陣頭指揮突貫 日大の山田顕義と慶応の福沢諭吉、早稲田の大隈重信との違いは血みどろの戦いを したかどうかだな。鳥羽伏見、徳川幕府との決戦に山田は命を捨てて 戦いに臨んだんだな。一方福沢と大隈の2人は鳥羽伏見の戦いを静観。 お茶を飲んだ後お昼寝しました。 私は山田顕義伯爵は福沢諭吉になにも言い残していませんが内心はこうだったと思う。 「人は人の上に人をつくらずは正しい。言っていることは立派だ。でも自由な言論も 私たちが戦場に残してきた屍の上に成り立っていることを忘れては困る。」 大隈さんに対しては「大風呂敷もわかる。力量もある。見識も立派だ。でも鳥羽伏見のときに 出てこなかった責任はどうとるのか?。私たちは明日の行方も知れず命を的に戦った。 勝った後、のこのこ出てこられてもあまり嬉しくない。 なんでも鑑定団 愛のエメラルド
軍人が創設。 神道系右翼大学、日大。 − 山田顕義(日本大学創設者、軍人)− 以下、Wikipediaより ・階級は陸軍中将 ・25歳の時に戊辰戦争で討伐軍の指揮をとる。 ・幼少期の頃に「性質愚鈍、垂鼻頑獣(はなたれだるま)、ほとんど白痴の如し」といわれていた。 ・元治元年(1864年)7月、禁門の変では山崎に布陣する久坂玄瑞・真木保臣らの陣に加わったものの長州勢は敗北し、山田も長州へ落ち延びている。 ・8月、太田市之進・品川弥二郎らと御楯隊を創設し、軍監となって下関戦争で奮戦するも長州藩は敗北した。 12月、対幕府恭順論の「俗論派」による藩支配に対する高杉晋作の決起(功山寺挙兵)に参戦し勝利を収め、俗論派を排除する。また、山田亦介が処刑され、山田は謹慎となる ・慶応3年(1867年)5月、御楯隊と鴻城隊を合体した整武隊の総管に就任。 ・慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争の発端となる鳥羽・伏見の戦いで在京長州藩兵諸隊の指揮官として、1,000余名程の長州藩兵を率いて指揮することとなった。 新政府征討総督・仁和寺宮嘉彰親王の征討総督副参謀に命じられる。 ・山田は先年にイギリスで完成した長州藩の艦艇、第一丁卯に乗船を命じられ、5月に薩摩艦「乾行丸」、筑前艦「大鵬丸」も同行し馬関(現下関)を出発。越後海域に向かった。(山田は山県に協力して、海軍の戦闘を助力した。) ・山田は「衝背作戦」を発案し実行した。この作戦のための兵士を乗せた輸送艦が柏崎に入港した7月、越後口海軍参謀(陸軍参謀兼海陸軍参謀)に命じられる。 ・陸海軍参謀の任を解かれ、新官制(太政官制)施行による兵部大丞に就任。長州藩少参事兼任を命ぜられる。 ・11月には兵部少輔久我通久と連署で大村の遺策をまとめた『兵部省軍務ノ大綱』を太政官に提出した。大村の継承者として大坂を中心とした兵部省確立に尽力する。 ・同じ長州出身の前原一誠、山田らが国軍の建設を進めようとしたが、省内の統制がとれず、仕事が停滞していた。 ・普仏戦争の観戦を強く希望するが、川村純義等他の兵部省員等も希望した為、省務の停滞を危惧した大久保利通等の指示により許可されなかった。 ・佐賀の乱が勃発し、同職を解かれ、士族反乱鎮圧のために九州へ出張した。士族反乱は翌3月に平定。同年7月、佐賀の乱を治めた戦功を賞され、一方で伊藤博文等の説得により、現役陸軍少将のまま司法大輔(次官)の職に就任した。 ・西南戦争勃発により、司法大輔を辞職する覚悟で単身京都に出張し、鎮圧出征を懇願する。木戸孝允等の協力の末、別働第二旅団長として出征を命ぜられる。同年9月、西南戦争終結し、同年11月、戦功によって勲二等を賜る。
伯爵山田顯義さんは靖国神社にある大村益次郎の銅像の建立を主唱した人物。 大村さんは20歳の山田顯義の軍事の才能を見抜き抜擢しました。山田さんは 大村師匠の殉難を悼み、銅像建立を主唱しました。 世田谷区にある松陰神社の石畳は、山田市之允(顯義)が中学生時代、 教育を受けた吉田松陰先生を追悼してのもの。五稜郭の戦いで 旧幕府軍を制定した後、師匠を追悼して石畳を敷きました。 山田顯義は軍旗や軍服、士官学校等軍隊の基礎固めに邁進しています。 でも明治新政府も勝ったから良かったものの負ければ賊軍。 鳥羽伏見の戦いも内心、徳川軍相手に山田市之允は勝てるとはとても 思っていなかったらしく、師匠の桂小五郎(木戸孝允)に 「再回帰しがたく・・・」と今までの恩顧に感謝の言葉を 述べています。 当時の状況は最悪でね。明治天皇の叔父さんに当たる中山忠光は 長州の山の中で俗論派により惨殺されています。山田市は中山忠光卿の 護衛に付いたこともあり寸でのところで命拾いしています。 鳥羽伏見の戦いではもしも敗れた場合、高校生の明治天皇を負んぶって 雪の山陰道を雪だるまになりながら長州まで 血路を開く心積もりでした。当時の危機一髪の状況では 明治天皇のお命だってどう転ぶか予想がつかない状況でした。 山田市が鳥羽伏見の戦いで発した言葉は「物陰に隠れて 銃を発射せよ。1対1の斬り合いは厳禁する」 「少ない兵を損ねてどうする」「無駄に命を粗末にするな」と柔軟で人命を 尊重しています。山田市は負けることも想定し、退却口まで想定していたことから 山田市之允は「小さなナポレオン」と言われました。 山田顯義は身長148aです。 なんでも鑑定団 愛のエメラルド
早稲田の半分以上が水増し推薦AOバカ 学生数が多い分馬鹿を大量に集めないといけないわけだ 少子化で偏差値操作と学生数確保(学生数4万3千。スポーツ馬鹿大日大に次いで水増し馬鹿学生数2位 他の私立の2倍、国立大学の3倍近くの水増し馬鹿が多い)に必死の早稲田 「早稲田どうしちゃったの?」の声 学力低下の元凶?AO・推薦入試6割に拡大 http://www.j-cast.com/2015/12/04252414.html?p=all 早稲田の狙いは河合塾のコメント「募集の枠が狭まって、倍率が高まれば、偏差値が上がる可能性はあると思います」に集約されていますね。 受験産業に見透かされてしまっている早稲田……。 本質的な意味で学生の質を上げようというのではなく、 他校と数字で比較されてしまう偏差値ランキングのみに執着した政策です。 短期的には(見かけの)偏差値が上がって早稲田のメンツを保てるのでしょうが、 長期的には信頼を失う結果になるのは明白。 大学の理事たちは「在任期間中の学校運営さえよければそれでいい」と思っているのでしょう。 偏差値50以下の高校でも政経の指定校推薦枠がある現実 小保方晴子氏、早稲田大学の嘘を批判 http://69763999.at.webry.info/201511/article_4.html 軍人というより武士の造った大学の方が適切かな。 軍人というより戊辰の役では長州軍の総隊長として 活躍しています。長州藩の内紛、蛤御門の戦い、四境戦争、 鳥羽伏見、北越。五稜郭の戦いでは陸海軍参謀として 戊辰の役にピリオドをつけました。
日大の創立者山田顯義は人命尊重派ですよ。 五稜郭の戦いでも榎本武揚ら旧幕府軍に対して 大変親切です。降伏後、榎本ら幹部が連れていかれたのは 料亭です。そこで北海道の珍味がどっさり出されて歓迎されているんだなぁ。 榎本ら幹部はそこで切腹を命じられると思っていたらしく 皆、その意外さに驚いた。と歴史の本にあります。
五稜郭で戦った山田顕義と榎本武揚は実は仲がいい。大の仲良しです。 明治22年の山田伯爵の作品です。 「榎本氏、別荘偶作」 主賓別無く 酔って将に狂せんとす 吐き尽す 人間の妙 吟腸 一望墨堤 万寿の花 満天の春色 白雲の香
一人も殺さんと陸軍中将なんてなれんやろ。自衛隊やないんやから。 大日本帝国陸軍やで。そんなに甘ないで。
幕府側相手にしとったわけやろ。 一人も殺してない軍人なんか無能やんか。 そうやないから中将まで登り詰めたんちゃうん。
山田顯義は戊辰の役で最強の武士なんだが驕慢の兵が 大嫌いなんだなぁ。「兵は凶器なり」と 懸軍策の中で唱えるんだなぁ。 兵よりも大切なものは教育と法律だと唱えるんだなぁ。 そして国を守る軍隊を提唱するんだなぁ。スイスのように 日ごろは働き、国難の時だけに戦う軍隊を提唱するんだなぁ。
軍なんて国を守るためにあるんやで。どこでも一緒やんか。 国を守るため言うて戦争始まるんやで。殺し合いやで。
日大は、日本で唯一の軍人がつくった大学いうことか。 まあ、防衛大はおいとくと。
政府のお雇い法律学者ボアソナードが 拷問の場面を目撃して、司法大臣山田顯義に 止めさせてくださいと泣きつくんだなぁ。 山田顯義はその後、拷問の廃止に向けて 尽力しています。ボアソナードが日本で生き生きと 活躍できたのは保守的な風土の中に合って 山田顯義が身を楯にして守ったからです。
顕義公 ◆ >…前略 兵、何を以って国家に至要なるや、兵は凶器なり、而して能く巨万の金額を費やし >人民を労し少壮の事業を妨げ、其の学問を礙し、其の性を傷害し、其の才を束縛し >其の刑罰を厳酷にし、或は又、醜業に習慣し、蜜陰を盛にし、梅毒を繁殖す。…後略 小説志士の肖像より この顕義伯の建白書が仇敵山縣有朋の猜疑心を拡大せしめ、政敵とし、無欲の顕義伯を 政界の頂点から追い出す原因となったと思う。師匠であった益次郎の暗殺も不運であった。 高杉晋作が周囲から「次は」と言われたのが「益次郎」、「その次」はと問われたら 「市之充」と答えたことは有名。 岩倉遣節団の中で顕義伯だけは放蕩せず、欧米の軍隊、法律をつぶさに研究している。 身分の卑しい利助などは金髪女を金で買っていたのと対照的である。 悲しいことにこの長きにわたる欧米視察の合間に、山縣が軍部を掌握してしまったことである。 帰国後西南戦争も起きていない時期に徴兵制を断行しようとした山縣を、この建白書で暗に糾弾 したのである。 しかし、顕義伯の欧米視察は無駄ではなかった。兵制の違いをフランス、プロシア、オーストリア、 スイス等などを比較しているし、国民平等であるナポレオン法典を日本の法に参照しようとも 考えていた。 戊辰戦争では五稜郭を落とし、伯は海軍の親玉にもなれたであろう。薩の海軍、長の海軍などまだ できあがってない時期だったし。 兎に角顕義伯は真面目過ぎた。松陰先生のように童貞のまま死ぬ、ということはなかったが。 もう少し世あたり上手であれば、大村益次郎が暗殺されなかったら、というIFがつきまとう。 そのIFが現実だったらならば、俺は日大に入れなかったであろう。 ※山田顯義は征台論に反対し辞表提出。征韓論にも反対。 最後は山縣と西郷兄弟に日本軍隊から追い出されています(席だけはあるが窓際族)。
>12 一人も殺さんと陸軍中将なんてなれんやろ。自衛隊やないんやから。 大日本帝国陸軍やで。そんなに甘ないで。 いや殺されず生き残ったほうが不思議なぐらいです。 蛤御門の戦いでは利あらず敗退。新選組に追われ西本願寺で髪をそり 坊主になり生き延びています。山田市は中山忠光卿の護衛ですが寸でのところで 助かっています。中山忠光卿は山中で暗殺されています。又、山田顯義の一族は 長州藩家老村田清風の一族でその半ばが俗論派に惨殺されています。 鳥羽伏見の戦いの長州軍隊長に抜擢された時も生きて帰れるとは 夢にも思ってもいなかったようです。人を殺すより 殺される立場の人間だったと思います。時世が山田市に味方しました。
まぁ物陰に隠れて銃を撃たせたのが 奏功したかな。 でも血気盛んな連中は山田市の命令も効かず 1対1で斬り合い戦死しています。
>>21 まあ、幕府側を結構殺してるんやろなあ。大日本帝国陸軍中将やもんな。 >>17 >>18 ほう。 出典はどこ? 山田司法大輔が刑法草案委員として刑法、治罪法(刑事訴訟法)の 起草にあたったのは明治8年9月以降ですが、ボアソナードの 協力のあったことは無論です。いずれも15年1月から施行され、 わが国最初の近代的法典と言われました。 又、山田顯義の果たした貢献のうち、広く知られているものに、 取り調べ中の拷問廃止のことがあります。 ある日、たまたま授業へ行く途中、裁判所でおこなわれている 拷問風景をかいまみたボアソナードは、狂人のようになって その非道を訴え、直ぐに人権を尊重して拷問を廃止せよという意見書を 政府に提出するとともに、山田顯義ら政府高官に力説し封建時代からの 陋習であった拷問制度を廃止することに成功しました。 他にも山田裁判長の貢献はあります。 広沢真臣殺し事件の審理にさいし、山田顯義裁判長は 被疑者に弁護人をつけて裁判の公正を期しましたが、弁護人制度は このときにはじまったといわれ、これもボアソナードの権限をいれて 採用に踏み切ったふしがあります。 スレタイ、日大創設者がした「血みどろの戦い」を誇りたいわけか。
>>26 スレタイ、日大創設者がした「血みどろの戦い」を誇りたいわけか。 どちらかと言えば山田顯義は血と汗と泥の匂いはしないんだけどな。 五稜郭の戦いでも戦が終結するや否や兵隊を撤退させています。 血みどろの戦いの記述もありました。西南戦争時、御船攻撃の指揮官は衝背軍の 統轄を委ねられた山田顯義少将です。山田軍1万2、3千人と薩摩軍8千人が激突。 山田の指揮の前に算を乱して東への道を逃れた薩兵には、次の恐怖が待ち受けていました。 山田少将が、進撃開始に先立ち、その街道の傍にひそかに水島中尉の率いる 狙撃兵を伏せておいたのであった。「賊大いに驚き、復タ戦フニ及バズ。 弾二応ジテ斃ルルモノ二百余人」と「征西戦記稿」は述べ、 「西南記伝」は「倉皇河を泳ぎて遁るるあり、水に溺れて死するあり、 官軍岸に立ちて之を狙撃する、あたかも浮鴨を射るが如く、死屍数十、 波面紅を潮するに至る」と描写している。 橋本昌樹「田原坂」中央公論者より。 山田顯義の用兵は電撃作戦、神出鬼没、機動力。山田市の偉い所は 敵の逃げて来る場所を想定して作戦を立てていることです。 でも薩摩兵もお気の毒だなぁ。浮鴨に見立てての一斉射撃だもんなぁ。 西郷隆盛の戦術は数を頼んでの正面攻撃だけだもんなぁ。ちびっ子の 山田市に連戦連敗だぁ。 >>25 出典は? それとも、あなたの脳内ということ? いえいえいろいろな本に書かれていますよ。 ただ今まで山田市は注目されていなかったので ボアソナードの陰に隠れていた感があるかな。 「山田顯義と日本大学 」荒木治著 新生社 昭和47年
当時の学校は法律系の学校が多く、 司法大臣山田顯義が学校創立の認可権を 握っていました。補助金も司法大臣の一存で決まりました。 関西法律学校の創立も山田顯義の力です。ボアソナードの弟子たちが 大阪に法律学校の創立を志しますがうまくいきません。伝手のある司法官児嶋惟謙が お得意の泣き落としで山田司法卿に捻じ込みます。 山田司法卿は学校もない、敷地もない、お金もない、お寺の1室を借りているだけの 関西法律学校を無理を承知で認可します。山田顯義はボワソナードの弟子たちを 見殺しの形には出来ませんでした。 今の時代、敷地もない、学校もない、予算もない、備品もない学校が認可される筈はありませんが 明治の中頃までは大臣のさじ加減ひとつで無理が道理になりました。 なんでも鑑定団 愛のエメラルド
山田市之允は子供のころは動きの鈍い小僧であったらしく 鼻垂れダルマと言われていました。ずんぐりと丸々と 太っていたんだね。 家の桜の木に登ってション便をしたら通りかかった お母さんの頭にかかったこともあったらしい。弟と妹がいました。 家系は長州藩一の傑物と言われた村田清風の 家系です。 松下村塾には中学2年の時に入門します。正月のお年始の挨拶に伺ったところ、 カリカリしていた吉田松陰は「今はお年始どころではないだろう!」と 怒ったんだが幾ら思うようにいかず時世にカリカリしていたってそれはないだろう。 講師の富永有隣に市−は泣いて行って「先生に一緒に謝ってくりょおおお」と 頼んだりしています。 市ーは読書好きで臼井小助によれば「市ーは知恵の無垢」であったらしい。
山田市之允はなんといっても高杉晋作と並ぶ藩の上士。 桂小五郎や井上馨、大村益次郎と言った藩の中心人物から 一目置かれました。松下村塾に入った事も大きかったでしょう。 久坂玄瑞、入江九一、吉田稔麿、山縣有朋(6歳年上)、伊藤博文(3歳年上)、 品川弥次郎(1歳年上)らの先輩諸氏の 薫陶を受けたことも大きい。 山田は柳生新陰流の他大砲が使えたらしい。下関の海上を進む外国船の砲撃を 陸上からしています。蛤御門の時には狙撃隊隊長。防長四境戦争の時は高杉晋作と 共に軍艦に乗り込み砲隊長として活躍しました。 10歳の魯鈍な鼻たらし達磨はそこにはなく西洋式戦術を駆使した 20歳の若き青年将校山田市の姿がそこにはありました。
山田市之允一七歳の時の作品。 高杉晋作は花の二二歳。 松門の大先輩晋作が東国(江戸)に航海術を習いに行く時に 市ィーが送った餞別詩。 愉快渺茫千里游 行哉航海是良謀 知君功業回転日 應拂蛮夷略五州 注 「渺茫」広く遥かなるさま 「千里游」故郷を離れ遠くに旅立つ事 「拂蛮夷」神国日本を脅かす異敵を追い払う 「略五州」略は攻略。五州は世界五大大陸
慶応三年春、松門の大先輩「血を吐く杜鵑」 高杉晋作の死去(四月一三日)直後、京都に 偵察に上る旧盟山縣狂介に送った送別の詩。 姻霧立ち籠め 夜いまだ晴れず 且(しばらく)一献を傾け 思い出を語ろう 杜鵑啼き尽す 三更の月 血涙 千行 旧盟を送る 注 「姻霧」夕靄 「三更」真夜中。午前〇時ごろ。 「旧盟」古くからの松門の盟友。
正二位伯爵中将司法大臣山田顯義閣下が 早稲田法科を中央法科に合併させようとしていたのは 本当のようです。葭葦原の瑞穂の早稲田から交通の便のいい 神田地区に移そうとしています。 これには早稲田専門学校の教職員は猛反発しましたが、従二位伯爵大隈重信は 静観していました。実は大隈重信は山田顯義の兵は凶器なりで始まる「建軍策」を 読んで以来、ちびっこ山田顯義の隠れファンだったのです。ただ大隈が山田に 建軍策を読ませてもらいましたと山田に打ち明けたことはないようです。 山田顯義の急死によって早稲田法科の御茶ノ水移転は立ち切れになりました。 只、早稲田大学の日本大学に対する遺恨の様なものは 今も残っているんじゃぁないのかなぁ。
山田顯義(山田市之允)グループの 大学は数が途方もなく多い。 山田顯義グループは幅が広く、国立では東大の法、工学部。防衛大学。京大法。北大。 私立は日大、明治、法政、中央、関西、國學院、獨協、近畿、 学習院等の各大学が山田市之允のグループです。 慶応医学部とも間接的には縁があります。山田市は日本衛生学会会頭でした。 ヨーロッパ滞在費用の尽きた北里芝三郎の資金援助をしています。 高校では戸山高校と開成高校が山田市グループです。
靖国神社の大村益次郎の銅像の発起人は門人の山田市之允です。 山田顯義がいなければ大村益次郎の銅像建立も大村の七回忌法要も 行われませんでした。 「明治八年十一月十六日、山田顯義の宅に亡友大村益次郎の 祭事を営めり。集会するもの宍戸環、中島佐衛、吉富某なり。 大村は乙丑の歳(慶応元年)、抜いて兵事の局に用ひ、 兵制改革を任ぜり。同氏大いに勉強、西洋の法に倣ひ、 防長二州の兵制を一様になせり」。 木戸孝允(桂小五郎)が防友を 悼む鎮魂の言葉であった。大村が暗殺されて既に七年、山田顯義は 旧師の七回忌法要を自宅でいとなんだのです。
この大層立派な銅像は明治15年、靖国神社側から出たお話に 大村益次郎の1番弟子だった内務卿山田顯義が 師匠を追悼して建立したもの。 山田市之允は桂小五郎、高杉晋作、大村益次郎に 抜擢され鳥羽伏見の戦い、北越の戦い、五稜郭の戦いでも 勝ち抜いた用兵、神の如しと言われている長州藩の若きエースです。 日本軍隊のスタートも大村益次郎と山田顯義のコンビでスタートしています。 大村益次郎は兵部大輔、山田顯義は大丞の役割で日本陸軍がスタートします。 紙切れ1枚に過ぎなかった大村の懸軍策を具体化し実践したのは 山田大丞です。国民皆兵制度(徴兵令の前身)、軍旗、軍服、士官学校、教導団など 日本陸軍の基本は山田顯義の推進力によってなされています。 数年後に大久保利通が画策し、旧薩摩藩西郷兄弟と旧長州藩山縣有朋が野合し 山田顯義は日本陸軍を追い出された形になります。 なんでも鑑定団 愛のエメラルド
日大の創設者は大日本帝国陸軍の基礎をつくったわけだね。 皇室典範講究所のあたりもkwsk
美人の名産地 日本大学?? 福沢諭吉 「顕義くんおめでとう。君の大学からミス日本に続いて ミスユニバースも出したそうじゃあないの?。」 大隈重信 「顕義さんおめでとう、美人輩出だね。」 山田顕義 「皆さんのおかげです。ありがとう。 私は背も150センチ無いし、顔も黒いから 後輩が優勝するなんて、夢にも思わなかった。」 福沢諭吉 「うちの学生はブランド品には眼が無いんだが。。。 化粧が一寸濃い?。」 大隈重信 「うちの女子学生はサツマイモをぱくつきながらガニ股で? 歩いていたよ。ダッ〜サ〜イ。」
お化粧について鼎談 山田顕義「私はナチュラルでいいと思うんだよ。あとは身だしなみに 気をつければ」 大隈重信「うちの学生は身だしなみより、酒を飲んで大法螺を吹く生徒も多くてなあ まあ大勢でワイワイ騒ぐのが好きなようだな」 福沢諭吉「うちの学生はとにかくブランド品が好きだなあ^。流行にすぐ飛びつく。 「化粧も濃いいよなあ。化粧で顔が埋まってる。
大隈重信「私には一つだけ心残りがある。 それは資金難から医学部を創れなかったことだ」 山田顕義「うちのだいがくも貧乏でね。毎月の給料の支払いにも苦労しました。 うちは大学が関東大震災で全校舎壊滅した時、 当時の首脳陣は頭に来て借金で歯学部医学部を創りました。 福沢諭吉「私は経済にも医学にも関心があり私立では一番早く医学部を創りました」。 「山田君の御師匠の大村益次郎君とは大阪の緒方洪庵先生の塾で一緒に学びました」。 山田顕義「僕は後に慶応医学部の創立に関わった北里柴三郎くんが 洋行中 留学費用が足りなくなくなったとき 僕のポケットマネーから留学費用を出したことがあります」。 福沢諭吉「そうでしたか。その節はありがとう。うちの大学に山田先生の血が入っていただなんて 大変嬉しい事です」。
軍人が創設。 神道系右翼大学、日大。 − 山田顕義(日本大学創設者、軍人)− 以下、Wikipediaより ・階級は陸軍中将 ・25歳の時に戊辰戦争で討伐軍の指揮をとる。 ・幼少期の頃に「性質愚鈍、垂鼻頑獣(はなたれだるま)、ほとんど白痴の如し」といわれていた。 ・元治元年(1864年)7月、禁門の変では山崎に布陣する久坂玄瑞・真木保臣らの陣に加わったものの長州勢は敗北し、山田も長州へ落ち延びている。 ・8月、太田市之進・品川弥二郎らと御楯隊を創設し、軍監となって下関戦争で奮戦するも長州藩は敗北した。 12月、対幕府恭順論の「俗論派」による藩支配に対する高杉晋作の決起(功山寺挙兵)に参戦し勝利を収め、俗論派を排除する。 また、山田亦介が処刑され、山田は謹慎となる ・慶応3年(1867年)5月、御楯隊と鴻城隊を合体した整武隊の総管に就任。 ・慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争の発端となる鳥羽・伏見の戦いで在京長州藩兵諸隊の指揮官として、 1,000余名程の長州藩兵を率いて指揮することとなった。 新政府征討総督・仁和寺宮嘉彰親王の征討総督副参謀に命じられる。 (山田は山県に協力して、海軍の戦闘を助力した。) ・山田は「衝背作戦」を発案し実行した。この作戦のための兵士を乗せた輸送艦が柏崎に入港した7月、 越後口海軍参謀(陸軍参謀兼海陸軍参謀)に命じられる。 ・陸海軍参謀の任を解かれ、新官制(太政官制)施行による兵部大丞に就任。 ・11月には兵部少輔久我通久と連署で大村の遺策をまとめた『兵部省軍務ノ大綱』を太政官に提出した。 大村の継承者として大坂を中心とした兵部省確立に尽力する。 ・普仏戦争の観戦を強く希望するが、川村純義等他の兵部省員等も希望した為、 省務の停滞を危惧した大久保利通等の指示により許可されなかった。 ・佐賀の乱が勃発し、同職を解かれ、士族反乱鎮圧のために九州へ出張した。士族反乱は翌3月に平定。 同年7月、佐賀の乱を治めた戦功を賞され ・西南戦争勃発により、司法大輔を辞職する覚悟で単身京都に出張し、鎮圧出征を懇願する。 木戸孝允等の協力の末、別働第二旅団長として出征を命ぜられる。 同年9月、西南戦争終結し、同年11月、戦功によって勲二等を賜る。
創設者が有名な大学 日本大学(旧日本法律学校):山田顕義 148a 軍人・政治家。陸軍中将。松下村塾出身。長州藩士102石。 戊辰戦争・西南戦争など重大事件に従軍した。司法卿・初代司法相を歴任し、法典編纂に大きく寄与した法曹界の重鎮。伯爵。 多角的に日本国に貢献した彼の生き様は創設した学校にも色濃く反映されている。 早稲田大学(旧東京専門学校):大隈重信 身長不明大柄? 政治家。佐賀藩士300石。明治維新後に政府要職についたものの自己の要求を国に反映出来ず明治十四年の政変で政府を去る。 改進党結成、のちに外相として政府に戻ってくるが条約改正に失敗し、挫折。さらにその後首相になったものの目立った功績は作れなかった。 最古の政党創設者の一人なので創設した学校も政治方面には明るい。 慶應義塾大学(旧慶應義塾):福沢諭吉 173a 思想家・教育家。豊前中津藩士の子。石高不明無給?父が1歳で死去したため不明。洋楽塾で蘭学を教える。江戸幕府の使節に随行を経験。維新後は民間で塾を経営。 脱亜入欧や官民調和など主張は有名であったが政府や海外での経験は極めて希薄であった。 学校は在野人らしい創設者のハイカラな気質に強く影響を受ける。
日本史に出て来るレベルの人です。 日本最初の司法大臣です。 慶応大学の入試では山田顯義は頻出します。 初代内閣 第1次伊藤博文内閣閣僚 明治18(1885)年12月22日−明治21(1888)年4月30日 藩閥内閣(長州) 内閣総理大臣 伊藤博文 外務大臣 井上 馨 伊藤博文(臨時兼務・明20.9.17−) 大隈重信(明21.2.1−) 内務大臣 山県有朋 大蔵大臣 松方正義 陸軍大臣 大山 巌 海軍大臣 西郷従道 司法大臣 山田顕義 〇 文部大臣 森 有礼 農商務大臣 谷 干城 土方久元(明20.7.26−) 黒田清隆(明20.9.17−) 逓信大臣 榎本武揚 内閣書記官長 田中光顕 法制局長官 山尾庸三(明18.12.23−) 井上 毅(明21.2.7−)
明治天皇陛下の臨幸 文京区音羽の山田顯義伯爵別邸 明治23年6月26日午後3時、帝室制度取調べ局より 音羽の山田伯爵別邸に至る。 上、同邸へ臨幸あるを以て招待を受けて参会す。(フロックコート着用)。 各大臣、枢密顧問官及び勅任官数名、秘書官他宮内官等を合して 約百五十、六十名参会。 能楽、如燕の公演及び西某の琵琶等の余興あり。 晩餐を上(たてまつ)り各大臣及び宮内勅任官のみ陪食、 他は皆別席に於て立食の饗あり。 天機麗しく夜八時過、車駕還幸、 一同続いて退散。 是山田顕義伯爵 一代隆盛の時なり。 ※現在、音羽の山田別邸はありません。 西洋館です。施工は清水建設。 関東大地震で修復不可能なまでに損傷しました。 作家の藤枝静雄さんによりますと 大層ガッチリとした作りで感心したことがあるそうです。 現在、文京区の音羽の別荘跡地には講談社が威容を誇っています。 天皇行幸を記念して護国神社が祀られています。
日本法律学校(日大)が認可されたのは大日本帝国憲法の発布された明治22年の10月4日。 開校式は翌年の明治23年の9月21日です。東京都麹町区飯田町五丁目の皇典講究所内に 総理大臣山県有朋、司法大臣山田顯義、帝大総長加藤弘之、政府顧問ボアソナードその他、 内外の貴賓百数十名の列席を得て盛大に行われています。 開校の約3カ月前にはすでに講義は行われていて、6月26日、 明治天皇が小石川音羽の山田邸に行幸されたさい、 「其の御道筋は宮城通用門を出て右に竹橋を渡り、右に雉子橋を出て、 飯田町通り日本法律学校の前を御通行ありしとき、 同校生徒五六十名は門前に整列して拝礼をなし」たという 東京日日新聞の記事があります。 明治天皇は音羽の山田別邸に向かう前に山田顯義の開校した 日本法律学校の前をわざわざ遠回りして通っています。日大の新入生に 大歓迎されたと思います。 山田顯義は國學院と日大の創立で知られ 伊藤博文、西郷隆盛と共に 明治天皇に大変愛された将軍です。 なんでも鑑定団 愛のエメラルド
上場会社役員出身大学ランキング(2016) 1 慶應義塾大学2,278 福沢諭吉創立 2 早稲田大学1,989 大隈重信創立 3 東京大学 1,935 山田顯義系列 4 中央大学 1,090 山田顯義系列 5 京都大学 1,023 山田顯義系列 6 日本大学 721 山田顯義創立 7 明治大学 712 山田顯義系列 8 一橋大学 598 9 同志社大学533 10 大阪大学 520 11 神戸大学 432 12 関西学院大学427 13 法政大学 410 山田顯義系列 14 関西大学 405 山田顯義系列 15 九州大学 374 16 東北大学 372 17 名古屋大学349 18 立命館大学314 19 立教大学 283 20 北海道大学266 山田顯義系列 21 青山学院大学260 22 東海大学 204 23 東京工業大学190 24 横浜国立大学182 25 東京理科大学177
軍人が創設。 神道系右翼大学、日大。 − 山田顕義(日本大学創設者、軍人)− 以下、Wikipediaより ・階級は陸軍中将 ・25歳の時に戊辰戦争で討伐軍の指揮をとる。 ・幼少期の頃に「性質愚鈍、垂鼻頑獣(はなたれだるま)、ほとんど白痴の如し」といわれていた。 ・元治元年(1864年)7月、禁門の変では山崎に布陣する久坂玄瑞・真木保臣らの陣に加わったものの長州勢は敗北し、山田も長州へ落ち延びている。 ・8月、太田市之進・品川弥二郎らと御楯隊を創設し、軍監となって下関戦争で奮戦するも長州藩は敗北した。 12月、対幕府恭順論の「俗論派」による藩支配に対する高杉晋作の決起(功山寺挙兵)に参戦し勝利を収め、俗論派を排除する。 また、山田亦介が処刑され、山田は謹慎となる ・慶応3年(1867年)5月、御楯隊と鴻城隊を合体した整武隊の総管に就任。 ・慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争の発端となる鳥羽・伏見の戦いで在京長州藩兵諸隊の指揮官として、1,000余名程の長州藩兵を率いて指揮することとなった。 新政府征討総督・仁和寺宮嘉彰親王の征討総督副参謀に命じられる。 越後海域に向かった。(山田は山県に協力して、海軍の戦闘を助力した。) ・山田は「衝背作戦」を発案し実行した。 この作戦のための兵士を乗せた輸送艦が柏崎に入港した7月、越後口海軍参謀(陸軍参謀兼海陸軍参謀)に命じられる。 ・陸海軍参謀の任を解かれ、新官制(太政官制)施行による兵部大丞に就任。 長州藩少参事兼任を命ぜられる。 ・11月には兵部少輔久我通久と連署で大村の遺策をまとめた『兵部省軍務ノ大綱』を太政官に提出した。 大村の継承者として大坂を中心とした兵部省確立に尽力する。 ・佐賀の乱が勃発し、同職を解かれ、士族反乱鎮圧のために九州へ出張した。 同年7月、佐賀の乱を治めた戦功を賞され、一方で伊藤博文等の説得により、現役陸軍少将のまま司法大輔(次官)の職に就任した。 ・西南戦争勃発により、司法大輔を辞職する覚悟で単身京都に出張し、鎮圧出征を懇願する。 木戸孝允等の協力の末、別働第二旅団長として出征を命ぜられる。 同年9月、西南戦争終結し、同年11月、戦功によって勲二等を賜る。
関東の大学のローカル化がやばいな 2014年度入学 合格者(又は入学者)の都道府県別割合(数字は%) 大学発表資料。合格者は個別(全学部等を含む)+センター入試の合格者で、推薦AO、内部進学などを含まない。 大学 東京 神奈川 千葉 埼玉 茨栃群 関東計 関東以外 ○上智 43.1 20.1 10.1. 8.9 4.0 86.2 13.8 ○立教 34.9 17.0 10.8 14.5 6.0 83.2 16.8 ○青学 32.7 24.5 7.5 8.7 6.1 79.5 20.5 ●東工 39.3 18.6 7.6 6.6 4.9 77.0 23.0 ○法政 29.0 16.3 11.0 12.1 7.0 75.4 24.6 ○早稲田 36.7 16.8 7.9 8.7 4.6 74.6 25.4 ●農工 42.4 10.6 4.5. 10.5 5.7 73.7 26.3 ※特別入試を含む合格者 ○慶應 39.6 17.1 6.8 5.9 4.0 73.4 26.6 ○明治 30.3 17.9 8.7. 10.2 6.1 73.1 26.9 ●一橋 37.8 14.3 7.3 5.6 3.3 68.2 31.8 ※入学者 ○東理科 27.7 11.0 9.6 9.4 8.7 66.4 33.6 ○中央 29.5 15.1 5.9 8.7 6.6 65.8 34.2 ●千葉 18.0 3.4 26.7 6.8 9.9 64.8 35.2 ※入学者 ▲首都 31.9 15.6 2.8 6.0 6.8 63.2 36.8 ●埼玉 11.5 1.6. 4.8 27.8 12.8 58.4 41.6 ※入学者 ●東大 35.4 9.9. 3.6 3.4 3.8 56.2 43.8 ※↓ ●横国 18.6 24.1 3.3 3.5 4.9 54.5 45.5 ※入学者 ※東大は地区別の合格者数を公表し、都道府県別の合格者数を公表しないので、各県の内訳は大学通信資料で補完 注;都道府県別に含まれない「高認」「帰国」などは除いて算出
日本のナポレオン山田顕義が フランスの英雄ナポレオンを讃えた漢詩 那破列翁 何ぞ言わん 雄略 当時を圧するを 又 法章の 千載に垂るる有り 人世 無窮 青史の上 文武 古今の師たるは 文明たり 注 「那破列翁」なぽれおん 「雄略」雄大な戦略 「法章」ナポレオン法典 「千載」千年の後 「無窮」永遠 「青史」歴史
戊辰の役は五稜郭の戦いを最後にピリオドを打つんだがな。 降伏の模様は箱館政府陸軍奉行大鳥圭介の手記に詳しい。 「五稜郭を出て亀田村の陣所に赴き、長藩の参謀山田某(市之允)に面接し、 戎器を脱しいずれも轎に乗り、長州兵に護送せられて箱館に行きたり。 轎中にて四人(榎本釜次郎、松平太郎、荒井郁之助、大鳥圭介)は 必ず屠腹(切腹)ならんと考えしに、 本陣の傍らなる猪倉屋と云える町屋に誘われたり。 護衛の天兵、長兵、そのほか交代ありたれども少しも 苛酷の取り扱いなく、酒肴とも丁寧をつくされたれば、 かえって意外に出て、不思議に思うほどなり」。
宮さん宮さん(トコトンヤレ節) 作詞 品川弥二郎 作曲 大村益次郎 一 宮さん宮さん お馬の前に ひらひらするのは何じゃいな トコトンヤレ トンヤレナ あれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じゃ知らないか トコトンヤレ トンヤレナ 二 一天万乗の帝王(みかど)に 手向かいする奴を トコトンヤレ トンヤレナ ねらい外さず ねらい外さず どんどん撃ち出す薩長土 トコトンヤレ トンヤレナ 三 伏見 鳥羽 淀 橋本 葛葉の戦いは トコトンヤレ トンヤレナ 薩土長肥の 薩土長肥の 合うたる手際じゃないかいな トコトンヤレ トンヤレナ 四 音に聞こえし関東武士(さむらい) どっちへ逃げたと問うたれば トコトンヤレ トンヤレナ 城も気概も 城も気概も 捨てて吾妻へ逃げたげな トコトンヤレ トンヤレナ 五 国を追うのも人を殺すも 誰も本意じゃないけれど トコトンヤレ トンヤレナ 薩長士肥の 薩長土肥の 先手に手向いする故に トコトンヤレ トンヤレナ 六 雨の降るよな 雨の降るよな 鉄砲の玉の来る中に トコトンヤレ トンヤレナ 命惜しまず魁するのも皆御主の為故じゃ トコトンヤレ トンヤレナ
ナポレオン讃えて喜んでるところに、日大のどうしようもなさが出てるな
人のいい司法大臣山田顕義。わが国に司法制度の充実、近代化を訴え続けた。 しかし山田の実施した憲法や裁判所構成法での司法官の手厚い身分保障は 結果的に老朽化した司法官を 淘汰する事が出来ず逆に司法官の刷新、近代化の妨げになっています。 お人よしの山田顕義司法大臣が検察官らの神格化、手厚い保護。 地位を上げ過ぎた事が 現在の大阪地検の腐敗に繋がっているような気がします。 裁判官だって検察官だって同じ人間。甘やかすと腐敗します。
ナポレオン熱 「世の中の人は小ナポレオンと彼を評していました。小が付くのですが、 とにかくナポレオンで、当時、明治政府におけるナポレオン熱というのは 相当なものであり、明治天皇はもちろんナポレオン崇拝、 以下もうすべてナポレオン崇拝でありまして、山田先生もやはり ナポレオン崇拝でありました」 シリーズ 学祖・山田顕義研究3 高梨公之氏談 流行りのナポレオン熱 「世にもまれなる ひとにもあるかな」 独逸一辺倒だったと思われている陸軍山縣有朋も 和歌の中でナポレオンを讃える。 「那破翁を」 向ふ仇 やぶらぬかたは なかりけり 世にもまれなる ひとにもあるかな
みなさんは小唄の「かざをりえぼし」はご存知ですか? 岐阜の長良川鵜飼を題材に明治の元勲山田顕義伯爵 (法典整備や日本大学・国学院大学の創設者として活躍)が 明治天皇に長良川の鮎を献上した際の感激を詞にしたもので、 夏になると岐阜では座敷舞として唄い続けられた風雅な曲なのです。 幕末、山田市之允は小舟の中で明治天皇の叔父さんの中山忠光卿から 小っちゃい瓢箪をプレゼントされますが、岐阜の長良川の 鵜飼いでは明治天皇に デッカイ?鮎を献上しています。
小唄 「風折烏帽子」 風折烏帽子 腰蓑つけて 清き流れの長良川 流れ尽きせぬ幾千代かけて 君に捧げん鮎の魚 船端叩いて ほーほーほっ 【解説】 清元お葉作曲 明治二十三年九月、司法大臣山田顕義が、岐阜県長良川の鵜飼に遊んだ時に作詞したものである。 「君に捧げん鮎の魚」とあるのは、延喜十一年(九一一)美濃の国司藤原利仁が勅を承って 干鮎を醍醐天皇に献じて以来 ずっとこれが習いとなり毎年鮎を宮中に献じていることを唄ったもの。 「流れ尽きせぬ幾千代かけて」は、長良川の水と、君に捧げんとの両方にかけた言葉である。 「ほーほーほっ」は鵜をはげますために、船側を叩いて声をかけるさまを唄ったものである。 風折烏帽子=烏帽子の一種。立烏帽子の先を折伏せた形のもの。 腰蓑=腰にまとう短い蓑 (小唄鑑賞 木村菊太郎著より)
軍人が創設。 神道系右翼大学、日大。 − 山田顕義(日本大学創設者、軍人)− 以下、Wikipediaより ・階級は陸軍中将 ・25歳の時に戊辰戦争で討伐軍の指揮をとる。 ・幼少期の頃に「性質愚鈍、垂鼻頑獣(はなたれだるま)、ほとんど白痴の如し」といわれていた。 ・元治元年(1864年)7月、禁門の変では山崎に布陣する久坂玄瑞・真木保臣らの陣に加わったものの長州勢は敗北し、山田も長州へ落ち延びている。 ・8月、太田市之進・品川弥二郎らと御楯隊を創設し、軍監となって下関戦争で奮戦するも長州藩は敗北した。 12月、対幕府恭順論の「俗論派」による藩支配に対する高杉晋作の決起(功山寺挙兵)に参戦し勝利を収め、俗論派を排除する。 また、山田亦介が処刑され、山田は謹慎となる ・慶応3年(1867年)5月、御楯隊と鴻城隊を合体した整武隊の総管に就任。 ・慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争の発端となる鳥羽・伏見の戦いで在京長州藩兵諸隊の指揮官として、1,000余名程の長州藩兵を率いて指揮することとなった。 新政府征討総督・仁和寺宮嘉彰親王の征討総督副参謀に命じられる。 越後海域に向かった。(山田は山県に協力して、海軍の戦闘を助力した。) ・山田は「衝背作戦」を発案し実行した。 この作戦のための兵士を乗せた輸送艦が柏崎に入港した7月、越後口海軍参謀(陸軍参謀兼海陸軍参謀)に命じられる。 ・陸海軍参謀の任を解かれ、新官制(太政官制)施行による兵部大丞に就任。 長州藩少参事兼任を命ぜられる。 ・11月には兵部少輔久我通久と連署で大村の遺策をまとめた『兵部省軍務ノ大綱』を太政官に提出した。 大村の継承者として大坂を中心とした兵部省確立に尽力する。 ・佐賀の乱が勃発し、同職を解かれ、士族反乱鎮圧のために九州へ出張した。 同年7月、佐賀の乱を治めた戦功を賞され、一方で伊藤博文等の説得により、現役陸軍少将のまま司法大輔(次官)の職に就任した。 ・西南戦争勃発により、司法大輔を辞職する覚悟で単身京都に出張し、鎮圧出征を懇願する。 木戸孝允等の協力の末、別働第二旅団長として出征を命ぜられる。 同年9月、西南戦争終結し、同年11月、戦功によって勲二等を賜る。
2016年公務員就職ランキング。やりました、日大がブッチギリのトップです。 1位日本大学 計920人(国82地方838人)、2位立命館 計699人(国116、地583人) 3位早稲田 計692人 国148地544人、4位金沢大 計623人 国228人地395人 5位中央大 計623人 国125地498人、6位広島大 計595人 国112人地483人 12位法政大 計483人 国59地424人、16位明治大 計419人 国89地370人 84位青山 計158人 国28地130人。 日大生は地味だけど、皆んなしっかり勉強しているんだよ。誰にも受けるとは 言わずにこっそりとね。公共政策学科は別だけど。 ※一つ訂正。山田市は子供のころ木の上からおしっこをしたんだが 桜の木の上ではなくて梅の木でした。
>>54 うちも山田系列かよ 外して欲しいな 山田なんて格好悪いわ 勤皇の大義 慶応三年十月二十六日、薩長同盟を既に結んでいた長州藩は出兵を完了。 二十三歳の山田顕義はお世話になった大先輩の桂小五郎に向けて 「発するに臨み、再開期し難く、情緒万端墨あに之を尽くさんや」 と覚悟。 十月、長州軍は三田尻に集合、出陣式が行われ毛利内匠が軍令を読み上げ 山田顕義に軍を指揮する武刀が渡され、軍は船に乗り込んだ。 山田顕義は徳川軍相手に勝てるとは思っちゃあいなかったんだな。 鳥羽伏見で負ければ幼い明治天皇をおんぶして山陰道を逃げる算段をしています。 「勤皇の大義」この一言の為に、長州藩サムライは一つしかない命を投げ出した。
>>72 戦争とは言え、人殺しが大学創設とは。。 山田顯義ほど戦争が嫌いだった人物はいませんよ。 兵は凶器なりと断言し、我が国を法事国家と教育国家に しようとしたんです。軍事を法律と教育の下に 置いたんです。山田市は軍人の恩給制度の推進者でもあるんだが 困窮した軍人の遺族を思うと いてもたってもいられませんでした。 米欧亜回覧ニュース 第76号・部会報告 (2014年10月15日) ◇小ナポレオンといわれた男 山田顕義(講師:泉三郎氏) 6月23日開催。 岩倉使節団には未だ知られざる人物が少なからずいるが、山田顕義もその一人である。 幕末の戦争で武勲を挙げ、用兵の奇才といわれ、大村益次郎を継承する人物と嘱望されたが、 山縣有朋が軍政の主導権を握り、傍流を歩むことになる。 当時は28才であったが、陸軍少将の地位にあり兵部省派遣の理事官として 岩倉使節団に参加することになる。 幕末以来陸軍はフランスの指導を受けていたので、山田もパリを拠点にして学び、時に欧州各地を巡覧しながら 軍事視察に精励した。使節団がパリを訪れたときは、木戸孝允との交流が殊の外密で、 思想的にも心情的にも共鳴するところが多かったようだ。 そのため木戸の旅行先にもしばしば出向いて交歓している。 山田は軍事天才として民法典の編纂者ナポレオン1世を崇拝し、 これからは「武の時代ではなく法の時代だ」と、 法に関心の重点を移していく。小柄ながら才気縦横で小ナポレオンとも渾名された。
帰国後、1万5000字からなる建軍策を提出したが、そこには次のような文章がある。 「兵何を以て至要なるや。兵は凶器なり。而して能く巨万の金額を費やし、人民を労し、少壮の事業を妨げ、 その学問を礙し、その性を障害し、その才を束縛し、その刑罰を厳酷にし、或いはまた醜業に慣習し、密陰を盛んにし、 梅毒を繁殖す。しかるにいわんや大砲銃諸器も上は頂上より下は跛底まで、人体軍用諸物、ことごとく皆外国に仰ぐに於いておや ―中略―今日、文明の世に於いて無用なるものは兵か。しからず兵は抵抗の器なり。人抵抗の気あれば武勇なかるべからず。 また軍事なかるべからず。 人生欠くべからざるものは、文武なり。国また然り」
この建言書は明治国家の形成には取り入れられず、「幻の建白書」といもいわれている。 山田は「兵を敵対抵抗の器なり」とし、必要悪としての軍隊の本質を衝き、徴兵制についても 教育を先にする漸進論を掲げ、山縣の進める徴兵制に異を唱えた。 その結果、山田は司法畑に転じ、伊藤の組閣した内閣では初代司法大臣に就任、 その後四代の総理大臣の下で八年にわたり大臣の職にあり民法、商法の整備に挺身した。 また、一方で教育に力を尽くし、日本法律学校(日本大学の前身)や國學院大學の創立にも関与した。 教育重視の面でも木戸の衣鉢を継いだといえる。その思想の根底には、自然の摂理を尊ぶ 「天地生成の意」の思想があった。視察先の生野銀山で卒倒し急死、49才だった。
長州の麒麟児高杉晋作は29歳で花の人生を終了。 枕もとで跡継ぎに誰を指名するかで注目されたんだが、 「大村益次郎に」という高杉晋作の遺言。さらに大村の後は誰にと 畳みかけると「山田市之允」との回答。 ●残念ながら山縣有朋さんのお名前は出ませんでした。 山縣さんは高杉さんにはケチョンにされましたが大西郷とタッグを組んで 日本軍隊の乗っ取りに成功しました。有朋は苦労した分 人の顔色を読み取るのが旨い。でもなぁ、山縣さんが日本軍隊を 乗っ取ったおかげで最後は軍部が増長。勢い余り天狗の鼻になった 大日本帝国軍人は太平洋戦争を引き起こしました。全滅だとよ(笑)
軍人が創設。 神道系右翼大学、日大。 − 山田顕義(日本大学創設者、軍人)− 以下、Wikipediaより ・階級は陸軍中将 ・25歳の時に戊辰戦争で討伐軍の指揮をとる。 ・幼少期の頃に「性質愚鈍、垂鼻頑獣(はなたれだるま)、ほとんど白痴の如し」といわれていた。 ・元治元年(1864年)7月、禁門の変では山崎に布陣する久坂玄瑞・真木保臣らの陣に加わったものの長州勢は敗北し、山田も長州へ落ち延びている。 ・8月、太田市之進・品川弥二郎らと御楯隊を創設し、軍監となって下関戦争で奮戦するも長州藩は敗北した。 12月、対幕府恭順論の「俗論派」による藩支配に対する高杉晋作の決起(功山寺挙兵)に参戦し勝利を収め、俗論派を排除する。また、山田亦介が処刑され、山田は謹慎となる ・慶応3年(1867年)5月、御楯隊と鴻城隊を合体した整武隊の総管に就任。 ・慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争の発端となる鳥羽・伏見の戦いで在京長州藩兵諸隊の指揮官として、1,000余名程の長州藩兵を率いて指揮することとなった。 新政府征討総督・仁和寺宮嘉彰親王の征討総督副参謀に命じられる。 ・山田は先年にイギリスで完成した長州藩の艦艇、第一丁卯に乗船を命じられ、5月に薩摩艦「乾行丸」、筑前艦「大鵬丸」も同行し馬関(現下関)を出発。越後海域に向かった。(山田は山県に協力して、海軍の戦闘を助力した。) ・山田は「衝背作戦」を発案し実行した。この作戦のための兵士を乗せた輸送艦が柏崎に入港した7月、越後口海軍参謀(陸軍参謀兼海陸軍参謀)に命じられる。 ・陸海軍参謀の任を解かれ、新官制(太政官制)施行による兵部大丞に就任。長州藩少参事兼任を命ぜられる。 ・11月には兵部少輔久我通久と連署で大村の遺策をまとめた『兵部省軍務ノ大綱』を太政官に提出した。大村の継承者として大坂を中心とした兵部省確立に尽力する。 ・同じ長州出身の前原一誠、山田らが国軍の建設を進めようとしたが、省内の統制がとれず、仕事が停滞していた。 ・普仏戦争の観戦を強く希望するが、川村純義等他の兵部省員等も希望した為、省務の停滞を危惧した大久保利通等の指示により許可されなかった。 ・佐賀の乱が勃発し、同職を解かれ、士族反乱鎮圧のために九州へ出張した。士族反乱は翌3月に平定。同年7月、佐賀の乱を治めた戦功を賞され、一方で伊藤博文等の説得により、現役陸軍少将のまま司法大輔(次官)の職に就任した。 ・西南戦争勃発により、司法大輔を辞職する覚悟で単身京都に出張し、鎮圧出征を懇願する。木戸孝允等の協力の末、別働第二旅団長として出征を命ぜられる。同年9月、西南戦争終結し、同年11月、戦功によって勲二等を賜る。
大津事件の主役たちの年齢をみると面白い事が分かりました。 一番の高年齢は児島惟謙で54歳。 山縣有朋が53歳。伊藤博文が50歳。 山田顕義と陸奥宗光が47歳。 西郷従道が46歳。 明治天皇は僅か39歳です。 老朽化?した司法官が国難を背に、右往左往する若い政治家たちを前に 年寄りの冷や水(智慧?)、頑固一徹の姿勢を見せたのが 大津事件と言えそうです。
山田顕義司法大臣も本当に困っちゃったよねえ。山田は司法大臣として 早くから裁判所構成法の制定にも関わり 同法草案の第一条に 「裁判所は独立にして法律以外の権力に服従すること無し」 「若し構成法に於て 此の一条を欠くときは憲法の精神を全うし難し」と述べさらに 大審院長の身分を親任官にしようとするなど裁判官の地位向上に大変に熱心です。 山田は内閣の一員という立場上、内閣と裁判官の間で苦慮しています。 児島惟謙大審院長もこの点はよく分かっていたとみえ、 山田法相を評して 「正義を知りて、然かも之に背馳せる方向に走らざるを得ざるに至りては、 人間、閣臣となる、亦難いかな。」と同情的です。
大津事件で一番、活躍したのは、山田顕義先輩です。 明治24年、巡査津田三蔵がロシア皇太子を傷つけた、いわゆる大津事件で 一番活躍したのは、山田顕義先輩です。日大生にはおなじみの人かナ。 山田司法大臣は、内閣員の一人として国家の立場で、又、民法、商法などを編纂した 司法の立場で、又、軍人としての立場で、大津事件の主役として登場します。 老害の大審院長児島惟謙は、裁判官に介入し、司法官として絶対に許されない行為に 出たのに対し、山田司法大臣は裁判官に任せる他になかるべしと、裁判官の自主性を尊重 しています。 山田が法律と国家の狭間で、苦慮しているのは事実です。国家の徳義上の責任もあります。 警備の不手際は、安全を保障した、日本政府の大失態でした。 又、軍人として、万が一戦争になった場合の、近代化の遅れている貧弱な海軍力を心配 しています。約10年前、薩摩主導の海軍は、木造の軍艦造りを計画、大量の木材を横須賀に集めて います。近代化の遅れを長州派の山田顕義、伊藤博文、山縣有朋がカンカンに怒って、 川村純義海軍卿の更迭を画策しています。 結局この件は、Kが山田に土下座!!することで決着しました。
護法の神様、山田顕義伯爵 アレ−。護法の神様は、大審院長児島惟謙ではなかつたのと驚かれる人も多いかと思います。 でも実は司法大臣山田顕義の方が、より護法の神様にふさわしいと思います。 山田は司法権の独立の向けて、20年にも及ぶ長い期間、民法、商法、裁判所構成法等の 諸法典を整備した事で知られています。弁護人制度の実施をした事でも知られていますが、 裁判官の地位向上に向けても努力を惜しみませんでした。 山田は大雪の日でも真夜中でも、1日も弛まずヤリマショウ-と声をかけ、法律を整備しています。 来日したロシア皇太子を日本の巡査が傷つけた大津事件で、勇み足と言うべきか、 あろう事に、大審院長児島惟謙は裁判官に介入し、司法権の独立を危うくしています。 一方、山田顕義は裁判官の為すに任せる他なかるべしと裁判官に一任しています。 山田は裁判官の自主性を尊重しているのです。 児島のいい所は溢れるような情熱、欠点は自分を正当化し手柄を全部自分の物のしようとする悪癖です。 山田さんは言われるまでもなく司法権の独立に向けて努力してきたのです。 関西大学の開校の時も児島は功を独り占めしようとした事があります。 関大の認可においては山田顕義も色々と骨折りしています。 司法大臣や政府の肝いりで出来たのが関西大学です。 日本大学や国学院大学と関西大学は兄弟校という事になります。 山田も児島も法律の整備、充実、司法権の独立に向けて努力しました。 新政府一丸となり、外国に負けない近代法へと努力した結果、護法の神様が誕生したのです。
人のいい司法大臣山田顕義。わが国に司法制度の充実、近代化を訴え続けた。 しかし山田の実施した憲法や裁判所構成法での 司法官の手厚い身分保障は 結果的に老朽化した司法官を 淘汰する事が出来ず逆に司法官の刷新、近代化の妨げになっています。 >大津事件で一気に名を挙げた児島惟謙だが翌年には司法部内の大不祥事が発覚、 大問題に。 こともあろうに児島惟謙を含む大審院の判事らが花札とばくをやっていたと云うもの。 この弄花事件に明治の元勲伊藤博文が痛く御立腹。現在の相撲パッシングのような様相に。 児島惟謙はこの花札に対しては慰み物の様なもの、金額も少量だしといった姿勢。 ここで児島惟謙は、大審院長辞任の政府部内の要請になかなか応ぜず大醜態を晒す。 維新のどさくさで学問も満足になく、理屈をこねる偏屈もの。 児島惟謙は大津事件でも得意のハッタリで若い大臣たちを翻弄します。 伊藤博文らは帝大出で洋行帰りの若い法律家に切り替えたかったのかな。 老朽化した司法官ほど始末に負えるものはない。みっともない。
山田市15歳の時の作品。久坂は花も恥じらう19歳。 久坂玄瑞(実甫)が東武(江戸)に行くを送る 君今鞭打って去る。去きて何れの時にか帰らん。 東海妖氛暗く 芙蓉(富士山)独り巍々たり。 長剣腰下に鳴り、易水壮士の志。 決然たり丈夫の別れ、また千古の思いを為す。 行程(道中)君自愛せよ。浙々として寒風吹く
「福島 懐世良修蔵」 誓将隻手當千兵 孤剣揚揚入磐城 遺恨隈川一條水 猶為憤怒𠮟咤聲 注 「隻手」 片手 「磐城」 会津若松城。鶴ヶ城 「遺恨」 恨みを残す 「隈川」 阿武隈川 「憤怒𠮟咤」 憤り頂点に達し叱りつける
ポンキンカンはいずれも山田顕義グループ。 國學院や独協大学、法政大学、明治大学もやっぱ山田顕義系列。 東京大学法学部・工学部、京都大学法学部、北里大、北大も山田顕義ぐるーぷ。 慶應大学医学部、学習院大学、皇学館、中央大学も山田顕義の御仲間。 山田顕義は長州藩の松下村塾に学んでいます。 慶応大、早稲田大とキリスト教系列を除いて 歴史の或る殆どの大学は 吉田松陰の影響を受けていると言えます。
日本大学 創立者 山田顕義 松下村塾出身 戊辰戦争陸海軍参謀 東京鎮台司令長官清国特命全権大使 司法大輔参議工部卿 陸軍中将司法大臣枢密顧問官正二位勲一等伯爵 初代校長 金子堅太郎 大日本帝国憲法起草者 ハーバード大学卒 東京帝国大学初代行政法講座担当者 司法大臣 農商務大臣枢密顧問官 従一位大勲位伯爵 第二代総長 平沼騏一郎 検事総長 大審院長 司法大臣 枢密院議長 内閣総理大臣 内務大臣 正二位勲一等男爵 華麗すぎる経歴の日大の創立者たち >>>建学の歴史(笑) 建学の歴史がことさら立派だと主張すればするほど、そのあとを引き継いだ連中が よっぽどナンだったんだろうとw なにしろ山田顕義が「東京大学も慶応義塾も五大法律学校も、どれもたいしたこと 無いから、余が直々に学校をつくる」と大風呂敷を広げて鳴り物入りで作ったのが 日大なのに、それが一番たいしたこと無かったwww
― 日本大学理事長 田中英寿 ― ・国から100億の助成金をもらいながら、ふんだんに金を使いまくり、JOCのナンバー2までやっている ・黒い交際(これのおかげか国も政治家もマスコミも手出しできない模様) 左:日本大学の田中英寿理事長兼日本五輪委員会(IOC)副会長 右:六代目山口組司忍組長 左:二代目弘道会初代佐々木一家の山本岩雄総長(故人) 右:日本大学の田中英寿理事長 左:日本大学の田中英寿理事長 左から2番目:日本大学理工学部の現事務局長の加藤和英 左から3番目:住吉会福田晴瞭元会長 真っ黒、日大。 田中英壽 日本大学現理事長、JOC副会長 ・許永中氏の問題 ・大相撲賭博問題 ・相撲世界選手権青森大会の公費流用問題 ・暴力団の交遊使用問題 ・暴力団の偽装診断書を作成し謝礼を貰った問題 ・裏入学で学生を入れ手数料を貰った問題 ・読売新聞がスクープ(田中英壽理事長が業者から500万円貰った話)したのは事実だったっけど、広告とオフィシャルスポンサーの引き換えに和解した問題 ・ファクタが2億4000万円の損害賠償(名誉棄損)で訴えながら、判決が140万円(0、5%以下の名誉棄損・典型的な恫喝訴訟)だった問題 ・暴力団との写真の真贋問題 ・100億円の助成金が国から出てるのに不透明な使用問題等。 敬天新聞 http://brog.keiten.net/?cid=33100 現代ビジネス ニュースの真相 日大理事長兼JOC副会長と山口組組長の写真が海外メディアで報じられ、下村文科相が調査を約束 http://gendai.ismedia.jp/articles/premium01/43023 日大理事長と山口組6代目の親密写真 1枚の写真が波紋を広げている。 どこかのクラブで撮られた写真で、左に座っているのが日本大学の田中英寿理事長。 右のノーネクタイのスーツ姿が山口組6代目の司忍(本名・篠田建市)組長である。 暴力団排除の気運のなか、親密交際を示すような写真が流出するのは致命的である。 まして日大は、大学院から付属幼稚園まで10万人に迫る在校生を抱える日本最大の大学グループ。 大学単体で年間約100億円の私学助成金を受け取っている。 そのトップである理事長には、高い倫理性と社会性が求められている。 実は、このツーショット写真が流出したのは昨年9月頃だが、両者への確認が難しいのと、後述する襲撃事件によって、入手したマスコミは公表を手控えていた。 それを掲載したのは、米を中心とするネット雑誌だった。 以降、「日大・田中と山口組トップ」の関係が、もやもやした形で伝えられていたのだが、4月15日、東京オリンピックに絡めて、国会で取り上げられた。 衆議院文部科学委員会で、この問題を質したのは維新の党の牧義夫代議士。 牧氏は、東京オリンピックにおける日本オリンピック委員会の役割を確認したうえで、副会長である田中理事長の疑惑に切り込んだ。 問題としたのは、次の2点である。 ひとつは、『読売新聞』(2013年2月1日付)が社会面トップで取り上げた受注業者からのキックバックについて。 記事によれば、田中理事長は、12年までの約6年間に、日本大学の工事を受注している建設会社から計5百数十万円を受け取っていたという。 金額は1回あたり10万円前後で50回以上。 この建設会社は、大学施設の解体、内装、修繕や学生寮の新築などの工事を直接、もしくはゼネコンなどの下請けで受注。 受注件数は、12年4月までの5年間で約150件、受注総額は20数億円に上っていた。 牧氏が、「文科省は事実確認をしたのか」と、質したところ、答弁に立ったスポーツ青年局長は、大学側の第三者委員会の調査結果は、「工事発注に伴う謝礼ではないということだった」と、答弁した。 「御楯武士数え歌」 作詞久坂玄瑞 一つとや、卑き身なれど武士は、皇御軍の楯じゃな、これ御楯じゃな。 二つとや、富士の御山は崩るとも、心岩金砕けやせぬ、これ、砕けやせぬ。 三つとや、御馬の口を取直し、錦の御旗ひらめかせ、これ、ひらめかせ。 四つとや、世のよし悪しはともかくも、誠の道を踏むがよい、踏むがよい。 五つとや、生くも死ぬるも大君の、勅のままに随はん、なに、そむくべき。 六つとや、無理なことではないかいな、生きて死ぬるを嫌ふとは、これ、嫌ふとは。 七つとや、なんでも死ぬる程なれば、たぶれ奴ばら打倒せ、これ、打倒せ。 八つとや、八咫の烏も皇の、御軍の先をするじゃもの、なに、をとるべき。 九つとや、今夜も今も知れぬ身ぞ、早く功をたてよかし、これ、おくれるな。 十とや、遠つ神代の國ぶりに、取つて返せよ御楯武士、これ、御楯武士。 〇御楯武士[編集] 文久2年(1862年)3月 久坂玄瑞が尊王の思いを綴った数え歌 久坂玄瑞 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E5%9D%82%E7%8E%84%E7%91%9E 軍人が創設。 神道系右翼大学、日大。 − 山田顕義(日本大学創設者、軍人)− 以下、Wikipediaより ・階級は陸軍中将 ・25歳の時に戊辰戦争で討伐軍の指揮をとる。 ・幼少期の頃に「性質愚鈍、垂鼻頑獣(はなたれだるま)、ほとんど白痴の如し」といわれていた。 ・元治元年(1864年)7月、禁門の変では山崎に布陣する久坂玄瑞・真木保臣らの陣に加わったものの長州勢は敗北し、山田も長州へ落ち延びている。 ・8月、太田市之進・品川弥二郎らと御楯隊を創設し、軍監となって下関戦争で奮戦するも長州藩は敗北した。 12月、対幕府恭順論の「俗論派」による藩支配に対する高杉晋作の決起(功山寺挙兵)に参戦し勝利を収め、俗論派を排除する。また、山田亦介が処刑され、山田は謹慎となる ・慶応3年(1867年)5月、御楯隊と鴻城隊を合体した整武隊の総管に就任。 ・慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争の発端となる鳥羽・伏見の戦いで在京長州藩兵諸隊の指揮官として、1,000余名程の長州藩兵を率いて指揮することとなった。 新政府征討総督・仁和寺宮嘉彰親王の征討総督副参謀に命じられる。 ・山田は先年にイギリスで完成した長州藩の艦艇、第一丁卯に乗船を命じられ、5月に薩摩艦「乾行丸」、筑前艦「大鵬丸」も同行し馬関(現下関)を出発。越後海域に向かった。(山田は山県に協力して、海軍の戦闘を助力した。) ・山田は「衝背作戦」を発案し実行した。この作戦のための兵士を乗せた輸送艦が柏崎に入港した7月、越後口海軍参謀(陸軍参謀兼海陸軍参謀)に命じられる。 ・陸海軍参謀の任を解かれ、新官制(太政官制)施行による兵部大丞に就任。長州藩少参事兼任を命ぜられる。 ・11月には兵部少輔久我通久と連署で大村の遺策をまとめた『兵部省軍務ノ大綱』を太政官に提出した。大村の継承者として大坂を中心とした兵部省確立に尽力する。 ・同じ長州出身の前原一誠、山田らが国軍の建設を進めようとしたが、省内の統制がとれず、仕事が停滞していた。 ・普仏戦争の観戦を強く希望するが、川村純義等他の兵部省員等も希望した為、省務の停滞を危惧した大久保利通等の指示により許可されなかった。 ・佐賀の乱が勃発し、同職を解かれ、士族反乱鎮圧のために九州へ出張した。士族反乱は翌3月に平定。同年7月、佐賀の乱を治めた戦功を賞され、一方で伊藤博文等の説得により、現役陸軍少将のまま司法大輔(次官)の職に就任した。 ・西南戦争勃発により、司法大輔を辞職する覚悟で単身京都に出張し、鎮圧出征を懇願する。木戸孝允等の協力の末、別働第二旅団長として出征を命ぜられる。同年9月、西南戦争終結し、同年11月、戦功によって勲二等を賜る。
山田市15歳の時の作品。久坂は花も恥じらう19歳。 久坂玄瑞(実甫)が東武(江戸)に行くを送る 君今鞭打って去る。去きて何れの時にか帰らん。 東海妖氛暗く 芙蓉(富士山)独り巍々たり。 長剣腰下に鳴り、易水壮士の志。 決然たり丈夫の別れ、また千古の思いを為す。 行程(道中)君自愛せよ。浙々として寒風吹く 〇禁門の変 久坂玄瑞も入江九一も早死にだよなぁ。山田顯義は漸くの事で 蛤御門から逃げ出し、西本願寺で品川弥二郎らと坊主頭になり 新選組らの追撃を辛くも逃れ 托鉢をしながら長州に逃げ帰ったそうです。 そのわずか数年後、長州軍を率い三田尻から 東征先発部隊の諸隊総指揮官として、7隻の軍艦を率いて 海路上京するなんて山田市之允(顯義)でも夢にも思っていなかったと 思うけどなぁ 〇鳥羽伏見の戦い前夜 長州軍の東征先鋒部隊は、諸隊総督毛利内匠(右田毛利家)、参謀国貞直人・ 小田村素太郎(楫取素彦)、諸隊総指揮山田市之允、参謀片野十郎で 奇兵隊一中隊、遊撃隊一中隊、膺懲隊一小隊、整式隊一中隊、鋭武隊、振武隊、 第二奇兵隊一中隊、右田毛利家兵一中隊から編成されていた。 慶応3年11月25日早朝、この先鋒部隊は全軍三田尻の鞠府の松原に終結する。 そして総督より軍令を伝えられ、八咫鳥神社において戦勝祈願を行った後、 7隻の軍艦に分乗して海路、上京の途につくことになった。 戦勝祈願には藩主父子も木戸孝允・御堀耕助を従えて参列し、式刀を 山田市之允に授けた。
兵は凶器なり 1 山田顯義 対 山県有朋 山田顯義が欧米使節団に随行すると決定した時、兵部大輔に 就任したのは山県有朋である。これ以後山県は陸軍のすべてを掌握した。 廃藩置県に伴い各藩独自の軍備は解除され、軍備一切は 中央政府が統帥することになった。 中央政府は、暫定措置として鹿児島、山口、高知の三藩兵で皇居守備隊を組織し、 兵部省管轄とした。これは過渡的な措置であり、いずれはよりふさわしい 制度を実施する方針であった。新しい兵制の実行に当たって一番大きな問題は、 兵士をどう集めるかということであった。 一つは従来の各藩藩士を登用して統一軍隊を作るか、あるいは国民一般から 壮丁を募集する志願兵として訓練するか、または国民皆兵つまり 国民の義務としての徴兵制を取るかの三点であった。 大村益次郎亡き後、兵制の整備に取り組んできたのは、山県有朋、山田顯義、それに 西郷隆盛の弟西郷従道であったが、長州藩で諸隊の結成とその活躍に自ら参加してきた 山田顯義は、当初はむしろ徴兵制度を積極的に進めようという意向であった。 山田顯義らが欧米に渡航した後、その留守中に山県有朋は国民皆兵の 方針を強力に推し進めた。 したがって、山田顯義が海外調査研究を終わって帰国した時は、山県有朋によって 兵制改革は着々と進み、大阪に置かれた軍事施設はほとんどが東京に移され、 徴兵制度も明治5年(1872)11月9日に公布され、実施直前であった。
兵は凶器なり 2 山田顯義 対 山県有朋 山田顯義が海外調査研究を終わって帰国した時は、山県有朋によって 兵制改革は着々と進み、大阪に置かれた軍事施設はほとんどが東京に移され、 徴兵制度も明治5年(1872)11月9日に公布され、実施直前であった。 帰朝した山田顯義は、直ちに山県初め政府要人に徴兵実施の延期を進言した。 松下村塾以来の同志であり、一緒に兵制改革に携わってきた顯義の 反対意見に山県有朋は驚いた。 山県有朋の方針は、いわゆる「富国強兵」思想であった。アジアの情勢を厳しく見つめ、 特にロシアの南下政策などを考えれば、日本はそれに対抗し得る戦力を備えなければ ならない。したがって、すべての政策に優先して軍備を整える必要があり、そのため 国民皆兵に基づく徴兵制度を急がなければならない、というものであった。 これに対して山田顯義の意見は、 「軍備は皇室をお守りし、国土を保全し、人民の安全を図る一道具に過ぎない。 皇室の守護、国土の保全、人民の安全確保は、国の法律の整備、教育の拡充、その他すべての 政策によってなされるものであって、軍備のみに頼るべきではない」と いうものであった。 その軍備にしても、徴兵制が先にあるのではなく、「下士官堅牢ならざれば千万の兵も 寸用をなす能わず(しっかりした下士官の養成を先行しなければ、 兵をいくら数多く集めても十分な役には立たない)」と言う。 国民の普通教育の充実を先にして、その過程で多少の兵式訓練を 施すならば、徴兵の営内訓練は短期間に行うことができる、という 意見もあった。
兵は凶器なり 3 山田顯義 対 山県有朋 山田顯義の徴兵実施延期論は、「兵何を以て 国家に至要なるや。兵は凶器なり、 ・・・・」で 始まっている。中国の古典「呂氏春秋」には「およそ兵は天下の凶器なり」、 そして「史記」にも「怒りは逆得なり、兵は凶器なり、争いは末節なり」と ある。「老子」にも「兵は不詳の器なり」という似た表現がある。 「兵」とは、武器あるいは武器を取る人間を指すものだが、このことから 軍事や戦争を指すようになった。二千年以上も前の春秋時代から 「兵は凶器」とか「兵は不詳の器」という考え方が常識的であった。 したがって、兵法書「孫子」にある「百戦百勝は善の善なるものにあらず。 戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」という名文句も 生まれたのであろう。これらはすべて、「戦争は本来避けるべきものなのだ」と いう古人の英知の表れである。
兵は凶器なり 4 山田顯義 対 山県有朋 山田顯義は自分の建白書の冒頭に、あえて中国古典に見られるこの 文句を置いた。ここに顯義のヨーロッパでの研究の成果と共に、 日本の行く末に寄せる思いがうかがわれる。 山県有朋は足軽以下の身分の出身で幼い時から苦労して育った。 吉田松陰の門下生としての期間は短く、 松陰の精神を自分の血肉としていたとは言えない。 したがって、吉田松陰の嫌う功名心が人一倍強く、 出世主義者であったことは、 すでにいろいろなところで語られている。 山県有朋は異常な執念をもって、維新の兵制を統一するために全身の精力を 傾けていた。大村益次郎が兵制の大枠を構想し、山田顯義がその基礎を構築した。 それを継承して発展させたものではあったが、山県有朋は自分なりの方針も 存分に盛り込んできたのである。
兵は凶器なり 5 山田顯義 対 山県有朋 山田顯義の意見に木戸孝允が支持を表明した。山県有朋は木戸や顯義の 説得に奔走した。山県有朋は生涯を軍事軍政に捧げる強い意志を持っていた。 山田顯義にしても、軍部が紛糾することは絶対に避けなければならないと思った。 そして何よりも山田顯義は、それほど軍事軍政に対する執着はなく、 むしろ日本の近代化を促進する課題として、法制の整備に対する熱意と 教育制度の拡充に寄せる関心が強かったのである。 つまり、この時、山田顯義が一番言いたかったのは、国家の存在を主張する 軍備も大切だが、今の日本には、その前に法律法制の整備、対等外交、 国民教育など、緊急にやらなければならない課題がたくさん あるということだった。 11月24日、山田顯義は特命全権大使(当時の名称は公使)として、清国北京在勤を 命ぜられ、事実上兵部省を遠ざけられる。この北京派遣に山田顯義は反発し、 「帰朝後、いまだ欧米視察による軍事問題の報告書をまとめ得ぬ時期の 辞令に当惑千万なり」と、伊藤博文に書簡で伝えている。 この時期、山田顯義は健康状態も十分ではなかった。しかし、翌年 佐賀の乱が起こり、この乱の平定のため九州出張を命ぜられ、 特命全権大使を免じられた。 「日本大学学祖 山田顕義」夏井満 パナ出版企画
隠岐西郷湾の海戦 明治元年、山陰松江藩は隠岐島の勤皇派を弾圧。弾圧された勤皇派は直ちに毛利藩に急報。 藩主毛利敬親は丁卵艦艦長山田市之允(顕義)を喚び、 北陸への軍旅の途上、一旦艦を隠岐へと回航させ、この島の 紛争処理を命じた。 松江藩は勤皇派を徹底弾圧するために、軍艦第二八雲丸に軍兵を満載 空砲を鳴らし、5月14日隠岐島西郷港に投錨し島民を威嚇上陸した。 強硬に島民を威嚇し勤皇派を弾圧する松江藩の前に 、驚愕の出来事が起こります。 初めは米粒の大きさにしか見えなかった艦長山田市之允の率いる長州藩軍艦 丁卯丸と薩摩藩の軍艦乾行丸(艦長本田弥左衛門)が14日の午後から 翌15日にかけ、征旅の途上に隠岐西郷湾に立ち寄って来たのです。 松江藩が山陰沖に覇を唱えた大きな理由は 西洋式蒸気船二八雲丸の行動力にあったのだが ここに薩長両藩の主力艦が現れたことで 形勢は一気に逆転した。 薩長の両巨艦、丁卯丸と乾行丸が 軍艦第二八雲丸を左右両面に横付け、 戦闘力を奪ったうえで投錨してきた。 泣く泣く松江藩兵は撤退を余儀なくされたのでした。 市ィーの勝ちじゃった。。 「山陰沖の幕末維新動乱」大西俊輝著 近代文芸社
山田顕義(市之允)は身長148センチから 152センチぐらいだったらしい。 ナポレオンも身長は低かったが市ィーはまだ低かった。。 ナポレオンはワーテルローの戦いで敗れたが 市ィーは一度も負けなかった。 「用兵神の如し」と評されたようです。
明治天皇陛下の臨幸 音羽の山田顯義伯爵別邸 日本法律学校(日大)が認可されたのは大日本帝国憲法の発布された 明治22年の10月4日。 開校式は翌年の明治23年の9月21日です。 東京都麹町区飯田町五丁目の皇典講究所内に 総理大臣山県有朋、司法大臣山田顯義、帝大総長加藤弘之、 政府顧問ボアソナードその他、 内外の貴賓百数十名の列席を得て盛大に行われています。 開校の約3カ月前にはすでに講義は行われていて、6月26日、 明治天皇が小石川音羽の山田邸に行幸されたさい、 「其の御道筋は宮城通用門を出て右に竹橋を渡り、右に雉子橋を出て、 飯田町通り日本法律学校の前を御通行ありしとき、 同校生徒五六十名は門前に整列して拝礼をなし」たという 東京日日新聞の記事があります。 明治天皇は音羽の山田別邸に向かう前に山田顯義の開校した 日本法律学校の前をわざわざ遠回りして通っています。日大の新入生に 大歓迎されたと思います。 山田顯義は國學院と日大の創立で知られ 伊藤博文、西郷隆盛と共に 明治天皇に大変愛された将軍です。 なんでも鑑定団 愛のエメラルド
映画製作について http://www.akiyoshi-yamada.net/movie/ 山田顕義の生涯を題材にした劇場用映画は、いままでありませんでした。 山田顕義は、かの「坂の上の雲」などにも登場する明治期の英傑でありましたし、 小説では、彼を主人公にしたベストセラーがいくつかありましたが、 綺羅星のごとく存在する明治の英雄たちの中に隠れていた存在でした。 しかしながら、彼の活躍を紐解いていくと日本という国の時代が変わる 重要な出来事の節目節目に必ず存在していて、実に多くのことをやり遂げている。 大変エキサイティングな生涯を送っています。 彼こそ日本の近代史そのものなのです。これを映画にしない手はない。なぜいままで映画人は、 彼のような秀逸な素材を見落としてきたのか。 こういう経緯から、日本全国の多くの人に見てもらうために、 多くの人達が集まり映画製作が進められています。 日本の大学は殆ど長州閥ですよ。 山田顕義は軍事も凄いが教育も凄い。 防衛大学、東大法学部・工学部、京都大、北大。 日大、國學院、明治、法政、中央、獨協、近畿大、関西大、学習院、 皇学館、慶応医学部、北里大などに山田顯義伯爵は関与しています。 東京農大の榎本武揚なんかも海陸軍参謀山田市之允に助けられた口だわね。
木造軍艦 日清、日露の海戦の陰の立役者、山田顕義 日露戦争の時、日本海海戦で大活躍した東郷平八郎は有名。でも誰も知らないと 思いますが、立役者は他にもいるのです。山田顕義、伊藤博文、山県有朋等です。 明治15年前後、薩摩藩出身の川村純義海軍卿を更迭し、山田顕義海軍卿を確立 しようとした事がありました。つまりさつま芋は頭が悪いからダメだという事です。 最後は、山田さんに川村さんが詫びを入れる形で、川村さんの続投が決まりました。 一言で言えば、薩藩のリ−ドする海軍は、近代化が遅れたうえに更に計画性がない ドンブリ勘定でお話にならないという事。長州派の堪忍袋の緒が切れたと言う事です 当時、川村海軍卿はない頭を絞って海軍の充実を計り、大井川奥の木材を 大量に購入して、木造の軍艦造りに邁進しています。 静岡県焼津市の御用商人、増田与之助に命じて大量の木材を横須賀の海軍基地に 運んでいます。( 与之助の奥さんの実家は伊豆湯ヶ島町の旅館落合楼です!。) これに反発したのが、山田顕義、伊藤博文、山県有朋です。 なにしろ伊藤と山田の両人は、知恵のかたまりと言われた頭脳の持ち主です。 長州派の怒りを買い、木材の購入は中止され、御用商人は40万円もの 多額の負債を出して倒産、海軍の木造軍艦造りは失敗します。 この後、陸軍に続き、海軍の近代化は、長州派の指導で急ピッチで進められ 日清、日露の海戦の大勝利に結びつくのです。 でも木造軍艦でロシヤ艦隊と 戦おうとしたなんて・。今となつては嘘のような本当の話です。 〇山田市の父上は長州藩の海軍頭です。造船の技師長のような役割です。 西洋軍艦の設計もしています。
明治天皇陛下の臨幸 文京区音羽の山田顯義伯爵別邸 明治23年6月26日午後3時、帝室制度取調べ局より 音羽の山田伯爵別邸に至る。 上、同邸へ臨幸あるを以て招待を受けて参会す。(フロックコート着用)。 各大臣、枢密顧問官及び勅任官数名、秘書官他宮内官等を合して 約百五十、六十名参会。 能楽、如燕の公演及び西某の琵琶等の余興あり。 晩餐を上(たてまつ)り各大臣及び宮内勅任官のみ陪食、 他は皆別席に於て立食の饗あり。 天機麗しく夜八時過、車駕還幸、 一同続いて退散。 是山田顕義伯爵 一代隆盛の時なり。 ※現在、音羽の山田別邸はありません。 西洋館です。施工は清水建設。 関東大地震で修復不可能なまでに損傷しました。 作家の藤枝静雄さんによりますと 大層ガッチリとした作りで感心したことがあるそうです。 現在、文京区の音羽の別荘跡地には講談社が威容を誇っています。 天皇行幸を記念して護国神社が祀られています。
大学の実力ランキング(トップ5大学) 2016 ★大学入学後の実力5大学(難関試験合格者数による評価) @ 国家上級試験 東大、京大、早大、慶大、東北大 A 司法試験 中大、慶大、東大、早大、京大 B 会計士試験 慶大、早大、中大、一橋大、明大 C 弁理士試験 東大、京大、東工大、阪大、理大 D 東京都上級 早大、中大、東大、首都大、慶大 E 技術士試験 東大、京大、日大、早大、中大 ★大学卒業後の実力5大学(各分野の実績数による評価) @ 社長数(上場企業)東大、慶大、早大、中大、京大 A 役員数(上場企業)慶大、早大、東大、中大、京大 B 国会議員数 東大、早大、慶大、中大、京大 C 国事務次官数 東大、京大、中大、早大、東北大 D 裁判、検事弁護士 中大、東大、早大、京大、東北大 E マスコミ経営者 東大、早大、慶大、中大、京大 F ノーベル賞受賞 京大、東大、名大、東北大、東工大
推薦率が最悪の上智 一般入試で行く価値はあるか? http://tamae.2ch.net/test/read.cgi/jsaloon/1483681535/ 上智大学 2016年 推薦入学者率 47.9% ● 推薦率が最悪の上智 ● 推薦 1360人 一般 1253人 TEAP 224人 推薦率 総数 .一般 AO 指定 .公募 .付属 その他 明治大学 15.8% 7,814 5,809 -31 682 328 764 200 慶應義塾 18.9% 6,602 3,874 362 598 119 1,475 174 東京理科 19.6% 4,080 3,282 --- 566 103 --- 129 立命館大 20.2% 7,562 4,837 231 689 --0 1,196 609 早稲田大 22.1% 9,476 5,904 224 1,388 --- 1,472 488 立教大学 22.6% 4,504 2,875 --- 704 --- 608 317 法政大学 23.2% 6,444 4,117 --0 951 182 830 364 青山学院 24.3% 4,366 2,957 --- 787 -96 346 180 同志社大 26.0% 6,347 3,621 -29 1,315 103 1,070 209 中央大学 29.0% 6,081 3,503 --- 1,269 -70 833 406 学習院大 29.2% 2,020 1,231 --- 466 -73 198 -52 関西大学 32.8% 6,921 4,024 107 1,909 -58 621 202 関西学院 37.7% 5,631 2,762 191 1,488 --6 742 442 上智大学 42.6% 2,846 1,632 --- 283 461 --- 470 ● 推薦率が最悪の上智 ● F 上智福岡(56) F 新島学園 (同志社)(48) F ★静岡サレジオ (上智推薦)(47) F ★都城ドミニコ学園 (上智推薦)(46) F ★会津若松ザベリオ学園 (上智推薦)(44) 上智大学の入学者 ダウンロード&関連動画>> VIDEO ここの女はカトリック推薦と公募制の人達だよ。後、イケメンもカトリック推薦。 一番左の男は一般。 明治天皇陛下の臨幸 音羽の山田顯義伯爵別邸 日本法律学校(日大)が認可されたのは大日本帝国憲法の発布された 明治22年の10月4日。 開校式は翌年の明治23年の9月21日です。 東京都麹町区飯田町五丁目の皇典講究所内に 総理大臣山県有朋、司法大臣山田顯義、帝大総長加藤弘之、 政府顧問ボアソナードその他、 内外の貴賓百数十名の列席を得て盛大に行われています。 開校の約3カ月前にはすでに講義は行われていて、6月26日、 明治天皇が小石川音羽の山田邸に行幸されたさい、 「其の御道筋は宮城通用門を出て右に竹橋を渡り、右に雉子橋を出て、 飯田町通り日本法律学校の前を御通行ありしとき、 同校生徒五六十名は門前に整列して拝礼をなし」たという 東京日日新聞の記事があります。 明治天皇は音羽の山田別邸に向かう前に山田顯義の開校した 日本法律学校の前をわざわざ遠回り立ち寄っています。日大の新入生に 大歓迎されたと思います。 山田顯義は國學院と日大の創立で知られ 伊藤博文、西郷隆盛と共に 明治天皇に大変愛された将軍です。 なんでも鑑定団 愛のエメラルド
日東駒専の真実 これが偏差値40だ (最新河合塾偏差値2017) 偏差値42.5以下のニッコマ大集合 (2部及びセンター除く) 【日本大学】 −国際関係学部− 国総A1 40.0 国総A2 42.5 国教A1 42.5 国教A2 42.5 国教N1 42.5 −工学部− 土木工A 35.0 土木工N1 37.5 建築N1 42.5 機械工A 37.5 機械工N1 40.0 電子工A 35.0 電子工N1 37.5 生命応A 35.0 生命応N1 35.0 情報工A 40.0 情報工N1 42.5 −生産工学部− 全9学科36方式のうち32方式が 37.5から42.5 −生物資源学部− 生物環境A 42.5 国際地域A1 42.5 国際地域A2 42.5 国際地域N1 42.5 くらしA1 42.5
軍人が創設。 神道系右翼大学、日大。 − 山田顕義(日本大学創設者、軍人)− 以下、Wikipediaより ・階級は陸軍中将 ・25歳の時に戊辰戦争で討伐軍の指揮をとる。 ・幼少期の頃に「性質愚鈍、垂鼻頑獣(はなたれだるま)、ほとんど白痴の如し」といわれていた。 ・元治元年(1864年)7月、禁門の変では山崎に布陣する久坂玄瑞・真木保臣らの陣に加わったものの長州勢は敗北し、山田も長州へ落ち延びている。 ・8月、太田市之進・品川弥二郎らと御楯隊を創設し、軍監となって下関戦争で奮戦するも長州藩は敗北した。 12月、対幕府恭順論の「俗論派」による藩支配に対する高杉晋作の決起(功山寺挙兵)に参戦し勝利を収め、俗論派を排除する。また、山田亦介が処刑され、山田は謹慎となる ・慶応3年(1867年)5月、御楯隊と鴻城隊を合体した整武隊の総管に就任。 ・慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争の発端となる鳥羽・伏見の戦いで在京長州藩兵諸隊の指揮官として、1,000余名程の長州藩兵を率いて指揮することとなった。 新政府征討総督・仁和寺宮嘉彰親王の征討総督副参謀に命じられる。 ・山田は先年にイギリスで完成した長州藩の艦艇、第一丁卯に乗船を命じられ、5月に薩摩艦「乾行丸」、筑前艦「大鵬丸」も同行し馬関(現下関)を出発。越後海域に向かった。(山田は山県に協力して、海軍の戦闘を助力した。) ・山田は「衝背作戦」を発案し実行した。この作戦のための兵士を乗せた輸送艦が柏崎に入港した7月、越後口海軍参謀(陸軍参謀兼海陸軍参謀)に命じられる。 ・陸海軍参謀の任を解かれ、新官制(太政官制)施行による兵部大丞に就任。長州藩少参事兼任を命ぜられる。 ・11月には兵部少輔久我通久と連署で大村の遺策をまとめた『兵部省軍務ノ大綱』を太政官に提出した。大村の継承者として大坂を中心とした兵部省確立に尽力する。 ・同じ長州出身の前原一誠、山田らが国軍の建設を進めようとしたが、省内の統制がとれず、仕事が停滞していた。 ・普仏戦争の観戦を強く希望するが、川村純義等他の兵部省員等も希望した為、省務の停滞を危惧した大久保利通等の指示により許可されなかった。 ・佐賀の乱が勃発し、同職を解かれ、士族反乱鎮圧のために九州へ出張した。士族反乱は翌3月に平定。同年7月、佐賀の乱を治めた戦功を賞され、一方で伊藤博文等の説得により、現役陸軍少将のまま司法大輔(次官)の職に就任した。 ・西南戦争勃発により、司法大輔を辞職する覚悟で単身京都に出張し、鎮圧出征を懇願する。木戸孝允等の協力の末、別働第二旅団長として出征を命ぜられる。同年9月、西南戦争終結し、同年11月、戦功によって勲二等を賜る。
大学はやっぱ最低でもマーチだよな…社会人になって現実を知ったわ… hayabusa.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1360981987/ 1 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/02/16(土) 11:33:07.63 ID:bxuU3U5cO 俺、現役でニッコマに入った卒業生だけど、社会人になって大学名、 恥ずかしくて人に言えないよ 街コンやパーティにいくけど、そこでどこの大学名は話さないけど、 一対一で会えるときにはさすがに大学の話になる場合があるから、 そこでニッコマをいうのが本当に嫌だ 女なら良いんだけど、男でニッコマはマジで恥さらしだよ 学歴って本当に一生引きずるんだな… まだ間に合うやつがいたら最低でも現役マーチにいっとけ ちなみに会社はそれ相応の場所にしか入れないから、会社で大学名言うのはは恥ずかしくないw 2 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/02/16(土) 11:33:47.03 ID:3lK1LDnj0 まあ社会って、そういうので評価する連中とか多いからな・・・
ニッコマといえば、 高三の時にmarchにも受からず、浪人か日大進学(受験序盤のウォーミングアップで受けてた) のどちらかに思い悩んでいる友達に 担任が 「浪人は一時の恥。ニッコマは一生の後悔。」 と真顔で指導してた。 結局、その友達は浪人を選んで、翌年はきちんとした大学に行ったから結果オーライだったかもしれないけど。 今だったらその教師は問題になってるかもなあ。 現代文のY田先生…。 浪人はしたけど、1年後に ちゃんとした大学に入ってくれたのだから、 ご両親も当時の担任には感謝しているだろうけど。
― 日本大学理事長 田中英寿 ― ・国から100億の助成金をもらいながら、ふんだんに金を使いまくり、JOCのナンバー2までやっている ・黒い交際(これのおかげか国も政治家もマスコミも手出しできない模様) 左:日本大学の田中英寿理事長兼日本五輪委員会(IOC)副会長 右:六代目山口組司忍組長 左:二代目弘道会初代佐々木一家の山本岩雄総長(故人) 右:日本大学の田中英寿理事長 左:日本大学の田中英寿理事長 左から2番目:日本大学理工学部の現事務局長の加藤和英 左から3番目:住吉会福田晴瞭元会長 現代ビジネス ニュースの真相 日大理事長兼JOC副会長と山口組組長の写真が海外メディアで報じられ、下村文科相が調査を約束 http://gendai.ismedia.jp/articles/premium01/43023 日大理事長と山口組6代目の親密写真 1枚の写真が波紋を広げている。 どこかのクラブで撮られた写真で、左に座っているのが日本大学の田中英寿理事長。 右のノーネクタイのスーツ姿が山口組6代目の司忍(本名・篠田建市)組長である。 暴力団排除の気運のなか、親密交際を示すような写真が流出するのは致命的である。 まして日大は、大学院から付属幼稚園まで10万人に迫る在校生を抱える日本最大の大学グループ。 大学単体で年間約100億円の私学助成金を受け取っている。 そのトップである理事長には、高い倫理性と社会性が求められている。 実は、このツーショット写真が流出したのは昨年9月頃だが、両者への確認が難しいのと、後述する襲撃事件によって、入手したマスコミは公表を手控えていた。 それを掲載したのは、米を中心とするネット雑誌だった。 以降、「日大・田中と山口組トップ」の関係が、もやもやした形で伝えられていたのだが、4月15日、東京オリンピックに絡めて、国会で取り上げられた。 衆議院文部科学委員会で、この問題を質したのは維新の党の牧義夫代議士。 牧氏は、東京オリンピックにおける日本オリンピック委員会の役割を確認したうえで、副会長である田中理事長の疑惑に切り込んだ。 問題としたのは、次の2点である。 ひとつは、『読売新聞』(2013年2月1日付)が社会面トップで取り上げた受注業者からのキックバックについて。 記事によれば、田中理事長は、12年までの約6年間に、日本大学の工事を受注している建設会社から計5百数十万円を受け取っていたという。 金額は1回あたり10万円前後で50回以上。 この建設会社は、大学施設の解体、内装、修繕や学生寮の新築などの工事を直接、もしくはゼネコンなどの下請けで受注。 受注件数は、12年4月までの5年間で約150件、受注総額は20数億円に上っていた。 牧氏が、「文科省は事実確認をしたのか」と、質したところ、答弁に立ったスポーツ青年局長は、大学側の第三者委員会の調査結果は、「工事発注に伴う謝礼ではないということだった」と、答弁した。 一流企業の人事曰く、「法政大学で切る」。法政未満は相手にされないのだ。脱却しよう。
明治天皇陛下に愛された 日本大学。 遂に見つけたよ。天皇陛下と日本大学の繋がり。 日本のトップと日本大学が一致協力して 日本という近代国家を作りました。 なんでも鑑定団 愛のエメラルド
【法律学校開校の歴史】 1880年4月 東京法学社(現・法政大学) 1880年9月 専修学校(現・専修大学) 1881年1月 明治法律学校(現・明治大学)1882年10月 東京専門学校(現・早稲田大学) ・ ・ 1885年7月 英吉利法律学校(現・中央大学) ・ ・ ・ 1889年 日本法律学校(現・日本大学)
軍人が創設。 神道系右翼大学、日大。 − 山田顕義(日本大学創設者、軍人)− 以下、Wikipediaより ・階級は陸軍中将 ・25歳の時に戊辰戦争で討伐軍の指揮をとる。 ・幼少期の頃に「性質愚鈍、垂鼻頑獣(はなたれだるま)、ほとんど白痴の如し」といわれていた。 ・元治元年(1864年)7月、禁門の変では山崎に布陣する久坂玄瑞・真木保臣らの陣に加わったものの長州勢は敗北し、山田も長州へ落ち延びている。 ・8月、太田市之進・品川弥二郎らと御楯隊を創設し、軍監となって下関戦争で奮戦するも長州藩は敗北した。 12月、対幕府恭順論の「俗論派」による藩支配に対する高杉晋作の決起(功山寺挙兵)に参戦し勝利を収め、俗論派を排除する。また、山田亦介が処刑され、山田は謹慎となる ・慶応3年(1867年)5月、御楯隊と鴻城隊を合体した整武隊の総管に就任。 ・慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争の発端となる鳥羽・伏見の戦いで在京長州藩兵諸隊の指揮官として、1,000余名程の長州藩兵を率いて指揮することとなった。 新政府征討総督・仁和寺宮嘉彰親王の征討総督副参謀に命じられる。 ・山田は先年にイギリスで完成した長州藩の艦艇、第一丁卯に乗船を命じられ、5月に薩摩艦「乾行丸」、筑前艦「大鵬丸」も同行し馬関(現下関)を出発。越後海域に向かった。(山田は山県に協力して、海軍の戦闘を助力した。) ・山田は「衝背作戦」を発案し実行した。この作戦のための兵士を乗せた輸送艦が柏崎に入港した7月、越後口海軍参謀(陸軍参謀兼海陸軍参謀)に命じられる。 ・陸海軍参謀の任を解かれ、新官制(太政官制)施行による兵部大丞に就任。長州藩少参事兼任を命ぜられる。 ・11月には兵部少輔久我通久と連署で大村の遺策をまとめた『兵部省軍務ノ大綱』を太政官に提出した。大村の継承者として大坂を中心とした兵部省確立に尽力する。 ・同じ長州出身の前原一誠、山田らが国軍の建設を進めようとしたが、省内の統制がとれず、仕事が停滞していた。 ・普仏戦争の観戦を強く希望するが、川村純義等他の兵部省員等も希望した為、省務の停滞を危惧した大久保利通等の指示により許可されなかった。 ・佐賀の乱が勃発し、同職を解かれ、士族反乱鎮圧のために九州へ出張した。士族反乱は翌3月に平定。同年7月、佐賀の乱を治めた戦功を賞され、一方で伊藤博文等の説得により、現役陸軍少将のまま司法大輔(次官)の職に就任した。 ・西南戦争勃発により、司法大輔を辞職する覚悟で単身京都に出張し、鎮圧出征を懇願する。木戸孝允等の協力の末、別働第二旅団長として出征を命ぜられる。同年9月、西南戦争終結し、同年11月、戦功によって勲二等を賜る。