大戦勃発後は中立を保ちつつも親ドイツ派の政策を取り続け、1943年6月のクーデターによって絶対中立派政権(事実上の親枢軸政権)が成立したアルゼンチンでは、
1945年まで日本を含む枢軸国への宣戦布告は行われなかったことと、当時軍の高官であり、労働長官でその後副大統領となったフアン・ペロン将軍が日系アルゼンチン人を
重用したこともあり、日本への宣戦布告後には政府による日系団体の監視や在アルゼンチン日本公使の追放が行われたものの、万単位で日系人が居住する国としては
唯一大規模な弾圧が行われなかった。
https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E6%97%A5%E7%B3%BB%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%BC%B7%E5%88%B6%E5%8F%8E%E5%AE%B9_%E4%BB%96%E3%81%AE%E9%80%A3%E5%90%88%E5%9B%BD%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%BC%B7%E5%88%B6%E5%8F%8E%E5%AE%B9
ペロン大統領夫妻と日本
アルゼンチンは荒廃と飢えに苦しむ敗戦後の日本に援助の手を差し伸べてくれた国のひとつであった。1946年に大統領に就任したペロン大統領は、日露戦争の研究を通じて
日本に高い関心を持っていた。大統領夫人エバ・ペロンは夫が大統領に就任してから「エバ・ペロン」財団を通じて慈善活動を行い、その一環として1949年と1950年に食糧、
衣料品などを日本に援助している。また、アルゼンチン国内ではペロン大統領夫妻が、邦人のカトリック受洗者850名の代父母になるなど、日本と日本人に対して厚い好意を示した。
https://www.ar.emb-japan.go.jp/ContenidoJP/07.EpisodiosJP.htm
エバ・ペロン氏
この時、ペロンの支持層としてエバが目を付けたのが、これまで政治に見捨てられ続けてきた「下層階級」と「女性」。めでたく結婚しファーストレディとなったエバは、
ペロンの名のもとに「彼らの生活を向上させる」という公約を次々と実現させてゆきます。労働者の賃上げ交渉は満額どころか150%回答で答え、「貧しい」と陳情に来る人には
じゃんじゃん現ナマを渡し、食べ物から家(!)まで支給。オラが町にエバがこようものなら、みんなが自分の住所と名前を書いた紙を彼女に向って投げまくり。
というのも、エバに拾い上げられた人には後から大プレゼントの連絡が! という「それ宝くじか!」というようなことまでやってるんですね。
ここまで聞くと、どんなに政治経済に疎い人でも「そんな金がどこから…?」と気になってきますよね~。この財源を作るため、エバは上流階級から金をじゃんじゃん脅し取ったんです。
ここで国家的カツアゲエピソードを。
その1。ロンドン五輪マラソン競技で優勝した自国選手の凱旋に、家を与え、町一番の家具商人に家具を備えさせたエバ。
その後、エバは「愛国精神を見せろ」とその請求書を破り捨てさせました。
その2。大手製菓会社に「十万箱のキャラメルをタダでよこせ」と要求。拒絶されたエバは工場に衛生状態チェックの検査官を派遣し、
キャラメルへのネズミの毛の混入を発見(彼女所有の新聞社が大々的に報道)。課せられた重い罰金は、判事の裁量でエビータの援助基金へ。
https://www.cosmopolitan.com/jp/entertainment/celebrity/series/a6848/woman-history-eva-peron/