オリコン歴代記録保持者、いまだに破られていない
アルバム37週連続1位(新宿の女・女のブルース)
(アルバム42週連続1位、上記に加えて、前川清との全曲集コラボ)
シングル18週連続1位(女のブルース・圭子の夢は夜ひらく)
オリコンシングル売り上げ
69/9/25 新宿の女 9位 37.4万枚
70/2/25 女のブルース 1位 74.8万枚
70/4/25 圭子の夢は夜ひらく 1位 76.5万枚
70/7/25 命預けます 3位 46.8万枚
70/10/25 女は恋に生きてゆく 7位 23.3万枚
71/2/5 さいはての女 8位 16.0万枚
71/5/5 恋仁義 21位 8.1万枚
71/6/5 みちのく小唄 23位 11.1万枚
71/7/5 愛の巡礼 44位 5.0万枚
71/10/25 知らない町で 46位 3.2万枚
72/1/25 京都から博多まで 20位 13.8万枚
72/5/25 別れの旅 14位 19.6万枚
72/9/25 花は流れて 19位 8.2万枚
72/12/5 悲しみの町 59位 2.9万枚
73/3/25 今日から私は 21位 12.9万枚
73/8/25 遍歴 50位 3.6万枚
73/11/5 恋の雪割草 41位 5.3万枚
74/4/5 私は京都へ帰ります 95位 0.5万枚
74/8/25 命火 34位 6.9万枚
75/4/25 生きているだけの女 73位 2.1万枚
75/11/5 はしご酒 43位 11.1万枚
76/4/25 女だから 99位 0.4万枚
76/8/25 聞いて下さい私の人生 70位 4.5万枚
77/2/5 哀愁酒場 77位 1.6万枚
77/6/25 貴方ひとすじ 97位 0.2万枚
77/11/5 面影平野 78位 1.8万枚
87/2/25 新宿挽歌 89位 0.8万枚
以上
母方の竹山家の両親は、富山県黒部市宇奈月(うなづき)町出身
1970年12月に圭子自身が書いた「新評」の「私の18年<涙の記録>」によると
「旭川は母の生まれた土地です」「旭川には実家はないが、母の知り合いがいた」と
母方の両親は宇奈月で大規模な事業を営んでいたようであるが
明治期に倒産、北海道に移住し、11人の子供は全員、北海道で生まれたが
成人したのは6人、竹山幸子いわく「姉も私も旭川から北北西30キロの
朱鞠内(しゅまりない)で生まれる、戦争中の昭和16年に旭川に移って
そこの尋常小学校に入学、戦後すぐススキノに移住
竹山家は札幌のススキノに大きな家を借りて、兄弟姉妹が共同生活
兄嫁が浪曲の講師から浪曲や民謡や三味線を習っていて
幸子と澄子(圭子、本名純子の母)も弟子入りして、旅回りするようになり
そのとき阿部壮(つよし)(純子の父)と出会った、四番目の兄が目が不自由で
マッサージ師やほかに巡演の手配もしていた
阿部純子は、岩手県一関市の磐井(いわい)病院で生まれ、そこに生家もある
ハローページを見ても一関市の阿部姓は850人もいる
阿部壮の父は阿部壮志治(そうしじ)という、阿部壮志治一家の墓には
長男であるにも拘わらず、親の反対を押し切って浪曲家になったことで
壮の遺骨は納められていない、名前もない、墓には壮の弟、日出男(85才没)
その長男、七三男も亡くなって納骨されている
実家にはその奥さんと長男が住んでいた、宗志治は牛の繁殖も手掛ける酪農家だった
壮は澄子と73年に離婚後、花巻の女性と再婚し、そこに墓があるという
あの時代なら京都から博多まで「まつかぜ」で行きたいもんですな。
昭和20年代の芸能人所得番付のベストテンの半分以上が浪曲師だった
ラジオでも浪曲が一番多かった(邦楽堂和楽器店ブログ)
昭和30年代になると、見切りをつけた浪曲師(三波春夫など)や
民謡(三橋美智など)が続々と歌謡界へと転身していった
父・阿部壮は松平国二郎と言い、浪曲四天王の松平国十郎の弟子だった
しかし、昭和26年に純子が生まれて、岩手県一関から、まもなく北海道へ渡った
それは破門されて本州では松平を名乗ることが出来なかったからに他ならない
破門の理由は博打の借金
家族を塗炭の苦しみに追いやっても、廃れた浪曲にしがみつき
プライドだけは捨てきれず、戦争で頭に受けた銃弾の破片が残っていて
いつも頭痛がするということを理由に働かない
母澄子より純子の方が背が低い、これは戦後の栄養状態の改善からすれば
一般的には考えられないこと
いかに自分たちの子供の頃より、純子たちの子供の頃の方が貧しかったか
ろくに育ち盛りに栄養のあるものを食べさせていなかったかの証明
あと一年東京に出て来るのが遅かったら
一家は生きていなかったかもと、圭子は述懐する
遠足などの費用のかかる学校行事はすべて欠席、服装は一年中穴の開いた同じものを着て来る
靴もゴムの底がカッパカッパと音を立てて取れそうだった、寒い日は走って帰る
保護者たちに古着を持ち寄ってもらい、それをあの子の家に届けたこともあったと
小4の担任の先生は言う
小3の冬休み、稚内まで、ひざまで雪に埋もれて黙々と12キロの道を歩いた、しかし
小屋主はその非の出演料を払ってくれなかった
「もう死にてえ・・・」父は言った
旭川の−40度の橋の下で野宿をしていたのを地元の老人は知っている
この話は、テレビで圭子一家を知っている近所の人や、小学校時代の恩師が出てきて証言している
旭川の橋の下の部落から(サムライ部落、本州のいわゆる被差別部落ではなく、
旭川の最貧困生活者の集まり)次に住んだのが、旭町の風呂屋の二階
そこには畳のない部屋だった、次が神居
旭町も神居も旭川市内、旭町は中心街の北側、巾300m、長さ3キロ
神居は中心街の西側にある、圭子が住んでいたと思われる
旭町2条3丁目から神居中まで4.5キロ
定着者の農民と芸能娯楽で金を稼ぐ流民、圭子の子供の頃、農家で花(金銭)をもらう
このような日本民族文化の原点を体験したのは、圭子が最後であろう
竹山澄子は「万歳」や「祝福芸」といったハレの演目(正式な出演者として歓迎される)
ではない旅回りの芸人であった、より貧しさが強調されるドサ周りだった
上京するまで白米食べたことがない、肉やエビ食べたことないというのは
2006年のテレ朝インタビューで圭子自身が語っている
親と流しをしていたとき、旅館の中居さんが余った料理をこっそりくれて
そこで銀紙がついた食べ物がなんだか分からなかった
それがチキンだと知らなかった
上京してしばらくは日暮里のガード下で路上生活をしていた
そのことは海老名香葉子も知っている
学校時代はオール5、たまに体育と家庭科が4に落ちる
テストはいつも学年で10番以内、学級副委員長(委員長は男子のみ)をずっとする
楽しかったのは中二の夏休みに、学校の友達40人ぐらいで登山に行ったこと
このとき初恋の人、鈴木和弘くんも一緒だったからなおさらね(平凡・明星より)
阿部純子(藤圭子の子供の頃の本名)は勉強が好きで、特に英語が
英語弁論大会にも出た、普通の弁論大会も校内一位、札幌の大会にも出た
神居中学卒業時の寄せ書きに「友よ!一人一人が私の宝」と書く
阿部純子を旭川雪まつり大会で歌ってたのを見てスカウトした作曲家八州秀章と
「中卒ですが、作詞家になるにはどうしたら良いでしょうか」と手紙を出して
「独学であっても道は開けます」と返事をし、澤ノ井龍二の背中を押した作詞家横井弘
彼らは「あざみの歌」の作詞・作曲者だった
いわば藤圭子と石坂まさをを結びつけたのが「あざみの歌」だった
「山には山の愁いあり/海には海の悲しみや/まして心の花園に/咲しあざみの花ならば」
この歌詞は横井が理想の女性像を歌ったものだと言われているが、父の恩は山より高く
母の愛は海より深いと言うように、山は父の象徴であり、海は母の象徴でもある
だから父母という崇高な存在でさえ、愁いや悲しみがある、まして自分の罪悪感は
お前に対しては、茨とあざみを生え出させる/野の草を食べようとするお前に」(創世記3-18)
アダムの罪によって、あざみは茨と共に世界が呪いの元に置かれた象徴
またキリストの茨の冠により流された血は、私たちの身代わりに世界の呪いを受けられたことを示す
「血を流すことなしには罪の赦しはあり得ない」(ヘブライ人の手紙9-22)
山上の垂訓に出て来る野の花はあざみを指していると言われる(荒井献「問いかけるイエス」p110)
またマリアあざみの伝説として、キリストを抱いて乳を飲まして歩いていたマリアが
道端のあざみを踏みつけそうになり、よろけて体が曲がったとき、あざみの上に
乳がしたたり落ちて、葉に白い斑点が出たという
一方、デビューの前、石坂は圭子を連れて、星野哲郎のところへデビュー曲の作詞を依頼しに行く
その際、圭子は星野作詞の歌を数曲歌ったが、最初に歌ったのが、青山ミチの「叱らないで」だった
「十字架のそばへ/あの子の手をひいて/叱らないで/叱らないで/マリアさま」という詞だった
結局、石坂が作詞作曲することになったデビュー曲だが、「新宿の女」の冒頭
「私が男に」のメロディー「ドレミソ ドレミソ」はこの「叱らないで」の冒頭の
「あの子がこんなに」のメロディー「ソミレド ソミレド」を反転させたもの
(大下栄治著『心歌百八つ』p195)
そしてアルバム「新宿の女」のジャケット写真にはロザリオを手に提げている
「生きているだけの女」のジャケットにも十字架のネックレスがある
事故などで死んだとき、残された関係者は、死を無駄にしないように
二度とこういうことが起きないようにと誓う
これは死が無駄死にではなく、死に意義を与えようと
つまり死は贖いの死として意味付けようとすること