◎正当な理由による書き込みの削除について: 生島英之とみられる方へ:
「高尚な」芸術とは、精神病治療道具である。 [転載禁止]©2ch.net YouTube動画>2本 ->画像>17枚
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充実した健康的な生活を送っているものには、「高尚な」芸術は必要ない。
毎日楽しく過ごしているものが触れる芸術は、「広義の」芸術であり、世間で「芸術作品」と呼ばれるようなものではない。
対立厨、または対立煽りとは事あるごとに喧嘩を吹っかけ、対立を煽る暇な人の事である。
例えば、愛人の笑顔。友人との何気ない会話。こういうのが、「広義の」芸術である。
こういったものは、普段は「芸術」と呼ばれないかもしれないが、
芸術とは、表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動であるため、
芸術でないとは言えない。
そして、こういう「健康的な」芸術と縁のない人間が、「高尚な」芸術にハマっていくのである。
悪いことではないようにもおもうが。
ちなみに、前頭葉を損傷した人間は美に異常にこだわるようになるという研究があったような気がする。が、詳しくは忘れてしまった。が、ワタシの理論と関係がありそうである。
食だったか。食以外はどうなのか。謎。
もちろん、健康的な人間でも、暇なときに「ちとゲイジュツを鑑賞しようかな」なんていうことはあるだろうが。
しかし、芸術に高尚を見、ハマりすぎているひとを見ると、どうしても、モテないブチャイ君が必死にアイドルを追いかけている姿と重なってしまう。
ワタシに、引きこもって世界を呪いながら「高尚な」芸術「だけ」を愛でた経験があるからそう感じるのだろうか。ちなみに、ワタシは、引きこもるのをやめてから、あまり美にこだわらなくなった。もともと世界が美しいものであることに気がついたからだ。
美とはなにか。
芸術は世界解明の方法であって陶酔の道具ではない。
美しいしか言えない者に芸術を語る資格はない。
健常者と精神病者という区分、世間と乖離した「芸術」の用法、自己投影。
テンプレの乱用で見ていられない。
止めてさっさと好きな芸術家を挙げるがいい。
ちなみに、ワタシの好きな芸術家は、橋本環奈である。
解明とはなにか。
芸術はいかにして世界を解明するのか。
今まで、芸術によって世界のどのようなことが解明されたか。
例えば印象派の絵画は従来の絵画に対して輪郭線の朧ろな世界を開示する。
「芸術(音楽)は魂の薬である」というのは古代エジプトから言われていたと思うが
世間と乖離した「芸術」の用法、とはなにか。
世間と乖離していない「芸術」の用法、とはなにか。
>>15 友人との何気ない会話を芸術と呼ぶ人はいない。
高尚で不健康な芸術か、広義の健康な芸術か、という
誤った二分法を作る為にこじつけたのが丸見えだと言っている。
多くの人は、当たり前すぎて言わないだけである。
ちなみに、友人との何気ない会話を芸術と呼ぶ人はここにいる。
ちなみに、とある辞書には、芸術とは
他人と分ち合えるような美的な物体,環境,経験をつくりだす人間の創造活動である
と書いてある。
またとある辞書には、芸術とは
芸術とは、表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動である
と書いてある。
友人との何気ない会話はどちらにも当てはまる。
ちなみに、辞書とは、世間で広く使われている言葉の、世間で広く使われている意味を記したものである。
ちなみに、乖離とは、密接に結びついていたものが離れることである。
では、どこが乖離しているか。
また、世間と乖離していることと誤った二分法のためのこじつけにはどのような関係があるか。
因みに一度でも建築に興味持ったことがないなら芸術は諦めたほうがいい
親戚に設計士がいますけど
壁を何箇所か叩くと構造が全部解るみたいってか ありゃ見えてるね
音波レントゲンみたいなかんじ
箱物の楽器を叩くとブレーシングが解るみたいなもんなんだろーけど
現場でもヘルメット被って建物の壁を叩いて周ってるから
あーやっぱりな って
あとパテシエの人
溶かした砂糖を糸引いたまま空中に投げてデコレーションとか
芸術なのか宗教儀式的呪術なのかどっちでもいいけど
とにかくあれはお菓子の建築だなーっ思ったことありますね
ウェディングケーキだったけど
バベルの塔みたい
昔ね 菊川玲がなんかの番組で
「 東京大学でなにをやってたんですか? 」って訊かれて
「 パスタで橋を作って強度実験やってました 」って ・・・
それおなじG使ってるけど放送作家のネタだよなー って思った
芸術に、「こいつはまったくわかっとらん!」みたいにケチつけようと必死な人をみると、病気かなとおもう。
神は、芸術を必要としない。
なぜならば、自身が自身を満足させるに足りる芸術であるからだ。
神とは、自らの内より生まれる芸術に至上の喜びをみいだす存在である。故に、神は他者の芸術を鑑賞することはあっても、信仰することはない。
芸術家全てが神というわけではない。自分以外を至上とみとめ、その至上を表現するために芸術を生むものも芸術家と呼ばれる。
信者がいるのに神ではない、ということは、あり得る。
芸術を盲信するものは、前頭葉が弱く、知的誠実さを持ち合わせておらず、妄想ばかりしている。芸術を、宗教にしている。故に、繊細な観察眼がない。本当の意味で、芸術をわかっていない。
芸術をわかっている人間は、知的誠実さを持っている。様々な見方を許容する。キメが細かく、それでいて宗教的盲信的でない、現実的で科学風な批評をする。
「高尚」の問題は、つまり、前頭葉と知的誠実さの問題である。
精神病とは、前頭葉が弱いか、知的誠実さを持たない状態である。
本当の芸術鑑賞とは、熱烈な恋ではなく、依存ではなく、健康的な熱意と落ち着いた愛によって可能となる。
挨拶もなしにいきなり年齢を聞くのはマナー違反である。
有罪とか無罪とか、そういう話ではない。そんなの聞いてない、という話でもない。これは、言うまでもないことであり、言われたから守ったよこれでいいでしょう?というものでもない。
わかったか。バカモノ。
なんでニートだと思うんだ?2CHに書き込んでるヤツはみんなニートなのか?w
お前こそニートか?こっちは歳言ったんだ。お前もなんか情報だせよ。
レスを読んで、この人ニートかな?って気がしたから、確かめたかったのよ
2chに書き込んでる奴がみんなニートだとは言ってないし、責めてもいないよ
私は11歳だわ
ちなみに、ワタシは、ニートではない。「フリーター」である。
高尚な自説を披露するという目的のために広義の芸術を持ち出して(そして広義の芸術だけを例として)なんかしてやったりとドヤ顔してる間抜けがいるな
>>43 高尚な自説とはなにか。
「なんかしてやったり〜間抜け」とはなにか。
ちなみに、ワタシが定義する「高尚」は、前頭葉の血流が悪くなり、視野が狭くなり、知的誠実さと創造性を失い、変化に気がつくことができなくなる、妄想と記憶の海に溺れ、頑固に、とあることにこだわり続ける人間が、こだわっている対象に抱く想い、のことである。
心理学でなくてもよいが、とにかく科学なのである。
高尚な芸術は、混乱した無意味な哲学に似ている。
全ての物に意味が無いと空間に物理的な実感がわかない現象
借りてきたネコ
整形失敗のグロい実例と言えばまずこいつが定番w
この気持ち悪さは他の追随を許さんなwwwwwwwww
http://geinou-seikei2013.blog.so-net.ne.jp/2014-10-01 別名 : ウドジェシカ ; 隅田チョン
http://wan2o.com/archives/51747640.html おえっ
これが熟女時代から追い出された現在のジェシカwwwwwww
まるで笹野高史のような爺顔
これぞ正真正銘じぇじい
素面で目がラリってる顎曲がりジェ爺
↑↑↑↑ ななななんと!!!!
鼻から中心線をたどって下りると唇の右端に来てしまうという恐るべきひん曲がり具合
「高尚な」芸術というのは、すなわち言語であり文法である。
脳の、文法を認識する部分で、世界全体を認識した人間の学習である。
前頭葉で世界を認識する者にとって、高尚な芸術は存在しない。
「あああいあい」
これをどこで区切って読むか。
高尚芸術人は、区切り方を一つしか見つけられない。たとえば、「ああ、あいあい」これだけが当たり前でありそれ以外はないと信じる。
故に、「あああ、いあい」という区切り方をする人を見たときに、衝撃をうける。この衝撃が、「高尚」の正体である。
前頭葉人は、「あああいあい」を「あああいあい」と認識する。
これで、アインシュタインが言葉をうまく話せなかったことが説明できる。
1
充実した健康的な生活を送っていると思い込んでいるところが、既に病気なのである。
聴覚性感情欠乏症、音楽冷感症。美術に関して言えば視覚性感情欠乏症。
芸術の本質は、何かの手段ではなく、それ自体が目的であるというところにある。
もっとも一部で道具のように扱う動きが見られる。それを非難するつもりはない。
有用なら大いに利用すればよい。音楽でも実用音楽というのが古来から存在した。
しかし、そのために本質が覆い隠されてしまうのには耐え切れない。
マンピーのGスポットマンピーのGスポットマ
ンピーのGスポットマンピーのGスポットマン
ピーのGスポットマンピーのGスポットマンピ
ーのGスポットマンピーのGスポットマンピー
のGスポットマンピーのGスポットマンピーの
GスポットマンピーのGスポットマンピーのG
スポットマンピーのGスポットマンピーのGス
ポットマンピーのGスポットマンピーのGスポ
ットマンピーのGスポットマンピーのGスポッ
トマンピーのGスポットマンピーのGスポット
マンピーのGスポットマンピーのGスポットマ
ンピーのGスポットマンピーのGスポットマン
ピーのGスポットマンピーのGスポットマンピ
ーのGスポットマンピーのGスポットマンピー 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f)
99×84
高尚人間は筆算をやったり(100-1)×84とかやる。その多様性に高尚をみる。
ワタシのように健康な人間は、「途中のけいさん」無しに8316にたどりつく。
高尚人にとって、芸術が「感動をえるための道具」になっているのが問題なのだ。
ゆえに彼らは、物理学的な芸術鑑賞をしない。無遠慮な妄想ばかりする。
おもしろい書き込みをみつけた。
これが、「無遠慮な妄想」である。
647 :pH7.74[sage]:2014/02/02(日) 12:50:47.18 ID:06euXCe9
>>642 俺は嫌いじゃない、金魚もそんな顔してるな
魚たちの目を見ればわかるよ
水草から元気をもらってる目をしてる
655 :pH7.74[sage]:2014/02/02(日) 12:58:16.12 ID:06euXCe9
なんだよ釣りかよ
評価して損したわ、よく見たら糞みたいな水槽、レイアウトだな
魚たちに謝れ
目を見てみろ、謝れって目をしてる
もちろん、元気をもらっている目をしているように見えたり、謝れって目をしているように見えたり、そういうのはある。だからと言って、この表現はマズイ。
いちばんの問題は、金魚の気持ちを全く考えようとしていないところにある。
芸術鑑賞は、科学的に得られる知識とは矛盾しないようにおこなわなければならない。「A」という文字だけを見て、「このAはじつはBという文字なのだ。」と言ってはならないのである。
世界に誠実な、世界とひとつになるような認識のもとで、芸術を鑑賞する必要があるのだ。ホンモノの芸術がうまれるのも、そのような認識からである。
高尚人の認識は、世界とズレている。言語の使い方を誤って混乱に陥った哲学者ににている。
金魚は喋れぬ故今回は事件に陥らなかったが、金魚が人になると大変な騒ぎになる。
美とは、気づきである。
「あっ」という気づきである。
美しいと楽しいの違いはなにか。
最近よくわからない。
風紀委員長は、高尚に似ている。
彼らは、「風紀の乱れは心の乱れ」なんて言葉を振り回すが、この言葉の本当の意味は、風紀の乱れがもともと乱れた風紀委員長の心をよりいっそう乱すということである。
彼らは、すこしでもルールと違うものを見るとすぐパニックにおちいる。
これは、前頭葉のやられた知的障害者の特徴そのものである。
宗教は、美しいものとそうでないものがある。
美しい宗教は、明らかに現実と矛盾する部分をフィクションであると認める。
前頭葉が虚血状態にある者は日常言語の意味が分からなくなる一種の痴呆になる
前頭葉が虚血状態にある者は「たいせつ」を漢字に変換できなくなる
『健康な悟性と病的な悟性』(フランツ・ローゼンツヴァイク)
死に向かっていきるしかないのか?
それはありえない。生きるとは、死に向かわないことである。
65の意見は納得しがたい。
むしろ、科学で割り切れないものを示すのが芸術の真骨頂であるとさえ言うべきだろう。
妄想大いに結構。一切の縛りから開放された無垢の想像力。これこそが芸術を嗜む必須の条件だ。
かような非日常体験が人間の脳を活性化させ、これまで幾多の進歩の原動力になって来たのだ。
だから、芸術にとっては、科学なんぞ糞食らえなわけだ。
夢を見てもいい。
夢からさめる覚悟があるのならば。
宮ア駿の夢から醒めたらみんな香山リカみたいな琉球アイヌマンになって暴言吐きまくるの???
迫害意識をもつ香山リカって前頭葉がどうなってアートずいた状態なの???
彼女はおそらく前頭葉がよわい。
意識レベルが低く、時間感覚も薄弱であるようにみえる。自分でも自覚しているようだが、リカちゃんは全体が見えない。自分がこの行動をとるとあとでどうなるか、を考える前に衝動的に行動してしまうようである。
これは爬虫類の特徴である。よく見ると顔も少々爬虫類のようである。爬虫類の脳には、ヒトの大脳に該当する部分がない。
しかし、彼女の芸術的な言葉は常に世間を騒がせるが、科学的方法によって得られる知識と矛盾することはすくない。たいてい、科学の及ばない領域に虚構する。芸術人であるが、高尚人と言ってしまっていいかは微妙なところである。
ちなみに、ツイッターアカウントを乗っ取られたという意見は、おそらく高尚である。
ワタシはツイッターやそのアカウント乗っ取りに詳しくないのでよくわからないが。
知能がたかい人間は、芸術を創造する。
知能がひくい人間は、ただ鑑賞する。
フランス映画は、前頭葉がなくても楽しめる。
これは、フランス映画はレベルが低いと言っているわけではない。逆である。フランス映画は、すばらしくレベルがたかい。ゆえに、前頭葉をリラックスさせて楽しむことができる。
これが芸術の本性である。レベルの高い芸術は、鑑賞者の前頭葉をリラックスさせるので、鑑賞者ら感情を解放できるのだ。
高尚でない人間は、前頭葉が疲れた時にフランス映画をみる。そうして気分リフレッシュして、映画をみおわったらまたいそがしく前頭葉を使い始める。
高尚人間は、ずっと映画を見ている。映画からでてこない。
ゆえに、前頭葉人は、科学的なレビューがかのうである。
高尚人は映画をみおわっても前頭葉が死んでおり、映画からでてこないので、ふわふわしたレビューをする。
たまに、前頭葉人が科学とふわふわを組み合わせたようなレビューすることがある。これは、他人がレビューを読んで映画へのイメージをこわしてしまわないようにと意図したものであり、高尚人の自慰行為とはわけがちがう。
高尚人は、常に酔っている。
催眠オナニーは、前頭葉を停止させる。
催眠状態に入ってから曲を聴くと、どんな曲も名曲にきこえる。
「プライド」という言葉で表されるものは、たいてい、高尚である。
自分に価値があると心から思える人は、カッコ悪い姿も晒せる。
カッコ悪い姿を晒せないのは、無駄なプライドがあるから。無駄なプライドがあるのは、価値があると思いたいから。
価値があると思いたいのは、自分には価値がないのではないかと怖れているから。怖れがプライドを生み、行動を妨げる。
>>98 問題は、そのような出来た人間
今時ほとんどおらんことだ
98
少し単純化しすぎていないか?
価値という概念は名誉と同じで、内部的価値と外部的価値と価値感情に分類できる。
内部的価値は、絶対的に決まっている価値。
外部的価値は人の評判によって決まる価値。
価値感情は、もっぱら本人が主観的に感じている価値。
このあたりをごちゃ混ぜにしてしまうと混乱して何言いたいのか分からなくなるよ。
かっこ悪い姿を晒したくないのは外部的価値が損なわれてむかつくからではないかな?
別に内部的価値には揺るがない。
そう考えて評価を決定的に下げる、飛び切りのかっこ悪い姿を晒してもよいというならどうぞ。
それは本人の自由だ。恥部を晒してもよいという人はいないと思うがね。
外部的価値を維持するために防御を講ずるのは、悪でも何でもない。
但し、評判ばかり気にして内部的価値を高める努力を怠るのであれば、これは問題だ。
やがては「評判倒れ」という評価が下されることになろう。
名誉の3概念っての調べてみて。刑法各論の名誉毀損罪とか侮辱罪のところで議論されているが、根本的には哲学問題だ。
かっこわるい姿を晒したくないという思いは、何種類かある。全て一緒にすると混乱する。
たとえば、ワタシが幼いこどもとと二人でいるときに殺人鬼が襲いかかってくる。(ああ、こりゃムリだ。さらば人生)と思いながら、ワタシはこどもに言うわけである。
「こんなヘナチョコ、ワタシひとりでじゅうぶんだ。キミは闘いの邪魔だからとっとと逃げな」
で、こどもは安心して逃げ、ワタシはちょっと時間を稼ぐが結局殺人鬼にころされる。
たとえば、ワタシは橋本環奈である。多数のファン達の前で、ワタシはオナラをする。
ファンの一人が言う。「だれかオナラをしたな」と。ワタシは咄嗟に、ファン達ののユメを壊してはならぬ、と考え「あはは、ワタシの顔を見て興奮しすぎちゃった人がいるみたいですねぇ〜、もーぅしかたないなぁ〜」と言う。
たとえば、ワタシはそこらへんの小学生である。授業中、ワタシはオナラをする。
オナラをしたのがワタシであるとバレ、オナラマンとあだ名をつけられては恥ずかしくて生きていけないので、「あれ?誰かオナラしたな。におうぞ」と、誰よりもはやく言う。
たとえば、ワタシはエライ教授である。学生が、ワタシがよくわからないことについて質問をしてくる。「わからん」とこたえては威信が失墜してしまうので、適当に言葉を並べてごまかす。
高尚人の気分を体験する一番の方法は、徹夜することである。
寝不足になると、前頭葉の血流が悪くなることが知られている。
ということは動物の上下関係と暴力ばなしに帰結するの???
↓純一
99 : ダラダラハゼ〜ってプーチャカピー:2013/06/23(日) 00:05:15.26 0
...-ー、,-─
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.. / ー-' ヽ . .
.. -=ニ=-
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ヽ._):.:.、 ,. ' l
トi、ヾ:.. 、 _,. - ' |
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|lilifリハ .: '、 _,.ノ,' ,. }、 tf{´i, l|
'、Yヾ :. l /ィ三三シ'^ / ノ
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すべてが、芸術である。生そのものが芸術である。高尚人はこれにきがつかない。
与えられるものではなく、気づくものである。
「この作品は芸術でない」は間違いであり、ただしくは、「ワタシはこの作品の芸術生が理解できない」である。
高尚人からは、「謝れという目をしている」という言葉が出てこないだろう。
芸術そのものをかんじる、以外の願望を実現させるために芸術にすがるものがいる。そういうものにとって、芸術は道具である。
サイキンは道具芸術がおおい。
芸術家は、みんなの好みを分析してなるべく売れるような金になるような作品を作ろうとする。
だから、高尚人が増えてしまうのではないか。
芸術鑑賞の本質は、世界への愛である。
ゆえに、芸術は科学ともけっこう関係がある。
ホンモノの芸術創造は、「ふつうの」「自然な」「そのままの」感性のみにしたがっておこなわれる。
理性のみで理解し、感性で理解していない理論をテキトーに作品につかうと、かなり不自然に見えることがおおい。コミュニケーション障害の人間が必死に空気を読んで発言しようとしているようになる。
経験なしに、哲学の前から哲学をしようとする哲学者は高尚である。
科学の前に哲学をするのは高尚であったりなかったりする。
「老害」という呼び名をつけられる人間は、高尚であることがおおい。
あのさ、高尚であるかどうかなんて何の価値もない。
要は深く考えられていて真理に近づけるかどうかだけ。
ちなみに抽象的な思考ができないのはアウトね。
なにしろこれが出来ないと応用力が致命的に不足してしまう。
ちょんもめんから見るとジャップは高尚すぎて
妬みウソを突き通すぐらいしか行動ができない。
高尚も低俗もいらない
芸術は批判的創造性がないとな。
批判的創造性ってのは興味深いですね。何か実例を挙げて説明していただけますか?
少し前までのチンポムからは何となくそういう感じが出ていた。
最近は穏当になったようだが。
芸術は、まず物理学である。つぎに装飾である。
ウソをつく場合はウソであると認めねばならぬ。
芸術については言葉の定義に誤謬が多分に含まれている事が問題
熟練した技術(職人技)なのか
なんだか判らないふわふわした感性を総じて雑に芸術と読んでいるのか
哲学で論じるなら厳密な意味を個々に提示してから語れと
曖昧過ぎて議論が雑
中島義道は、高尚人である。
彼に前頭葉が無いことは確実である。
ニーチェの言う、超人。
これは、ワタシの考える前頭葉最強人間にけっこう近い気がする。
科学と哲学によって、高尚がもつ見せかけの光を削り取っていく。すると、どうしても削りきれない無敵の部分が残ってしまう。
その部分がもつ光こそが、ホンモノの神である。
自分の乗っている車がうごく。
車の外が動く。
芸術は、このようにして世界を開示する。このようなことに気がつけない人間はけっこう多い。
深い満足と熱意と好奇心をもっていきる人間の鑑賞に堪えうる芸術は、高尚でない。
芸術は、世界を否定するための逃げ場でない。生きていることにたいする無償の熱意である。
ズーイーデシャネルの顔は、芸術である。
子供っぽく見えるが、よく見るとただのオバサンだが、よく見ると子供っぽい。そこには、哲学的な驚きがある。
こういうのが、健康的な芸術である。
本当の芸術とはい自分の中の幻想ではなく、他に対して浮き出た幻想が響いてゆくものだよ。
響きかない、轟かない、共振しえない、秩序がなく可能性の中に意味を見出せない幻想など
たんなる病気で、芸術ではないのな。おまえら勘違いしすぎ。
自分の中の幻想とは、たとえばなにか。
ほかにたいするそれか響くとは、なにか。
たんなる病気、たとえばなにか。
芸術は、哲学的でなければならない。
他人の言うことを鵜呑みにしたような芸術は、まったくおもしろくない。
数学は、芸術である。
芸術の域の数学をやっている人間はほとんどいないが。
この画像は、高尚である。本物の芸術からは程遠い。
他人のネタをパクったから高尚、とか、そういう話ではない。
世界への誠実さが欠けているのだ。前頭葉が、明らかに足りない。
バカげているから高尚とか、そういう話でもない。
トイストーリー3という映画は、なかなかにバカげているが、本物の芸術である。
世界への誠実さ、感性への忠実さ、それらがハッキリと示されている。
とらわれない発想、広い視野、哲学力、とでも表現したくなるそれが、脱高尚のポイントである。
ちなみに、統合失調症の妄想は、哲学ではなく、高尚である。あれはなかなかに独創的だが、視野が狭すぎる。
純文学気取りによくみられる。
芸術への理解が欠けている者は、
気が振れたまま死んでいくようなものである。
そんなことはないと言うかもしれないが、キチガイは自分をキチガイと自覚出来ないのが常である。
頭のわるい人間は芸術家にはなれない。
ヤツらは他人のマネばかりするか、目立つだけでまったく面白みのないことしかできない。
1960年代くらいから高尚な芸術ってないけどね
インスタレーションなどがそう
逆に現代美術に対しポピュラリティの面で大きく遅れを取ってしまった
音楽、つまり現代音楽はアカデミズムに引きこもってしまった
自己保身のためのスジの通らないリクツは、高尚である。
自己保身ばかりしている人間は、芸術としては全くおもしろくないのだが、アホに結構人気が出てしまう。
現実から逃げて自己保身ばかりしている人間は、自己保身能力がずば抜けて高くなる。
すると、それを見たアホたちはこうかんじる。「自己保身ばかりしているヤツに依存しちまえば、自己保身ばかりしているヤツの言うことを全て鵜呑みにしてしまえば、ボクも安心安全な生活ができるぞ」と。
もはや新興宗教である。
自己保身はなぜおこるか。依存はなぜおこるか。
それは、前頭葉の欠如によるものである。
自己保身芸術は、女子供の腹立たしいじゃれあい、傷の舐め合い、慰め合いに似ている。
音楽療法とかあるから、治療の機能も期待できるんだろうな。
心臓移植したマウスにオペラ聴かせまくったら
3倍以上長生きしたっていう実験報告がある。
効き目があるのは精神病だけじゃないみたいだ。
ただの混乱した思考のことを「芸術」といってもてはやす風潮はどうにかならんのか。
聴き手「芸術とは何ですか?」
岡本太郎「なななななんだ?こんなものは見たことがない、っていうのが芸術です。」
混沌と調和のコントラストは、古くから行われている芸術の手法。
その陳腐化から脱却すべく、アヴァンギャルドは、混沌だけで作品を構成し始めた。
実験的色合いの濃いものも数多くある。
アウフヘーベンから逃れるのは簡単ではない。みんなもがいているのさ。
それだけヘーゲルは偉大だったってことなのかな?
現代音楽と言っても、きちんと構成感のある曲もあるよ。
例えば、吉松隆のトロンボーン協奏曲「オリオン・マシーン」。
イギリスのオーケストラ、イギリスのソリストで日本人の指揮者のCDが出ている。
イメージとしては宇宙旅行そのものだな。
いや基本現代音楽は構成が練られているのが基本なんですが・・・
吉松とか情弱一本釣りの懐古主義者でしょ
>>176 そもそも20世紀初頭の12音技法からして形式主義的なんですが・・・
それを引き継いだセリエル、トータルセリエリズムでもそう。
ポストセリエルで一時表現主義的な表現が流行ったが、今では新しい複雑性で
微細なパラメータのコントロールが主流。
コンパイルハートがPSのイメージダウンキャンペーン中 [転載禁止](c)2ch.net
http://wktk.2ch.net/test/read.cgi/ghard/1433062745/507 507 名前:くれ ◆cNa.Hm7rC7f8 @転載は禁止[sage] 投稿日:2015/07/26(日) 08:52:23.53 ID:Fi38X6MN0
>>504 哲学板行ったことないんですか?物凄いキチガイの集まりですよ
僕はむしろ哲学板の良心ですよ
それにそのレスだけど、PSW面白発言スレだけは粘着して、勘違いした
任天堂信者を正しい方向に導いていこうとおもってまつ。
コンパイルハートが2015年で燃え尽きそうだと話題に [転載禁止](c)2ch.net
http://wktk.2ch.net/test/read.cgi/ghard/1436968545/109 109 名前:くれ ◆KOGxy5WZj6 @転載は禁止[] 投稿日:2015/07/26(日) 08:54:03.16 ID:Fi38X6MN0
落ちる
http://hissi.org/read.php/ghard/20150726/RmkzOFg2TU4w.html 【1000】宅間イズムスレ [転載禁止](c)2ch.net
http://wktk.2ch.net/test/read.cgi/mental/1435481142/303,305,329,330,331,332,333,334,335,337,346 303 名前:優しい名無しさん[sage] 投稿日:2015/07/14(火) 20:28:44.95 ID:b2NYoEBR
俺も幼女や老人とすれ違うとぶっ殺したくなるわ
305 名前:くれ ◆KOGxy5WZj6 [sage] 投稿日:2015/07/14(火) 20:44:55.14 ID:b2NYoEBR
そうだよ
資本主義における勝者が、そこから搾取・抑圧してる弱者に殺される
こんな当然で正当なことがあるか
芸術は、反証可能性のない部分につくっておくべきである。
芸術と言うのは、一定の質を備えれば、後は好みの世界。
正解のない世界。多様性が命。
音程、リズム、テンポ、音色、それらを支えるテクニック。
時代様式、作風についての最低限の配慮。
ベートーヴェンでスイングしちゃダメだよ。
バッハをラグタイムのように演奏するのも勘弁。
ま、これを好みと言うか質と言うかも好みだがね。
中程度のアマチュア・オーケストラと中程度のブロのオーケストラを聴き比べれば歴然でしょう。
好みの問題ではないと思うよ。
芸術は、真理に忠実にやるべきである。
真理を認識した上で、欲のカタチを示すのが良い芸術である。
>>186 誰がやるのかにもよるでしょ。そうやって勘弁とか言っちゃうやつが芸術の可能性を潰すんだよ。
「興醒め」だとか「野暮」だとかいう言葉は保守的すぎるよな。
ばさらともかぶきとも異なった新奇性を表す語があればいいのだが。
シュールではあまりにも日常的すぎるし。
言葉の尽きたところから芸術は始まる。
言葉を用いた反証など意味がない、あらゆる評論は無意味。
反証は、大きく凌駕する演奏でのみ可能となる。
「文句あるならお前やってみろ}ってことだ。
演奏による実証。科学的実証。これらは最も高尚な行為であり真実を写す鏡である。
文学でさえ、最も感動的な部分は行間にある。
全部言語で説明したら文学にならんわ。
バベルの塔だつて?
言葉で言い尽くせない感動ってのを味わったことないのかね?
どう言って良いのか分からないけど凄く良かったってのさ。
芸術や美術はナショナリズムの象徴。
日本だと鎮護国家の仏教芸術として、西欧だとキリスト教芸術として、音楽も美術も演劇も発展してきた。
近代科学の父であり、トスカーナ国民運動としてのルネサンスの代表者レオナルド・ダ・ヴィンチも本職は宗教画家。
ナショナリズムが精神病ならば、
>>1の主張は正しい。
>>197 ブラボーとか言える人は高尚な人だと思う。
「言葉にならない」などというある意味ありきたりな感想に対しては
「本当は何か言いたいことがあるのだろ?」と思わされる。
ハハハ、ブラヴォーなんて言葉のうちに入らないよ。
なぜ自分が感動したのかを説明できるかってこと。
もちろんキャリア積めば評論家程度には言葉に出来るようになる。
ビギナーが感動したときは言葉を失う。
しかし、全てを完璧に言葉に出来る者などいない。
そのレベルに多少近づいたということで、吉田秀和は文化勲章を貰った。
本当はラにアクセントなのでそこが長音、間違い言葉。
……と思ってしまうのでブラボーと言えない
頭の悪い人用の芸術と、頭の良い人用の芸術がある。
頭の良い人用の芸術たりえるのは、科学と音楽のみである。
「ブラヴォー」と「まじパねえ」の間に違いはあるのか?
>>202 いわゆる「頭の良い人」にしか分からないのは駄作の証拠
という説もある
ハハハ、真逆の言葉もあるよ。
「芸術は人を選ぶ。」
その選ばれる「人」がいわゆる「頭の良い人」である
と君はどうして思ったの?
別に私はそんなこと書いてないよ。
計算苦手でも絵画を理解できるって人もいるしね。
少なくとも芸術を理解できる人芸術を理解出来る頭を持っているということだけは言える。
サヴァン症候群で優れた演奏家ってのもいるらしいし。
だいたい、脳の機能は数え切れないくらい符あるのに
「頭いい」とか大雑把すぎ。そういう大雑把な議論している人は頭悪い。
>>202 と話をしているつもりだったので
横から「私は言ってない」と言われても
芸術を観衆で分類すると
@B層→ファッション・商業芸術・佐村河内
Aマニア→骨董
Bおたく→産業芸術
C優等生→古典・「高尚な芸術」
D不良→サブカル
俺の名は聖騎士フォーク
明日香姫の救済に参上しました
未知を喜ぶことを忘れた芸術家は、もはや芸術家ではない。
と思ったが、脳が退化して未知を喜べなくなった老人が語る昔話は、わりと芸術的である。
未知を喜ぶだけでは芸術でない。
ドリンクバーをテキトーに混ぜて「コイツは芸術だ!この魅力は天才にしかわからないぞ!」とかさけんでいるアホは芸術家でない。
とみせかけて、実は芸術である。
「テキトーにまぜる」というのは、案外難しく、素人が「テキトーにまぜる」とたいていワンパターンになってしまう。
型をいかにして破るか。この問いの前で、芸術的感性が必要になる。
ワンパターンだから芸術でないのかというとそうでもないのだが。
とはいえ、ワンパターンだと、鑑賞者があまりよってこなくなるのだが。
ワンパターンになりすぎた萌えラノベアニメに飽きて、映画やら小説やらに萌えを探しにいく人はよくいる。
他人の芸術をすぐけなすような奴には、芸術を語る資格はない。
もっともよい芸術を埋めるのは、哲学者である。
トンチンカンな言葉遊びばかりしている「テツガク者」とは別なのでご注意。
心の琴線に触れる。これが芸術だ。そのためには、多少のサプライズは必要だ。
>>215 わかるわからないはあまり関係ないでそ、
天才の中でもずば抜けた天才が凡人に理解されるのは、
おおよそ死後である、生きている間は中の上程度か、最低な評価
しかされないことが多い。
一部の人には理解されても、理解できる人は極少数であるからである、
岡本太郎が言った「芸術は爆発である」で何の問題もない、
ただそれを理解できる人がいるかの問題である。
死後にしか理解されないケースが多いのは、受け手の能力の低さにある。
こういうケースが多いと、才能のある者も芸術を志すことを躊躇してしまう。
かように早期に芽が摘まれてしまう世にあって文化は貧困の一途を辿る。
受け手の柔軟な感受性こそが芸術家を育てる最良の肥料だ。
オランダは激しく反省している。ゴッホを貧困のうちに死なせたことを。
日本は何にも反省していない。浮世絵をただ同然で欧米人にばら撒いてしまったことを。
「いい加減に気づけよ、イエローモンキー」と言いたい。
プリズマイリヤは、芸術の域に達している。
ひじょうに、洗練されている。
クレヨンしんちゃんでは、あのような表現はムリ。
トウシツになると、深い思考ができなくなるのは陽性の躁状態が中心、
深い睡眠ができないとか睡眠が短いなら、高尚な思考は難しいね
統合失調症の妄想は、ゲイジュツでもなんでもない。
多くの小説家は、この辺りをわかっていないからいけない。
統合失調症でない人間が必死に統合失調症のマネをしようとしているのは見ていて吐き気がする。
岡潔は、たしかに数学はできたが、芸術家としてはイマイチである。
仕事は結果だ。良い作品が生まれれば、全ては認められる。
ぶっ飛んだ芸術作品が発言力のある人間の目に留まるまでの期間の長さ
場合によっては作者の死後まで持ち越すだろう
皆がそうする必要はないだろう
芸術作品の値段を付けるのは皆ではない
いや、市場価格というのは、主観の集合で決まる。
値段をつけるのは、その推測に過ぎない。売れなければ下げるしかないでしょ?
>>236 商品による
回転資金が無くて占いと次の商品を用意できないなら値下げ
資金面での問題がなく賞味期限や競合商品が無ければ在庫として持っていればいい
主観の集合というがそれなら客観でもいいわけで
貴方の言葉の場合はものは言い様って類の答弁ですね
村上春樹は、高尚でない。
高尚として扱う高尚ファンが多すぎるあたり、ゲイジュツとしては失敗だが。
吉本隆明が言うには村上春樹の文学的資質はともかく、その評価がわかれるのは、村上春樹の個性によるところが大きいと言っていたよ。
つまり表現が軽やかでリズミカルであり、そういったものをリアリズムで表現するのではなく
村上自身の表現でもって言ってしまうところが人気がでるところでもあり、批判されるところだそうだ。
「一夏中かけて何かに取り憑かれたように25メートル・プール一杯分ばかりのビールを飲み干し、「ジェイズ・バー」の
床いっぱいに5センチの厚さにピーナツの殻をまきちしでもしないと生き残れないくらい退屈な夏を送っていた。」(風の歌を聴け」
こういう表現は文学してどうなのか?リアリズムではないといえばリアリズムではない。
もっと小説というものは、その心情や状況をリアルに描いてこそのものだという言い方を
アンチはするそうだ。ただ、これが芸術であるかといえば、芸術的でもあるわけだ。
そして、こういう表現を好む人間は多い。おもしろい表現ではあるよね。
こんなの文学じゃねえって言うものと、いいやこんなにおもしろい表現をする作家は他にはいないとこうなるわけだ。
もうひとつは「酩酊する個性」をどう評価するかってところだろうな。
ある種の人間にとって自分に酔うってことが許せない。しかし、ある種の人間はビールを飲んで酔うことを好む。
その違いはイデオロギー対立においても起こる問題でもある。酩酊している個性を認識して、その時はいいが、
後で村上春樹の小説が嫌いになる人間は非常に多いと思うよ。イデオロギーはある意味ファンタジーだからな。
村上春樹の小説を読んで酔う。そして時間が経って、酔った自分を許せない→今、村上春樹を読んでいる人間が許せないとなる。
イデオロギー対立はそれに当てはまるようなところがある。理解できたことに対して酩酊するってのは
現在であり、現在を批判するのは総括する存在になる。
>>241 ありえないんだよ。床いっぱいにピーナッツを撒き散らすてのもまずない。非現実的。表現としては大雑把だし、アメリカのフィッツジェラルドもカポーティも
あんまりこんな大雑把には言わない。似たように芸術的な表現はあるけど、文学としてはどうなんだろうってことらしい。
だけど、こういう表現はおもしろい。おもしろいと感じることは非常に味噌なんだよな。
春樹の小説にイデオロギーとか言うほどのメッセージあるのかね?w
青臭い学生向けの人生観を上手く表現しているとはおもうけど
酩酊って言うけど所謂厨二病ってやつだよね
村上春樹にあるのは
わかんにゃいけど国内の文壇からはあんま評価されてない感じがしる
「一夏中かけて何かに取り憑かれたように
25メートル・プール一杯分ばかりの」
ここまでで「か」が4回
「メートル」「プール」「ビール」
「一杯」分 床「いっぱい」
「ば」かりの ジェイズ・「バ」
ー
床「い」っぱ「い」に5セン「チ」の 厚(あ「つ」)さにピーナ「ツ」の殻をまき「ち」しでもしな「い」と「生」き残れな「い」くら「い」退(た「い」)屈(く「つ」)な夏(な「つ」)を送って「い」た。
同じ音を繰り返すことでリズムを作ってる
この音楽性が春樹の魅力のひとつであり、詩的で芸術性を保っている所以である
所以である(ドヤッ)
お前馬鹿だろw強引に音楽と結び付けようとしてんのがみえみえなんだよw
そんなもんにリズム感じるかよw強引な屁理屈とソレっぽい事いって悦に浸ってるだけだろw
俺はお前にカノウエイコウ的なギャグを感じるわw
俺は韻文が余り好きでなく、春樹の文章が韻文的かどうかは分からないが、彼の文章は正直に言って好きではない
言葉の音楽的側面があるのは事実だし、春樹の場合、何か意味を伝えるために言葉を組み立てているというよりは、音楽的に心地よく響く言葉を紡いでいる傾向
が見られる
つまり単に音楽性をもとめて選んだ言葉に、何か意味を求めて批判するのは的外れだし恥ずかしい
俺は作家は韻文を嫌うのではないかという気がする
韻文で快感を得るというのは生理的なもので、自分の文章に生理的な快感が混じる事を作家は嫌うのではないかという気がする
もし作家の文章が韻文的になるとしたら、それは彼が何も考えていないからだと思う
つまり無防備な状態にある
それは不本意なものなのではないかと思う
作家にとって韻文とは不本意なものなのではないかと思う
>>251 それはないよ
ゲーテが死ぬまで手直ししたファウストはほぼ韻文でできてるし
ストリ−トで自然に発生するようなラップは嫌いではないですが、
文学に韻文を取り込むのは好きではない
それとラップは無知な人間が行うものでつらいものなのだ
ラップか…
せめてベートーヴェンを例にだしてくれよ
ラップは認識ではなくて謂わば叫びだ
そこでラッパ―が韻に誇りを持てるというのがよく分からない
韻を踏んでしまうのは無知な状態だからで、それも不十分だし、無知でないのに韻を踏むというのは違和感を感じるのではないかと思う
頭の良いラッパ―がストリ−トの格好を続けるのにはアイロニーはあるのだろうけど、どうどうとは出来ないと思う
ゲーテやベートーヴェンがラッパーなわけないだろ
ラッパーはラッパーで、ラッパーのファッションや思想で勝手に韻を踏んでるだけ
韻を踏むのがすべてラッパーじゃない
ラッパーの多くは無知な田舎者かもしれないが、春樹やベートーヴェンやゲーテは無知ではないし頭も悪くない
何もかも失ってると思いつつ自立するような無味乾燥な小説なのに、
韻文による快感的な散文芸術を追求するなんてことが出来るわけがない
ギリシアの詩やストリ−トのラップと散文は別のものだと思う
詩を、短編、長編小説に引き伸ばすという事をしてもだめだと思う
概念を持たないストリートの人が韻文的になるのはそこに関わる
概念的が無くそれを欠いて短い事しかいえないという時に韻文的になってしまう
ラップの場合は意図的に韻を踏むようになってるから好んでそうしているのだと思うが、
俺はそれを楽しめないし、韻を踏む事もなく踏めもしないと思う
詩と小説が違うように、詩とラップも違う
詩は厳格であるがラップは自由である
この自由は自然発生的であれば良いと思うが、
作品として意図的に作るには自分は韻文としてのラップは好きにはなれない
ましてや韻文小説は余程ストリ−ト上がりのものでない限り難しい
韻文詩における韻は、踏みたいから踏むのではなくそうすべく定められてるから踏んでいるのではないかと思う
それに反逆したのが散文詩かと思うが、散文小説で韻を踏むという事は何なのかと思う
どうせ韻を踏まざるを得ないから、韻を踏む事を制度化してしまえというのが韻文詩ではないかという気がする
村上春樹の小説には韻文が良いのかも知れない
自立のためのデタッチメントはデカダンスだが、このデカダンスの投げやりな陶酔が文体に残る
村上春樹の主人公のナルシスティックな陶酔は退廃と自立の葛藤から自己においてにじみ出る退廃的なものだ
作者はその陶酔を受け入れていると思う
この退廃は否定的な意味合いで言っているのではなく、行き場のない欲望が最後に滲み出、
その昇華を受け入れてしまうと言うような、肯定否定の対象にはならないものだ
言ってみれば宿命とも言えるかもしれない
喪失とデタッチメントによる自立の末に、自己の所作において滲み出るように残る村上春樹の文体における陶酔は、デタッチメントを試みる主人公において唯一欲望的なものが宿るものである
村上の文体には奇妙な所がある
その他の場面においては、主人公は何も求めない
食事も全てを排出してしまうようなビールと、小説を読みながらでも作れるパスタやサラダ、外出してもサンドイッチ程度である
その宿命が、分かりやすい、しかし玄人が唸るような彼独特の韻文にしかでなかったというのは、自分は虚しさを示すものと思う
ビールを飲むのにハイネケンを選ぶというこだわりの難しさ
韻を踏んでいると言うのなら他言語に翻訳されたものも韻に注意をはらって訳されているのだろうか
欧米人が日本語で春樹を読んだ方が、春樹の音楽性に気づきやすいと思う
まず日本人と違って一語一語をじっくり読むから
第二に、欧米人にとって詩というものがそもそも韻文のことだから
たとえばピンチョンのロット49の冒頭とか、paの音を繰り返すことでリズムを作ってるけど
欧米人なら春樹のやってることが、そういうのに近いものなのだろうって感じるはず
まあ外国語で訳された春樹は読んだことないから確かなことは言えないけど
気づいてれば翻訳の際に春樹の音楽性を損なわないような配慮はすると思う
だから訳された文章に音楽性があるのかと効いている
訳の分からない妄想を語るのもいいけどつまらん
人のレスを妄想だと言うなら自分で読んで確かめろよバカが
ゼクエンツァなんだろ、要するに。
大昔からある音楽語法さ。
妄想ばかり語るんだなお前らは
自分で何も為さず年齢と一緒に妄想を積み重ね誤魔化して生きていくのが人間か
精神療法としての絵画と充実した人生の自己実現具合って
どのていど似ていて
どのていどにちがいがあるワケなの??
ワケなど無い
類似点は自分で体験してレポートしてくれ
上で村上春樹の文体が嫌い、彼の陶酔的な文章は虚しいと言ってしまった
それは自分が彼の文章を韻文に引き付けすぎて考えてしまったせいだが、村上の文体は韻文というよりは社会的でリベラルな文体であると思う
哲学者で言うとロ−ティ的なのだと思う
リベラルというより登場人物の自分は社会から抑圧されていて他人に理解されない、共感できない性質
そういった自分語りが10〜20代の子供の共感を得るんでしょう
社会の摩擦を受けて感性が磨耗した大人にはそれが青臭くて成長できない人間に見えてしまう
或いは社会の辛さから逃避したファンタジー
受賞した大江健三郎の生々しい描写とくらべると
本来刹那的なセンチメンタルな気分で終始語られる村上春樹の作品は2-3冊読むとお腹一杯になってしまう
選考基準は知りませんが
バカチンのおれの論評はこんなもんだ
「羊を巡る冒険」の後半50Pだけでも読んでみればいい
「社会の辛さから逃避したファンタジー」と言って言えない事はないが、
そう言う事に不満足を覚えるようにもなるだろう
もう良く覚えていないが
北海道のホテルに入る場面だったろうか
革ジャンで入っていったらフロントの表情の等級が下がってヘビーデューティすぎたとかいってた件があった思った
そういった表現する心情の選択がセンチメンタルにすぎる
初期三部作の主人公は平凡ながら強靭な人間だから、そういう主人公の一人称による小説がファンタジックであるというのはそうだ
主人公は生活保護も公的援助も必要ない
じゃあ革ジャンではなくアルマー二を着ればいいのか、そうするように自分を方向付ければいいのかという問いもある
村上春樹はアルマー二を着ようとすれば着ることが出来るだけのものがあるからそういってもセンチメンタルでもないが、
そうでない人がそう言うと、何もない人間に特有の、純潔な逃避的センチメントという事になる
どんだけ人の顔色見て生きているのかと
でも知識や感情は大人でも経験の無い若者には実社会への恐怖と嫌悪感
理解できているようで考えが一歩及ばない未熟さ
そういったものに自分の意識と重ねて段々と誌的な物語に引き込まれていくんでしょうね
カビの生えた記憶をたどって呼び起こした感想ですが
俺は高校の時点で選択するのが嫌だと日誌に書いた記憶がある
何かの欲望があれば選択できるが、それがないのに選択してコミットするという事は、主人公のような平凡だが強靭な意志が無いと出来ない
その意志ですら「羊を巡る冒険」の騒動の中で消滅させられるのだが
平凡だが強靭な意志というのが逃避的な表現とも
選択には責任が常に伴うから選択をしない
殆んどの選択は未来の自分に対する責任とでもいうものかな
これが社会に出れば他人の責任まで背負わされるわけですが
小説には鼠という登場人物もいて、彼は主人公ほどには強くない
空虚の中で彼は、謂わば権力の象徴である「羊」を抱いたまま死んでいく
全部は読んでいませんが人生が身軽な人が多いですよね
>>297 嫌なら逃げればいいじゃないですか
逃げないのはその義務に自分の権利がセットになっているからでしょう
その責任は無味乾燥なものなのかどうか
他人の責任を押し付けられるのは面倒だとは思うが、その責任が豊かなものであるならそれは幸せな事でもあると思う
そういう豊かな責任が付いてくる人に関しては、その能力と努力について敬意という事しかない
その責任について何をするのかという事によらず、敬意しかない
>>301のレスはちょっと村上春樹から大分離れてきていて論点が明らかにすりかわっていますが…
自分で勝手に重さを吐露しているというか
変えられない自分を肯定して流される登場人物
大多数の青年が味わう大学入試と就職での二つの挫折
あと今までに無い人間関係の摩擦とかこういったストレスと重なるんでしょうね
挫折以前でしょう
そもそも挑戦していないんだから
だから彼らは何も言う権利はないのですが
微妙にレスが噛み合いませんが小説の感想はそんなところでしょうか
アンダーグラウンド以降の作品は読んでいないので最近はどうなんでしょうね
これはアンダーグラウンド以前ですが、確か主人公は同じ三部作後の「ダンスダンスダンス」では親の問題が出てくるはずです
アンダーグラウンド後はねじまき鳥クロニクルしか読んでいませんが、権力よりも暴力が主題化しますね
これはアンダーグラウンド以前ですが、確か主人公は同じ三部作後の「ダンスダンスダンス」では親の問題が出てくるはずです
アンダーグラウンド後はねじまき鳥クロニクルしか読んでいませんが、権力よりも暴力が主題化しますね
何とそこでは主人公が夢の中とは言え、関係を阻害する義理の兄を殺害し、
現実においても主人公の妻が実の兄である彼を、上の撲殺とパラレルに脳梗塞を起こし集中治療室に入っている彼の生命維持装置を停止させ殺害します
この義理の兄はワタヤノボルという人間ですが、小説において悪く描かれ、
彼は近親相姦を行うものの欲望が欠如し、そのような欠如的欲望を抱え社会的には秩序整合的に振る舞いしかし周りの人間を「損ね」てしまうという人間です
これは初期の主人公と無縁なものではありません
ねじまき鳥クロニクルには、権力、暴力、悪というのを結び付けてしまう所はあり、それをワタヤノボルという欠如の怪物に集約させてしまう事には自分も物足りなさを感じ、
それは批判されても止むなしとは思う
その物足りなさは、ねじまき鳥クロニクルではなくワタヤノボルの描かれ方についてだな
ねじまき鳥クロニクルには物足りなさはない
ワタヤノボルは暴力を孕むものとしてのシステムを象徴するような存在だから、性欲と見せ掛けの社会性また他人の自己への従属力だけあって他に何もない様に描かれて良いとは思うのだが
ハイデガーではないが、ねじまき鳥クロニクルには暴力は常に-既に作動していてそこからは逃れられないという認識がある
アンダーグラウンド以前以後との作風の違いはこの点によるのだろう
初期村上はそろそろ卒業しないといけない
あまりに鈍重だし無益すぎる やはり初期村上は貧しいのではないかと思う
その無益な貧しさを強いる呪縛のようなものが初期村上にはあるように思う
故郷とでも言うべきバーで出会った主人公、鼠、マスターという登場人物がいて、三作を経たラストで鼠は「弱さ」に殉ずるように自殺し、
その死に関連して得た金でバーの名目的な共同経営者になるも主人公は抜け殻のままで、
マスターとの会話の後、川で二時間泣いて「方向性はわからないけれども「やっと」立ち上がるという状態。
相変わらず何もないのだが、ではこの三部作は何だったんだという思いを抱いてしまう。
良く分かる、良く分かるけども、無益で鈍重であると言わざるを得ない。
三作目でこうなると、それは一作目の否定ではないかという事になってしまう。
村上もそれを自覚しているには違いない
だからこそ「冒険」の冒頭で主人公の妻は出て行ってしまうのだから
その「冒険」とは何かと言えば、権力者に仕組まれた茶番であるという事であり、
その権力を相対化するものもなければその外部性も描かれない
その権力の差配について主人公が感じるのは、単に騙されたという事のみであり、それについて主人公は彼らしからぬ激しい抗議をするものの、
それが三部作の、そしてその最終策の「冒険」の末尾に至っても差配の外部に生きていない事が露呈してしまう
「しかし彼らはそんな風に僕を利用するべきではなかったのだ。
彼らが利用し、しぼりあげ、叩きのめしたものは、僕に残された最後の、本当に最後のひとしずくだったのだ。」
これが三部作のクライマックス直前だ。この後に性(しょう)は異なるものの主人公を利用したという点では「彼ら」の一員でもある鼠は自殺し、
鼠に宿った「羊」を求めてやってきた、「彼ら」の首魁は鼠の仕掛けた爆弾により亡くなる。
彼らも「羊」も全ていなくなるのだが、残された主人公は抜け殻である。
三部作の最後で、騙され自分の「最後のひとしずく」を破壊されたという叫びが出てくるとは思わなかった。
その後に泣いてやっと立ち上がるのだが、やはり三部作は何だったのか、鈍重たらしめたものはなんだったのか、という感想が出てしまう。
鈍重さを描くという事で小説としては面白く成功していると思うが、それにとらわれて鈍重になるのは良くないだろうと思った。
「冒険」を通して主人公たちを救済しようとしたが、それが適わなかったという事で、
著者、主人公ともども運命に敗北したという事なのだと思うが、そしてこの敗北は名誉ある敗北だと思うが、
「冒険」に賭けた小説を生かすためにも、敗北は避けたい。
一番大切なのは、ぼっちやコミュ障や童貞や矛盾の発見が苦手な人間はたいてい高尚であるということである。
そういう人間は催眠状態に入りやすい。高尚にだまされやすい。
敗北と書いたが勝ち負けは特にどうでもいい。
しかし初期三部作の主人公には鈍重な所があり、また彼の心にはこれをもたらす拘束があり、それは悲劇的というよりは喜劇的で、
喜劇的な拘束の末、三部を経た最後にいたっても主人公は抜け殻のまま虚脱しているのだが、これを運命への敗北と呼んでしまった。
これに習うのは避けるべきだろうと思った。
またこの心の鈍重をもたらす拘束というのは、主人公に危機意識がないからではなく、彼が常に危機の中にいるために感覚が麻痺し心が諦観に至ってしまったために運動が消えてしまったからである。
三部作の最後で主人公が自分の自由意志を信じられなくなり、騙されたと激高してしまうのは敗北と言わざるを得ない。
敗北の美というのもあると思うが、そう呼ぶには喜劇的過ぎる。
勿論作家は一番偉いと思う。
鑑賞者がいなくても作家はいるが、作家がいないと鑑賞者はやっていけない。
俺がダメなだけだ。
作家に拮抗しようとしている批評かもいるだろうし。
コーヒー飲むの止めれば?
コテハン付ける前から2ch止めたいっていってるのに酷くなる一方だね
それとも俺みたいに偶に相手する奴がいるから
話してる気分になって縋っちゃうの?
縋らないよ
一度書き込むとひと段落着くまで止まらないだけ
今回分はもう止まった
今はこれ以上他の事について書き込みたいという気持ちはないから中毒ではないし、止めたいとも言わない。
村上への言及もアンチ的ではある
ニワカが口を出すとどうしてもアンチ的になるので保守的ではあるが極力控えたい
単語だけ知ってるというのが自分でも嫌だ
そこのもやを失くすためにも基本文献は読んできたいと思う
本が読めてたら村上の初期三部作を読んで欲望の欠如云々という話にはならない
この一月何か疲れるなと思ったらコンタクトのBCが合ってなかった
不本意で仕方ない
初期三部作の主人公にもこういう要らない拘束がある気がした
それを鈍重さを強いる喜劇的な拘束と言った それは外すべきだろうと思った
俺には才能無いしそういう拘束を外しても何も変わらないのだが鈍重さは消える
ヘイトスピーチ等にもそういう鈍重さは感じる
好きな事をしても文句を言っても何もしなくてもいいのだが、上の様な拘束があると固着してしまう
本来は何をしてもよく、そうしても不快はないのだが、拘束によって固着すると本来は何をしてもよかったはずのものが今度は殆ど全て不快なものになる
三部作の主人公や鼠は固着を解けば自由になれるという事でもないが、読み直そう
主人公やねずみは固着に対抗するために固着してしまうというような難しさがある
何も分からないがゆえに自由を目指すが固着してしまう主人公がいて、彼はそれを見せると誰もが引き付けられる特殊な耳をもった女の子と付き合う
主人公を冒険に誘うのは彼女だが、主人公はそれを受け入れて彼女を冒険に連れ出してしまう
彼らは最後に鼠のいる山にたどり着くのだが、女の子はそこで急に心身のバランスを崩して山を去る
その後鼠と再開した主人公は、「ここは彼女が来るべき場所ではない」と鼠にたしなめなられる
女の子が来るべきではなかった「ここ」に属する主人公や鼠は、特有の混乱を抱えている
そこで彼らは混乱はしているが思弁的では無く、諦観的に生きている
思弁は定立的に積極的なものだが、そういう積極性は彼らには無い
風の歌を聴け、1973年のピンボールを読み直そう
いつものBCの新しいコンタクトを付けたら妙に快適だったので上の様に書いたがやはり何も変わらない
鈍重だと言ったが主人公はああでもいいのだとも思う
「必要なものは必ず動く」「流れの無いときにはじっとしていればいい」
自分の中に確たる欲望の無い空虚ではあるが淡々とした日常を丁寧に生きる方が良いのかもしれない
ただ自分としては「羊を巡る冒険」で思うのは、引き回された挙句にモラトリアムが弾けて呆然とする漱石の「それから」
そこには上の様な発想は無いと思う
主人公は「羊」開始時点で結婚はしていた
しかし結局モラトリアムに戻ってしまう
北野武のキッズリターンではないが彼固有の人生が始まらない。
それは始まらないのではなくて始まっているけど気づいてないんじゃないかと思う。
つまり彼らは、既に始まっている彼ら固有の生活を見ていない。
「ねじまき鳥クロニクル」は多分そういう事でもあると思う。
その彼ら固有の生活を彼ら自信が見ていないという事が、謂わば自分が言った喜劇的な拘束。
虚しさに関しては「羊」よりキッズリターンの方が深いように思う。
いや一番虚しさが深いのは鼠だ。
主人公やキッズリターンの二人、自分もそうだが生きていけるはず。
キッズリターンの二人や「羊」の主人公や自分程度の虚しさの人間は、モラトリアムを否定してあれこれやった方がいいんじゃないかと思う。
柄谷ではないが、意味という病に憑かれてはいない人間。
「羊」の本当の主人公は鼠で、主人公は狂言回しだった。
それに気づいたから主人公は激怒するのだが、「羊」では主人公に過度な憂愁を抱かせないほうが良かったと思う、そういう人ではないから。
でも憂愁は抱くようには描かれていない。
主人公は行動的な実際家で主人公はモラトリアム的人間ではなかった。
憂鬱な物語の主人公だからそう読めてしまうが、そうではない。
実は初期三部作の主人公はモラトリアム人間というよりはリア充だったんだと思う。
モラトリアム人間は鼠。
風の歌を聴け、1973年のピンボール、羊を巡る冒険上巻を読もう
すまん実は「羊」下巻しか読んでない
消えよう
主人公がリア充というのは言いすぎだが、意志が強くそれによってもある程度人生を楽しめる人
この意志が「羊」のラストで壊れて社会から脱落してしまう
復帰の物語が三部作とは言いつつその続編である「ダンスダンスダンス」
意志力で社会人を続けたがその意志が壊れて転落するのか、主人公は普通にやっていける人なのかそうでないのか難しい
そう考えると「羊」は主人公の意志による懸命の無理が破綻して社会から脱落する物語であるという事になる
荒らしてすまん
もう止めるしたまにだから勘弁してください
主人公は普通にやっていけるのなら、デタッチメントも重要ではあるが、モラトリアム-青春を早く終わらせるようにしたほうが良いと思った
モラトリアムが続いている間はデタッチメントなんて不可能だと思うから
モラトリアムに滞留して、何もせず楽しまない事を鈍重であると言った
そういうモラトリアムを書き続け、最後に至っても今だ空虚である事について、モラトリアムからの離脱の模索はなされてきたのだろうか(なされていないのは鈍重である)という疑問を初期三部作感じた
主人公は空虚を抱えながらも意志によってデタッチメントと自立を達成したが、モラトリアムを継続した鼠は自らの命を絶ち、
主人公もやはり挫折してしまったという小説なのかと思う
○主人公は普通にやっていけるのなら、モラトリアムが無駄に思えてしまった
デタッチメントも重要ではあるが空虚であってはならず、空虚なデタッチメントはモラトリアムと思われ、
モラトリアム-青春を早く終わらせるようにしたほうが良いと思った
モラトリアムが続いている間はデタッチメントなんて不可能だと思うから
モラトリアムに滞留して、何もせず楽しまない事を鈍重であると言った
監督インタビューのようなyoutubeのキッズリターン関係の動画は見てない
それを見て何か触発されたのならそれ自身について言及する
漱石の「それから」と北野の「キッズリターン」はレスを書きながら何となく浮かんだだけ
何となくだから加える必要は無かったんだが、同じく何となくだから関係ないのに書いてしまった
自分は初期三部作について主人公の鈍重さを指摘したが、それも空虚だが手当たり次第に何かに手を出すのも喪失的で、
自らの空虚さから脱するには、「ねじまき鳥クロニクル」にあるように、今ある日常を丁寧に生きながら、その丁寧さから、
自らの空虚を打破する「何か」がやってくるのを待つ(「必要なものは必ず動く」「流れの無いときにはじっとしていればいい」)というのがいいのかもしれないと思った
また、主人公はそう生きているのかもしれないと思った
「ねじまき鳥クロニクル」はそういう小説ではないかと思う
初期三部作から時間的にも十年以上先で、オウムや震災というクリティカルな事件を経て書かれた作品
小説を読んだ感想が凡庸というのは良くないと思ってる
自分は、何かが浮かんでそれに言及するときに、人名つきのものだったら人名は必ず付加する
「羊」の主人公は大げさに言って自明には社会を生きられない病気かどうかという事
病気で無いのに病気の振りをするのはナンセンスだし、病気なら病気でそれを治癒して社会化するのか、それとも病気を豊かに生きるのかについての模索があるべきだと思った。
小説を読んでこういう感想はダメなんだろうとは思う。
「羊」は好きなんだが、非難ではなく美もなく実もない空虚そのものという感じがする。
他人の失敗が、あるいは人生が肯定否定の対象ではないように、小説もそういうように受け取るべきなのだとは思う。
味気なさこそが大事なのだと思うようになった
鼠の弱さが引き寄せた「羊」は単なる権力ではなくて、それをも含んだ現実における全体的な彼岸の実現とでも言うべきものだった
鼠は誘惑されつつもそれを拒否した しかし彼は死ななければならなかった
主人公は鼠の断念を引き継いで現実を生きる事になった
主人公は狂言回しであったという事は変わらない
ただラストにおいて狂言回しは断念を抱えつつ現実を生きる主役になる
確かに主人公による断念の引継ぎによって鼠は救われているし、そのためには主人公は無知なままでなければならなかった
主人公も鼠もモラトリアムの中にいたのだが、鼠は自らの死によってそのモラトリアムを終わらせ、
主人公はその断念を引き継ぐと言う形でモラトリアムを終わらせ、その後を生きる事になる
モラトリアムは本人が終わらせるのではなくて終わらせられるのだなと思った
>>386 「羊を巡る冒険」においては味気なさこそが大事なのだと思うようになった
主人公は虚脱するし、それまで彼は「無邪気」なのだが作品においてはそれで良いのだと思った
主人公の冒険は、彼のみがそうと気づかなかった茶番でしかなく、その茶番は現実の断片性を拒否しつつ肯定する鼠の死に結びついている
そして主人公を覆っていたシェルターの様な彼のモラトリアム的陶酔は、両者が明らかになったときに消滅する
それでも主人公はそうは変わらないと思うのだが、自分は何とも言えない気持ち
青春は一種の罪で、それはいつでも目の前にも自分の中にもある
それについては何も言えなくなる
目の前の人を批判しているのではない
それで自分の青春を思い出すと言うだけ
自分はそれほど良い人間でもなく、こういう事で何かをしているかといえば何もしていないし、
2ちゃんは控えよう
一言だけ
茶番というのは自分が無垢だという事ではなく無知で空虚であるがゆえに
モンゴルの戦闘について言われる「来た、壊した、焼いた、殺した、奪った、去った」のような事をしてしまっているという事
自分が騙されたという事ではない
主人公は終盤でその茶番に気づくまでは空虚なのだがそこを批判した
しかし小説としてはそれで良かった
主人公は終盤でその茶番に気づくまでは無知で空虚で、モンゴル的なものに半ば加担していまいそこからのデタッチメントも不十分にはなる
自分も極力控えたいが人間に欲がある以上デタッチメントは厳しい
「羊」の主人公、「それから」の大介、個人主義的であるにも関わらず両者ともに自立が青天の霹靂のようなものになっていて、だから両者ともにモラトリアムが弾けたとき謂わば宙に浮いたように呆然とせざるを得ないのだがその点は指摘すべきである
そこで主人公にとって前二作とは何だったのかという問いと、それを引き受けた際の主人公及び作者への批判は全くの暴論ではないと思われる
その批判を小説という形で行い、主人公におけるモラトリアムの終焉を描いたものが「羊をめぐる冒険」という小説であると思われる。
描かれる主人公は終盤に至るまで「無邪気」であり続け、しかし同時にそれを描いた小説としては良いという事はある。
俺はもう止める。
自分がいけないのは、作品は好きなのだという留保をつけながらではあれ、
主人公の批判が必要だと思いそうしながら、それが「羊をめぐる冒険」という作品の批判にまで及んでしまった所だ
主人公はいけない、主人公の描かれ方もいけないというように
主人公のラストは空虚なものではあるのだが、その空虚さは避け得ないという事だったという事なのだと思う
東電について何かいう事と違うのは、前二作における主人公の運命、それは空虚なラストに,それは東電で言えば事故に繋がるのだが、
それが分かっていても小説家としては、前二作の不十分さを受けそれを許す他なかったのだと思う
>>401以降は単なる惰性でしかなく欲の展開ではないのだが、欲も大事だと思う
芸術家になる資格があるのは、前頭葉のある人間、科学をわかる人間、それだけである。
これらに当てはまらない人間は、「見せかけの正解」「机上の空論」などなどといった、実につまらなくアホらしくバカらしいモノをさも芸術のように語る。
そのようなニセモノはたいして理解されないから、みんなが「よくわかんないけど高尚ですばらしい」なんて勘違いしてタイヘンなことになる。
「よくわかんない」はたしかに芸術であるが、もしそれが芸術なら、「よくわかんない、まさにこのことがすばらしい」となるはずであり、高尚にとらわれるなんてことはないのだ。
宗教を芸術のように捉えることは不可能ではないが、芸術の本質は宗教ではないのだ。
リチャードファインマンセンセイは、このあたりをよくわかっていらっしゃるように思う。
1 勘違いの人の出すお金も芸術家の大切な生活費の一部となる。
2 絵画や音楽など、宗教は芸術を育て、利用してきたが、宗教自体は芸術とは別物だ。
大口の顧客に過ぎない。
一方芸術は、森羅万象を描くから、宗教または宗教的感情は、対象物である。
しかし、芸術自体は宗教とは別物である。
宗教と芸術をごちゃまぜにしようとするのは、傾きかけた宗教団体の断末魔だな。
自分を大きく見せようとしているだけ。
宗教団体苦しいみたいね。どこも信者減っちゃって。
高齢化社会に向けて冠婚葬祭は地味になる一方だし。
ウォーゲームをやってると
正史とゲンジツでオーバーライド的圧がかかってくるから
精神療法的にはをアウフヘーベンした地平線をもとめている
ワケなの??
「様々なる意匠」の小林秀雄が良いな 宿命という意味での単数性が良い
小林は方法論を嫌った人で、それが様々なる意匠はそれに関わるのだと思うが、宿命という自己の単数性は良いと思う
方法論に従う事も無く、またそうしていると思われる事にも違和感を持ったと思う
だから小林は好きな作品しか論じられない
しかし論じた時には彼の批評は良い
小林は批評家だから対象を論じるには方法論的にならざるを得ない所もある
そこの折り合いは大雑把には上の様につけていたのだと思うが、彼は認識者や工学者というよりは表現者だったのだろうなという気がする
自分は小林に習おうという気にはなれない
今までもそうだが他人に何かを習う気になったことが無い
俺は小林の方法論には興味がなくて、錯覚ではあれ一致している
消極的で村上の「ダンス」冒頭に恐らくあったように、他人と別れる毎に自分の中の何かをそれに付加してい空虚化し、
youtubeだけ見るような喪失の人生ではあるが、人生は始まってはいた
○俺は小林の方法論には興味がなくて、錯覚ではあれ宿命に従うという点では一致している
それ以上のことについては自分は何故それが可能なのかというような方法論には興味がないし、それによって作家の個性を論じたくは無い
誇大妄想的に吐き出してしまったが
ほのめかしに成ってしまうので少し限定するが、今の時代には江藤淳が良いというな意匠的態度には余り納得がいかない
それに抗議したいと言うよりは、自分はそんな方法には従ってないと言いたい
ただの偶然、あるいは宿命が顕在化しただけだと
上のは自分の妄想でその妄想を体現する人物はいないし、レスするに当たってもいるとは全く思ってもいない
誰かの意見に対する苛立ちも無い 妄言を吐いた
上のは自分の妄想でその妄想を体現する人物はいないし、レスするに当たってもいるとは全く思ってもいない
誰かの意見に対する苛立ちも無い 妄言を吐いた
韻文云々の件があったが、韻文を使っていればそれでもいい
韻文を使っていないのにそうであるかのようになってしまうのに違和感が残る
俺に美点は無いが、無い美点を自分のうちに見出されてそれを一般化される事には、特にそれを彼自身が避けている場合、抵抗したくなるのではないかと思う
俺の事じゃない
無いけれども見出される美点というものは俺には無い
こんな事言わずに韻でも何でも使って積極的にいけば良いんじゃないかとも思う
そこで大事なのは宿命のようなものだと思うがそれがあれば良いと思う
坂本龍一が村上龍との戦メリについて「これは海行かば」じゃないか、と頭を抱えていたがそういう事じゃないかと思う
坂本ほどに試行錯誤も何もしていないと、そういうときに脱力する
でも迷惑をかけないように積極的にやればいいのだろうと思う
前向きも違うな
善悪のような基準を超えたような事が大事だろう
いちばんムカつくのは、勝手な思い込みを押し付けるような芸術である。
宗教的で、それでいて製作者のうす汚い欲のようなものがチラチラしだすと、最高にムカつく。
それを絶讃するようなやつは、たいていロクでもないヤツらばかりで、これまたムカつく。
ジャパンには、このタイプの芸術が多い気がする。
このタイプの芸術に共通するのは、科学をまったくわかっていないヤツらばかりが集まってくるということである。
欲があってそれを芸術として形にしえたという事が奇跡のような事なんだから
勿論科学は分かっていた方がいいと思う
この欲が簡単に科学に陳腐化されてしまうようではつまらない
無意味であるほど有価値というのは概念の自殺ではないかな?
価値があるなら意味もある。意味がないなら価値もない。
ここで意味というのは広義に捉えられなければならない。
愉快・不愉快も超え、心を動かすものには全て意味がある。
意味を解体してるのが芸術家や批評家で、小林の素朴に見える批評もあれは自己解体だと思う
でも解体すべき自己がなかったりもする
その自己は通常青春期に形作られる
そういう人達が謂わば無から作ったものが芸術であり批評であり、面白いに違いないんだがやる気が出ない
無意味と無理解を混同していませんか?
「無意味なものなんてない。あるのは無理解だけだ。」(トーマス・エジソン
)
>>450 理解できないものに意味をもち、理解してしまったものに
意味を求めないエジソンの認知すらお前は理解できていない。
実は小林は「様々なる意匠」と他二、三の小論文を前に読んだきりだ。
「批評とポストモダン」は昨日読んだがそれ以外の本はこの三日読んでない。
小林流個性の発見は彼の専売特許でそれを知っていたらそれは繰り返さなかった。
文学者にも批評家にもなる訳ではないが面白い。
他の人が言うのはいいけど、倫理的態度や倫理的原則のようなものは自分は安易に言う事は出来ないのだった。
自分の匿名による安易だが撞着的で攻撃的な行いが、自分がやった事だが自己喪失的で、
撞着から抜け出せずにそこに留まってしまったり、撞着から抜けてもそれについて後悔とともに空白感があり、それは終わらない
ネットでの匿名的なコミットについては新潮であった方が良いと思う
ネットでの撞着的なコミットは匿名ゆえで馬鹿げているのだが、簡単に取り込まれてしまう
ネットでの安易で撞着的なコミットは、自己喪失的にコミットしている間は勿論、ある程度自己を取り戻してからも終わらない
匿名による撞着的な自己同一性を統合する事が出来ずそれは終わらないのだが、
それによって自己の不可能が明らかになり終わってしまうというのはある。
始まる-終わるという事とは関係無しに人生は続いていく。
これを初期小林秀雄、例えば「ランボー1」に繋がるものと考えるのは違う
上の様な態度は自意識の自信喪失によって社会化するという事で、それは初期小林において彼が幻惑されたランボーの「芸術の聖化」の対極にあるからだ
この時点での小林においては、天才のみに許される事として美のための反社会性が許容されている
小林は芸術的な達成を自意識がそこに属する社会を相対化する批評の「尖頂」に見出すので、
彼が幻惑するランボーの詩をそのような超批評的な「尖頂」において成立したものとする
それは反社会性というよりは非社会性というべきものであるが、創造は自信喪失による社会化の対極にある事は違いがない。
そんな事は「ランボー1」を読めば分かる当たり前の事に属する。
それに野蛮にまた批評的に向かい、そうしてある人が作りだす作品についてくるものが彼の宿命であり、
その様なランボーの宿命に小林は魅了されたのである。
「ランボー1」での小林によれば、この宿命はある個人による超自意識的な奇跡的な達成であり、それは無意識によってなされる。
無意識も関わらねばならないのだから、創造の営みは社会性を目指すものでもなく社会的なものでもない。
これは飽くまで若き小林によるランボーへの恋文のようなものであって、ランボーと無縁の人には同じく余り関係のないもので、ましてや教示的な価値を持つ教訓ではないと思う。
小林は詩が好きなのだなと思う。
それを措いては他に何もないというべきか。
小林にとってあらゆるものはそれが詩的であるから存在する。
その彼にとっての詩というものが「ランボー1」に書かれている。
意識高い系が中身内容に見えるのは彼らが学生だからでしょ
>>461 「自信喪失による社会化の対極」とはなんですか?
それによっては前言は撤回。
具体が見えていない。
かといって、単純すぎると、芸術的でない。高尚ではないが。観察力がたりない。気づきがたりない。多様性がたりない。芸術は、世界とのじゃれ合いである。
>>1 「充実した健康的な生活」が送れている人とは、あなたは言えないんでしょうね。
代わりに言います。答えは、カバな人です。
野蛮に生きて社会人には出来ない奇跡的な事をやってしまう態度
つまらない 俺には才能はない
ともかくその奇跡に触れた人でないと批評は意味がない
>>477 何をですか。
世間の人は、TVの映画<CM>を批評だと思っているじゃないですか、ww。
じゃあ気にせず。
奇跡とは、この地球自体が奇跡ですので、結果、すべてが奇跡となります。
悪しからず。
>>476 才能とは異才だと思い込んでいるだろ、
凡才も1つの才能だ、無能という才能もある。
健康な奴はようするに軽薄な人間で、チャラチャラしながら
生きてるだけで幸せだと言いたいのか、
リア充、これが最強の芸術家である。
根暗はそれを認めるのが悔しいから、高尚をつくる。
ちなみに、低学歴はたいてい前頭葉がないので、リア充ぶっていても芸術家にはなれない。
低学歴 リア充と発達障害 芸術家はどうなのか
ほとんど語の定義崩壊してんじゃないのか
>>1 「充実した健康的な生活」ってなんですか?
現在はそれを意味する生活は、ないと考えられる。「幸せは自分が決める」とか言う人がいるが、
そんなことはあり得ない。なぜなら、そうであればH.G.WELLSが『盲人国』を書くわけがなかろう。
それあなた知ってます? 人は努力しなければ決して<人間>にはなれない。
この日本では、<鵜飼い>の鵜しかいない。知ってました?
それしらないようじゃね。
「盲人の国」ってのは、相対主義ってのを小説で表現した物
じゃないか?小説でも漫画でもSFモノにはよくあるテーマだね。
ところで「幸せは自分で決める」っていい言葉だし、良い事だと思うけどな…。
>>489 高学歴の知能で行う芸術とは完成した素材を組み立てるパソコンの自作のようなもの
高度なパッチワークで作るモザイク模様のような芸術だ。
http://item.shopping.c.yimg.jp/i/j/ciaobambina_447 それはつぎはぎで繋いだだけのフランケン芸術ともいえる。
>>492 貴方の言いたいことはわかりますよ。本当はそうなのです。
しかし、<本当>は誰にでもわからない。ある人のある状況で、
あることをした場合、その人の真実は一つだ。だがその場合、
その人にとっての真実であるだけだ。しかし、『盲人国』は相対主義を
表現したものではない。それは登山で滑落した主人公の<視点>で書かれて
いるが、ただしここで言っておかなければならないことは、この視点は
天才の視点であるということだ。しかも精神の(科学ではない)。故にこれは
相対主義ではない。そう思うのは<多数決>が正しいと思う凡人だ。その証拠は
今でもある。この国で誰が、真実を言うのか? 誰も言わない。それは、目あき
の者が、そうでない者に真実を言えば主人公と同じ目にあうからだ。
ソクラテスが記さなかった理由はここにある。
貴方読んでないですね。それはそうだ。この小説は、
かなり前に出版された世界文学全集にあるのですから。
この小説は、人間としての精神から表現されたものであり、奴隷根性で
表現されたものではい。
>>490 あなたね、自死することは高尚を超えている。
そんなことすらわからないんだな。
高尚人は既存の名前にとらわれていることがおおい。
自称「小説オタク」に小説のなにがいいのかと聞くと、架空の人がウンタラカンタラしてどうにかなるのがいいのだと言った。
それなら映画でも漫画でもいいじゃないかというと、「とにかく、俺は小説オタクなんだよ!小説じゃなきゃだめなの!ぜったいだめなの」とキレだす。
自分の好みはなんなのか、小説はなんなのか、すらわかっていないようである。
アスペは高尚になりやすい。
ADHDは低俗になりやすい。
「意識高い系」は、たいてい、アスペルガーである。
アスペルガーは前頭葉はへぼいが、記憶の中に生きるのは得意である。
前頭葉のへぼさゆえの行動力のなさ、記憶得意ゆえの妄想力のたかさ、この二つがあわさって「意識高い系」をつくる。
健康的な芸術は、適度な行動力と適度な妄想力がうむ。
芸術に安易に順位をつけはじめたりしたら、たいてい高尚である。
私はこんな感じのメンタルモデルとして捉えていますね。
┌→ 究極(神) ┐
│ │
<<実現>> Σ <<自我>>
│ ↓
活動(文明)←<<参加>>─人(人間)
by 鼎 梯仁
リア充に、芸術は、不可能w
芸術は、ネクラの所有物です。
たとえば、エロについて語らせていただきたい。
こちらは精神病治療用。
しかし、同じエロ、しかも同じマンガールでも、こちらは健康芸術になりうる可能性もある。
おわかりだろうか。
.
ぷりろっちょえだまだロチンじゃな?
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
./ ◞≼◉≽◟ ◞≼◉≽◟: ヽ
| | ̄| | 真理とは何かね?
ヽ  ̄ ̄ / 夫馬たん居るんじゃろ?
| | | | |
.ノ .ノ ヽ ノ .ノ .| プシュカプシュワカ♪プシュカプシュワカ♪
(_ノ (_ノ .| プシュカプシュワカ♪プシュカプシュワカ♪
/ ″ ν. \
(( (( (( /_ ヽ、__炎_,ノ_ \ ウィンウィン
 ̄ \_ \(U)/_/ ̄ ウィンウィン
ウィンウィン ウィンウィン
二枚の画像は何がちがうか。
一つ目は、あきらかに負け組用の芸術なのだ。背景は青く、世界はせまく閉ざされており、女の目はこちらに依存するようなものである。鑑賞者は共依存するしかないのである。鑑賞するとき、非常に受動的で高尚になる。
二枚目も、エロい目をした女の画像であるが、こちらは鑑賞者に主体性を求めている。画像女が依存的か主体的なのかは微妙なところだが、しかし確実に、世界は開かれており、この画像を美しいと認識するときには主体的にならざるをえないのである。
一枚目は、統合失調症を加速させる。
前頭葉に血が通わなくなるような、前頭葉が圧迫されるような、あの状態で、最も美しく見えてしまうのだ。
ワタシはあまり詳しくないが、テクノという音楽にもこの手のモノが結構ある。
どっちもちっともエロくない
全然エレクトしないんじゃよ
そういうカラクリを知っていた理不尽な社会(その下部構造としてのクソ教育制度)とのクサレ縁を
キレイさっぱりブチ切ってやったオレは今じゃ本当の社会の中で大成功して大金持ちwww
ミ ヽヽヽヽリリノノノ
/ ⌒' '⌒\
(~´;;;;;;;゙'‐;;;)
,i`(;;;゙'―---‐'ヾ
ヽ;;';ー--―-、'';;;;;゙)
/::: 波平王 \
(!!)) [_________] (!!)) ───
/ヽ. |/ -― ―- 丶 | /ヽ ___
| |_ Y-=・=- i、-=・=-|イ _| |
( ⊂), ハ ( / ) ハ ./つ( ) ───
└┘/\ (人 `ー′ 人)/ヽ/└┘
>イ ヽ ::.| ト‐=‐ァ' |: i Hey!!
ノ∧ 丶、 ` `二´' }ィ´`フ
ヽ ヾ\_⌒_/ / ─────
ヽ| /
i  ̄` ′ !
', , i
ヽ } ハ
\ ′` \
\ 、 ′ `ー- 、
ヽ、 ! ヽ
\ ヽ ',
>、 / |
ノ 、rー―-‐‐┐ |
/ .| 禁 則 ! |
/ | | !
/ |_事__項」 .l
./ / | |
アニメでいうと、「シャーロット」これはけっこう高尚な見方もできるものであった。感想ブログにも高尚に浸りすぎたものがおおい。ワタシには「高尚からの脱却」をテーマにした作品に思えたのだが。
いっぽう、「プリズマイリヤ」これは設定をある程度無視すれば、かなり高度な健康的なガチ芸術である。
「シャーロット」の難しいところは、高尚からの脱却をテーマにしているくせに、けっこう高尚な鑑賞が必要なところである。これは、「リトルバスターズ」も同様であった。「リトルバスターズ」はさらに高尚な読みを必要としたが。
おそらく、鑑賞者は高尚であるという前提のもとに作られた高尚脱却アニメーションなのだろう。
いや、「シャーロット」は高尚とは関係ないかもしれない。
信者もアンチも振り払っていった所とか高尚だったんじゃね?
高尚は、キモブサインキャコミュ障ハゲチビデブワキガにしか、理解できない。
パッと見たときの美と、じっくり見たときの美がある。
高尚は、後者によりすぎている。引きこもりアスペルガーは視野がせまいから、無駄に細部にこだわる。
リア充のふりをしている奴らは、表面だけ気にしすぎである。
ガチな芸術は、パッと見たときに目を惹かれ、そしてじっくり見れば見るほど、細部の美しさにも吸い込まれていく。
一時期、宮崎あおいの顔面は完全なガチ芸術であった。
まあなにはともあれ
馬鹿鵬【猫騙しで省エネしたくせに3連敗で締めくくった挙句に満足感はあるとか寝言ほざく】より
貴乃花【ステロイド抜けたらガリガリで横チンを公共電波に晒したり
土俵に力水はいたり尻の穴ほじくった手でツッパリして相手をひるませたり
自分で隠し持っていた山響株を兄が盗んだと騒いだりする】より
【子供たちとの草サッカー】の方が力士としての品格に欠け極悪である
とされてしまうのが日本という国家なんですよ。
女性は尿道が短いからプチ失禁もよくあること。
いちいち騒ぐ人間が存在するという事実が切な過ぎるよね。
>>1 このスレのスレタイや
>>1が書いているような事は全くないよ
高尚な芸術を必要とする人は水や空気と同じくらい当たり前のように必要とする
あるいは単純に好みがそっち方向というだけ
そして高尚な芸術を必要とする人の多くは健常者
タイプの違いというだけ
健康で充実した生活を送っている人も多い
てか単純にIQが高かったり繊細な健常者に高尚な芸術を必要とする人が多いというだけ
そういう人に高尚な芸術が合う場合が多いから
そして精神病の人が高尚な芸術を必要とするかというと人によるし
治療でも何でも必要としない人は多い
たしかにルーチンなヘボ将棋の堂々巡り臭しかないといえば
面と向かっては
おまえとは人生の質ちがうし明言されるだろう
格の違いネスカフェ
であった
今まで何もしてなくてやった事も惰性でしかなくて自分が馬鹿馬鹿しい
自然と惰性しかない それもコンビニ、インスタントなもの
小中高と図工の課題は提出した事がない
俺に才能はないしレスは止めたいけど、ちゃんと何かを始めたい
やるぞぅマンはなぜ周りを不快にするのか
・宣言連呼でなにもしない
・悲壮感をだして誰か英雄に助けてもらおうという気マンマン
・ただの同体洗脳
妄想ばかりしている高尚人だからである。
やるぞぅといいながら、やることを理解していないからである。高尚人の住む世界は現実的感覚が薄い。彼らは、言葉の海に溺れ、それぞれの言葉がなんであったかを忘れてしまった人間である。
「高尚人よ、現実に帰れ」
こんなかんじのタイトルの本をだそう。
そういえば、新海誠が「芸術とは絆創膏のようなものだ」みたいなことをいっていたきがする。
しらべたらちょっと違った。
アニメは、絆創膏のような役割を担うべきだ
といっていた
新海誠は高尚のいい例だ。
彼は自覚しているので好感がもてるが。
高尚なゲルマンの文系とチリ人は
苧疾呼玖差亥苧饅湖にしゃぶりつきながら〜
うう旨過ぎwwwwwwwwwwwwwwww
ヘラゲラ生と死を哲学するのだよwwwwwwwwwww
高尚な芸術など存在し無い。
芸術とは新しい感覚の発見だと思う。
好きな作品を好きだと言えばいいし、嫌いな作品を嫌いだと言えばいい。
それがどんなに有名な芸術家だとしてもそれが自分自身の感覚なのだから。
バーベキューあーじーーーっ♪
なーんでーかーなーーーっ
バーベキューあーじーーーっ♪
ほーんとーかーなーーーっ
いいかね?
哲学は甘えに過ぎんのじゃよ
-ーーー 、, -─ーー
. -==・==- i、 -==・==-
-ーー- -ーー-
ヽ
(💩💩)
(,,,, -=-´⌒=-´ ̄`ー,,,,,_,_), にわにわ感じてきたら隠さずにちゃんと言うんじゃぞ?
゙゙l~l l~/~,ll⌒l⌒l~ l l ノ゙゜
`ヽ`- ┴,┴.┴‐┴´,
_:/__:. `ー---─ ''"´ ̄ ̄`` ー- 、
/´ `ヽ、. .: `ヽ、
/ `ヽ、 ゙i
i :; ,!
! ‐-、 :. 。 .:' /
ヽ ヽ ; j:! " __..:-‐'"´ ̄ ̄` __ノ
\ ! .:' 〃 ,..:---─‐'"´ __.. -──── ''"´
`ヽ、 ヽ、 ノー;'"、二:.:'ー--ァ'"´
`ヽ、 >:).......ヽ、_∨:/` ̄i
....:::::::::::にニニイ::::::::::::::::ヾK.._.ノ、
....::::::::::::::::::,! _ i!:::::::::::::::::..ヾ:、__/ ミ、::::::::::::::::.........
..::::::::::::::::::::::::!`´_` .! `===='' :::::::::::::.......
::::::::::::::::::::::::::k'´! i ,``;|
..:::::::::::::::::::::ヾ三三ノ ',', υ
人間の行う活動は労働あれで何であれすべて芸術であり、すべての人間は芸術家である、という認識へと至った。
by ヨーゼフ・ボイス
これは、素人がアーティスト気取って何かオブジェとか作品を作るのとは違うのですね。
>>1がおっしゃるように、日常における友人との会話が芸術なんだと。
言霊 〜コトダマ〜
ダウンロード&関連動画>> 就労移行支援事業所は、利用者1名×1日で行政から1万円前後の補助金が出てるんだよね。。
発狂さん、上げ荒らしやめましょう。
10年間も毎日毎日糞スレ立てて、キモいAAで上げ荒らしして、なにがしたいんですか?
こんなことだから50歳職歴なしの社会不適合者なんじゃないんですか?
あなたの生活保護費はボクやみんなの貴重な税金から支払われているですよ。
みんなに迷惑かけて恥ずかしくないんですか?
あなたほんとにみんなと同じ日本人ですか?
そんなにやりたいならsageて誰にも知られない底で一人勝手にやってください。
芸術の高尚さは哲学じゃなくて芸術史から考えるべきかと
|┃
|┃ 三
|┃ /''~⌒`´⌒~''ヽ
|┃ ガラッ / ∧ ヽ
|┃ 三 l ノー;;;;;' ll ゙;;;;;;-'ヽ l
|┃ 彡 ,,◞≼🍮≽◟◞≼🍨≽◟ ,,, ミ
|┃ 三 /.( )( 🐽 )( .)\
|┃ ~リ〈∵;∴) ll (∴;∵〉ソ~
|┃ ノヽ. / ∈🍈∋ ヽ ノヾ ぷりろっ ぷりろっっ!
|┃ 三 / ヽ:.__;;;;;;;;;;__.ノ ヽ
,⊆ニ´⌒ ̄ ̄" y .;ヽ
゙⊂二、,ノ──-‐'´: ・ 人 ・ ,.y i
|┠ ' |  ̄  ̄ .| .|
|┃三 | ノ. ノ
|┃ |. (x) 9 /
|┃ | 彡 イ
この板にある大半のスレタイの意味すらわからずに哲学について偉そうに語る奴が多すぎないか?こ
の板にある大半のスレタイの意味すらわからずに哲学について偉そうに語る奴が多すぎないか?この
板にある大半のスレタイの意味すらわからずに哲学について偉そうに語る奴が多すぎないか?この板
にある大半のスレタイの意味すらわからずに哲学について偉そうに語る奴が多すぎないか?この板に
ある大半のスレタイの意味すらわからずに哲学について偉そうに語る奴が多すぎないか?この板にあ
る大半のスレタイの意味すらわからずに哲学について偉そうに語る奴が多すぎないか?この板にある
大半のスレタイの意味すらわからずに哲学について偉そうに語る奴が多すぎないか?この板にある大
半のスレタイの意味すらわからずに哲学について偉そうに語る奴が多すぎないか?この板にある大半
のスレタイの意味すらわからずに哲学について偉そうに語る奴が多すぎないか?この板にある大半の
スレタイの意味すらわからずに哲学について偉そうに語る奴が多すぎないか?この板にある大半のス
レタイの意味すらわからずに哲学について偉そうに語る奴が多すぎないか?この板にある大半のスレ
タイの意味すらわからずに哲学について偉そうに語る奴が多すぎないか?この板にある大半のスレタ
イの意味すらわからずに哲学について偉そうに語る奴が多すぎないか?この板にある大半のスレタイ
の意味すらわからずに哲学について偉そうに語る奴が多すぎないか?この板にある大半のスレタイの
意味すらわからずに哲学について偉そうに語る奴が多すぎないか?この板にある大半のスレタイの意
味すらわからずに哲学について偉そうに語る奴が多すぎないか?この板にある大半のスレタイの意味
すらわからずに哲学について偉そうに語る奴が多すぎないか?この板にある大半のスレタイの意味す
らわからずに哲学について偉そうに語る奴が多すぎないか?この板にある大半のスレタイの意味すら
高尚なものほど抽象的で具体性がない、だからこそ全力で否定する。
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↓「「高尚な」芸術とは、精神病治療道具である。 [転載禁止]©2ch.net YouTube動画>2本 ->画像>17枚 」を見た人も見ています:
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