人でよいのです。
しかし、ひとは努力をしないで楽に良い結果を得られる道はないかと探し回るんですね。
それは結局、怠けからくる依存病なのです。
しかしながら師匠からあれこれ指導されなくては悟れないのでしょか。
修行自体は難しくないんです。
冥想は難しい、ということはない。冥想ほど簡単なことは世に存在もしない。
冥想というのは、ブッダに説かれた実践方法のことです。それほど簡単なものは存在すらしない。
歩くこと、何も難しくないでしょう。
では何で覚れないのか? というと、この「素直」の問題があるんです。
人間が素直に、素直に言う通りにやれば、一日でも十分なんです。
問題は素直にやってくれないんですね。素直にやらせることは不可能です。自分だけの問題だから。
お釈迦様も、このことを言っていました。
「あのね、正直で素直な人を呼んできてください。午前中修行したら、素直な人なら昼になる前に覚りますよ。
昼を過ぎてから修行したら、午後になってくるともう覚っていますよ」とお釈迦様は仰っています。
しかし、お釈迦様にしても、相手が素直であるかどうか、という点はどうしようもできないんです。
これが言葉は簡単だけど、「素直である」ということは難しいんです。わたしたちはずーっと自分を騙しているんです。
自分を見せているんです。どんな人間にも、裏と表、本音と建て前があるんです。本音と建て前がぶつかっちゃうと、
面倒くさいんだから、どんどん本音を消しちゃうんです。ないことにする、あるんだけど。だから素直でないんです。
これはかなりややこしい問題なんです。
しかし自我なく客観的に研究すれば、すぐ覚れます。
それはご自分で修行を始めたら見えてきますから、見えてくるたびにどんどん素直になっていけば、早く結果を出します。
わたしに言えるのは、結構、結果がありますよ、と。
覚っているかどうかは措いておいて、みんなそれなりに、修行始めた人はほとんど、人格は向上はしています。
わたしが言っているのは、簡単なことでやったぞと思わないでください、と。
簡単に納得しないで、さらにさらに、続けてみてください。
「ああー、よかった。家族関係もよくなった。みんな幸せになりました」で終わっちゃうと、終わりですね。
「仕事も前よりはすごくできるようになっちゃった」と自分を褒めて終わったら、そこで終わっちゃうんですね。
そこでちょこっと、満足しないで、さらにさらに、前に前に、行きます、ということを気をつけたほうがいいですね。
どうしたっても修行する人々は、「まだ仕事が残っているんだ」という気持ちが必ずあるんです。
途中で迷うかもしれませんけど、「修行は完成していない。まだ残っている」という気持ちがこのプログラムではあるんです。
だからそこは全然心配する必要はないんです。
簡単なことで納得しないで前に進む方々が、よろしいんじゃないかと思います。
>>75 ナーガールジュナは泥棒に入られたとき
「好きにしなさい」と泰然自若だったそうです。
何か書き込みたいが耐えよう。
何もしないことが、一番大変であるかもしれない。
「沈黙は金」だと己に言い聞かせるのだ。
うやむやにしてはいけないでしょう。
法友会以外の人にも、何が起きてどうなったのかを明らかにしないとよくありません。
YouTubeやフェイスブックにも法友会の情報がアップしてあり、
法友会以外の人達も見ていました。
法友会以外の人達も関心を持っていますので今回のことは明らかにする責任があります。
うやむやにしてはなりません。
うやむやにすることそもものがドーサになります。
うやむやですか?ひたすら誠実に一心に修行をするあの法友会のメンバーが禅師を見限ったのですよ。それが全てを語っているのではないですか?
>>76 確認取ったほうがいいと思う。
今回の件を受けてもう動いてる人がいるんじゃないかと思うけど。
>>77 信だけじゃなくて悪見相応心と疑相応心が生じないからヴィナヤへの疑惑も生じないということなんだが
まあテーラワーダではそうだというだけで何を信じようとあなたの自由だけど
確認ということでいえば、
ミャンマーで何々メソッドを修了しただとか、誰から何々を伝授されたとかいう宗教者としての経歴はサンガの『サンガジャパン』にも何度も載っていたはずだから、
出版社のコネクションを使って確かな情報源から確認をとったうえで経歴をそういった本に掲載したわけじゃなかったのかな、
とも思う。
もし掲載された情報に嘘や間違いがあったことがわかったら、
出版社としての信用にもかかわってくる。
>>85 法友会以外の人にも明らかにしてという意味でしょ。
それは希望している。
心無い人が余計な詮索をすれば、誰かが傷つく。
なぜ知りたいのか自問してみよう。自分が知ることで、誰かがリスクにさらされる。私の中の知りたいという気持ちは、それほど大切なものなのだろうか。慈悲の気持ちで、「知りたい」から「見守る」へ。
それでは禅師、お願いしまーす♪
「諸悪莫作」
禅師、ありがとうございました。
反社会的行為を確信できる材料がそろったら教祖すら見離すっていう自浄能力は、カルトではありえないけどね
こっから先は、聖者である禅師様は無謬です!罪を犯すことは仏教の原理上あり得ない!って人だけになっちゃうだろうからわからんけど
しかし原理主義ってのがあたかも悪いもののようにレッテル貼りされるのはよく分からんな
悟りに到達するまで、なんらかの主義を乗り物として使ってるはず。
まぁしかし、教祖の無謬を信じて追従するというのは、典型的なカルト宗教(セクト)の特徴だよな。
>>92 その女性の声♪
アニメの声優みたいで
違和感あったわ〜
>>95 キリスト教原理主義イスラム原理主義とかの宗教のスキームを社会に押し付けてくる方々結構ヒドいですしw
印象良くないレッテルとしては大変良く機能している
昔、どこかの管長が、どっかの新興宗教の教祖に騙されたかして、
「あの男は問題だ」と言っただけで、それを世間には言わなかった。
しかし後に、その教祖は霊感商法をしまくって世間に大迷惑をかけた。
まだ小さい教団だったときに、その管長がその男を糾弾していたら
後に大きな社会問題にならなかっただろう。
悪は芽の小さいうちに摘むべし。
目先の善悪に囚われるのではなく、
社会全体の利益から、悪事は世間に明らかにしたほうがよい。
それが後のためにもなる。
今後は、普通に日本語を使って話すようにした方が良いと思います。
これまで指摘しづらかったのですが、聞き苦しいです。
どうでもいいですが。
後ろめたい者ほど雄弁に語ると言います。
スタッフの方がここまで雄弁に語り、
高い言語能力を示す文章を、かつて私は見たことがありませんでした。
身内ネタですみません。
「誰に対しても、決して悪をなしてはならない」
禅師♪ありがとうございました^^
語らねば情報公開が不足だと言われ
語れば後ろめたい者ほど雄弁だと言われ
まあ世間なんてこんなもの
まあ本物のスタッフかどうかも分からないんですけどねw
>>101-102 某所で某氏に心酔していた人たちのなかには、門外漢や部外者に対しても
横文字の専門用語を並べ立てて話す光景がよくみられた。
>>103 話すのと書くのとは違いますし、
対面で穏便に建前を言うのと、匿名で本音を語るのとでは、また違うと思います。
話は非常にシンプルです。
例えば、とても美味しいパンを焼くパン職人がいたとして、顧客もそれを高く評価していたとします。
しかし、そのパン職人は隠れて反社会的な行いを繰り返してきました。
顧客は、職人の表の顔しか知りません。
そういう状況であるということです。
>>103 > 後ろめたい者ほど雄弁に語ると言います。
mahakaruna.online のトップページに掲載されている文面を題材に指摘してみましょう。
例えば、「悪行為を為した人達へ」の一文。
本当に運営スタッフに向けたメッセージなら、個人的に伝えるのが筋でしょう。
しかし、実際には公衆の目に触れる形でメッセージを出しています。
これらの上から目線の恩赦メッセージは、実際には正当性をアピールするための
パフォーマンスであり、平たく言うと演技であり、嘘なのです。
>>110 貴方も演技、旨いですよね。勉強になります。
----
0097 まぁしかし、教祖の無謬を信じて追従するというのは、典型的なカルト宗教(セクト)の特徴だよな。
…にしても、禅師よく呟くなぁ(ツイッター)
え、カード持ってきてくれ、荷物運んでくれって…(哀)
>>【参加者】
>>マハーカルナー先生のことなのですけれども、マハーカルナー先生、日本人名が金森さん
>>なので、何か先生の言っている堀さんとは別人だと思うのですが。
>>【水源師】
>>それは慶応大学の若いサーサナワンサさんで、マハーカルナーさんは金森さんです。同一人物です。
>>(マハーカルナーさんの)本名は、比丘の名前はカルナーチャラ。比丘戒を16年前に除名されました。
>>パオでは比丘戒は受けられないようになっています。パオでは誰一人、知りませんでした。
>>マハーカルナーさんは金森さんです。
>>全て戒を破っている方
あっ・・・(直球)
>>113 「いまは距離をおいて、事の成り行きを慎重に見守ってください」という元スタッフ一同のメール本文は、原稿用紙換算で4枚です。文字数なら負けません。
「事の成り行き」は、どのように分かるのでしょうか。「事」が何をさすのか具体的に不明なのに加え、そのような情報が入るあてがありません。
強い菩提心があり、非常に真摯なる仏教徒で、社会的常識や判断力を持ち合わせた方ばかりの元スタッフの皆様、どうぞお知らせ頂きたくお願いいたします。
疑いがあるなら 他へいって
早く修行に集中したほうが
良いのではないでしょうか…
といいつつ 私もこちらが気になり
覗いてしまうのですがね〜
全てが無常であるなら
「私に」起こった事に
こだわることもないですね!
もう この件に関して 真実が
知りたい!という気持ちを
手放します(^^)
みなさま、場所をお借りして申し訳ありません。
元スタッフの皆様、あわせてお願いさせて頂きます。
「ただ今の非常に緊急性の高い状況を受けて……」とのことですしたが、原稿用紙4枚分を書きあげる前に、短くて構いませんので、速報版をお送り頂けませんでしょうか。
今回は「緊急性の高い」というのが何を指すのか分かりませんでしたが、北からミサイルが飛ぶような事態だと、原稿用紙4枚分を書き終えてからだと間に合わないと思います。
勝手なこと言って申し訳ありませんが、お願いいたします。
>>117 「事の成り行き」って表現がどこかで出てきましたっけ?
>>121 元スタッフさんから女性のみにおくっているメールに書いてあります
>>122 補足いただき、誠にありがとうございます。
もしご存知でしたら、教えて頂きたく存じます。
「スタッフの懸命な説得を受けた女性」、「動揺・逡巡している女性」などとメールにはございました。
元スタッフの皆様が、女性の皆様の動向を非常に把握しているようにお見受けしましたが、専用のメーリングリストなどがございますのでしょうか。
教えて頂けておらず、私だけ外れてしまっているのかと、不安を覚えております。
また、「パーラージカ」について分かっておらず、
申し訳ございませんが、もしご存知でしたら、教えて頂きたく存じます。
元スタッフの皆様のメール内にございました「被害」というのは、
いずれも結局は何事もなく済んでございませんでしょうか。勿論、元スタッフの皆様のサポートの賜物と存じます。
今後の被害を顧慮されて、パーラージカにあたるとご判断されたのか、分かりかねております。
ここはマハーカルナー氏に監視されている可能性大です。
そんなあなたもマハーカルナー氏かもしれません。
修行者の皆さん、絶対に情報を書き込まないでください。
あなたも不安があるならマハーカルナー氏に関わらないことです。
>>122 なるほどそれじゃオレが知らんのは当然ですね
ありがとうございました
>>120 もうメアドは破棄しちゃってるんじゃないかな…
確か個人情報は一通りの連絡を終えたら破棄するみたいな話があったような…
瞑想会参加歴があり、先生とも直接お話しした事もありますが、先生の個別メールは私には送られてきません。おそらく私が被害女性と友人だからでしょう。メールが無い事が、全ての答えなんだなって確信しています。
>>127 ご返信、誠にありがとうございます。
6日 21:00にメールを頂きましたので、一通りのご連絡後も、破棄なさらなかった模様です。
>>128 こんばんは。Twitterで先生は、三分の一ぐらいがアドレス不明で戻ってきてしまうと書かれていらっしゃいました。どうか、全ての答えなどと仰らないでください。
友人の件を知って、それでも先生の事を疑い切れない。。。そんな気持ちの状態で、先生からのメールが頂けないというのは、かなりショックな事です。でもメールエラーなら仕方がないのかも知れませんね。。。
>>132 それはお辛いですね、先生はメールアドレスを公開され、意見などを求めていらっしゃいました。送られてみてはいかがでしょあ
>>132 友人に真相を聞いてみては?
果たして真実を聞いてまだ先生と思えるかどうか。
申し訳ありません。途中で送信されてしまいました。
送られてみてはいかがでしょうか。
また、ご友人の方もお辛いですね。いわゆるパーラージカに該当する行為があったなら、心身共に平常心ではいられない状況かと存じます。
知人の友達ですが、同様の経験をしており、とても言葉には出せない、思い出しただけで頭の中が真っ白になり、呼吸が苦しくなると言っていました。
そういったショッキングな経験をあなたに話されたのですから、ご友人とは相当な信頼関係なのですね。話が逸れてしまいますが、親友といえる程の人がいない私には羨ましいです。
>>137 申し訳ありません。誤解がないよう訂正しますと、ここでいう「同様」とは、パーラージカにあたるといわれるのと行為と同様の行為を、他人から受けたということです。
>>124 124 名前:神も仏も名無しさん 投稿日:2017/11/07(火) 21:55:11.85 ID:HKRNuslt
>また、「パーラージカ」について分かっておらず、
>申し訳ございませんが、もしご存知でしたら、教えて頂きたく存じます。
>>136 136 名前:神も仏も名無しさん 投稿日:2017/11/07(火) 22:51:12.55 ID:HKRNuslt
>いわゆるパーラージカに該当する行為があったなら、心身共に平常心ではいられない状況かと存じます。
これは?
>>139 行為が為されたのがパーラージカかと解釈していたのですが、
元スタッフの皆様のメール内容の「被害」は違っていましたので、分からないと申し上げた次第です。
私が申し上げた「パーラージカにあたる行為」は、実際に行為が為されたことを指して用いています。分かりにくい表現で申し訳ありません。
解釈でごにょごにょすることがあるっていう事情まで知っているなんて、とってもお詳しいですね。
>>142 そうなのですか。誘う為に声を掛けるのでもあたるのでしょうか、知りませんでした。ありがとうございます。
>>128 なるほど…
といっても法友会メンバーであることすら証明できないのが匿名掲示板の辛いところですね
まあオレとかもう気持ちに決着ついちゃってますからいいんですが
メールで頂いた文章を真剣に読み、勝手な想像を排してら状況を正確に理解しようと努めると、色々疑問が湧いてしまい、書き込んでしまいました。
何が正しい理解なのか未だに分からないのが心苦しいです。失礼しました。
文面だけで考えると、思考の迷路にはまる人も出てくると思いますが、
運営スタッフが全員、足並み揃えて見捨てているんです。
それが現実にいま起きていることです。
現実に起きている、確かめられる事実みて判断した方が確実ではありませんか。
被害報告の程度を特定し、情報提供者を特定するという魂胆ですか。
北からミサイル云々は法話中にもよく使っていた記憶がありますよ。
>>128 こんなものupできたりします?
↓
書き込みされているのが、男性か女性かって。。。妄想と言われればそれまでですが、
よく分かりますね、女性の立場からだと。色々有り難うございました。ROMに戻ります。
ああそうか…この時は人数少なかったんだ…マズいか…
いいです忘れてください
眠ろうとしましたが、分かった気がしました。
女性限定で案内されているので、思い込みをしてしまっていたようです。
メールを遡って本文をよく見ると、パーラージカ(淫・盗・殺・妄)としか書かれておらず、どれかは明確になっていないのですね。
うっかり、「女性」ということで勝手に誤解してしまいました。本当にお恥ずかしいです。
すっきりしました。ありがとうございました。
12日に傳修院に行こうてしている皆さん。
>147が全てです。
法友会はパーラージカの確信を得たのです。
こんな状況で行く必要がどこにありますか。
「自分の信じた禅師」を諦められないならば一旦保留にしましょう。
傳修院には仏教の失墜に加担したい方のみ参加してください。
「人を信じる」というのは、執着に過ぎません。
お釈迦さまが言いたかったことは、法=道理に従い、自分自身を拠り所にして生きよ、ということでした。
お釈迦さまの最後の言葉は、「一切のものは移ろいゆく。怠ることなく修行を完成なさい」でした。
「一切のものは移ろいゆく」、これが「法」、つまり、ものの在り方です。
「怠ることなく修行を続けよ」、修行するのは自分自身でしかないのです。
そして修行とは観察です。
もし執着するくせが直らないなら修行の効果が出ていないのです。
つまり観察をしてない。あるいは自己流の観察になっているのです。
>>153 では逆に
「法友会」を信じるに足る根拠を教えてください。
>>128 せっかくROMに戻られたところ申し訳ないですか、
少なくとも関係者である(ヤジ馬が騙っているのでは無い)ということの証明にトライしてみたいです。
オレと同じトリップを表示してみてもらえますか?できます?
トリップのキーは、オンラインのアビダンマ講座第一回のパスワードの文字列です。
たぶん法友会メンバーで2chにアクセスしてくるような人なら、知ってますよね?
他の法友会メンバーも同じトリップ出してみていいですよ
そうなれば、トリップ出してないレスは、真剣に考える必要のない無関係なヤジ馬が高みからごちゃごちゃ言ってるだけって考えることもできるわけですしね
もうちょっと早く思いつけばよかったな
>>159 いや、禅師のアヒダンマ講座の音声と配布資料がネットで確認できる非公開サイトですよ
すべての回でID/パスが全部違う
第3回まで受講するまでは仮パスなので、オンラインアクセス登録している法友会メンバーなら、少なくとも第3回までは本パスを確実に知っている
そういうシステムです
>>159-160 「ここは法友会の掲示板なのか?
そろそろ専用のスレッドを立てて、そっちでやったらどうですか?」
という意味かと思った。
>>161 あー、そういう意味?
まあ確かにね…
でも他の話題の邪魔になってるならともかく、100%この話題だよね
別スレ立ててもここが空っぽになるだけだけど?
まあお邪魔でしたら移りますが…
まことほど、スレッドに関係のない書き込みを
しているやつはいないよな
>>162 はい…正論ですなw
ただもう自分の態度が決まってしまっているオレは別スレに移ってまで話を続ける気力は無いのであったw
128がどんなレスするかだけ見させてくれない?
>>167 ありがとうw
でもオレは
>>157 の返事を聞くまでだな…もう決着ついちゃってるので…
>>167 ありがとう。
真実が明らかになりますように!
複数の戒律を守らなくてはいけない出家は結構失敗します。
実践についても、真理を理解するときも失敗します。
実践と真理の誤解は先輩との対話によって直します。
戒律についての失敗は、ほかの出家の前で報告して、素直に認めます。
報告を受ける出家はそれを認めて、これから気をつけてくださいと言わなくてはならないのです。
愚か者は失敗を認めません。
愚か者は二種類です。1.失敗を失敗として認めない。2.失敗を報告したのに認めない
智者は失敗を正しく認識する。他人の失敗もありのままに認めます。
その人は仏道で成功します。
仏教の場合は、解脱に達したければ、「わたしは失敗するんだ」と認めなくてはいけないのです。
禅師、本当に不貞行為したんだろうか?
瞑想会に毎週行っていたんだが、女性の数は毎回10人足らず、それもほとんどレギュラーの女性ばかりで、女性の出入りはあまりなかったのだが…
その女性も8戒を護持するため、毎回スッピンで女性と言うよりただのオバチャン、色気もなにも無かったんだが…
禅師、本当に不貞行為したんだろうか?
瞑想会に毎週行っていたんだが、女性の数は毎回10人足らず、それもほとんどレギュラーの女性ばかりで、女性の出入りはあまりなかったのだが…
その女性も8戒を護持するため、毎回スッピンで女性と言うよりただのオバチャン、色気もなにも無かったんだが…
そして、そのなかで、わりと若い女性も事件が起きた後、私もことの真実は、解らない、はっきりしないとメールで送られてきたのだがそれも二人の女性から…
禅師、本当に不貞行為したんだろうか?
瞑想会に毎週行っていたんだが、女性の数は毎回10人足らず、それもほとんどレギュラーの女性ばかりで、女性の出入りはあまりなかったのだが…
その女性も8戒を護持するため、毎回スッピンで女性と言うよりただのオバチャン、色気もなにも無かったんだが…
そして、そのなかで、わりと若い女性も事件が起きた後、私もことの真実は、解らない、はっきりしないとメールで送られてきた、それも二人の女性から…
禅師、本当に不貞行為したんだろうか?
瞑想会に毎週行っていたんだが、女性の数は毎回10人足らず、それもほとんどレギュラーの女性ばかりで、女性の出入りはあまりなかったのだが…
その女性も8戒を護持するため、毎回スッピンで女性と言うよりただのオバチャン、色気もなにも無かったんだが…
そして、そのなかで、わりと若い女性も事件が起きた後、私もことの真実は、解らない、はっきりしないとメールで送られてきた、それも二人の女性から…
お釈迦様のメゾットを修了した、マハーカルナー禅師が不浄の産物であるナーマとルーパの集合体に欲情をそそられる訳がないのではないのでしょうか!!
すでにサンニャーのレベルであっ、オジャッタマカね、ふーんっ、てな感じだと思うんだがねー…
>>175 > お釈迦様のメゾットを修了
とは悟りを開いたということ?
そもそもメゾットを正しく修了もしくは体得したと判断する根拠は何?
>>170 カルト教祖のコピペを貼るなよ。荒れるから。
他人の過ちなら、直ちに発見します。自分の過ちは過ちとして認めません。
他人が自分の失敗を示すことさえも嫌がる。
仏教は他人のことを置いておいて、自己観察を推薦します。
間違いだらけの、汚れた、嫌な自分に出会います。
だから勇気が必要です。
しかし、失敗は「師匠」であるとを忘れてはならない。
すぐカッとなる自分が見える。それで自分が直せます。
実践を止めないで、あきらめないで、失敗を直すことに励む。
毎日失敗しているのに、人格的に向上して、失敗が少ない人間に成長できるのです。
無明を破る・貪瞋痴をなくす・煩悩の滅尽・等の用語は結局、「失敗から学ぶ」という意味なのです。
ヴィパッサナー瞑想の実践も、初めから終わりまで失敗の連続です。
サマタ冥想と違って、ヴィパッサナー実践する人には、なかなか、成長しているという気持ちは起こりません。
いつでも、「うまくいかなかった」という気持ちになります。
しかし失敗の連続から、なにかしら自分が学んで成長しているのです。
つねに実践者は失敗を直さなくてはならない。
直ったら、別の失敗が起こる。
このように正しく実践しようと励む過程に徐々に智慧があらわれるのです。
こころが成長するのです。
微細な失敗も直そうとすることで、必ず冥想は成功して解脱に達するのです。
社会的、経済的成功というのがテーラワーダ諸国でも取り込まれていますよ。
土着の神及びバラモン教の天部信仰や呪術等を、用いて現世利益を願う訳です。
現世利益を獲るために呪術が有効かは置いておいてこれは、どこの仏教でも同じ。
少なくとも社会的な欲求を否定・抑圧しない形式はあるしそれに答えようとする。
スリランカの仏教
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99 >現世利益はヴィシュヌ、カタラガマ、パッティニ、サマンなどの仏教寺院内に
>必ずあるヒンドゥー教の神々を祀る神殿(デーワーレ)で祈願するのである。
庶民の信仰の基本は現世と来世の「利益」であり、宗教的境地ではない。
大体、庶民が悟りを目指し出したら坊さん連中を養う人間がいなくなる。
坊さんに布施をするのも来世を良くしたいという「欲望」を、満たすため。
そもそも、坊さんすら本当に宗教的境地を目指しているか疑わしい限り。
スマナサーラがムチャなのは釈迦の教説や瞑想だけで社会的成功から
宗教的境地まで何でも獲られるように、吹聴してまわったこと。
厭世的な釈迦の思想で世俗の問題に、何でも対応できると説いてまわった。
「仏教は科学」という建前上、上座部世界が呪術や占星術、儀式で成り立つ
という事実を隠して釈迦の教理で客(信者)の、ニーズに対応しようとした。
客のニーズが宗教的境地で済んでいる分には構わないが、複雑かつ不条理な
現実社会で釈迦の教えを用いて欲望を、満たそうとしても綻びが出てくる。
なぜ、スマナサーラがこんなムチャをするかと言えばプロテスタント仏教なる
植民地時代スリランカに起こった仏教復興運動が、そういうものだったから。
近代西洋合理主義に見あわない伝統仏教の土着的(に見える)信仰を意図的に
切り捨てて新興されたのが、スリランカのプロテスタント仏教だった。
http://2chb.net/r/psy/1361869655/439 プロテスタント仏教とは。
『実践上座部仏教の人類学』(京都大学学術出版会)P295
>(2)プロテスタント仏教
>「プロテスタント」とは、イギリス支配に対するプロテストとキリスト教に
>対するプロテストを意味している。またプロテスタンティズムの影響を強く
>受けている。出家と在家の差は小さく、社会改革など現世志向が顕著である。
>十九世紀後半に都市部で成長した新興のエリートが担い手で、最大の指導者は
>アナガーリカ・ダルマパーラ
細々と生き残っていたスリランカ仏教土着の呪術や儀式を意図的に排除することで
成立したのがプロテスタント仏教であり、そこでは本来の伝統が隅に追いやられた。
上田正紀のスリランカ仏教の呪術研究によれば、土着の呪術の現地における扱いは
まさに冷遇そのものであり、植民地コンプレックスを持つシンハラ人にとって
忌むべき歴史そのものである。といっても沖縄のシャーマン同様、表面的には
否定されても現実にはしっかり根付いているし、スリランカ仏教界もきっちり
プロテスタント仏教以降の「新仏教」では神霊信仰や呪術を取り込んでいますが。
「仏教は科学」という妄想も、スマナサーラが考えたのではなくダルマパーラの
プロテスタント仏教がそもそも、唱えたものであり、西欧列強に対する劣等感
からくるイデオロギーだった。スマナサーラが(自分もまじないをやりながら)
他宗教の儀礼や呪術を口汚く罵るのも実は、スマナサーラ独自の姿勢ではない。
『悪魔祓い』(上田紀行 著)P61
>彼はいままでの仏教をそのまま認めたのではない。キリスト教に対抗できる
>近代性と知性を兼ね備えたものに改革しなければならないと説いたのである。
(中略)
>「迷信的宗教」という言葉でダルマパーラが避難したものが何であったかは、
>もう明らかであろう。後進性の塊のようなスリランカの「田舎」で信じられている
>仏教、特に「悪魔祓い」はダルマパーラにとって耐えがたいものだった。
>仏教は科学的でなければならない。悪魔のような「非科学的迷信」は撲滅
>しなければならない、
スマナサーラ長老の言葉は納得できるね
だけど上のひとは怒りにとらわれて口汚く罵るだけだね
ぜんぜんじぶんの怒りに気付いてないね
みんなが疑心暗鬼、サヤレーと比丘尼の区別さえつかなくなってしまっている。
やめてください。仮定や推論から出発しておきながら、最後は断定的な口調で、人にああすべき、こうすべき言うのは。
あなたたちの心無い一言で、傷つく人たちがいるのですよ。
本当に、やめてください!
あなたに恥と怖れがあるのならば。
悲しいです、残念です。同じ仏教徒として。
これ面白いと思うよ。将来教徒はどうなっているだろうな。楽しみだね。
人を許すことができれば、自分がよくできた人間です。
人を許すべきだ、というのは観念的な話で、世の中に広まっていることです。それは置いておいて、
「わたしには許すことができます」ということは、相手に関係がなく、自分が人格者なんです。
だから、人を許すことができれば、自分がよくできた人間なんです。
「これだけはちょっと許せないな」ということは、自分がまだまだ感情的で、引っかかっているんですね。
具体的に見てみればね、なんでもかんでも許してあげるぞ、と意気込むんじゃなくてね。
許せない自分に気付くようにする。
じわじわと、そういう人格を育てていくんです。
>>181 たいへん興味深い論考をご紹介いただき
まことにありがとうございます。
>>181 >>182 >>186 スレ違い。スマナサーラの話はスマナサーラスレで。
テンプレにわざわざ、書いてあるのに。
テーラワーダスレで非仏説の破戒僧の話は控えるように。
信者の方は論破されるからと、こっちに逃げてこないで下さい。
>※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、日本テーラワーダ仏教協会やそこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。
>日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など多種多様な団体があります、
>諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違いもあります。
>そこを踏まえてご参加ください。
こっちに帰ってください。
【上座】アルボムッレ・スマナサーラ専用スレ【仏教】 [無断転載禁止]・2ch.net
http://2chb.net/r/psy/1462579968/ >>187 非仏説の破戒僧ってそれあんたの主観じゃん
ここは
「お釈迦さまの教えとヴィパッサナー冥想に関心のある人、実践している人、
体験や変化を 実際に経験している人、初心者、先達の方々、預流果の方々、
更なる成長を求めて語り合いましょう。」でしょ
スマナサーラさん個人を称賛してるわけでも話題にしてるわけでもないようだし
それよりあんたのくだらない書き込みよりスマナサーラさんの書き込みは実戦に役に立ってるよ
アッ間違いた!こっちのひとね(まあ同意人物か?)
>>189 非仏説の破戒僧ってそれあんたの主観じゃん
ここは
「お釈迦さまの教えとヴィパッサナー冥想に関心のある人、実践している人、
体験や変化を 実際に経験している人、初心者、先達の方々、預流果の方々、
更なる成長を求めて語り合いましょう。」でしょ
スマナサーラさん個人を称賛してるわけでも話題にしてるわけでもないようだし
それよりあんたのくだらない書き込みよりスマナサーラさんの書き込みは実戦に役に立ってるよ
>>191 同一人物じゃないし、戒律は決まってるから主観じゃない。
非仏説ってのは散々、議論百出して終わった話。
いい加減なこと言わないでくれるかな?
テンプレにわざわざ書いてあるのはなんでかわからない?
まーた、1からソースのコピペ張り直しか。仕方ないな。
>>192 スマサラーナコテハンの書き込みはあんまり好きじゃなかったけど
スマサラーナの話題が禁止とは >1 は読めないんだが
それがスレのルールならもっとちゃんと書いた方がいいんじゃないかな
あと破戒僧ってのは、どこかから出ている公式見解?
それともスレ内結論?
>>192 【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践1
このスレはその昔、私が立てたんだがね。
もちろんスマナサーラ長老を排除する意図などみじんもなかったよ。
※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、日本テーラワーダ仏教協会やそこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。
日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など多種多様な団体があります、
諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違いもあります。
そこを踏まえてご参加ください。
ここの部分は誰かが後から付け加えたんだね。もしかして君かなw
>>193 227戒も知らねーの。
スマナサーラ 破戒
とググってみたら。
事実を受け入れるか知らんが。
>>194 はいはい。
邪推に言い掛かりに、一方的な真実の主張ね。
でも面白いか。
スマナサーラやスリランカ仏教の実態について語った方が。
俺もテンプレ無視に一票。
慈悲の瞑想の「生きとし生けるものの幸せ」って微生物とか道端の虫とかもだよね?
そんなんに気を使ってたらまともに生活できないと思うんだけど、テーラワーダの人はどう答えてんの?
実のところ無明とはなんなの、無明を経験した人います?
>>195 >
>>193 > 227戒も知らねーの。
>
> スマナサーラ 破戒
>
> とググってみたら。
> 事実を受け入れるか知らんが。
何でそんなにいきりたってるのか分からんがw
どっちかっていうと言いたいのは、
>スマサラーナコテハンの書き込みはあんまり好きじゃなかったけど
>スマサラーナの話題が禁止とは >1 は読めないんだが
>それがスレのルールならもっとちゃんと書いた方がいいんじゃないかな
これの方な
>>197 シラミの卵以上に大きい生き物を、「故意に」殺してはいけないことになっているよ。
>>198 今あなたが経験しているものは無明の働きによるものです。
無明は、無常・苦・無我を覆い隠す働きを持っています。
無常・苦・無我を経験すれば、無明が何なのか分かるようになりますよ。
>>197 仕方なく殺してしまう場合はその是非については慈悲の仏である阿弥陀仏に委ねます
南無阿弥陀仏と唱えながら憐れみを持ちつつ殺しましょう
あとは阿弥陀様が何とかしてくれます
正法を誹謗したり五逆罪を犯さない限りは
>>198 非我なるものを我と見做す我見が無明です
>>201 なぜ無明は、無常・苦・無我を覆い隠すのかその仕組みがいまいち分からない
無明と無知はちがうの?
>>203 なんで非我なるものを我と見做しちゃうのか理由が分からないです
それより非我自体がなんのことか分からない
>>204 頭で分かった所で何の意味もないし、分かったことにはならない。
ヴィパッサナー瞑想すれば、自分で確認できる。
無明は無常観を鈍らせ、苦の源であり、無我がまるで存在しないかのように見せる
無明の働きによって、一切を誤った状態で認識させられている
う〜ん、無明の実態が分かったような分からないような
仏教は科学的な教えなはずなのに、なんか曖昧
無明が無明について考えても分からん、っちゅうことでは。
観察すれば分かるよと言ってるんでしょう。
>>199 何でそんなにいきりたってるのか分からんがw
どっちかっていうと言いたいのは、
おまえが破戒僧の擁護を無自覚にして悪業を積んでる仏教の敵だってことな。
まぁ、せいぜい覚悟があるなら仏教に逆らえ。
>>209 > おまえが破戒僧の擁護を無自覚にして悪業を積んでる仏教の敵だってことな。
> まぁ、せいぜい覚悟があるなら仏教に逆らえ。
おいおい(^^;
オレが言った言葉ってこれだよ、ちゃんと読んでるか?
別の人のレスと勘違いしてるんじゃないか?
↓
>あと破戒僧ってのは、どこかから出ている公式見解?
>それともスレ内結論?
これのどこが仏教の敵なのか、ちゃんと説明してくれよ
>>200 「シラミの卵以上」というのは、経典に書いてあるんですか?
シラミの卵未満の大きさの生き物も生きとし生ける者ではないんですかね?
>>202 阿弥陀仏もテーラワーダの経典に出てくるんですか?
それと、故意でなく殺されれば、その生き物は幸せという事ですか?
人間界で生きる事の限界を感じて下さい。
決して完璧には出来ないようになっています。
「存在」とは常に自己矛盾をはらんでいるのです。
大事なのは貪瞋痴から離れる事です。
それが、中道であり、お釈迦様の教えです。
>>214 その人が科学をどのように考えているかによります。
しかしながら、仏教的に言いますと、「科学」は概念(世俗諦)の一つであり、真理ではありません。
要は、真理(勝義諦)を扱う仏教は、概念である科学を超えており、科学の範疇には収まらないということです。
>>214 現代科学の観察対象は、主に物質。
仏教が対象とするのは、名色。
現代科学(の応用)の目的は、現実社会でより豊かに幸福に活きること。
仏教の目的は、悟りと解脱。
こういう違いがあるように思います。
慈悲の瞑想をことこまかく解説してある本てありますか、あっさりしたビギナー向けのやつというよりは本格的なタイプのやつがいいんですが
>>217 慈悲の瞑想って別に難しいもんじゃないから、普通にやれば必要な心の落ち着きは得られるし
慈経については色々本が出てるから、自分が信頼できると思う著者を選べんで、読めば心持ちについては分かるはず
本格的にとは?
サマタとして極めるための細かい実践方法とか?
>>217 ネット検索レベルで十二分実践できるよ
頭ではわかっていてもエゴがいろいろこねくり回して逃げたいから
詳しい本じゃないと実践できないと思い込ませようとしてるだけだから
さっさとやって継続して体感した方がいい
>>219 禿同
私の意見としては、コツがあるとすれば、波動というか、場の雰囲気が大事で、皆と一緒に良い雰囲気の中で慈悲の瞑想をするといいと思う。
ゴエンカ師の合宿で習得するのがオススメ。
>>219 > ネット検索レベルで十二分実践できるよ
だよねえw
>>220 > ゴエンカ師の合宿で習得するのがオススメ。
いやそれハードル高過ぎじゃね?w
>>46 無神経みたいなタイプは、頭ん中に何か浮かぶとまんま声に出しちゃう性格なんだな。
声出す前にゴクンと唾飲んで、その間に今話し出して良いか判断する時間を作るといいぞ。
俺は厨房の頃、友に言われてから実践して「オチョッコイチョイ」と言われなくなった。
>>211 つまり殺すという行為が悪いと言うことです。
目に見えて悪意をもって殺す。
目に見えず知らぬまに殺してしまった。
>>223 ならば「なるべく全ての生き物を殺さない様にしよう」というのが正しい姿勢なんですか?
道にいる虫に注意を払っていれば踏み殺さなくてすんだのに、前を見てたら殺してしまったとしたら、自分の意識次第で避けれた事ですよね?
車を運転してても沢山の虫を殺してます
どこまでが仕方のない殺しなんですか?
それと、いわゆる下等生物の幸せがなんなのかわかりません
そもそもそんな感情ないと思います
ゴエンカさんは、ミャンマーのあるお坊さんから冥想を勉強して、その方法を教えている方なんですね。
それはその人のやり方で、できるだけ社会的な立場で頑張ってはいるんです。かなり巨大な組織ですから。
スリランカというかテーラワーダを却下しているわけではないんです。
世界で一番大きな冥想道場を作った。信じられない、あの大きさは。
そこで誇らしげに言うのは、ドームの一番上に、スリランカの政府から正式にいただいた仏舎利をちゃんと安置しているんだと。
だから仏舎利の下で冥想するということで、テーラワーダ仏教から認められることをすごく大事に思っている組織なんです。
その教え方の場合は、すごく安っぽく軽く教えているんですよ。
その方法だからこそ、すごくたくさんの人が集まります。すごく真剣に教えると、人間と言うのは腰抜けですから逃げちゃうんですね。
彼らも四念処経を教えています。
ヴィパッサナーというのは四念処経ですよ。わたしたちの冥想法とちがっているわけではないんです。
しかしあちらは組織だから、すごく排他的でやるだけなんですね。オープンでいながらよくよく見ると排他的です。そこは気に入らないところです。
ゴエンカさんを神様みたいに、ブッダみたいに捉えているところは、そこはちょっとやり過ぎなんですね。
ちょっと仏教的でなくなっちゃうんですね。個人崇拝は。
崇拝するならブッダにしなくてはいけない。サーリプッタ尊者、モクレン尊者崇拝もしませんからね。
だから個人崇拝と言うのはちょっと、よくないんですね。 しかし冥想法の場合は、そんなに差がありません。
彼らはただ歩く冥想をしないだけでね。四念処経に書いてあるのに。四念処経を元にして、カットして、ボディスキャンをするんですね。
ボディスキャンをすることは感覚をみることだから、それは大丈夫です。経典に合っています。でも、いつだって、歩くときでも座るときでも、そこをスキャンしなくてはいけないんですね。
そこは適当にカットしているところですね。
わたしたちが教えるヴィパッサナー冥想というのは、誰の冥想でもなくて、お釈迦様がおっしゃったものですから、人間が作っている組織と似たり似ていなかったりすることはあります。
わたしは個人的には、ブッダの教えから脱線しませんと言いう立場でやっています。
だから現代ではやっている冥想組織と違うところはあります。はっきりと、なんで違うのかと聞かれたら、説明することはできます。
わたしがそう思うからではなくて、経典にそうあるから、と言う態度ですね、わたしは。
皆様方は、わたしが、すごく現代的に新しいことを言っているように思うかもしれませんが、科学は使うわ、パーリ語の言葉は使っていないわとか。
しかし、すべて経典にあるんです。それを現代人の言語で言っているだけなんです。現代人にわかる言語でしゃべっているんです。
皆様方が今しゃべっている言語で、お釈迦さまがしゃべった言語を翻訳しているだけ。
だから脳の話やら、神経回路の話やら言っていますが、経典にそんな話はないんです。
脳みそは脳みそだと、肉体は相手にしていない。しかし、現代人が物質に引っかかっているんだからね、石に噛みつく人間だからね、科学者は。
そこから、こころに道案内する。その差があるんですね。わたし個人の話の場合は。
しかし、ゴエンカさんがおっしゃっているのも、全くのヴィパッサナー冥想で、方法が全く違うふうに見えても基本的には同じことだと思います。
微妙なところは、歩く冥想をしないとそんな程度のことなんですね。そんなにどうったことはないんです。
マハーシ・サヤドーは現代人にわかる言語でしゃべりました。
それから、マハーシ・サヤドーで止まらずに、しっかりと経典に沿って進む。マハーシ・サヤドーで止まってしまうとちょっと良くない。
マハーシ・サヤドーはすごく立派な方で問題がないんだけど、アチャン・チャーもすごく立派な方で問題がないんだけど、個人崇拝になっちゃうと、覚りの世界ではなくなっちゃうんですね。
アチャン・チャーは阿羅漢であったとほとんどみんなが信じているし、そこは全然問題ないと思いますよ。そう信じることは。
しかし、アチャン・チャーの弟子たちは一人も成長していない。
理由は、ブッダを措いておいて、アチャン・チャー教を作っているんだから。
別な宗教を作ると、覚ることはできなくなっちゃう。
素晴らしい、すごい組織です。世界的にアチャン・チャーのお寺がいっぱいあります。
しかしブッダから抜けてはいけません。
アチャン・チャーが学者の能力もあったんだけど、しゃべる場合は一般人の言語でしゃべったんですね。
そこを勘違しているんですね。好き勝手にしゃべってもいいやと。アチャン・チャーは仏教の真理を体験したからできたことで。
そういう微妙なトラブルも世の中で起こる。
それは避けられないことです。別に大げさなことではないんですね。
いつだってブッダのほうに行った方が、お釈迦様のほうに行った方がいいんじゃないかなあと。
おおもとのところに。弟子を開祖様にしたら困りますよ。やがて、ブッダを弟子にするとかね。そこまで行くんだから。頭がいかれる場合はね。
テーラワーダの場合はそこまでいっていいないんですよ。
でも、アチャン・チャーを崇拝するか、ゴエンカを崇拝するか、マハーシ・サヤドーを崇拝するかと言うところで、ちょっとダメージを受けているんです。
崇拝することは必要じゃない。師匠ですからね、お釈迦様はね。元の師匠ですからね。
そこをいつでも大事にしておくと道を脱線することはないし、精神的に向上することは可能です。
抜けちゃうともうアウト、終わり。覚ることは閉ざされます。
そういえば俺もスマナサーラ長老の一言一句を信仰してたときがあったなぁ
個人へ信を向ける段階から、仏法僧へ信を向ける段階が来るというわけですね。
まあ、いつの時代も真理や悟りを求める人は多くないからね
多くの人は目の前のちょっとした悩みが手軽に解決できればいいわけだし
マインドフルネスやゴエンカさんで十分じゃないの
どんな分野でもその道を極める人は少数派だし、仏教も同じだよ
>>217 「マインドフルネスを越えて」 バンテ・H・グナラタナ著に
何種類かの慈悲の瞑想が載っています。
「さとりへの道―上座仏教の瞑想体験」 鈴木 一生著には、
ミャンマーでの慈悲の瞑想の修行について少し載っていますが、
それなりにハードな修行のようです。
私もいろいろ調べましたが、断片的な情報しかなくて・・・。
参考になればいいのですが。
スマ長老の功績は大いに評価するが、
日本テーラワーダ仏教協会の慈悲の瞑想だけはダメだな、効果がない。
もっとも、スマ長老があの文章を作ったのではないらしいが、
詩のようにカッコつけてるが言葉があいまい過ぎる。
生きとし生けるもの・・・・普段使うか?
しあわせ・・・・・・・・・人によって違うだろ?金、女、地位、学歴、年収、美貌とか
悩み苦しみ・・・・・・・・これも人によって違うだろ?女に振られた、上司に怒られた、パチンコに負けたとか
願い事・・・・・・・・・・これも人によって違う 宝くじが当たりますように、女にもてますように、契約が取れますようにとか
悟りのひかり・・・・・・・修行もしてない衆生がどうやって悟り、解脱できるんだ?希望したって絶対ありえん話だろう
だから慈悲の瞑想の意味を考えると嘘くさくて、意味を考えないでお経を唱えるようになってしまう。
ただ、同じ言葉を何も考えず集中して念じるわけだから、サマディ瞑想としての効果はある。
しかしそれだとマントラ瞑想で南無妙法蓮華経と同じになってしまい、
慈悲の瞑想としての意味がなくなってしまう。
>>232 雑念すごいな
簡単なものを難しくしてるのは自分自身の心だと気づけるといいね
>>232 それ唱えてる間は、具体的な対象を思い浮かべてやるんだぞ。
具体的な対象を想うから、最初に自分を対象にしてやって、自分がどれだけ幸せになりたいかわかってから、他人も同じように幸せになりたいんだ、幸せになってくれって慈悲を送るんだぞ。
それ無かったらどんな文言でやってもマントラにしかならんぞ。
>>217 上座仏教修道会からテーラワーダ仏教が伝える慈経という本が出ていて、小冊子なので本格には遠いかもしれませんが個人的にはお勧めです。
慈経の原文の解説だけでなく、どのような人にどのような順番で慈悲を送るか、送ってはいけない人、慈・悲・喜・捨それぞれの考え方について解説があります。
Amazon等では古本が少し高額になって出ているだけなので上座仏教修道会に直接申し込んだ方がいいです。
著者のバッダンタ・ニャーヌッタラ長老が、慈悲の瞑想での禅定の方法については別途詳細に書く予定だと書かれていて、私も密かに待っているのですが、なかなか出してくれません…
>>233
>>234
仏教徒の幸せや願い事は心の平安(とは限らないが)だということはわかる。
しかし凡夫の幸せや願い事は金や食い物や女や地位や名誉なんかじゃないの?
「生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように 」
特にこの文言は煩悩を奨励してるみたいでなんかピンと来ないのだが。
237.
煩悩を奨励しているところの慈悲は誤りである。
自分の煩悩を肯定しているからして、他人の煩悩を肯定することになる。
慈経を読んでみて下さい。
短いお経です。
それが慈悲の全てです。
>>236 あれは良い本だよね
ビルマの長老だからちゃんと注釈書と清浄道論の説を踏襲してる
しかも読みやすいし
>>237 慈悲の瞑想は慈悲の心を育てる事が目的だから違和感あるならしっくりくる言葉に変えてもいいんだよ
願ったところで相手が変わるわけじゃない
自分の心の反応パターンを変えるのが目的なんだから
地橋さんの本には
生きとし生けるものが真実に幸せでありますように
とあったけどこれならどうよ
>>239 7. [ P-7. / R-7. ]
あたかも母親が己が一人子を命を賭しても護るように、そのように一切の生きとし生けるものに対してもまた、無量の(慈しみの)心を起こせ。
8. [ P-8. / R-8. ]
すべての世界に対して、上に、下に、また横に。障碍なく、恨みなく、敵意なき、慈しみの心を起こせ。
9. [ P-9. / R-9. ]
立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)念いをたもて。これが梵住(崇高なる境地)である、と言われる。
10. [ P-10. / R-10. ]
諸々の邪見にとらわれず、戒をたもち、(真理についての正しい)知見を備え、色欲に対する貪りを除けば、決して再び母胎に宿ること(再生)はないであろう。
http://www.horakuji.com/BuddhaSasana/Theravada/paritta/Metta_sutta.htm ポイントは10だね
慈悲も含めて仏道を成就すれば再び母胎には宿らない再生しない、つまり輪廻転生のサイクルから解脱できるということだわ
217なんですが慈悲の瞑想のはなし、みなさんありがとうございます。スマナサーラさんの自分を変える気付きの瞑想を読んでささやかに実践してて心の状態がわりとよくなるように感じてたのでもう少し深く学べたらとおもったんです。
今日キンドルで慈しみの思考という本をポチったので読んでみます、ご紹介くださった本も順次よませていただきますね
このスレの方たちもみんな幸福でありますように
>>242 諸訳と差別化したいのは分かるけどkaamesuを色欲と訳すのは矮小化じゃね
カーマ(kaama)で単数なら分かるけど
複数形なんだから「もろもろの欲」とか「五欲」でしょ
マインドフルネス瞑想とヴィパッサナーの違いについて。
われわれは、二千五百年前からやっていることですからね。今さら誰かが興味を持ったからと言ってね。
俗世間から出てくるものですから、俗世間の要求に応じてやっているものでしょう。出世間のところはカットしているでしょう。
だからまあ、やるのは構いませんけどね。最低「これは仏教から学んだ」と言ってくれたほうがいいんじゃないかなあとね。
完全にパクリっていうのはね、ちょっと文化人としてはよくないんですよ。
わたしも、一般向けではなくて専門家が書いている本を読みました。
結構仏教のことを書いているんですけど、それを取ってから「わたしはこういうことを考えた」と書いているんですね。
仏教は誰が取っても気にもしませんしね。でも、覚り・涅槃・解脱というのは、持って行けませんね。
それはブッダの指導でちゃんとやらなくちゃあかんですね。
たとえば、子供たちが勉強できなくてイライラしていると、マインドフルネスをやるとものの見事にうまくいく。
能力は発揮するし、勉強はできるし、憶えはよくなるしね。脳細胞がしっかり整理整頓されます。
仕事がうまくいかないとか、能率が上がらないとかは、マインドフルネスでこころが治り、解決します。
現実を見せる訓練でからね、あれは。
普通は現実じゃなくて幻覚で生きているでしょう。妄想で。妄想って実行できんでしょう。
それは困るんですよ、脳細胞が。そこで一旦休ませてあげる。その間、現実を見なさいと。
それで脳が整理されて、物事がうまくいくんですよ。
病気も結構治ります。
病気は二種類ありまして、肉体のファンクションがちょっと弱くなるというね。どんな機械もちょっと衰えたりするでしょう。それには治療がないんです。
しかし、細胞がこころに管理されているんですね。こころが狂っちゃうとひどく病気になっちゃうんです。
いわゆる車の運転手が悪くなったという感じでね。いくら高級車でも運転手が悪かったら危険になっちゃうんです。
われわれのこころが整理整頓されてないんだから、ものすごくたくさん病気が出てくる。
だからわれわれが日常感じる病気の中で、六割、七割は精神が作った病気なんです。それは治ります。
しかし、歳を取ることは治りません。
滑って足の骨を折ったら、冥想したからと言って、それは骨が折れます。それは物質的なことでね。
冥想をやる人々にとっては、わずかな病気しか残らないんですね。
その病気というのは、医者がすぐ直してくれます。医者が苦労してもなかなか治らないというのは、必ずしも遺伝子の問題じゃないんです。
たとえば治療しても、精神的に混乱していると、薬を受け入れないんです。
瓶に水を注ごうとする。手がガタガタガタガタ震えていたら、水が入らないでしょう。
だからそんな感じで、細胞が不安定な状態にあると、注射しても薬を飲んでも、もう入らない、効かない。
精神的に安定して、マインドフルネスでいたほうが、最高の状態なんです。
それはまあ、頑張ればいいんじゃないでしょうか。その世界で。
われわれはやっぱり、存在欲を絶ちましょうとかね。
向こうは存在欲を絶つこととはしゃべりませんね。
存在欲は前提であって、どう幸福に生きるのかということなんです。
われわれはもっと進んで、生きるというのはどういうこと? ということから冥想を教えているんです。
ブッダのオリジナルのマインドフルネスは、生命を超越することを目指しているんです。
アメリカではやっているマインドフルネスは、どうやってアメリカ人が実践するかというところでストップするんです。
世間ではそこくらいまでしか実践できませんしね。
そういうことだと思います。
まあ、やっても構いませんしね。
それなりに、俗世間のことに適したプログラムを組んでいるんだから、結果があると思いますよ。
しかし、われわれはそんなレベルじゃないんです。
そんなのは無視してくださいと。冥想やっちゃうと、朝飯前に消えますよと、日常問題は。
日常問題を、われわれはすっごくつまらないとみているんです。
そんなことを問題にしているんですか、もっとすごいことがありますよ、そこをやってください、と。
そうすると、小さな、小さなことっていうのは、あっけなく消えます。
問題だけ狙って治療すると、それだけ治るんです。
近代マインドフルネスは、全体的に「存在」という問題に治療していないんです。
われわれは「存在」ということを問題にして、そちらにヴィパッサナーを教えているんです。
存在する「から」出てくる問題というのはつまらないんですね。存在という大きな問題があるんだから。
そのところがマインドフルネスと違うところですね。
モンゴルで学校とか建てたり、良い事しているのに、なんでこんな結末になるのかね?
日馬富士
グーグルなどの企業が金儲けのためにマインドフルネスを利用してるわけだが
資本主義で金儲けは相手を叩き潰す競争だし、なんか気持ち悪いわ
モンゴルはチベット仏教だろう。
日本仏教とは肌が会わない。
原始仏典も原始仏教解説も昔からあるのに、なぜスマナサーラが流行ったか。
カルト教祖になりたい人はよく理由を考えたらいいと思う。
スリランカ仏教を復興させた神智学的な選民主義。
スリランカ仏教お得意の異教徒に対する差別心と敵対心の刷り込み。
張り子の虎の権威を持ち出しあなたは仏縁があるなどと吹き込む感覚。
禅僧に考案で冷や汗かかせたとか一方的な脳内勝利宣言を繰り返す。
都合の悪いことは一切、言わない。嘘がバレても嘘を上塗りする図々しさ。
在家に半端な瞑想では成果が出ないなどと無意味な修行に打ち込ませ思考停止させる。
仏教に敵対すれば地獄行き、輪廻から解脱するには仏教しかないなどと脅す。
TVに依存しておいて芸能人は最低の職業で芸人は地獄におちると冷笑するセンス。
科学的方法論にも科学的知識にも無知なくせ仏教は科学で宗教ではないと言い張る見栄。
選民主義、差別心と敵対心の刷り込み、欲望と幻想と恐怖への服従、権威主義。
これらは、ほんの少しの例だけどスマナサーラが言動すべてが参考になるはずだ。
普通の真面目なテーラワーダでははやらないんだよ。
死ぬ間際に地獄で待ってるます。長老。と言い残し死ぬんだろうが。
愚かな末端どもは。
余談ですが、これも一種の宗教みたいなところがあるので書きますと、アミューズメントメディア
総合学院のアニメータ科の内田順久のいうことは絶対聞いてはいけません。
学べるのは本当に一部分の技術だけです。内田は過去にアダルト作品を作っていますが
どれもインポみたいな作品になり失敗しています。内田は潔癖症ではありません、インポです。
アダルト作品を作ろうと考えてる人は特にこいつの言うことにしたがってはいけません。
インポにされます。
>>254 なんか心が荒んでるねえ
どんな仏教が好きなのか知らないけどね
その仏教(?)は何の効果をもたらしてないことは間違いないね、あなたに
マインドフルネスでもやったら?
>>257 なんか心が荒んでるねえ
どんな仏教が好きなのか知らないけどね
その仏教(?)は何の効果をもたらしてないことは間違いないね、あなたに
マインドフルネスでもやったら?
10: [] 2017/11/24(金) 21:40:01.85 ID:5pvuZmRc
スマナサーラ長老がずっと平和だと主張してるスリランカ仏教。なにこれ?
キリスト教会にテロ
ダウンロード&関連動画>>@YouTube 暴力的なスリランカ仏教僧
ダウンロード&関連動画>>@YouTube 他にもユーチューブには凶暴なお坊さんの動画がわんさか。
http://2chb.net/r/psy/1498970887/10 スマナサーラの母体は、なんか荒んでるねぇ。
415: [sage] 2014/07/25(金) 00:05:20.08 ID:F+1+IFBL
宗教者の排他的で攻撃的な扇動は、社会に惨禍をもたらします。
宗教者が垂れ流す、自派の優位を見せかけるための排他的物言いに
欲と恐怖に漬け込まれて免罪符を与えたり、苦しい擁護を行ったり
批判者を呪詛したり、宗教者を勘違いして崇拝したりする信者は
狂行に加担しているのです。彼らは宗教の麻薬の幻覚下にあります。
誹謗正法で地獄行き、サンガに布施をすれば最高の功徳になるというような
人を奴隷化する思想が組み込まれた宗教に、選民主義的傾向と排他的姿勢が
加わり構成員が権力を握れば、いかに危険な存在となりうるかオウム事件が
風化しつつある昨今、洗脳されていない人は知っておいてた方がいいでしょう。
仏教徒がモスクを襲撃しています
Buddhist Mob Attacks Muslim Mosque: Sectarian strife rocks Sri Lankan capital Columbo
ダウンロード&関連動画>>@YouTube 僧侶によるモスク襲撃の模様です
in Sri lanka , Dambulla city Muslims Mosque attacked by buddhist monks 3
ダウンロード&関連動画>>@YouTube イスラム教徒の商店を襲撃しているようです
Sri Lankan Buddhists attack Muslim-owned store
ダウンロード&関連動画>>@YouTube イスラム教徒を常に迫害しているようです
Buddhists target Sri Lanka's Muslims
ダウンロード&関連動画>>@YouTube Muslims Killed in Sri Lanka Mob Attacks Al Jazeera English
ダウンロード&関連動画>>@YouTube 僧侶がイスラム教徒迫害を煽っています。
Sri Lanka: Muslims under threat again (Part 1)
ダウンロード&関連動画>>@YouTube Sri Lanka: Who's behind anti-Muslim violence? (II)
ダウンロード&関連動画>>@YouTube 長老の母体アスギリヤ派(シャム派)はカーストによる出家差別を行っています
スリランカ仏教教団のカースト問題 : Udarata Amarapura Mahanikayaの場合
自分が正しいとは言わないけど、動物の遺体を見て見ぬふりするのがどうしても無理
忘年会の二次会帰りに鳩さんのご遺体を介抱して
段ボールの中にお供え入れて警察に引き渡してきました
相変わらず、警察はこういう遺体の引き受けは露骨にめんどくさそうに応対されるので
そこが毎回今一つですが取り敢えずやるべきことはやれました
鳥年の今年はムクドリに始まり、猫2匹、雀、鳩と少し多めの年で
特に鳥の介抱に始まり鳥の介抱で終わったので、まるで仏様に試されてるような年でしたね
遺体を介抱している私を好奇の目で見る歩行者やドライバーが気持ち悪い
せめてチラ見にしてもらえないものかなぁ
特別な事をしてるつもりも無いのになんであんな目で見れるんだろう
>>262 公道において死亡している鳥獣については道路管理者(国、県、市町村)に
処理を依頼すべきことであり、警察の仕事ではありません。
特に野鳥などは鳥インフルエンザに罹っている可能性もあるので、素手では
触れず、専門家に連絡をするようにと地方自治体のサイトにあります。
普通に市役所か保健所に電話だろ
常識的に
どうしたら警察なんて発想が
いきなり自分の職場に鳩の死体とお供え持ち込まれたらお前が墓でも建ててやれと思うわ
調べたら保健所は違かったみたいだな
すまん
だけど警察も激務なのに批難されたらたまらんだろ
妄想世界にどっぷり浸かってる凡人に気づきの瞑想なんて関心ないよな
釈迦っておでこのホクロから白髪光線飛ばしてるやつで別名ウルトラセブン
「ジュワッ」 びびびびびーーーーーーーーーー
これに当たると煩悩怪獣が爆死
日本のテーラワーダ仏教のサンガってやはり朝に托鉢の行に出て在家に食べ物を施す機会を与える一方でその時に在家の相談に乗ってたりしてるの?
ていうかその前に、もし自分ちに僧侶が托鉢しに来たらお布施するの?
毎朝?食べ物を?
もちろん、善行を積んで来世は天界に生まれたいからね
>>252 上の人間にしたら、部下を洗脳しやすい状態にする手段でしかないよね、
生産性を向上させる (余計なことを考えさせない) ためのマインドフルネス
上は絶対わかっててやらせてるでしょうね。
ゴエンカ式で少し気になったのもそこかも。
長時間の瞑想で意識と無意識が曖昧になっているところに、有無を言わさず毎日仏法のテープを聞かされる。
超絶素直な状態の脳にとっては、ただの洗脳行為でしかないと思うんだけど。
その状態の人間に教えを吹き込むことって「本当に」ありなんだろうかっていう素朴な疑問も。
しかし「最短」とか「効率性」ってことを考えるとそうならざるを得ないのかなってこともまあわからなくもない。
>>271 それは、
「情報の溢れた」「個人の自由、個人の尊厳を重視する」「選択肢の豊富な」
現代社会の基準で見れば、
というだけ。
初期仏教レベルで言えば、
世論の反対を受けるまでは、子供のうちに「正しい道へ誘う」という意味で、
年齢制限なくサンガへ受け入れていたと思うけど?
実際にも、日常で苦労するよりは、比丘として生活した方が遥かに
「人間的に文化的に」生きられたかもしれんしね・・。
>>271 ゴエンカ式には感謝をもっているけど、仏法のテープはかなり苦手でした。
おそらく文化圏、歴史的背景もあるんでしょうが、
宗教性の無さ、普遍性を強調する返す刀で、宗教性や儀礼、ひいては神への親愛を持った他宗教をかなり矮小化したり失敗例のたとえ話が多くて…スマナサーラさんと近いかより厳しいくらい
瞑想はじっとしてるのが辛いが、赤ん坊はお腹の中で10ヶ月も苦しんでる、生は苦しみだとか、
ネガティヴな表現を暗がりで長時間聴くのは
きつかった。
恐らく、そのくらい強調しなければ長い歴史の
中で瞑想の純粋性を保つのに必要だったのかと思う。
最後には、哲学や思想と切り離して瞑想するだけでも効果があると言っていたけど、
現代の日本人はもともとプラグマティックなのだから、あの説法もその辺りを加味して聴く必要があると思ったし、
西洋人の書いた本の方が日本人には合っていると思った。
ただ先生がたは非常に非常に慈悲のある方達で、そうした違和感は全くなくて日本人の感覚を理解し共感させてくれた
あと、瞑想最後にはメッターを教えてくれた
これは瞑想には必須だそう。
グーグルの研修の意図はともかく、経済活動も、
他者への奉仕の観点が付加されるならそれは徳の回向ということとなると思うので否定は一概に出来ないのでは
>>274 ゴエンカさんのメッターはどんな感じ?
日本テーラワーダ仏教協会の慈悲の瞑想は唱える人の主観が入りやすいんだよね
細かい説明がないとなんか宗教臭いお祈りみたいに思えるし
子供から高齢者、信仰があろうがなかろうが誰でも納得できる、理論的な明快さがあの文言から
感じられないんだよね
>>275 理論的な明快さならテーラワーダの方があるかも
慈悲喜捨などの説明はなく、慈悲が育てば言葉は自分で変えていいとのこと。
自分にはその方があっているような気がした。
まあ指導する資格はないのであまり詳しくはかけないし、自分の感想にすぎないけど。
ネットで探せば出てくるよ
慈しみと平静とあわれみと解脱と
喜びとを時に応じて修め、
世間すべてに背くことなく、
犀の角のようにただ独り歩め。
慈しみと平静とあわれみと解脱と
喜びとを時に応じて修め、
世間すべてに背くことなく、
犀の角のようにただ独り歩め。///
そんな人は、古今東西おりゃーせんわいな。
お宅の脳細胞と
ご立派な文献の中に、居るだけ。
実践て慈悲とヴィパッサナーと戒律の3つをやっていきなさいということなんでしょうか、アビダンマ以外に学ぶ書物ってどういうのがあるんでしょう
>>279 四諦(苦集滅道の四つ)と縁起に要約できると思いますが、
そのうち道諦が実践部分の説明になっていると思います。
道諦は三学(戒定慧)のことと言い換えることも出来ますし
三十七菩提分法で説明することもできると思います。
アビダンマを好むのであれば、ポー・オー・パユットー師の
著作など如何ですか。
ボディスキャン系の瞑想で体内を観察する場合、どこに何の臓器があるとかって把握しておいたほうがいいんでしょうか?
イメージの世界だから大体でいいんだよ
http://マインドフル.com/bodyscan/
イメージでいいんだよ
人の認識するものすべてが錯覚、妄想、幻想、幻覚なんだから
イメージも同じ
ゴエンカ式だとイメージすることはは禁止されていますね。
スキャンの対象となるのは、身体の感覚です。
山下良道師の言う、微細な感覚というやつです。
イメージするとサマタになるからではないかな。
実際の感覚を観ていくのが1番いいと思う。
地橋のところって具体的にどんなことがあってどんなふうだったの?ぐぐっても何も出て来ぬ、マハーカルナーと同じようなかんじ?
書籍その後も変わらず売れているようだけど、今買った人達も真相知ったら印象変わるよねぇ
私も本棚の本手放すかどうか迷い中だわ
おまけにスマホにはマハーカルナーの法話が入っとるw
スマナサーラはスマナサーラで、講演行ってみたら金正恩のこと考えると怒りが沸いてぶっ殺してやりたい
(なので考えなくてもいいことは初めから考えない、近寄らない)的発言
噂に違わぬ暴言にこれまたショックw
やはり修行って一人でするべきものなのかもねw
瞑想する人がときどき「無我がわかりません」と言います。
わからなくていいんです。
その気持ちで結構ですよ、冥想するときはね。
無我がわからないというけれど、「自我」がわかりますかね?
自我ならわかりますよ、と言えますか?
だから無我がわからないと言っても、本当は自我もわからないでしょう?
そこでヴィパッサナー実践をするんです。「一体どうなっているのか?」とみればいいんです。
無我っていうのは、「わからない」というのが決して変ではなく、これは事実です。
無我がわかった時点でもう覚っています。覚りに達していなければ無我がわかっていないんです。だからそれを困る必要はありません。
わからないものは頑張ってわかるようにするということです。そこを無理してはいけません。妄想してはいけません。
ただ単に、実践をしていると真理が出てきます。
真理が確認作業によって現れてきたら、それは本物です。考えて発見したらそれは本物ではない。
妄想だけじゃなくて思考さえも抑えて、確認していくんです。
思考は切るということはありえないから、抑えて、あまり頼りにしない。それで確認作業を続けていきます。
それで真理のありのままの姿がどんどん見えてくると、自我っていうものが存在しないと発見します。
自我が存在しないと発見したことが無我なんです。
無我より先に自我にいかなくちゃいけないでしょう?
それで、性格的に「無我を発見してやるぞ」と思って冥想してもできない可能性があります。
だから、無我に挑戦するのはまれな人間だけなんです。
>>291 注釈書もね
そうじゃないと「身行(kāyasaṅkhāra)って何?」ってなっちゃう
無常に挑戦するんです。
100人が修行するなら、無常に挑戦して覚る人々は95人くらいでしょう。
苦もありますが、無常のほうが、たくさんの人々のわかりやすいんですね。
無我が宿題になるのはまれな人です。
とにかく、苦・無常・無我は同義語なんです。
だからわかりやすい無常をなんとか念頭に入れて冥想したほうが、かなりスピーディに成長します。
誰かが「無常を発見しました」と言えば、同じ意味で「無我も発見した」ということなんです。
定義的に言えば、” 我 ”とは、「永遠不滅の何かがある」ということです。
無常というのは、「すべての現象は変化するんだ」と。二つは同じことです。
誰にでもわかりやすい「無常」を宿題にしてください。無我ではなくて。
>>297 これスマナサーラさんのことだろw
毒舌=正直って公式は実際はあまり成り立たない
仏陀も道元も目の前の相手の感情に最大限に配慮して
優しい言葉を使うべきと言っていたし実際に使っていたそうな
ブッダはマーガンディヤの娘さんをマゾなのを知っててなじったわけか
世俗の価値観と涅槃への道は、ぜんぜん別もの、別系統の価値観だし
世俗で価値あるものはぜんぶ無常、苦、無我だから
仏教徒が正直に話したら毒舌にしかならないと思う。
補足
〜正直に話したら“世俗の価値観的には”毒舌にしか〜
それにしても、糞尿に満ちたこの女には足でさえも触れたくない、てのは酷すぎだけどねw
どこの世界も高いレベルを目指せば厳しい
だいたい適当で甘ちょろいやり方で結果が出る分野があるのか?
努力なしで素敵な成果が得らようなことを言う者は詐欺か金儲けか無能なんだよ
新興宗教の教祖にそんなのが山ほどいる
スマ長老の日本人向け説法でさえ、かなり甘い、甘すぎるくらいだ
ヴィパッサナーしてれば悟るの?と同じ
その人による
>>305 >スマ長老の日本人向け説法でさえ、かなり甘い、甘すぎるくらいだ
スマの場合は他宗に対して皮肉っぽいのであって
あれで甘いということはもっと他宗批判をしろということになるw
正しいと思うことことをズバズバ言って何が悪いの
間違いがあると思うなら反論すればいいんだし
いちいち顔色をうかがう必要なんかないね
仏教は理論的で明快だから誰に対しても(お釈迦様に対してもね)忖度なんかいらないよ
自由に質問、反論OK
そういうのが嫌なら新興宗教(大乗仏教も)しかないね
だって真実、真理を受け入れたくないひとは甘い夢や願望や希望を語る先生が好きなんだから
>>316 スッタニパータの解説はなかなか良い
しかし、水子供養ってなんだ?訳わからん
色(rupa)は物質ではない――仏典における原意と訳語の考察――
https://doi.org/10.4259/ibk.59.2_858 村上真完先生、やってしまいましたなあ……
天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖〔せい〕とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を
今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。
「・・・でありますように。」なんか慈悲の瞑想に似てるな
テーラワーダ仏教協会を批判スレ [無断転載禁止]©2ch.net・
http://2chb.net/r/psy/1498970887/ 伝統的なヴィパッサナーは大雑把で個人差があり過ぎて個別の細かい指導が必要な感じ
現代のマインドフルネスの方はシステマティックで誰にでも安定した効果がでる感じ
ヴィパッサナーで停滞したり行き詰ったりした時はマインドフルネスのテクニックを取り入れた方が効果的かもだよ
>>321 テーラワーダ系の瞑想会はマインドフルネスもヴィパッサナーも実践させているよ
たしかに、いつまでも膨らみ、縮み、右足、左足のラベリングだけじゃ行き詰るな
>>323 マハシ・サヤドー系の瞑想会ね
違う系統の比丘の瞑想会のところはやり方もまた違う
>>323 感情とか心に浮かぶものはみんな気づきなさいって言われない?
思い出してる、思い出してる、聞こえる、聞こえる、触れている、触れている
気づく対象多すぎじゃない?
あとラベリングは気づきがちゃんとあるならなくても良いよってチャンミェ・サヤドーの法話に書いてあった
気づく対象を追いかけていたらきりがないような気がするが
観察の対象を腹や鼻先に絞ったら本当に短期間(二週間ぐらいで)で悟りに近いレベルまで行くのかな
スマさんは可能と言ってるみたいだけど
>>323 でも生きてることって膨らんで縮むの繰り返しで、生きてる限り酸素を渇望し、二酸化炭素を吐き出したいと苦しむ、
つまり生きている限り煩悩は消えない、キリがない、生きている限り常に苦しみのなかにいる、
でも人間だけはそれに気づくことができる
養老孟司がいってたんだけど、人間は水を飲みたいと思ってから体を動かすのではなくて、
実は水を飲むために体を動かしはじめた後で水を飲みたいと思ってるらしいよ、それは脳科学的に実証されていることだと
瞑想が進んでいくと、そういう生命の大きなトリックにも気づいていくことになるのかな
というか、瞑想って実はそれに気づかせるためのものなのではないかって気もする
先に体が勝手に動き出してしまうということは、人間は放っておけば好き勝手してしまう生き物だということ
それをしないためには、それぞれが規則を作って、それを守っていくしか方法はないのだろう
自分が思う聡明な人たちは、皆自分でルールを作り、それを守るような生き方をしているような気がする、宗教とか関係なく
>>327 結局、生命の根源、始まり、そして意味に対するブッダの答えが解脱なんだと思う
人間も原始的な生物から進化してきたわけだが
最初の生命がなぜ生まれ、なぜ盲目的生き続けようとするのか
生まれたからには寿命まで死なないように闇雲に必死で生き続けようとして
生物同士が殺し合って生き続けることにどんな意味があるのか
そうやって生き残って子孫を残して最後はボロボロになって死んでゆく
そういったサイクルに何か特別な意味、意義ががあるのか
悟ることによてその答えがわかるんじゃないのかな
>>327 気づいているというのは誰?
気づいていると言う事はなに?
釈迦でも形而上のことは無記として答えなかったわけだし瞑想に過度の妄想を働かせるのはやめようや
>>330 欲望には終わりがなく、またそれが自然だということ
それを知っているだけでも、少しはましな生き方ができるのではないかと
笑うから嬉しくなるとか、行動するからやる気になるとか、その類いの話には半信半疑だったけど、
世の中の賢い人たちはおそらく体験的に、ごくふつうのこととして知っていることなのだろうね
>>327 煩悩というのは苦の原因となるので捨てるべきものなんで
呼吸を捨てたら死ぬそれは苦である
呼吸まで煩悩にカウントしたらあかんで
>>331 137億年前にビックバンから 宇宙が誕生し
46億年前に地球が誕生し
40億年前にバクテリアのような生命が誕生し
600万年前に長い進化を経て人類が誕生した
これは形而上の問題じゃなくてほぼ真実
ただ最初の生命(生き続けようとする有機体)がなぜ,どのように生まれたかはまだ分かってない
>329
この生命に満ちあふれた地球
その永い年月の間には、強い牙、高く早く飛ぶ翼
どこまでも深く潜る能力など様々な力を得てきました。
しかしながら、それらは空の彼方から来る破滅の力には
無力であり、繁栄をえていたものがあっという間に滅び去った
事がしらています。
それらの生命の試みは、ある意味失敗であったと思えます。
しかし、ついに生命は、考えるという特異な能力を生み出すことによって
それに対処しようとしているようにみえます。
いつの日か、この地球は炎に飲み込まれ、焼かれ
全ての生命が滅びる時がやってきます。
それに対処し、生命を生き続けられる能力は
今の段階では人にしかないようにみえます。
人はその能力と、その責任を有しているのでは
生き続けるために
生きとし生けるものが末永く幸せでありますようにと
生物の生きようする本能が煩悩だな
人間の場合それが少しばかり複雑になって数が増えただけ
解脱してないなら、また来世がある。
無常、苦、無我にして自業自得の輪廻が続いていく。
そして、来世も人間として仏法に出会える保証はない。
>>338 それどこの宗派の教え?それとも独自理論?
人類が600万年前に誕生したのならそれ以前は霊界はなかったことになるな
なんでこの地球上の現生人類だけしか考慮対象に入ってないの。
仏教でいわれる輪廻のタイムスパンは阿僧祇劫、それどころか無始無終なのだが。
>>339 知らんけど輪廻からの救済というのは輪廻を信じてる人に対する方便じゃないの?
ていうか、実は輪廻がないという信仰が迷信、つまり無明なんだけどね。
「輪廻があっても、なくっても、業と業果はありますよ」という語り口が、
輪廻がないと信じている、唯物論に毒された現代人への方便なのだと思うよ。
心を脳で説明したりとかね。
精神(心)を物質(脳)で説明しないと理解できないぐらい、有身見に囚われてるからね。
現代人は。
名色の区別を知っている僧侶が、本気で脳が心の本体だと思っているわけがないし。
>>342 アメーバの時代や恐竜の時代に天界、地獄界はありえんだろう
冥想で目指すものは、考えるという行為を超越することです。
何かを考えている限り普通の意識レベルに留まります。
夢を見るときはあなたは潜在意識下に入ります。
つまりそれはアストラル体がより意識されている状態です。
意識がさらにもっと深く超意識へと入っていけば、あなたは脊椎を柱として、
無上の喜びの中心にいるのに気付きます。
その至福の中で、あなたはコーザル体、即ち自分の魂の中にいることに気付くのです。
パラマハンサ・ヨガナンダ
http://mandalaya.com/s7.html この地球だけが人間界というのは、あまりにも人間的な発想。
自我が形成されるようになって善悪の概念が生まれ
人の心の中の天界や畜生や地獄のような感情や思考が集合無意識に六道を創り上げた
善悪の判断ができない下等な生物にとって天界も地獄もない
頭で考えた答えは、概念でしかないよ。
例えば、イヌがイヌの自我で考えても、出てくる考えはイヌの構造から出てくる、イヌの限界に規定されたものしか出てこない。
この事情は、人間も同じ。
三学を通して慧に達したときのみ、その限界から自由になれる。自我から抜け出せるから。
従って、そこではじめて信実が見えてくる。(考えて答が出てきたわけではない)
言い方は悪いけど、率直に言うと
自我自体がそもそも錯覚なので、その錯角の塊がいくら考えたところで、悟りの智慧から出てきた話は理解できない。
やれやれ、自我がないと分かったら悟り(解脱)なんだけどね
悟ってないんだから自我があるように感じるよね、普通は
煩悩がなくなっていないなら、まだ終わりじゃないでしょうよ。
何億年も続いた灼熱の時代に六道なんかあるわけないわ
「比丘たちよ、存在の始源は知りえない。それは無始である」
科学者の3大疑問とは、1)宇宙誕生、2)生命誕生、そして3)意識の形成、であると著者は考えている。
生命体を分解することは簡単だが、分解した生命体の部品をすべて使用しても生命を誕生することはできない。
人間はもちろんのこと、シンプルなウイルスでさえ部品を混ぜ合わせて作ることはできない。
これらの問題は古典的な物理学や生物学では解決できない。
しかし!答えは量子力学、量子生物学にある!(神通力のも解明も可能)
経典ばかり読んで「存在の始源は知りえない」なんて決めつけないで、最新の科学に少しは目を向けよう。
仏教は心の科学というじゃないか!
「量子力学で生命の謎を解く」
この本はいいぞ!ためになるぞ!
原因の原因に遡ると、無限訴求するから
どんな理論的な論理でも、存在の原始には辿り着けない。
はず。
スマナサーラって人も、仏教は心の科学みたいなこと言ってたな
宗教の中では合理的だといいたいんだろう
たしかにマインドフルネスみたいに、科学的に捉えた瞑想もあるが、
本来の仏教って、やっぱり宗教だからな
輪廻転生とか、涅槃とか、どうしても科学に収まらない次元を扱ってる
そもそも科学みたいに存在の世界を扱ってるわけじゃない
科学は科学で必要だが、仏教とはあんまり結びつかないと思う
>>362 経典バカか?
原因と結果(因果)は科学の基本だろ
原因を発見することで現代社会の様々な問題が解決されてきたんだよ
書き込み量が、激減しているのう
ほれ
もっと、頑張らんかい!
>>365 無駄な落書きなら、書き込みこそ罪悪。
書き込み量の過多で物事を推し量る鬼和尚は邪道。
>>365 爺さんや、相変わらず達者じゃね!
いつもご苦労さんです
これからも、いつまでも、どこまでも馬鹿者共を導いてやってくださいな
魂や自我はないと言ってるの六道にいろいろな住民がいるの?
誰か教えて
映画のスクリーンに映し出された映像は、ある種の幻でしょ。
でもいろいろな世界があって、いろいろな登場人物やら動物たちがいますよね。
でもぜんぶ幻です。
そんな感じです。
× そんな感じです。
○ そんな感じだと言えると思います。
群盲象を評す。
>>369 車はタイヤや車軸やフレーム等を組み合わせてできている機能で、どこをどう変えても部品を全部とっかえても、走れれば車であることは変わらない
生命も同じで実体じゃなくて機能ってこと
そして、走る理由がある限り走る道(六道のどこか)に合わせて部品を変えて走り続けるわけ
おまけにこの車の機能にはナビが付いてて、ナビは自分が車そのものだと思ってる
目的地を設定してそれに向かって進むだけの単なるオプションにすぎないのにな
まあナビが提案した目的地にたいてい行くし、ナビに表示されてる地図に沿って動いてくから、自分が車で地図が実際の道だと思い込んでても仕方ない
…でもナビも換装可能なパーツで実装されている機能にすぎないんだよ…おわかりいただけただろうか…(ここ怪談風で)
さあ他の群盲のみんなを象をさわるんだ
象を倒せば俺達の勝ちだ!(違う
>>370-371 スクリーン、フィルム、映写機から発する光。
映画の映像や、そこに映し出される人物たちは、上記の組み合わせで生じる現象。
観客の視点からはそれが分かるが、映像の中の人物たちには(仮に意志があった
として)分からない。
瞑想すると、自我を生みだしている構造が見えるので、無我ということが実感として分かる。
その時、自我はなくて、ただ気づく働きだけがある(無我)。
スマナサーラとかは紅蓮地獄に落ちたコーカーリヤについて、コーカーリヤの何が地獄に落ちたと言ってるの?
無我を強く主張しているから我ではない、阿頼耶識も認めない、となると地獄に落ちたのは何?
輪廻する固定的な主体があるわけじゃなくて、業が五蘊(常に生じては滅している)を
形成し続けているだけ、ということでは。
いまここに生きている自分自身も同様。
この自分が死んで、死んだ自分が生まれ変わるという感覚は、自我が実態として
あるという前提認識に基づく発想だが、その前提自体が勘違いだからな。
>>376 業というのは形成力だから行蘊のこと?
いずれにしても業というのは生じたり滅したりはしないで、ずっと我とはまた違う概念の個人について回るわけ?
悟ってもいないのに自我がないと簡単にほざくでない!
自我とはなんぞや
自動車というものはない、ただの素粒子の集まりにすぎぬ
だがな、自動車はあるぞ!わしは今日乗ったからな
>>379 自動車【じどうしゃ】
エネルギー源と原動機を備え,レールによらず主として路上を走行する車両。トレーラートラックなど牽引(けんいん)されるものも自動車に含めるが,架線から集電するトロリーバスはふつう含めない。
https://kotobank.jp/word/%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A-74374 自動車というのは単体の元素とか素粒子のことではなく上記を満たした車両に付けられた概念。
だれも自動車という元素があるだなんて言ってない。
>>379 無我って、三相だから、悟ってなくても無我は無我では。
悟って十結が根絶やしになくなって、到達した境地としての無我と
物事の性質としての無我と、両方の語義があるよね。
悟る前(道果に達する前)でも、無我は何度も何度も見るものでしょ。
坐禅で自我が消える体験を一度でもすれば、一応は体験として分かる。
そういう人なら、日本の禅宗にもテラワダにも、けっこう沢山いるはず。
無我、無常、苦のどれか一つでも判れば悟りなんじゃよ!
軽々しく無我を見るなんて口に出したらアカン
一時的なもんで、思考が動き始め、思考に巻き込まれ、五感を感じはじめ
身体感覚が戻り、自我が戻ってくると、いつもののび太君状態だけどね。
でも、それが組み合わせで一時的に生じている現象であることは、もう知ってる。
だからといって、自分が悟ったとか、解脱したなんて思わない。
ようやく始まったところ。
自我が消える体験をしたら、もうそこが悟りっちゅうのは
ちょっと勘違いじゃないのか。
あるいは言葉のやり取りの齟齬か。
テラワダの場合、悟ったかどうかは十結で判断するはずだから
まずは有身見、戒禁取、疑が消えたかどうか、三毒が弱まったか
で判断すればいいのでは。
無我がわかったといっても、一時的に見ただけ(有漏)なのか、
いつもずっと無我が見えてる状態(無漏)なのかの違いはあるでしょ。
慢が根こそぎ無くなるレベルで無我の悟りを徹底したら、それは
悟り(無学)と言えるのでしょう。
スマナサーラ長老へお布施したいのですが、振込先などが書かれているサイトはありますか?
テーラワーダ協会のサイトを見ても分からなかったもので。
>>385 ああ、わかる
十二縁起を体感するんだよな
でも瞑想が終われば通常営業に戻る
>>388 スマナサーラは間違ってる
そんなとこにお布施すると不幸になるぞ
>>389 >ああ、わかる
>十二縁起を体感するんだよな
いや、兄貴。
おれにはそこまで分かんねっす。
>でも瞑想が終われば通常営業に戻る
そこは分かるっす。
>>390 十二縁起で言ったら名色の辺りを超えると無色界だね
そして識の段階に行くと識別がなくなる
自と他との識別も無くなって、全てが一体化、というか「宇宙」そのものと一体化する
「行」まで行くとサンスカーラが無くなるんだが、これはどう文章にするか悩むな
ID:VSKuLCcKは五感とか思考ってことは、十二縁起で言ったら六処、触、受の辺りの段階かな?
つか、いまだに覗いてて師匠に怒られんのかいな?w
>>382、>>387 は、『多分』、その通りだと思う。 (未達の者の類推でしかないから >>多分 ) >>391 全てはブラフマン(個だとアートマン)に帰一され、他はブラフマンが作り出した幻影(マーヤ)だとする不二一元論は科学的に見ても正しいんじゃね?
ブラフマンとはビッグバン以降の宇宙エネルギーのことで、マーヤとはその宇宙エネルギーから変換された質量であり無相であるが故に幻影であると
縁起一代師匠でつか?
たとえば
上座部は色々と問題があったから?
大乗が
上座部を批判していると思うけど
それでも、とりあえず
http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/135d45345210d9384075a6349cf75349 大念住経(大念処経)
地水火風に依存している ← 色受想行識の仮和合。という観照法?
http://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm 上座部
第一禅定
ヴィタッカ(尋)
どこかへ飛んでいってしまう心の働きを → 呼吸(を観照することに)に戻してくる
(仏性そのもの ← に戻る帰る要素があります)
http://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/bitstream/10723/816/1/culture5_79-93.pdf チベットに伝わる心の訓練法
息を吐く時に自分の幸せを白い光の形で衆生に与え
息を吸う時には衆生の苦しみを黒い煙の形で受け取る。という観照法
http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html チベット・ニンマ派 トゥルシック・リンポチェ師匠
…まず空のように無限に存在する衆生たちは
自分の前世で一度は父であり、母であったことがあると想起します。という観照法?
http://www.j-theravada.net/3-jihi.html 生きとし生けるものに
光り輝いている仏性そのものが現れますように。という観照法
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m
>つか、いまだに覗いてて師匠に怒られんのかいな?w
wwwwwwwwwww
>>>382、>>387 は、『多分』、その通りだと思う。 (未達の者の類推でしかないから >>多分 )
あ! これか?!
・・・・という体験は、おそらく誰でも一度や二度はあるのでは?w
・・・・しかし、時が過ぎれば、「ありゃ何じゃったのか?」となるw
それを修行の一階梯とみるか? 単なる変性意識とみるか?
バカはそれを見性とみるww
たとえば
5ちゃんねる、とかの掲示板の
禅宗系のスレとかは
無明している
すべて一切の諸法も仏性そのものなので
『見性だっ!』という
(我癡・我見・我慢・我愛)増上慢の
野狐禅の人が(たくさん?)集まっているかもしれないけど
− これに対して −
(たぶん瑜伽行派系も含めて?)上座部系とかは
第一禅定〜第四禅定
空無辺処〜非想非非想処
そして非想非非想も超えて逝く。という段階があるので
禅宗系のスレの人と比べれば
上座部系の方が野狐禅の人は少ないかも?
ちなみに
おじゃるの場合は
(心の働きが)肯定的な効果をもたらす
変性意識状態(altered state of consciousness, ASC)でもよいと思いまつ
>>383 鬼婆師匠へ
>無我、無常、苦のどれか一つでも判れば悟りなんじゃよ!
おじゃるには↓難しくて意味が、わからないけど、とりあえず
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/09/27/175858
上座部系
刹那生滅
五蘊は生起するや否や、即刻壊滅します。故にそれらは無常です
(「現れ ← → 滅を、即刻、繰り返している」という意味でつか?)
因縁滅智によって
刹那滅智によって
(無明している、すべて一切の諸法を)余す所なく滅尽する事
→ 涅槃(ニルヴァーナ)
_ _ _
因縁滅智だけでもよい感じがするけど
上座部系の場合は?
「刹那滅智も必要である」ということなのでしょうか?
鬼婆師匠へ
ご教示願います ヨロ m(_ _)m >>400 >説一切有部や禅でも刹那生滅を主張してるな
たとえば
仮設としての
縁起している
すべて一切の諸法が
『現れ ← → 滅している』
刹那生滅している
縁起に依存して
地水火風空識に依存して
色受想行識の仮和合が現れて
そして
地水火風空識に分解して
最終的には
地水火風空識も滅して
https://www54.atwiki.jp/waikei2008/pages/22.html …滅に触れて…想滅定が生起する
みたいな感じでつね?
ご教示ありがとうございます アリガト m(_ _)m
>>398 >第一禅定〜第四禅定
>空無辺処〜非想非非想処
こういう禅定の種類って後から出来たドグマじゃないの?
本当にあるよ。
頭で考えて生みだした概念ではない。
八正道の正定が、つまりは禅定だから。
しかし、禅定はすでに超人法(人間の領域を超えた領域)の話なので、
できる人でも普通は口外しないと思う。
特に出家は戒律で禁じられてる。
2ちゃんだからたまたま運良く聞けてる、と思った方が正解。
>>405 瞑想すれば分かるよ。
瞑想しないと分からない。
仏教学者の先生方をコケにする気はないのだが、
経典を文字で読み進めるだけだと、人間的な常識で考えつく範囲の中でしか
正解をたどれないから、そういう風になるしかないと思う。
人間が人間の常識で考えたら、人間が納得できる結論しかでてこない。
悟りの智慧が、考えて分かるんだったら修行も瞑想も要らない。
悟りの智慧が、修行するまえの考えと同じなら、それもやっぱり修行も瞑想も要らない。
四無色等至を否定したというのは、それらがないという意味じゃなくて
それらは涅槃じゃないという意味でしょ。
うーん、瞑想は哲学じゃーないんですよ。
思考と意識は別もので、サマタ瞑想が成功している間は
思考してません。できません。
意識だけがある。
思考の枠組みから出られるんです。
でも哲学は思考です。
思考の枠組みから出られないんです。
>>406 そういう意味で言ってるんじゃないでしょ
禅定を分別するのは十二縁起と同じく釈迦の弟子によって付加されたものではないかということを問いてるのでは?
もちろん付加であろうが禅定を深めると殆どの人が同じような境地に至るのならその分別も十分な正当性はある
要するにスッタニパータやダンマパダやテーラガーターなどの最初期の仏典では禅定は分別されてなかったということ
でもあるいは釈迦入滅後の付加で誕生した概念であっても価値はあるということ
アーラーラ・カーラーマ 無所有処
ウッダカ・ラーマプッタ 非想非非想処
大智度論 仏教用語辞典
http://www.geocities.jp/tubamedou/Jiten/Jiten01.htm
九次第定
四禅、四無色定、滅尽定を合わせたもので、これらは順次習うものであるから九次第定という
青目(ピンガラ)の
注釈は間違ってるらしいけど、それでも、とりあえず
青目(ピンガラ)中論 觀法品 第十八
八聖道分を修習しながら
我と我所の因縁を滅すれば
無我や無我所という智慧を得るだろう
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html
中論 第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察
…
無明の停止は
止(サマタ禅定)と観(ヴィパッサナー智慧)を通して生じるのである
_ _ _
部分的には
上座部も大乗も同じような導きがある感じ? >>412 ありがとうございます!
お布施した際には412様にも廻向させて頂きます。
助かりました(^^)
lifeh ack2c h.livedoor.biz/archives/51675806.html
普通の人は自分の意思で色や音をカットできないってマジ?
>>405 このレビューは面白いな
中段の
主体を消せば客体も消えることが釈尊の悟りと考え〜こうした形でパーリ仏典は汚染されている
は正しい
どこまでも我がないとすると無色界禅定も無限後退に陥り非想非非想もそれをとらえている主体はなにかという矛盾が出てくるからだ
だから本当はデカルトの「我思う、故に我あり」が正しい
>>417 瞑想すれば我などないと実感したとしよう
ではそう実感した主体はなんなのか答えられる?
真理は言葉では表現できないから無記というのはなしね
主体は何か答えるだけでいい
>>418 意識と答える。
自我が生じる前の意識に、我とか彼とかはないし。
悟ったわけでもないので、それが最適解かと言われると
自分の分かる範囲の答えとしか。
阿羅漢果に悟る時に消える五上分結についても、慢(自他の区別)が
なくなるとは言っているが、慢が生じていた土俵は何だったのかということ。
涅槃は断滅論ではないので、無我も同様に断滅論ではない。
我が生じる前の状態を、我が想像しようとしても無理だと思う。
禅宗の老師が、まずは黙って座れというのを
昔はイラっとするエピソードだと思っていたのだけど、
それが一番早く答えに辿り着く方法だったのね、
というか、それ以外にないね。
>>420 意識というのは識蘊かな
それは無常であり苦であり無我であるもの
無常・苦・無我であるものをもって己の無我を実感してもその実感もまた無常・苦・無我である
そう言った無常なるものでは無我は観察できないとして結局は意識を完全に止める滅尽定(受想滅定)をもってして涅槃だとする
意識がないのに何故無我を観察することができるのかブッタゴーサにも説明はできなかったらしい
無我をもって無我を説く
仏教の持つ最大の矛盾の一つである
自他の区別は動物である以上あって当たり前
獣だって縄張りを持つし飢えれば他の動物を捕食するし異性に惹かれて恋のライバルを蹴落そうとする
>>422 >我が生じる前の状態を、我が想像しようとしても無理だと思う。
生物が高等になるにつれ脳が発達してきて我が生じた
無我を体験した感想ですが、無我がどんな感じかというと幻想を打ち破った状態という感じです。
自我は幻想だったんだなぁと。
そうして五蘊しか存在しないんだなということが感じられます。
なら、誰がそれを感じるのかというと、五蘊ですね。
そんな感じです。
たとえば
おじゃるは
無明に依存している
色受想行識の仮和合だけど
− これに対して −
(上座部も含めて?)
密教系とかの
地水火風空識の識は
大日如来の智慧の識で
この大日如来の智慧の識をもって
四神足の観神足
(大日如来の)智慧をもって
→ 依他起性している世界を観照していく
ちなみに、大日如来は
我所ではない・我でもない
>>426 「アッギヴェッサーナよ、これをどのように思うか。人間の肉体(色)は恒常であろうか無常であろうか。」
「無常です、大徳よ。」
「それでは、無常なものは、苦であろうか楽であろうか。」
「苦です、大徳よ。」
「それでは、無常であり、苦であり、変異するものを、これは我がものである、これは我である、これは我がアートマンである、ということは正しいであろうか。」
「いいえ、大徳よ。」
「アッギヴェッサーナよ、それではこれをどのように思うか。感覚(受)や思考(想)や意志(行)や意識(識)[などの人間の心の部分]は、恒常であろうか無常であろうか。」
「無常です、大徳よ。」
「それでは、無常なものは、苦であろうか楽であろうか。」
「苦です、大徳よ。」
「それでは、無常であり、苦であり、変異するものを、これは我がものである、これは我である、これは我がアートマンである、ということは正しいであろうか。」
「いいえ、大徳よ。」
(マッジマニカーヤ、35:20)
ということで五蘊は我がものではなく、我でもなく、我が本体(アートマン)でもない
それを我と見做せば我見という
我見とは無明のことである
756 見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし、<名称と形態>(個体)に執著している。「これこそ真実である」と考えている。
757 或ものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものは異なったものとなる。何となれば、その(愚者の)その(考え)は虚妄なのである。過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。
758 安らぎは虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理であると知る。かれらは実に真理をさとるが故に、快をむさぼることなく平安に帰しているのである。
(スッタニパータ)
五蘊は非我なるものであり五蘊を主体として無我を観じてもその観察も無常・苦・無我である
無我という観念自体が無我なのである
そして五蘊は非我であるとか無我であるとかとらえる主体は何かと考えてみるとデカルトの「我思う、故に我あり」が正しいのである
無我を以って無我を観じることはできない(無常・苦・無我であるが故)
瞑想中に自分の自我を観察したとか五蘊の働きを観察したというのなら観察した主体があるのである
>>428 うん、瞑想してないな。
自我が頭で考えた答えだ。
>五蘊の働きを観察したというのなら観察した主体がある
スッタニパータ
1026
無明が頭であると知れ
(大日如来の)智慧が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせる
1119
(大日如来の)智慧をもって
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って
無明している
すべて一切の諸法を『空性である』と観照せよ
21
わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが
(大日如来の)智慧をもって
激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している
もはや筏の必要はない
神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ
_ _ _
大日如来が大悲・大智によって → 衆生に応じる
衆生が ← 大日如来の大悲・大智を受け入れる
大日如来は
我所ではない・我でもない
>>429 瞑想はしているが例えば瞑想中の雑念(自我)は無我(非我)であるというのは、
経典などでそういう知識を知っているから瞑想中に湧いてきた雑念を無我と観るように言い聞かせている、
そういう自分に気づいているのでなw
>>430 あなたは真言宗ではなく五性格別を支持する唯識の方ではなかったのかな?
ご存知のように生命は無我が分からないから生死輪廻している。
反対に、無我を分かる時には、生命を超えているわけで、出世間の八正道の流れを感じることができる。
もう、生命を超えたなということが実感できる。
正直言うと、無我と共にある日常生活は、50%人間、50%非生命体で、私は人間卒業しかけだなというのを沸々と感じる。
>あなたは五性格別の唯識の方ではなかったのかな?
おじゃるは
仮設としての
無明の暗闇に覆われて
たとえば中観自立派とかの
「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である
それは、火自体の側にある固有の要素だ」
という自相(自性)を掴もうとしている想いが現れている
種子と現行の頼耶縁起を掴もうとしている想いが現れている
− これを対処するためには −
法界体性智の世界から観照して
仏性からの智慧と慈悲の真如縁起をもって
平等性智の世界から → 依他起性している世界を観照していく
ちなみに法界体性智は
「主体である」という想いではない
「主体ではない」という想いでもない
「想う」という想いも手放して
「想わない」という想いも手放して
非想非非想も超えている
依他起性している世界を超えている
こんな感じであるらしい?
{【《『「無我を観察する自己」を観察する自己』を観察するする自己》を観察する自己】を観察する自己}を観察する(以下延々と続く、何故なら無我だから
さあ瞑想している諸君
上記の矛盾に対してどう答えるのか
瞑想していれば答えが見つかるのだろう?
どうぞ答えてくれたまえ
誰が言ったんだったかな、昔聞いた言葉を思い出しちゃったよ
「われはある」の「われ」は結構あっさり消える
でも「ある」を消すのは難しい
長年瞑想しててもそれホント実感するよ
論理的には(仏法理論的にではなく)どうなれば消えるかは分かってるんだけどねえ
>>435 それ、頭で考えてるべ?
我が生じる前のことを、我が一生懸命考えてる状態。
>>437 だから君が瞑想で得た答えを示してみなさい
それができるのならなw
>>435 無我を体験した人で私の知ってる人は、
無我の最中は無我に気づかないって言ってたね
後からそう表現できることだと
私はまだその境地まで行ってないのでわかりまへん
我が生じる前の意識に我はないし、
我が主体だというなら、我が生じる前に主体はないよ。
上で言ったことを言い換えただけだけど、これ、何度言っても同じことの繰り返しにしかならんよ。
言葉は思考だから、思考の外のことは表現できないよ。
大海に生じる波が、波の中をくまなく見ても、大海はそこにないからね。
>>440 大嘘
離乳食前の赤ん坊ですら楽しい雰囲気を察すれば笑うしお腹がすいたら泣いてアピールする
それどころか胎児のころから我を有している
だから胎児教育が行われる
だいたいにして無我というのは我ができる前に退行することではない
>>441 それも嘘
仏陀もシャンカラも龍樹もマハリシもユクテスワもヨガナンダもみんなほとんどのことは言葉で表現している
>>444 答えになってない
>>435のような問題に対して聖者はちゃんと答えているのだからな
月を指す指で誤魔化すのならそれでもけっこう、君自身が月を指す指で
>>435を説明できる?
>>445 できる。
矛盾してない。
君が矛盾していると思い込んでいるのは、私の問題ではない。
そこはどうしようもない。
指導者でもないし。
自我が主体だという前提が、そもそも錯覚にもとづく勘違いなので、
問題を判断する前提が間違ってる。
そこをなんとかできるのは、思考じゃなくて、禅による慧。
地球が平らだと信じ込んでる学者先生に、地球が球体だと理解してもらうには
言葉であれこれ教えるより、ロケットに乗っけて重力圏の外に飛ばして、宇宙から
地球をまじまじと眺めてもらった方が早い。
百聞は一見にしかず。
マハリシとか、クリシュナムルティとか、龍樹の罪は、
あんまり綺麗な指を公開したもんだから、月をみることを忘れる人が続出してしまったこと
だと思ってる。
立派な先生の語り口が立派すぎるのも考え物。
>>447 無我を観察しているのは最終的に誰になるのか?
誰というのは、我とか彼が存在する認識の在り方が前提にあって
はじめて出てくる発想でしょ。
最終的な境地は分からないが、気づきが気づいてる。
観察が観察している。
働きそのものがあるだけ。
>>451 ほうそうか、なかなか面白い「思考」だw
自分の考えに自信があるのなら5chではなくまずSNSなどで発信したまえw
言葉で説明するということは、まずその前に思考する必要があるし、
聞いた言葉を介して理解するというのも同様。
それは月を指す指。
瞑想体験そのものが月。
>>451 >最終的な境地は分からないが、気づきが気づいてる。
>観察が観察している。
>働きそのものがあるだけ。
自分で何を言ってるか分かってないだろw
まあ、
そういう ブレナイ 所も御隠居の魅力ではあるけれどw
無我にある時、不思議な事が起こる。
それは、この世に誰一人もいなくなるということ。
現象だけが流れるのを観る。
体験した人なら共感してもらえるだろう。
>>435 「無我を観察する自己」じゃと?
バカたれ!鼻たれ!ションベンたれ!
無我は結論じゃろうが!無我が判れば悟りじゃろうが!
悟りを観察とはとはたいしたもんじゃ
で、お前さんの無我は居眠りのことか
>>460 黙って「聚思惟」で検索して出直してきなさいw
>>460 比丘たちよ、色(肉体)は無常である。無常であるから苦である。苦であるから無我である。
無我であるから、これはわが所有 ものにあらず、我にあらず、また、わが本体でもない。そのように正し智慧をもって如実に観察するがよいのである。
比丘たちよ、受(感覚)は無常である。・・・
比丘たちよ、想(表象)は無常である。・・・
比丘たちよ、行(意志)は無常である。・・・
比丘たちよ、識(意識)は無常である。無常であるから苦である。苦であるから無我である。
無我であるから、これはわが所有にあらず、我にあらず、また、わが本体でもない。そのように、正しき智慧をもって如実に観察するのがよいのである。
このような観察の勧めを仏陀は説いていたのだが(経典では)
で、その観察をしているのは誰かということを今は争点としている
>>462 自我とは「私」という実感の事です。
私という実感は無くても観察は出来ます。
五蘊には機能として備わっています。
無我を体得するとは、私という実感、つまり幻想を破るという事です。
つまり、観察しているのは、私ではなく、五蘊だという事です。
>>463 ヴィパッサナー瞑想で分かります。
ヴィパッサナー瞑想で、観察するのもは勝義諦です。
つまり、本当に存在するもの。
言い換えれば、ヴィパッサナーでは究極の真実を観ていくわけです。
実際にやって見ると、そこにあるのは、心、心所、色だけで、自我はどこにもありませんでしたという結果に達します。
勝義諦を観察して、無常・苦・無我の真理を発見するのです。
そうして自我、つまり私という実感は錯覚でしたということに行き着くわけです。
それで、完全に私という幻想を滅したら生命は卒業です。
「私」の無い生命は、生命の資格を失います。
無我と忘我を混同しないよう注意が必要です。
無我(アナッター)は無我夢中の無我とは無関係です。
無我だからといって認識機能がないわけでは無いのです。
何度も言いますが、「私という実感」この幻想を破った状態を無我というのです。
>>464 >私という実感は無くても観察は出来ます。
>五蘊には機能として備わっています。
>>462 >無我であるから、これはわが所有にあらず、我にあらず、また、わが本体でもない。そのように、正しき智慧をもって如実に観察するのがよいのである。
ほう、この正しき智慧を持って如実に観察している主体は五蘊であると?
>無我であるから、これはわが所有にあらず、我にあらず、また、わが本体でもない。そのように、正しき智慧をもって如実に観察するのがよいのである。
(五蘊は悉く)無我であるから、これ(五蘊)はわが所有にあらず、我にあらず、また、わが本体でもない。そのように、正しき智慧をもって如実に観察するのがよいのである。
五蘊が無我であるという観察を無我である五蘊でするんだ!(◎_◎;)
>>466 >何度も言いますが、「私という実感」この幻想を破った状態を無我というのです。
幻想を打ち破っているのは誰なのかな?
>>469 誰もいませんよ。
初めから誰もいません。
「私という実感」は幻想です。
あなたもわたしも、そもそも「誰」ですらないのです。
現象の流れがあるだけです。
>>470 じゃあ無我という実感や観察も幻想ということだね
>>470 >初めから誰もいません。
>「私という実感」は幻想です。
これを幻想ととらえているのは誰なのかな?
問い自体に主客分離が入っちゃってるから誰でも回答不能と思われ
>>472 とらえているのは五蘊です。
五蘊と自我が一緒くたになっているのが普通の生命です。
自我が無い状態は、想像すらできないでしょう。
>>465 >そうして自我、つまり私という実感は錯覚でしたということに行き着くわけです。
現実の立脚点にたてば、『私という実感は錯覚でした』という感覚自体が
錯覚に他ならない。
幾ら言う所の「悟った境地」に居たろうともこの現実は何ひとつ変わらない
のだよ。
よって、その『私という実感は錯覚でした』の境地に留まっていてはならない。
>>475 >『私という実感は錯覚でした』の境地に留まっていてはならない。
ご心配なく。
その境地には『留まる』という要素はありません。
もはや『誰が何かをする』に属しませんので。
>>476 >もはや『誰が何かをする』に属しませんので。
それもまた貴方の錯覚w
結局、その事実は何も変わってないけど、視点というか、
立脚点が異なるだけでしょ。
要するにこういう事です。
車を分解してみたらどこにも車の"本質"は無かった。
車は部品の集まりで、車という働きをする現象だけでした。
同様に私を分解してみたら、あったのはナーマとルーパ(精神と物質の流れ)だけでした。あったのは車と同様に部品だけでした。
どこにも私の本質である自我や魂はありませんでした。私という名を付けられた現象があるだけでした。
ということです。
「私には自我がある。だから私には自我が分かる。」
というのは間違いです。
魚は一度陸に上がらなければ、水の存在を知る事は困難です。それと同様、自我を本当に理解するには、一度無我を体験する必要が出てきます。
「私は自我を知っている」と思うから、色々な誤解や無意味な思考ループが発生するのです。
無我が分からないなら、自我も本当の所は分かっていないと覚えておいて下さい。
頭の良し悪しじゃないからね。
明晰な論理思考を極めても、月は見えない。
指をはっきりみたり、指を分析することはできるけど。
「父母未生以前の本来の面目如何」
禅宗の方法論には詳しくないけれども、きっと、
これにどう回答するかで、禅の進み具合が測れるでしょう。
>>479 では、この点を説明して下さい。
>私の本質である自我や魂はありませんでした。
>私という名を付けられた現象があるだけでした。
その事を自覚認識した今の自分は「私という名を付けられた現象」ではなく、
私の自我であり魂ではないのでしょうか?
>>479 君のその思考もまた錯覚ですw
>>480 それも錯覚ですww
「余の辞書には錯覚という言葉しかない」
ナポレオン・ボナパルト
・思考を通して生みだされた概念を言葉で述べた場合
・観察によって洞察された事象を言葉で述べた場合
前者は、自我が自我の中に生みだした概念。
後者は、自我が生まれる土壌が、自我が生みだされている事象を観察し、それを言語化している。
言語化した時点で、概念も観察結果(事象)も、
言語と思考という同じ土俵に乗せることになる。
「地球は丸い」と考えて、「地球は丸い」と述べたのか。
「地球は丸い」と観察して、「地球は丸い」と述べたのか。
前者は唯の思考概念だが、後者は観察結果を述べている。
どちらも言語を介して思考される。
従って、観察しない人にとっては、区別がつかないだろう。
>>483 無我にある時、「私」を失います。
「私」を失った時、残っているのは五蘊のみです。
(五蘊とはつまり、精神と物質の流れのことです。)
単純な原理ですが、生命には理解できないようになっています。
なぜなら一切の生命は「私」を前提に存在しているからです。
「私」を失うとは、生命ではなくなるという事です。
だから、「私」を失った時、生死輪廻からの解脱が起こるわけです。
お釈迦様のダンマは、生命が、生命を超えるためにあるのですね。
>>490 お前は帰納法と演繹法とを知らんのか?
古代ギリシャ人が何故地球が丸いことを発見したかというとな…
ってか
>>490のその思考も君の自我が生み出した錯覚だけどなw
>>491 お釈迦様のダンマは五蘊は無我(非我)です
しかしそのダンマも錯覚ですw
>>491 なるほど。頭の中では納得しました。
お教え下さってどうも有難う。
>>492-493 結局、仏教は間違ってるという主張がしたいの?
(無我で無我を説明とは矛盾である、等)
もしも悟りが思考の産物なら、瞑想する必要はぜんぜんないよ。
机に向かって書物を読み、思考するだけでいい。
あるいは、ブッダは正しかったが仏典は改竄されてるのだ、
そして現代の仏教徒は、改竄された経典を奉じていると、
そういう主張がしたいのかな。
経典に書かれているのは文字だよ。言葉。
月を指す指。
瞑想は月の観察。
科学的姿勢の基本とは、理論+観察による確認でしょう。
瞑想は名色の観察なんですよ。
文献学的に経典を分析して、経典は改竄されているけど、ブッダは
正しく悟っていたはずだ、と。
そして、自分はブッダの悟りを理解していて、経典の間違いを指摘
できるぞと。
思考を通して悟りを理解しているぞ、と。
ブッダってやつは、なかなか理性的だったもんだ。
おれはそれが分かってるぞ、と。
こういうわけでしょ?
哲学としての仏教
思考の延長にでてくる結論としての悟り
それが悟りなんだ。
ブッダが到達した境地なんだ
(おれはそれが分かってるぞ)
(瞑想している仏教徒は分からんだろうがな)
と、こういうことだよね?
>>495-499の一連のレスは個人の思考が生み出した錯覚を綴っているだけですw
思考とは「自分はこのように考えた」ということじゃな
そんなもんはアホの妄想なんじゃから仏教は哲学者も思想家も相手にせん
アホがゴヤゴチャ妄想(思考)したところでロクなものしか出てこんからな
一切の思考を排除して観察して発見するのが瞑想じゃ
>>501 それは貴方の思考が生み出した妄想、錯覚!!
余談ですが、私は今までに四八方の宗派や会社バラバラの霊媒師や占い師にあたってきましたが、そ
の人々は邪神不動明王やシヴァ、阿含宗や桐山に非常にだまされやすい!あなた方が吹き込まれて悪だと思ってるものは
善人で不動明王(シヴァ)などが実は本当の古代から続いてる古代から騙してる悪なのです。釈迦達、アマテラス、マリアもこれにだまされてる。善人のほうの邪魔他をしている。
よく東洋系の不動や阿含宗や桐山の術を見破るものを同伴させること。
その洗脳をさっさとどけ、自主的によくよく弁償してくること。そして不動や阿含宗や桐山こそいみきらい何万年分
も弁償とって抹消する対象とすること。
さもなくば強制的に3倍〜7倍ぐらい弁償を取られてひどい目にあい抹消されるでしょう。
>>503 すまんが、言ってる事が良くわからない。
文章を推敲しなおして、初めて読む人に明確に意図が伝わるよう、
改めてうpしてほしい。
瞑想は毎日続けなければだめ?悟った人以外はやめたら元通り?
生きること自体を瞑想化せねばならぬということ?
動中の工夫やね
しかし道中もなかなかそれっぽい響きですな
失礼、動中の工夫でしたw
しかし 道中の工夫 でもちゃんとそのまんまでヒットするw
>>506 どうもです、あとで読んでみます。
仏教と断捨離やミニマル的なものって親和性が高いように思うのだけど、いきすぎると「端から拒絶する」みたいな態度になりませんか?
端から期待しないことは諦めの肯定かもしれないが、可能性の否定ではない
シンプルに必要最低限って生き方はそれはそれで素晴らしいと思うのだけど、なかには単に面倒なのは御免みたいな人もいる
出合う前から出合いを避けるような生き方は違うのではないか?
最近そのようなことをよく考える
世の中が便利になって
調べりゃなんでもわかるし
シュミレーションもできるし
無駄な幻想を抱かなくなったんだろう
「○○だから○○しない」は正しい生き方だけど「どうせ○○だから○○しない」は違いますよね
こういう時代だとそれらをごっちゃに考える人が増える気がする
自分も少しそっちに行きかけてたので書いてみた
>>511 少子化が心配です
>いきすぎると「端から拒絶する」みたいな態度になりませんか?
↓(無明に依存している)思いの手放し?
スッタニパータ
1026
無明が頭であると知れ
仏性からの智慧が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせる
1119
つねによく気をつけ
仏性からの智慧をもって
自我に固執する見解をうち破って
無明している
すべて一切の諸法を『空性である』と観照せよ
21
わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが
仏性からの智慧をもって
激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している
http://junsoyo.on.coocan.jp/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm 曹洞宗 内山興正
…何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって
何ものをもつかまないでいることです
(無明に依存している)思いの手放しです
実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし(無明に依存している)思いがそれを
つかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう
>>513の続き
なぜ、(無明に依存している)思いの手放しが必要なのか?その理由は
無明の暗闇に覆われて
無明に依存して
渇愛(タンハー)が現れて
誤ったあり方を掴んで離さないような固執も現れて
(それ自体、単独で成立している色受想行識は)存在しないにも関わらず
(それ自体、単独で成立している色受想行識が)有ると思う虚妄の執著である
遍計所執性に依存して
依他起性を(正しく)見ることができない
− これを対処するために −
(無明に依存している)思いを手放して
円成実性の世界から
平等性智の智慧と慈悲をもって → 依他起性している世界を観照する
(円成実性は − 主体でもない・客体でもない)
http://www.nhk.or.jp/special/stress/02.html マインドフルネス
…何か雑念が出てきたことに気づいても
その辺りに漂わせておくようにして自然に消えていくのを見届けます
道元禅師 普勧坐禅儀
(無明に依存している)
心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて…
無明に依存している
色受想行識の仮和合
無明している世界を手放しする、その為に
「想う」という想いも手放し
「想わない」という想いも手放し
非想非非想も超えて
滅に触れて想滅定が生起して
余念を交えず、ただひたすら只管打坐(しかんたざ)
http://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html …さらに無の世界も超えて
移り行く世界の様を
仏性の世界から
平等性智の智慧と慈悲によって
ありのまま見つめている
生きとし生けるものに
光り輝いている
仏性からの
智慧と慈悲が現れますように
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m
桐山及び阿含宗は悪い方向へ行ってしまったとの情報を得てるのでダメだが原始仏教である阿含経の7科37道品は
具体的にたとえばここで足に縄をつけてファンジージャンプ見たく飛び降りるとか、ここでは心による行そくを具体的にはどう覚智
するのかなどを早く解明したほうがいい。阿含宗も完全には解明できてないんではないかと思う。
そしてネットなどでも載せ、コースももうけることが大事。密教では金剛界の曼荼羅に37に分けた絵をのせてそれを観想するだけ
になってしまっており具体的な修行をやっておらず本当の力や悟りがひらけない。やれるようになると密教の苦行してきた坊さんよりも
何倍もの、いやもっと?力がつくし本当の悟りがえられるだろう。その阿含教をやったところからは密教の方法をとると本当に力
を発揮する。ただし不動はやはり悪いほうへいってしまい上神仏界では抹消対象となってるので唱えないほうがいい。
そこは降三世明王などに変える必要がある。また阿含教をやって悟ると、悟りはえられるかもしれないが、後でこんなことをやりたい
と俗世間的なものごとをやろうとしたときまったくやれなくなってしまう。これ自体には当の釈迦さえも悩んでいる。
だから、引き出しを分けるなどしてそこに煩悩はやすとか、新たな改良が必要。両立できるようになんとかしたい。
たとえば、西洋は文明、東洋は無文明(どちらかといえば)にわかれてしまってるがこれも両立したい。
瞑想していて不思議な体験をした人います?
たとえば霊が出てきたとか(妄想でもいいんですが)
>瞑想していて不思議な体験をした人います?
瞑想ではなくて
小学四年生の時に
トランシーバー(無線機)に意識を集中していたら
『落武者の霊を見た』ことがある
日常的な意識状態以外の
変性意識状態(altered state of consciousness, ASC)みたいな?
兄が自宅で待機して
トランシーバー(無線機)の電波が何処まで届くのか?
小学四年生の時に
おじゃるが自宅の周辺を歩きまわっていた
ちなみに
おじゃるは
輪廻肯定派
幽霊も肯定派
変性意識状態も肯定派で おじゃる
最初の座禅からいきなり魔境だ
白い光が見えるわ、光輝く仏像が見えるわで終わった後に腹を抱えて爆笑した
いかなり魔境なんだもん
だったと書いたんだけど、消えていた
過去の話であって、最近の話じゃない
>>519 大乗の文脈では魔鏡だけど、テーラワーダ的に光はニミッタと言って、禅定に入るのに不可欠であるので、それがすぐ見えたというのは、あなたには瞑想の才能があるのでは?
>>517 恐ろしいほどの快感と全能感に突如おそわれて、自分は完全に悟ったと誤解した事があります。
あまりに強い感情はやっぱり毒でした。その後だいぶたちますが、未だに瞑想するとその時の心理状態を再現しようと思ってしまいます。
まあそれも人情っすね。
>>523 なかなかすごい体験でしたね
やはりサマディ瞑想ですか?
ヴィパッサナー瞑想ではそんな経験は無理ですよね
自分も瞑想がうまく行って?精神統一された時に色々と幻覚が見えたけど、
俺は何度も手術をしてICUでペンタジンとかのオピオイド系医療麻薬を打たれて幻覚を見てきた、
その幻覚と瞑想で見えた幻覚はたまたまか知らないけど世界観がよく似ていたのでICUの体験を思い出して幻覚から覚めたしその時の瞑想もそこでやめた
>>524 いつもより長めのヴィパッサナーのあと、さて寝るかとベッドでボーッとしてたら突然きた感じです。
セロトニン系の抗うつ剤飲み始めて四日目ぐらいでだったんで多分その影響かと。
ちょっと違う経験なんだが
以前、瞑想の合宿で霊の見える学生と知り合った
子供の時から普通に霊が見えていて、
その母親も霊感があるらしいのでそういう家系らしい
まじめで理性的で外見はいたって普通の好青年
ただ、その能力を他人に語ることはめったになかったらしい
自分はこのような分野に興味はあったが、
今までの人生で霊感やオカルト能力のある人物に出会ったことがなかった
それで、彼に頼んで自分の背後に何が見えるか見てもらった
どんな素敵な守護霊がついているかワクワクした
ところが彼が見たのは自分の左肩に立つ着物を着た女性だった
しかしその顔の表情は普通ではなく、不気味な感じがするとかなり細かく描写してくれた
心臓がドキッととした
なぜなら数年前から左肩の下の肩甲骨のあたりにしこったような重苦しさを感じていたからだ
マッサージなどもしたが重苦しさは解消しなかった
彼の語るにはその女性あまりよくない死に方をしたらしい
それで何かの縁でいまの自分についてるらしい
それで、当然その晩は一睡もできなかった(考えるだけで気味が悪くて)
それからはその後ろの女性を何とかしなければ(成仏?浄霊?)と悪戦苦闘、奮闘努力の日々だった
ちなみに、この話は自分が実際に体験した実話だよ
一応仏教徒だから嘘や脚色はない
何か質問がある人は訊いてくれ、できる限り答えるから
それでは話を続ける
その大学生とは気が合い、その後も頻繁に合うこととなった
彼も自分の能力に真面目に関心を持ってくれる人に出会えて嬉しかったようだった
二人で神社、仏閣、講習会などに行って実験や研究をした(その時の体験はまた後で話す)
さて、自分の後ろにいる(憑依?)女の霊についてだが
当然、彼に「後ろの彼女、なんとかならないか」と助けを求めたのは言うまでもない
しかし当時の彼は霊を見るのと会話はできたが、
修行をしたりテクニックを学んだことがなく、対処法も力もなくどうにもならなかった
彼と会うたびに開口一番が「今日も相変わらず彼女はいるか?」だった
そして彼は笑いながら「ええ、いますよ、いつもどうりに」と答えた
しかし笑い事ではなかった
深夜などにふと後ろの彼女のことを考えると薄気味悪く、気分が悪くなった
何とかしなくては、このままでは夜も落ち着いて安眠できないぞ、と焦る気持ちばかりが募った
そこで、
それで自称霊能者や坊さんやヒーラーなどのところに行ってみた
そしてそのような人のところに行った後は必ず大学生の彼に結果を見てもらった
(彼は自分に直接会わなくても電話で話すだけで霊視できた)
しかしどれも効果はなかった
彼女は相変わらず同じ表情で自分の後ろにいた
そもそも大学生より詳しく霊視したり状況を分析できる人は誰もいなく、
能力は彼のがはるかに上だった
ある時、密教の坊さんに修法を受けた
そのあと、彼に会っていつものように自分の背後を見てもらった
彼が語るには「彼女はいるけど今日は黄金色の光に包まれている」
「そして坊さんが一生懸命祈ってる姿が見える」
「その坊さんは良い人で良いパワーはあるが、成仏させるだけの力はない」
彼には事前に誰に会って何をしてもらったかを言ってはいなかった
だから彼の能力に改めて驚かされた
その他にもいろいろなエピソードがあることはある
(知りたければ書くが)
そしてそんな気分の晴れない日々に終止符を打つ出来事が起きた
+ +
∧_∧ +
(0゜・∀・) ワクワクテカテカ
(0゜∪ ∪ +
と__)__) +
色即是空は正しいが空即是色は間違いです
なんて言ってたスマナサーラは煩悩即菩提という言葉に「煩悩と悟りは等しくありません、相反するものです」と言っちゃったりするのだろうか?
心は光り輝いている。ただ、外来のもろもろの煩悩によって汚れている
たとえば
大乗は
心は光り輝いている(仏性そのもの)
何であれ依存的に生じたものは
滅に触れて想滅定が生起して
心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて
余念を交えず、ただひたすら只管打坐
仏性そのもの
_ _ _
上座部系は
http://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.anapana.htm
(仏性そのもの)
智慧の光
体を包むようなかたちで、光が現れてきます
http://www.j-theravada.net/3-jihi.html
生きとし生けるものに
光り輝いている
仏性そのもの
智慧も慈悲も現れますように
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m この体験談の結末を語る前に一つ話しておきたいことがある
それは自分と彼とで行った実験と研究のことである
テーマは「神霊は実際に存在するのか?神界や仏界、幽界など実在するのか?」であった
たしかに彼は人の霊なら普通に見たり会話ができた
たとえば、ときどき交通事故で誰かが亡くなり、
その道路の脇にその人の友人や仲間が供えた花や飲み物などが見かける事があると思うが
彼ならその人が亡くなった正確の位置を指摘できた
また亡くなった霊がまだその場にいたケースもあった
「そこじゃなく1m右のところにまだいますよ」などと
そんな時は彼が霊に語りかけ、説得して行くべきの世界に導くことができた
霊も強い執着がなければ素直に従ったようだ
(ちなみに自分についている女の霊は強い因縁と執念のためか彼の説得は通用しなかったが)
そんなわけで彼とのいろいろな体験を通して人霊に関しては実在の確信が持てた
しかし神社仏閣に祭られている神や龍などは本当に実在するのかは謎だった
それを確かめるために何度も彼と深夜に神社や寺に行ってみた
そして、
大乗は
仏性そのものなので
苦集滅道ではない(無苦集滅道)
_ _ _
上座部系は
無明している世界から解脱しましょう
↓
苦集滅道
(大乗の)中論
第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察
(暗闇に覆われている無明から解脱するためには?)
無明の停止は
止(サマタ禅定)と観(ヴィパッサナー智慧)を通して生じる
http://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
第一禅定
ヴィタッカ(尋)
どこかへ飛んでいってしまう心の働きを呼吸の観照に ← 戻す要素があります
(仏性そのもの ← に戻す要素があります)
第一禅定〜第四禅定
空無辺処〜非想非非想処
想滅定
http://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
さらに無の世界も超えて
移り行く世界の様を
平等性智をもって
ありのまま見つめている
準提功徳衆、寂静にして心常に誦すれば、一切諸々の大難、よくこの人を犯すこと無し
天上及び人間、福を受くること仏の如く等し、この如意珠に遇はば、定んで無等等を得ん m(_ _)m ID:/1yM4sat氏と、おじゃるは別人だけど
とりあえず
>>535の続きとして
http://reigaku.jugem.jp/?eid=424 瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)
瑜伽師地論(ゆがしじろん)
仮設としての
無明している世界の中で
縁起に依存して
我愛と戯論と善悪業により
地水火風空識の微粒子の密集に依存して
中有を形成する
トゥルパ
マナス(意、心)が成した身体(マノマヤカーヤ;意成身)
シパ・バルドゥ 再生へ向かう迷いの中有
無明に依存して
霊が現れる場合もある
ということでよいんジャマイカ?
>>536 照見五蘊皆空 度一切苦厄
の後の
無苦集滅道
でしょ
>>538 ご教示ありがとうございます
スッタニパータ
1026
無明が頭であると知れ
仏性からの智慧と慈悲をもって
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせる
1119
つねによく気をつけ
仏性からの智慧と慈悲をもって
自我に固執する見解をうち破って
無明している
すべて一切の諸法を『空性である』と観照して
>照見五蘊皆空 度一切苦厄の後の
21
わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが
仏性からの智慧と慈悲をもって
激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html (大乗の)般若経の解説
変化する世界のすばらしさ、世界のすべてとともに現象する喜び、空の力への感嘆
そして我執は消え、みずから苦を創り出していた自分の愚かさに気づく
しかし
無明している世界の中では
『解脱すれば仏だ』ということに
気づくまでは、気づくことは難しい
ノウボ・サッタナン・サンミャクサンボダ・クチナン・タニヤタ
・オン・シャレイ・シュレイ・ジュンテイ・ソワカ m(_ _)m
原始の仏教では漁師は殺生に関わってるから解脱は不可能とされていますが
その代わり禅仏教では可能ですか
上座部系の方が良いと思うけど、とりあえず
大乗の禅
禅の根元は仏性にある
智慧(と慈悲)
戒律・禅定・智慧
布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧
坐禅することによって釈尊の悟りを直接体験する(不立文字)
仏性そのもの
仮設としての
無明している世界の中の
すべて一切の諸法を
手放していく
http://junsoyo.on.coocan.jp/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm 曹洞宗 内山興正 思い手放し
…ところが今
(無明している世界の中の)
その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって
何ものをもつかまないでいることです
すなわち思いの手放しです
実際には
(無明している世界の中の)
何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし思いが
(無明している世界の中の)
それをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう
たとえば
おじゃるの場合は
無始からの(輪廻を繰り返して)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている
無明薫習に依存しているので
おじゃるには
只管打坐は無理だけど
ID:7otcii8B氏には
上座部系も
大乗の禅宗系も
実践できるかもしれないので
実践してみては?
そして
ID:7otcii8B氏本人が
実践して
無明している世界の中から
解脱できるのか?
試してみては?
苦集滅道なのか?無苦集滅道なのか?と…
http://www.onedhamma.com/?p=5136
このリンク先に
どのように無明から解脱できるのか?という
上座部系と、大乗の禅宗系の
説明のpodcast法話があるので参照 ヨロ m(_ _)m
_ _ _
_ _ _
>>397 >バカはそれを見性とみる
http://www.onedhamma.com/?p=6494
18/02/04
エゴを瞑想の中に忍び込ませないために
柳田敏洋神父との対談を終えて
このpodcast法話を参照 ヨロ m(_ _)m
仮設としての
無明に依存している
我癡・我見・我慢・我愛に依存している
野狐禅
なんちゃって覚者タソ サマタは今から思うと色々あったな
幻視はないけど幻聴が結構あった あれを体験するとそりゃUFO でもおばけでも見えるわなって感じ
謎の全身の痛みで歩けなくなるわ 横隔膜のみ激痛が走ったり
相当体が抵抗してた感じ
ヴィパサナでは一回だけ幻聴があったな
>>479 俺は言ってることがよく分かるよ 去年わかった
自分の核とか自由意志を持った中心本体がこの意識 自分だと議論の余地なく実感しているんだよね 普通は
ヴィパサナで超瞬間の認識の過程を観たとき この意識ってただの機能で中心でも何でも無いとわかった
無我とか非我とか自我とか関係ない ただの機能だ
瞑想深まると世界に一人ぽっちって感じで孤独感が凄いんだがそういう人いる?
いっぱいいるはず。
はやくそのステージを突き抜けるべきだと思う。
個々人の五蘊に生じている自我は、最初から最後までずっと孤独でしょ。
あなたは突き抜けてるの?
どうやって突き抜けるの?
教えてくださいませ。
坐禅の最中に、瞬間的に突き抜けたことはありますけど。
それも座っている間だけ、しかも突き抜けた間だけでしたね。
まだまだ修行は始まったばかりです。
教えは、ブッダがとうに全部教えて下さってると思いますが。
(続きです)
二人で最初に行ったのは家の近くの小さなの神社(江古田)だった
深夜に行った理由は神社に向かって会話をする姿を人に見られたくなかったからだ
ちなみに霊との対話実験には2つのパターンがあった
一つは彼が霊とコンタクトを取って通訳となるパターン
私の質問を彼が霊に伝え、霊の返答を彼が言葉で私に逐次伝える
もう一つは彼が自分の中に霊を降ろし、私が彼を通してダイレクトに霊と対話するパターン
対話の内容がややこしかったり、複雑だった場合はこの方法手っ取り早かった
なおこの場合、時折テレビで見る恐山のイタコのような芝居がかった様子も曖昧さも一切ない
それで彼が神社の祭壇に向かって無言で問いかけた
すると一人の神霊がコンタクトしてきた
その神社の祭神はスサノオノミコトである
しかし現れたのは人霊(神霊?)であった
「どなたですか?」と尋ねると生前の名前を名乗ったから、おそらく人霊であろう
たしか○○介か、○○兵衛みたいな名前だったと思うが記憶が定かでない
ただ口調からかなり昔の時代の素朴な人物だと思う
さらに「ここで何をしているのですか?」と尋ねてみた
するとその神霊はこう答えた
「私はこの神社において、お参りに来る人々に対してその願いが叶うようにと念じ修法を行っています」
「そしてそうすることが自分の役割であり修業なのです」と
その他、神界の仕組みなどについて尋ねてみたが
「自分には難しいことはわからないもっと上の方に訊いてください」とすまなそうに答えた
さほど高い次元ではないが真面目に精進している神霊であった
我々は「ごくろうさまです」と言ってその神霊との対話を終えた
次は少し立派な氷川神社(沼袋)に行ってみた
ところが、
>>551 タイやビルマやミャンマーで出家すればサンガいう僧侶の集団に属することができるので一人ではなくなる
それができない場合は「犀の角のようにただ独り歩め」
出家ができるような、つまり八正道に命を掛けられるような恵まれた心意気があるなら
是非そうすればいいと思うけれども、在家であっても、要するに24時間、寝ている時以外は
ずっと戒律のなかに居続けて、24時間ずっと正念を保ち続けていられるか、ってことじゃないの。
(わいが言うのもナニですけどね)
仕事をしなきゃいけないなら、仕事がそのまま戒律を守ることになっているか。
生活をしなきゃいけないなら、生活がそのまま戒律を守ることになっているか。
正念、正定についても同じじゃないかな。
テーラワーダの教えは非我ではなく無我である
ヴィパッサナ瞑想というのは主客分離の瞑想であり我をもって無我を観ずるという矛盾をはらんでいるので涅槃寂静に辿り着くことはできない
うーん。そういう話しは理念の先走りというかなんというか。結局自分で気づいたことがすべてじゃない?って思っちゃうんだけど。
なんでテーラワーダとかヴィパッサナーの違いが大事なんだろ。
>>560 その気づく自分というのはヴィパッサナ瞑想をどこまでも深めて行っても残るものだろう
じゃなければ気づけないからな
我が残っている状態で無我という智慧を得るというのは矛盾している
この矛盾はヴィパッサナ瞑想しても解決はできないだろう
前述のように気づく、観察する自分というものと観察対象とで主客分離されるのがヴィパッサナだから
テーラワーダの無我論ではなくスッタニパータの非我論なら上記の矛盾はない
無我というのは無理がある思想だろう(アートマン云々ではなく禅のように無念無想に浸るのが無我というのならまだ分かるが
これらは思考であって瞑想で観察された事実ではないと言う人には無我論の方がむしろ思考だと言い返せるであろう
ヨガにも内察という自己観察の瞑想があるがこちらは我を非我の形から観るものだしな
唯識の瑜伽行で観察されたのはテーラワーダにはない末那識や阿頼耶識という潜在意識だ
瞑想で観察された事実などというのは個々のものであり客観的でも普遍的でもない
地球が丸いのを観察するのとは違うのである
>>560 >なんでテーラワーダとかヴィパッサナーの違いが大事なんだろ。
スマナサーラさんの本を読んだら「テーラワーダというのは一神教やヒンドゥー教や大乗仏教とは違って科学的な教えなのです」と他との違いを強弁していたよ
まだ非我とか言ってる人がいるのか、中村先生の影響は尾を引くな。
非我とは「我ではない」という意味だが、それだと我を認めることになる。
それでは仏教ではないんだよ。
現代仏教学では「非我論」は否定されつつある。
これはね、教理の理解度ではないんだ、もう個人の願望なんだよ。
(我は有って欲しい)というね。
>主客分離されるのがヴィパッサナ
途中経過しか見ていない。
ここは上座部スレであって大乗がイチャモンをつけに来る所ではない。
>>563 >現代仏教学では「非我論」は否定されつつある。
ほう、その否定されているソースを上げてみてください
>>564 別にイチャモンじゃなくて確信に近い疑問を投げかけただけ
涅槃に達すると何故か主客の分離はなくなる?
どういうプロセスでだかちゃんと説明されてたっけ?
あ、涅槃に達すると主客の分離はなくなるものなんだーという信仰、願望では駄目だよ
>>562 あっなるほど。テーラワーダでもイスラム教でも幸福の科学でも、どれを信じたらいいのか前もって知るために〇〇論が必要なのかな? もしくは知らせてあげるためか。納得しないと実践する気しないもんね。
しかし、仏教の本はいくらか読んだことあるけど、書いてあることを一部でも実感したのは瞑想するようになってからだったな。何も知らないでただ座ってた方が、思い込みが無い分マシだったかもしれないと今は思う。
>>561 五蓋が自己だという認識は錯覚による誤解。
三昧に入ってる時は、五蓋が消えているので、五蓋としての自己はない。
また、無我と非我については、たとえば自我を構成するパーツが10あるとして、
1つ1つのパーツすべてが非我なら、10のパーツすべてが非我なので、
最終的に自我は無我という結論になる。
プロセスでみるなら、非我は過程で、無我は結論。
ヒンドゥー教のヨギでも、仏教徒の禅僧でも、テラワダの僧でも
心が三昧に至るメカニズムは同じ。
三昧に入ったら、いろいろ分かる。
自我が無我について思考しても、絶対に答えには到達できない。
仏教なら禅で禅定に入ること。
名前は知らないが、ヨガにも、禅定に相当する同じものが説かれているはず。
そこで我があるのかどうか、確かめればいいだけのこと。
議論で答えが出る問題じゃない。
ラマナ・マハルシは、自らが真我であるのに真我であると気づいていないことを、不可思議の中の不可思議と表現している。
>>567 いわば二元対立というものがあるならば、
その場合、一方が他方を見る。その場合、一方が他方を嗅ぐ。
その場合、一方が他方を味わう。その場合、一方が他方に語る。
その場合、一方が他方を聞く。その場合、一方が他方を考える。
その場合、一方が他方に触れる。その場合、一方が他方を認識する。
しかし、人にとってすべてがアートマンそのものとなったとき、
彼は何によって何を見るのであろうか。彼は何によって何を嗅ぐのであろうか。
彼は何によって何を味わうのであろうか。彼は何によって何を語るのであろうか。
彼は何によって何を聞くのであろうか。彼は何によって何を考えるのであろうか。
彼は何によって何を触れるのであろうか。彼は何によって何を認識するのであろうか。
この世の万物がそれによって認識するその当の本体を、人は何によって認識できるのか。
この『非らず。非らず』(neti neti) という(ことばでのみ表される)アートマンは
捉えることができない。捉えられないから。
壊れることがない。壊されないから。
こだわりがない。こだわらないから。
つながれず、動揺せず、損なわれない。
ああ、認識の主体を何によって認識することができようか。
(ヤージュニャヴァルキヤ)
http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/yajnav.htm
バラモン教では逆に、非らず、非らず、でアートマンの実在を表現しようとしているな
>>568 でなくて主客分離されたヴィパッサナーで無我の観察が本当にできのるかを今論じているのでしょうに
そしてまず興奮してレス連投する前にヴィパッサナーは三昧とは違うことを思い出そうね
で、ヴィパッサナーの瞬間定においては主客融合するのだろうか?
融合するのなら我をもって無我を観るという矛盾はなくなる
主客融合したものを我と呼ぶのか無我と呼ぶのかまでは知らないが
思弁を凝らしている暇があるのなら瞑想して観察したまえと言う人は是非自分がそうしてくれ
率先垂範なしに瞑想での観察こそが真理であって思考や言葉は違うなどと言っても説得力ないからねw
四禅の禅定に入らないと本当のヴィパッサナー瞑想はできないんだって
四禅に入れる人なんてこのスレにいるかな...
ヴィパッサナー瞑想として知られている瞑想法達は、
実は中身は四界分別観瞑想に分類されるものらしい
とりあえずアチシは初禅を目指すのだ
>>573 瞬間定(カニカ・サマーディ)に入って行ずる観察のことをヴィパッサナーというなら
三昧(正定)が前提になるはず。
主客分離されたヴィパッサナーというのは、カニカサマーディなしの contemplationでしょう。
それはmeditationではない。
誰かが率先垂範する姿を見たいなら、まず掲示板を閉じて
どこかの禅寺なりに入るより他にないと思います。
>>575 「ゴエンカとかマハーシとかいう南方仏教の僧侶はヴィパッサナー瞑想だけしてればよいとしていた」
とこちらのサイトには書いてある
http://www.horakuji.com/dhyana/sikan/samatha_vipassana.htm 自分はヴィパッサナーはサマタ瞑想で集中した後に、刹那(指をパチンと鳴らした瞬間)にも何十と心に浮かぶ想念を観察する行だとどこかのサイトで見た覚えがある
しかし、自分はヴィパッサナー が未熟だからか刹那に何十もの想念が泡沫のように湧き上がっている自覚は全くないw
>>578 なるほど
でも、パオは四禅に入らないと本当のヴィパッサナーはできないというスタンスなんだよね
山下良道師も魚川くんとの対話の中でキッパリ断言してたし、
魚川くんも(四禅からでないと本当のヴィパッサナーは)できないですよねと言っていた
他にも南方仏教で修行した方のお話しに触れたことあるけど、その方も本音では同じ意見だったよ
アチシでは四禅なんて到底入れません
今はアーナパーナ・サティと自覚に趣を置いているのだ
アナパナ中に鼻を出入りする気息が、粒子が白く光ながら流れて見えた事はあったけどそのくらい
T1646_.32.0339c15: 諸禪定則能得入。問曰。行者若無禪定。
T1646_.32.0339c16: 云何能得身心空。及盡諸煩惱。答曰。是人
T1646_.32.0339c17: 有定而不能證。更有如電三昧。因是三昧
T1646_.32.0339c18: 得盡煩惱。如經中説。我見比丘欲取衣
T1646_.32.0339c19: 時有煩惱。取衣已即無煩惱。如是等所以
T1646_.32.0339c20: 者何。心如電三昧如金剛。眞智能破煩惱。
T1646_.32.0339c21: 又此義佛第三力中説。所謂諸禪解脱三昧
T1646_.32.0339c22: 入垢淨差別如實知。於中禪名四禪。有人
T1646_.32.0339c23: 言。四禪四無色定皆名爲禪。解脱名八解脱。
T1646_.32.0339c24: 三昧名一念中如電三昧。入名禪解脱三昧
T1646_.32.0339c25: 中得自在力。如舍利弗説。我於七覺中能
T1646_.32.0339c26: 自在出入。故知慧解脱阿羅漢有諸禪定。
T1646_.32.0339c27: 但不能入。深修習故能自在入。問曰。阿羅
(成実論)
北伝でも禅定に入れない程度のサマーディで悟るという説があるみたいね
有部の論書で欲界定(kāmaloka-samādhi)、経量部の『成実論』で如電三昧(vidyutupama-samādhi)と呼ばれてるみたいだ
パーリ聖典では「稲妻に喩えられる心を持った人」(Vijjūpamacitto puggalo)というのが対応するっぽい
渡辺章悟「Vajropamasamādhi の考察」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/54/1/54_1_357/_pdf このスレって禅宗の人に人気あるんだね。(笑)
ずいぶん来てるもの。
どうしてそんなに気になるの?
>>582 ぱっと見たところ禅宗のことを書いてるのっておじゃるさんってコテハンの方しかいないけど
>>581 預流果の悟りまでならね
一来果から上は禅定に入れないと話にならないと言われているよ
預流果なりたてでも一週間もあれば四禅に入れるようになるというし
四禅に入れない一来果などいないとハッキリ言われているくらい
正定を欠いた八正道(道諦)で悟れますか?って言ってるようなもん。
そんなもんない、てのがパオ・セヤドーの立場でしょ。
>>582 >>563 >現代仏教学では「非我論」は否定されつつある。
これのソースはよ
何にもしてなくてもニミッタが目をつぶると光ってる時あるよ。何なのか良くわからない。
ニミッタでなにか面白いことが出来るとか聞いたことはあるけど、周りに指導者が居ない。
マハーシ・サヤドーのヴィパッサナー本を参考にしてて、何が見えてきても気にしないように
してるけど。
ヴィパッサナー染(Vipassanupakilesa)ってやつかな
光が見えたり(obhasa)、気持ちよくなったり(楽)、どうでも良くなったり(捨)、何か分かった気分になったり(信解)
これに執著したらヴィパッサナーの進歩が止まるらしいからマハーシ長老の言うとおり気にしないのが一番かと思う
>>59 >これに執著したらヴィパッサナーの進歩が止まる
マハーシ派だとそうですね。
ニミッタを1時間くらい保持出来るようになると第一禅ということなので、
ずっとそれに取り組んでいます。
ニミッタが見えるようになるまでは比較的スムーズだったので(そんなに難しくないな)
などと思っていたのですが、それからが見えたり見えなかったりで安定しません。
ゴエンカ派の10日間合宿などにも参加したのですが、そもそもやりかたが違う。
日本でパオ派といったらMK師のところだな、ぼちぼち行ってみようかなと思った
矢先にあの事件です。
どなたかパオ派で信頼の置けるところをご存知の方いませんか?
>>590 オバサ・セヤドーの勉強会
クムダ・セヤドーのリトリート
ディーバンカラ・サヤレーのリトリート
マハーシだって、おなかの膨らみ縮みに気づき続けてて、本当に集中が1時間連続したら
三昧体験起きるはずでしょ。
起きないってことは、本当には連続してなくて、サティが細切れになってるんだよ。
唯物論で、有身見で、断見の、“現代的な知的教養人”が
すんなり理解して納得するってことは、人智を超えた悟りの智慧に関して
描写を省いてるってことなんですよ。
脳みそで心を説明するとかね。
精神を説明するのに、物質について語らないと理解できないのが、“現代的な知的な教養人”なので。
広く世間的に受け入れられているマハーシの説教師が、公には言わない部分ってのもあると思いますけどね。
>>0595
>公には言わない部分ってのもあると思いますけどね。
「ヴィパッサナーとは何か?」とかね。
マハーシ師にしろゴエンカ師にしろ、「これがヴィパッサナーだ」とは
思ってないんじゃないですかね。
ただサマタからジャーナに入るのがあまりにも難しいので、いきなりヴィパッサナーを
やらせる。まあそれでも効果は十分あるから。
けれど本当はジャーナの状態から観察するのがヴィパッサナーだものなあ。
サマタ瞑想のことを仏教ではジャーナ (禅定)というんじゃないの?
その中でも高度なのが色界や無色界の四禅定や受想滅定であって
>>597 初禅
第二禅
第三禅
第四禅
が色界定
空無辺処
識無辺処
無所有処
非想非非想処
が無色界定
>>0597
サマタ(止)とは特定の対象に結びつけて集中力を養う瞑想。
ジャーナ(禅那)とは「ある一定の状態」のこと。
具体的に言うと、1時間程度妄想を起こすことなく呼吸に気づき続けている状態。
瞑想をやっている人なら分かると思うが、これはすごく大変なこと。
一般の人では30秒ともたないからね。
禅定(ぜんじょう、梵: dhyāna, ディヤーナ、巴: jhāna, ジャーナ、禅那:ぜんな)とは、仏教で心が動揺することがなくなった一定の状態を指す。
ディヤーナはもっぱら色界の定を指し、漢訳では無色界における定などを含めることがある。
サンスクリット語の dhyaana の音写である禅と、訳した定の複合語である。
静慮とも訳される。
>無我の観察ができのるか?
http://www.onedhamma.com/?p=5136
15/05/24
魚川祐司氏、山下良道氏、藤田一照氏
魚川祐司氏
「無為法の世界から観照できるのか?」
山下良道氏
「[無為法の世界からの観照]という不思議なことがおきる」
_ _ _
>観察する自分というものと観察対象とで主客分離されるのがヴィパッサナ
http://www.onedhamma.com/?p=6494
18/02/04
エゴを瞑想の中に忍び込ませないために
柳田敏洋神父との対談を終えて
http://www.onedhamma.com/?p=6499
18/02/12
(無明している世界)を手放して、慈悲の瞑想が…
_ _ _
阿頼耶識が
自分の意識も
外界にあると認識されるものも生み出しているけど
最終的には
阿羅耶識もまた空である
我所ではない・我でもない 四禅はそんなに難しくないよ
無意識の恐怖に慣れるようにすれば自然にそうなる
消滅の恐怖
1時間後に体がカッチンコッチンのまま意識が戻る面白さw
>>602 長老は「空無辺処定」についての解説で、「私の誤解かもしれませんが」との断りつきで、ラーマクリシュナについて次のように語っている。
「例えば、ラーマクリシュナの言葉を読んでみますと、色界第一禅定くらいは経験がある感じはしますが、それでもまだ、「神がいる」とか、「魂がある」とか「梵天がいる」などという状態なのです。」(前掲書p.282)
http://blog.goo.ne.jp/benzo_k/e/62d8e9ea61defdcecf61f310be3274c5 半年間ずうーと無分別三昧をしたラーマクリシュナでさえ色界第一禅定だぞ
そんなに難しくない?そんなに甘くはないって!
>四禅はそんなに難しくない
たとえば
おじゃるは
仮設としての
無始からの(輪廻を繰り返して)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている
無明薫習に依存して
(それ自体、単独で成立している我は)存在しないにも関わらず
(それ自体、単独で成立している我が)有ると思う虚妄の執著である
遍計所執性に依存しているので
それゆえに
おじゃるには
呼吸の観照に戻ることは難しい
(仏性そのものに戻る帰ることは難しい)
仮設としての
無明している世界の中で
我癡・我見・我慢・我愛に依存しているので
第一禅定も難しい
http://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm 第一禅定
ヴィタッカ(尋)
どこかへ飛んでいってしまう心の働きが
呼吸への観照に戻る要素があります
(仏性そのものに戻る帰る要素があります)
>無意識の恐怖に慣れるようにすれば自然にそうなる
たとえば
おじゃるは
仮設としての
無明に依存している
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けている
「我がある!」という執着に依存しているので
それゆえに
呼吸の観照に戻ることは難しい
(第一禅定も難しい)
− これを対処するために −
法界体性智の世界から観照して
大円鏡智から → 阿頼耶識を観照する
平等性智から → 末那識 を観照する
妙観察智から → 第六意識を観照する
仏の世界から → 無明している世界を観照する
↑無意識って、こんな感じ?
>>603 半年じゃな.....
流石に3年ぐらいはかかると思うよ
呼吸も殆ど止まったようになるし
(たぶん)低酸素で脳以外にダメージあるし
まあ数週間でちゃんと回復するけどね
目の前に新幹線通っても気づかないと思うw
>>607 >>607の発言において不妄語戒を守っていますと誇りを持って言えますか?
>>608 不妄語戒って嘘をついてはいけないってこと?
それなら嘘じゃない というより
そんなに大した状態じゃないよ
俺 何か勘違いしてる?
それを過ぎると思考は極端に少なくなってヴィパサナも随分やりやすくなるぐらいのもんだわ
先生がいたら聞いて見て
たぶん ああ そういう生徒も〜%ぐらいはいますね
ぐらいの感じだと思う
>>610 勘違いしてるのは、ラーマクリシュナが半年間だけ三昧の修行をしていたと思っているところだな。
実際は半年間ずっと無分別三昧の状態でいたのだよ。
君は三年間ずっと無分別三昧の禅定を保ち続けていたのかい?
https://gamp.ameblo.jp/yogabija/entry-12167635478.html それと君は過去の発言を見ると四禅は難しくないと言っている
しかしその後で(マスターまで)三年間掛かると言っている。
三年間というのは君の中では簡単なのかそうではないのか?
最後に四禅について誤解している。
四禅は意識をなくす禅定ではない。
おじゃるに質問。
ここは『テーラワーダ仏教』スレなんだが、なんで大乗のあなたがいるの?
唯識を語りたければ唯識スレがあるよ。
>唯識スレがあるよ
ご教示ありがとうございます
ヒンドゥーを批判している上座部
説一切有部を批判している大乗
唯識になると説一切有部を取り入れるようになった
お互いに批判しているところもあるかもしれないけど
それでも、とりあえず
ヒンドゥー
↓
上座部
↓
瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)
↓
後期大乗密教
相性がよい
親和性がある
と考えているので
おじゃるの場合は
(ヒンドゥーも?)上座部も
瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)も同じような部分もある(かもしれない?)
ということで
書き込みしているのでつ ヨロ m(_ _)m
たとえば
仏教は
六師外道のことを批判している場合もあるかもしれないけど
それでも、とりあえず
六師外道だったかもしれない
ウッダカ・ラーマプッタの非想非非想を
とりあえず
瓶から瓶へ水を一滴もこぼさないでうつす
瀉瓶ように受け継いでいる(かもしれない?)
ということでつ
http://www.geocities.jp/tubamedou/Jiten/Jiten01.htm 大智度論 仏教用語辞典
非想非非想
有想を捨てるが故に非想といい、無想を捨てるが故に非非想という
そして、非想非非想も超えて ← 滅尽定
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/10/11/215935 有分心(生命相続流) 心の流れの相続
阿頼耶識は激流のごとく活動している(暴流の如し)
↑同じような部分もある(かも?)
たとえば
説一切有部と
大乗の中論は
相性が悪い部分があるかもしれないけど
それでも、とりあえず
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html
龍樹の中論
第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察
…
無明の停止は
(ヒンドゥーとか?)上座部系とかの
止(サマタ禅定)と観(ヴィパッサナー智慧)を通して生じるのである
とりあえず↑この部分は相性が良い(かも?)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%83%B3%E6%95%99
バラモン(ヒンドゥーも?)
人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって
次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる
人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き
無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める
↓
そして(上座部系とかの)苦集滅道へ?
少しずつ
段階的に
第一禅定から → 第二禅定へ
というような意味においては
龍樹の中論
第二十四章 四つの聖なる真実(四聖諦)の考察
…
世俗諦から → 勝義諦へ
この二つの真実の間に引かれた区分を理解しない者は
ブッダの深遠なる真実をも理解しないであろう
現象的真実の中に存する根拠なしに
究極なるものの重要性は説き得ない
究極なるものの重要性を理解することなしに
解脱(涅槃)は達成され得ない
↑この部分も相性が良い(かも?)
(上座部系とかの)苦集滅道
(大乗の場合は、基本的には無苦集滅道?)
>>611 改めて四禅を調べて見たけどわかりません
ネットだと抽象的だったり言葉遊びだったり
経験談とか知り合いの体験何かで良いのでご教授願えないでしょうか?
おじゃるへ
>>唯識スレがあるよ
ごめん、なかった。w
>ヒンドゥーを批判している上座部
上座部だけではないでしょ、大乗をはじめ仏教ならすべてと言ってもいい。
>唯識になると説一切有部を取り入れるようになった
ヴァスバンドゥ自体が元々説一切有部の人だからね。
>ヒンドゥー (じゃなくてバラモン教ね。時代が違う)
↓ (原始仏教)
上座部 (部派仏教)
↓ (中観派)
瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)
↓ (大乗仏教)
後期大乗密教
だね。
>相性がよい
親和性がある
と考えているので
ごめん、意味わからん。
ただ仏教の流れでしかない。
上座仏教は中観も唯識も認めてないし。
というか、今いうところのテーラワーダにも大乗が混ざっているのは確かだが、
テーラワーダと大乗の根本的に違う所は、テーラワーダは釈尊の教えに
(建前上)忠実であろうとしているが、大乗は法身仏をメインにしている。
そういう意味で、おじゃるの信仰しているものが何かは知らないが、
俺の感じる所は相当違うと思っている。
ただ俺は上座部にも大乗にもこだわっていない。
このスレの人ってかなり知識が豊富みたいだけどみんな研究者とかリアル坊主なの?
>大乗は法身仏をメインにしている
たとえば
上座部系も
パーリ増支部
「比丘たちよ、この心は光り輝いている。ただ、外来のもろもろの煩悩によって汚れている」
拡大解釈すれば
大乗の
仏性からの真如縁起(しんにょえんぎ)
のようにみえるところもあるかもしれない
上座部系には
種子と現行というような説明はないかもしれないけど
少しずつ
段階的に
第一禅定から → 第二禅定へ
というような意味において
頼耶縁起(らやえんぎ)も相性が良いかもしれない
>俺の感じる所は相当違うと思っている
>ただ俺は上座部にも大乗にもこだわっていない
おじゃるは
相性が良い部分もあるかもしれない
というところにも、こだわっちょります ヨロ m(_ _)m
>このスレの人って…リアル坊主なの?
おじゃるの場合は路上生活者でつ スマソ m(_ _)m
>>621の続き
たとえば
「我はある!」と掴もうとしている想いがある人に説明する場合は
上座部系だけの説明でも良いのかもしれないけど
おじゃるの場合は
大乗の
仏性そのものだから
心は光り輝いている
光り輝いている心は
仏性そのものなので
それゆえに
無明している世界ではない
我所ではない・我でもない
>観察する自分というものと観察対象とで主客分離されるのがヴィパッサナ
自分という我から観察するのではなくて
仏の智慧と慈悲をもって
般若の智慧と慈悲によって → 縁起している世界を観照する(らしい)
>菩提道灯論
ご教示ありがとうございます アリガト m(_ _)m
3
何らかの手段によって輪廻の幸せのみを求め
自分だけの目的を求める者が、『おじゃる』である
− これを対処するために −
5
自分の心の連続体にある苦しみ〔を認識すること〕によって
他者のすべての苦しみを完全に滅することを望む者が
最もすぐれた者(上士)である
_ _ _
他者すべてを導く、そのために
(智慧と)慈悲の冥想
生きとし生けるものに
仏そのものの
光が現れますように
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m
おじゃるへ
そんなことを言っているんじゃない。
まずはこのスレのタイトルをよく読んでみたら!
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践11
http://itest.5ch.net....cgi/psy/1425309691/ ※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、
日本テーラワーダ仏教協会やそこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。
いい?「ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって」なの。
大乗を語りたいのなら、大乗スレはいくらでもあるから、そこで上座部との
関連でもなんでも語ればいい、と言ってるの。
だから俺も大乗仏教の話題の時はそっちのスレでやる。
おじゃる自身を排除してるんじゃないよ。
ここにいたいならテーラワーダを語りなさいと言ってるの。
>>621 >パーリ増支部
>「比丘たちよ、この心は光り輝いている。ただ、外来のもろもろの煩悩によって汚れている」
この客塵煩悩自性清浄の偈は漢訳阿含にはないのでパーリで後から付加されたという説があるね
>テーラワーダ
大乗は説一切有部を批判した
唯識派になると説一切有部を取り入れた
もう一度
「我はある!」と掴もうとしている想いがある人に説明する場合は
上座部系だけの説明では難しい場合がある
それゆえに
大乗の世界観のような
仏そのものの世界から → 縁起している世界を観照する
という説明が必要である。ということでつ
>>561 >観察する自分というものと観察対象とで主客分離されるのがヴィパッサナ
ちなみに、上座部系も『我ではない』という導きでつ
法界体性智の世界から観照して
大円鏡智から → 阿頼耶識を観照する
平等性智から → 末那識 を観照する
妙観察智から → 第六意識を観照する
上座部系に比べて
大乗の世界観は難しいかもしれないので
おじゃるにも、『ID:tYW2Zji6殿』にも
理解するのは難しいかもしれないけど… ヨロ m(_ _)m
無明を手放すための ← 自在力(神通力)
四神足
観神足
智慧(と慈悲)をもって → 縁起している世界を観察する
この説明だと
『主客分離してる』と
ID:tYW2Zji6殿と(おじゃるも)同じような勘違いする人もいるでしょ?
ということでつ
ちなみに、上座部系も『我ではない』ので
(最終的には?)
主客分離でもない
仏そのものからの観照が必要である
というような説明も必要でしょ?ということでつ ヨロ m(_ _)m
ちなみに、仏そのものは
無明している世界ではない
我所ではない・我でもない
それゆえに
主客分離でもない
https://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html 漢訳 第一義空経
業報有るも而かも作者無し。此の陰滅し已らば異陰相續す
無明に縁りて→行に縁りて→識に縁りて→「苦しい」という想いが現れる
無明滅して →行滅して →識滅して →「苦しい」という想いが滅する
http://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm 第一禅定
ヴィタッカ(尋)
どこかへ飛んでいってしまう心の働きを
呼吸の観察に戻す要素があります
この説明の場合
ID:tYW2Zji6殿と(おじゃるも)同じような
『主客があるはずだ』と勘違いする人もいるかもしれない
− これを対処するために −
(大乗の?)
仏性からの真如縁起のような説明も
必要がある場合もあるかもしれない
ということでつ
仏そのものの世界から観照して
どこかへ飛んでいってしまう心の働きが
呼吸への観照に戻る帰る
仏そのものに戻る帰る
そのための
第一禅定から → 非想非非想も超えて逝く
(かもしれない)ということでつ
中観自立派
仮設としての
無明している世界の中において
世俗の次元において
自相(自性)のようなものを承認します
無明に依存している
おじゃるが(ID:tYW2Zji6殿も?)
『主客があるはずだ!』と妄想している
− これを対処するための −
中観帰謬派
世俗の次元においても
自相(自性)のようなものも否定します
たぶん
上座部系も
世俗の次元においても
「我ではない」と説明しているかもしれないので
類似性がある(かもしれない?)
↑間違ってたら スマソ m(_ _)m
どなたかご存知の方がおりましたらお教え願います。m(_ _)m
仏陀が出家して、国内の様々な聖人に教えを求めて遊行する中。
数種類の瞑想法を次々にマスターして、最後にヴィパッサナー瞑想を知り
その師を求めて、教えを請うたと聞いてますが、
その数種類の瞑想法等について、書かれているサイト等ご存知ありませんか?
ヴィパッサナー瞑想に至るまで、どのような瞑想法を行ったのか知りたいと思います。
もしご存知の方がおいででしたら、よろしくお願いいたします。 m(_ _)m
>>0631
まずアーラーラ・カーラーマのもとを訪れ、彼から
空無辺処定(くうむへんじょじょう、無所有処)を、
次にウッダカ・ラーマプッタから非想非非想処定
(ひそうひひそうじょじょう)を学びました。
どちらも「止」瞑想です。
しかしゴータマはどちらにも満足しませんでした。
何故なら定にあるときは良いのですが、定を解くと日常に
戻ってしまうからです。
そこで日常に置いてもサティーがあるように、つまり定になくても
気づき続けることの出来るように、観察し続ける瞑想、
ヴィパッサナー(観)を考えました。
インドの伝統の中では数種のサマタ(止)瞑想はありましたし、
促進瞑想(マントラを唱えつづけるもの)などもありましたが、
ヴィパッサナーは釈尊の考えられたものです。
上記したように二人の師から瞑想を学びましたが、釈尊が「無師」と
言ったのはヴィパッサナーは教わったものではなかったからです。
>その数種類の瞑想法等について、書かれているサイト等ご存知ありませんか?
あなたが上座部の瞑想(パオ系)をやっているのでしたら、
その過程にすべて入っています。
ただ、いま日本では(パオ系)は非常に少なく、また厳しいものです。
有名な僧がいるのですが、今問題を起こしていて近づかない方がよいでしょう。
多くの上座部系は現代人(在家)に合うように端折っています。
しかし、それでも効果はあるし私はそれでいいのではないかと思っています。
その辺を本気でやりたいと思われるのでしたら、ミャンマーあたりに行って
修行しなければ無理だと思います。
1001.(1002) 〔わたしは〕死を喜ばない。〔わたしは〕生を喜ばない。正知と気づきの者として、この身体を置き去りにするであろう。
1002.(1003) 〔わたしは〕死を喜ばない。〔わたしは〕生を喜ばない。しかして、雇われ者が報酬を〔待つ〕ように、〔為すべきことを為して、死の〕時を待つ。
http://zhaozhou-zenji.hatenablog.com/entry/2016/07/10/094409 ひたすら気づき続ける観察し続ける生き方してても楽しくはないんだよね
自分はもちろん阿羅漢には程遠い凡夫だけど客観的であり続けようとしてもそれも不自然な意識の持ち方になってしまい無理が生じて生きることを喜べないようになる
例えば散歩中に常に実況中継をしながら散歩してれば妄想の働く暇はないが歩いてても楽しくない
運転中もしかり
自分が瞑想に期待してるのはその正知と気づきのものに"必要な時に"なれるようにするのもあるがもっと医学的なことだな
扁桃体を抑制するとかセロトニンが出やすくなるとかBDNFが働いて海馬が回復していくとかそういうのを期待している
あくまで自分はね
↓間違ってたら スマソ m(_ _)m
https://ameblo.jp/morfo/entry-10938527137.html パオ・セヤドー
観(ヴィパッサナー)
四界分別観
(これでまた「主格分別があるはずだ」と勘違いする人がいるかも…)
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/07/18/061429 通常は、四界分別観から始めなければなりません
http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/135d45345210d9384075a6349cf75349 大念住経(大念処経)
地の要素 、水の要素、火の要素、風の要素
仮設としての
色受想行識の仮和合は
地水火風の微粒子に依存している
そして
地水火風の微粒子も最終的には
https://www54.atwiki.jp/waikei2008/pages/22.html 滅に触れて想滅定が生起する
(長部経典 第9経 ポッタパーダ経(心作用の消滅))
×主格
〇主客
失礼いたしました スマソ m(_ _)m
http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/135d45345210d9384075a6349cf75349 大念住経(大念処経)
たとえば
どんな絶世の美女であったとしても
その身体には
大便もある
と絶え間なく知覚して住むことである
なぜ『大便もある』というような観察もするのか?その理由は↓
われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り、自分の心身を厭う思を起こし
心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」である
このように現実を厭うことは、人間の普通の世俗的感覚を否定するものに見えるが
その世俗性の否定によって、結果として
真実の認識(如実知見)に至るための必要条件が達せられる
おじゃるの場合は
『霊魂のようなもの』肯定派だけど
それでも、とりあえず
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/06/28/163259 如実知見
仮設としての
地水火風の微細な粒子の
密集の概念がある時に、霊魂の概念が生まれる
(「霊魂のようなものがあるはずだ」
と掴もうとしている想いが依存している)
無明している世界を手放して
仮設としての
霊魂の概念は、想いに依存している
色受想行識の仮和合は
地水火風の微粒子に依存している
地水火風の微粒子も
最終的には滅して逝く
有余涅槃から → 無余涅槃へ
ここで、また勘違いする人もいるといけないので、とりあえず
たとえば
大乗も含めて
上座部系も
仮設としての
無明している世界の中の
我を主体として
観察しようとすると
>気づき続ける観察し続ける生き方してても楽しくはないんだよね
− これを対処するために −
我を主体として
観察しようとするのではなくて
仏そのものの世界から → 縁起している世界を観照する
というような説明が必要になる
ということなのでつ
ちなみに
仏そのものの世界は
「楽しい」という想いではない
「楽しくない」という想いでもない
>>634 >ただ、いま日本では(パオ系)は非常に少なく、また厳しいものです。
>有名な僧がいるのですが、今問題を起こしていて近づかない方がよいでしょう。
パオ系は、指導者の許可が下りない限り、ヴィパッサナーには入れないと聞いてます。
ですから、人によっては数十年もアーナパーナを行い、ヴィパッサナーに入れない
修行者もいると聞きます。
そのような厳しい所でも「問題」ですか?
思うに、ヴィパッサナー瞑想はお釈迦様が成道に至った瞑想といわれていますが、
決して安全な瞑想ではないと思うのですが、皆さんはいかが思われますか?
JVAのゴエンカ式などでは「心の奥底まで浄化される」などと、メリットばかり書きならべて
いますが、釈尊が成道した程効果あるすごい瞑想なら、一歩間違うと完全に人格を破壊
してしまうほどの危険も孕んでいる瞑想法だともいえないでしょうか。
現に、JVAのATはセンター長以下皆チョットオカシイ。皆常識や良識が無い。
JVAのヴィパッサナーにのめり込むと、頭がおかしくなようだ。
>>640 >そのような厳しい所でも「問題」ですか?
その問題の人はもしかすると認可すらないかもしれません。
>決して安全な瞑想ではないと思うのですが
瞑想行はすべてそうですが、妄想に引きづられると禅ですら
安全ではないということになります。
どちらかといえばヴィパッサナーよりもサマタの方がそういうものが
起りやすいと思います。
>ゴエンカ式などでは「心の奥底まで浄化される」などと
ゴエンカ式は四念処観の一部しかやっていませんものね。
あなたはスマ長老のところの人ですか?
634でも書きましたが、南伝でもヴィパッサナーに対する考え方が
色々です。
いや、考え方というよりも実践方法が違うと言ったほうがよいでしょうか。
清浄道論どおりに行うには在家では大変すぎるんですよ。
>>641 >ゴエンカ式は四念処観の一部しかやっていませんものね。
今調べたんですが、四念処とは以下ですよね。
身念処(身念住) - 身体の不浄を観ずる(不浄観)
受念処(受念住) - 一切の受は苦であると観ずる(一切皆苦)
心念処(心念住) - 心の無常を観ずる(諸行無常)
法念処(法念住) - 法の無我(いかなる事象も自分に非ず)を観ずる(諸法無我)
自分がJVAで行ったヴィパッサナーとは、体の表面感覚を意識して研ぎ澄ます訓練。
また、体内に意識で運び通す訓練のようなもので、上の四念処とは違うと
思うのですが、どうなんでしょうか。
>>643 まああんまり突っ込まなくていいんじゃないですか。
派ごとにそれを信じてやっている真面目な人が沢山いるし.......
要するにヴィパッサナーに対する考え方が違うんですよ。
ただ、本気でやるにはサマタが重要ということです。
サマタでサマーディに入って、そこから観察するのがヴィパッサナーです。
だから、娑婆世界の我々の感覚そのままでヴィパッサナーなど出来ないと
いうことです。
>人によっては数十年もアーナパーナを行い、ヴィパッサナーに入れない
修行者もいると聞きます。
そういうことです。
サマーディに入れなければサマーディに至るまで何年でもやるしか
ないんですね。
だから、近代の上座部仏教は「はい、サマタなんかいいですよ、
いきなりヴィパッサナーやっちゃいましょう」となるのです。
でもね、悪いことだとは思いません。
それでも効果はちゃんとありますから。
そもそも正しいヴィパッサナーのやり方なんてあるの?
あるとしたらその保証となるものはなんなの?
経典?清浄道論?
>それでも効果はちゃんとありますから
確かになにがしかの効果はあるでしょう。
しかし、だれしもより良く、より効果的な方法だあってほしいと望むでしょう。
それと、効果は全て良い効果とは限らないと思うのですが・・・
時にはマイナス効果もあるのでは・・・
>>646 人間は個体差が大きすぎる
正しい方法も保証もない
瞑想やヴィパッサナーに限らない
結局は自分との対話で探る道
>そもそも正しいヴィパッサナーのやり方なんてあるの?
お釈迦様が成道に至るためにおこなった瞑想法と言われているなら
お釈迦様が行ったと言われる瞑想法でしょ
でも、2500年も前の事だし、正確には分かる訳ないですよね
>そもそも正しいヴィパッサナーのやり方なんてあるの?
ないです。
あるのは「その派が正しい」と思っているもの。
>より効果的な方法だあってほしいと望むでしょう。
だからそのためには在家では無理でしょということ。
本気でそう思っている人は渡航してますよ。
マハシの場合、七清浄の戒清浄の段階からヴィパッサナーと言っているけど、
パオの場合、心清浄ができるまでは、厳密にはサマタだと言ってるだけの話では?
サマタか、ヴィパッサナーか?という二項対立で考えると分かりづらいけど、
七清浄のどこをやっているのか、八正道に対応してみたらどうか、四念処のどれを
やっているのか、大念住経のどの箇所に取り組んでいるのか、という観点でみていくと
どちらも同じ道のうえにあるように思えます。
ただ、サマタで禅定に入れることを絶対条件としてしまうと、挫折する人が多すぎる
ので、戒清浄の段階からすでに仏道だよという意味で、マハシではそれをヴィパッサナーと
銘打ってるのではないかな、と。
戒清浄あっての心清浄なのだとして、戒律も、五戒は最低限ですからね。
出家して、沙弥の場合でも十戒以上を護り、毎日10時間瞑想しつづけて
それでも何年もかかるのが禅定。
在家で仕事をしながら同レベルを目指すということが、どういうことなのか。
お前らバカじゃの
人に能力の差があるじゃろう
同じことをやっても、ささっとできる人もいれば
なかなかできない鈍い人もおる
空手とキックボクシング、勝負したらどっちが強いか?
レベル(能力、才能、技術力)の高い人が勝つにきまっとるわい
まあ二因の人は何をやっても結果は出にくいわな
だがな、多くの人は二因だから気にすることはない
結果が出ない人は結果が出るまで何倍も努力するのじゃ!
唯識思想(法相宗)
■中国においては玄奘(600〜664)が『成唯識論』等の唯識論書を伝え、 その弟子慈恩大師窺基(きき)(632〜683)が法相宗を組織した。
その特質は、五性格別{悟りにいたる資質、能力等により菩薩、独覚、声聞、 不定(そのいずれでもないもの)、 無性(宗教的無能者の五種に分ける)} を唱える。
このことは、法華一乗の天台などの主流から批判され、華厳宗が大成するにおよび衰えていく。
二因って
[往生浄土の業因]と[堕地獄の業因]のこと?
大乗の場合は
基本的には
仏性からの真如縁起が基本?のような気がするけど
それでも、とりあえず
(大乗の)唯識の場合は
仮設としての
無明している世界の中の
(「仮設としての」という意味で)
無明薫習
遍計所執性
(第七識)我癡・我見・我慢・我愛とかを前提としているので
それゆえに
誰もが成仏するわけではない(五性各別)
(輪廻否定の人は、どうなのか?わからないけど)
輪廻肯定なら
来世には
仏性そのものに成る(場合もある、かもしれない?)
例えば日本ヴィパッサナー協会HPには、
https://www.jp.dhamma.org/ja/code/
ヴィパッサナーは
・盲目的信仰による宗教儀式ではありません。
・知的、哲学的な娯楽ではありません。
・休息による癒し、休暇、社交のための場ではありません。
・日常生活における試練や苦悩からの逃避ではありません。
ヴィパッサナーとは
・苦悩を根絶するための実践法です。
・人生において直面する困難や問題に、冷静でバランスのとれた態度で対処する
ことができる心の浄化法です。
・個人が社会に積極的にかかわり貢献するための、生きる技です。
などと、書かれていますが、私の体験では、上に書かれてる問題点の全てが
日本ヴィパッサナー協会にはあるので、それを否定しているだけに過ぎないと
感じました。
すこし乱暴な言い方をすれば、実際は上に書かれていること逆であったり、
日本ヴィパッサナー協会の瞑想をある程度やった位では、そんな謳い文句の
ようにはならないという事です。 >決して安全な瞑想ではないと思う
師匠に付くこともなく
一人だけで勝手に実践しようとすると
危険な場合もあるらしい
参照
http://www.onedhamma.com/?p=6455 18/01/07 菩薩をめぐる冒険
道元禅師 普勧坐禅儀
心意識の運転を停め
念想観の測量を止めて…
そして、それから
http://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm どこかへ飛んでいってしまう心の働きが
呼吸の観照に戻る
(仏そのもの ← に戻る帰る)
第一禅定
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%8B%90%E7%A6%85 「仮設としての」という意味で
無明している世界の中の
我癡・我見・我慢・我愛に依存して
野狐禅のようになる場合もあるらしい
>>657 だからさ、いいんじゃない。それを言い出したらどこだって
ケチのつけどころはあるし、その時担当した人の善し悪しや
当人との相性もある。
合わないと思ったら黙って去るだけさ。
ID:51oMnXEc殿の場合は、わからないけど
おじゃるの場合は
無明薫習
第七識
遍計所執性とかに依存しているので
それゆえに
>そんな謳い文句のようにはならない
おじゃるの場合は
第一禅定も出来ないので
只管打坐にもなれない
それゆえに
世俗の次元では
自相(自性)を承認する
中観自立のようなことを
掴もうとしている想いが現れ(そして滅し)ている
>>651 >マハシの場合、七清浄の戒清浄の段階からヴィパッサナーと言っているけど、
ヴィパッサナーは 見清浄からだね。
一生懸命唯識を語ってる連中はなんなんだろう?
マナーを知らないんだな。
>>661 マナーってなに?
唯識の事もよく知らない俺にわかりやすく教えて!
好きなほど
講釈垂れる
知識かな
第13回 オタク川柳大賞 候補作品より
>>662【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践12
【テーラワーダ仏教】!!
ここにいる人は最終的な悟り、もしくは解脱をめざしている?
>最終的な悟り、もしくは解脱をめざしている?
おじゃるの場合は
「仮設としての」という意味で
輪廻肯定なので
この現世においては無理だったとしても
来世には
預流
聖者の流れ(見道位)に入るかもしれない
(大乗の場合は、仏そのもの?)
>唯識を語ってる連中はなんなんだろう?マナーを知らないんだな
大乗の世界観をもって
上座部系の
第一禅定とかを実践してみては?
という導きでつ
(おじゃるには今のところ無理だけど…)
失礼いたしました。訂正させて頂きます
http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index4.html
チベット ニンマ派
上座部系の修行者たちの修行の道は
(1)資糧位(2)加行位(3)見道位(4)修道位(5)無学位の五段階ですが
資糧位と加行位の段階にあるものは凡夫で、見道位と修道位に至ったものが聖者です
大乗系の修行者たちの修行の道は
まず資糧位と加行位の段階で菩提心を起こし、六波羅蜜行を行じます
この段階の修行者は凡夫です
見道位には入り
さらに菩薩の一地(歓喜)から十地に至るまでの段階にいるものは聖者となります
_ _ _
大乗系は
「すべて仏そのものなので、すべて聖者である」と勘違いしちょりました
失礼いたしました スマソ m(_ _)m 難しくて↓おじゃるには意味が、わからないけど、とりあえず
http://blog.goo.ne.jp/seikannamo/e/774aa2b0cd57ae512ff5a650e2b65745 増壱阿含経
阿頼耶
たぶん阿頼耶識のことかもしれない
大乗の唯識の
阿頼耶識と同じ意味なのか?わからないけども…
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/08/25/101746
パオ・セヤドー
有分「識」
前世の臨終の時の対象を
(この現世においての過去のことも)認知します
その対象は、(過去の)業…です
_ _ _
仮設としての
縁起によって
この現世においての過去の業も
阿頼耶識が ← 種子によって薫習されている
↑類似性があるような感じがします
唯識の場合は
頼耶縁起だけど
それでも一応、大乗なので
最終的には?
真如縁起かもしれない
↑間違ってたら スマソ m(_ _)m ブッダは思考を止めよと言っておるのに
常にあーだこーだと考え(妄想し)、
頭の中がぐちゃぐちゃ、落ち着きのないアホが一匹おるな
このようなタイプはいくら瞑想をやっても
1ミリたりとも前進できない典型じゃな
>ブッダは思考を止めよと言っておる
『手放しせよ』という導きの方がよいかも
http://junsoyo.on.coocan.jp/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
…今,その何かをつかもうとする
「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって
何ものをもつかまないでいることです
すなわち思いの手放しです
実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし
思いがそれをつかみさえしなければ
「何もの」としても構成されることはないでしょう
_ _ _
「想う」という想いも手放して
「想わない」という想いも手放して
非想非非想も超えて
http://www.geocities.jp/sybrma/235.5hukanzazengi.yaku2.html
(心意識・念想観が依存している)
無明している世界を手放して
円成実性の世界から → 依他起性している世界を観照する スマナサーラ批判している人も
たくさんいるかもしれないけど
それでも、とりあえず
ダウンロード&関連動画>>@YouTube (無明している世界を)手放すこと スマナサーラ
>>673 上座部仏教の長老、スマナサーラ師の著書をいくつか読んでみた。
「釈迦の瞑想法」シリーズの3『自分につよくなる――サティ瞑想法』と『ついに悟りをひらく――七覚支瞑想法』、それに『死後はどうなるの?』、『ブッダの実践心理学』である。
(略)
これらの本に優れた点は多々あるのだが、一宗一派的だといったのは、自分の教団の教えが一番優れていることを不動の前提として、何とかその価値観の正しさを説得しようという動機が読み取れるということ。
つまりやっぱり「坊さんの説法」になっている。
それと、大乗仏教やキリスト教、ヒンドゥー教などの他宗教を、深く理解しようという欲求もなしに、あからさまにバカにしたりちくちくと嫌みを言ったりするところがところどころに出てくるので、どうもそれが気になった
(つまり、各宗教を「その最高の高み」においてつかまえた上で比較するのではなく、ごく低次レベルでつかまえて批判している)。
「この人は師匠としてはどうだろうか」という目で見るときには、その論の展開の正しさということよりも、むしろそういった「気になり方」が重要な要素になってくるものである。
(略)
というわけで、他にもいろいろそう判断する理由はあるのだが、要するにスマナサーラ師は、ある一定の境地には達しているんだろうが、決して悟ってはいないと思う(おっと、抗議メールが恐い・・)。
彼は、唯識で言う阿頼耶識なんてあるかどうかわからないのだからそんなもの空論だと断定しているが、ヴァスバンドゥとか唯識思想をつくった祖師たちは、瞑想の深みにおいて阿頼耶識を実際に直覚し、その経験をもとに書いていたのだと思う
(玉城康四郎も阿頼耶識を直覚していたらしいが)。
スマナサーラ師にはそのような経験がないのでわからないというだけの話ではないだろうか。
というか、上座部仏教にはそうした経験を促すような修行法はないし、そういう経験が出たとしてもその意味を否定していくだろう。
(なお、私が魂といっているのはほぼ阿頼耶識に相当する。それはもちろん究極的見地から言えば実体ではない。
しかし阿頼耶識が存立している次元より低次の世界から見れば、それは個別的実体と錯視されるものである)。
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/20316/21924/10175383 >>675 観察「生きる」という謎を解く鍵
この新刊よんだら?
分かる人には判るよ
スマナサーラは潜在意識についても「潜在意識は観察できないでしょう。そんなものは哲学者や心理学者が作った妄想です、ゴミ概念です」と言って切り捨てるのかな?
潜在意識とか阿頼耶識の話は 結局上手く修行に取り入れて役立て辛いから重要でないのでは?
しかもサマタ中なんかは色々体験するからね 自分の人生に重要な意味があるのでは?とか迷ってしまう
そして一番の理由は現状の修行方法で全部解決できてしまってるからじゃない? 解決できることが重要なのに何で仕組みに拘るんだ みたいな
瞑想の目的って何ですか?自分を知ること?宇宙の仕組みを知ること?
瞑想していると時間を遡っていくように感じる。
瞑想中シジュウカラの鳴き声が聞こえて、瞑想が深まるにつれ、それが鳥の鳴き声であるということも、生物の声だということも、生物や音という概念すらも忘れ、ただ今を受け入れている。
それは幼い日に感じていた感覚のようにも思える。不快だったらただ泣くことでしか世の中にコミュニケートできなかった頃の自分。
でも瞑想で観ようとしているのは不快よりも先の世界。
不快であることを無視し続けたら、子宮にいた頃より前のことがわかるのだろうか。
子宮ってもしかしたら不快だけの苦の世界だったのだろうか。
その先に救いはあるのだろうか。
でもそれを知って何になる?(でも知りたい。)
知り得る限界って、所詮人間の、自分の脳の範囲内でしかない。
だったら自分の世界から出て、世界とコミュニケーション取りまくったほうが気付きや学びは多いのではないのか?
もしこの宇宙が自分の脳以上のもので成り立っていたとしたら、瞑想なんてただの時間の無駄なのではないか?
(でも自分の脳でわかることしかわからないから結局は同じ?)
>>680 「という考えが心に浮かんだ。」
と気付いてください。
それ以上でも、それ以下でもない。
いかなる判断も下さず、現象をあるがままに気づき続ければ、正念正智は強くなり、無常・苦・無我は看破されるでしょう。
これが、仏道のあらすじです。
いかなる判断も下さず、現象をあるがままに気づき続ければ、正念正智は強くなり、無常・苦・無我は看破される。
という考えが心に浮かんだ。
この考えは無常である、無常であるものは苦である、苦であるものは我が所有に非ず、我が我がに非ず、我が本体にも非ず。
まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。
>>683のレスは無我である。
もちろん私のこのレスも我が所有に非ず、我が我がに非ず、我が本体にも非ずで無我である。
>>683 どこで学ばれたのでしょうか。
独学ですか。自ら体得したのでしょうか。
それとも何かを読まれたのでしょうか。
師から学ばれたのでしょうか。
>>687 私は、ゴエンカ師の瞑想センターや本などで学びましたよ。
>潜在意識は観察できないでしょう
たとえば
大乗の場合は
(仏性からの)真如縁起を前提としているらしので
それゆえに
(大乗の)唯識とかの場合も
法界体性智の世界から観照して
大円鏡智の世界から → 第八識 を観照する
平等性智の世界から → 第七識 を観照する
妙観察智の世界から → 第六意識を観照する
仏の世界から → 縁起している世界を観照する
そのための
自在力(神通力)
四神足
観神足
止(サマタ禅定)と観(ヴィパッサナー智慧)
ヒンドゥーとか?の場合は
宇宙に満ちている根源的エネルギーから
→ 人体内に存在する根源的生命エネルギーへ
みたいな感じであるらしい?
>>688 瞑想センターや本で、
>>683と同じような内容を学べたりできるのでようか。
>>690 それは分かりません。同じ修行をしていても、人によって結果がそれぞれ違うのは、個人の持つ個性、つまりその人の業や煩悩や福徳や波羅蜜の影響を受けるからです。
しかし、確実に言えるのは、私たちは涅槃に至るまで、ダンマに従い歩み続けるしかないということですね。それは、私たち全員に共通することです。シンプルと言えばシンプルですね。
【世界教師 マイトLーヤ】 落語家のツイートが炎上「世界中が憧れる日本での貧困は絶対に自分のせい」
http://2chb.net/r/liveplus/1519353860/l50 テーラワーダもいろいろあって、なんか歴史の中で生き延びるために「瞑想教」になってる
面があるような気がする。
瞑想にしろ他のものにしろ、真理に触れるためのただの道具、「はしご」に過ぎないのに
逆に瞑想教じゃない状況とは、どんな状況なんだろうか?
八正道の正精進、正念、正定は瞑想のことだし
三学の戒定慧から定を除く意味もわからない。
それをやったら形骸化してしまう。
>瞑想教じゃない状況とは、どんな状況なんだろうか?
たとえば
(大乗の)禅宗系の
机師匠とかは
「(すべて仏なのだから)只管打坐も必要がない!」
というような勘違いしてる人もいるらしい
「(苦集滅道ではなくて)すべて無苦集滅道である!」
というような勘違いしてるみたいな?
中国経由の大乗の場合は
上座部系の
(呼吸の観察をするというような)
第一禅定のような
話は聞いたことがないような気がするかも?
実践したことないけど
おじゃるは
上座部系の肯定派でつ
一応、念のため m(_ _)m
上座部では、まず、実在する存在である「法(諸行)」の個相を、一つ一つ識別します。
次に、その因果関係を認識します。
そして、「法」が「無常」、「苦」、「無我」であることを認識します。
これを「三相」とか「共相」とも呼びます。
「共相」というのは、すべての「法(諸行)」に共通する性質という意味です。
上座部のアビダルマ哲学では、物質は17刹那の間だけしか存在しないと考えます。
1刹那で「生」じ、15刹那「住」し、1刹那で「滅」します。
通常の意識では1刹那の「滅」は認識できないのですが、「観」ではその「滅」を観察しなければなりません。
(1刹那の「生」は意識の上る前に終わってしまうので、認識できません。)
そして、それらへの執着をなくしてきます。
この諸行の「三相」を対象とする「観」が自然に「涅槃」を対象とする特別な「観」になって聖者に至ります。
現代の上座部の改革派であるマハーシ・システムでは、まず、呼吸によるお腹の動きや、歩行動作を中心対象にします。
そして、その対象以外のものが意識に上ってくると、それに気づいて、手放します。
対象に気づいた時は、言葉に表して(ラベリング)意識します。
アビダンマ哲学に沿った細かい「法」の識別などの観察は行いません。
また、ゴエンカ・システムでは、感覚を対象にして観察することに徹します。
そして、身体感覚を順に観察することを行います。
https://gamp.ameblo.jp/morfo/entry-10820378088.html (実践したことないけど、とりあえず)
仮設としての
無明している
すべて一切の諸法は
地水火風の微細な粒子の密集に
依存している仮の現れ(そして滅)なので
それゆえに
http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/135d45345210d9384075a6349cf75349
大念住経(大念処経)
地の要素 、水の要素、火の要素、風の要素
我所ではない・我でもない
主客でもない
https://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html
漢訳 第一義空経
業報有るも而かも作者無し。此の陰滅し已らば異陰相續す
無明に縁りて → 行に縁りて → 識に縁りて → 「苦しい」という想いが現れて
無明滅して → 行滅して → 識滅して → 「苦しい」という想いが滅する
↓質問?
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/06/28/163259
ちなみに
密集というのは
「地水火風の微細な粒子の密集」という意味で良いのかしらん?
(密集を看破…)
ご教示、願います ヨロ m(_ _)m アルボムッレ・スマナサーラ長老すら解脱していないのに、このスレは意味が無いと思う。
説一切有部でも
(説一切有部、以外の)上座部でも
大乗でも
無明している世界を手放した如来もいるかも?
(有余涅槃から → 無余涅槃へと)
「解脱していない」と決めつけるのは
どうなんでしょうか?
青目(ピンガラ)中論 觀如來品 第二十二
…
人(おじゃる)は戯論を生じている
戯論して慧眼を破れば
是の人達は皆
仏を見ることはない
如来は戯論を超えている
_ _ _
戯論を生じている人(おじゃる)には
戯論を超えている如来のことは、わからない
という意味でつ ヨロ m(_ _)m
大念処経では「ヴィパッサナー冥想だけ」で解脱か不還果が7日で「誰でも」得られる、と説かれている。
しかし現代「ヴィパッサナー冥想本」を著書している人で「私は解脱した」と書いている人はいない。
ここに私の謎がある。
アルボムッレ・スマナサーラ長老の書籍をいくら読んでも「とてもこの人が解脱しているとは思えない」と感じるのは私だけだろうか?
どうしても修行中の行者にしか思えない。
かのブッダでも存命中は有余涅槃だったのに、wikiを読むと無余涅槃を存命中に得た仏弟子が載っている不思議。
とにかく「ヴィパッサナー冥想本」を著書している人で「私は解脱した」と記述していない本は読む気が全くしない。
どちらかというとだから僕は麻原とか大川に騙されるタイプです。
>>708 解脱している人は優れた人格者であるべき
解脱している人の著書にのみ価値がある
という価値観をヴィパッサナー冥想で見つめたらどうなる?
バーヒヤみたいに釈迦の言葉だけで阿羅漢レベルまで悟れる逸材もいたけどね
その悟った直後に不慮の事故で涅槃に行くことになってしまったというから
まあ確かバーヒヤさんはその前に自己流で瞑想はしていたんだった
比丘たちよ、樹皮行者のバーヒヤは、完全なる涅槃に到達したのです」と。
そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を知って、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。
「しかして、そこは、水と地と火と風が依って立たざるところにして、そこに、星々は輝かず、日は輝かず、そこに、月は輝かず、そこに、闇は見い出されない。
しかして、〔真の〕婆羅門たる牟尼(沈黙の聖者)が、寂黙〔の知慧〕によって、自己みずから、〔このことを〕知ったとき、しかして、形態(色)から、かつまた、形態なきもの(無色)から、楽苦〔の思い〕から、〔彼は〕解き放たれる」と。
>>709 結局僕は「....というその価値観をヴィパッサナー冥想で何故か見つめ無い」から、
どちらかというとだから僕は麻原とか大川に騙されるタイプなんですよ。
多分、オウムがあって空中浮遊があって「私は解脱者だ」と麻原に言われるか、著作本を読んでいたら、
今頃、獄中にいた気がします。
オウムに入らなかったのはたまたま運が良かっただけです。
(否、あるいはハタヨーガは信用していなかったのでそこで疑惑したかもしれません)
只、原始仏典には穴が無いからまるっきし信用してしまっています。
まあそこで沸いた疑惑が、
大念処経では「ヴィパッサナー冥想だけ」で解脱か不還果が7日で「誰でも」得られる、と説かれているのに、
何故、続々と解脱者が出ないんだ?というとこです(もしかしたら出てるけど解脱者が沈黙しているだけかも知れませんが)。
>>710 へえ。その話は、はじめて聞きました。すごい経典知識ですね。
「そこは、水と地と火と風が依って立たざるところにして、そこに、星々は輝かず、日は輝かず、
そこに、月は輝かず、そこに、闇は見い出されない。私(ブッダ)はそこを良く知っている」という文言は読んだことがあります。
>>711 なるほど
では、言っていませんでしたが、実は私は解脱者です
解脱して32年のベテラン解脱者です
解脱者の私から見て、スマナサーラ氏も確実に解脱者です、スマナサーラ氏の書籍を読む限り間違いありません
スマナサーラ氏の書籍を読みなさい
そうすればあなたは「必ず」悟れるでしょう
>>714 ありがとうございます。長老の本をもう一度じっくり読んでみますね。
(僕の性格を利用したひっかけのような気も少ししますが(笑))
>>713 小部経典の中の自説経(ウダーヤ)にある
「涅槃に関係したお話」にもそういう記載があるね
http://d.hatena.ne.jp/pali/touch/20120918/p1 >これ(涅槃)は、[何ものにも]依存せず、[何ものにも]作用せず、[つまり縁起の]対象になりません。
これが涅槃が無為法という経典上の根拠とはなるだろうね
ちょっとその前に長老への疑惑をといてください。
長老は、何かと激情派というか怒りっぽいというか、その辺がちょっと引っかかっているんです。
原始仏典上のブッダ像に無いその辺りのところ。
長老はピンドーラ・バーラドヴァージャタイプの解脱者なんだ!と言われてしまえばそれまでなんですが(笑)。
>水と地と火と風が依って立たざるところ
↑これは涅槃の世界のことで
仮設としての
無明している世界の中において
「四界分別をしなくてもよい」という意味ではないので
勘違いしないように ヨロ m(_ _)m
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/07/18/061429 四界分別
(我を主体として観察するのではないでつ
勘違いしないように ヨロ m(_ _)m )
>>716 へえそうでしたか。「マインドフル」と聞けば僕は「ティク・ナット・ハン」さんしか想い浮かびませんでした。
>>718 この人怒りっぽいな
この人は激情派だな
と判断したのは誰でしょう?
それはきっとあなたの心です
>>721 しかしそうなると麻原を疑う、大川を疑う、福永を疑う、とかもできなくなるじゃないですか?
その辺が分かりません。
>>720 自分も詳しくはないけど熊野先生というマインドフルネスの権威となっている先生がバーヒヤ経と雑阿含経の無常をマインドフルネスの説明に使っている動画はサラッと見たことはあるよ
雑阿含経
無常
http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama7051602.html >麻原を疑う
上座部系も大乗(密教)も、うまく利用していたようなので
確かに
判断するのは難しいかもしれない
それでも、とりあえずは
>>692のところが
有名な、ところであるらしい
とりあえず
疑うということも
大切なことかもしれないでつ
>>725 その経文は耳にこびりつくほど読んでいます。決して易しい教えではありませんが、さまざまな経典の中に繰り返し繰り返しでてきますね。
「バーヒヤさん、それでは、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。『見られたものにおいては、
見られたもののみが有るであろう。聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろう。
思われたものにおいては、思われたもののみが有るであろう。
識られたものにおいては、識られたもののみが有るであろう』と。
バーヒヤさん、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。
バーヒヤさん、まさに、あなたにとって、見られたものにおいては、
見られたもののみが有るであろうことから、聞かれたものにおいては、
聞かれたもののみが有るであろうことから、思われたものにおいては、
思われたもののみが有るであろうことから、識られたものにおいては、
識られたもののみが有るであろうことから、バーヒヤさん、それですから、
あなたは、それとともにいないのです。バーヒヤさん、あなたが、
それとともにいないことから、バーヒヤさん、それですから、あなたは、
そこにいないのです。バーヒヤさん、あなたが、そこにいないことから、
バーヒヤさん、それですから、あなたは、まさしく、この〔世〕になく、あの〔世〕になく、
両者の中間において〔存在し〕ないのです。これこそは、苦しみの終極“おわり”です」と。
そこで、まさに、樹皮行者のバーヒヤですが、世尊の、
この簡略なる法(教え)の説示によって、まさしく、ただちに、
〔何ものをも〕執取せずして、心は、諸々の煩悩から解脱しました。
この経は初見です。
素晴らしい教えですね。
>>726 成程、アドバイスありがとうございます。
では本でも読んで来ます。
皆さん、ありがとうございました。
>>728 >…この〔世〕になく、あの〔世〕になく…
「この世である」という想いではなく
「あの世である」という想いでもなく
「想いではない」という意味で
「涅槃はない」という意味ではないでつ
仮設としての
無明している世界の中の
色受想行識の仮和合
仮の現れ(そして滅)
それゆえに
「色受想行識ではない」という意味でつ
↑間違っていたら スマソ m(_ _)m
現在流行している「ヴィパッサナー」は、
四念処(大念処經)での「アヌパッサナー」(随観)だからじゃね?
>>705、
>>711 つか、だとしても、 ヴィパッサナー「だけで」なんてことは、
通仏教的にも、また、当の上座部系においても、ありえんわけで・・。
戒と定の併修(八正道)なしに、瞑想(≒禅定)だけでなんてのは、仏教じゃねーと思うよ。
つか、
諸々の行の先の(―きちんと行じ修めた上でその上での―)「ヴィパッサナー(行)」なんじゃね? >>ALL
比丘たちよ、半月間でなくてもよいのだ。
比丘たちよ、誰であれ、これらの四念処を、
このようにして七日間修習するならば、二つの果報のうちの一つが期待される。
すなわち現世にいるままでの完全智を得ることか、
あるいは、執着の残りがあるならば、不還果を得ることなのだ。
https://www54.atwiki.jp/waikei2008/pages/23.html そういえば
おじゃるの場合は
戒律(持戒)の実践もしたことがなかったでつ スマソ m(_ _)m
戒律・禅定(サマタ)・智慧(ヴィパッサナー)
布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若(の智慧と慈悲)
>完全智を得る
>不還果を得る
預流 しゅだおん
一来 しだごん
の場合は
という条件付きだったりして?
↑間違っていたら スマソ m(_ _)m
>>731 スマナサーラ氏は
「バーヒヤ、見るものは見ただけで、聞くものは聞いただけで、感じたものは感じただけ、考えたことは考えただけでとどまりなさい。
そのときあなたは、外にはいない(対象に捕らわれないという意味)。内にもいない(心の中にも執着・煩悩が生まれないという意味)。
外にも、内にもいないあなたはどちらにもいない(解脱の状態)。それは一切の苦しみの終わりである」
http://www.j-theravada.net/howa/howa35.html と解釈していたけどこの解釈はどうなんだろうね?
スマナサーラ氏の解釈というよりもあるいはテーラワーダの共通解釈なのかもしれないけど
ストレートにこの世への執着もあの世への執着も捨て去っている境地に達している(この世とかの世をともに捨て去ると同じような感じ)の方がしっくりくる
あるいはスッタニパータ第5章 7、学生ウバシーヴァの質問の中の
1074 師が答えた、「ウバシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられないのである。」
1076 師は答えた、
「ウバシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。
あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」
この辺のニュアンスに近い表現であるとも言えるかな
俺の解釈だけどね
>>737 しまった、スマナサーラ氏は内外になくで、パーリ直訳の方はこの世とあの世になくだったか
俺の解釈はこの世とあの世になくでの解釈
>あの世への執着も捨て去っている
ここで
やはり
大乗の世界観の説明が必要になる
という感じでつ
たとえば
https://www54.atwiki.jp/waikei2008/pages/23.html 中部経典 第10経 念処経
…
心
…
(我を主体として観察するのではなくて
仏の世界から観照して)
解脱した心を、解脱した心であると知る
仏の世界から観照して
→ 解脱した心であると知覚して住む
この時に
https://www54.atwiki.jp/waikei2008/pages/22.html 滅に触れ想滅定が生起して
そして
只管打坐
そして
さらに無の世界も超えて
移り行く世界の様を
平等性智をもって
ありのまま見つめている
↑このへんあたりが上座部と大乗で世界観が違うのかもしれない
(前半説教略)
そして世尊は遊行者(異教徒)ニグローダたちに言った
「四念処を、このようにして七日間修習するならば二つの果報のうちの一つが期待される。
すなわち現世にいるままでの完全智を得ることか、
あるいは、執着の残りがあるならば、不還果を得ることなのだ。」
このように言われた時、かの遊行者たちは、黙り込み、赤面し、肩を落とし、うなだれて、答えることもできずに、
座り込んでいた。
世尊は言った「ここにいる愚か者たちは『悟りを求めてゴータマのもとで四念処を実践しよう』と考える者は一人もいない。
いったいたった7日間が何だというのだ!」、と。
そこで世尊は霊鷲山にお戻りになった。
長部経典V
この経文を読む限り、「誰であれ/全くの異教徒であれ」、これらの四念処を、
このようにして「七日間修習」するならば、
現世にいるままでの完全智(解脱/悟り)を得ることか、
あるいは、執着の残りがあるならば、不還果を得ることが可能、という話になる。
するとアーナンダは何故?あるいは数学者モッガラーナとの問答は?等の疑問が沸いてくる。
この辺りが経典の不思議である。
>>740 たとえば
>かの遊行者たち
というのは
六師外道の系統とか
ヒンドゥー系とか
瑜伽行(ゆがぎょう)派とかの
最低限の実践をしていた人達だったりして?
すでに第一禅定とかを
実践をしていた人達だったりして?
しかしこの経文の前半を読むと、仏教の戒律に反する行いをしまくっている....(悪作)。
破戒の徒に正定無し、と言われている点。
正定から起こる第一禅定に達していたと推定するのは少し難しいかも。
それより何よりアーナンダは全て守って八正道を実践していたのに7日どころじゃ無いという矛盾。
経典 聖典に穴が無い 仏陀に穴が無い
本当でしょうか?
悟りの境地 解脱の境地?
本当ですか?
ブッダは本当に存在しましたか?
宗教集団が作った架空のカリスマの可能性は?
その辺りで買い物しているおばさんが解脱者の可能性は?
解脱者が怒っている時 内部から限りなく静かな境地でそれを見ている可能性は?
麻原氏は実際に解脱していて 同時に統合失調症の可能性は?
私には何もわからない.....
コーカーリヤ経
659
賭博で財を失う人は、
たとい自身を含めて一切を失うとも、
その不運はわずかなものである。
しかし立派な聖者(ブッダ)に対して悪意をいだく人の受ける不運は、
まことに重いのである。
660
悪口を言いまた悪意を起して聖者をそしる者は、
十万と三十六のニラップダの[巨大な年数のあいだ]
また五つのアッブダの[巨大な年数のあいだ]
地獄に赴く。
(-_-)南無・・
諸悪莫作…是諸仏教
(Sabbapāpassa akaraṇaṃ
…
Etaṃ buddhāna sāsanaṃ)
>>732 >当の上座部系においても、ありえんわけで・・。
Sukkhavipassaka (乾観行者)
Suddha-vipassanā-yānika (純観行者)
というのが上座部=分別説部の注釈文献等に明らかに現れる伝統説としてあってだね…あとはググってね
あと経量部の『成実論』では明らかに禅定に達しない程度の定で悟る説がある
>>580-581 >>750 基本的には、
初禅(離より生ずる喜と楽を生じる)
二禅(定より生ずる喜と楽を生じる)
三禅(喜を離れ捨念在住)
四禅(捨念清浄)
を経て三明を得て解脱→解脱知見
というのがブッダのくどいくらいに繰り返し説いたところである。
但し、サーリプッタは三明は得ていないの解脱した、と記述さる。(パーリ聖典等参照)
あるいは三明を得ずして智慧によって解脱した比丘のブッダへの報告の記述がある。(阿含経典「法の盗人より」)
さらに解脱には二種あり、一つは智慧によって解脱する慧解脱、とそうでは無い心解脱がある、と説かれる。
このようなことを原始経典に照らし合わせて考えると
>>750の知るその「説」は必ずしも虚偽であるとは断定できない。
>純観行(乾観行)
http://yamaneko.hatenablog.jp/?page=1463712851
上座部 パオ・セヤドー
純観行
まず、戒で(+己を)清浄にした後、禅修行者は
系統的に(+順序に従って)、四界分別観を修習する
修行者が、名前を色聚という微小な粒子を観る事が
できるようになったら、それらを識別する必要がある
不断に変易する四大界は
非常に集中力のある心でなければ、目標とすることができない
四大界の特相の、刹那から刹那への(+生滅変化への)
心の専注力は、止刹那定と言う
この時の心の安定度が
近行定の相と等しいので、これを純観行者の心清浄、と言う
この種の禅修行者は、またの名を『乾観行者』と言う
_ _ _
上座部 パオ・セヤドーの場合は
心の動揺をとどめて本源の真理に住する
サマタ禅定と
同等の
『非常に集中力のある』定力が必要であるらしい
(戒律(持戒)も必要であるらしい) 又あるいは、テーリーガータでは禅定に全く入らずに解脱した頓悟解脱比丘尼の例が多々記述され、
阿含経典等々にも「法話や説法が為されたのを聴いただけで
「直ちにそれを聴いていたそこに居たxx人の比丘は解脱した」、などの記述もある。
これら原始仏典は信用に値すると推定されるので、
これら諸説を以ってしても
>>750の知るその「説」の確からしさをより裏付ける。
>
>>750の知るその「説」は必ずしも虚偽であるとは断定できない
ここで
やはり
(大乗の)唯識系の説明が必要になる
という感じでつ
誰もが成仏するわけではない(五性各別)
仮設としての
この現世において
無性
(とりあえず?)仏性のないもの
(仏性に気づくことが難しい人?)
不定性
(仏性に気づくことが?)決っていない人
この現世においては無理だったとしても
来世には
ヒンドゥー系とか
上座部系とか
瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)系とか
後期大乗密教とかで
仏性に気づくことができる場合もあるかもしれない
<大乗仏教が勃興する前に、ブッダによって既に説かれていたこと(小乗批判説への反論)>
ブッダの前にサンガーラヴァなる者が現れて言った。
「我等はあなた方と違って、
他者に奉仕し、他者のために彼らを想うて修行を実践して活動しているのです(大乗)。
それなのにあなたた方は自身の解脱のみを追及する(小乗仏教)では無いですか?
我等は他者のため、あなた方は己一人の福を求める道である、違いますか?
(大乗は世のため救済のため、小乗<(後年で言うところの)上座部」は、セコイのではありませんか?)
すると既にこの時点、この時代、ブッダ存命中に、その答えを答えている。
ブッダのこの問いに関する回答は手短に言うと「我等は一人、また一人と解脱して幸せになる。
そしてその成就を成し遂げる弟子たちは、百、千.、万..と増えていくであろう。
すると、我らのこの道(小乗/上座部仏教)は、多くの衆生のため、世のため、世界の福への道と呼べないのであろうか?.
又、そうであるならば、サンガーラヴァよ、我らの道は、そなたの道の実践よりも劣る/衆生の福にならない自分勝手な道、と
言うのであるか?」
サンガーラヴァ「素晴らしいかなゴータマよ、もしそうであるのならば、あなた方の行く道はまさしくこの世を照らし、
多くの人々に益を与える道です。」
このような流れの説示と問答が既にブッダ存命中にあった(解決・回答済みであった)のである。
しかしながら大乗仏教徒はこの経文(既に解決済み・決着済みのことがら)すら知らず、
「我等は多くの人々を救済する優れた『大』乗仏教、上座部は自分の幸せしか考えていない
『まあに小さい仏教(小乗仏教)』」などと後世に触れ回ったのです。
即ち「大乗仏教徒の主張するところの「お前たち上座部は所詮「小」だ」」という驕りは、
実は大乗仏教徒の無知であり無学であり驕りである、私はそのように考えています。
自らが海で溺れているのに、他の溺れている他者をどうして助けることができようか?
私はまさにそう思っています。
>法話や説法が為されたのを聴いただけで
>「直ちにそれを聴いていたそこに居たxx人の比丘は解脱した
この場合は
『涅槃に成った』という意味ではなくて
たとえば
サーンキヤとかの
「永遠に変化することのないプルシャがある」
と掴もうとしている想いが依存している
無明している世界を手放して
預流 しゅだおん
預流向とか
預流果とかの意味だったりして
預流向とかに成れば
この現世においては無理だったとしても
来世には
一来向とか
一来果とかに成れる場合もあるかもしれない
何回か輪廻を繰り返しても
最終的には
有余涅槃とか
無余涅槃とかに成ればよい
みたいな感じかもしれない
(無限に輪廻を繰り返しているより良いのかも?)
>>745 > 経典 聖典に穴が無い 仏陀に穴が無い
> 本当でしょうか?
仏陀には穴はない。経典 聖典の穴は全部網羅していなので不明
> 悟りの境地 解脱の境地?
> 本当ですか?
本当
> ブッダは本当に存在しましたか?
した
> 宗教集団が作った架空のカリスマの可能性は?
ない
> その辺りで買い物しているおばさんが解脱者の可能性は?
ある
> 解脱者が怒っている時 内部から限りなく静かな境地でそれを見ている可能性は?
可能性ではなく静かな境地そのものでしかない
> 麻原氏は実際に解脱していて 同時に統合失調症の可能性は?
解脱はしていない。統合失調症についてはしらない。
>大乗仏教徒の主張するところの「お前たち上座部は所詮「小」だ」という驕り
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E7%9B%B8%E5%88%A4%E9%87%88 五時八教
「阿含経典が低い教えだ」という
中国経由の
大乗側の決め付けは
問題あり
という感じがします
一応
おじゃるは
上座部も肯定なので
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E4%BB%8F%E6%95%99 チベットの場合は
部分的には?
上座部のことも
受け継いでいるところもあるかもしれない
これ「悟り/目覚め」でも何でも無いと思うんだけど。
みなさんどう想いますか?こんなんですめば誰も修行なんてしないと
思うけど。ただ、良い動画とはおもうけど。
http://fast-uploader.com/file/7074525360730/ youtubeから(バハジ動画の)この動画だけ削除されているのも怪しい。
もしも想念や観念や心の作用が、何の修練も無しに自在に止めれるというのならば、
この世に苦しむ人など存在しない。
まあいいや。
答えられそうな人、一人もいない気がするから。
>何の修練も無しに自在に止めれる
ヒンドゥー(バラモン)
人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって
次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる
人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き
無限に続く
輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める
六師外道だったかもしれない
ウッダカ・ラーマプッタ
非想非非想
(非想非非想も依存している)
無明している世界を手放して
想受滅
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/shoki-soujumetu.htm 縁起している世界を観照するための
智慧と慈悲
自在力(神通力)
四神足
円成実性を見ずして
依他起性を見ることはできない
布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若(の智慧と慈悲)
まあ随分考える人だことw(ブーメラン♪ブーメラン♪)
>>762 >もしも想念や観念や心の作用が、何の修練も無しに自在に止めれるというのならば、
この世に苦しむ人など存在しない。
ただ心の作用を止めるのであれば生活出来なくなりますよ。
>何の修練も無しに自在に止めれるというのならば
だから修行するんでしょ。
>>749 それは、
(或る程度)到達し得た者が、
専らに(→自分に合うものとして)行じていた
ということの表現では?
観の前には、(段階・ステップとして)止が必要だろうし、
そのためには日々の心身の調律が必要だろうし、
托鉢して食事をして、さあ、坐禅をしようというルーティーンの際には、
段階を踏んで、観へ持っていかねばならないのでは?
勿論、理論的教義的には、一日24時間一年365日、ヴィパッサナーの状態でいる、
或は、授戒後、ヴィパッサナーのみでという人材もあり得ない話ではなかろうが、
それでも、日々の過ごし方に於いて、観のみということがありえるのかな?という素朴な疑問さw
もし、可だとするなら、仏道修行は、
そもそもゼロから百まで、「ヴィパッサナー(観)しか無い」という言い方になってしまうわけで・・。
少しばかり仏教を聞きかじっておるとな
ヴィパッサナー瞑想の効果は出にくいもんじゃ
実際そうじゃろう?
ぐちゃぐちゃした知識が素直な観察を邪魔をするのじゃな
そんな時はマインドフルネスをやるとよいぞ
余計なものを取り除いたシンプルなテクニックだがな
誰もが短時間で効果を出すことが科学的に実証されておるぞ
仏教バカは騙されたつもりでやってみるのも悪くないぞ
>>768 少しばかり仏教を聞きかじっておるだけのお前のようなバカの言うことに騙されるわけにはいかないな。
完全なる悟りを開いて阿羅漢になったということは、「実体=エゴ」が頭の中にもまったくないということです。
一瞬一瞬の無常に完全に気づいている「ヴィパッサナー」の知慧で生きているのですから、たとえぶたれても、サーリプッタ尊者にとっては、それはある瞬間、物質が物質に触れただけのことです。
そこで痛みが生まれても、心は痛みを感じて、「あっ、痛み」というだけで終わりということになります。
「私は痛い」とか「私はぶたれた」という発想は、無意識のところにもありません。だから、そういう態度でいられるのです。
http://d.hatena.ne.jp/uchikoyoga/touch/20100715 >>772 そのような態度を身に付けるのが仏教でしょうか?
仏教では苦しみが問題になっており、その苦しみをなくせばよいだけではないですか?
そして苦しみの原因は我執であると明確に述べていますので、それを実現する方法だけが問題になっていると思われます
特に様々な宗派が乱立して正統性を主張するので我々庶民には何が本当かさっぱり分からない
私が一番信頼しているのは、悩み無用のところだけです
悩み無用になるには執着を見るだけです
そして、それから離れるには、無心になるだけなのではないでしょうか
なかなか無心になれないので、呼吸や感覚を利用するのでしょう
ようは無心になれるように補助する作用が、瞑想やら、坐禅、または仏教のお勉強でしょうw
世間の事柄に執着をもちながらも、悟りも開きましょうというのが土台無理な話なのでしょう
現代では、悟りを開いている人はいないのですから、過去の偉人たちの言葉を頼りにするしかありません
それもまだ仏教が息を保っていたところまで帰っていけば、必ず無常、無我に行き着きます
ですので移ろい変わるものに執着をしないで、私のことは忘れて無心に生きる事が答えでしょうね
まあ、なかなかできる話ではありませんww
774.773,772.
心理学をやっている場合ではないよ。
>>775 なんでレス番遡ってるの?
なんで安価つけなかったの?
ご無沙汰してました
>>527 >>528 >>530 >>535 >>554 の続きです
ところが
次に行った氷川神社では彼がコンタクトを取ろうとしたが、神霊は出現しなかった
このようなケースはよくあった
建物は立派でも神霊がいなく、逆に質素だが神霊のいる神社
どうやら神主の信仰心や日頃のお勤め、生活態度が関係しているらしかった
話を戻すと、たしかに神霊は出現しなかった
しかし、彼が突然「神社の上空に龍がいる」と言い出した
そしてその姿は寺の天井や屏風に描かれている東洋の龍と同じで
色は灰色かかったシルバーらしい
自分としては龍は架空の神話的存在だと考えていた
なぜなら龍が普遍的存在ならその姿が世界中の文献に描かれているはずだ
しかしあの造形は東洋の文化圏にしか存在しない
たしかに西洋にもドラゴンがあるが東洋の龍とは似てない
もう一度彼に詳しく龍を観察してもらったが
龍は片手に玉のようなものを握っていて、しかも鱗まではっきり見えると言うのだ
彼も龍を見たのは初めてらしく、少々驚いていた
考えられるのは各国、民族の霊界に独自に進化した霊的生命体が実在するのか?
あるいは霊界に存在する形のない生命体に各民族の文化的イメージが投影されて龍に見えるのか?
それとも民族のイメージが蓄積されて創造された人工生命体なのか?
いずれにしろ当時は龍の正体はわからなかった
そこで彼にいつものように龍とコンタクトできないかと訊いてみた
すると
なんでテーラワーダ仏教スレで神社がでてくんのΣ(・ω・`;)三(;´・ω・)?
天神が仏教と関係ないとか、完全に別系統で無関係だと思ってるのかも知れませんが、
六道にはもともと天界が入ってますし、天神も龍も、仏教聖典に登場してきますよね。
「違う」と感じるのは、もしかしたら人間側から見た先入観かもしれませんよ。
瞑想の話題からは逸れてますけどね・・・
龍神や樹神や土地神などは、私たちの人間界の一つ上である「四王天」の最下層の人たちですね。
あと、幽霊、地縛霊などは餓鬼界の人たちです。
テーラワーダ仏教の教義は、全ての衆生を網羅しているのではないでしょうか。(植物以外は…。)
>>782 どのエピソードですか?
天界に生まれ変わった人たちのエピソードが記されている「天宮事経」では、三十三天がよく出てきますが、そこにも楽器の奏者は沢山いるようですよ。
人間界の上が四大王天で、その上が三十三天となっています。
>>783 なるほど!
でも、歌ってるのだけ聞こえてきて
別に、なんか、こう、そのような世界は見えないんだよね
一段高いとこの波長に意識がフィットすると、こう、無意識に溜まってる音楽が流れてる
というか、なんか、なんかの人?
なんか見えないからわかんないけど歌ってる、なんらかの楽しげな人?がある
その下は虫みたいな機械みたいなんで、普通の現象界の音が、そこに反響すると、なんか全然違う音になってるの
虫みたいなんとかアーとか、まあ様々
消化されてないゲリ便のような唯識を混ぜたい奴とか、神道を混ぜたい奴とか、
一体このスレはどこにいくのやら。┐(´ー`)┌
>神道
ヒンドゥーとか?
↓
中国経由とか?
↓
日本の神道へ?
_ _ _
ヒンドゥーとか
↓
上座部とか
↓
密教とか
↓
神仏習合とか
神仏習合に部分的にでも
瓶から瓶へ水を一滴もこぼさないでうつす
瀉瓶のように
上座部から受け継いでるものが
あるのかしらん?
密教の場合は部分的に受け継いでるかもしれない?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%8F%E7%BF%92%E5%90%88
神祇信仰と習合しやすい呪術的要素を持ちながら
国家護持や普遍性・抽象性を備えた教説として
諸国神宮寺の心を捉えたのが空海の伝えた真言宗
どこの部分が
>消化されてないゲリ便のような唯識
なのか?
レス番とかで詳しく
詳しく説明してくれないと
どこの部分が
>消化されてないゲリ便のような唯識
なのか?がわからないので
詳しく ヨロ m(_ _)m
ID:7UwbD3zy殿の場合は
(日本の神道のことも?)
上座部のことも
唯識のことも
専門的に
詳しく勉強してるんでしょ?
現代語訳で
初心者向けに
わかりやすい説明で ヨロ m(_ _)m
http://www.onedhamma.com/?p=5136
このpodcast法話で
曹洞宗の藤田一照僧侶も
『(上座部系のような)2.0から→3.0になった』といってるので
魚川祐司氏も山下良道僧侶も藤田一照僧侶も
三人とも
(上座部系のような)2.0も理解してる上で
対談しているのでつ
そして(上座部系のような)2.0も理解してる上で
魚川祐司氏
「無為法の世界から → 有為法の世界を観察できるのか?」
山下良道僧侶
「無為法の世界から → 有為法の世界を観照できる!」
_ _ _
このpodcast法話を聞いた上で、おじゃるの場合は
上座部系の
止(サマタ禅定)と観(ヴィパッサナー智慧)の実践において
有覆無記の末那識は
仏道への障害になるでしょ?
と説明しているのでつ
(だから上座部と唯識は(実践において?)関係あるでしょ?) 龍の話は面白いじゃん
逆にこの手の話を嫌がるのって神秘主義嫌いな禅宗崩れか「原始仏教徒」くらいでしょ
パーリ・アッタカターにはこの手の話が一杯あるのに、そういうの読まないで
「仏法に不思議なし」な中村元経由でこのスレに参戦してこられてもね
まあ誰ウェルだけど
龍の話って↓これ?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%AA%E6%A5%BC%E9%A0%BB%E8%9E%BA%E3%83%BB%E8%BF%A6%E8%91%89
ウルヴェーラ
…
釈迦は
堂中に入ると、竜が炎を吐いて襲って来たので、火界定三昧に入り竜の魔力を奪った
釈迦は静かに禅定していて竜が小さくなって鉢の中にいた
↑
無明の世界を手放しさせる為の
神通力
四神足
如来の智慧と慈悲をもって → 縁起している世界を観照せよ
という導きのような気がする
_ _ _
>原始仏教徒
たとえば
神秘のようなものを否定してる
スマナサーラ僧侶とか?
なぜ、スマナサーラ僧侶とかは評判が悪いのか?
その理由を、ご教示願います
ダウンロード&関連動画>>
@YouTube
(無明している世界を)手放しせよ。と
まともなことも言ってるような気がするけど? 原始仏教徒=仏教学経由で「パーリ仏典に埋もれている<真の仏説>」を信奉してる人のこと
スマナサーラ長老のことじゃないよ
> パーリ仏典に埋もれている<真の仏説>
(ちなみに、おじゃるの場合は、実践したことないけど)
実践したことない
仏教学経由での
戒律・禅定(サマタ)・智慧(ヴィパッサナー)への
知識(思惟・妄想・分別)のこと。とか?
…
あるいは
仏性からの真如縁起を前提としてないこと。とか?
人智を超えた悟りの智慧(無分別智)が、
人智(思考分別)の範囲内に収まるわけない。
概念智(知識 intelligence)だけで、
体験智(智慧 wisdom)が分かるわけない。
分別智や知識は大切だし、有用だけれども
それが分かったところで、無分智や智慧に達したわけではない。
前者は月を指す指。
月そのものは、後者。
座学だけで悟りがわかるなら、修道など必要がないということになる。
>>この手の話を嫌がるのって…信奉(妄信?)してる人のこと
>座学だけで悟りがわかるなら、修道など必要がない
にゃるほろ =^・ ・^=
「真の仏説のようなものがあるはずだっ!」と
掴もうと信奉(妄信?)してる
おじゃるのことだったのでつね?
ご教示ありがとうございます =^・ ・^=
ちなみに
おじゃるの場合は
神秘のようなもの肯定派で おじゃる
(一応、念のため…)
>>791 無明って何のこと?
明かりがないってこと?
龍って内面のというか、この世界にはいないんだから、何かの喩えかもしれん?
それとも単に経験不足なのか
>>796 おじゃるさんに言ったわけではありませんよ。
仏教学だけで悟りが分かったつもりになっている人一般に向けての、個人的な感想です。
ヴィパッサナーって鼻先で呼吸見るとアナパナになるの?マハシじゃなくてパオ式?
どっちでも良いかよく分からんよ。スマ長老は初心者瞑想指導では、100%言う通りに
やってくださいと言うけど、どうも腹式呼吸見るのは、自分に合ってないような気がする。
歩く瞑想も、上げます運びます下げますじゃなくて、普通に歩いて右左右左で、預流果まで
行ったんだけど。
預流果から上へ全然行かないです。やり方がまずいのかなぁ。誰かヒント教えて。
>>799 アナパナはサマタでもありヴィパッサナーでもあるよ。
>どうも腹式呼吸見るのは、自分に合ってないような気がする。
そうなら本来の人中でみるか、鼻の穴でみればいい。
腹でみるのは鼻でみるより面積が有って分かりやすいから。
つまり一般向けにしたということ。
「アナパナはサマタだ」という固定観念があるかもしれないが、
呼吸をみるということは今に気づいていることであり、分別がない
ということ。
その対象をすべてに向けたのがヴィパッサナー。
>マハシじゃなくてパオ式?
マハシとパオは相当違う。
本来サマタを極めなければヴィパッサナーなど出る訳が無い。
釈尊は無所有処、非想非非想処というサマタの定に達していたから
悟ることが出来た。
サマタを経ずにいきなりヴィパッサナーというのは、たしかにそれなりの
効果が無くはないが、悟りに至るのは不可能だと思う。
そういう点ではパオのやりかたが一番だろう。
ただパオ式というのは出家でなければ色々な条件的に厳しいと思う。
>>799 預流果いってんだ凄いじゃん
世界の見え方変わっちゃった?
>>802 やっぱり、三結が切れるって言う表現が一番正しいと思う。有身見、疑、儀式儀礼への
執着の3つがなくなる。
まあ、儀式儀礼は旧約聖書なんか読むと、やたら、動物を生贄にしたりしてるから、
何らかの魔法みたいな意味はあるのかな?とか思っちゃうけど、それが個人の煩悩を減らしてくれるかと
言うと、そうじゃないだろって分かる。
>>799 日常生活全てを気づきで埋め尽くす決意で生きるとかどうでしょう。
もうやっておられるのなら引き続き淡々と、時には捨て身で死ぬ気で気づき続けてみて下さい。
あと、そうですね。
師から言われたやり方が『私に合ってない』のは、一体『誰』がそう思っているのでしょう。
それは『私』でしょう。瞑想では『私』が徹底的に邪魔をしてきます。…だからこそ、それを捨てる覚悟がなければね。
私は預流から一来まで10年以上かかりました。
預流から一来は、十結として見れば、欲と怒りが減るだけで、大した変化が無いように見えますが、無我相が表面意識にまで上がってくるので個人意識としてはかなり凄い変革があります。
是非、楽しみにして頑張ってください。
>無明って何
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%98%8E 無明
迷いのこと
また真理に暗いこと、智慧の光に照らされていない状態をいう
法性に対する言葉である
すべての苦は、無明(迷い)を原因とする煩悩から発生し
智慧によって無明を破ることにより消滅すると説く
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AB%E7%BF%92 無始からの(輪廻を繰り返して)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている
無明薫習
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html 中論 第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察
無明の暗闇に覆われて
無明に依存して
渇愛が現れて
誤ったあり方を掴んで離さないような固執も現れる
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B (無明に依存してるので、それゆえに)
中観自立派
「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である
それは、火自体の側にある固有の要素だ」
という自相(自性)を、世俗の次元では承認します
(無明を手放して、そして)
中観帰謬派
自相(自性)を、世俗の次元でも否定します
光り輝いている仏の世界から → 暗闇に覆われてる無明の世界を観照する
http://www.onedhamma.com/?p=5136 2015/05/24
このpodcast法話から(18/02/25までの)
毎週、最新の法話 を聞いているけど
パオ・セヤドーの場合は
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/09/27/175858 生滅智
仮設としての
縁起している
すべて一切の諸法が生滅している
無明している世界
この無明している世界を手放して
涅槃の世界まで
(観(ヴィパッサナー智慧)も含めて?)
止(サマタ禅定)の実践をするらしい
無明している世界を手放しする為の
因縁生滅智とか
刹那生滅智とかであるらしい
生滅智の場合は
観(ヴィパッサナー智慧)かもしれない?
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/09/27/175858 パオ・セヤドー
因縁生滅智
刹那生滅智
生滅智という観智
と書いてあるので
たぶん
観(ヴィパッサナー智慧)でつね
失礼いたしました スマソ m(_ _)m
あるいは
止(サマタ禅定)の禅定力も伴っている智慧と慈悲。とか?
>おじゃるさんに言ったわけではありません
ちなみに
おじゃるの場合は
「出来るのに、やらない」ということではなくて
仏道への障害になっている
有覆無記の末那識に依存しているので
我を主体としているので
それゆえに
呼吸の観察が出来ない
「実践してみたけど → 実際にはできない」ということでつ
この時に、やはり
唯識の説明が必要になるのでつ
第六意識
(我を主体として)呼吸の観察をしようとする
第七識
(有覆無記として)
仏道への障害があるので
実際には → 呼吸の観察が出来ない
これは教学としてではなくて
実際に実践してみたけど
『実際には出来ない』という体験・経験なのでつ
我を主体としているので
呼吸の観察が出来ないので
今、現状においては
宇宙に満ちている根源的エネルギーから
↓
第6のチャクラ
眉間のところが、くすぐったい、むずむずする
https://www.nhk.or.jp/special/stress/02.html
マインドフルネス
何か雑念が出てきたことに気づいても
その辺りに漂わせておくようにして自然に消えていくのを見届けます
ちなみに
おじゃるの場合は
(我を主体としているので)
雑念が消えることなく、また次の雑念が(延々と)現れるけど…
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B0
フォーカシング(焦点合わせ、Focusing)
まだ言葉にならない意味のある感覚(フェルト・センス)に注意を向け、その感覚と共に過ごす
胸の奥や腹の底など身体の中心部分にぼんやりと注意を向けながら
何かの気がかりにまつわる感じ(フェルト・センス)が感じられるのを、受容的な態度で待つ
これは身体が
「ぽかぽかと暖かい」という感じがする おじゃる
ということで
「出来るのに、やらない」ということではないでつ
(一応、上座部系も肯定派なので…)
一来と
禅定との関係がわからないけど、とりあえず
http://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
第一禅定の四番目
スカ(楽) 幸せの要素です
と書いてあるので
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%95%8C
天界 諸々の「喜び」を感じる?
声聞界 仏法を学んでいる状態?
縁覚界 仏道に縁する?
菩薩界 仏の使いとして行動する?
最終的には? 仏界
_ _ _
呼吸に戻す 一番目を手放して
対象に留めておく 二番目を手放して
喜びの 三番目を手放して
幸せの 四番目を手放して、そして
第一禅定の五番目
エーカガター
1つの対象に集中していて心が散漫にならない要素です >>799 他の人もいってるけど日常でどうできるか
気づきや観察を保つという言い方もできるけど、できる限り瞬間瞬間生じるこだわりや執着に気づいて
それをひとつひとつ着実に手放していくのもいいと思う
ただ観察するだけじゃなくて執着の根っこまで到達して消していかないといけない
そのへんは淡々と観察を続けることでも少しづつ減るけど観察のピントが深く狭くならないとなかなかなくなりはしない
預流果だと自分はないとわかるけど、自分はないとわかった自分がまだかなり残っている
その自分がなくなるには自分が観察している主体であるというこだわりが減っていかないといけない
じゃあ主体というこだわりがどうして残っているかというとまだ様々な対象に対しての執着やこだわりが根っこで残っているからだし
対象への執着が減っていくことで自他の関係性から自分が自分であるという主体の執着も減っていって次の段階にシフトすると思うよ
>淡々と観察を続ける
http://pao.hamazo.tv/c601110.html
パオ森林僧院における修行の進め方
クムダセヤドー
アーナパーナ瞑想を行う場合は
呼吸に30分〜1時間、集中する(気づく)ことを継続します
この間に、他のことや妄想、思考が入らないようにします
_ _ _
(我を主体とすることなく)
仏の世界からの
智慧と慈悲をもって
どこかへ飛んでいってしまう心の働きを
30分〜1時間
呼吸を観照していることに知覚して住む
(仏の世界に住んで → 観照する)
パオ・セヤドーとかの場合は
30分〜1時間ぐらい
ということであるらしい >>812 預流の流れに乗った時や、その後一来に達したとき、どんな変化があったのでしょうか。
ある種、神秘体験的なことが起こったりしますか。
俺は預流だ、一来だと言っているけど、自分でそう思ってるの?
それとも老師にインタビューされたの?
>>812 だからね、ともかくサマタをしっかりやること。
サマタをいいかげんにしてヴィパッサナーをやろうとするから
苦しむし、遠回りにしかならない。
>>814 神秘体験みたいなことはいろいろありましたよ
至高体験以外にも体外離脱とかそういうのもいろいろ、でもあまりへんな体験は脳の錯覚かもしれないし気にしないようにしましたけど
公案が解けたりみたいなこともありました
変化は大体本に書いてあるような変化がありましたね
過去の記憶や未来のこと考えても何も後悔や不安の感情生じなくなりましたし、いまは現在のことでもほんの少し短い間感情わくくらいですね
自分の感情って感じもしないですけど
最初は自分も世界も何もないってわかって、ただわかった自分がそのとき生じていたので、
それからその自分もないってなっていきましたね
自分を対象にして観察してましたけど、対象の自分と観察する自分の区別がなくなって、ただ観察だけが残ってるようになりましたね
自分が観察してるのではなくただ観察だけがあるという感じです
止観というとむずかしいけれど地道に自分を見つめて我(執着、こだわり、分別)を減らしていくのが一番着実なんじゃないかなと思います
あとほぼ独学なので自分が預流とか一来とか自信もって言うつもりはないんですよね
本と照らすと大体合ってるのでたぶんそうだろうなとは思いますけど
段階自体、むかしは一来の段階が言われてなかったとかいう説もありますし参考にしてるだけですね
なのでよくわかってる方からちがうと言われたらああちがうんですねという感じですね
>>777 つづきです
彼は神社の上空を見つめて龍とコンタクトを始めた
ところが彼は「この龍は神界に近い次元の存在で人間界とはほとんど係わりを持たない」
また「語りかけても無関心というかうるさそうな感じで反応しようとしない」と言うのだ
しかしながら自分としては龍の存在自体が半信半疑なのに、そのうえ会話もできないとなると
ただ「龍がいる」と言われても信じることは無理だった
そこで他に何か龍の実在の証しのようなものを体験できる手だてはないかと彼に訊いてみた
すると彼はもう一度龍のいる方向を凝視しながら一心にコンタクトを始めた
しばらくすると突然彼が私に「4歩ほど前に歩み出てください」と言った
それで言われるままに4歩数えながら前に出た
それから彼が「そのまま正面を向いたまま立っていてください」と言った
そのまま深夜の境内で立ち尽くしていると、急に自分の体がユラユラと揺れ出した
驚いて彼に訊ねた「体が動き出したよ!、いったいどうなってるのか?」と
彼の説明によると、龍に強く願ったところ承諾してくれたらしい
そして龍の手から玉が離れ私の頭上まで来て、それからゆっくり回転し出したのこと
確かに体が動いたことは実感できた、しかしどのようなメカニズムが働いたのか?
龍のような精妙なエネルギー体が体を揺するような物理現象を起こすことができるとは思えない
しかし以前、合気道や気功で気の力で人を跳ね飛ばすのを目の前で見たことがある
だから気か念のようなパワーが自分のエネルギー体あるは精神に影響を与えて体が動いたのかもしれない
まるでマンガのような話だけど実話です
いずれにしろ不思議な体験だった
それと彼はこの龍と神社は直接関係はないと言っていたが、なぜ龍が神社の上空にいたのかは謎だった
ところが
>龍
↓『山、洞窟、滅』というキーワード
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%B4%E3%83%B3 ドラゴン
北欧
ゲルマン語圏
…洞窟や山中に巨大な怪蛇がいて、いつの日か姿を現し、広範囲に破滅をもたらす
https://www.iwanami.co.jp/book/b270312.html 法華経 上 ワイド版 岩波文庫 31ページ参照
敢然と山の洞窟にはいって修行する
(たとえば上座部系とか瑜伽行派とかが
サマタ禅定・ヴィパッサナー智慧とかを実践している)求法者
彼らは仏の智慧と慈悲を遵奉している
(上座部系とか瑜伽行派とかの)
神通力を具現化させる
四神足の智慧と慈悲を具えて
身体から光輝を放ち
(無明を滅して)
地獄に墜ちた衆生を救い上げ
彼らを「さとり」に導く
http://www.tv-tokyo.co.jp/anime/fairytail/index2.html FAIRY TAIL
https://shingekinobahamut-virginsoul.jp/ http://manaria.jp/ 神撃のバハムート
http://haremking.tv/season3/ http://haremking.tv/ ハイスクールD×D
>>816 成程。独学のようですが参考文献(瞑想のやり方、預流、一来について)等教えていただくことは可能ですか。
あと、至高体験って具体的にどんなのでしょう。
光が見えるとか、多幸感に包まれるとか、書物には書かれていないような体験とかしたりしたのでしょうか。
>>821 >至高体験って具体的にどんなのでしょう。
瞑想を志すのにその辺に興味を持つのは良いことでは有りません。
光を見るのは当たり前ですし、多幸感も当たり前に経験します。
というか、それは「通過地点」であってその経験も出来ないようなら
次に進むことも出来ません。
仏教にとって瞑想は命です。
教学だけあっても瞑想がなければ何の役にもたたないのです。
そして自己流で誤った瞑想をするのは危険です。
しっかりした指導者や僧侶に教わるべきです。
やり方を覚えてからなら独りでやってもよいでしょう。
>>817 のつづきです
背後の女の霊の話からだいぶ脱線しているけど、もう少しお付き合いください
それとこのスレのテーマの邪魔にならないようにひっそり書き込むので関心のある人だけ読んでください
ちなみにその後もいろいろの神社、寺院に行ってみた
なかには「われは龍神である」とか「私は○○の神だ」と名乗る神霊にも結構出会った
ところが、会話をしてみると意識のレベルが意外と低く、「これが高次元の神か?」と
疑問を抱くケースも多々あった
突っ込んだ質問をすると化けの皮が剥がれ?人霊(行者霊)だということが判明したりした
このような場合は本人に強い信仰があり、かつ長年に参拝者に「龍神様」「○○神様」と祭り上げられ、
崇拝されるうちに自分と神との区別ができなくなり無意識に神そのものになりきって(思い込んで)しまったようだ
なお、高次元の神霊の特徴は人間的な自我がほぼなくなっているようだ(意思はあるが)
生前の感情、人格、性格のようなものはほとんどそぎ落とされていて男女の区別もない
ちょうど仏教の悟りの段階に入った状態なのかもしれない
また姿かたちにも人間的な要素はなくなっており、光リ輝くエネルギー体に見えるらしい
自分と彼とで行った実験と研究で知りえたこと、体験したことはまだいろいろあるが、
(たとえば日本や世界にたくさんお宗教がありその世界観や教義になぜ違いがあるのかとか)
きりがないのでこの辺で止めておきます(希望があれば書きますが)
ところが
>なお、高次元の神霊の特徴は人間的な自我がほぼなくなっているようだ(意思はあるが)
>生前の感情、人格、性格のようなものはほとんどそぎ落とされていて男女の区別もない
仏教でいう梵天だね。梵天には男しかいないが
スマナサーラ長老いわく一番性別的な特徴が弱いのが男だから性別の無化に近いらしいが
>>821 何が参考になるか自体人によって違うと思いますし、自分が一方に偏らないように、
あらゆるものを参考に読むのがいいと思いますよ。
自分は初期仏教と禅宗に関しては本とネットと読めるだけ読みました。
自分の状態が変わるとこれはなんだろうと答え合わせしたり。
経典など昔のものは現代語しかわからないので現代語訳しか読んでないですが。
それからクリシュナムルティ、ニサルガダッタマハラジなどの本もよく読みました。
そのあたりは仏教ではないですが山下さんや西澤さん、地橋さんなどもそのあたり読んだりされてますしね。
至高体験はする人はいろいろすると思いますが、自分の考えでは自分の捉われが消えるその捉われの大きさや
元々抱いていたイメージから象徴化してしまう部分があるので、あくまで参考程度になるべく気にしないのがいいと思います。
その日や数日も経てば元のなんでもない日常に戻るのが普通ですし。
本当に戻らない状態になるまで、見えるもの、表れる状態、どんなものもそれに捉われないようにするのがいいと思います。
自分の進み具合で目安にできるのは、あらゆるものから自分自身から自分がどれだけ自由になっているか、それくらいだと思います。
自分に言えることは自分の捉われ、執着、こだわり、分別、価値観、自己イメージ、観念や概念、欲や願望、特徴、後天的に身につけたもの、
それらに自分自身気づき、地道に少しずつでも確実に手放していくことですね。
それらは自分が作ったりいつの間にか持ったりしただけのものなので、それらから自由になったとき自分とはいったい何で、どうなるのか、
それだけだと思います。
いろいろな瞑想、やり方などありますが、いかにそれができるか、それだけだと思います。
心や身体に生じる感覚や思い、どのようなものにも執着せず、常にただひたすら自分の内面を見ていることができるなら、
特別なことはしなくても、それだけでもいい気もします。
それがむずかしいのでいろんな瞑想などがあるんでしょうけどね。
>>823 >(たとえば日本や世界にたくさんお宗教がありその世界観や教義になぜ違いがあるのかとか)
kwsk
>>826 この度は、いろいろとご丁寧にありがとうございました。
>>800,801,804,812
お礼遅くなりました。参考にさせて頂きます。ありがとうございました。
>>835 『徳(パーラミー)と呼ばれるものがあります。心の善い性質です。十のパーラミーがあります。この十のパーラミーは、ヴィパッサナーの修行を助け、苦悩から幸福へと導くものです。
十のパーラミー (pāramī) :心の完成
ネッカマ (nekkhamma) :放棄、出家
シーラ (sīla) :道徳律
ヴィリヤ (viriya) :努力
カンティ (khanti) :忍耐
サッチャ (sacca) :正直
アディッターナ (adhiṭṭhāna) :強い決意
パンニャー (paññā) :智恵
ウペッカー (upekkhā) :平静
メッター (mettā) :無私の愛
ダーナ (dāna) :寛大、寄付』
(日本ヴィパッサナー協会の記事より抜粋)
>本来サマタを極めなければヴィパッサナーなど出る訳が無い。
>サマタをいいかげんにしてヴィパッサナーをやろうとするから
無知過ぎではないかな、ヴィパッサナーは定を伴っているし、
釈尊はサマタを極めた結果、捨てたでしょ。(中部経典より)
サマタは作為的で一時的で無常で壊滅する作られた境地と、
これは解脱に至る道でないと仏典で説かれています。
九次第定の四禅と八正道の四禅とでは、内容が異なっています。
純観行、乾観者って知らないのでしょうか。
観の系譜で解脱できちゃうことを、智慧の解脱として教えてます。
もちろん止と観でもいいが、止だけで解脱できないことは明言してます。
横だけど
Sを極めなければVなどできない
に対する反論として
Sだけでは解脱できない
という話に持っていってしまう
もうちょっと日本語勉強した方がいいのでは?
横だけど慧解脱と倶分解脱を無視して
Vだけでは悟れないSやれって壊れたレコードみたいに繰り返すのは
パオ系の法話ばっかり聞いてないで
もうちょっとパーリ仏典勉強した方がいいのでは?
>>839 違ってたら悪いが
オレの文章真似して反論したつもりになってるとしたら
オレは
Sを極めなければVなどできない
に対して
Sだけでは解脱できない
では論理的に繋がってないだろ?って話をしてるんだからな
どっちが正しいとか仏典に根拠があるとかの話はしてないぞ
>>840 さすがに837の主張を「Sだけでは解脱できない」に要約するのは無理がありすぎでは?
>>841 > さすがに837の主張を「Sだけでは解脱できない」に要約するのは無理がありすぎでは?
そう?
まあ >837 は要約できるほど話の筋が通ってないが
>サマタは作為的で一時的で無常で壊滅する作られた境地と、
>これは解脱に至る道でないと仏典で説かれています。
>もちろん止と観でもいいが、止だけで解脱できないことは明言してます。
ここらへん
「Sだけでは解脱できない」でしょ
元々のSを極めなければVなどできないをSだけで解脱できる論と誤読してないと出てこない
>>842 綺麗にスルーしてるんだね
>ヴィパッサナーは定を伴っているし、
>純観行、乾観者って知らないのでしょうか。
正定(サンマー・サマーディ)
禅定(ジャーナ)
修行の入り口において、禅定レベルのサマーディに対するスタンスが違うだけで、
パオもマハシも、大念住経に基づいて修行しているし、最終的には同じことだと
思うのだが、違うのかな。
座禅の時以外の、日常生活において、念を保って生活するやり方なんかは、ほと
んどおんなじことやってるでしょう?
>>845 だから要約できるほど話の筋が通ってないって言ってるのw
Sだけでは解脱できないって話と、Vだけで解脱できるっていう正しい反論とをごっちゃにして語ってるんだから
Sだけでは解脱できないっていう間違った反論も混じってることは分かるでしょw
マハシだって、一来果を目指す段階で禅定に入れるでしょ。
本当に預流果ならば、の話だけど。
マハシでも五盖を完全に取り除くレベルの近行定か瞬間定がないと本当のヴィパッサナーできないんだよね確か
サマディーが五蓋を鎮めるのに対して、五蓋を滅するのが四念処で、
五蓋の滅は、サマタの修行では、得られない
釈尊が禅定の最高の境地を捨てたのは、止の修行のみだったからで、
止の坐禅から、日常に戻れば煩悩凡夫、呼吸観察も止の類ですけど
観による解脱には、その逆戻りが起きない
禅宗は無心宇宙意識なる真実在に帰一哲学のヒンドゥー化で止行中心なんだけど
長部22経 大念処経、中部10経 念処経、止が混ざってるけど、ほぼ観中心ですよね
>>850 > 禅宗は無心宇宙意識なる真実在に帰一哲学のヒンドゥー化で止行中心なんだけど
やり方聞いた感じだと禅は止じゃなかったよ
どっちかというと観に近い
>>851 それは木を見て森を見ずですが、観であっても無想定なだけで、
教えの中身も異なり、只管打坐も知らないのでしょうか
>>852 知らないのでしょうかも何も聞いただけだものw
でも、全然定なんか狙わないで、ただ今の現実のままそこに居るだけだってさ
観と何か違う?
流派があるのかな?
>>849 本当のヴィパッサナーw、なら嘘のヴィパッサナーって何?
例えばスマ長老のヴィパッサナー指導は本当の?嘘の?
>>855 マハーシサヤドーと現代のヴィパッサナー瞑想法っていうやつの、質問6,7を見てみて
ヴィパッサナー瞑想のときカニカサマーディが無ければヴィパッサナーの智慧は生じないって書かれてる
これを本物って表現したの
>>856 ヴィパッサナーってそもそも集中を伴ってますよね、
念処経のどこに瞬間定が該当してますか
止と観を分けた増支部経典は、どう解釈しますか
増支部から抜粋、
「友よ、世に比丘あり、@止に次いで観を修す。
止に次いで観を修する彼に道が生ず。
彼はその道を習い修し、多所作す。
彼がはその道を習い修し、多所作するをもって、結は断たれ随眠は遠ざけられる。
また次に、友よ、世に比丘あり、A観に次いで止を修す。
観に次いで止を修する彼に道が生ず。
また次に、友よ、世に比丘あり、B止と観とを一双にまとめて修す。
止と観とを一双にまとめて修する彼に道が生ず。以下略」
>>857 さあ、そんな難しいことは知らんw
ただ、マハーシ式は創始者のマハーシサヤドー本人が、瞬間定が無ければヴィパッサナーの智慧は生じないって言ってるんだから、
マハーシ式をやる限りは、瞬間定が出るまでは本物のヴィパッサナーになってないんじゃないのかな?
マハーシ式はかなり新しいし、経典と合わないこともあるんじゃないの
ヴィパッサナーについては、色々な定義がある。
例えばパオだと16観智の下から三つ目以上つまり思惟智以上が正式なヴィパッサナーとされる。
恐らくこれは、清浄道論に則っている解釈である。
しかし私の経験則からすると、必ずしも清浄道論に則る必要は無くこれも一種の方便で、例えば別に長老の説法を聴いて一発で悟ることは可能だと思う。
その場合、聴いて意味を理解した直後に刹那定に入り道果心が生じることになる。
これも如実智見であるから、つまり正真正銘のヴィパッサナーである。
そう、観るから定に入る智慧が出るというのではなくてそれらは同じ
定に入った時は観えてるし智慧が出たときは観えてる
意図的に観ようとしなくても定に入るとか智慧が出るということもあるしそのときは観えてる
それらは方法(観瞑想)によって結果があるという関係では必ずしもない
関係性としてそのように見えることはあるけど
>>857 C法に対する様々な思い(掉挙)によって捉えた意があり、
その心が内(自己心身の心身)にのみ正しく住し、正しく止まり、
一つの対象(一境)に向かい、等持する時、彼に道が生じる。
とある。この四つの阿羅漢に至る道の中で、四番目の道は法に対する観察を行う観修習のために、
落ち着いていない心を定めによって安定させ、阿羅漢道を得ることが描かれている。
https://ci.nii.ac.jp/naid/130003831417 >>857 「止行者にとっては、近行定と安止定との定がなくしては、
他方(の観行者)にとっては、刹那定がなくしては、
また(止行者と観行者との)両者にとって(三)解脱文がなくしては、
出世間を獲得することはありえない。
それ故に<三昧と観を修習して>といわれたのである」(Vism-mhṭ[m]p.27, Vism-mhṭ[n]p.27)
https://ci.nii.ac.jp/naid/130003831417 >>863 私には
>>836 の内容が結構理解できないところがあるのでちょっとうらやましい
>>864 『九つめのパーラミーは、慈(メッター)、我欲のない純粋な愛です。
かつて誰かに、愛や善意を感じたことがあったかもしれません。けれども、ほとんどの場合、それは心の表面でのことにすぎなかったでしょう。
ヴィパッサナーによって心が浄化されると、心の奥底から、ほかの人の幸せを願うことができます。
これが真の慈(メッター)です。自分にも、ほかの人にもよいものです。
最後のパーラミーは、布施(ダーナ)です。
在家の人は、自分や家族のために、正しい生計手段でお金を稼がなければなりません。
けれども、たくさん稼ぐようになると自我が大きくなる危険性が出てきます。
これを避けるために、収入の一部をほかの人々のために使います。
そうすると、自分のためばかりではなく、ほかの人々のためにも働いているという自覚が生まれます。
思いやりも出てきますから、自我は大きくなりません。』
(日本ヴィパッサナー協会の記事より抜粋)
道元禅師はどうして「止観」を捨て、「只管(しかん)打坐(たざ)」を説いたのでしょうか。
それは、坐禅を「止(し・身体がじっとしている姿)」と「観(かん・心が覚めて真理を見極めること、思量すること)」に分解して実践しようと思っても、実践できないからです。
現に天台の学僧たちは「止」を次元の低いものと見なし、「観」ばかりを強調してきましたから、その「観法」は空洞化してしまい、やがて本物の坐禅は伝わらなくなりました。
今の南方仏教でも坐禅の実践方法として「サマタ(止)」と「ヴィパッサナー(観)」の二つがありますが、
同時に行うのではなく、10日間の接心で「サマタ」だけを修行する人もいれば、専ら「ヴィパッサナー」に従事している人もいます。
こうした偏った「修行」が釈尊の菩提樹下の坐禅と関係がないのは、いうまでもありません。
安泰寺 禅と心
http://antaiji.org/ja/dharma/okumura-mind-and-zazen/ より抜粋
>>853 成り立ち、根底から異なっています
イメージ、宗祖だからと根拠なく絶対視して、教えに鵜呑み束縛されて、
慧の修習がなく悶々としてテラワダ系スレにあたる人はいますよ
もう印仏学会の学者先生が、禅宗が変容されたシャカ仏教と異なること
は、学術研究結果として解き明かされてますし
世界の学者は鈴木大拙をヘーゲル大拙乗と批判してます
有害な教えでもないということから、うるさくなってない程度です
宗教の選択は自由ですし、
別に、渇愛あるがまま、煩悩あるがまま、そのものになる行、
仏を確認する禅、どうぞご自由にとしか言えないです
あ、別に私、テラワダ関係でもないです
>>868 いやオレそんな話してないwww
まあオレもあんたも禅は門外漢で
あんたがテラワダ知らんならこれ以上話しても意味ないがw
禅は止行だって発言があったからオレの聞いたやり方ではどっちかっていうと観だよって言ったわけで
具体的に何やってるかを言ってるんだ
成り立ちが違ってるなんて当たり前のことじゃなくてさ
やつらこんな事やってるって言ってるけど
これって止行じゃなくて観行じゃね?ってこと
>>870 その宗派の一部の人の話から聞いても、
それが全部そうでなく、木をみて森を見てないって話で、
私が知る多くの禅宗の知り合いは、テーラワーダの教えと修行を
比較すれば明らかに異なってました
例えば曹洞禅の人から、悟る必要なんてない、すでに仏性内在、そのものに
なればいいと、ですから只管打坐ですと(分からなければググって下さい)
臨済宗に数息観ってあるけど、安般念の一部で同一視できないものです
ええと、昨今のマインドフルネスブームの影響受けて、
今ここの事実の気づき、観察瞑想しているところもあるでしょう
しかし宗門の基本は、無念無想、不思不観、無分別、不二なんですよ
>>871 じゃあやっぱり宗派の違いなんだろうな
オレの禅の知り合いは他にはいないし
でもこのやり方
> でも、全然定なんか狙わないで、ただ今の現実のままそこに居るだけだってさ
> 観と何か違う?
そこは中興の祖みたいな人がいてずっとこのやり方だってさ
だからマインドフルネスブームとかじゃなくてずっと前からそう
これが只管打坐だそうな
で、これって止観だと、観だと思わん?
>>872 自己レス
> そこは中興の祖みたいな人がいてずっとこのやり方だってさ
聞いてた井上義衍って名前ググったら曹洞宗師家会会長とかやってた結構な有名人だったわw
何かと何かの共通するところを見ようとせず、何かと何かの違うところばかり見ようとする
「他人のしたこと、しなかったことをみるな。 ただ、自分のしたこと、しなかったことだけをみよ。」
って言葉の真意はなかなか伝わらない
>>871 座禅もヴィパッサナーも10年以上やってるが宗派による教えは本質的な問題か?と思う
無念無想、不思不観、無分別、不二が自分の意識状態を知ることなくどうやって達成できるのか
そこに至る過程で知らず知らず観の要素が入ってる
例えば、座禅中に妄想に浸っていると気づいた時点ですでにそれにサティが入っているじゃないか、無自覚なだけで
現代において
阿羅漢に至るもの現れない状況は
仏陀の教えが正しく伝わらっていないからかね
>>875 あいにく私は出家修行者でもなく、研究者で聖書の方が詳しいかもよ
その こだわりの押し付けが、仏教徒なんですか
某長老にそれを直接言ったらどうでしょう
仏典の中に、何が外道か説かれ、物事の正邪真偽、善と不善等の判別、
解脱,悟りの役に立つ教えと、そうでない教えを実際区別していて
古代、仏陀は分別主義とも言われてます いえそれは択法覚支って
知らないから、無知な貴方はそう言う、そして他人に言い自己を
観察してないのが貴方と気づいたらいかがでしょう
>>872 それは大乗の諸法実相から、自然のありのままの真実の姿=仏の顕れ
→すでに仏だ→あるがまま、修行不要の流派なんでしょうね
これは2点大きな誤解脱線があって、とても長くなりスレチでここで書きません
で、ありのままに観てるから、観なんだと
観念の理屈だけだと何でも自由に宗教が創れますからね
で、涅槃に至る解脱の教えのテラワダと何が異なるのと知らなければ、
ググった方が早いかと
>>878 自分に言われて押し付けられたと思ったんですか?
>>879 > それは大乗の諸法実相から、自然のありのままの真実の姿=仏の顕れ
> →すでに仏だ→あるがまま、修行不要の流派なんでしょうね
いやそれあんたの想像じゃんw
ていうか、実際にやってることが何かじゃなくて、どうしても宗派やら成り立ちやらの方に注意が向いちゃうんだね(^^;)
これからもぜひ、瞑想に興味はあるが自身の固執にすら気づけておらず、ただ学術的な価値や知識をいかに誇るかを競い合い、我こそが真の道の者であると鼻息を荒げる「本物」の方々を観察させていただきますね。
(^人^)ありがたいことです。
> でも、全然定なんか狙わないで、ただ今の現実のままそこに居るだけだってさ
> 観と何か違う?
これはヴィパッサナーじゃないっすよ
マハシ長老のは四念処→観という流れで
詳しくは界分別の風(ヴァーヨー、動きの要素)を観察してるから
>ただ今の現実のままそこに居るだけ
欧米で流行ってるヒア・アンド・ナウ(今ここ)とかマインドフルネスだっていうなら
まあそうかもねという感想だけど
>>881 それは知らな過ぎですよ、想像でなく、印仏学会の仏教学者が解説したものと、
実際にそのように説く宗派の方がいらっしゃいますよ
私の書くことって、すべてそこにある事実の引用です
地球がずっと平面だと思っている人に、根拠証拠をもとに球形なんですという説明に
過ぎず、貴方は師から平面だと教えられ鵜呑み盲信するタイプですか
物事の本質を探る姿勢がゴータマさんになかったら、無我非我も説けないでしょ
自分の目で球形と見てない地球のカタチをいくら証拠聞いたとこで球形だなんてゴータマさんは言わないでしょ
自分の目で見たって安易に信用するのはおかしいし
>>882 何かを説明すると固執なら、仏典はすべて固執した凡夫が説いたものですか
貴方の対象に対しての妄想を観察したらいかがですか
>>886 今の時代の話ですよ、警察は映像、証拠写真から犯人を特定しますが、
貴方の話だと、それは自分の目で直接見てないから犯人特定できませんって
言っていることになりますよ
>>888 映像は映像、写真は写真を見てるでしょ
それだって偽造かもしれないですけど
私は映像でも写真でもない聞いただけの証拠で犯人を特定なんてしませんね
売り言葉に買い言葉、水掛け論、己が見解への執着
修行の程度が知れますなぁ
>>889 地球は球形ですというのは、その映像、写真、周回軌道の衛星写真等から
ですよ で貴方は古代人のように考えるのですか
学者は、文献、資料から研究分析、調査してわざわざ嘘を発表している
のなら、その証拠もあげないと
私はそのような学術研究結果がありますよと説明しただけですよ
言論の自由がなく、5ちゃんに規則でもあるのですか、貴方のべき思考規則ですか
>>891 それであなたはその学者の文献をほとんど読んで発言されているのでですか?
それに学者さんはそれが正しいなんて言い方しないですよ
様々な証拠からそれが妥当だと思われるというだけです
あなたの自分で事実を見てないのに正誤をつける態度が少しもゴータマさん的でも学者的でもないと思っただけです
私が地球が球形だという証拠を見せられたら言えることは、証拠からはそう思えるけど実際そうかはわからない、です
>>887 あ、いや失礼しました。
スレの中には大論の鉈を、ここぞとばかりに相手めがけて振り下す方もいらっしゃるので、そのような方に対して申しました。
しかしこうしてみなさんの議論を拝見してると、宗派や解釈の違いのせいで収拾がつかなくなっているように見受けますが、
各宗派はそれぞれ上僧の指導のもとに集まり瞑想を行うことを推奨しているはずなので、瞑想はそれによって行い、疑問もそこで解消されるべきです。
私の師の教えは、当初、私には向いていないと感じ、私はだいぶ悩みましたが、それでも繰り返しその教えを実践していくと、次第に私に合うものとなりました。
その教えは、数多の教えの中でも最もシンプルなもののひとつと言われています。
そして、個人的に独学的な瞑想を行っている方は、他の手法にも柔軟に耳を傾けつつ、かつ自分なりのアートを洗練させていくべきでしょうね。そしてその姿こそが、ブッダが道を切り拓いた当時の姿だと思います。
しかし、このような有意義な議論は、ダンマフレンドというか、良いものですなぁ。
(^人^)
ブッダは、道を連れて歩く友がいないなら、犀の角のようにただひとり歩め、と申されたが、やはり寂しいですよ。
辛苦や疑問を自由に語れる仲間がいる方がいい。
>>885 いやいやw
だから
> > それは大乗の諸法実相から、自然のありのままの真実の姿=仏の顕れ
> > →すでに仏だ→あるがまま、修行不要の流派なんでしょうね
実際に↑のように説く流派はあるんだろうけど
それとオレが話聞いた流派の教えてることが一緒かどうかは分からないでしょ
そこ材料ないのにどうやって判断したのさw
>>892 ほとんど読んでます、絶対正しいとこの人思っているという決め付けは、
貴方の妄想でしょう、けど学者さんは、調べた結果ありのままこうだと
正しいという思いで書いてるものでしょ、間違いと思うなら書かないでしょ
ゴータマさん的、学者的という観念は、貴方の色メガネで相手を裁いている
わけですよ、その先入観の囚われに気づいたらどうでしょう
貴方のこうでなくてはダメという束縛で、べき思考の認知の歪みでもって
相手を自分の思い通りにしようと闘おうとしないで下さい
ええと、もうこれ以上、貴方にレスしません、貴方相手だと終わりませんので
>>883 厳密にヴィパッサナーの技法と一致するかじゃないんですよ
いまのテーラワーダは主に清浄道論ベースでしょ
根本分裂からざっくり千年経ってるものと一致したらその方が変だしね
>>894 > でも、全然定なんか狙わないで、ただ今の現実のままそこに居るだけだってさ
相手が曹洞宗で、この証言が傾向的に一致したからです
ご自身でググって詳細を比較して調べられると思いますが
>>896 (´・_・`)?
中国・チベットのヴィパシャナ(lhag mthong)となら余計合わないけど(説一切有部系)
>>895 >ほとんど読んでます
それだったら参考文献の一つでもあげて見せてよ
やっぱりナカムラゲンガー?
>>899 ちょっと遡ってもらえると分かるけど
元々は禅は止行だって発言に
オレが前にやってるか聞いたとこじゃ観っぽいぞってレスしたのが始まりなんで
やつらこんな事やってるって言ってたけど止観でいうと止かね?観かね?
ってレベルの話なんですよ
でももう段々どうでも良くなってきた(^^;)
>>901 まぁどうでもいいけど、
なら貴方は、その観でもって、仏道をどのように説明します?
ちなみに観も四念処も、清浄道論ではじめて出てきたわけないです
古層仏典の中に、なぜ観るのですか?との問いにブッダが説いている
箇所がありますが
>>902 オレ禅は門外漢だって言ってるのに何故説明できると思うwww
だからぁ聞いたメソッドを止観で分けたら止ってより観っぽく思えるけど?どう思う?って話をしてるんだって
仏典がどうの成り立ちがどうのじゃないの
それいま関係無いからw
実際になにやってるか聞いてみてその内容から止観どっちだと思うかってこと
まあここまで言っても多分また宗派やら仏典やらの話になると思うからもういいですわ
>>903 観っぽく見えるって言ってほしかったんだね(´・_・`)
>>904 オレには観っぽく見えるから同意してもらえれば
('A`)人('A`)ナカーマ
になると思うけど
それを求めてるんじゃなくて、止なら止でいいんだって
そこはこういう理屈があって止なんですって話がわかれば
おおー勉強になったわーって感じじゃん
相手の心情とか勝手に決めて話してるひと多いよね
見えてるのはただの文字なのに
>>905 自分で禅は門外漢だの仏典の話は理屈だの言っておいてそれかね
禅宗における坐禅
『小止観』では、坐禅は止観の一部分にすぎません。では、禅宗における「坐禅」はどうでしょうか。
(略)
(六祖慧能大師の)『六祖壇経』では、
「我がこの法門は、定慧をもって本となす(中略)定慧は一体にして是れ二ならず」(第三)
とあり、禅定と智慧を別々に分けるものではないことを明言しています。
定慧をそれぞれ灯りと光に例え、灯りがついて部屋が明るくなるのは、別々のものが組み合わさるのではなく、灯りと光は本体として同一のものであり、定慧の関係もこれと同じである、と解説されています。
その後に、
「この法門の中には障無く碍無し。外、一切善悪の境界において、心念起こらざるを名づけて坐となす。内、自性を見て動ぜざるを名づけて禅となす」(第四)
「外、相を離るるを禅となし、内、乱れざるを定となす」(第四)
として、坐禅を単純な言葉の解釈ではなく、実践的意味を前面に出し定義されています。
この時、禅定と智慧は別に考えてはいけない、という前提がありますので、坐禅は禅定のみの鍛錬である、とはしておりません。
これは『小止観』が言う「止観は車の両輪」と同じことであります。
よって、禅宗が定義する「坐禅」には、「止観」の要素がすでに織り込まれているのです。
次に、行住坐臥の場面ですが、禅宗では臨済宗系第8祖・百丈慧海禅師が『百丈清規』を作られて以降、作務の大切さを説きます。
作務は労働のみならず「仏としての務めをなす」という精神により、日常のすべてが修行であることを重んじます。
坐禅のみならず日常すべてにおいて禅定を養う、ということは、禅宗においては基本的教義です。
このように、禅宗における「坐禅」は、定慧の実践を包含し、行住坐臥における「止観」は、禅宗修行の基本である、となるでしょう。
止観と坐禅
http://www.harutsumi.net/bunken-sikantozazen.html >>907 >
>>905 > 自分で禅は門外漢だの仏典の話は理屈だの言っておいてそれかね
おいひとの発言捏造するな
オレが仏典の話は理屈だっていつ言った
レスあげてみろ
狭量なひとがいて嫌だなぁと思ったけど、そういう今の自分の知覚と意識を観察してみたら、それはまるで黒くて澱んだ人を寄せ付けない沼のようなものに見えた。
こういう感覚になることってたまにあるんだよなぁ。
自性清浄(プラクリティ プラバースワラー)
尚、心が自性として清浄であるか否かは、諸部派の間で意見が分かれ、説一切有部などはこれを認めない。
大乗仏教はすべてこれを承認する。
ただし、『般若経』は清浄を「空」の意味に解し、広く法が縁起、無自性、空であることを示すものと解釈した。
これに対し、如来蔵系の理論では、自性清浄心を如来蔵、仏性の名で、如来の法身と同質の無為なる存在として絶対化し、これを心性と呼んでいる。
また、『大乗起信論』はこれを本覚とも呼ぶ。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%80%A7%E6%B8%85%E6%B5%84 高野山の大僧正、松長有慶氏によると、このプラバースワラー(清浄)は空のことであり、
どんどん一切のものを否定して行って最後の最後に否定しきれずに残る”光輝くもの”を意味する。
これを鵜呑みにすれば
清浄=空=光り輝くもの
大智度論では空即涅槃と説く(般若経では空即是涅槃)。
おそらくは松永氏の説を借りて
涅槃=如来像=清浄=空=光り輝くもの
とすれば分かりやすい。
真に大智度論にそうと、自性がない空は取ることができないが、取ることができないという相が涅槃である、とされる。
しかし、そこから進んで、空は無自性であるから分別がなく平等の相があるので涅槃である、というのが実際のところではないか?
>>914 心の動きを観察することと、心の作用を止めていく、
の2種で攻めた方が良いと思います。
仏説(長部経典/阿含経典)によると、まず持戒をさせ、次に念処行をさせ、
次に座って心の止によって、入定し、初禅→2禅→3禅→4禅→解脱→解脱知見、
と説いている。
只、テーリーガータ等を読むと、xxxしている最中に突然解脱しました、
とかのような仏尼の告白が随所に見られる。
後者が間違いや嘘で無いとすれば解脱は、必ずしも座って定に入らなくともおこる、
という話になる。
つまり念処行(ヴィッパサナー行<すなわち観>)のみで解脱が得られるという風になってしまう。
もっともブッダは持戒をさせ、念処行をさせ、座って心の止によって、
→入定→初禅→2禅→3禅→4禅→解脱→解脱知見の法を語っている。(長部経典)
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%88%92%E5%AE%9A%E6%85%A7%E8%A7%A3%E8%84%B1%E8%A7%A3%E8%84%B1%E7%9F%A5%E8%A6%8B 戒律をたもち、禅定に入り、智慧を磨き
あらゆる煩悩から解放されて、心の安らかさを自覚するという五つの功徳
その功徳を具備するものを五分法身という
にゃるほろ =^・ ・^= ご教示ありがとうございます アリガト m(_ _)m
(↓リンクの貼り憑けができない)
五分法身を磨耀す
戒・定・慧・解脱・解脱智見
戒・定・慧・解脱・解脱知見の五分法身を磨瑩す
座禅バカ、か。
バカでもできるよ。だが悟れない。
瞑想、か。
バカでもできるよ。だが悟れない。
>>919 悟ってくれ。
そして慈悲の心で法を説いてくれ。
おおいに期待している。
いや言い方がわるかった
悟ろうと思ってるから悟れない
てことが言いたかった
悟ろうと思うと悟れないというのは禅宗でいうことじゃないの?
↓おじゃるの場合は
「悟ろう」と
掴もうとしている想いに依存して
それゆえに「悟れない」
そして
誰もが成仏するわけではないのなら(五性各別)
仏の智慧と慈悲をもって
法を説いても
物事の本然の姿は全て
『塵や汚れから離れたもの』
ということに気づくことなく(道元・普勧坐禅儀)
無明と渇愛が絡み合って
仮設としての
無明の中で
輪廻を繰り返している おじゃる
(前世の記憶はないけど…)
>>921 「悟ろうと思ってるから悟れない」
そんなことはブッダの仏典に記述されていない。
むしろ悟りへの情熱が強ければ強いほど修行の完成は早いって書いてある。
そこを勘違いして「悟ろうと思ってるから悟れない」などと自論で想い込んだら、
それはその人は絶対に悟れない。
野球がうまくなりたいと思えば思うほど野球がヘタになると思うかい?
「悟ろうと思えば思うほど」、その人はより戒を守り、瞑想し、修行の完成に努めるだろう。
>>922 そうそう座禅中に雑念としての「悟りたい」は障壁になると思う。
「前世の記憶はないから、だから輪廻もない」
と簡単明瞭に輪廻を否定する人もいるけど
前世からの異蘊相続は
種子に記録され、第八識のなかにたくわえられる
これを薫習という
たとえば仮に
異蘊相続に依存して
前世からの種子が
第八識のなかにたくわえられていたとしても
仏道への障害がある有覆無記の
第七識に依存して
第六意識からは
第八識のなかにたくわえられているものを
観ることができないらしい
有覆無記の第七識が障害となって
第六意識から
第八識のなかにたくわえられているものを
観ることができないので
それゆえに
「前世の記憶を観ることができないジャマイカ?」ということになるらしい
「悟ろう」が障害になるのではなくて
(「悟ろう」と)
掴もうとしている想い
この
「掴もうとしている想い」が
仏道への障害となっている
ということであるらしい
道元 普勧坐禅儀
智慧と通力をもって仏道を得た、心を明らめたといっても
(「掴もうとしている想い」に依存しているのなら)
それは自らの解脱の道をふさいでしまっている
有覆無記の
第七識に依存しているのなら
仏道への障害がある
ということであるらしい
剣や武道の達人がよく言う強くなろうと思ってるうちは強くなれないみたいな話でしょ
何かになりたい自分という我や欲があるとその範囲以上にはなれない
>自分という我や欲があると…
(大乗の)中観派も
それ自体として自立的に成立しているわけではなく
「無自性」(無我・空)であり、「仮名」「仮説・仮設」
「縁起」
上座部も
我ではない(無常なので、それゆえに無我である)
そうすると
どこの
だれが
呼吸の観照をするのか?
それゆえに
観神足 − 知慧をもって思惟観察して…
↓
(無明に依存している、我を主体とするのではなく)
仏の智慧と慈悲をもって → 縁起している世界を観照せよ
http://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
第一禅定
どこかへ飛んでいってしまう心の働きを
仏の智慧と慈悲をもって
呼吸の観照に戻してくる要素があります
(『仏の世界に戻る帰る要素がある』という意味かもしれない) >>916
>後者が間違いや嘘で無いとすれば解脱は、必ずしも座って定に入らなくともおこる、
>という話になる。
>つまり念処行(ヴィッパサナー行<すなわち観>)のみで解脱が得られるという風になってしまう。
だから、
≪その瞬間が生じるまでの縁起≫があるだろ? ってこと。
(イチローがマリナーズへ戻り、清宮は即活躍を期待されているわけだが)w
或は、今回、平昌で多くのメダルが取れたわけだが、
素振り(スィングの修習)や、各種パフォーマンス、
或いはフィギュアならジャンプの為の基礎的なウォームアップやメンタル面の準備等、
そういうの無しに、結果が出るはずも無く・・。
なぜ、アスリートが、素人目には「競技前に疲れちゃうんじゃないの?」と疑問に思ってしまうほど
念入りに準備運動するか。
竹林の一音で悟ると言われる時(頓悟)も同様。
そこまでの蓄積や、慣らし運転、或いは、(最近の車は性能がいいがw)
冬場のエンジンがかかり難い時代は、よく、早めにトライして、温めておいたもんだ。
人は、日日、一瞬一瞬、外界の刺激に反応しながら生きている。(それは如来とても同じことだろうが)。
そうした中で、
それらを遮断し、或いは防御し、或いは斥け乍ら、智慧を働かせる(諸法の縁起を見る)
というのが、本道ではないか?
だから、大般涅槃経での、阿難への「念を確立していなさい」という助言になるのではないか?
いきなりできる奴も、中にはいるかもしれない。
けど、それは異例であって、実際には、
それこそ、まず墨を摺らないと文字が書けないのと同じだと思うわけでね・・。 >>止を踏まえての観 >>924 悟ろうという想いはLobhaだからテラワダでも一緒じゃね?
潰さないとあかんやつよ
まあ瞑想中に潰してけば消えるけど
>いきなりできる奴も、中にはいるかもしれない
第一禅定とかを飛ばして
いきなり
(余念を交えず、ただひたすら)只管打坐とかいってるのは
禅宗系のような気がする
只管打坐する前段階として
第一禅定〜第四禅定
空無辺処〜非想非非想処
想受滅
そして、それから
(余念を交えず、ただひたすら)只管打坐
という段階の方が良いという感じがする
とりあえず
おじゃるには
いきなり
(余念を交えず、ただひたすら)只管打坐とかは無理で おじゃる
呼吸の観照もできないけど…
>止を踏まえての観
仏の世界から → 縁起している世界を観照せよ
無為法の世界から → 有為法している世界を観照せよ
観(ヴィパッサナー智慧)をもって
そして、止(サマタ禅定)をもって
呼吸の観照に戻る
『仏の世界に戻る帰る』
窮境の観(ヴィパッサナー智慧)は
仏そのもので
無為法である
それゆえに
止(サマタ禅定)
という意味かもしれない?
ちっと無理がある説明かもしれない?
最終的には
第四禅定も手放しするかもしれない
この第四禅定も手放している
仏そのものに近い状態を前提として
すなわち
止(サマタ禅定)をもって
呼吸の観照に戻る
『仏の世界に戻る帰る』
仏そのものに近い − 止(サマタ禅定)をもって
という導きなのかもしれない
縁起している
呼吸を観照してるので
観(ヴィパッサナー智慧)をもって
という世界も同時にあるのかもしれない?
>>933 >悟ろうという想いはLobhaだからテラワダでも一緒じゃね?
lobha(貪)じゃなくてchanda(意欲)だけど…勝手に決めつけないでくれる?
>>924 ダンマパダの中に悟りへの執着がありすぎるのも悟りの妨げとなるというような詩偈があったと思った
もちろん発心(発菩提心)、菩提心は大事だし
不奔逸に修行に努めということも遺言として残ってるほど有名だけどね
>>937 今と異なる状態を求める想いを含んだchandaですか?
まあchandaだとおっしゃるならそれで結構です
大変失礼しました
実践したことがないので、わからないけど
「想う」という想いも手放して
「想わない」という想いも手放して
非想非非想も超えるときには
意欲・やる気も手放して
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/shoki-soujumetu.htm
非想非非想処も超えて想受滅
諸根(眼耳など)の働きはあるが
心作用のうち
(意欲・やる気も手放して)
受、想、行が滅している
https://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html
漢訳 第一義空経
…
業報有るも而かも作者無し。此の陰滅し已らば異陰相續す
…
無明に縁りて → 行に縁りて → 識に縁りて → 「苦しい!」という想いが現れる
最終的には?意欲・やる気も手放して
無明滅して → 行滅して → 識滅して → 「苦しい!」という想いが滅する
無明に依存している
すべて一切の諸法を手放して → 有余涅槃
仮設としての
色受想行識を手放して → 無余涅槃 >>938 ダンマパダのどの辺りに「悟りへの執着がありすぎるのも悟りの妨げとなる」という文言が?
ダンマを100回とは言わず読んでいるボクにはそのような記憶は全くないけれども。
責めているんじゃないよ。どの辺にどういう文章が書いてあったか、
思い出したら教えてください。
>>938 前払いにこれ差し上げます。
http://fast-uploader.com/file/7076338152463/ 無論この訳の中にはその文言は書いてないとおもうけど、
「ダンマパダの中にあなたが見た『悟りへの執着がありすぎるのも悟りの妨げとなる』という詩偈」
の箇所を教えてください。
>>938 答えられないでしょうからヒントをあげましょう。
パーリ聖典のある1箇所には
「悟りへの執着がありすぎるのも悟りの妨げとなる」という旨を、
全く違う言葉で記述した文言が無いというわけではありません。
あなたがそちらの部位を見つけて報告して頂いた場合には、
あなたの過失について追求することは止めます。
但し、そのブッダの教えを完全に無視して解脱した聖者の存在も僕は知っています。
最後になりますが、後年の丸くなったブッダでは無く、
若き日のブッダは「24時間死ぬまで働け社長」クラスの人でした。
つまり寝る時間も惜しんであやうくば死ぬまで修行しなさい、という勢いでした。
そのことは是非知っておいてください。
大パリニッパーナ経の中の年老いたブッダとスッタニパータの頃のギラギラしていたブッダは結構違います(笑)。
ダンマパダ
63
…愚の想いも賢の想いも湧き上がればともに(手放し)捨て去るべきである
その想いの広がりと発展を放置せず、気付いて(手放し)止めるべきである
↓
最終的には?
「意欲・やる気」という
想いも湧き上がればともに(手放し)捨て去るべきである
その想いの広がりと発展を放置せず、気付いて(手放し)止めるべきである
スッタニパータ
839
『教義によって、学問によって、知識によって、清らかになることができる』とは説かない
『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、清らかになることができる』、とも説かない
最終的には?
「意欲・やる気」という想いも手放して
それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、…(これが内心の平安である)
仏教の基本が無常なるものに執着しないことだってこと考えたら自ずと答えは出るよね
>無常なるものにも執着しない
(大乗の)中観帰謬派の場合は
青目(ピンガラ)中論 觀如來品 第二十二
…
如来の滅後も
こう思惟してはならない
「有るのか?」
「無いのか?」
「有でもあり、無でもあるのか?」
「有でもなく、無でもないのか?」と
掴もうとしている想いに依存して
おじゃるは
戯論を生じている
戯論して慧眼を破れば
是の人は
仏を見ることはない
如来は
戯論(無明の世界)を超過してる
それゆえに
「掴もうとしている想い」ではない
>>940 「テーラワーダでも」という言葉がくっついてたんでテーラワーダの見解を申し上げました
>>949 あれ、私もどちらかというとテーラワーダ側の見解を言ったつもりなんですがw
ではchandaに今と異なる状態を求めるという性質はあります?
求めるものが無くてもやる気はあるという心の状態ありますよね
それがchandaの生の性質なんじゃないですか?
私は「悟りを求める」はlobhaだと思ってます
lobhamula cittaでchandaとlobhaの同時発動ありますからね
筏の譬えの法門を知る者は、彼岸に渡り終わってから筏を捨て去るのである。
未だ河を渡っていないのに筏を「手放しす」者は、そこで溺れて死ぬだろう。(彼岸に渡れない)
即ち、それは答えでは無い。
「わたしは世尊に、こうたずねました。
『尊師よ、よく慇懃精進、慇懃精進ということを申しますが、
どのようにしたら慇懃精進なのでございましょうか?』と。
すると世尊は、こうお答えになりました。
『モッガッラーナよ。ここに一人の修行者があって、
慇懃なる精進に住している。彼は実に、その皮膚がしぼもうが、
腕がしぼもうが、その骨がしぼもうが、その身体の血も肉も涸れようが、
努力・精進によって達すべきものを達するまでは、
断じてこの精進の座を立たないと決意している。
モッガッラーナよ。これが慇懃なる精進というものである。』と。
阿含経典
即ち、悟りへの執着がありすぎてそれが悟りの妨げになるようなことは無い。
むしろ命をかけてまで悟りを得ることに執着せよ、とブッダは語っている。
そして悟った後は、速やかに筏に執着することなくそれを捨て去れ、と説かれる。
>>942 「悟りへの執着がありすぎるのも悟りの妨げとなる」
はダンマパダの和訳(ブッダ真理の言葉とか)そのものではなく
法句経(ダンマパダ)の詩偈の一つ一つを6コマくらずつで漫画化した
「マンガ仏教的生き方―真理と実践の方法」
に描いてあったw
ブックオフで108円で買った本だが値段以上の価値はあったよ
今ガチで入院中なので手元にないけどね
まもなく退院なので退院したらそのページだけ写真撮ってupしますね、その日まで少々お待ちあれ
>未だ河を渡っていないのに筏を「手放しする」者は、そこで溺れて死ぬだろう
それゆえに
観神足 − 知慧をもって思惟観察して…
↓
(無明に依存している、我を主体とするのではなくて)
仏の智慧と慈悲をもって → 縁起している世界を観照せよ
仏の智慧と慈悲をもって → 無明の世界を手放しせよ
http://junsoyo.on.coocan.jp/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
…ところが今
(仏性からの真如縁起の智慧と慈悲をもって)
その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって
何ものをもつかまないでいることです
すなわち思いの手放しです
実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし
(仏性からの真如縁起の智慧と慈悲をもって)
思いがそれをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう
_ _ _
無明している世界の中で
「手放しする」者は、そこで溺れて死ぬだろう
これは、まさに
おじゃるのことでつね
ご教示ありがとうございます アリガト m(_ _)m ネット上の「我」といえる「コテ」の人は、「我執が極めて強い」わけで、
こと仏教スレにコテで参上する人に仏教に関し学ぶことは少ない。
「私/我」というものは無い、と説く仏に真っ向から反逆する人々なのであるから。
即ち彼らは仏の教えの意味を知らない。
意味をしらない人々から学ぶことは少ないので彼らは「あぼ〜ん設定」される。
あぼーん設定されたコテは頑張って何を語ろうが「読まれもしない」ので、
只、不利益を得るのみ。
「このxxxこと、『私』が「教えてやったのだ、凄いだろう」と思ってはならない。
ブッダはそのように語る。
>ネット上の「我」といえる「コテ」の人は、「我執が極めて強い」
それゆえに、おじゃるは
仮設としての
無明している世界の中で
渇愛が現れて
誤ったあり方を掴んで離さないような固執も現れて
遍計所執性している
と書き込みしているので おじゃる
>「あぼ〜ん設定」される
そうでつか
それは知りませんでした
ご教示ありがとうございます アリガト m(_ _)m
無論、「仏教」という縛りを有しない人々にとっては、その限りでは無い。
彼らは自由自在に「私」「我」を主張し、何某かの利益を得るかも知れない。
>「読まれもしない」ので、不利益を得る
>「教えてやったのだ、凄いだろう」
中論 第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察
おじゃるは
仮設としての
無明の暗闇に覆われて
人はその者自身を未来の生へと
追いやることになる性質を持った
身体的な行為・言葉による行為・心による行為を行う(カルマを積む)
無明に依存して
渇愛が現れて
誤ったあり方を掴んで離さないような固執も現れて
遍計所執性している、おじゃるは凄いだろ?
ということでつね?
そうでつか
それは知りませんでした
ご教示ありがとうございます アリガト m(_ _)m
「我」「オレ」「私」をあえて作ろう、としている人から「無我」を学ぶこと、
教えてもらうことは決して出来ない。
もちろんviriyaやchandaは捨てちゃ駄目
でもlobhaなら大事に持ってても意味ないよね筏じゃないから
>>963 の説明なら、その程度の紹介文ならそのリンク先を踏む気にはならない。
悟りたいって言葉でも、自分の無明をなくしたい、本当のことを知りたいって意味での悟りたいと
悟りという何かすごいものを得たいって意味での悟りたいでは全く違うよね
>>965 自分は「人間が生きていく上で発生する苦しみをなくしたい」だけで、
とくに「悟り」「本当のことを知りたい」「無明がどーたら」がどーたらには
あんまというかむしろ全く関心は無いな。
現世、生存中に「苦しみを滅ぼす」ということにしか興味が無い。
「やったーオレは悟たんだ!!!」のような、それを望むような人は、
超能力獲得目的でオウムに入った人の類と同じなんじゃないかな。
「オレ」は無常、苦、無我だから、
「オレ」が無常、苦、無我だということが分かった(悟った)として、
「やったー」という反応になるのかどうか。
無我なのは分かったとして、
知識や論理だけでなく、瞑想を通して体験的に分かったとして、
だからといって、まだ解脱はしていない。煩悩がある。
もはや修行する以外に選択肢がない。
これはもう、修行開始の合図。
人によるだろうが、
ヤッター!という反応になるだろうかw
うへぇw;;;っていう感じじゃないか。
>>966 同意
ワットパー・スカトーのプラユキ・ナラテボー師がそういうスタンスで、仏教の本質は自他の苦を取り除く、抜苦与楽だと説いていたような
悟りを目指しても抜苦与楽がなかったらオウムみたいに俗世間と解離することになりそうだし
自分が何のために何をしてるか、明確にしていくのはとても大事だと思ってるな
アーチャン・チャー
「仏道修行においては、結果を出そうとしてはならない。
解脱をしたい、悟りを開きたいという強い欲望は、解脱を阻む欲望になってしまう。
この欲望からのエネルギーは、疑(ウィチキッチャー)と掉挙(じょうこ:ウダッチャ)を引き起こすことになる。
どんなに長く、どんなに熱心に修行に励んでも、欲望から智慧は生じてこない。
ただ、手放すことだ。
気づきをもって、心と身体を観察するのだ。
だが、何かを達成しようとしてはならない」
アーチャン・チャー
「瞑想とは、一本の丸太のようなものです。
ヴィパッサナーは丸太の端に、サマタは反対側の端にあたります。
もし、あなたが丸太そのものを持ち上げれば、両方の端が一度に上がります。
どちらも同じく心なのですから、サマタとヴィパッサナーのどちらが重要かということは、問題ではありません。」
https://mobile.twitter.com/AchaanChahBot/status/972844422831292416 >>950 >私は「悟りを求める」はlobhaだと思ってます
悟りをpiiti(喜)の所縁にしたらlobhaなしに悟りを求めるchandaが生じますけど
*喜piiti 所縁を好む特相をもつ法
>>974 悟りを求める=lobhaとは限りませんよって話はよく分かったので、あんまり頑張る気は無いんですがw
ちょっと気になったので一点だけ教えてください
> 悟りをpiiti(喜)の所縁にしたらlobhaなしに悟りを求めるchandaが生じますけど
もしかして私、涅槃を所縁にとれる人とお話しちゃってました?…(^^;
アーチャン・チャー
「私たちは、言葉に執着すべきではありません。真の智慧の源は、私たちの内側を観察することの内にあります。
この種の学びのみが、真の価値を持つものであり、私たちの問題に終止符を打つものなのです」
https://mobile.twitter.com/AchaanChahBot/status/972859520249548800 「真のダンマの学習には、たった一つの目的しかありません。
それは、私たちの人生における苦(ドゥッカ)という現実から脱出する方法を見つけ、自分自身と、生きとし生けるものの、幸福と平安を得ることです」
https://mobile.twitter.com/AchaanChahBot/status/972708538450505729 「もし、あなたがダンマを理解したいのなら、すべての物事を諦め、手放すのです。
修行についてあれこれ考えることは、影をつかまえようとして、実体を見失うようなものです。たくさん勉強をしすぎる必要はありません」
https://mobile.twitter.com/AchaanChahBot/status/972678333476454401 「表面的な経典の学習は重要ではありません。
もちろん経典は正確に法を説いたものですが、それらをただ読むことは、正しい理解をもたらすものではありません。
それらは、あなたに正しい智慧を授授けてくれるものではないのです」
https://mobile.twitter.com/AchaanChahBot/status/972602816140210176 「ブッダのダンマを本の中に見出すことはできん。
もし、おまえさんが真にブッダの説いたことを理解したいのなら、本を読むことに煩わされることはない。
そんなことより、自分の心を観察するんじゃ」
https://mobile.twitter.com/AchaanChahBot/status/971666657104965632 「おまえさんは本当は、四大(地水火風)が結合したものか、変化し続ける五蘊の集まりに過ぎないのじゃ。
もし、心が自由なら、現象を区別することはない「大きい」「小さい」「あなた」「私」なども存在しないのだ。
わしらは無我(アナッター)という表現を使うが、究極的には、我も無我もないのだ」
https://mobile.twitter.com/AchaanChahBot/status/972029040843345920 →このスレでよく聞く勝義視座ってやつかな?
>>975 lobhaも所縁(=対象)がないと生じないでしょ
所縁って対象ですよ
で、悟りを所縁ってのはここでは概念(=paJJatti、パンニャッティ)のつもりでお話してます
>>977 伝わってない懸念があるなら仏教用語のとこはパーリでもいいっすよ
棒やにょろにょろはスマホでは付ける気にならないけどw
arammanaがないとcetasikaの活動も起きないのは知ってます
涅槃を所縁にとれる人?って聞いたのは、少なくともsotapannaじゃないとできない事なので、びびっただけですw
pannattiであれば分かります
↓怪しい宗教団体のリンクかもしれないけど、とりあえず
https://plaza.rakuten.co.jp/iwakurachiro3/diary/201106050001/ 認識の過程につながって思考が始まる
認識の過程は処(ショ:Ayatana)が所縁(ショエン:Arammana)と出会い
識(シキ:Vinnana)が生じて開始する
その所縁についての知識で、例えば、見る・聞くから心の中で知ることまである
このようなことが生じるとき、認識があると言う
またはパーリ語で触(ソク:Phassa)と称する
認識があるとき、その所縁に対する楽・快・苦・不快・不苦不楽(苦でも楽でもない)などの感覚が生じる
これを受(ジュ:Vedana)と呼ぶ
同時に、あれだ・これだ・あのよう・このよう、という所縁の知覚があって、これを想(ソウ:Sanna)と呼ぶ
それから様々な思考・熟考が始まる。 これを尋(ジン:Vitakka)と呼ぶ
認識の過程は外部の体験を受ける「所縁の体験」であれ
心の中の熟考をもたらす「様々な事柄を思い浮かべる」ことであれ、同様である
眼から知ることを例として
眼(処)+色(所縁)+見る(眼識)=認識(触)→苦、楽を感じる(受)→知覚(想)→思考(尋)
http://www.j-theravada.net/pali/key-cetasika.html
CETASIKA:心所
人格は条件によってコロコロ変わります
心に怒りが溶けたら怒りの人になる
次の瞬間にどの心所が生じるか、自分にもわからないのです
_ _ _
預流果(Sotapanna)、一来果(Sakadagami)、不還果(Anagami)、阿羅漢果(Arahat)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%BD%E8%A8%AD_(%E4%BB%8F%E6%95%99%E7%94%A8%E8%AA%9E)
パンニャッティ
施設
仮設
説一切有部
あらゆる現象(諸法)を構成する基体として
有法、法体(ダルマ)を想定し
主観的な我は空だが客体的な事物の類型(法)は三世に渡って実在する
大乗は『(三世実有説も)無自性・空』
相依性に則った「無自性」「法空」、法(ダルマ)すらも仮の現れ(そして滅)
縁起に依存して
現れて(そして滅して)いる
仮に設けられたもの 一般人を遠ざける使用する必要の無いpiiti、lobha、chandaなどの用語を
(私は知っているかのように)積極的に使いまくる人の程度はしれているのであぼーん。
十二縁起
無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/09/27/175858 パオ・セヤドー
…
(「仮設としての」という意味で)
無明が生起するが故に、五蘊が生起する
渇愛が生起するが故に、五蘊が生起する
無明に依存して「苦しい」という想いが現れているので
それゆえに
(「苦しい」という想いが依存している)無明している世界を手放して
そして
(「苦しい」という想いが依存している)無明している世界が離れていく
そういう意味では
>>932 ≪その瞬間が生じるまでの縁起≫があるだろ?
ということかもしれない
滅を了知する智慧
生滅智という観智
解脱智見
『(仮設としての)無明している世界を手放して。解脱した』と知覚して住む
何が言いたいかというと、別のよくしられた日本語で十分置き換えられる語を
わざわざ専門用語を多用して記述したいというのならば、
全文サンスクリット語やパーリ語などで記述して一人悦に入ったらいいじゃん、ってこと。
それはできないくせに、ということ。
http://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm ピティ(piti、喜)
http://www.j-theravada.net/pali/key-akusala.html lobha(ローバ:貪)⇒眼耳鼻舌身意によって得られた情報を受け入れるはたらき
http://www.j-theravada.net/pali/key-pakinnaka.html canda(チャンダ)⇒意欲。やる気
たとえば仮に
自分(ID:CPpEOegt)の場合は
canda(チャンダ)が足りないので
呼吸を観ることができないのかもしれない
自在力(神通力)
観神足
智慧と慈悲の canda(チャンダ)をもってすれば
呼吸を観ることもできるのかもしれない?
>>953だが今日午前中退院してきた
では本の写真
しかしこういった迷悟一如的な詩偈はこの本の元ネタの法句経にあったかな?
パーリ中部経典にはあるが…
迷いがあるからさとりというのであって、迷いがなくなればさとりもなくなる。迷いを離れてさとりはなく、さとりを離れて迷いは ない。
(パーリ、中部 2―18、蜜丸経)
「悟り」と
掴もうとしている想いから
離れることができるなら
迷うこともない
「悟り」と
掴もうとしている想いに
執着するのなら
苦集滅道への妨げになる(場合もある?)
仮設としての
無明に依存して
渇愛(タンハー)に依存して
掴もうとしている想いが現れる(そして滅する)
道元 普勧坐禅儀
智慧と通力をもって
心を明らめても
掴もうとしている想いに
執着しているのなら
自らの解脱の道をふさいでしまっている
所縁とか意欲とか概念とかより紛れが少なくていいかと思ったんだが
嫌がられるのか…
たとえば
自分(ID:CPpEOegt)の場合は
教学も初心者にも及ばない段階なので
それゆえに
日本語で
現代語訳で
初心者にもわかりやすい説明で
宜しくお願い致します ヨロ m(_ _)m
それでも、たとえば
(日本語訳にしないで)
パーリ語の方が
正確な場合もあるのかもしれないけど…
987.
心理学をやっている場合ではないよ。
想いの問題ではない。
>>944 ブッダの教えを完全に無視して解脱した聖者って誰ですか
>>981 アビダンマッタサンガハぐらいは読んでおいた方がいいのでは。
>>992 テーラワーダの僧侶になるわけではあるまいし読む必要は全くない
それでも興味がある人は読めばよい
>>993 でも結構面白いんだよ
瞑想実践しか興味無いとしても心と心所の対応表と不善心所のとこは読んどく価値あると思う
不善心所があるかぎり道果をまわすどころか瞬間定ですら発生しないってことが分かる
まあこのページを楽しく読めるかだねえ
http://www.j-theravada.net/pali/index.html 自分はこういうごちゃごちゃと分別したものは苦手
パーリ語はアルファベットのみならずそのカタカナ表記も馴染みがないものばかりで読むのが困難だし
論書でも中論や大智度論などは難解でも漢字で書かれてあるから現代語訳されてれば何とか読める
こちらも読んでて面白いわけではないけどね
とはいえ、漢字の経典は中国以降だから、本来ならサンスクリット語のはずなんじゃないの。
うろ覚えだけど釈迦が話してたのはマガダ語かパーリ語ということになってたと思う
現在はマガダ語説が有力なのかな
>>994 あなたの瞬間定に誤解がある、マハシのよく読んでみたら、
定を伴っているから瞬間定に固執しなくても、瞬間定になるとある
高い集中によって、細かな観察ができるけど、
それは洞察智を体得のためであって、そこを卒業すれば、
高い集中は必要ない、それは不放逸になるってことではない
結局、最終的には思いの手放しになるが、瞬間定なる思いの煩悩を抱えない
>>987 >道元 普勧坐禅儀
>智慧と通力をもって
>心を明らめても
>掴もうとしている想いに
>執着しているのなら
>自らの解脱の道をふさいでしまっている
おお、スッタニパータと同じこと説いてる
その方法は集中だけではないけどね
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