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仏教思想解説 ・塚本善隆編、角川書店(1968) 『仏教の思想 1 知恵と慈悲 <ブッダ>』 梅原猛、増谷文雄 『仏教の思想 2 存在の分析 <アビダルマ>』 上山春平、桜部健 『仏教の思想 3 空の論理 <中観>』 梶山雄一、上山春平 『仏教の思想 4 認識と超越 <唯識>』 上山春平、服部正明 『仏教の思想 5 絶対の真理 <天台>』 田村芳朗、 梅原猛 『仏教の思想 6 無限の世界観 <華厳>』 鎌田茂雄、上山春平 『仏教の思想 7 無の探求 <中国禅>』 柳田聖山、 梅原猛 『仏教の思想 8 不安と欣求 <中国浄土>』 塚本善隆 『仏教の思想 9 生命の海 <空海>』 宮坂宥勝、梅原猛 『仏教の思想 10 絶望と歓喜 <親鸞>』 増谷文雄、梅原猛 『仏教の思想 11 古仏のまねび <道元>』高崎直道、梅原猛 『仏教の思想 12 永遠のいのち <日蓮>』 塚本 善隆 ・集英社(1983) 『仏教を読む 1 生とはなにか <阿含経>』 金岡秀友 『仏教を読む 2 宇宙観を開く <華厳経>』 松原哲明 『仏教を読む 3 一切は空 <般若心経・金剛般若経>』 平田精耕 『仏教を読む 4 ほんとうの道 <法華経>』 中村瑞隆 『仏教を読む 5 自在に生きる <涅槃経>』 平川彰 『仏教を読む 6 迷いを超える <法句経>』 松原泰道 『仏教を読む 7 秘密の庫を開く <密教教典 理趣経>』 松長有慶 『仏教を読む 8 捨ててこそ得る <浄土三部経>』 花山勝友 『仏教を読む 9 沈黙の教え <維摩経>』 鎌田茂雄 『仏教を読む 10 こころの開眼 <仏語仏戒>』 松原泰道 大乗仏典を中心とした解説と抄訳。 新しいものとしては以下がある。 『シリーズ大乗仏教 1-10』 高崎直道 監修、春秋社 (2011-2014)
原始仏典
・中村元訳、岩波文庫 (1958-1986)
『ブッダのことば(スッタニパータ)』
『ブッダの真理のことば・感興のことば(ダンマパダ、ウダーナヴァルガ)』
『仏弟子の告白(テーラガーター)』
『尼僧の告白(テーリーガーター)』
『ブッダ神々との対話(サンユッタ・ニカーヤ 1)』
『ブッダ悪魔との対話(サンユッタ・ニカーヤ 2)』
『ブッダ最後の旅(大パリニッバーナ経)』
・増谷文雄訳、ちくま学芸文庫(1979/2012)
『阿含経』 全3巻
・丘山新ほか訳、平河出版社 (1995)
『現代語訳「阿含経典」長阿含経』 全6巻
ブッダが説いた、最も主要かつ平易な教え。
その他は
>>4 の「南伝仏教」も参照。
翻訳仏典
・北伝仏教
『国訳大蔵経』全31巻、国民文庫刊行会 (1910) [旧字体・文語体] (
>>8 )
『国訳一切経』全255巻、大東出版社 (1930) [旧字体・文語体]
『昭和新纂国訳大蔵経』全48巻、東方書院 (1930) [旧字体・文語体](
>>9-10 )
『新国訳大蔵経』既刊62巻、大蔵出版 (1993) [新字体・文語体]
・南伝仏教
『南伝大蔵経』全65巻、大蔵出版 (1935) [旧字体・文語体]
『原始仏典 1~3』全21巻、中村元編、春秋社 (2003)
『パーリ仏典』全22巻、片山一良訳、大蔵出版 (1996)
Pali Text Society(PTS)
http://www.palitext.com/ ・オムニバス
『世界古典文学全集 第6・7巻 仏典 1・2』 中村元編、筑摩書房 (1965)(
>>11 )
『世界の名著 1 バラモン教典、原始仏典 』長尾雅人編、中央公論社 (1969)
『大乗仏典 中国・日本篇』 全30巻、中央公論社 (1973)(
>>12 )
仏教以前
『リグ・ヴェーダ讃歌』 辻直四郎 訳、岩波文庫 (1978)
『アタルヴァ・ヴェーダ讃歌:古代インドの呪法』 辻直四郎 訳、岩波文庫 (1979)
『ウパニシャッド 翻 訳および解説』 湯田豊 訳、大東出版社 (2000)(13ウパニシャッドの全訳)
『ウパニシャド』 日野紹運、奥村文子 訳、日本ヴェーダーンタ協会 (2009)(主要12ウパニシャッドの抄訳)
『ウパニシャッド』 佐保田鶴治 訳、平河出版社 (1979)(主要12ウパニシャッドの抄訳)
『原典 訳 ウパニシャッド』 岩本裕 訳、ちくま学芸文庫 (2013)(主要5ウパニシャッドの抄訳)
『バガヴァッド・ギーター』 上村勝彦 訳、岩波文庫 (1992)(章題なし)
『バガヴァッド・ギーター』 鎧淳 訳、講談社学術文庫 (2008)(章題なし)
『神の詩 バガヴァッド・ギーター』 田中嫺玉 訳、三学出版 (1988)(章題あり)
『バガヴァッド・ギーター詳解』 藤田晃 訳、東方出版 (2015)(章題あり)
『バガヴァッド・ギーター』 辻直四郎 訳、講談社 (1980)(章題なし、~なり調)
『実践「ヨーガ・スートラ」入門』 番場裕之 訳、春秋社 (2008)(全訳)
『現代人のためのヨーガ・スートラ』 グレゴール・メーレ、ガイアブックス (2009)(全訳)
『解説ヨーガ・スートラ』 佐保田鶴治 訳、平河出版社 (1980)(全訳)
『図説ヨーガ・スートラ』 伊藤武 訳、出帆新社 (2016)(全訳、図解つき)
『ウパデーシャ・サーハスリー:真実の自己の探求』 シャンカラ、岩波文庫 (1988)
『ブラフマ・スートラ:シャンカラの註釈 上下』 シャンカラ、湯田豊 訳、大東出版社 (2006-07)(ブラフマン表記)
『シャンカラの哲学:ブラフマ・スートラ釈論の全 訳 上下』 シャンカラ、金倉円照 訳、春秋社 (1980-84) (梵表記)
『古典インドの言語哲学 1-2』 バルトリハリ、平凡社 (1998)
『インド最古の二大哲人:ウッダーラカ・アールニとヤージュニャヴァルキヤの哲学』 宮元啓一、春秋社 (2011)
インド哲学総合スレ2
http://2chb.net/r/philo/1611447371/1-9 『中村元選集』 春秋社 (1961-、決定版1988-) 第1巻 インド人の思惟方法 東洋人の思惟方法 I 第2巻 シナ人の思惟方法 東洋人の思惟方法 II 第3巻 日本人の思惟方法 東洋人の思惟方法 III 第4巻 チベット人・韓国人の思惟方法 東洋人の思惟方法 IV 第5巻 インド史 I、第6巻 インド史 II 第7巻 インド史 III 第8巻 ヴェーダの思想 第9巻 ウパニシャッドの思想 第10巻 思想の自由とジャイナ教 第11巻 ゴータマ・ブッダ I 原始仏教 I 第12巻 ゴータマ・ブッダ II 原始仏教 II 第13巻 仏弟子の生涯 原始仏教 III 第14巻 原始仏教の成立 原始仏教 IV 第15巻 原始仏教の思想 I 原始仏教 V 第16巻 原始仏教の思想 II 原始仏教 VI 第17巻 原始仏教の生活倫理 原始仏教 VII 第18巻 原始仏教の社会思想 原始仏教 VIII 第19巻 インドと西洋の思想交流 第20巻 原始仏教から大乗仏教へ 大乗仏教 I 第21巻 大乗仏教の思想 大乗仏教 II 第22巻 空の論理 大乗仏教 III 第23巻 仏教美術に生きる理想 大乗仏教 IV 第24巻 ヨーガとサーンキヤの思想 インド六派哲学 I 第25巻 ニヤーヤとヴァイシェーシカの思想 インド六派哲学 II 第26巻 ミーマーンサーと文法学の思想 インド六派哲学 III 第27巻 ヴェーダーンタ思想の展開 インド六派哲学 IV 第28巻 インドの哲学体系 I 全哲学綱要訳註 I 第29巻 インドの哲学体系 II 全哲学綱要訳註 II 第30巻 ヒンドゥー教と叙事詩 第31巻 近代インドの思想 第32巻 現代インドの思想
『新アジア仏教史』佼成出版社 (2010-11) 第1巻 インドⅠ「仏教出現の背景」 第2巻 インドⅡ「仏教の形成と展開」 第3巻 インドⅢ「仏典からみた仏教世界」 第4巻 スリランカ・東南アジア「静と動の仏教」 第5巻 中央アジア「文明・文化の交差点」 第6巻 中国Ⅰ 南北朝「仏教の東伝と受容」 第7巻 中国Ⅱ 隋唐「興隆・発展する仏教」 第8巻 中国Ⅲ 宋元明清「中国文化としての仏教」 第9巻 チベット「須弥山の仏教世界」 第10巻 朝鮮半島・ベトナム「漢字文化圏への広がり」 第11巻 日本Ⅰ「日本仏教の礎」 第12巻 日本Ⅱ「躍動する中世仏教」 第13巻 日本Ⅲ「民衆仏教の定着」 第14巻 日本Ⅳ「近代国家と仏教」 第15巻 日本Ⅴ「現代仏教の可能性」
国訳大蔵経(http://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?searchWord=%E5%9B%BD%E8%A8%B3%E5%A4%A7%E8%94%B5%E7%B5%8C&featureCode=all&filters=1%3A00&viewRestrictedList=0 ) 経部 --- 全14巻 第1巻 - 法華三部経、浄土三部経 第2巻 - 般若経(大品) 第3巻 - 大般若経・第十般若理趣分、金剛経、仁王経、般若心経、勝鬘経 第4巻 - 円覚経、入楞伽経、首楞厳経 第5巻 - 華厳経 第6巻 - 華厳経 第7巻 - 華厳経 第8巻 - 涅槃経 第9巻 - 涅槃経 第10巻 - 維摩経、大日経、解深密経など 第11巻 - 金光明経、過去現在因果経、遺教経、四十二章経、尸迦羅越六方礼経など 第12巻 - 弥蘭陀王問経、法句経、長老偈、長老尼偈 第13巻 - 仏本行集経 第14巻 - 仏本行集経 論部 --- 全15巻 第1巻 - 大智度論 第2巻 - 大智度論 第3巻 - 大智度論 第4巻 - 大智度論 第5巻 - 大乗起信論、中論、百論、十二門論、十住毘婆沙論易行品、無量寿経優婆提舎願生偈、妙法蓮華経優婆提舎など 第6巻 - 瑜伽師地論 第7巻 - 瑜伽師地論 第8巻 - 瑜伽師地論 第9巻 - 瑜伽師地論 第10巻 - 成唯識論、摂大乗論 第11巻 - 倶舎論 第12巻 - 倶舎論 第13巻 - 倶舎論、入阿毘達磨論、十地経論、異部宗輪論 第14巻 - 大品・小品 第15巻 - 成実論、因明入正理論 昭和新纂国訳大蔵経(http://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?searchWord=%E5%9B%BD%E8%A8%B3%E5%A4%A7%E8%94%B5%E7%B5%8C+%3A+%E6%98%AD%E5%92%8C%E6%96%B0%E7%BA%82&facetOpenedNodeIds=&featureCode=all&viewRestrictedList=0&pageNo=1 ) 経典部 --- 全12巻 第1巻 - 法華三部経・ほか五経 第2巻 - 浄土三部経・ほか七経 第3巻 - 般若経 第一 第4巻 - 般若経 第二・金光明経 第5巻 - 涅槃経 第一 第6巻 - 涅槃経 第二・仏遺教経・維摩経 第7巻 - 楞伽経・首楞厳経・円覚経 第8巻 - 真言三部経・解深密経 第9巻 - 華厳経 第一 第10巻 - 華厳経 第二 第11巻 - 華厳経 第三 第12巻 - 因果経・仏所行讃・法句経 論律部 --- 全12巻 第1巻 - 倶舎論 第一 第2巻 - 倶舎論 第二・入阿毘達磨論・異部宗輪論 第3巻 - 大智度論 第一 第4巻 - 大智度論 第二 第5巻 - 大智度論 第三 第6巻 - 大智度論 第四 第7巻 - 大智度論 第五 第8巻 - 大智度論 第六・中論・百論・十二門論 第9巻 - 成唯識論・大乗起信論・ほか三書 第10巻 - 四分律 第一 第11巻 - 四分律 第二 第12巻 - 四分律 第三 宗典部 --- 全22巻 第1巻 - 天台宗聖典 第2巻 - 真言宗聖典 第3巻 - 浄土宗聖典 第4巻 - 真宗聖典 第5巻 - 曹洞宗聖典 第6巻 - 臨済宗聖典 第7巻 - 日蓮宗聖典 第8巻 - 華厳宗・法相宗・律宗・融通念仏宗・時宗聖典 第9巻 - 日本支那浄土門聖典 第10巻 - 日本支那聖道門聖典 第11巻 - 法華玄義 第12巻 - 法華文句 第13巻 - 摩訶止観 第14巻 - 華厳経探玄記 第一 第15巻 - 華厳経探玄記 第二 第16巻 - 華厳経探玄記 第三 第17巻 - 華厳五教章・十住心論・三論玄義 第18巻 - 法苑義林章 第19巻 - 大乗義章 第一 第20巻 - 大乗義章 第二 第21巻 - 大乗義章 第三 第22巻 - 信心銘義解・六祖法宝壇経・伝心法要・宏智頌古・人天眼目・博山警語・天台菩薩戒疏 解説部 --- 全2巻 第1巻 - 仏像解説 第2巻 - 仏典解説
『世界古典文学全集 第6巻 仏典 1』 中村元編、筑摩書房 (1966) 仏伝 ・「仏伝に関する章句」 中村元 ・「偉大なる死」 中村元 (大パリニッバーナ経) 原始経典 ・「経典のことば」 中村元 ・「シンガーラへの教え」 中村元 ・「本生経」 平川彰 (ジャータカ) ・「長老の詩」 早島鏡正 (テーラ・ガーター) ・「長老尼の詩」 早島鏡正 (テーリー・ガーター) 「アヴァダーナ」 奈良康明 「百五十讃」 奈良康明 「金剛の針」 中村元 「ラトナーヴァリー」 瓜生津隆真 「ナーガーナンダ」 原実
『大乗仏典 中国・日本篇』 全30巻、中央公論社 (1973-1996) 第1巻 大智度論 第2巻 肇論・三論玄義 第3巻 出三蔵記集・法苑珠林 第4巻 弘明集 第5巻 浄土論註・観経疏 第6巻 摩訶止観 第7巻 華厳五教章・原人論 第8巻 中国密教 第9巻 大唐西域記 第10巻 敦煌1 第11巻 敦煌2 第12巻 禅語録 第13巻 祖堂集 第14巻 高僧伝 第15巻 ツォンカパ 第16巻 聖徳太子・鑑真 第17巻 最澄・円仁 第18巻 空海 第19巻 安然・源信 第20巻 栄西・明恵 第21巻 法然・一遍 第22巻 親鸞 第23巻 道元 第24巻 日蓮 第25巻 無住・虎関 第26巻 一休・良寛 第27巻 白隠 第28巻 妙好人 第29巻 仮名法語 第30巻 説教集
仏教伝播ルート
【北伝仏教】大乗仏教
・[サンスクリット語圏] インド、ネパール
・[漢訳圏] 中国、半島、台湾、日本、ベトナム、シンガポール
【南伝仏教】上座部仏教(小乗仏教)、テーラワーダ仏教
・[パーリ語圏] スリランカ、ミャンマー、タイ、カンボジア、ラオス
【密教】大乗仏教
・[チベット語圏] チベット、モンゴル、ブータン、南シベリア、カスピ海北岸
中論 ・ナーガールジュナ(150-250) 『根本中頌を読む』 桂紹隆、五島清隆 (2016)(全訳と解説) 『龍樹』 中村元、講談社学術文庫 (2002)(中論全訳)(原文なし) 『中論 - 縁起・空・中の思想 上中下』 三枝充悳、レグルス文庫 (1984)(漢文・梵文あり) 『中論』 西嶋和夫、金沢文庫 (1996)(梵文あり) 『新国訳大蔵経 中観部 中論 上下』 丹治昭義 (2019) ・チャンドラキールティ(600-650) 『中論註釈書の研究:チャンドラキールティ「プラサンナパダー」和訳』 奥住毅 (2014)(梵文あり) ・ツォンカパ(1357-1419) 『全訳 ツォンカパ 中論註「正理の海」』 クンチョック・シタル、奥山裕 (2014)(蔵文あり) ※現存する唯一完全なサンスクリット原本は、チャンドラキールティの注釈書『プラサンナパダー』に挿入されたもののみ。 中村、三枝、西嶋も『プラサンナパダー』から訳出。 大乗起信論 「大乗起信論」 柏木弘雄 『世界古典文学全集 第7巻 仏典 2』 筑摩書房 (1965) 『大乗起信論新釈』 吉津宜英、大蔵出版 (2014) 『訳注大乗起信論』 古賀英彦、思文閣出版 (2003) 『現代語訳大乗起信論:仏教の普遍性を説く』 池田魯参、大蔵出版 (1998) 『大乗起信論』 平川彰、大蔵出版 (1973)
唯識 『「唯識三十頌」を読む』 広沢隆之、大正大学出版会 (2005)(梵蔵漢和対照) 『唯識こころの哲学:唯識三十頌を読む』 多川俊映、角川ソフィア文庫 (2012) 華厳経 『口語全訳 華厳経 全2巻』 江部鴨村、国書刊行会 (1928/2006)(旧字体・文語体) 『善財童子 求道の旅―華厳経入法界品華厳五十五所絵巻より』 森本公誠、朝日新聞社 (1998)(絵巻) 『さとりへの遍歴―華厳経入法界品 上・下』 丹治昭義、中央公論社 (1994)(梵語原典訳) 『仏教経典選 5 華厳経:浄行品・夜摩天宮菩薩説偈品・十地品(抄)・入法界品(抄)』 木村清孝、筑摩書房 (1986) 空海 『弘法大師 空海全集 全8巻』 弘法大師空海全集編集委員会、筑摩書房 (1983) 『空海コレクション 1 秘蔵宝鑰・弁顕密ニ教論』 宮坂宥勝、頼富本宏、福田亮成、ちくま学芸文庫 (2004-) 『空海コレクション 2 即身成仏義・声字実相義・吽字義・般若心経秘鍵・請来目録』 『空海コレクション 3 秘密曼荼羅十住心論 上』 『空海コレクション 4 秘密曼荼羅十住心論 下』 『空海「即身成仏義」「声字実相義」「吽字義」』 加藤精一、角川ソフィア文庫 (2007-) 『空海「性霊集」抄 』 『空海「三教指帰」』 『空海「般若心経秘鍵」』 『空海「秘蔵宝鑰」』 『空海「弁顕密二教論」』
道元
『正法眼蔵 全8巻』 増谷文雄、講談社学術文庫 (2004)
『現代文訳正法眼蔵 全5巻』 石井恭二、河出文庫 (2004) (現代語訳のみ)
『「正法眼蔵」読解 全10巻』 森本和夫、ちくま学芸文庫 (2003)
『道元禅師全集:原文対照現代語訳 全17巻』 水野弥穂子ほか、春秋社 (2002)
『正法眼蔵:現代語訳 全6巻』 玉城康四郎、大蔵出版 (1993)
『正法眼蔵 全4巻』 水野弥穂子、岩波書店 (1990) (現代語訳なし)
『現代語訳 正法眼蔵 全13巻』 西嶋和夫、仏教社 (1978)
https://gudowafu.com/book_category/gendaigoyakushoubougenzou/ 『全訳正法眼蔵 全4巻』 中村宗一、誠信書房 (1971)
『正法眼蔵:全巻現代訳 上・下』 高橋賢陳、理想社 (1971)
『Shôbôgenzô, la vraie Loi, Trésor de l'Oeil 全8巻』 de Dôgen、Yoko Orimo (2005)
仏教3.0(上座部仏教/大乗仏教/その他) 『アップデートする仏教 』 藤田一照、山下良道、幻冬舎新書 (2013)※「仏教3.0」の最初期 『サンガジャパン Vol.9 上座仏教と大乗仏教』 サンガ (2012) 『別冊100分de名著:集中講義 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した』 佐々木閑、NHK出版 (2017) 『大乗非仏説をこえて:大乗仏教は何のためにあるのか』 大竹晋、国書刊行会 (2018) 『シャカ族:仏陀を輩出した一族に今なお伝わる仏教の原点』 アジャヤ・クラーンティ・シャーキャ、徳間書店 (2009) 仏教史 『新アジア仏教史』全15巻、佼成出版社 (2010-11) 『日本仏教史』末木文美士、新潮社 (1996) 現代の仏教 『井筒俊彦全集』 全13巻、慶應義塾大学出版会 (2013) 『西田幾多郎全集』 全24巻、岩波書店 (2002)(新版・新字体) 『鈴木大拙全集』 全40巻、岩波書店 (2000) 『柳宗悦宗教選集』 全3巻、春秋社 (1990) 『清沢満之全集』 全9巻、岩波書店 (2002) 山崎弁栄 『人生の帰趣』 岩波文庫 (2018) 河口慧海 『チベット旅行記 上下』 講談社学術文庫 (2015) ダライ・ラマ14世(チベット)89冊 ティク・ナット・ハン(ベトナム)32冊 アルボムッレ・スマナサーラ(スリランカ)147冊 ウ・ジョーティカ 『自由への旅: 「マインドフルネス瞑想」実践講義』 新潮社 (2016) 座禅入門 『禅を楽しむ本 』 ひろさちや (2008) 『禅 ―心と体が綺麗になる坐り方』 池田書店 (2004) ※巻末には、参禅できる全国のお寺の一覧がある。
「絶対の真理はない」という結論に至ったのが、 デリダ、ハイゼンベルク、ゲーデルなどのポストモダン思想。 ただ、「「絶対の真理はない」という真理」という、いわゆる相対主義に陥ってしまった見方もあるため、 その点への反省と反動から、再び「唯一の(あるいは多元的な)真理」ということに注目するようになったのが、 メイヤスーやガブリエルなどの新実在論やポスト・ポスト構造主義。
悟りは生前、或いは自力で、完成しない(求道) VS 完成するプログラムがあり、仏は示した(真理)
私はどこに行ってものけ者にされた。 どこに行っても引きずりおろされた。 ちっ、なんでい、私が死んでから、「お釈迦さま」だと、「仏さま」だと私を祭り上げやがって。 私が生きているときには私を散々犯罪者扱いしやがって。
>>20 ハイゼンベルクとゲーデルをポストモダンに入れるのは何か変じゃないか?
特にゲーデルなんて伝記読んでも「絶対の真理」を証明するために数学とか物理学をやってる感じがあるが
ポスト・モダンにはおっちょこちょいが多い。 その意味でも、ゲーデルはポスト・モダンじゃない。
>>23 既存の社会に馴染んでたら仏になれなかった。
>>26 やらかしじゃなくてゲーデルは全然ポストモダンじゃない
神の存在を信じる有神論者
哲学者が勝手にゲーデルの不完全性定理を使ってポストモダンやってるだけ
>>28 「仏教是不可説」ってかなり大乗仏教っぽいよな、般若経典そのまんま
NHK「物価高で生活が苦しいですが年末くらいはケチケチせず贅沢しようという動きが広がっています!」 1 以下、5ちゃんねるからVIPがお送りします版 | 大砲 2024/12/20(金) 21:21:02.515ID: ってさっきニュースウォッチ9で言ってた
>>31 NHK「物価高で生活が苦しいですが年末くらいはケチケチせず贅沢しよう!」
の間違いだな
衆生本来仏なり? すべての宗教哲学に引導を渡す56分|スマナサーラ長老の切り抜き法話(初期仏教Q&A)
ダウンロード&関連動画>> VIDEO 釈迦の教えに遵う者は来年のことなど考えず 黙って死に赴きなさい それが釈迦の救いとしての教えだ
存在する事の証明は出来る 存在しない事の証明は出来ない 存在しない事は証明出来ないという事が存在する事の証明は出来る 疑える余地がない事はないがあるという事を除いて、疑える余地がない事はない
信仰を得るのは、 遠いようで近い、 近いようで遠い。 信仰は超越的なものではない。 しかし、内在的とも言えない。
射精の瞬間は、いわばシンギュラリティ。 でも、そのシンギュラリティには実りが少ない。 その後の賢者タイムに実りがある。
ブッダも超越的なものではない。 ブッダと我らは連続している。
哲学を学べば学ぶほど無我から遠のくというジレンマ 哲学とは概念を詰め込む作業でしかない ブッダが瞑想や実践を重視した事実は精神的指導者としてとても素晴らしい
瞑想をすると五感に関するもの、空間的なもの、時間的なもの、思考や認識、普段いかに自分が概念の制約を受けて生きているか分かる そりゃ生きづらいわな人間は。
信仰を得たければ哲学などやらぬことだ。 信仰を批評したければ哲学をやればいい。
哲学は自分を発見することだよ。 言い換えるなら誰も自分を知らずに生きているということ。それは生きていないとも言える。 生きていないのなら存在しないということ。 存在しないし誰も自分を知らないので、何を語っても言葉になっておらず、ゆえに哲学を語っていても哲学に至らない。
無我は、信仰というよりも「体験」じゃないかな。 では体験としての無我とは何なのかってのはまた哲学の領域の話で、色んな見方から延々と繰り返される
寝っ転がってスマホ見てこのレスを読んでるあなたへ。私とあなたは繋がっています。これが無我です。
>>50 >哲学は自分を発見することだよ
それはヒンドゥー教だよ
>>52 殺人者とはどうだ?差(しゃ)をなくしていけるか?
無我は現実だよ。ありのままを見れば無我。 無我の実態は自然科学が解明すべきこと。
そもそも生まれたと思ってただけでそれを根拠に全てを知覚認識してる事に気がつけない、生まれて無いんだから無くなることもない
瞑想や実践を伴わない仏教者は、哲学という思索に耽って逃げているだけである
788 考える名無しさん 2024/11/26(火) 23:36:52.22
自灯明・法灯明の意味は四念処の実践だとブッダは明確に定義する🤔
「自灯明」は仏教改変の自由? 駒澤大学と笑い飯哲夫のトンデモ広告から見える仏教学の惨状|深夜対談(星飛雄馬✕佐藤哲朗)
https://m.youtube.co...5aSJ44Gu6Ieq55Sx77yf 自分の思いで対象を切り分けて得意満面になってもそれは思い込みの世界が補強されていくだけのことだ 私たちは現在するものの色を見ているに過ぎない 視覚から入ってくる色、聴覚から入ってくる音等の情報を合成してそこに現在するものがあると想定している
この世には 演繹法(計算)という思考方法と 帰納法(経験則)という思考方法がある そして、いわゆる科学的手法というものは、実は帰納法で行われる 漢方薬で何故風邪が治るのかは分からないが、そういうデータが明確にあるのだから、科学的に考えれば漢方薬で風邪は治る 演繹法で考えれば「我」があるかどうかは分からないが 帰納法で考えれば「我」は実際に何処にもない 「自分の感覚や考えは絶対である」という感じの執着さえ捨てれば ただただ、(何故かは知らんが)この世に我なんてものは何処にもないのだから 哲学なんて何も知らなくても自然と「本当は我は無い」という発想になるものだと思う
お釈迦様は人間ではなく、風だった。 誰か透明人間のこと知ってる?
誰かワタシを知らないだろうか。ワタシはうまれ、せいちょうし、名づけられ、しんでゆく。
風ではない、空気だ。 風など大したものではない。空気は圧倒的だ。
空気は空気で風ではない。ただし風の因である。 空気の濃淡すなわり気圧という縁により風が生じる。
すごい一体感を感じる 今までにない 何か熱い一体感を ∩_∩ /\ /\ | (゚)=(゚) | | ●_● | / \ |〃―――-ヾ| \__二__/
(大河小説「介護少女」 まりあは魔道に入っていったが坂の急さに愕然とした。こんな坂を下れるのであろうか。
中上健次の「浮島」という短編がある。 この中にキンマ引きの荒くれ坊主が出て来るが、キンマは木材のサイズや組み方など、川の筏流しと互換性がある。 ヨーロッパのドナウ川の筏流しにはキリスト教の坊さんが関わってたという話を聞いたが、日本でも筏流しと仏教の関りが あったのかもという気がする。
>>75 悟ってるくせに怒ったりシコったりするのか?
「神は心だ」 神はこころだ。 「神は身だ」 神は身(み)だ。 「神は芯だ」 神は支えだ。
悟りと現実生活の折り合いをつけるのは難しい 特に日本のような過度な物質主義社会では だから私はシコるのだ
詐欺で100万円ほどとられたよ、全財産の半分以上 オンラインでおそらく海外だろうけどログ追ったところどそれ以上何も出来ないお手上げ状態、怒りも悲しみも無くただ少しの呆れ程度しか感じない 物質主義からはまだ離れられてないけど資本主義からは一気に心が離された出来事でした
決して奪えないもの――3.11東日本大震災直後の法話より|スマナサーラ長老の初期仏教法話
ダウンロード&関連動画>> VIDEO 仏教徒に哲学も糞も無い 即刻首を括るべきだ それが仏教の教えだ逆らうな
神仏習合をやった日本では、なんということもない。 サンタはなんとか菩薩で、イエスはなんとか如来だろ。
スーパー行ったら激安ピザとちっさいケーキ持ったオッサンがレジ並んでてワロタ [737150144]
大乗仏教はキリスト教の影響も受けて成立した説もあるしな。特に浄土教ってブッダの教えからかなり逸脱してると感じる。 浄土を神の国とし阿弥陀如来をエス様として何の違和感もない。 ただ、その名を唱え信じれば救ってもらえるという都合の良い教えはバラモン教他インドの宗教・哲学にもたぶんないだろう。
悟るためにはそれまでの全ての人間関係をリセットするか、さもなければ変人になったと思われる勇気が必要だ
釈迦が人間であることを受け入れられない奴は、仏教を永遠に理解できない。
イエス・キリストの誕生日は世界的なのに、 お釈迦様の誕生日は静かなもんだね
悟りは脳内現象であり、超常現象ではない。 ↑これが理解できない奴は全員死刑に処すべきwwww
>>97 「人々は実に、こう考えます。"おお、今日は大いに徳ある仙人が生まれた日ではないか!
彼は罪を犯すことがなかった。彼は死して3日後に天人に再生した。
願わくば私も彼のように徳をつもうではないか"と。
このように、人々は仙人であるイエスの生誕日を心に止めます。心に止めて、かの大仙人の徳を憶念します。
優婆塞よ、これがクリスマスを念ずる徳です」
生きてゐることをみづからのひとしさ(「均衡」/"Gleichgewicht")として認受(ず/ぢゅ)るとは、 忍受と任受が互ひのキアスム的反転として生ず/ぢゅ(受)るのを認めることである。
吹きすさぶ冬の寒風の忍受にみづからの受動性を意識し、やはらかな春のそよ風の任受にみづからの能動性を意識する。
なぜ、みづからの「感受性」/"perception"を認めようとすることなく、 敢へてそれを無視できるようなふりを決め込むのか。
"perception"は、意識してそれを否認しようとしたところで、「感受して『しまふ』作用("per・ception"の"per-"がそのことを伝へる)」である。
「三災」には、世界の破壊期に起こる大の三災と、世界の存続期に起きて人々を滅ぼす小の三災があります。 『倶舎論(くしゃろん)』によると、大の三災に火災・風災・水災があり、 小の三災に穀貴(こっき)・兵革(ひょうかく)・疫病(えきびょう)があります。穀貴とは、五穀の価が異常に高騰(こうとう)する物価騰貴のことであり、兵革は戦争、疫病は伝染病や流行病などをいいます。
些末の事に執着することを捨てなければ、道はますます遠のくばかり 諸行無常のこの世において、確たることを求めることは徒労に終わるのが必然です
佛告比丘。有三中劫。何等爲三。一名刀兵劫。二名穀貴劫。三名疾疫劫。云何爲刀兵劫。
>>106 『倶舎論』には穀貴・兵革・疫病も説かれていない
日蓮の『立正安国論』には説かれるが、大集経云として出典を『大集経』としている
『倶舎論』に説かれる三災とは、 「於劫減位。有小三災。其相云何。頌曰 業道増壽減 至十三災現 刀疾飢如次 七日月年止」 といったもので、 「三災者。一刀兵二疾疫。三飢饉。」 戦争、病気、飢餓である。 その根源は「故諸災患二法爲本。一耽美食。二性嬾惰。此小三災中劫末起。」 とあるように美食と性的道徳の乱れであって、人々の寿命も現在とは異なっている このような人の寿命すら変動する壮大な終末論を、人寿百歳の現代に当てはめるのは無意味である
組織の維持発展、私利私欲、保身や忖度のために歪められ、翻訳と伝播の過程で毀損した末の一言一句にとらわれていても得るところはない そのように無惨に変わり果てたものたちを並べて眺め、そこからゴータマの説いた事柄の本質を拾い集めることにこそ始めて意味がある
「滅相もない」の「めっそう(滅相)」は日本語。 「滅相もない!」をスペイン語にすれば、"no tengo la más mínima intención de 〜"といふことだろう。
無論、「めっそう(滅相)」の「めっ(滅))」は漢語の「滅(めつ)」と重なっているが、 「め(滅)い(入)る」の「め」とも重なっており、「めらめら燃える」の「め(滅)ら」の「め」とも重なっている。 そして、この「め」の用法が「漢語由来」なのかどうかを問ふことは、たいして意味を成さない。
なぜなら、日本語そのものが、中国語としてはいづれかの漢字で表記される声(こゑ)と「共通する声遣ひ」を大々的に活用/流用することにより形成されているからだ。
そして、日本語として活用されるこの「め」の声遣ひは、「うち(内)にとり込まれて形を失ふ/体を成さなくなる様態」を想起させるように用ゐられていると言ふことができるだろう。
例えば、「『めろめろ』になる」という表現を考へてみるといい。 声遣ひが想起させるイメージは、「言葉」としてのの由来に関係なく結びつく。 だから、「懐メロ」の「メロ」や「メロドラマ」の「メロ」が「めろめろ」と語源的に無関係であるとしても、 やはり、それらの「メロ」も同様のイメージを想起させることになり、そのように用ゐられる。
「め」のこゑ(声)が、しばしば、「うち(内)へのとり込みの感覚」をともなって用ゐられるのに対して、 「む」のこゑは、漢字としてすぐに「無(む)」を想起させるものの、「内(うち)からふく(膨)ら『む』ような感覚」をともなって用ゐられることが多い。
そのことは、「むらむら」や、「むれ(・/る)」「むす」、「むせる」、「むっ」とするなどの表現を見ても分かるだろう。
>飯食めど うまくもあらず 行き行けど 安くもあらず あかねさす 君が心し 忘れかねつも
この「飯」は、「いひ」としか読まれないことになっているが、これを「め(召)し」と読むと、 この歌は、かなり「不穏」なものとなる。
仏教哲学とは、「毒矢のたとえ」で言えば、刺さった毒矢そっちのけで、 誰が矢を射たのか、そいつは何者だ、と議論するようなもの。 信仰にとっては邪魔。
ま・み・む・め・も 日本語において「ま」の声は、「円(えん)満(まん)」の「まん」/"entire/whole"の感覚を伝へる「ま(真)」としてもち(用)ゐられる。
「み」の声は、「み(満)つ」の「み」として用ゐられ、「密/蜜(みつ)」の「み」として「密度(/の高まり)」/"density/condensing"を想起させる。
「も」の声は、「盛(も)り」や「森(もり)」に見られるとおり、こんもりと盛り上げられた感覚/"held in fullを伝へ、 「も(持)ち」が「充電されたバッテリーの持ち」、「金持ち」、「餅(もち)」の声としてもち(用)ゐられているのも、その応用である。
「も(持)ち」の「ち」は、その活用において「つ」に変形することからも分かるとおり、 継続性の感覚を伝へるように用ゐられており、漢字の「着」の用法に対応する。 したがって、「もつ」⇔"continuously held in full"ということになる。
だから、「金持ち」も、単に一時的に金を所持しているというイメージではなく、「継続的な金満」というイメージを想起させる。
「む」の声遣ひを理解すれば、なぜ、「はら(腹)ふく(膨)るる心地」が「腹の『むし(虫)』が治まらない」ことになるのかが分かる。
もし仏教に信仰が無かったら、仏教哲学の意味は全くない。 味も栄養もない食い物について語るようなもの。
浄土真宗の戒めが「ひのえうま」による男女比の歪みを緩和したことを発見 大阪大学 [朝一から閉店までφ★]
http://2chb.net/r/scienceplus/1735157179/ 「め」の声遣ひを理解したなら、 「き(聞)こしを(食)し」⇔「め(召)し」⇔「飯(めし)」が、フランス語の《remplissage》に対応することも分かる。
>従家出而 三歳之間尓 <垣>毛無 家滅目八跡 此筥乎 開而見手歯
ことばの表現は、物象化して捉へると、連鎖が断ち切られてばらばらになる。 そのことは、切り離されて扱ひやすくなるという利点でもある。 例えば、日本語において「身(み)」と「三(み)」と「実(み)」は、別々の「言葉」として認識されているだろう。
岩波古語辞典で「実(み)」を参照すると、「充実した中身」と記載されている。 この記述は、妥当であるが、「実(み)」といふことばを物象化して捉へている。 そこで、反物象化を働かせると、「実(み)」⇔「中身が充実すること」となる。
たったこれだけの操作で、ことばの表現は、次々に連鎖することになる。 例えば、「三(み)」は、「二」のあひだ(間)に「中身」として「一」が充実していることに気づく。
「実(み)」⇔「中身が充実すること」⇔"condensing of the content"⇔「身(み)」であり、 これにより、「み・どり(緑)」⇔「身(み)獲(ど)り」、「み・だれ」⇔「身(み)垂(だ)れ」といふことばの表現が伝へようとする感覚もすぐに理解できるようになる。
「仏(ホトケ)」は「Hot-cake(ホットケーキ)」のnativeな発音であり、「ホッと」する気分、又「放(ホ)」でしかないことにも自然に気づくだろう。ホンH⇋Bonノウは韻を因とする印。
キリスト教哲学とキリスト教神学の違いは? 仏教哲学はあっても、仏教神学はない。 そりゃあそうだ。仏教に神はいないはず。
多神(信.シン)教⇔「オンミツ(密教)」、葉隠れ⇔「言の葉(オカクレ)」。遣い(ツカイ)、仏ブツ
宗教哲学はどこかで論理を超える、もしくは逸脱する。 でなければ、単なる哲学だ。
宗教哲学は、どこかで言語を超える。 でなければ、単なる言語オタク。
どうせ家を出ても現世には世間しかなく、世間で家の外に待ち構えているのは、鬼門ばかりだから、変な期待を抱いて他所の門に入っていくよりは、自宅に籠もって宗教お宅でもやっている方が多少でもましであるとは言える。
実際問題として仏教哲学に取り組むのは、この世の生まれついたときから既に自宅の門が仏門である人々ばかりだろう。
仏門の意義を世に明らかにしたいというのは、自宅の門、或いは自分がくぐった門の意義を他人に認めてもらいたいという世俗的な動機に基づいている。
>>151 宗教お宅とお宅宗教。どちらの門かで、哲学の位置づけ、課題が変わってくる。
知識獲得や探求への欲望、自己顕示や承認への欲求もまた、苦を生み出す執着であることを自覚すべきです 研究や布教は業を積む世俗の行いであり、涅槃からは遠ざかるものです
生まれき自宅の門が仏門であったにもかかわらず、敢へて家を出ても行く当てはなく、俗世をさ迷い歩きつづけるだけとなり、どこにも居場所を見出すことはできない。
ゴータマは家を成し、世継ぎまで残した後になって家を出て、仏門は存在しなかったので、その門に入ることもなかったが、結局は、死後、愛弟子を自称する人々により仏門に入れられることになった。
この生まれきの自宅の仏門の「仏」を「キリスト」に置き換へ、敢えて自分からそのキリストの門の外に出て、 俗世をさ迷い歩きつづけ、結局、現世のどこにも自身の居場所を見出すことができなかったのがニーチェであるとするなら、
そのことをはっきりと自覚できるようになった後も、敢へて現世に生きる路を自分から捨てようとはしなかったニーチェの言説の性質がよりよく理解できるようになる。
『善悪の彼岸』 むしろニーチェは宗教こそ世俗的と喝破した。
#2 ブッダが説いた原初の教え——佐々木 閑さんが読む、ブッダ『真理のことば』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】
https://mag.nhk-book.co.jp/article/4942 そもそも、宗教的な修行/修道といふ制度そのものが、家に居場所を失い、どこにも行く当てのない人々が世間に浮浪することになるのを未然に防ぐための統治管理上の対策であって、そのために厳しく管理され、監視される修行のための収容施設と巡礼の道が整へられる。
みづからがさ迷い歩くことなしに、あらかじめ定められた正しい教へに従い、厳格な戒律を遵守することで何らかの悟りを開く道が開けると考へること自体がいかがわしいのだ。
>>162 ニーチェはダルマを世俗的だと誹謗した?
邪見者だな
【日本語吹替え】現実はホログラムである。思考が現実化する仕組みは、そもそも全て波の干渉パターンだから!?
ダウンロード&関連動画>> VIDEO 瞑想始めて数回目の初心者なんですが目を閉じてるのに中央に三角形、四角形、Zの文字、遊戯王カードの死者蘇生みたいな記号?などその時々で様々な形が浮かび上がってくるんですがこれって何を意味してるか分かる方居ませんか?
因みに1番よく見えるのは三角形です 集中力?が増してくると視界(※目を閉じてる)全体に三角形が広がって来ます...
その他にも今までに見たこともなく表現しようがない謎の文字なども浮かび上がります...
>>175 瞑想中は何でも思い浮かぶよ
気になるようだったら目をあけて瞑想するといいよ
>>176 雑念がなくなるほど見えてくるんです...
何かの警告なのか、このまま続けていいのか心配です
>>177 目を開けても瞑想ってできるんですか?今度試してみます!
>>172 海苔を厄除けする寺に恵方参りすると二重取り
>>171 それは、日本の坊主たちにこそ言ってやって
ブッダの教えとは、比丘たちがブッダの定めに従って暮らしている、その姿そのものである。
即ち、日本僧侶の姿は日本仏教そのものである
佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その38」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)
ダウンロード&関連動画>> VIDEO 瞑想はいずれ目を開けてしかも歩きながら日常的に行った方がいい でなければ生き方や社会の中でその意義を応用させることができない 今日も私は街で若くて可愛い女性を見て心動いた時に、無我を感じる
独自のそのまさに妄想をたくましくしておられて、独自の瞑想をしておられるんだろうと、こう思いますよ。
>>185 >>173 の初心者ですけど瞑想と関係あるかどうかは分からないですけど、ランニングをしてる時にあるときを境に感覚が研ぎ澄まされて、それまでの苦痛や疲労が一切消えさって100%で足が走る感覚がありますね
これは俗に言う『ランナーズハイ』というらしいですけど何か瞑想と感覚的に似てるんですよね...
因みにランナーズハイはプロ選手レベルの強度じゃないと中々ならないらしいですけど、何故か自分は速攻でランナーズハイになりました 個人差があるらしいです
>>188 やっぱり瞑想は独学じゃなくて誰かに教わった方がいいんですかね?
精神が研ぎすまれないと何かに飲み込まれそうになって視界がマーブル模様の光?になる感覚があります
ただしっかり呼吸と全身を意識すると視界(瞼の裏)に正三角形が現れて整う感覚があります
宗教としての仏教と、哲学としての仏教哲学をゴッチャにした 頭脳不明晰の輩がウジャウジャ。
瞑想による幻視や幻聴は、思い込みによるプラセボでないのなら、脳の防御反応として分泌される脳内麻薬によるものでしょう LSDが開発されたときも、人類の精神を覚醒する夢の薬ともてはやされて、曼荼羅様のサイケデリックなインスピレーションを作品にするようなアーティストも多数存在しました しかしながら、結局そうした薬理作用による精神変容には中毒性や依存性が付きまとうので、夢は夢でしかなかったわけですが
ドラッグとスピリチュアルの関係は、有史以前からあるわけで、 それは今でも続いている。 ただ、公序良俗を旨とする近/現代社会では、隠蔽されているだけ。
>>190 強度ってのは相対的なもの、それ以外も全ては相対的なもの
ホモ・サピエンスが知能を発達させた一因にシロシビンが挙げられてた、外部要因を取り込んで変性意識を経験出来るのは対象によってはいい事になると思う
>>191 君は色々見えるものが気になる性格だから誰かに教えてもらった方がいいよ
六処→触→受→愛→取→有😍ハァハァ👱🏻♀💦
六処→触→受→❌🤖ムジョウ…ク…
6種の感覚器官からの情報を、智慧によって「無常である。苦である。」とみるのです。
佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その19」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)
ダウンロード&関連動画>> VIDEO サイケデリックの依存性は低い 日本ではそうしたものはドラッグと一括りされるので知識が普及しておらず、そのような思い込みを生みやすい 南米や北米インディアンの一部では宗教的意味合いを持って昔から健全に使用されている
ドラッグによって変性意識が生じ、ある種の恍惚体験、 あるいは「ワンネス(Oneness)」体験を得られる。 しかし、ドラッグによって智慧は現れない。 我々に必要なのは、智慧である。
智慧にとっての「躓きの石」は分別だ。あるい論理的思考。 紛らわしいだけに、論理に囚われ、智慧から離れてしまう。
芸能界の皆さん 中居やジャニー喜多川の件で何を学びましたか??? 警察の天下りの重要性!!! そうです! 強姦し放題のジャニーズ事務所は 事件の相談を受任する弁護士や、被害相談を受ける警察の存在ごと被害者から奪うことで成立していました! (国家権力による威嚇、周囲の萎縮の悪用) 是非、芸能界には、警察OBを! 649 名無しどんぶらこ 2024/12/15(日) 17:21:45.93 ID:tO6aqen50 井川意高は言いました。 警察とは汚職するための組織だ。 俺は筑駒から東大。 幼少期は、飛行機で四国から東京の塾に通い、 18歳からは 週末になると親の金で東京から祇園に新幹線で通った。 上場企業の創業家として20代から会社を経営してた。 その俺が断言しよう。 警察と政治家はカスであると。 具体的には、ビール券数百万円を署長レベルに毎年届けて、元警察を雇用したりして違法を合法にしてた知り合いなどがいる。 時効だからいうけど、政治家に俺らも現金を饅頭下に入れて、ゴルフとか行く度に渡してた。 アイツら、私腹肥やす事以外考えてないクズばっかりだぞと。
ドラッグを使わなくても"到達できる"人間と ドラッグを使わなければ"到達できない"人間がいる スピリチュアルもセンスの世界
そして後者でドラッグを使えない者は代わりに知識で武装して物質主義者となる
智慧の発現に、ドラッグの有無は関係ない。 ドラッグによる変性意識は「躓きの石」。良きにも悪きにも働く。
智慧は獲得するものではない。発現するものだ。 余計なものを取り除いたら顕れるもの。
結局のところ「犀の角のようにただ独り歩め」だ。 所詮、誰でもが独自の解釈。そこから始まる。
稚拙な一行レスの仄めかし。 二行書くとはアホがばれるw
>>214 Khaggavisāṇaは犀の角じゃなくてこれ一語で犀の意味なんだが……
犀は群れないから
欲を捨て、世間を捨て、輪廻も捨て、この世を捨てて涅槃に至りたいと願い、実際に財貨も未練も社会的役割も捨てた人が瞑想するからこそ、そこで生じる神秘体験に仏教的意味が生まれ得るのです 欲望を追って俗世に生きることを望みながらいくら瞑想をして神秘体験をしたところで、それは快楽や好奇心を満たすだけのことで、習慣化し依存すれば麻薬に溺れるのと変わりありません
心穏やかに生きられる境地とかそういうアレを求めてするのが瞑想であって 気持ち良くなる為に目閉じてぼんやりするのはただの現実逃避なんよね
本場のサドゥーは家も寝床も衣服も免許も住民票も選挙権も健康保険も捨てる つーか本来のサドゥーは家庭を栄えさせ後続を立派に育てるというこの世での仕事をなし終えた者がなるものだ だから釈尊の出家が異例だと言われてたわけで そして出家を特別視しだしたのは部派仏教になってからだ、財産を教団に喜捨しろとか全員出家しろとか言い出したのは 釈尊は出家在家問わず機縁のあるものには法を説いていた、出家在家での差別をすることは無かった
仏教徒は哲学などで苦労せず早く死に赴いた方が利口だ
無神論哲学者は仏教などで苦労せず早く死に赴いた方が利口だ の間違いだろ
この世に生きることに耐え難い苦痛を感じるのでなければ、そのまま苦と欲望とともに、その時々の常識にしたがって人生を歩めばよい。多くの衆生はそうして生き続けている でき得ることならば、そのような生き方のできないものたちに慈悲をかけ、彼らの修行を助けてやってほしいと説いたのがゴータマの在家へのメッセージ この世の無常に耐えられぬものだけが、欲を捨て世を捨てる選択をして修行の道にはいればよいのであって、その道を示したことがゴータマの独自性 当然称賛されることでもなければ他人を勧誘すべきことでもないし、彼らの修行を俗世の人々が部分的にかじったところで目的が違うのだから無意味であるばかりでなく有害にもなりうる
仏教が何を説いてるかを考えたら 私は出家をしたから仏教徒だとか、あれは俗世のものだから縁がないとか そんな感じで物事の分類をするという行為そのものがあんまりよくないのだろうなとは思う
濡れた子犬のような匂いのするワイン 思考妄想するより飲んで確かめよう
悟りを求めて出家する仏教徒 出家を支援して世俗に生きる仏教徒 どちらも仏教徒だといっても、目的も生き方もそれぞれ異なり安易に混同すべきではない違いがある たとえば出家はこの世を捨てるのだから善業を積もうとすることすら忌むべき執着であるし、在家はこの世に生き続けるのだから家族や生業を捨てるようなことはすべきでない ゴータマはそれぞれに異なる戒律を授け、異なる教えを説いている
>>234 >善業を積もうとすることすら忌むべき執着である
しったか乙
>>232 その通り!仏教者としてのあり方だとか、分類だとかいらない
そうした考えは仏教の本質と逆行する
全て程度問題であり、涅槃に至れなくとも、苦を減らし生き方が改善されればそれもまたよし
道諦を軽視する哲学者
知識は煩悩である|スマナサーラ長老の切り抜き法話
ダウンロード&関連動画>> VIDEO 釈迦がこのようなことをしようと思ったんだから、 釈迦時代から社会は乱れていたと思われる。
バラモン教団が採用していたのは因果説 種を蒔くと芽が出て花が咲き実がなる、それは種にそのようなアートマン、不変の「我」が宿っているからだ バラモン僧がヴェーダ、神言を唱えることによってその因果を加持することができる、というのがバラモン僧の主張 釈尊の縁起説ってのは、実際の運用においては因果は因縁・生起する縁によって変わっていくものであって、因果を保証する我(アートマン)は常なるものでは無く、実際の世界は無我にあるものなのだ、というもの バラモン僧は神言、呪文をとなえれば事故が起きなかったり来世いいカーストに行けたりすると説いてたが、釈尊はそれに「証拠は?」とエビデンスを求めたわけですね 「バラモンは出自によって成るものでなく、行為によって成るものである」 これとかも、つまりは今のバラモン僧の中にはバラモンの名に値しない者がおる、という批判なわけで、でも主張を曲げるわけにはいかないから凄く控えめに奥ゆかしく主張されてたみたい ガンダーラ、ギリシャ哲学と遭うことで姿を得て、老荘思想に触れて禅宗を、景教に触れて浄土系を生み出すことになるか 経釈は鏡のごとし、とはよく言ったもので、仏教てのは触れるものの心根とかがよくわかる教えなんだと思う
ブッダが見つけた四つの真実 単行本 – 2021/5/24 ゾンサル・ジャムヤン・ケンツェ (著), 河上 沙羅 (翻訳), 望月 恵太 (翻訳) 著者は現代チベット仏教界における中堅世代の一人。1961年ブータン生まれ。7歳の頃、ケンツェの系譜を受け継ぐ転生者の一人として認定される。 ダライ・ラマなど偉大な師から教えを受け、またロンドン大学東洋アフリカ学院で比較宗教学を学ぶ。 チベット、インド、ブータンの僧院で指導にあたるほか、世界各国にダルマセンターを設立して修行者を指導 、欧米、オーストラリア、ラテン・アメリカ等でも精力的に法話会を開催し、文化や伝統などの枠組みにとらわれず仏教の本質への理解を深めるための活動を行っている。 また映画『ザ・カップ――夢のアンテナ』(1999年)をはじめこれまでに5本の映画制作を行ってきた異色の仏教僧。
今年の忘年オフ会は、恵比寿三丁目の「麺屋 空海」な。 ガネーシャのTシャツ着てるのがオレだから。
「考えに固執する」という事が煩悩だから 知識は煩悩だし、知識は煩悩だという知識もまた煩悩なんだよね そして知識は煩悩だという知識は煩悩だという知識もまた煩悩という…
要は筏の喩えのことだろう そんな小難しい問題じゃない
知識がある事は正しい 知識がない事は正しい どっちも咎められている理由は同じ そもそも、(それがないという事を除いて)必ず正しいものなんてない
いかだに乗って川を渡り終えた後 後は道を歩くだけなのにそれでもいかだを持ち運ぶのは正しいのか? それは、正確に言うと分からない 人生など何が起こるか分からないので100%正しくないという答えは正しくない 話がややこしくなるからお釈迦様は突っ込んでないだけで、「このいかだはこの後必要か?」という問いに「いいえ」と答えるのは本当は別に絶対の正解ではない でも、たぶんおそらくだいたいの可能性で、それは正しくない確率の方が高い
知識があれば、「川を渡った後にいかだはもう必要ない」と気付ける お釈迦様はそういう合理性というものを語ったのだと知れる しかし知識があれば、「川を渡った後にいかだはもう必要ない」と思ってしまう お釈迦様はそういう生活の知恵とかだけを語ったのだと思ってしまう だから知識は、いらないのにいるし、いるけどいらない
>>245 川を渡り終えてないのに、筏なんて要らない!、筏なんて要らない!って叫ぶ奴が多すぎだろ
組む気もないし組み立て方もわからない 材料だけが積み上がる
オレは、釈迦を「超越者」「聖者」とはしない。 彼は人間である。数で言えば「有限の数」で「無限」ではない。 この差は大きい。神なら不連続だが、我と釈迦は連続している。 彼にも誤りはある。我らも一つぐらいは指摘できるだろう。
釈迦の誤りの一つは「輪廻」である。輪廻は無い。 「誤り」というよりは、今の我々には合わないと言うべきか。 彼の時代ではその説き方で良かったのだろうが。 彼の言う「輪廻」は、物理的現象ではないだろう。 未来の自然科学は、釈迦の理解と整合するだろうが、 そのためには、自然科学も仏教も変わるのである。
輪廻が真理で、かつ物理現象とするなら、現在の物理学は全く変わらねばならない。 しかし、それを試みようとする物理学者はいないだろう。それより輪廻を否定する。 輪廻を説くものは、物理学的な説明をすべきだ。 あるいは、少なくとも実証すべきだ。
釈迦は人間だ。神ではない。多くの仏教者は認めている。 それが仏教の他の宗教と決定的な違い。 アホな後継者の一部が、超越者に祭り上げてしまったが。 「超越者ではない」ということは「我々と連続している」ということ。
「輪廻」を物理現象として説明する試みとして、前世記憶の研究とか、 催眠療法による回想などがあるが、いずれも不完全。 前世記憶については、イアン・スティーブンソン博士の研究が有名だが、 彼は、輪廻の存在を主張してはいない。
「輪廻は物理現象ではない」とすると、様々な解釈があり得る。 例えば、「輪廻とは現世における幸不幸のことで、輪廻を断つとは、 幸不幸による心の乱れを断つことである」とか説明できるだろう。 しかし、釈迦は一切そのような説明はしていない。 まさに物理的現象のような輪廻について語っている。 「それが当時の常識であった」などというのは、説明にならない。
>>255 >彼は、輪廻の存在を主張してはいない
読んでなくて草
仏教の最終目標は「輪廻の断絶」であるから、輪廻が 有ろうが無かろうが、悟りに励めばいいのであるが・・。 しかし多くの仏教者−僧侶から在家まで−は「あの世」を語る。 日本人のみならず、世界の多くの者は「あの世」を語る。 人間が誕生して以来、誰一人として「あの世」を実証していない。
>>257 ならば、彼が「輪廻は存在する」とした文章を示せ。
>世界の多くの者は「あの世」を語る。 その一人にゴータマ・ブッダがいるのである
>>259 輪廻(人間から人間だけの)の仕組みを推測してる文章なら一杯あるだろ
読んでないのに適当なこというなよ
>>261 「一杯ある」なら、ひとつぐらい示せるだろ。
>>260 釈迦は「あの世」を語っていない。
「無記」を知らんのか?
行く先ではなくて来たところを見つめりゃええのに、まだ来てない未知のものに悩むより過ぎた既知のものに悩むのが
>>261 読んでいないだと?
「前世を記憶する子どもたち/イアン・スティーヴンソン」は、
あまりにも有名だろう。
そして、「前世療法/ブライアン・L・ワイス」も読んでいるよ。
>>261 彼は、生まれ変わりについては、説得力のある証拠、無い証拠の両方を出している。
彼は、彼の研究は「輪廻を証明する」ことではなく、「輪廻を示唆する可能性のある事例
を科学的に探求する」ことを目的すると言っている。
>>261 しかし、一方では「現在の科学の枠組みでは説明がつかない事例がある」とも言っている。
いずれにせよ、彼は科学的手法に拘っているから、「輪廻は存在する」などと断定しない。
有力な仏教学者にも「輪廻はない」とか「輪廻の有無は語らない」とか言う者がいる。 それに対して「輪廻の否定は仏教経典を否定するものである」という者がいる。
〔他人を〕信じるのではなく、作られざるもの(涅槃)を知り、
〔生死の〕束縛を断ち切り、
〔輪廻の〕余地を滅して、欲望を捨てた人、
彼は実に最上のひとである。
(和訳:松村淳子先生、一部改訳)
危ないダンマパダ Dhammapada 97偈|ゆるねこ仏教オンライン講座17(25 Oct 2022)
ダウンロード&関連動画>> VIDEO スマナサーラ長老は「エネルギー保存則のように、生命も保存する のであり、それが輪廻だ」と言っていると思う。 パーソナリティが輪廻するのではなく、ある種の「生命力」が輪廻する とのことらしいが、それ以上の説明は聞いたことがない。
法句経では釈尊は 「悪いことをした人はこの世で憂い、 来世でも憂い、二つところで共に憂う」 と説いている 涅槃経の元となる弟子による記録、遊行経では、釈迦の滅後を心配する弟子に「捨命住寿」、ジーヴァの命を捨てアーユス、寿に住む(だから心配するな)と言っている まさに対機説法で、相手の機縁に応じて釈尊は応答を変えている 言っても分からない奴には最初から言わないってスタイルなだけだよ バズりたい奴が釈尊のキャッチーな所を捕まえて大騒ぎしてるだけ ちゃんと体系的に勉強してる人で無記説に騙されてる人を俺はあまり知らない 過剰反応してる人はいる
対機説法での話を、物理現象として輪廻が存在するか否かに使うことはできない。 「無記」の場合は、かなり正面からの応対に見える。とは言え、これも対機説法だ。 現代の我々は、輪廻はどんなメカニズムで生起するのか、あの世があるなら、 それはどんなものかの説明を要求する。 「物理現象ではない」というなら、そのような説明が必要である。
「あの世」というのは宗教者の「餌」でもあり「言い逃れ」でもある。 因果応報をアメとムチに使い、命の終わりの説明を「あの世」に引き延ばす。 もし「あの世に拘るな、今を懸命に生きよ」というなら、一切、あの世に 言及するな、と言いたい。
>>262 読んでないから示せというのである
示しても調べようがないのである
>>263 ゴータマ・ブッダが沈黙したのは如来の死後についてであって衆生が生まれ変わって天子になったなどの法話はたくさんあるのである。
>>265 『前世を記憶する子どもたち』を読んでたらスティーヴンソンが当たり前のように生まれ変わりについて考察している事は分かるはずなのである
>>275 うん? アンタは読んでないの?
具体的なことを一つも言っていない。
ボンヤリとしたことを言われてもなぁ。
>法話はたくさんある
→たくさんあるなら、一個ぐらい示せよww
→オレはブッダが輪廻前提で説いていることを否定していない。
それが当時の常識であるから、対機説法で説いているのかを知りたい。
>当たり前のように生まれ変わりについて考察している
→それは誤読だ。そうでないというなら、具体的な文章を示せ。
>>276 説法ではない。質問している。答えが欲しい。
それは、250と251で示した理由だ。
>>271 このパーソナリティってありきで色々考えてしまうから輪廻はある無いってなるんよな
そもそも個について確かに観じられるとこまで行けば自ずと輪廻と言われるような流れは理解して納得もするだろうけど
肉体や精神があって生命が在るんではなくて生命(と呼んでいる未知のなにか)によって一定の法則に基づいて肉体と精神とが肉付けられていくと観れば個体の死はただの循環の中の点でしかない
>>279 そんな粗雑で凡庸な理屈に、誰が命をかけるかよ。
アンタがそれで納得してるなら、何をか言わん、だが。
世界の理解、我の理解、命の理解に、科学も宗教もない。 科学も宗教も変わらねばならない。大変革、そして統合だ。 釈迦が今生きていたら、それをできただろう。
>>280 命をかけようが信仰しようが納得しようがしまいがも妄執だろうに、好きにすればいいんじゃないでしょうか
重力を否定しようが肯定しようがどちらも変わりなく重力の場にあってその作用を受けたり利用していたりするんですから、そこには信仰も納得も理解すらも必要ないんです
だからアーユス(寿)って言ってんじゃん 釈尊の活動された時期に盛んになったヴェーダがアーユル(アーユス)ヴェーダ 因果関係が示された、実践的なヴェーダのことだ ジーヴァは生滅する命のこと、アーユスは縁によって形を成し、そして縁によって形を失っていくものを示す 寿命を尽くす、縁起生の生命ってのがアーユス 輪廻するしない輪廻ある無いの話じゃなくて、釈尊が尊いのは自分の一生を最後の一生として生きられたからなんだよ だから周囲の人はこの人は来世を頼まない、解脱された人だと評されたわけで
まあな、本気でやっている人は、ねらーの戯言になんかまどわされるような者ではないわな。
釈尊の一生はそのものが衆生への説法なんだよ 聞いた者は自身の一生を見直す契機を得るからだ ていうかまず十二縁起、十二支縁起で釈尊が説いてる苦しみの連鎖、はまず無明から始まる貪欲瞋恚愚痴の人間の思い込みと勘違いの執着の世界によるものやん? これが現在世において改まらんから未来世でも苦しむことになる、だから四諦となるべく八正道を得て行動や思考をあらためて行きましょうねって論理展開やん、説教でなくてなんなんだ っていうのと、抑えるべきはこの「未来世」ってのが「これからの未来のあなたの世界」ってのと「あなたが死んでからの世界」の2つの意味があるってことなんだよ 「現在世」に関しても、「現在というこの作用時間」っていう意味と「現在から死ぬまでの間」っていう2つの意味がある バラモン教系統は基本的に2つをある意味わざとごっちゃにして語っている、当時のサンスクリットがその2つの時系列を基本的に区別しないからなんだが 仏教は各宗派でわりと混在してる、全部を見知ってるわけでないんでこれはイメージだけど 現世での脳内輪廻の問題と死後の輪廻の問題を明確に区別しだしたのは主体が漢字文化圏に移ってからなんでないかね 例えば浄土教系統の未来世ってのも善導とかだとつまりは未来、現在以降ってことになる そういうことをわきまえずに古い仏典を読むと大変なことになる
>>287 仏典を読まずに概説書ばかり読んでるからそういう妄想に陥るんだよ
kāyassa bhedā paraṃ maraṇā ... upapajjatiという表現を見たことがないのが丸わかり
うん、だから釈尊はその2つは区別してるんだよ だからそういう議論になっている 刹那滅へのインドでの扱いが象徴的だと思う
>>283 難点はつねにある。分け得ないということ、その上で批判は解脱し得ると信じたから分けたこと。
>>289 「刹那滅へのインドでの扱い」って具体的に何かね?
「脳内輪廻の問題」というが、そもそも「脳内輪廻」なるものが原始仏典には存在しない問題なんだが
君たちに問いたい。 輪廻を信じているのか? その根拠は? 「輪廻があろうと無かろうと、どうでも良い」というのはマヤカシ。
輪廻はあるかもな。それも2種類。 現世で死ぬかもしれぬが、死後あの世に行ったらそれも輪廻。 死後、生まれ変わったらそれは輪廻転生だろう。
人間には嘘を本当だと思いたい気持ちがあり 例え嘘でも死後の世界とかそういうものがあると信じたい気持ちがある 輪廻がどうとかそういう話は、明らかに人間のそういう願望から来ていて、その発想に至った思考に妥当性がない だからたぶんこの世界は実際にはそういう風には出来ていない しかし、本当に論理的に考えたら どんな物事も100%そうであるとは逆に言えない なので、まあないだろうけどないとも言い切れないくらいに思ってる
さっきの法句経の「悪いことをした人はこの世で憂い、 来世でも憂い、二つところで共に憂う」は それを聞いていたある人が思い出を語ると 「悪いことをした人は現在苦しみ、(身口意の行動が変わらなければ)未来でも苦しむことになる」 と言ってたということになり、他のそれを聞いていたある人がその記憶を語るとすると 「悪いことをした人はこの世で苦しみ、(身口意の行動が変わらない一生であれば)死後の来世でも苦しむことになる」 と言ってたということとなる 釈尊自体が仏典を著したわけじゃないんだよね、確かに 如是我聞した人の情報の方がここでは資料として重要になってくる
輪廻は物理現象でもある。 輪廻を肯定する人は、物理学的説明をすべきだ。 あの世でも時空があり、素粒子があるのか? 現世から、あの世へと移動するメカニズムは? あの世から、現世へと移動するメカニズムは?
あの世この世は重なってるんよ、行く行かないじゃない 次元が折り重なってるとか虚数の次元とか軸なんてホーキンス博士は言ってたけど、理解は出来なかった
釈尊が実際何を話したかも分からないのに、君たちは後代に作られた理屈や説明をありがたく詰め込んでいる 仏教の本質、つまりジャクソンが伝えたかったことはそんな難しいことじゃない
釈尊が実際何を話したかも分かってるのに、君たちは後代に作られた理屈や説明をありがたく詰め込んでいる 仏教の本質、つまり中村元正大師が伝えたかったことはそんな難しいことじゃない
>脳内輪廻
往生要集だと横截悪趣、悪趣自然閉ってあるじゃん
世の人々は5つの感覚器官の対象を楽しみとし、
それらを悦び、それらに気持ちを高ぶらせている。
それらを楽しみとし、それらを悦び、それらに気持ちを高ぶらせている。
>>298 四諦と八正道を得られない人は視点も行動も思考もあたらしくならず、貪欲、瞋恚、愚痴の三悪道、地獄餓鬼畜生、人、有頂天みたいな五悪趣を経巡る無自覚な人生となる
これは物理的なものだと思わない?
そんで、そういう人の人生を上座部でどう評するかというと
視点や行動や思考が地獄餓鬼畜生人天の五悪趣、それに修羅道を加えた六道を外部刺激によって経巡ってる、という状態を脳内輪廻と表現させて頂きました 人間関係の対人カーストやらの中で地獄状態になったり餓鬼道に落ちたり有頂天になったり修羅になったり、無常なので依るべきものを失い続け勝手に期待し彷徨い歩くのが私たちでございます
>>306 >往生要集だと横截悪趣、悪趣自然閉ってあるじゃん
それって文字通り悪趣には再生しなくなるってことですけど
そんなことまで説明しないとダメですか
>308 マジか 仏願に随順する姿勢が無い、仏願、如来、如実を知らずにある姿勢や態度を無明という 別に何でもいいよ、三悪道、五悪趣、火宅無常、宗派ごとに言いようはいくらでもあるだろうけどそういう人間の通常営業とは別の方向性を得られたから「悪趣自然に閉ず」ということが起きたんだと源信は言ったわけで 平家物語の冒頭の元ネタも往生要集だよ、日本の仏教史の大元がここにあるから一度ちゃんと読んでみればいいよ
お釈迦様はそんな理屈や熟語や概念は並べなかったはずだ 筏の組み立てをどれだけ補強しても彼岸には辿り着けない
・一定レベルの知能は前提にしてる ・弟子の仏典を読めとは言ってない
もともとゴータマの説いた意味ある言葉に触れたいとおもうなら、凡俗の思惑により汚されきったさまざまな仏典から、その垢を剥ぎ取る作業が不可欠です 諸行無常 一切皆苦 諸法無我 これらの動かしがたい概念と照らし合わせてみれば、これと矛盾する多くの無意味な戯れ言が剥落することでしょう
むしろ意味を見いだす作業の一切は後の解釈で 無常無我さえ勝手に中心にされてしまったのだ
>>312 その三宝印も龍樹さんくらいの時代からのもんなんだよね
釈尊滅後の口伝仏教を突き合わせてみると、一番もともとの主張に近いのが苦集滅道の四諦の話、そして八正道、十二因縁になるみたいよ
あと中道とかも
まあその四諦八正道の論理から三宝印四法印もちゃんと引き出せるんだけどね
武蔵小杉のブッダとは俺のことだ アドレナリン出してブチ上げていけ令和7年
主張はなかったんじゃないかな。あるいは確かなものは思いつかなかった。 当時は輪廻で語られたから、それに倣った。その実証も思いつかなかった。 ブライディー・マーフィーでだいぶ信者が増えたらしいけど、そんなもん。
自然科学と宗教の対象は同じものだ。 「これは自然科学の対象、これは宗教の対象」の などというものはない。 それゆえ、両者の結論が違うなら、どちらかが間違っている。
【戦え日本人、侵略行為に抗戦せよ!】 日本は帰化朝鮮系の家系の人間によって隣国の大韓民国と北朝鮮に侵略行為を受けている 彼らがやっていることは「差別」を盾にした日本人を対象にした迫害であり「民族浄化」である 国際法でもこのような行為は決して許されていない しかし何となく加害者が日本人で、差別されているの朝鮮系と言う意識を刷り込まれて彼らに遠慮してないか? 事実は逆である、加害者は彼らの方で迫害されているのは日本人である、まずこの意識を共有しよう なぜそうなっているのか? 新聞、出版社、テレビ局、会社の起業家、大学教授などが帰化系の人間で徒党を組み 日本人を差別、排除してまるで日本人であるかのように振舞っているからである テレビに映り世論を形成している人間が日本人の振りをして韓国、北朝鮮に有利になるように論調を組み、 日本を支配し、日本人が朝鮮人に隷属することを強要している これが侵略行為以外のなんなのか? なぜ日本人が日本で差別の対象にならなければいけないのか? 帰化系が起業し外部の朝鮮系と通じ合い会社を成功させる、または帰化系が既存の会社組織でトップに居座り 管理職を帰化人系のみで固め、日本人は閑職に追いやられ、パワハラで辞職に追い込まれ その会社の技術を朝鮮半島に流出させ、日本企業が競争力を失っていく 芸能人、テレビ局員、スポーツ選手(五輪代表、野球、サッカー)、報道関係者は帰化系で独占されている もはやテレビに映る人間はほとんど日本人ではないと考えろ では何をするべきか? もはや野党はほぼ全員、もはや自民党も過半数以上は帰化朝鮮人系の家系の人間が国会議員を占有しつつある まず「政治家に立候補する時、外国の家系の人間か否かを公表する」を提出して過半の賛成を取って立法化しよう 国際的にもごく一般的で、アメリカでも何系かはすべて明らかにされている そうなると帰化人の家系の人間に支配されたメディアは差別だと糾弾し始め帰化人たちが暴動やら起こすだろう、 日本は荒廃の一途を辿る、内戦状態に近いものになる だがそれは当然のこと、国内で隣国の人間による侵略行為、民族浄化行為を受けているのだから 時間はあまりない、やつらが過半数を確保してからでは遅い、韓国北朝鮮に占領されてしまう 日本人よ、まず声を上げるのだ
99.999%の確率で本当でなければならないのが科学で 0.001%の確率で本当であれば良いのが宗教 なので、同じものを対象にしていても結論は違う
八正道がありますが、321のレスで何が言いたいのですか?
八正道を見せても、 なんですか?と疑問を投げ掛けて来る、仏教哲学スレ
これはこうですよと言われた時 分かった気になるのが宗教家 分からないと言えるのが哲学者
仏教に知らないことなど存在しない 量子論なんかもとっくに仏教が説明している 全ては仏教の後追いに過ぎない
物理学においては、「万物の理論」とは、 弱い力/強い力/クーロン力と重力の4つの力を統合した理論のことだ。 しかし、それを「万物の理論」と呼ぶのは視野が狭い。 「万物の理論」とは、精神の世界も含めた理論でなければならない。
精神世界を含めた「万物の理論」を作るためには、 自然科学も、宗教も、根本的に変わらねばならぬ。 仏教は、それについて無関心かも知れない。 しかし「創造の神」を持つ、キリスト教ほかは、 自然科学とガチの論争をすべき。
精神が物質と対として語られている以上、精神、物質の枠組みを越えた何かを探求するのが近道
伝統的な自然科学は「精神」を語らない。 そもそも「精神フォビア」の連中が、自然科学を始めたのだ。 17世紀以降の自然科学は、神を排除する試みでもあった。
人の幸せとは何か? そういう事は、その人の人生とか性格によって変わる 「人それぞれ」という事が結論である事を科学理論にする事は出来ない 精神世界も含めた万物の理論が何であるか それは科学者ではなく、各々が考えるしかない
人の幸せは「人それぞれ」ではない。 そんなものは遥かに超越したものが、普遍的な幸せ、安寧である。 そうでなければ、宗教などは存立し得ない。
哲学や科学は死後の世界を説明出来ないが 仏教は事細かに説明しきっている そういうこと
「人それぞれ」と言うが、結局、人はどれも同じだ。 違うのはささやかな遺伝的性質と、局所的な状況だけ。 そんなものは取るに足りない。 世界の80億人のヒトは、結局のところ、同じものが 世界にバラ撒かれただけ。 当然、状況は異なるに至るが、違いはささやか。
>>335 >仏教は事細かに説明しきっている
まったく違う。なにも説明していない。
説明と言われるものは、単なるフィクションに過ぎない。
「如実知見」が仏教の信条ならば、自然科学と同様な
実証的な説明をせねばならない。
輪島と珠洲の人口 約30%減少と推定 戻りたくても現実は… 何で、元プロレスラーに災害対応ができると思ったか、逆に訊きたいわ(-.-)y-゜゜゜
>331 哲らか(あきらか) 明らか 諦らか フィロソフィとは別に、日本の哲学てのは人間の心に共通する構造を探る学問という面がある ていうか例えば神経は物質だがそこを走る信号は物質ではない 車は物質だが走行は物質ではない 水蒸気は物質だが虹は物質ではない 時計は物質だが時間は物質ではない スマホは物質だがそこから出てくる映像も音楽も物質ではない 全部因縁や因果があるんだよね
車は移動するが、「走行」はイルージョン。 「虹」もイルージョン、 現象は変化するが「時間」はイルージョン。 光は物質、音は物質の波、しかし「映像」や「音楽」はイルージョン。 イルージョンに因果はない。
「無自覚の差別」とは便利な言葉で、差別意識が無い人でも自由に差別者に仕立て上げられる。 ↑ 馬鹿の極み(笑)
>>340 虚妄に因果はないけどそれを想起させるものとそれを想起している存在は因とならんのか
結局のところ哲学とは終わりなき解釈ゲームであり、プロセスそのものなのだ 真理はブッダが2500年前にとっくに示している。 トンチのような話だが、真理とは無我と無常である、という命題は唯一反証不可能だ 近現代にかけてようやく西洋の哲学者が認識や言語の限界を示唆し始めたように、哲学の進歩つまり人間の解釈のヴァリエーションが追いついていないだけなのだ。 これからも哲学者たちは色々な切り口から、空性を示唆する解釈を生み続けるであろう。
ニュートン力学と量子力学では既に世界の捉え方が異なっている。例えば『力』の定義は後者では必要ないから、用いる場合には仮定を置く 説明の道具立ては単に『変化』しなくなってる
無が何であるかを言語で指し示す事は出来ない 無そのものを出してみろ あるいはヒューム的には悪と呼ばれているそれではなく悪そのものを出してみろって話になる 無はどこにあるんだよ
>>351 仏教において無、非存在は存在しません
ヒンドゥー教において無、非存在は存在します
真理とは無我である その言葉で満足してしまった時 無我とは何なのかは分からなくなる
筏(知識)をより頑丈に、精巧に、豪華に作りデコレーションすることに、意義を見出せるかどうか。終わりなき遊びである。 仏教哲学の学びの本質はそこにある。
国民の味方みたいなことを言っても、薬害や改憲のヤバさを発信していない政治家を信用しない方がいいよ。彼らは与党と対立するふりをして、裏では繋がっているんだから。両建に騙されている人が余りにも多過ぎる。
>>354 >筏(知識)
知識で解脱するわけではないのだからその例えは不適切だな
というより現代人=ブッダという見方で見てるからそういう譬えが出てくると見ていいだろう
宗教的な覚者というものは、時代に関わらず一定数、存在したはず。 それこそ、旧石器時代から現代に至るまで、覚者はいただろう。 たまたまバズった奴が、聖者として後世にまで残ったのだ。
解釈を深める作業は 筏をデコレーションするというより 筏の使い方を知っていくというイメージ 「筏で川を渡って下さい」と言われても 実際は川の渡り方とか、しちゃいけない事とか、そういう事が色々ある 同様に、「真理は無我です」と言われても それでどう解脱をすればいいのかとか、その真理によって私達は世界をどう見ればいいのかとか、そういう事が色々ある
「筏があります」 「筏とは川を渡る為のものです」 「それでは頑張って川を渡って下さい」 それだけでは、結局人は川を渡れない 私達は、例えるなら、筏のプロにならないといけない
プロ野球選手はたまに 「マウンド上の哲学者」とかそういう事を言われる 彼らは別にソクラテスもウィトゲンシュタインも知らないが、ボールの投げ方などは誰よりも深く学んでいるので、哲学者であると言われる 私達は心穏やかに生きられる為に、真理とは無我だとかそういう事を学んでいる なので私達がならないといけない哲学者とは、端的に言えば、そういう意味のものなのだと思う
ヴィトゲンシュタインは想像力の欠落した言語偏執狂 かれの作品を読んだ人は誰でも、ヴィトゲンシュタインにはヴィジョンが決定的に欠落しており、 形而上学や「この世界がどうなっているか」についての意見は、凡庸な一般人と異ならないことを見出すだろう。
「そもそも筏は不要だ。どこに行くこともない。」 というのが覚者。 ウィトゲンシュタインにビジョンが欠落していたのではない。 ウィトゲンシュタインはビジョンは不要だとしたのだ。
ウィトゲンシュタインを読んだなら、彼が宗教的であることを感じたはずだ。 世界がどうなっているかではなく、世界がなぜ存在するのかに関心があった。
ウィトゲンシュタインは言語に拘ったのではなく、 言語では到達できないことに拘った。 それ故、言語の限界を知りたかったのだ。
人間は自分の無意識的な思考や認識パターンになかなか気づけない 哲学好きのような言語能力に長けた人は、形式的なロジックを体系的かつ豊富に取り込むのが上手いだけで真如を見知ったわけではない そして言語的説明は言葉はもちろん常に枠組みの置き方や状況に紐づけられて成り立つ しかし人間の避けがたい性として言語的理解を深めた者は、知った気に陥りやすい。 無の体験的理解は彼らの認識パターンの領域の外にあるので受け入れ難く、スピリチュアルや妄想という曖昧な言葉で片付けられる。 体験的理解者からすれば、言語による理解もまた妄想でしかないのに。
内容を深める議論を「マウント合戦」ととるのは、表面的で軽薄である。
GPT o4の生成LLMだけでも、相当に高度な哲学的言説を吐き出す。 さらに推論機能を加えた、ChatGPT o1、さらにはo3なら、 専門の哲学者にも劣らない言説を出力する。 しかし、それらは何も「理解」していない。 では、人間の哲学者のほうは「理解」しているのか?
同様に、仏教的言説を吐き出す人々が、その自分の発言を どれだけ理解しているかは、大いに疑問。 悟ったようなことを言っても、何も解っていない。 というより、実生活ではハチャメチャをやってる奴等だ。
理論家はだいたいが悟ってるどころか遠のいてるやろ 理論が虚妄であることを忘れて自惚れて言説に固執していくのだから 全員とは言わないが
「理論家」などを対象にするのが間違い。 「実践家」を対象とせよ。 この「実践家」が、またニセモノが多いのだ。
理論家の嘘はたわいがない。 実践家の嘘はやっかいだ。
十円送れではなく十億円くれ、これが私の内なる欲求なのです
そうやって欲張るからダメなんだよ。 五円くれとかで済ませとけ。御縁。
>>368 ヴィトゲンシュタインは恰も言語の限界をすでに知っているかのように物事を語る
彼は自分を覚者か何かと思っていたのだろう
言語で到達できないことはコレコレだと説明することに腐心する彼は、まるで最初から言語の限界を知っているかのように断定的に語る
10円は多くの人はそれとも知らずに見逃してきた。 だが10円はそこにあるのである。
私は10円玉を知っている しかし私は、10円でどうやって幸せになれるかは、分からない 私は10円を本当は何も知らない
愚にもつかぬ世迷い言を、飽かず繰り返しこねくりまわして現実逃避しているうちに寿命を迎えることが、最善の人生という運命の人もいるのでしょう 端からみて見苦しい限りでも、見て見ぬふりをしてやることが情けなのかもしれません なかなかそのように達観はできないものですが
その通り つまり現実生活に哲学や教えを活かせるか、実践が大事だ 理屈をこねくり回してもあなたの現実は変わらない
その通り 国土の自然的な災害を鎮めるための神道以外の宗教は 個人の現実的な悩み解消が始まりでしかないからだ。
悩み続ける事が幸せであるらしい人がいる それを見ている私は、何故ぐちぐちと悩み続ける事が彼らの幸せであるのかが分からない 分からないので、それを見苦しいとしか思えない 見苦しいとしか思えないので、見て見ぬふりも出来ない 結局は私も、彼らのように悩まなければ達観は出来ない
悩むだけで終わりなのかね? それが疑問となって、後に思考や探求が始まるのでは?
悩んでいることに悩むのが悪い。 迷いに迷うのが悪い。 猫や犬のように、その都度の悩み喜びで済ませとけ。
>>389 悩みぬいたヴィトゲンシュタインの遺言:
「幸せな人生だったと伝えてくれ」
ブッダの目線は小さい孫に接するジジババと同じ 人間や世の有り様を知った彼らは、小さな子供の悩みや喧嘩を、慈悲深く穏やかに見ている
諸行無常のこの世において、衆生として一時の形を成してしまった存在が、苛む苦悩とどのように向き合うのか 超常の力を持った超越者が望みの救いと恵みをもたらしてくれると根拠なく信じることで気を紛らわせつつ、欲望を追いつづける暮らしを続けていくか 衆生としての欲望を減じ滅し、未練なくこの世を捨て去り今後の関わりを断ち切るか 前者であれば土俗信仰をはじめ数多ある好みの宗教にすがればよいし、後者を望むものには仏教がある
それは出家仏教のことを言ってるのか 在家ならなりわい、業を尽くして生きる方向性だぞ
「自分が苦しんでいる事を自覚する」 「何故自分は苦しんでいるのかを考える」 「苦しみがない境地とは何なのかを想像する」 「苦しみを捨て去る為の道を歩む」 これがお釈迦様が最初に説いたと言われている、苦諦と集諦と滅諦と道諦 「南無阿弥陀仏と唱えるだけで救われる」 「なので我々は世俗の事など考えず瞑想だけをしていればいい」 そういう教えは良くも悪くも仏教をインスタント食品のようにしたものだとよく言われるが 要するにそれは、楽しい部分である滅諦と道諦だけを残したまま、苦諦と集諦を取り除いた結果生まれたものなのだと思う
「私は悩んでいるから苦しんでいる」 「世俗の物事に囚われてしまっているから苦しんでいる」 「だから悩みを忘れよう」 「だから悩みを忘れる道を進もう」 滅諦と道諦だけを感じていたいという気持ちがあれば 自然と思考はそういう風に流れていってしまう 悩み過ぎもよくないが、本当の苦諦と集諦を感じ取りたいなら、これだけではいけないのだと思う
>>397 >楽しい部分である滅諦と道諦だけを残したまま
逆じゃね?
試験でこんなこと書いたら単位落とすぞ
たとえば苦滅道である八正道で不浄観したら楽か?
そもそも苦諦は「これが苦である」という智慧 滅諦は「これが苦しみの滅である」という智慧なんだから楽とかそういう問題かね? 中村元真理教極まって、なんか怪しい新興宗教を立ち上げてないか?
lud20250108080314このスレへの固定リンク: http://5chb.net/r/philo/1734801975/ ヒント: 5chスレのurlに http ://xxxx.5chb .net/xxxx のようにb を入れるだけでここでスレ保存、閲覧できます。TOPへ TOPへ
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