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https://www.nikkei.com/article/DGXKZO66474070Q0A121C2MY5000/
「線」の思考 原武史著
神話へ断片化する歴史 回顧
本書の第五章の写真を見て、不謹慎ながら噴き出してしまった。千葉県の藻原寺で建設中の「日蓮大聖人大銅像」は、全長20メートルの予定が資金不足で、高さ5分の1の頭部しかできていない。それだけが置かれると、まるで生き埋め状態の人に見えてしまう。
著者の原武史氏は、交通や地理空間の観点から近代天皇論を刷新してきた歴史家だ。主著『可視化された帝国』は、明治初期の時点では、一般国民にとって民間信仰上の「生き神たち」の一人に過ぎなかった天皇が、巡幸を通じて本願寺法主等の宗教者を圧倒してゆく過程から説き起こされる。
本書では原氏自身が鉄道という「線」に沿って移動しつつ、沿線に残された痕跡から過去の記憶を手繰ろうとする。主たる手がかりは昭和天皇や現上皇夫妻の来訪歴と、仏教・キリスト教をはじめとした宗教施設の沿革だ。
しかし昨年末の前著『地形の思想史』に比べると、浮かび上がる歴史像はより断片的だ。国民統合の主宰者――日本という「面」全体の化身として天皇が見えてくる場面はあまりなく、その分宿や食事といった著者自身の体験の叙述が、肉感的で印象に残る。
おそらくそれは、この国がいま「歴史」を必要としなくなっていることの徴候(ちょうこう)だろう。今日多数の日本人を巡礼に誘い、旅先の土地を意味づける世界観を提供しているのは、『君の名は。』や『鬼滅の刃』といった「神話」の群れである。数あるツーリズムの資源として、「天皇の来訪」はもはや、明治〜昭和の盛期のようには独占的な地位を占めていないのだ。
鎌倉時代以来の日蓮ゆかりの土地であっても、仏像建立に寄付は集まらないが、近く横浜に立つ18メートルの「動く実物大ガンダム」には多くの人が浄財を投じる。本書の旅はコロナ禍の直前に間一髪完了したが、過去の史実に則(のっと)って現在を位置づけること自体が「不要不急」の営みであることを、知らぬ国民はもういない。
「先行研究に当たるものはない」と述べる著者は、高度成長初期の梅棹忠夫『日本探検』を引きつつ、現地を歩きながら手探りで探究することの大事さを説く。その装いに反し、むしろいまや「古典的」なスタイルで綴(つづ)られた、伝統ある歴史紀行の名編である。