都の西北 早稲田の森に
そびゆる甍は われらが母校
この一節は、まさに大学受験の合格発表掲示板に名前があった時のように歌うw
「あった!!!!!!やったーーーーーーーー」
早稲田大学校歌には大正時代から替え歌があった。
早大下宿の歌
一、都の西北早稲田の森に
聳ゆるトタン屋根われらが下宿
われらが日頃の賄を知るや
新香の二切なつぱのおつけ
現世を忘れた煮豆と白湯で
斯く痩すわれらが指手を見よや
やせたやせた やせたやせた やせたやせた
二、唐米ご飯の効果はうすし
一でうづまる金魚の餌の
大なる麩のつゆ、腐れ焼鯖
われらが指手は極めて青し
やがて食はずに理想のミイラ
あまねく天下に知らせてやらん
やせたやせた やせたやせた やせたやせた
三、あれ見よかしこの常盤の森は
心のうつしと吾等が下宿
集まり散じて人はかはれど
仰ぐは同じき理想の下宿
いざ声そろへて空もとどろに
われらが下宿の名をば呪はん
やせたやせた やせたやせた やせたやせた
(滝浦文弥 『寄宿舎と青年の教育』 325-327ページ)
野球で、新聞にも街頭にも人気を煽つてゐるのは、六大学リーグ戦である。
殊に早慶戦は、歴史的なものだけに、皆が興味を持つ。そして慶応が勝つたやうな暁には、
きまつて警官が多勢銀座の要所々々を固めて、乱暴しないやうに警戒する。
カフエーが、塾生の熱狂が静まるまで、戸を閉鎖する。
そして引け時のラヂオ屋の前は、群集で大変な雑沓だ。拡声器を通じて、刻々の試合の経過を
皆んな熱心に聞いてゐるのだ。そしてアナウンサーの一声につれて、群集がどよめき
相好を崩すのである。会社員も商人も小僧も、皆んな贔屓々々を持つてゐるのだ。
どこのラヂオ屋の前にも、そしてスコアを書き入れた紙が張つてある。
スポーツが、野球が、こんなにも大衆に直接呼びかけて来たのである。
校歌の由来(法政大学)
法政大学で一応「校歌」とよばれたものは、大正13年、当時予科の英語の教授だった
為光直経の作詞による「お濠に影うつして」であった。その頃応援団が組織されたが、
この校歌では神宮球場で明治の「白雲なびく」や、早稲田の「都の西北」に、
どうも圧倒されがちだというので、学生全体からもっと力強い校歌が要望されていた。
たまたま昭和4年から5年にかけて「法政スピル運動」が起ったとき、その一環として
新しい校歌作成の声が全学生から叫ばれ、学生の中から委員が選出された。
やがて学生教職員から寄付金も集められ、学生の投票によって作詞は佐藤春夫(当時の講師)、
作曲は近衛秀麿に依頼することに決定、出来上がったのが現在の「法政おゝわが母校」である。
折から近衛は欧州へ演奏旅行に出発したので、作曲はシベリヤ鉄道の車中でなされたという。
5年秋のリーグ戦で初めて神宮スタンドで歌われたが、そのとき法政大学野球部の初優勝が成ったのだから、
この校歌はまことに幸先のよいスタートを切ったわけである。(霞五郎)
(法政大学 『法政大学八十年史』 昭和36年)
ちなみに昭和3年度の学生数は・・・
早稲田 11356(専門部・高等師範部・夜専含む)
法 政 4785(専門部・高等師範科含む)
応援団の数でも歌のボリュームでも当時の早稲田は法政を圧倒していたようだ。
高橋由伸エレジー
〜父の11億円借金でヤクルト断念、"強制引退"
週刊文春 本日発売
明治大学校歌(『明治大学学報』 第50号 大正9年11月15日)
一、白雲なびく駿河台
眉秀でたる若人が
撞くや時代の時の鐘
文化の潮みちびきて
遂げし維新の栄になふ
明治其名ぞ我等が母校
明治其名ぞ我等が母校
明治、その名ぞ、われらが誇り。
二、権利自由の揺籃の , −─ 、
歴史は古く今もなほ ,..:.´ ` 、
強き光に輝けり /:::::.:. 、
独立自治の旗翳し ,'::::::.:.:. }
高き理想の道を行く i:::::ィ=ミ_ ; ,.. {
われら健児の意気をば知るや 灯::::rc_ {レc-、 {、
われら健児の意気をば知るや {::i::. `¨ .::} `¨¨ `}
明治、その名ぞ、われらが誇り。 ヾ:::::. .:::(_,..、、 ノ
i:::.:.,.;_.,..j .:厂
三、霊峰不二を仰ぎつつ ∧::.:`=…ー-:. .::/
刻苦研鑽他念なき /{\:::. ̄.. ..., ィ {_
われらに燃ゆる希望あり __,,,..ィ三三ゝ.\;¨::.´ .::/}≫x,
いでや東亜の一角に ≦三三三三三 {≫z}\/ ∨三≧x,
時代の夢を破るべく 三三三三三三 ヘ ヾ{,ィチ}丁丁 三三三≧x,_
正義の鐘を打ちて鳴らさむ .三三三三三三三ヘ V)ミ{/ヽ,j三三三三三三
正義の鐘を打ちて鳴らさむ
明治、その名ぞ、われらが誇り。 山田耕筰
「歌詞は現在と若干異なっているが、
. しかし、校歌は時代と共に学生と共に
歌いやすい様に変っていったのであろう」
(明治大学 『図録明治大学百年』 昭和55年)
今日稲門祭行ってきたんだが、
早稲田の近年の弱体化の理由が分かった。
政経に大量のフェミ女が混入した。
早稲女と言えば、腿がぶっとくて、
お尻も大きいパンツ透け透けの女だったんだが、
今はガードの固いフェミばかり。
ギスギスする原因を作っている。
明治大学校歌
都の西北に過剰な反応の明治大学職員。
笑える、やはり学歴コンプレックスの巣窟明治。
政経ユニクロ柳井が衣服屋とかやってるから
流入してしまったな。
商学部実業サイドは早期に共学化し危機回避。
さすが、である。
透け、コピペ、うんこ、胡瓜はフェミの最大限。
ペッティング、丸見えまで行けるとフェミ卒業、旧早稲女合格。
都の、何とかっていう鍋島氏が作詞した旧制東京音楽学校の
校歌もあるのな。
昭和37年2月6日、アメリカからやってきたロバート・ケネディ司法長官の講演が
早稲田の大隈講堂で行われたときのことである。
講演が始まるとすぐ、反米闘争を叫ぶ学生が暴れ出した。野次と怒号をケネディ司法長官に浴びせ
講演をつぶしにかかった。彼らをおさえようとする学生もでたが、その勢いがすごく、おさえられなかった。
場内は混乱し、そのうえ原因不明の停電まで起こった。停電がまもなくおさまったが場内の喧騒は続き
ケネディ司法長官は講演ができぬまま立ち往生していた。講堂には険悪な雰囲気が漂った。
そのとき、場内にいたひとりの学生が壇上にあがった。学生は、会場の人々に向かって
「早稲田大学、校歌!」と両手を広げながら大声で叫び、校歌を歌い始めた。
ざわついていた場内に、都の西北はかき消されそうになったが、やがて会場のあちこちで
壇上の学生に唱和する声が起こった。そしてその声が野次と怒号をうわまわった。
1番が終わり、2番、3番と進むにつれその声の輪は大きくなり会場を包んだ。
3番を終わる頃には完全に野次と怒号はかき消され、場内は校歌一色となった。
3番の歌詞が終わったとき、会場から大きな拍手が起こった。
大隈講堂は平穏をとり戻し、ロバート・ケネディは予定通り講演をすることができたという。
ロバート・ケネディは帰国する飛行機のなかで「ワセダ、ワセダ」とフレーズを口ずさんだという。
帝京の校歌が有名になったのはラグビーのおかげ
天理の校歌は知らない。