11 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 19:36:49.68
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://2chb.net/r/history/1572457638/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 2日本@名無史さん2019/11/01(金) 19:37:46.14
畿
3日本@名無史さん2019/11/01(金) 19:37:55.36
内
4日本@名無史さん2019/11/01(金) 19:38:02.62
説
5日本@名無史さん2019/11/01(金) 19:38:08.29
は
6日本@名無史さん2019/11/01(金) 19:38:16.02
破
7日本@名無史さん2019/11/01(金) 19:38:24.65
綻
8日本@名無史さん2019/11/01(金) 19:38:30.96
し
9日本@名無史さん2019/11/01(金) 19:38:36.46
ま
10日本@名無史さん2019/11/01(金) 19:38:42.40
し
11日本@名無史さん2019/11/01(金) 19:38:47.94
た
121 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 19:39:21.96
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
131 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 19:40:04.77
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
141 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 19:40:32.21
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
151 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 19:41:06.46
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
161 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 19:41:41.35
◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
171 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 19:42:16.43
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
181 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 19:42:50.96
(承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
191 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 19:43:26.49
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
(本項 続く)
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
201 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 19:44:01.35
◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
211 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 19:44:39.60
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 221 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 19:45:15.52
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
231 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 19:45:46.44
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
241 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 19:46:20.64
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
251 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 19:46:57.15
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
261 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 19:47:49.08
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
271 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 19:48:31.75
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
281 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 19:49:09.57
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
291 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 19:49:45.59
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
301 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 19:50:42.15
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
31日本@名無史さん2019/11/01(金) 19:51:41.58
どうせスマホじゃ見えないんだから省略すれば?
321 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 19:51:43.32
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
331 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 19:52:16.60
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
341 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 19:52:55.79
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 351 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 19:53:36.48
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 361 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 19:54:20.97
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代)
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) 371 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 19:54:56.14
(承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
381 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 19:55:46.77
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
391 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 19:56:26.93
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。
401 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 19:57:00.33
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
411 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 19:58:01.20
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 421 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 19:58:50.20
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
431 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 19:59:34.87
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
441 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 20:00:19.68
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
451 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 20:01:10.69
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
461 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 20:01:51.08
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
471 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 20:02:27.64
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 481 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 20:02:56.47
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
491 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 20:03:28.78
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
501 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 20:04:24.98
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
511 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 20:04:59.76
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
521 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 20:05:32.25
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
531 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 20:05:58.69
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
541 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 20:06:58.67
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
551 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 20:07:18.38
v
561 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 20:07:40.38
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
571 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 20:08:16.72
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
581 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 20:08:51.23
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
59日本@名無史さん2019/11/01(金) 20:22:20.92
はよせえw
60日本@名無史さん2019/11/01(金) 20:22:29.19
さて、今日も荒すぞい
61日本@名無史さん2019/11/01(金) 20:24:47.67
テンプレだけでもBBAに委託すりゃいいのに
62日本@名無史さん2019/11/01(金) 20:28:27.22
顔の悪い奥山は、顔が悪いので、マスクをつけてコンビニへ、おにぎりを買いに行ったのでは、ないのかな。。。
63日本@名無史さん2019/11/01(金) 20:47:26.92
ここは奥山子供部屋おじさんの領域。
お前ら悪い大人が、よってたかって純粋な奥山子供部屋おじさんを虐めてるのは正直引くわー
641 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 20:47:49.78
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定
651 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 20:48:17.94
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 661 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 20:48:52.71
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
671 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 20:49:12.09
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域)
681 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 20:49:33.33
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
69日本@名無史さん2019/11/01(金) 20:49:59.52
テンプレ教信者いる?
701 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 20:50:07.94
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
711 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 20:50:32.38
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
721 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 20:51:00.46
(承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
73日本@名無史さん2019/11/01(金) 20:51:32.27
741 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 20:51:35.04
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 751 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 20:51:59.28
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
76日本@名無史さん2019/11/01(金) 20:52:54.98
イキった聞かん坊の畿内説を九州説の大人たちが諭そうとするやさしいスレ
77日本@名無史さん2019/11/01(金) 20:53:35.25
畿内説は常に5chに貼りついてるけど職業はなんなの?
781 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 20:54:30.93
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀)
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 791 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 20:55:06.03
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 801 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 20:55:41.63
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
811 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 20:56:12.24
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
82日本@名無史さん2019/11/01(金) 20:56:29.67
奥山テンプレじじいは死ぬまでこれ続ける気か?
831 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 20:56:46.87
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝で各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
841 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 20:57:20.83
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
851 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 20:57:56.18
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
86日本@名無史さん2019/11/01(金) 20:58:30.40
>>76
違う!ふざけるな!
ここは奥山子供部屋おじさんの領域。
お前ら悪い大人が、よってたかって純粋な奥山子供部屋おじさんを虐めてるのは正直引くわー 871 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 20:58:31.16
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
881 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 20:59:06.61
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
891 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 20:59:41.34
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 901 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 21:00:16.88
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
91日本@名無史さん2019/11/01(金) 21:00:44.08
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、前方後円墳如きで邪馬台国を名乗るんじゃねーよ、平和ボケが。
なんか川の中州の倉庫なんて持ち出すし。一家揃って歴史歪曲か。おめでてーな。
よーしパパ勝利宣言しちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、三角縁神獣鏡やるからその席空けろと。
倭国ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
筑後川の向かいに座った奴といつ戦争が始まってもおかしくない、
刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。キナイコシは、すっこんでろ。
921 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 21:00:51.14
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
93日本@名無史さん2019/11/01(金) 21:01:25.36
はぁ〜♪
鉄もねえ、絹もねえ、銅矛鉄矛なんにもねぇ
鉄器とは何者だ? たまに出るのは桃の種
銅鐸はあるけれど、書かれた歴史書見たこたねぇ
楼閣ねぇ、田んぼもねぇ、万戸どころか住居がねぇ
オラこんな村いやだぁ〜、オラこんな村いやだぁ〜
九州へ出るだ〜
九州へ出たなら入墨ば入れて、邪馬台国の人になるだぁ〜
はっ♪
941 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 21:01:27.62
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
951 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 21:02:00.35
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。 961 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 21:02:36.21
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
971 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 21:03:09.81
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】 なし
98日本@名無史さん2019/11/01(金) 21:04:22.04
クズテンプレ
99日本@名無史さん2019/11/01(金) 21:04:57.73
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
アホの>>1
アホの>>1 100日本@名無史さん2019/11/01(金) 21:15:28.39
前スレ>998
http://2chb.net/r/history/1572457638/998
>九州の影響力をとことん消し去りたいんだろうな
消し去りたいんじゃなくて、もともと九州の影響力なんてほとんどないんだよ
3世紀の北部九州では福岡平野(比恵那珂遺跡群)の奴国を除けば、
片田舎のバイプレイヤーしか存在しない
そして、その奴国は前方後円墳祭祀連合の協力者だし、邪馬台国ではないことが
確実なところ
それなのに、北部九州説のほぼ全てはこの奴国の領域を含む九州倭国=邪馬台国とか
いう二重帳簿詐欺をしないと、邪馬台国七万戸を満足できない
最初から詰んでいるんだよ、九州説はw 101日本@名無史さん2019/11/01(金) 21:22:08.46
邪馬台国七万戸を信じてるんだ
102日本@名無史さん2019/11/01(金) 21:25:56.80
物部なんて5世紀の新興氏族じゃないか
103日本@名無史さん2019/11/01(金) 21:26:16.77
>>101
もとより正確な数字のはずはないけれど、
奴国 二万戸
投馬国 五万戸
邪馬台国 七万戸
の序列が狂うとも思ってないよ
七万個が正確ではなくても別の国として書いてある奴国を邪馬台国の中に
入れるのは、インチキ捏造の最たるものってのは変わらない 104日本@名無史さん2019/11/01(金) 21:28:51.87
とあるサイト、東漢氏やking(王)などの話もしているでしょw
何かの末裔だと書いてあったり、中華?
105日本@名無史さん2019/11/01(金) 21:37:06.09
老婆も、なぜ知っているんだろう、
寒いな〜は、何かの家の人みたいだと言っていたり、king?
当時、家にあった壺や掛け軸なども売っちゃったのかな〜、
とか
いま住んでいる家(川崎区というところ)の話ではないんだけどw
何かのホンモノの家だったのかな
106日本@名無史さん2019/11/01(金) 21:43:40.49
>>103
>奴国を邪馬台国の中に
入れるのは、インチキ捏造の最たるものってのは変わらない
それは同感だね。
「奴」と陳寿が命名してるのだから、箱式石棺集団に敗けたた甕棺族だろう。
邪馬台国ではない。 107日本@名無史さん2019/11/01(金) 21:50:08.61
108日本@名無史さん2019/11/01(金) 21:52:49.61
倭国(阿波)は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。 まともに反論・で・き・る・人・は、 はい、どうぞ。
まともに反論・で・き・な・い・人・は、 罵詈雑言はい、どうぞ。 @阿波
109日本@名無史さん2019/11/01(金) 22:03:51.96
歴史的に阿波が輝いてたのは三好の時代だけ
110日本@名無史さん2019/11/01(金) 22:05:09.77
>>100
>3世紀の北部九州では福岡平野(比恵那珂遺跡群)の奴国を除けば、
>片田舎のバイプレイヤーしか存在しない
事実と向き合えよ。
天皇家自ら九州から来たと言い、畿内の銅鐸文化は打ち捨てられて、九州の銅鏡が神の形代として祭られている。 111日本@名無史さん2019/11/01(金) 22:06:37.27
>>103
単一の国邑としては奴国が最大。
>奴国 二万戸
投馬国と邪馬台国は領域国家であり、他の国邑を含む。
>投馬国 五万戸
>邪馬台国 七万戸 112日本@名無史さん2019/11/01(金) 22:11:08.42
>>109
歴史的に阿波が輝いてたのは三好の時代と倭国(阿波)の時代だけ。 @阿波 113日本@名無史さん2019/11/01(金) 22:18:06.86
114日本@名無史さん2019/11/01(金) 22:49:23.36
>>401
>周以前や魏が1歩≒1足底長≒1尺だったなんて言ってる中国人がまずおらん<
現代中国人学者ではダメだ。
銀台中国人学者の解釈や説明よりも、古代の史料事実や史料実態の方が確かだ。
>中国の資料では一貫して1歩=6尺<
1歩=6尺は、始皇帝の命令であり、当然周代には効力がなく、
周制への復古を目指した魏朝は、当然周朝の「1歩≒1足底長」を採用した。 115日本@名無史さん2019/11/01(金) 22:53:51.69
>>402
大和説のバカどもへ
>>>399みたいなやつが、「具体的な根拠を示した反論」って言うんだぞ
九州説は常に根拠も理由も示さない そんなのがまともな論説になる訳がない <
「平原鏡」も、△も、渡来の呉系楽浪鏡師らが関与した鏡であるんだから、
同じ文字が使われていたって、何らおかしくない。 116日本@名無史さん2019/11/01(金) 22:59:09.82
なるほど猿田監修か
117日本@名無史さん2019/11/01(金) 23:02:08.01
>>407
「南→東」や「冢→前方後円墳」など嘘吐きだましの大和説は
常に根拠も理由も示さない
其の心は・・、
大和説は常に(オレさまの気に入らなければ)根拠も理由も示さない
大和説は常に(オレさまがチェリーピッキングしたものだけに)根拠も理由も示す
大和説は常に(オレさまのメンツが立たなければ)根拠も理由も示さない 118日本@名無史さん2019/11/01(金) 23:08:19.09
>>409
>短里=76メートルの根拠として周髀算経を採ると、周髀算経にもしっかり
1里=300歩ってのが出てくるから、76メートルの300分の1で
25センチくらいの短歩を主張する羽目になる<
周髀算経の一寸千里の法では1歩≒1足底長。 119日本@名無史さん2019/11/01(金) 23:10:54.98
>>411
>八尾市久宝寺遺跡の準構造船については、古墳時代前期とされているな。
弥生終末期ではないようだ。
しかも、大阪府の弥生時代の遺跡からは少ないながらも鉄器は出土している。
鉄器がないのは大和〜近江の3世紀中頃以前。
古墳時代になると、鉄は大和でも出るようになるよ。 <
ふーん、成程。 120日本@名無史さん2019/11/01(金) 23:15:34.79
>>419
>贋作のプロがいたということだ<
渡来の呉系楽浪鏡師らが、関与した、という事だ。 121日本@名無史さん2019/11/01(金) 23:18:05.24
>>111
>投馬国と邪馬台国は領域国家であり、他の国邑を含む。
これが捏造
魏志倭人伝にはそんなことは書いてない
こういう捏造をしないと成立する余地のない九州説は惨めだな
そして投馬国が女王国より以北の国に対して有効な投馬国の比定地が北部九州説では存在し得ない 122日本@名無史さん2019/11/01(金) 23:22:22.24
>>424
>その上で、新井氏は
「画文帯鏡や獣帯鏡の一部には三角縁神獣鏡の鉛同異体比に一致するものもあるが、
仿製鏡の鉛同位体比とも一致していて、複製鏡の可能性を持っており、これを持って
三角縁神獣鏡を中国製と見る訳には行かない。」と述べるが、
その仿製鏡が魏晋鏡である可能性を先に自分で指摘しているのだから、
論旨が破綻している <
新井氏は、「渡来の呉系楽浪鏡師らの関与」という視点に、
まだ達しておられないだけ。 123日本@名無史さん2019/11/01(金) 23:25:08.78
>>425
>鏡表面のしわについては、鈴木勉氏の「三角縁神獣鏡復元研究」(鈴木2004)を
紹介しているだけで、その内容も鋳型に使う細かい真土を鋳型面に、粗い真土を
外層にする二層構造にして、さらに外層を先に焼き固めてから細かい真土を鋳型面に
貼り付けてやるとうまくいったという、「現代における工夫」でしかない
実際に、突線ひびが生じたけれど実験結果の突線ひびと三角縁神獣鏡の突線ひびには
差がある結果であり、平原鏡や三角縁神獣鏡の製作手法が解明された訳でもない <
ふーん。 124日本@名無史さん2019/11/01(金) 23:29:31.00
>>435
南→東や畿内はあったとかのあった、
大量の嘘吐き騙しの、無意味なレスをしてスレを消費しているのは大和説 125日本@名無史さん2019/11/01(金) 23:34:16.55
>>445
>つまりさ、舶載と仿製の区別は難しく確定的ではないから、それをさも確定的であるかのように「平原遺跡には舶載鏡が少ない」とか言い張るのは間違いだということ。
また、三角縁神獣鏡を舶載鏡と断定して畿内と中国との関係を示すものとすることもできないということだよ。<
渡来の呉系楽浪鏡師らの関与、という事が判らない限り、解けない。 126日本@名無史さん2019/11/01(金) 23:37:58.53
九州系の番なので多様性の世界がうれしい。
しかし、前の987で言い残したので言っとくよ。
>板のようなかさばるものが輸送できて…
板を河内で造って大和に運ぶには、かついで行く方法と、舟で運ぶ方法がある。
かついで行くのは重たいので無理があるけど、舟に載せていくと量も多くて便利だという発想が大和説者にはないようだ。
また、板を作る職人が大和に行って現場で板を作るという可能性は大いにあったと思うが、この可能性については大和説者には不利なので完全スルーで見ないふりを決めている。
さらっと不利な情報には触れないようにする大和説者のテクニクには、脱帽するよな。
大和に鉄器はなくとも、河内から職人さえ呼べば板は造れたということだよ。
この大溝造りが国家的事業であったのなら、職人を呼ぶことはなおさらたやすいことだったろう。
河内は、210年ころからこの連合に加盟していたからね。
127日本@名無史さん2019/11/01(金) 23:44:31.61
>>456
>東南陸行五百里は方角が90度おかしい<
末盧國や途中から伊都国は見えないから計測記録出来ないし、
「東南」は人類の常識に拠って 末盧國からの出発時点で出発方向。
>会稽東冶之東というのが陳寿の認識<
陳寿の「女王國の位置推定」の文は「会稽東治之東」であるから、
この大和説男が、×男。
以上より魏志倭人伝の方角に錯誤があるのは明確
会稽東冶之東というのが陳寿の認識
以上より魏志倭人伝の方角に錯誤があるのは明確 128日本@名無史さん2019/11/01(金) 23:50:05.73
>>458
>悪いけど畿内説は定説だから卑弥呼が畿内に居た前提で話をしても何も問題ないんだよ
現に論文とかはすでにそうなってるし <
悪いけど、国民の7割に否定され、
「南→東」や「冢→前方後円墳」などの嘘付き騙しをしてい大和説は、
何の価値もなく、「定説」では当然あり得ない。 129日本@名無史さん2019/11/01(金) 23:52:08.37
「倭在帯方東南大海之中」の「東南」の起点は半島南岸の固城の沖だろうな。
魏の使節が倭国に渡る際に、固城から対馬南岸、壱岐西岸、呼子加部島の東南軸のルートに沿って進んだことが、倭が東南に所在することを判明させたということだよ。
そして、その判明した公的な「東南」を魏略が初めて用い、次に魏志倭人伝もそれを踏襲したということになる。
つまり、倭は北部九州を指しており、この倭から東へさらに千里行ったところにある倭種の国が大和や河内などの国を指していることは、疑うことなく明白だということになる。
大和に卑弥呼はいなかったというのが、魏略や魏志倭人伝の記述なのだよ。
130日本@名無史さん2019/11/01(金) 23:53:50.20
>>460
>その上で、さまざまな側面から平原1号墓の方格規矩鏡はすべて仿製鏡と判定されている <
渡来の呉系楽浪鏡師らの、関与鏡。 131日本@名無史さん2019/11/02(土) 00:17:59.97
>>122
三角縁の海東鏡に海東に至ると書いてあるから倭が海南になる楽浪鏡師は来てないよ 132日本@名無史さん2019/11/02(土) 00:19:02.61
>>128
九州説は歴史学者考古学者の十割に否定されてるんだけど 133日本@名無史さん2019/11/02(土) 00:27:48.06
>>114
中国人学者も昔は1歩≒1足底長≒1尺だったと言ってる人物は誰も居ない
中国の尺度の文献によれば尺度は古代では1歩=4〜6尺
それを1歩=6尺に固定したのが始皇帝の度量衡の統一
周や魏は1歩≒1尺などと世迷言を抜かしているのは
世間を見渡してみても朝鮮式儒教歴史改ざん主義の九州説のみ 134日本@名無史さん2019/11/02(土) 00:29:14.55
倭人伝が邪馬台国にある卑弥呼の都に行く行程として、末盧から東南へ、また東へ行って有明海を南下するルートを挙げている。
この末盧東南→伊都東南→奴東→不彌南→有明海と書かれているルートの地名は、実際の邪馬台国へ行く道順が末盧→伊都→奴→不彌→邪馬台国だったからで、その実際の道順を東南方向へ当てはめただけ。
なので、末盧から東南、東へ行く幻の邪馬台国へ行く行程としては伊都や奴ではなく、末盧東南→A東南→B東→C南→有明海と考えればよい。
そしてこの行程自体は、弥生時代に博多から沖縄までゴホウラ貝を採集するために渡海した海人の交易ルートだったのであるが、それをを魏の使節団が倭国の役人から聴取したのだろう。
そのルートに魏の使節団がこだわったのは、沖縄あたりに理想的な仙人郷があり、邪馬台国はその理想郷にあるうえに、呉にも近いという先入観が古代中国人にあったからである。
この古代中国人の強固な先入観を把握しておかないと、倭人伝の有明海南下の行程がなぜこれほど明確に書かれているのかということの理由をつかむことに失敗する。
倭人伝は中国史なのだ。
135日本@名無史さん2019/11/02(土) 00:34:26.26
そもそも1歩≒1尺なんて単位存在する意義があるのか
1尺=24cmと1歩=26cmが並列して存在するなんて邪魔くさいだけだろ
136日本@名無史さん2019/11/02(土) 00:52:07.10
>>126
>また、板を作る職人が大和に行って現場で板を作るという可能性は大いにあったと思うが
>この可能性については大和説者には不利なので完全スルーで見ないふりを決めている。
この可能性を考える場合、板を作る職人は板を作るための鉄製品(鑓鉋)を
大和の現場に持って行くことになる
この時点で、大和には鉄が入らなかった、大和には鉄がなかったという九州説の主張は
完全に座礁する
このことに気がつかない>>126はバカを通り越して精薄だと言える 137日本@名無史さん2019/11/02(土) 01:00:17.96
九州説のいう短里の1歩=26cmを
1寸=2・4cmで1尺=24cmの普通の里だと1尺1寸で表されるのだから
それを歩という独立した単位にする意味がわからんな
およそ歴史上で倍数刻みになってない距離単位などないんだけれど
という事は1歩≒1尺なんて人類の常識から見て意味不明で
中国の古尺度研究者及び通常の感覚を持つ畿内説の言ってるとおりに
1歩=6尺が始皇帝以来の統一的尺度
138日本@名無史さん2019/11/02(土) 01:10:29.27
墓の大きさを歩いて測るときなどに便利なんだよ。
139日本@名無史さん2019/11/02(土) 01:11:07.66
九州説の言ってる魏は1歩≒1尺の短里があったというのは
1cm≒1.2cm=1mの短メートルがあったと言ってるような主張
短里説とは12cm=10mと言ってるようなもの
140日本@名無史さん2019/11/02(土) 01:15:20.78
12センチは10メートル
嘘つき騙しの九州説
141日本@名無史さん2019/11/02(土) 01:37:26.31
>>136
>板をつくる職人は板をつくるための鉄製品(鑓鉋)を大和の現場に持っていくことになる。
この時点で、大和には鉄が入らなかった、大和には鉄がなかったという九州説の主張は完全に座礁する
こう言いながら、「うわ、マズッ」と思ったんだろうなぁ。
大和に鉄がないから、他所から鉄器持った職人を呼ぶんだよな。
大和に鑓鉋持ってる職人がいたら、わざわざ河内から呼ばんよな。
つーことは、大和に鑓鉋がなかったということになるよ。
もう諦めろ。
大和に鑓鉋などの鉄器はなかったのよ。 142日本@名無史さん2019/11/02(土) 04:59:01.48
関川尚功(邪馬台国大和説と箸墓古墳・纏向遺跡、2017)
「大和の弥生遺跡と纏向遺跡をみても、邪馬台国のあった地域の遺跡とは思えない。大陸系の遺物もほとんど出ないし、
古墳の起源になるような墳丘墓もみられない。
このようなところに北部九州の「奴国」や「伊都国」を統属して、中国王朝と盛んに交流を行ったという邪馬台国があったはずはないし、
またこのような国が大和において自然に現れてくるということは、まず考えられない。
また、箸墓古墳の土器や埴輪も布留式の時代ですから3世紀まで行くものではない。
纏向遺跡のピークもこのころだから、やはり邪馬台国の時代よりあとのことで、纏向遺跡はむしろ大和政権の確立期の遺跡であろうと思われる。」
143日本@名無史さん2019/11/02(土) 05:09:21.95
清水眞一 前・奈良県桜井市教委文化財課長
私は二十年間、大和の中央部・桜井市で「邪馬台国は何処」とのテーマを持って、
発掘調査に従事してきた。その結果として、邪馬台国が成立して女王卑弥呼を擁立する
までの弥生時代中・後期に、大和には他地域を圧倒するような「ムラ」や「墓」が
見られないことに気付いた。
代表的なムラである唐子・鍵遺跡も、畿内の同時期の池上・曽根遺跡や田能遺跡などと
比較して、飛び抜けて大きいムラとは思えなかった。逆に、墓に関しては、
西日本各地と比べて遅れた地域との思いも抱いたことだった。
であれば、その次の古墳時代に入って、纏向の地に百メートル以上もの巨大古墳が、
なぜ突如として築造されるのか。これは、大和の地に別の地域の人々が入って来たと
考えざるを得ない状況とみた。
では、誰が何処からきたのか?考古学の資料からは、特定の地域が限定できない。
となれば、卑弥呼の邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる。
144日本@名無史さん2019/11/02(土) 06:51:28.01
>>465
>国の並びの順番からいっても、畿内の方が帯方郡から見て近い側だし、
畿内の方が大勢力で、明らかに畿内側が邪馬台国でその向こうが狗奴国だと判断できるだろ?<
畿内も邪馬台国も存在もしなかった嘘吐き騙し文言デアrから×であるし、
普通の成人人類は東西南北を間違えない事は人類の常識であり、
だから、「南→東」などの嘘吐き騙しをしている類スレ主や大和説学者らは、
・・・・詐欺師。 145日本@名無史さん2019/11/02(土) 07:12:25.28
>>468
>うーんそうしたいのは山々だけど
魏志倭人伝には邪馬台国は複数の国の共立国家と書いてあるからなー
書いてる事を無視できないんだよー九州説みたいに <
魏志倭人伝には邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるし、
邪馬壹國は、
卑弥呼共立の29国の中の一国であり、
おそらく百余国の中のかなりの諸国が統一されて7万戸になっていた国であり、
その邪馬壹國の中に女王之所都が置かれ、
卑弥呼政府は。男弟佐治がおり、男子一人給飮食傳辭がおり、
何人かの大夫がおり、常有人持兵守衞がいる組織。
そして、邪馬壹國は、
官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳[革是]がある別組織。
、 146日本@名無史さん2019/11/02(土) 07:17:54.86
>>469
>箸墓古墳に厳密な意味での円筒埴輪はないから、その批判がそもそも間違い
箸墓古墳では、のちの円筒埴輪に相当する「特殊器台」が樹立されているんだよ <
張政らは、卑弥呼の葬儀やjun葬者奴婢百餘人などを実見記録しており、
特殊器台を、殉葬だと見違える訳がないから、×。 147日本@名無史さん2019/11/02(土) 07:19:57.60
埴輪が出たなら鏡は出ない。
箸墓は卑弥呼の墓じゃないね。
148日本@名無史さん2019/11/02(土) 07:28:11.17
>>470
>九州説の「水行の起点は帯方郡」というのが、
帯方郡から北部九州まで船で十日では物理的にたどり着けないから不可、のように
論理的に否定されるんだから、同様に具体的かつ論理的に否定して見せればいい<
循海岸水行と3渡海が、水行であり、
歴韓國乍南乍東と對海國と一大國が陸行だ。
韓國陸行の証拠は、倭王武の上表文の「自昔・・・道kei百濟、裝治船舫」であった事と、
渡海において「持衰」がいたから倭船であり、
郡から全部中国船であった事の否定になるから。 149日本@名無史さん2019/11/02(土) 07:34:26.13
>>471
九州説は、魏志倭人伝などに従って人類の常識に拠った解釈あるから、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説と違って、
卑弥呼が筑紫にいた事を前提に語っても学説
その他考古学的物証など大和説が欲しい物はぜんぶ九州説に揃ってる
長里説とか魏志倭人伝の嘘読みとか要らず、
ほぼ全て揃ってるのが九州説 150日本@名無史さん2019/11/02(土) 07:45:15.42
溜池の泥さらい「かいぼり」
ダウンロード&関連動画>>
箸墓の周濠で出土した馬具は箸墓完成から20年後あたりに捨てられたものでしょうね。
馬が導入された時期が中国の導入時期である4世紀初頭より後と考えられるので、箸墓の完成は4世紀半ばと推測するのが妥当である。 151日本@名無史さん2019/11/02(土) 08:49:18.30
>>147
>埴輪が出たなら鏡は出ない。
面白い指摘だな、ただし本当か?
>箸墓は卑弥呼の墓じゃないね
これは同意。 152日本@名無史さん2019/11/02(土) 09:05:15.75
153日本@名無史さん2019/11/02(土) 09:05:25.53
>>473
大和説は、「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言を使っているし、
大和は九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国の旧小国であったんだし、
大和説は魏志倭人伝を南→東と読み替えてる嘘をついてるし、
大和は3世紀末まで鉄がほとんど出ないし、
三角縁が中国で1面も見つかってないし、
同じ事言うけれどそういう変なマニュアルがあるなら、
それポンコツだから直しておいた方がいいよ 154日本@名無史さん2019/11/02(土) 09:07:59.51
>>477
>纏向は古代畿内の王の居住区とみなされているから
そこに卑弥呼がいた前提で話しても何も問題はないけれど<
「南≠東」などに拠って、×。 155日本@名無史さん2019/11/02(土) 09:18:16.81
156日本@名無史さん2019/11/02(土) 09:20:11.19
>>151
>>埴輪が出たなら鏡は出ない。
>面白い指摘だな、ただし本当か?
当然ウソ
例
箸墓古墳のちょうど2分の1に企画されたと考えられている浦間茶臼山の出土
特殊器台形埴輪、細線式獣帯鏡
三角縁を出土した最古級古墳に分類される権現山51号墳
特殊器台形埴輪、特殊壷形埴輪、三角縁神獣鏡 157日本@名無史さん2019/11/02(土) 09:23:08.64
>>150
>馬が導入された時期が中国の導入時期である4世紀初頭・・・
これも真っ赤なウソ 158日本@名無史さん2019/11/02(土) 09:28:47.13
>>143
>考古学の資料からは、特定の地域が限定できない。
↓
>となれば、卑弥呼の邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる。
絶望的な論理の飛躍
こんな狂った文章を本人が書くわけがないので
聞き取り、記事化の段階で何か致命的失敗があったのでないか 159日本@名無史さん2019/11/02(土) 09:46:44.72
倭国の都は移ろい動いている
邪馬台国ってのはある特定時期の倭国の都であって、そこは巻向が建造される前の都
どこから巻向に遷都されたのかは巻向への搬入土器を見ればわかる
160日本@名無史さん2019/11/02(土) 09:54:27.44
>>479
>三角縁神獣鏡が仿製鏡のみの鏡なのか、それとも舶載鏡も存在する鏡のか。
舶載鏡も存在する派が主張してるのが以下
「舶載鏡の様式研究が進み、舶載鏡にも五段階ほどの変遷があり、その最終段階では 〜」
つまり初期段階の三角縁縁神獣鏡は魏鏡だという説。<
△には、「海東」鏡などがあるから呉付近の鏡師の渡来であるし、
楽浪でも幾つか出土しているから呉系楽浪鏡師らの渡来であった可能性が高く、
洛陽では0〜1しかなくては列島の500個位の△の存在説明が出来ず、
魏鏡説は、×。
そもそも、列島の△などを、
渡来の呉系楽浪鏡師らの関与み考えが及ばず、
舶載鏡とホウ製鏡の分類しか出来ない、という時点で、
大和説学者らのインチキやチホウ性が明らか。 161日本@名無史さん2019/11/02(土) 10:06:29.92
0〜1とは何だ?
三角縁神獣鏡は洛陽から1面出土とはっきり書かんかい
162日本@名無史さん2019/11/02(土) 10:10:55.34
>>159
土器を見るなら東海一択だな
銅鐸王国(笑) 163日本@名無史さん2019/11/02(土) 10:16:15.47
>>153
畿内で3世紀の鉄がほとんど出てないというのと
三角縁神獣鏡が中国で1面も見つかっていないと連呼するのが九州説の荒らしマニュアルのテンプレなんだな
鉄器は畿内の古墳3基だけで600点
三角縁神獣鏡は洛陽で1面出土で三角縁と同じと言っていい斜縁神獣鏡は中国で珍しくないとソースつきで何回も言われているのに 164日本@名無史さん2019/11/02(土) 10:28:40.84
>>485
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言だるし、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は宗教であって、
史料事実や史料実態からの帰納的確率的な推論論考に基づく学説ではない。
宗教はオウム返しされてばっかりしているオウム真理教の大和説 165日本@名無史さん2019/11/02(土) 10:28:52.75
ウィキペディアの三角縁神獣鏡の項はひでえな
中国で見つかってるのに1面も見つかってないを連呼
まるでここに書き込んでる九州説の言い草そのもの
166日本@名無史さん2019/11/02(土) 10:31:28.77
>>159
>どこから巻向に遷都されたのかは巻向への搬入土器を見ればわかる
尾張になってしまう。 167日本@名無史さん2019/11/02(土) 10:35:28.69
168日本@名無史さん2019/11/02(土) 10:39:04.30
>>164
畿内が存在しないというなら九州も存在しなかったぞ
そしてオウム返しされてばっかりとはどういう事
やはり九州説は言われたことオウム返しすれば相手にはね返るとかいう信仰を持ってる宗教? 169日本@名無史さん2019/11/02(土) 10:42:20.32
>>163
それは荒らしではなく、畿内説への正当な批判だろ。 170日本@名無史さん2019/11/02(土) 10:42:41.98
171日本@名無史さん2019/11/02(土) 10:43:36.52
>>485
>既に定説になっているものを、「おかしい」といいたいなら膨大な論証が必要なんだが<
「南→東」だけでも、大和説は×。 172日本@名無史さん2019/11/02(土) 10:45:34.18
>>169
三角縁神獣鏡は中国で出土していて畿内の3世紀の古墳から鉄器は山ほど見つかってるのに?
批評じゃなくて明らかな嘘だろ 173日本@名無史さん2019/11/02(土) 10:47:30.77
>>166
だから俺は以前から邪馬台国は濃尾って言ってるわけで
王墓は象鼻山
象鼻山は面白いゾウ 174日本@名無史さん2019/11/02(土) 10:47:42.89
>>158
佐賀新聞主催「新・吉野ケ里シンポジウム=邪馬台国への遺・九州説に理あり」
のパネルディスカッションでの要旨だから
だいたいこういう内容のことを話したんだろう
清水真一は東京都立大学工学研究科建築学卒で
建造物の保存修復が専門 175日本@名無史さん2019/11/02(土) 10:48:40.86
>>160
三角縁に海東に至る…と書いてあるなら魏の鏡師じゃないの
三角縁には魏の年号と師出洛陽と銘が入っているし 176日本@名無史さん2019/11/02(土) 10:49:33.78
>>142
>また、箸墓古墳の土器や埴輪も布留式の時代ですから3世紀まで行くものではない。
関川の原始的な編年は出発点から間違っていたことが証明されている 177日本@名無史さん2019/11/02(土) 10:51:10.95
九州説は考古学的証拠を一切無視してやはり邪馬台国は九州と言うだけ
178日本@名無史さん2019/11/02(土) 10:57:50.90
>>165
>ウィキペディアの三角縁神獣鏡の項はひでえな
最近のウィキは荒らしが横行していて悪質な九州説信者が盛んにデマを書き込んでいる
心ある人が訂正を書き込んでも消されてしまうようだ
九州説は暇にあかせて手数で勝負するから
人々の善意に依存してるウィキはもうダメだろう 179日本@名無史さん2019/11/02(土) 11:00:33.41
>>128
>悪いけど、国民の7割に否定され、
あなたの論理は古田説が九州説の中で多数説でないと
古田説が国民の7割以上に否定されてることになるんだよ 180日本@名無史さん2019/11/02(土) 11:05:19.17
>>178
一体何なんだろうねえ
九州説に騙される人はコントロールできるとかいう宗教的な信念でやってるのかね
背後に統一教会や創価学会とか 181日本@名無史さん2019/11/02(土) 11:08:46.88
>>141
>大和に鉄がないから、他所から鉄器持った職人を呼ぶんだよな。
>大和に鑓鉋持ってる職人がいたら、わざわざ河内から呼ばんよな。
>つーことは、大和に鑓鉋がなかったということになるよ。
>もう諦めろ。
>大和に鑓鉋などの鉄器はなかったのよ。
さすが九州説、言うことがいつも支離滅裂だな
それ
>また、板を作る職人が大和に行って現場で板を作るという可能性は大いにあったと思うが
という自分の説だろ
他地域の住人が大和に鉄器を持って行って仕事したと主張するなら
大和に鉄があったんだろ
持って行ったんだからな
自分の主張も矛盾を突かれたのに気付いてないのか・・・
さすが九州説だ知能が極度に低い 182日本@名無史さん2019/11/02(土) 11:10:41.26
183日本@名無史さん2019/11/02(土) 11:11:45.75
>>504
>奴婢「埋葬」跡なんて魏志倭人伝に出てこないが
卑弥呼の墓に行われたのは殉葬 その痕跡は特殊器台<
張政らは、卑弥呼の埋葬を見ており、当然殉葬奴婢百余人も見て記録しており、
「特殊器台」を「奴婢の殉葬」だと見間違える筈がないから、
この男や大和説者は、×男。 184日本@名無史さん2019/11/02(土) 11:29:15.00
>>175
景初四年という年号が実在したけど抹殺された幻の年号だった場合
三角縁は後世の人が知り得ない歴史上の秘密の真実を証言したことになる
景初四年が実在しなくて改元を知らない遠隔地で誤って作られたがすぐ気付いて正始年銘鏡を作ったなら
改元当時リアルタイムに作られた鏡ということになる
他に合理的な選択肢がないのだから
どっちにしても三角縁神獣鏡の製造開始は3世紀前半末
卑弥呼が朝貢したタイミングそのものなんだよな 185日本@名無史さん2019/11/02(土) 11:31:06.38
>>182
ホケノ山とか副葬品と炭素14C年代測定法で
科学的に3世紀中葉とされているよ
そして画文帯神獣鏡や内行花文鏡はあるけれど
239年に倭に伝わった三角縁神獣鏡がないから被葬者が埋葬されたのはそれ以前 186日本@名無史さん2019/11/02(土) 11:31:35.23
>>182
>「3世紀の」という部分に嘘がある。
嘘だって証拠は?
認めたくない事実なっだけじゃないの?
だって証拠出すどころか、理由も言えないのだもの 187日本@名無史さん2019/11/02(土) 11:34:05.89
「3世紀なかごろ、奈良盆地に大きな墳丘をもつ前方後円墳が出現した。」
全国の高校生がこう教わってます
188日本@名無史さん2019/11/02(土) 11:46:25.70
>>183
奴婢を周りに埋めた痕跡のある古墳が国内のどこにもないので
魏使がそれを見れたわけがないだろ 189日本@名無史さん2019/11/02(土) 11:50:25.37
>>188
まあ箸墓は周りが掘られて池になってたり耕されてたりだから
痕跡はなくて当然だけどな 190日本@名無史さん2019/11/02(土) 12:03:23.24
クソテンプレ主へ
◆FAQ98
土器と政治状況を関連して考えるなら、
纏向は東海の銅鐸政権で、邪馬台国とは無関係だな
返事待ってるぞ
191日本@名無史さん2019/11/02(土) 12:10:56.94
>>190
理由言わないと返事はないと思われ
「考えると」って言ってもどう考えるのか不明だしな
でもなまじ書いたらお前アホだし晒し者にされるだけだぞ 192日本@名無史さん2019/11/02(土) 12:12:48.46
畿内説が早速返事に窮したの??
www
193日本@名無史さん2019/11/02(土) 12:20:40.01
>>184
景初四年が存在した証拠として
陳寿は三国志に正始元年を景初四年として記事を書いていて
例えば正始元年春二月乙丑…の乙丑は正始では合わなくて
景初四年一月乙丑とすれば暦に合う
そして晋書天文志にある景初四年三月己巳太白與…の己巳は景初四年の暦に一致していて
その後の記述少帝正始元年七月戊申朔…の申朔は正始元年の暦に一致するから
正始元年七月までは殷暦にするか夏暦にするか等の争いがあって
暫定的に景初四年が七月までは使われていたと考察してるサイトがあった 194日本@名無史さん2019/11/02(土) 12:30:01.08
>>192
>畿内説が早速返事に窮したの??
そらあ返答に困るわなあ
「土器と政治状況を関連して」どう考えたら
「纏向は東海の銅鐸政権で、邪馬台国とは無関係だ」
って結論が出たのか
なんにも 書いてないからなあ
「俺のさっき食った飯と味噌汁を関連して考えたら
纏向は東海の銅鐸政権で、邪馬台国とは無関係だ」
と言われたのと変わらん
「ハァ?」しか言うことが無い 195日本@名無史さん2019/11/02(土) 12:30:21.69
景初四年は7月ぐらいまで暫定的に使われて
その後記録を書くときに全部正始という事にしたというだけだな
青龍から景初年号に変更する際も似たような事があったのが記録に残っている
196日本@名無史さん2019/11/02(土) 12:33:11.55
>>畿内説が早速返事に窮したの??
>そらあ返答に困るわなあ
纏向は東海の土器がでるから、東海の銅鐸政権でFA
ご回答有り難うございました。
197日本@名無史さん2019/11/02(土) 12:49:42.62
>国民の7割に否定され
邪馬台国アンケート調査を実施したJタウンネットは、
やらせ報道、反日報道で読者の信頼度が日本の主要紙の中で最下位の朝日新聞系の
(株)ジェイ・キャストの事業
J-CASTニュースは「2ちゃんねるやブログをニュースソースとし、
テレビのワイドショーの感想や、取材もせずにコピー・アンド・ペーストで
軽いネタをそのまま報道する“ゴミカスのようなメディア”」という意味で、
蔑称として「Jカス」、また、
“炎上”している話題を報道して騒動を煽るメディアという意味で
炎上メディアと呼ばれることもある
また同業他社の社員の破廉恥行為(主として痴漢)は積極的に記事にしながら、
自社社員のそれはたとえ事実でも黙殺する、という批判を受けている
198日本@名無史さん2019/11/02(土) 12:53:44.58
>>196
>纏向は東海の土器がでるから、東海の銅鐸政権でFA
ハァ?
纏向は奈良県の土器がでるから、銅鐸はカケラの耳しか出ないから
奈良の非銅鐸政権でFA
って言ったら誰もがバカと思うだろ
あんたは今そう全国の人に思われた 199日本@名無史さん2019/11/02(土) 12:57:37.64
千葉県人:2015/02/22(日) 13:20:34.54 ID:.net
土器のことに関心があるようなので専門家の見解を少し書き込みます
東阿波式土器とは、厚さ2〜3ミリと、他地域の土器と比べ極端に薄く材料の粘土には
細かくすり潰された阿波の青石(結晶片岩)が含まれている
桜井市埋蔵文化センター著「ヤマト王権はいかにして始まったか」(平成19年編の)の中で
「纏向では、近年阿波系の土器が調査が進むにつれ増加しておりその傾向が研究者の間で
脚光を浴びている」とされている
大阪府文化財センター技師の方が書かれた「大阪府出土の讃岐・阿波・播磨系土器」では
「淀川以北摂津東部の6遺跡で阿波系が17個、摂津中部11遺跡で阿波系16個、旧大和川
周辺沖積平野の41遺跡で阿波系208個、和泉市11遺跡で阿波系19個など」
阿波系土器が圧倒的に多いことが明かされている
ってさ @阿波
補足。
その圧倒的に多い阿波系土器 以外の土器についても、それも「東阿波型土器」様式土器であることを付加えておく。 @阿波
200日本@名無史さん2019/11/02(土) 13:03:42.58
奴国(本拠地・近江)
↓(倭国大乱)
奴国(本拠地・出雲) & 狗奴国(本拠地・濃尾)
↓(誓約)
大和王権(巻向の国造り)
201日本@名無史さん2019/11/02(土) 13:06:18.34
ようし国民の100%が畿内説になるまでやってやる
202日本@名無史さん2019/11/02(土) 13:10:28.43
>>201
(捏造を)頑張れば頑張るほどに国民の心が離れていく畿内説 203日本@名無史さん2019/11/02(土) 13:13:37.89
204日本@名無史さん2019/11/02(土) 13:15:31.84
九州説は意味不明な信仰で人を騙そうとしてる薄気味の悪い宗教
205日本@名無史さん2019/11/02(土) 13:17:04.24
九州説は信仰活動はよそでやってくれないかな
206日本@名無史さん2019/11/02(土) 13:25:04.21
◆FAQ 98
Q:奥山とキナイコシは同一人物ではないのか!
同じような妄想を呟いているではないか!
A:
0772 日本@名無史さん 2019/11/01 12:16:16
>>771
元々頭おかしいのがキナイコシ
ed治療の副作用で頭おかしくなったのが奥山
ID:(772/1000)
0773 日本@名無史さん 2019/11/01 12:17:17
>>771
綺麗な捏造をするのが奥山
汚い捏造をするのがキナイコシ
ID:(773/1000)
0774 日本@名無史さん 2019/11/01 12:27:39
>>771
ルーツが韓国にあるのが奥山
ルーツが北朝鮮にあるのがキナイ 207日本@名無史さん2019/11/02(土) 13:27:01.80
>>206
統○教会とかから資金提供を受けてる九州説 208日本@名無史さん2019/11/02(土) 13:27:16.00
◆FAQ 98
Q:奥山とキナイコシは同一人物ではないのか!
同じような妄想を一日中呟いているではないか!
A:
0772 日本@名無史さん 2019/11/01 12:16:16
>>771
元々頭おかしいのがキナイコシ
ed治療の副作用で頭おかしくなったのが奥山
ID:(772/1000)
0773 日本@名無史さん 2019/11/01 12:17:17
>>771
綺麗な捏造をするのが奥山
汚い捏造をするのがキナイコシ
ID:(773/1000)
0774 日本@名無史さん 2019/11/01 12:27:39
>>771
ルーツが韓国にあるのが奥山
ルーツが北朝鮮にあるのがキナイコシ 209日本@名無史さん2019/11/02(土) 13:27:58.95
ハァ?
纏向は東海の土器がでて、銅鐸の耳しか出ないから、東海王権の支店だろう
でfa
210日本@名無史さん2019/11/02(土) 13:32:39.87
>>209
>纏向は東海の土器がでて
畿内の土器の方が何倍も出ますけど
泊地さんですか? 211日本@名無史さん2019/11/02(土) 13:37:14.50
>>210
だから支配されてたんでしょ。
東海に。銅鐸土民wwww 212日本@名無史さん2019/11/02(土) 13:39:45.58
>>514
>よって奴婢の殉葬は特殊器台が使われていた
三段論法で十分証拠だろ <
張政らは、
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」
を実見したから記録したのであり、
それを特殊器台と間違える筈がないから、この大和説男も、×男。 213日本@名無史さん2019/11/02(土) 13:40:54.74
214日本@名無史さん2019/11/02(土) 13:43:44.13
>>198
纒向は奈良県だから、奈良県の土器が出ることに不思議はない。
しかし東海の土器が出たら、その意味を考えなくてはいけない。
ところで、纒向の土器は東海で出たっけ? 215日本@名無史さん2019/11/02(土) 13:44:16.81
216日本@名無史さん2019/11/02(土) 13:50:53.29
>>519
>そりゃ記紀に古代では殉葬として奴婢が古墳の周りに埋められて
垂仁天皇がそれを哀れんで代わりに人物埴輪を埋めるようにしたとあって
その通りに人物埴輪が古墳周りから見つかってるし <
天皇なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、
記紀が半分偽書な訳で、信用出来ない。
>そして7世紀辺りの記紀が書かれた頃には殉葬の風習は廃れていてどういうものかわからなくなっていて
古墳の周りに埴輪が埋まってるのを見て奴婢を周りに埋めていたと誤解が生じていた可能性がある <
魏志倭人伝は、3世紀の魏の役人らに拠る実見記録であり、
8世紀の記紀の時代では全くなく、
しかも、「南≠東」などに拠って、大和の墓の話がそもそも、×。
ない。特殊器台は殉葬とは全く違う。 217日本@名無史さん2019/11/02(土) 13:59:18.05
218日本@名無史さん2019/11/02(土) 14:07:58.56
>>215
九州説こそ学会ではとっくに畿内説で決着ついていて
古代史は畿内説前提で論文書かれているという現実に目を向けようね 219日本@名無史さん2019/11/02(土) 14:11:18.60
>>214
>しかし東海の土器が出たら、その意味を考えなくてはいけない。
誰だって考えてるが
東海の銅鐸政権と考えたヌケマはいないな
だって前方後方墳は少数派だし銅鐸はない 220日本@名無史さん2019/11/02(土) 14:13:21.60
>>209
千葉県人:2015/02/22(日) 13:20:34.54 ID:.net
土器のことに関心があるようなので専門家の見解を少し書き込みます
東阿波式土器とは、厚さ2〜3ミリと、他地域の土器と比べ極端に薄く材料の粘土には
細かくすり潰された阿波の青石(結晶片岩)が含まれている
桜井市埋蔵文化センター著「ヤマト王権はいかにして始まったか」(平成19年編の)の中で
「纏向では、近年阿波系の土器が調査が進むにつれ増加しておりその傾向が研究者の間で
脚光を浴びている」とされている
大阪府文化財センター技師の方が書かれた「大阪府出土の讃岐・阿波・播磨系土器」では
「淀川以北摂津東部の6遺跡で阿波系が17個、摂津中部11遺跡で阿波系16個、旧大和川
周辺沖積平野の41遺跡で阿波系208個、和泉市11遺跡で阿波系19個など」
阿波系土器が圧倒的に多いことが明かされている
ってさ @阿波
補足。
その圧倒的に多い阿波系土器 以外の土器についても、それも「東阿波型土器」様式土器であることを付加えておく。 @阿波 221日本@名無史さん2019/11/02(土) 14:31:21.00
>>216
古い古墳では奴婢の殉死が行われそれに代えて埴輪を埋めるようになったと
記紀に書かれている通りの状況で実際に古墳から象形埴輪や人物埴輪が見つかっているんだぞ
文献の記述と実際の合致
これこそ動かぬ証拠というやつだろ 222日本@名無史さん2019/11/02(土) 14:33:59.01
>>141
>こう言いながら、「うわ、マズッ」と思ったんだろうなぁ。
>大和に鉄がないから、他所から鉄器持った職人を呼ぶんだよな。
>大和に鑓鉋持ってる職人がいたら、わざわざ河内から呼ばんよな。
>つーことは、大和に鑓鉋がなかったということになるよ。
本当に論理というものが根底から分かってないバカだなw
畿内説では、畿内大和に鉄がなかったなんていうバカな想定はしていない
弥生時代、弥生社会には鉄があるのが当然
倭国には青銅器時代はなかったって何度も教えてるだろ?
だから、畿内説には鉄を持った職人を呼ぶなんていう発想は最初からない!
九州説は大和に鉄がなかったっていうのだけが金看板だから、
鉄がなかったことにしなきゃいけなくて、だけど大量の矢板があるから
矢板はよそで作ったとかよそから職人を呼んだとかの、
バカな可能性を言い出す羽目になる(>>126)
>>136は畿内説が考えもしないバカ丸出しの>>126の「可能性ww」を無理に考えた場合、
それでも大和に鉄が持ち込まれる、つまり鉄があることになるってことになるのを説明してるんだよ
要するに九州説のバカ(>>141、お前だ)の「大和には鉄がなかったことにしたい」と
いう願いが完全に破綻してるってのを、わざわざ解説してるんだ
ここまで説明されても、バカすぎて理解できないかな?ww 223日本@名無史さん2019/11/02(土) 14:39:48.93
>>165
>ウィキペディアの三角縁神獣鏡の項はひでえな
それに限らず、邪馬台国論争関連の項目は全部ひどいよww
九州説に、無駄な働き者がいるから、インチキを書き込んで歴史の改竄を
繰り返している
八咫鏡の項目でも、
咫、中婦人手長八寸謂之咫、周尺也
(咫、ふつうの婦人の手の長さ八寸で、これを咫という、「周を計る尺度」なり)
なんていう大嘘を書いてたし 224日本@名無史さん2019/11/02(土) 14:41:19.20
>>181
>他地域の住人が大和に鉄器を持って行って仕事したと主張するなら
大和に鉄があったんだろう
持って行ったんだからな
もう脳みそがちぎれつつあるようだな。
持って行ったのなら、持って帰るだろう。
仕事終わったら、大和に鑓鉋はなくなるのよ。
当たり前の道理で、ちゃんと理路を整えようよな。
バ〜カ。
大和に鑓鉋など鉄器がなかったことは、ごく普通の考古調査の結果。
佐原真も鉄器が出土しないことは認めてるし。
大和の大溝の板は、他所の職人に仕事頼んだということよ。
大和に鉄はない。
大和説者は諦めろ。 225日本@名無史さん2019/11/02(土) 14:47:29.94
>>204
>九州説は意味不明な信仰で人を騙そうとしてる薄気味の悪い宗教
宗教というより、ザラゴキの書き込みを見ると分かるように、
政治的信念、イデオロギーからの情熱のように見える
まあ、儒教道徳が根底にあるようだから、儒教を宗教と見れば
宗教的なんだろうけれど
句点をきちんと付け続ける「邪馬台国の会の中の人」は、
営利的なポジショントークっぽさもあるけれど 226日本@名無史さん2019/11/02(土) 14:57:04.61
>>224
>持って行ったのなら、持って帰るだろう。
はあ、まだ墓穴を掘るのかな?
つまり、大和では必要に応じていつでも鉄が使える状態にあった
いつでも頼めば鉄を持った職人さんが来てくれるって、
そうお前は言ってるんだぞ?ww
纏向大溝の矢板の量は大量だから、纏向大溝を作っていた時期には
倭国で一番たくさんの鉄器が纏向遺跡にあったんだろうな
実際、鉄用の砥石が纏向遺跡から大量に出土しているし
畿内大和には鉄がないっていうのを、自分で否定してるww バカすぎ
そして考古遺物としても、鉄は大量に出土している
○ホケノ山 畿内 3世紀中葉
鉄鏃 約60本
素環頭大刀 1口
鉄製刀剣類 10口
○椿井大塚山古墳 畿内 3世後葉
鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、
銅鏃17本、鉄製甲冑1領、鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、
鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上、
鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本
その他鉄製冠ではないかと疑われる鉄製品
○黒塚古墳 3世紀後半
刀剣類27口以上、鉄鏃170本以上、小札、U字形鉄製品
この3古墳だけで、例えば鉄鏃は弥生時代全期間の北部九州の全出土量を超えている 227日本@名無史さん2019/11/02(土) 15:03:29.22
>>222
>畿内説には鉄を持った職人を呼ぶなんていう発想は最初からない!
そりゃそうだろう。
倭人伝は倭には鉄器があると書いてあるのだし、大和の邪馬台国に鉄がなけりゃ大和邪馬台国を返上しなけりゃならんからな。
で、大溝の矢板に鉄器による加工痕ある→大和に鉄器はあったになるわけ。
し〜かし、大和で鉄器が出ないのは佐原真も認める事実だから、その矢板は河内から鑓鉋持った職人を呼んで作ったと考えれば、
まるっと矢板の謎は解ける。河内では弥生時代中期から少ないものの鉄器は出てるからな。
こういう合理的な推論をアホ呼ばわりしなければならない大和説者の想像力の欠如にはおそれいるしかない。
で、大和ではどんな鉄器が出たの? というおちょくりになるわけだが、
鉄器存在の最後の切り札矢板地元生産説も、かくももろくも崩れ去るのだな。
河内の板作り職人に頼んだというのが真相だろう。 228日本@名無史さん2019/11/02(土) 15:16:06.61
>>227
>鉄器が出ない
鉄器が「出ない」と鉄器が「なかった」はイコールではないと何度教えれば
1700年間、原形を保つ鉄製品はない
古墳の墳丘ですら削平されて畑になっている土地で、錆びた鉄が耕されたら
土の中に混じってしまって見つけられないだけだ
古墳で鉄が見つかるのは、耕されていない埋葬主体から見つかる
大和でで鉄が出ないというのはその程度ののことで、九州説が
弥生社会に鉄がなかったと思い込んでいるところがバカすぎ
左側スロープ君が、特殊器台からリンを検出してみろとかバカなことを
言っているけれど、纏向遺跡の土を分析すればどこの土からでも必ず鉄が
検出されるんだよ
知ってたかい? (釣れるかな?) 229日本@名無史さん2019/11/02(土) 15:16:18.36
>>226
>つまり、大和では必要に応じていつでも鉄が使える状態にあった
大和の地元には鉄器がなかったことを晒しているよな。
鉄用の砥石が出土しているそうだが、その職人たちが仕事終えて河内へ帰るときに、荷になるものは捨てて行ったということだろう。
鉄器は簡単に手に入らないが、砥石はいくらでも手に入るからな。
いずれにしても、矢板も砥石も皆外注による仕事だということはまず間違いないよな。
で、倭人伝は、地元で鉄器が普通に使われていると書いてるよね。
いったい、鉄器職人に外注しなければならない邪馬台国て、お笑い?
追加で油投入。
ホケノ山も椿井大塚も3世紀中頃からの墳墓。
卑弥呼生存中の3世紀前半の墓ではないので、
3世紀前半に鉄器が大和にあったという証拠にならんな。
もう諦めろ。 230日本@名無史さん2019/11/02(土) 15:30:10.81
偉そうなことばかり語っているけどw
お前の名前は?と聞いているんだよ
中国(むかーしの渡来系)のほうが上だろう、
その後に渡って来ているんだし、
そういう家の人々に聞いたほうが良い、早いと言っているのに
231日本@名無史さん2019/11/02(土) 15:31:04.15
>>224
>持って行ったのなら、持って帰るだろう。
>仕事終わったら、大和に鑓鉋はなくなるのよ。
仕事してるあいだ大和に鉄器あるよね
なんの問題もない 232日本@名無史さん2019/11/02(土) 15:33:47.09
まさか・・・傾いた松の木?あの写真の家w
「むかーしの中華なんだろう」?
233日本@名無史さん2019/11/02(土) 15:33:57.52
>>229
>大和の地元には鉄器がなかったことを晒しているよな。
まず前提として、鉄器がなかったと考えている人は畿内説にはいない
その上で「鉄器がなかったことにしなければいけない九州説のバカすぎる想像」に
したがって考えても、畿内大和に鉄器が潤沢に使える状態で存在したことにしかならない
お前がバカなだけww 234日本@名無史さん2019/11/02(土) 15:34:25.08
>>228
古墳の墳丘ですら削平されて畑になっている土地で…
3世紀代の大和では古墳からしか鉄がでないのは何か特殊事情があったから、と考えないのかな。
やはり想像力の欠如が著しいな、老化だよ。
弥生後期の北部九州や山陰では、住居跡からでさえ鉄器が出ている。
だのに、大和では3世紀中頃以降の古墳からしか鉄器が出ない。
この発掘結果は、大和の特殊事情がしからしめたものだということは明白よ。
つまり、大和では元々鉄器がまったく普及していず、その状態は古墳に鉄器が副葬されるようになる3世紀中頃以降もごく普通に続いたということだな。
だから、人民の住居跡でいつまでも鉄器が出ないのだわ。
こんな鉄器過疎地帯が卑弥呼の都であるわけない、と思うんだよなぁ。 235日本@名無史さん2019/11/02(土) 15:36:50.80
鍛冶のおやじは雑戸だからな
236日本@名無史さん2019/11/02(土) 15:37:43.91
近衛の大将?
自殺したりした人物がいるでしょ?
家は、そういう家でもないし、河伯〜河童?何なんだろう
237日本@名無史さん2019/11/02(土) 15:38:57.05
>>229
>鉄用の砥石が出土しているそうだが、その職人たちが仕事終えて河内へ帰るときに、
つまり鉄様の砥石が大量に存在することは認めるんだな?
この時点で、纏向遺跡に大量の鉄があったことが確定するんだが?
その後移動しようが、溶けようが(笑)、
纏向遺跡に大量の鉄器が合ったことは動かない 238日本@名無史さん2019/11/02(土) 15:41:49.38
>>233
>まず前提として…
234で回答しているので、この投稿は無視。 239日本@名無史さん2019/11/02(土) 15:41:57.56
>>234
>弥生後期の北部九州や山陰では、住居跡からでさえ鉄器が出ている。
それは耕されていないからだよ
ちゃんと書いてあるだろ? 240日本@名無史さん2019/11/02(土) 15:44:21.21
>>234
>大和の特殊事情がしからしめたものだということは明白よ。
その通りだよ!
藤原京の整備その他、奈良盆地では土地利用の、大幅な変更が繰り返されているので
土壌の擾乱が大きかった
そうすると、鉄さびなどは検出できなくなる
これを、冗談交じりに「鉄が溶ける」と表現した人がいるだけ
二回目
纏向遺跡の土を分析すればどこの土からでも必ず鉄が
検出されるんだよ
知ってたかい? (釣れるかな?) 241日本@名無史さん2019/11/02(土) 15:44:45.13
河童の作者でもないし、
カッパの作者も自殺したでしょ
242日本@名無史さん2019/11/02(土) 15:49:49.90
『近衛 大将 自殺』
河伯、河童?も同じようなことが書いてあるし、
自殺はしていないんだけど、たしか仏〜?それとも仙道?
『近衛 沙悟浄』
243日本@名無史さん2019/11/02(土) 15:51:17.70
>>237
>その後移動しようが、溶けようが…
纏向遺跡に(外から持ち込まれた)大量の鉄器が(一時的に)合ったことは動かない、が正しい認識だな。
そして、職人たちが仕事が終えて帰ったあとは、砥石だけが残されて再び大和に鉄器のない状態が訪れた。
つまり、どう捏ね繰り回しても、大和に常時鉄器があったことにはならんのよ。
諦めろ。 244日本@名無史さん2019/11/02(土) 15:57:11.86
謎の写真(キュウリのような葉、葱の華w)の当時の話、
政治家でも軍人でもない?みたいな事を言っていたり
245日本@名無史さん2019/11/02(土) 15:57:12.87
>>240
>纏向遺跡の土を分析すれば…
邪馬台国を決定するような鉄の問題がこんだけ続いているのに、まだ分析してなかったの?
その分析結果みて、世間の笑いものになるのが怖くて、分析に手を出したくないのかもな。 246日本@名無史さん2019/11/02(土) 15:59:57.68
>>245
>邪馬台国を決定するような鉄の問題
「邪馬臺国」を決定するのは、「丹」だよ。 わははははは @阿波 247日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:00:27.72
>>245
>邪馬台国を決定するような鉄の問題
「邪馬臺国」を決定するのは、「其山有丹」だよ。 わははははは @阿波 248日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:02:48.78
>>239
>それは耕されてないからだろよ。
纏向遺跡でも大型建物群が出ており、その他の大和の遺跡でも多数の遺構が掘り出されている。
これらの遺跡は耕されていた深さのさらに下にあったから残っていたのだよ。
このことは、どこも同じだ。
たわけたことを言うてはいかん。 249日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:04:40.21
>>245
>邪馬台国を決定するような鉄の問題がこんだけ続いているのに、まだ分析してなかったの?
>その分析結果みて、世間の笑いものになるのが怖くて、分析に手を出したくないのかもな。
アハハハハハハハハ
釣れた! 釣れた!
大笑いwww 250日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:07:29.81
>>247
>「邪馬台国」を決定するのは、「其山有丹」だよ…
丹が出た阿波は、倭地。
倭国の邪馬台国から遠く離れた周縁の地。
倭種の国の一つな。 251日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:08:07.68
職人は仕事を終えたら次の現場に道具を持っていって作業する
住居に捨ててはいけない
宮大工は100種類のノミを使い分けるという
毎日研いでピカピカの状態にしている
素人のお爺さんあたりは使った道具を庭に置き忘れて
サビてしまっていることが多い
252日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:09:11.67
>>249
>アハハハハハハハ
釣れた! 釣れた!
とうとう敗北宣言か。 253日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:09:39.42
>>219
>だって前方後方墳は少数派だし銅鐸はない
銅鐸すらもらえなかった辺境の地?
何も出ないのに王都だと言い張るなら、日本中がどこでも邪馬台国になってしまう。 254日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:10:51.88
>>225
いやー政治信条というのは謎
九州説に人を誘導してどんな政治的効果があるかは不明
普通の人には不可解で九州説にとっては確信的な信仰思想に基づいて
組織立って資金まで投入してやってると思えばいくら嘘がバレても引き下がらないというのがしっくり来る 255日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:11:10.79
>>248
>纏向遺跡でも大型建物群が出ており、
その大型建物群の柱跡、あるべき深さの半分しかなく、
また柱穴の半数がより深く掘られた溝により失われていることも知らないのかい?
建物Dの左側の柱穴、検出されてないだろ?
大型建物群が作られた当時の地表面が、全て、その後の土地利用によって
削られてしまっているんだよ
柱穴という深い遺構だから残っていた訳で、単純な住居跡なら
完全に消失していることになる 256日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:11:49.26
>>222
>弥生時代、弥生社会には鉄があるのが当然
纒向は非常識なんだよ。
畿内でもひどい辺境。
>矢板はよそで作ったとかよそから職人を呼んだとかの、
纒向に下女1000人が大和川で通勤したなどという畿内説よりはマシ。 257日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:14:24.86
>>252
やっぱり九州説ってのは、もの知らずが想像を振り回してるだけってのが
また改めて証明されたなww
最初から(釣れるかな?)って書いてあるだろ?
鉄という元素は、地球の近くの中でも大量に存在する元素で、
「どこの土をとっても必ず入っている元素」なんだよww
だから、鉄の有無を土壌サンプルの元素分析で調べようとする人は
「いるはずがない」ww
そんなことも知らない大バカだけが、こうやってバカをさらして恥をかくww
>>245
>邪馬台国を決定するような鉄の問題がこんだけ続いているのに、まだ分析してなかったの?
>その分析結果みて、世間の笑いものになるのが怖くて、分析に手を出したくないのかもな。 258日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:14:26.14
>>251
>住居に捨ててはいけない
北部九州や山陰では、工房を兼ねた住居あとから鉄器が出る。
大和は、3世紀中頃以降、古墳からしか鉄器は出ない。
大和には鉄器をもちいた工房がなかった、ということだ。
大和が鉄器過疎地帯だったことは、動かんよ。 259日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:17:10.13
>>256
>纒向に下女1000人が大和川で通勤したなどという畿内説よりはマシ。
また捏造してるww
奈良盆地の中にも、唐子鍵を始め多くの集落がある
纏向遺跡に一番近い拠点集落は芝遺跡だな
260日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:18:16.24
九州説の邪馬台国の会が荒らしを雇ってるのはもうバレてるけど
結果は金をドブに捨ててるようなものだな
261日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:19:14.74
>>226
>倭国で一番たくさんの鉄器が纏向遺跡にあったんだろうな
そこで根拠もなく一番とか言うから信用されないんだよ。
大溝は奴国で最初に作られ、纒向は数百年遅れ。
実際には鉄器が出ないのだから、鉄器を使った人たちは纒向には定住していなくて、どこかへすぐいなくなったんだよ。 262日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:19:23.59
>>250
いくら言い張っても、丹が出た阿波は、女王国。 @阿波 263日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:20:16.98
>>226
>この3古墳だけで、例えば鉄鏃は弥生時代全期間の北部九州の全出土量を超えている
九州が大量の兵員を送り込んだことがわかるね。 264日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:20:25.19
>>254
>いやー政治信条というのは謎
これは、九州説を支持しているというよりも、畿内説を攻撃するのが目的なんだよ
3世紀から立派な国家機構があって、それが現在まで続いている世界最古の国というのを
否定したい、という政治的な動機
アンチ日本、日本下げが目的
九州説はその手段として乗っ取られているのに近い状況
背乗りって言葉は聞いたこと、あるでしょ? 265日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:20:49.75
>>245
>邪馬台国を決定するような鉄の問題
「邪馬臺国」を決定するのは、「其山有丹」だよ。 わははははは @阿波 266日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:22:21.17
>>228
>古墳の墳丘ですら削平されて畑になっている土地で、錆びた鉄が耕されたら
>土の中に混じってしまって見つけられないだけだ
同じ条件で九州にはそれでも多くの鉄器が見つかるのに?
水害とかは九州の方が多いから、失われた遺跡も多いはずなのに。
ベースとなる鉄器の総量で九州の方が圧倒的であったと考えるべきだよ。 267日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:22:57.59
>>254
>組織立って資金まで投入してやってる
これをやれるほど、九州説には力がない
だから、九州説の背後の存在を考えないとってこと
どこぞの国に、政府機関がお金を出してネット上の書込み部隊を
組織しているところがあるでしょ? 268日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:24:00.10
>>245
>邪馬台国を決定するような鉄の問題
トンデモさんたち、「邪馬臺国」を決定するのは、「其山有丹」だよ。 わははははは @阿波 269日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:24:28.68
>>257
× 地球の近くの中で
○ 地球の地殻の中で 270日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:26:20.85
>>255
>大型建物群が作られた当時の地表面が、全て、その後の土地利用によって
>削られてしまっているんだよ
そんなことは纒向だけの話ではない。
纒向だけ特別扱いしてダブスタしていたら、いつまで経っても何も理解できないままだぞ。
それでも九州では多くの遺跡が見つかる。
もともとの人口密度も鉄器の密度も何もかもが大和と九州北部では桁違いだよ。 271日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:26:57.91
>>266
>水害とかは九州の方が多いから、失われた遺跡も多いはずなのに。
平野部の水害では、むしろ土壌が「遺跡面の上に堆積する」んだよ
とことん物知らずで適当な思い付きを書きまくるだけ
まあ、バカをさらしてくれるほど九州説のいい加減さが浮き彫りに
なるだけだからいいけどさ 272日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:28:53.64
>>257
>「どこの鉄をとっても必ず入っている元素」なんだよ
アホちゃう?
鉄器が錆びて粉末状の元素に分解したら、周囲の自然鉄元素の密度に比べて大幅に高い濃度の元素部分がみつかるわな。
こんなことも知らない大バカがいるとは、わしらには信じがたいな。
ちゃんとその密度の高い部分があるかどうか、調べてから言え。
バ〜カ。 273日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:29:53.73
>>270
>そんなことは纒向だけの話ではない。
纏向遺跡だけではなくて、奈良盆地全体の話だよ
長い間、大和朝廷の中心地だったからね
唐子鍵遺跡だって、遺跡の名前からして「唐子池」「鍵池」から来ている
池の底になっていたから、遺構が残っていたという側面がある
それほど、奈良盆地は遺跡が残るのには不利な土地なんだよ 274日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:30:21.99
>>264
あーそれはあるかもな
まあ古来政治と宗教は一体だったし今でも根本的な所は同じ
歴史修正で有名なのは朝鮮儒教もそうだけれど共産思想がそうだな
歴史を都合よく書き換えるのが政治的パワーとそういう思想か 275日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:30:25.59
>>257
>鉄という元素は、地球の近くの中でも大量に存在する元素で、
>「どこの土をとっても必ず入っている元素」なんだよww
それは嘘。
普遍的にあるわけではない。
重い元素なので、地殻には相対的には少なく、分布の偏りは大きい。
だからこそ鉄鉱石の産地は珍重される。
鉄器の痕跡を検出できるのは稀だろうが、他の土地でも見つかる鉄器が纒向で出ないというのは、やはり後進地域だったと考えるしかない。
畿内説はこのように嘘を平気で書くから支持者が離れる。 276日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:30:36.78
>>261
近畿で多く作られる環濠集落が大溝
ヒノキの矢板で護岸した大溝が纏向大溝 277日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:33:36.59
>>263
>九州が大量の兵員を送り込んだことがわかるね。
いつもザラゴキをバカにしているネタなんだけど、それを送り出した九州の
3世紀の鉄製品はどれくらい出土しているんだい?wwww
遠征軍に持たせる分であれほど大量なら、本国にはもっとたくさんあったんだよね?
遠征軍を出した後に攻め込まれても大丈夫なように、本国にはさらに多くの鉄器がないと
おかしい
3世紀の、北部九州の鉄の出土状況が、畿内の3古墳よりも多いという根拠があるから
「九州が大量の兵員を送り込んだ」なんて言ってるんだよね?
3世紀の九州の鉄の出土遺跡、具体的に教えてよ
まさか、鉄が溶けたから出ないなんて言わないよね?wwwwww 278日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:34:05.14
>>273
>池の底になっていたから、遺構が残っていたという側面がある
>それほど、奈良盆地は遺跡が残るのには不利な土地なんだよ
言っていることが支離滅裂だよ。
池だから奈良盆地は残りやすかったんだよ。
なのに残っていない。
もともとなかったからだ。
何も見つからないのに王都だと空騒ぎしているのが畿内説。 279日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:34:43.48
>>267
歴史修正主義の実践だから九州説の背景はガチガチのマルクス主義とかの
共産党関連かねえ 280日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:35:16.87
桜井市の宗教団体が、他者を宗教呼ばわりして攻撃しているスレはここですか?
281日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:35:39.97
便所の落書き
282日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:36:22.73
>>275
>だからこそ鉄鉱石の産地は珍重される。
鉄鉱石ほど塊りになってるのが珍しいだけで、
鉄はどこの土壌にも普遍的に存在してるんだよ
ちょっとは自分でググって見ろよww
こう煽られて、きちんと調べたと書いた上で恥をかいた「青銅器時代」の
二の舞をもう一度演じてくれるんでも構わないけれど?www
本当によく釣れるww 283日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:36:48.19
弥生時代鉄鏃出土数
東北**1 群馬*21 千葉*63 東京*37 長野*27 石川*55 福井*32
滋賀*13 京都112 大阪*40 兵庫*92 奈良**4 和歌山**5
岡山104 広島*79 山口*97 鳥取*46 島根*30 香川*36 愛媛*25 高知*53
福岡398 佐賀*58 長崎*29 熊本339 大分241 宮崎100 鹿児島**3
鉄製鏃の出土は福岡県、熊本県、大分県の順番になっておりそれ以下の地域の出土数は
極端に少ない、邪馬台国と狗奴国は戦争をしていたと記載があるので邪馬台国が福岡県
の南部、狗奴国が熊本県北部となり大分県日田地方は邪馬台国連合国家の1つとなる
ちなみに福岡県は筑紫、熊本県は肥国、大分県は豊国
白日別:筑紫国、豊日別:豊国、建日向日豊久士比泥別:肥国、建日別:熊曾国
しかし肥国と熊襲国は名前が被っている。そして熊襲タケルの墓は肥前河上にある。
おそらく有明海沿岸が筑紫宗家の味方の時は肥国、敵となった時は熊襲と呼んだのだろう。
少し違うデータだが、筑紫、肥国、豊国、出雲、越という倭国の主要構成地域がよくわかる。
その中でも魏志倭人伝で郡使が滞在し、記紀で日向三代の王都とされるのは筑紫。 284日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:37:26.38
>>278
>池だから奈良盆地は残りやすかったんだよ。
は?
奈良湖なんてないぞ?
このレベルでバカなのか? 285日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:38:54.96
>>283
そのうちで、畿内に「九州が大量の兵員を送り込んだ」あとのものはどれですか?www
弥生時代「全期間」では無意味だと何度言われればww 286日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:40:02.52
>>268
>「邪馬台国」を決定するのは「其山有丹」だよ
丹の出た阿波は倭地。
邪馬台国のある倭国からおよそ千百里東の倭種の国。
古墳時代初め頃、東阿波型土器そのものは邪馬台国に入っていないのと違う? 287日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:40:46.58
>>280
畿内説は学説
そして九州説その他が宗教なんだからそう言われるのは当然だろ 288日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:43:04.30
>>272
>鉄器が錆びて粉末状の元素に分解したら、周囲の自然鉄元素の密度に比べて大幅に高い濃度の元素部分がみつかるわな。
土壌中の元素分析をするのには、土壌中の物質を溶解してその水溶液で調べるんだよ?
元素分析、大学の学生実験でやらなかったのかい?
粉末状の元素とか言ってるし、科学の素養、ゼロだなこいつは
砂金掘りみたいに、土壌中の小さな錆びの塊を拾い集めるとか思ってるんだろうか?
もう釣れまくりで、腹筋にかかる負担が大きいww 289日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:45:15.01
鉄元素は他の多くの元素と共存する「親和力」を持つ。
珪素や硫黄などと結び付き軽い化合物として地表にも多く浮き上がったため、
重い鉄が地表に存在する。
290日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:45:57.76
>>274、>>279
まあ、ザラゴキみたいなのは、若い頃に作り上げてしまった信念がいまさら
修正できない老害なんだろうけれど、今がんばっている「。」を付けずにいられない人は
政治的な背景を持っている気配がある 291日本@名無史さん2019/11/02(土) 16:46:55.34
しかし人を九州説で騙してどうするのかというのが不可解
単なる嫌がらせにしてはほっとけばいいのに5chのスレなんかに人を雇ってまでの執拗過ぎる攻撃
どうも背後にあるのは一般の理解を超えた狂妄があるような気がする
やってる事と動機が不可解過ぎて
292日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:00:30.92
>>258
北部九州では工房でもなく、集落の中心でもない住居あとから鉄器が出る
朝鮮から持って来たお爺さんが家に置いてることを忘れてしまったためだと考えられている 293日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:01:58.82
>>258
>大和には鉄器をもちいた工房がなかった、ということだ。
相変わらず「見ない聞かない認めない」だなw
何度目だ?
纒向遺跡で鉄も鉄鍛冶跡も出てるよ
「纒向遺跡174次調査」
「調査地は纒向石塚古墳の北東200m、居館域の発掘調査地点からは北西に約400mの地点
(中略)
調査の結果、浅い土坑や小規模な溝を検出したにすぎませんでしたが、
約60uの小さな調査範囲からコンテナケース20箱分の多量の遺物が出土しました。
そのほとんどは纒向遺跡の最盛期である3世紀代のものです。
それらの遺物の中には、近辺で鉄器生産がおこなわれていたことを示す鞴(炉に空気を送り込む道具)の
羽口や鉄滓、鉄片など特筆すべきものがありました。」
いくら「纒向に鉄はない」って呻くようにただ繰り返しても、それは事実とは合わないんだよ 294日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:02:26.12
>>285
>弥生時代「全期間」では無意味だと何度言われればww
なぜ無意味なのかな?
弥生時代そのものが筑紫倭国の時代だから、問題ないよ。
弥生時代全体を通じて、纒向には鉄器がなかった。 295日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:04:33.39
>>291
>5chのスレなんかに
5chのスレだからこそ、なんだと思うよ
ウィキペディアのウソ編集と同じ
ネット上のことなら、在宅でできるからやりやすいんだと思う
ウィキペディアでウソ編集が悪質になっている分野と、九州説の背景が
一致してるっていう理解が一番合理的 296日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:05:04.62
>>288
>砂金掘りみたいに、土壌中の小さな錆びの塊を拾い集めるとか思ってるんだろうか?
鉄鏃って、どれくらいの大きさかわかっている?
土器の破片やカエルの骨だって、同じように篩で探したんだよ?
物質を溶解してしまったら、その鏃の由来がわからなくなるじゃないか。 297日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:05:26.00
九州説の背景は日本の歴史を攻撃するのが実効的手段と確信を持ってて
組織立てて資金も投入して嘘がバレても念仏のごとく延々やってると
背景はそれなりの規模の宗教団体に思えるなあ
298日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:05:36.73
299日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:06:25.11
300日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:10:45.45
>>294
>なぜ無意味なのかな?
今、問われているのが、畿内3古墳の鉄の出土状況を見て、
畿内に「九州が大量の兵員を送り込んだ」からだと主張する人がいるから、
その根拠を訊いている
それであるなら、畿内の3古墳が作られた時期及びその前後が、
「問題の時期」なんだから、その時期について答えられなければ無意味
で、3世紀の、北部九州の鉄の出土状況が、畿内の3古墳よりも多いという根拠があるから
「九州が大量の兵員を送り込んだ」なんて言ってるんだよね?
3世紀の九州の鉄の出土遺跡、具体的に教えてよ
まさか、鉄が溶けたから出ないなんて言わないよね?wwwwww 301日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:13:23.75
>>522
>>515
>誰一人校勘しなかったというのは
間違ってるのがそのままだった可能性が否定しきれない証拠ということ<
倭人伝の2000字で、差異が発生したのは、
「郡支國と都支國」と「黄幢と黄憧」の二つだけであり、0.1%であり、
「對海國と對馬國」は、
始めか紹興本の「對馬國」が書き換えをやった事が自明であったらしく、
校勘対象にもなっていない。 302日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:13:48.35
>>295
漏れがもし九州説で効果的に人を騙そうと思ったら畿内説スレは放っておくね
九州説は元から非倫理で書き込めば負けるのがわかっているから
それでもなお書き込むというのはやっぱり九州説は非倫理的な観念が背景で
嘘が真実にでもなるよう念じながら組織的に資金を使って念仏でも唱えてるように見える 303日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:14:50.46
何次にもわかれて送り込まれたのだろうから、年代の比定は意味がない。
304日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:15:08.95
>>299
本部という発想がそもそも出てくる時点で
九州説には「本部」があると自白しているようなもの 305日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:15:24.70
>>296
>鉄鏃って、どれくらいの大きさかわかっている?
>土器の破片やカエルの骨だって、同じように篩で探したんだよ?
>物質を溶解してしまったら、その鏃の由来がわからなくなるじゃないか。
また、話を摩り替えてるww
お前はこれ↓に釣られたんだよw
「纏向遺跡の土を分析すればどこの土からでも必ず鉄が
検出されるんだよ
知ってたかい? (釣れるかな?)」
最初から「土壌」の分析だww 遺物探しの話はしてないw
それに釣られたお前のバカさらしがこれ↓(>>245)
「邪馬台国を決定するような鉄の問題がこんだけ続いているのに、まだ分析してなかったの?
その分析結果みて、世間の笑いものになるのが怖くて、分析に手を出したくないのかもな。」
「無知でした、バカでした」って間違いを認めて謝れないところが
かの国の半島儒教の道徳観なんだよな
「謝ったら負け」ってやつww 306日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:16:20.61
307日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:17:07.46
>>303
>何次にもわかれて送り込まれたのだろうから、年代の比定は意味がない。
大和の古墳を3世紀後半またはそれ以降って「九州説が言ってる」だから、
特定しないまでも、その範囲で構わないぞ?
で、その時期の、北部九州の鉄の出土状況が、畿内の3古墳よりも多いという根拠があるから
「九州が大量の兵員を送り込んだ」なんて言ってるんだよね?
その時期の九州の鉄の出土遺跡、具体的に教えてよ 細かく時期を特定しなくていいからさ
まさか、鉄が溶けたから出ないなんて言わないよね?wwwwww 308日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:17:12.94
>>528
>人物埴輪が5世紀中ごろとか誰が言っているのかな
特殊器台なら箸墓の他に西殿塚古墳 中山大塚古墳 弁天塚古墳
などの比較的大型で前方部が撥形で最古式の前方後円墳から
宮山型特殊器台が出土している<
どっちにしても、
張政らが「jun葬者奴婢百餘人」と特殊器台とを見誤る筈がない。 309日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:18:07.63
>>305
だから、分析するんじゃなくて、篩にかけるんだって。
キナイコシは本当にものを知らない頭デッカチのエセ科学。 310日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:19:35.63
>>306
>違う人物です。
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
日本史板が、IDなしのスレでよかったな
別人でも構わないから、同じ九州説の誼で答えてあげてもいいんだよ?
それとも、同じ九州説の人から見ても「恥ずかしいやつ」だから、
同類扱いされたくないのかな?ww 311日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:20:11.70
>>309
>だから、分析するんじゃなくて、篩にかけるんだって。
そんな話はしていないww
お前が釣られたバカだってだけww 312日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:20:37.43
>>530
>いや論文とか卑弥呼前提で書くことになる
畿内説は定説だから
それ以外の前提で書いても基本相手にされない <
という事は、教授や学界や文科省らが全員、
「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・詐欺師であった、という事だ。 313日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:21:35.70
まあ九州説の目的は嘘がバレバレでも書きまくって
最終的にはスレを潰す事なんだろうけど
金かけてそうまでしてやるのがまったく不可解
単なる八つ当たりとしたら狂的過ぎる
314日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:22:14.93
>>309
>だから、分析するんじゃなくて、
あれれぇ〜、おかしいなぁ〜?
>>245は「分析」って何度も書いてるよ?www
「邪馬台国を決定するような鉄の問題がこんだけ続いているのに、まだ『分析』してなかったの?
その『分析』結果みて、世間の笑いものになるのが怖くて、『分析』に手を出したくないのかもな。」
世間の笑いものになったのは九州説の方だったなww 315日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:23:02.31
316日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:23:10.17
>>292
いくら言い張っても、碌な鍛冶炉遺構弥生集落遺跡や資源の無い北部九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。
九州は、倭国(阿波)による鉄器被供給地域! @阿波 317日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:23:14.58
>>313
まあ、イデオロギーには理由はないからね
そういうのにはまりやすい人が、今どき九州説をやってるんだよ 318日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:31:36.17
それから少し前に左側スロープ君あてにこんなのを書いたんだが
「リンが検出されたところで、1700年前の人間の体組織由来の可能性より
5年前の鳥の糞由来の可能性の方が高い」
これと同じように、鉄錆びの微粉が篩いにかかったところで、
1700年前の遺物か、10年前の針金かは区別ができない
芯まで錆びて形状が崩壊したものは、鉄器の存在をしめすものにはならないんだよ
319日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:35:14.43
320日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:35:44.16
九州説の根拠一覧
・短里で萬二千里は九州
・方角で南と書いてあるから九州
・水行、陸行は総旅程を改めて書いたもので起点は帯方群
・平原1号墓は八咫鏡が出たから卑弥呼の墓
・鉄が多いから九州
これくらいかな?
321日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:38:17.29
「鳴門板野古墳群 西山谷2号墳」
萩原1号墓の近隣地に所在する尾根を削り出して整形した、墳丘の長径20m、短径18m、高さ約2mの不整形の円墳である。
墳丘の中央部に長さ4.72m、幅 北端で1.05m、南端で0.83mの南北方向を主軸とする長大な竪穴式石室がある。
竪穴式石室は、南北6.5m、東西4.8mの墓壙全体が結晶片岩と呼ばれる阿波特有の青い石で覆うように造られている。
石室内には、粘土床があり、その上に朱を敷き詰めたU字形の刳抜式木棺を安置していたものと推定されている。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波
斜縁上方作銘獣帯鏡と呼ばれる中国製の青銅鏡1面をはじめ、鉄剣・鉄槍・鉄鏃・土器などが出土している。
鏡は面径12.5cm、重量約157.6gで、右回りに「上方乍鏡竟大工青龍白虎子」の銘文と神仙像と5体の獣形のレリーフがある。
鏡は一部を欠損するが、当時は完全品として副葬されたものとみられる。
同種の鏡は数例出土しているが、そのうち、広島県広島市中子田1号古墳出土鏡が最も類似している。
出土した土器から、3世紀中葉の築造と考えられ、徳島県内をはじめ、畿内でも最古段階の竪穴式石室を持つ古墳として、竪穴式石室の出現過程を考える上でも重要な古墳である。
322日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:39:28.05
「鳴門板野古墳群 西山谷2号墳」
萩原1号墓の近隣地に所在する尾根を削り出して整形した、墳丘の長径20m、短径18m、高さ約2mの不整形の円墳である。
墳丘の中央部に長さ4.72m、幅 北端で1.05m、南端で0.83mの南北方向を主軸とする長大な竪穴式石室がある。
竪穴式石室は、南北6.5m、東西4.8mの墓壙全体が結晶片岩と呼ばれる阿波特有の青い石で覆うように造られている。
石室内には、粘土床があり、その上に朱を敷き詰めたU字形の刳抜式木棺を安置していたものと推定されている。
斜縁上方作銘獣帯鏡と呼ばれる中国製の青銅鏡1面をはじめ、鉄剣・鉄槍・鉄鏃・土器などが出土している。
鏡は面径12.5cm、重量約157.6gで、右回りに「上方乍鏡竟大工青龍白虎子」の銘文と神仙像と5体の獣形のレリーフがある。
鏡は一部を欠損するが、当時は完全品として副葬されたものとみられる。
同種の鏡は数例出土しているが、そのうち、広島県広島市中子田1号古墳出土鏡が最も類似している。
出土した土器から、3世紀中葉の築造と考えられ、徳島県内をはじめ、畿内でも最古段階の竪穴式石室を持つ古墳として、竪穴式石室の出現過程を考える上でも重要な古墳である。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波
323日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:41:52.12
トンデモ諸君! トンデモ披露、ごくろうさん! わははははは @阿波
324日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:42:21.16
>>542
>だから畿内説は学説で
オウム返しばかりしてる九州説こそオウム真理教<
だから「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「南→東」などの人類の常識に反する嘘つき騙しをしている大和説は、
学説でも何でもなく、
単なるキョクウの・・・・宗教の詐欺師集団でしかなく、
安部文部省が麻原であり、いずれ、国民に殺人戦争を強制する事になるもの。 325日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:44:59.88
>>537
大和説は、「南→東」などの嘘付き騙しをしているから、
学説ではなく、
根拠のない宗教説。 326日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:46:16.89
トンデモ諸君! トンデモ披露、ごくろうさん! わははははは @阿波
327日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:48:17.83
>>548
「南→東」などの嘘付き騙しをしている大和説が、
普通の一般用語である「定説」を振りかざす、という事は、
大和説は、オームのような変な宗教にでも毒されているのかな 328日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:50:34.21
329日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:51:21.48
>>550
>そうやって前スレのレスにオウム返しして荒らしてるのは九州説だろ
荒らし行為を突っ込まれてジリ貧と書いてある通りだな<
順番に読んで、感想や反論を書いて行っているだけだ。 330日本@名無史さん2019/11/02(土) 17:59:47.34
>>554
だーれも卑弥呼の墓が祇園山とは断定してない
日本中の全ての古墳が発掘もされてないんだから確率的であり、
絶対肯定や否定もないだろ
なので魏志倭人伝に書いてる条件には合致してるね、という暫定的な話をしている
卑弥呼の墓ではないと断定する、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は
非倫理的宗教的思考 331日本@名無史さん2019/11/02(土) 18:03:00.99
>>555
>殊器台に載せる壺は向木見型の段階ですでに底抜け
何かを容れるためのものではなくなっている
あと、埴輪の起原説話を信じている研究者はいない<
ふーん、成程。 332日本@名無史さん2019/11/02(土) 18:07:03.52
>>293
>纏向遺跡174次調査…
何回言うたらいいのよ。
この羽口や鉄滓、鉄片などが出た遺跡は3世紀後半。
問題なのは卑弥呼の時代3世紀前半に大和に鉄があったのかということ。
3世紀後半の遺跡持ち出して煙に巻くなよな。 333日本@名無史さん2019/11/02(土) 18:11:43.13
>>559
>4世紀末の人物埴輪が見つかったという事はもっと古いのが見つかる可能性もあるし
それに考古物の年代がくり上がるのはいつもの事
特に古墳は被葬者の死亡と造営年に開きがあるのが常だし
年代が合致しないという断定はできない <
「可能性がある」だけでは、確率が低過ぎて、殆ど価値がない。
大和説者は、自然や歴史の「知り得た史料事実や史料実態からの、
帰納的で高確率的な推論」をやって欲しい。 334日本@名無史さん2019/11/02(土) 18:14:00.33
>>288
>土壌中の元素分析をするのには…
アホちゃう?
ある特定の個所の鉄元素の濃度が、他の自然鉄だけの土壌の濃度と比べて格段に濃度が高い場合、そこに自然生成以外の鉄由来物質があったと分かるわけよ。
ちゃんと勉強できてるのか? 335日本@名無史さん2019/11/02(土) 18:15:26.28
>>572
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説の書き込みが、
途中から明らかにやる気なくなってきてて、
笑えるわ 336日本@名無史さん2019/11/02(土) 18:21:01.90
>>314
>「分析」って何度も書いてるよ
アホォ。
分析した結果があるんなら、その報告書の表題を書き出してみよよなぁぁぁぁぁぁ! 337日本@名無史さん2019/11/02(土) 18:23:05.30
>>330
>だーれも卑弥呼の墓が祇園山とは断定してない
時代が異なるから、確率ゼロだよ
箸墓よりも遅いのは確実 338日本@名無史さん2019/11/02(土) 18:25:40.01
>>317
例えば韓国でもやっつけようと思ってソウルは昔プサンにあった的なこと言おうと思うかな
ソウルは昔から今の位置にあってそういう資料も揃ってますと言われれば引っ込むしかないし
賛同者も居ないだろうしそれに資金を出す団体が出るとは思えない
しかし九州説はまさにそういったのに賛同する人間が集まっていて資金まで提供されているようだ
やはりソウルをプサンと言い張るような事に何らかの実効性があると確信している団体が背景なんだろう 339日本@名無史さん2019/11/02(土) 18:26:47.21
>>575
>殉葬の代わりに象形埴輪や人物埴輪を埋めたとあるから
それが出る前の古い古墳にある特殊器台が殉葬跡だよ <
張政らが、殉葬と特殊器台とを間違える筈がないから、卑弥呼の墓にはならない。
>複数の古墳から見つかっているから殉葬は古来から行われてきたとの記述にも一致するし
そして古墳の一つから周りに奴婢が埋まってる跡が見つかっても
それは古来から行われてきたとの記述と合致しないので
殉葬跡には相当しない<
祇園山の墳裾の1号甕棺からは、「成人女性の骨盤付近の骨」や、
鏡片や剣などが見つかっているから、
奴婢たちを束ねた高級奴婢であった可能性が非常に高く、
殉葬であった可能性も非常に高い。 340日本@名無史さん2019/11/02(土) 18:29:04.58
>>334
>他の自然鉄だけの土壌の濃度と比べて格段に濃度が高い場合
だから、理系の素養のないやつがデタラメ言ってもだめなんだって!
ある場所で鉄濃度が高いかどうか分からない状態で、「当り」を探すのに
何検体調べるつもりだ?ww
それに、自然鉄だけの土壌の濃度なんていうスタンダード(標準試料)はない
場所によって、いくらでも差があるし、植物の根の周りに集積したりもする
どうせ高師小僧とか知らないんだろ
素直に、釣られました、私が無知でしたって認めればいいのに
半島儒教だとできないよな?ww
半島儒教ではなく、通常の日本人の道徳なら、間違いは素直に認めるのが美徳なんだがw
まあ、>>334をはじめとする九州説の皆さんには難しい要求なんでしょうね!ww 341日本@名無史さん2019/11/02(土) 18:29:56.09
342日本@名無史さん2019/11/02(土) 18:30:30.88
>>278
>そして記紀や魏志倭人伝の記述に合わせれば
特殊器台を使った殉死の儀式があった可能性は高い<
張政らが、特殊器台と殉葬を区別出来なかった筈が無く、×。 343日本@名無史さん2019/11/02(土) 18:30:52.33
>>337
だから祇園山は壹與の墓かもしれないと言っているだろ。 344日本@名無史さん2019/11/02(土) 18:31:36.87
>>336
>分析した結果があるんなら、その報告書の表題を書き出してみよよなぁぁぁぁぁぁ!
どこまでもバカなんだなぁw
「分析」を連呼しているのは釣られた九州説のバカの>>245
こっちは、「鉄なんてどこにでもあるんだから
土壌中の鉄の分析なんて考えるやつがバカだし
実際行ってる人はいない」って正しく書いてるだけだよw 345日本@名無史さん2019/11/02(土) 18:31:49.94
>>340
>ある場所で鉄濃度が高いかどうか分からない状態で、「当り」を探すのに
>何検体調べるつもりだ?ww
分析を言い出したのはお前だろ。
こっちはそれは難しいと言っている。 346日本@名無史さん2019/11/02(土) 18:32:52.93
>>340
>素直に、釣られました、私が無知でしたって認めればいいのに
それともキナイコシは釣るためなら平気で嘘をつくのか?
さすがは詐欺師の異名を持つだけあるなw 347日本@名無史さん2019/11/02(土) 18:33:34.73
348日本@名無史さん2019/11/02(土) 18:34:19.30
>>341
どこぞの国で、国がお金を出してネット上の工作部隊を作っているっていうのは事実だよ
VANKって聞いたことがないかい?
そして、そのVANKのやっていることが、いわゆる慰安婦とかの各国語の
ウィキペディアの書き換え
やってることが、九州説のやってることと重なってるんだよ
推論と妄想は違うんだよww 349日本@名無史さん2019/11/02(土) 18:35:44.78
>>348
自分でやっているだけのことはあって、畿内説は変なことに詳しいなww
語るに落ちるとはこのことだw 350日本@名無史さん2019/11/02(土) 18:36:30.43
>>345
それは通らないww
最初から
「纏向遺跡の土を分析すればどこの土からでも必ず鉄が
検出されるんだよ
知ってたかい? (釣れるかな?)」←これを見なよ
って書いてあるだろ?ww
もの知らずが釣られただけww
ああ、恥ずかしいね!ww 351日本@名無史さん2019/11/02(土) 18:37:43.94
>>349
ミラーリング乙ww
実際のウイキペディアのウソ書込みの内容を見れば、
畿内説と九州説のどっちがやってるかすぐにばれるのにww 352日本@名無史さん2019/11/02(土) 18:39:57.75
>>288
>土壌中の物質を溶解して…
その溶解易の中の鉄元素が自然状態の土壌の鉄元素濃度より、各段に高い場合、その土壌のあった場所に自然鉄由来ではない人工鉄があったことが分かるだろ。
その調査をやった報告書があるんなら、出してみろよ。
「分析」してると言ってるのだから、その報告書あるはずだよな。 353日本@名無史さん2019/11/02(土) 18:44:50.21
>>350
>もの知らずが釣られただけ
逃げ口上が際立つな。 354日本@名無史さん2019/11/02(土) 18:46:46.96
トンデモ諸君! トンデモ披露、ごくろうさん! わははははは @阿波
355日本@名無史さん2019/11/02(土) 18:48:37.58
歴史を嘘ついて変えることが相手への攻撃になるって思想はあんま聞いた事ないな
しかし金まで提供されて実行されてるわけだからそういうのは実在はしているんだな
世界を支配しようとしているというユダヤ思想とかその辺がベースなのかもねえ
356日本@名無史さん2019/11/02(土) 18:57:48.90
>>617
>県教育委員会によりますと、吉野ヶ里遺跡から見つかったのは
いずれも弥生時代の住居跡などから出土した2つの石器で、
人の手で加工した形跡があります。
このうち1つは長さ7.8センチ幅5.2センチの 「石硯」、
もう1つは長さ3.8センチ幅3.5センチの
墨をすりつぶすための道具「研石」と見られています。
これらの石器は、
平成5年から7年にかけて吉野ヶ里遺跡で行われた発掘調査で見つかっていましたが、
用途がわからないままになっていました。
しかし、去年11月福岡市の遺跡で
弥生時代のすずりがまとまって見つかったことから、
この石器を改めて調べ直したところ、いずれも、
形状や厚さなどが中国大陸や朝鮮半島で出土したすずりなどと似ていることから、
「石硯」と「研石」である可能性があると判断した < 357日本@名無史さん2019/11/02(土) 18:59:07.58
>>340
>植物の根の周りに集積したりもする
水田の稲などに蝟集する鉄分のことは言うとらん。
遺跡の土壌の中の鉄分濃度だ。
これが周囲と各段の差で高ければ人工鉄があったとみなすことができる。
そうした調査分析があったとお主は言うてるのやから、その調査の報告書の表題を書き出してみよ、と言うとるのよ。
アホォ。 358日本@名無史さん2019/11/02(土) 18:59:45.21
>>346
>それともキナイコシは釣るためなら平気で嘘をつくのか?
何を言っているんだ?
「纏向遺跡の土を分析すればどこの土からでも必ず鉄が検出される」のは事実だぞ?
ウソなんかではないww
世界中どこの土を取ってきても、鉄は必ず検出されるんだから、不変の真理だw
まあ、釣り用に「もっともらしい書き方」はしているけれど、物の道理が分かっていれば
釣られたりはしない
実際、畿内説側で釣られた人は一人もいないだろ?ww
(釣れるかな?)とまで書いてあるのに、釣られるってよっぽどのバカじゃね?
九州説がバカだってことを示すためにはこの一連のやり取りは非常に有益だったなww 359日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:01:16.35
これ九州説が書き込み止めたら誰か書き込むの?w
阿波スレ並みに過疎るだろw
360日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:01:45.24
釣るためなら平気で嘘をつくキナイコシ
361日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:02:25.22
>>352
>その溶解易の中の鉄元素が自然状態の土壌の鉄元素濃度より、各段に高い場合、その土壌のあった場所に自然鉄由来ではない人工鉄があったことが分かるだろ。
理系の素養ゼロのやつはもう恥の上塗りやめなってw
もうバカなのは十分に分かったからさw
>>340のこれを読めば、その言い訳が虚しいって分かるだろ?
「ある場所で鉄濃度が高いかどうか分からない状態で、「当り」を探すのに
何検体調べるつもりだ?ww
それに、自然鉄だけの土壌の濃度なんていうスタンダード(標準試料)はない」 362日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:04:22.10
>>357
>水田の稲などに蝟集する鉄分のことは言うとらん。
纏向遺跡の範囲内の大面積が水田になってるんだが?
水田のイネが鉄分を蝟集することを調べて知ったならば、
水田化したことのある土地で、鉄分を調べても意味がないって分かるだろ?
恥の上塗り、楽しいですか?ww 363日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:05:30.47
>>360
>釣るためなら平気で嘘をつくキナイコシ
>>358にも
「纏向遺跡の土を分析すればどこの土からでも必ず鉄が検出される」のは事実だぞ?
ウソなんかではないww
って書いてあるのにww
>>360の「平気で嘘をつくキナイコシ」が、名誉毀損のウソだなw 364日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:06:08.37
>>620
>吉備や出雲は、邪馬台国・ヤマト国じゃないからィヅモが投馬国だよ<
「南≠東」だから、×。
>九州説は女王国より以北の投馬国が置けないことをもっと真剣に考えた方がいい <
不彌國や邪馬壹國女王之所都で、萬二千余里がほぼ終わっており、
投馬國は不彌國から南の方にあって水行二十日の位置だから、
この類スレ主は、×人間。 365日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:06:42.17
>>359
九州説って実は畿内説の味方をしているのかもね
オレが九州説の立場だったら書き込みはしないな 366日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:06:57.23
>>359
>これ九州説が書き込み止めたら誰か書き込むの?w
九州説が荒らさなかったら、議論が進んで畿内説が精緻化するんだよ
そのまま定説の説明になるくらいにね 367日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:12:27.13
>>342
奴婢の血を特殊壷に入れて特殊器台に捧げるような儀式を
箸墓で行われたのを見たのかも知れない 368日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:12:51.31
要するに、溶けた鉄由来の土壌中鉄分濃度に関する調査があって、確かに奈良の遺跡の土壌は他の土地の遺跡の土壌鉄分濃度より格段に高いので、
奈良においては鉄器は溶けたといえるという調査報告があるのなら別だがな。
あるわけないよな。
そんな調査したと分かったら、学者連中から嘲笑われて学者生命を失うことになるわ。
しかし、佐原真の冗談を真に受けて、奈良の鉄器は溶けたと信じているらしいお主も、とことんアホ、ボケだな。
369日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:14:33.42
>>634
「南→東」などの嘘付き騙しのように
論理的思考がまったく出来ないのが
大和説の特徴 370日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:15:41.91
>>329
畿内と書いてある所を九州とか少し変えて同じ文面を投稿するのを
感想や反論とは言わないでオウム返しという 371日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:16:02.64
クソテンプレ主へ
◆FAQ98
土器と政治状況を関連させて考えるなら、
纏向は東海の銅鐸政権で、邪馬台国とは無関係だな ???
372日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:16:29.09
>>367
横から投げ入れ
特殊壺の底には穴が開いているのと違うの? 373日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:17:52.60
>>330
それなら九州説は祇園山は卑弥呼の墓説を放棄という事でいいんだな? 374日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:18:01.36
>>637
また「南≠東」などの指摘に対して、
具体的指摘の全くできない大和説の・・・・老人が
泣き言を垂れて
みじめに論破された自分を慰めてるな 375日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:18:51.13
376日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:20:40.94
>>372
開いてても別に構わないように思える
その穴を通じ特殊器台に奴婢の血が少しづつ…とか
まあもっと穏当に酒とか流し込んでたのかも知れないけれど 377日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:21:50.57
クソテンプレ主へ
◆FAQ98
土器と政治状況を関連させて考えるなら、
纏向は東海の銅鐸政権で、邪馬台国とは無関係だな ???
378日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:23:10.57
>>639
>新井の技術者としての経験から、中国鏡には見られない三角縁神獣鏡と平原鏡のシワが
恐らく製法の継承によるものだろうと言ってる。<
新井君も可哀想に。
列島での「海東」鏡や、楽浪の△の出土を知れば、
呉系楽浪鏡師らの渡来による「関与」であった事は、すぐに理解できるのになあ。 379日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:27:10.51
380日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:27:15.90
>>644
「南→東」などの嘘付き騙しの大和は、ほんとに醜態さらしてばかりだよね。 381日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:29:16.74
>>359
>阿波スレ並みに過疎るだろw
おなじレベルのトンデモだから、ここがにぎわうんだよ。
阿波スレに来ればコテンパンにやられるからね。 わははははは @阿波 382日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:29:23.17
383日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:30:35.49
>>366
奥山みたいな詐欺師と熱病のように
ヤマタイ→ヤマトゥ→ヤマト
しか言わないバカ信者で議論が成り立つかな?
あんまり今と変わらんような。 384日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:31:29.04
>>382
>畿内説は学会での定説であり学説
いくら言い張っても、碌な弥生集落遺跡や資源の無い畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波 385日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:33:21.99
>>378
倭は楽浪から見ると南だから
海東に至ると書いてある海東鏡を呉系楽浪鏡師が倭にやってきて作ったというのは根本的な矛盾
せめて楽浪を取って呉系鏡師と言うべき
けどこう指摘されても九州説は宗教思想だから一向に変える気配はない 386日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:35:12.34
387日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:36:38.55
大和王権の源が後発の渡来豪族であることが濃厚となったので、畿内説という韓国式ファンタジーで火消しに必死なのです。
皇室からするとそれはどうでも良いことなのですが、一系万世を前提としたネトウヨ畿内説としては、どうにも納得出来ないのでしょうね。
渡来豪族による新たな統治手法の伝来←日本の歴史にこれを追加するべきですよ
↓
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
「渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
大壁建物は、方形状の溝の中に多くの柱を立て、土などを塗って壁をつくり建築した住居。
同町では、朝鮮半島式の床暖房装置「オンドル」を持つものを含めて約40棟見つかっている。」
http://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
↓
飛鳥時代
↓
奈良時代 388日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:38:20.88
>>383
恐らく当時もヤマトと発音してたはずだよ
ヤマタイという呼び名の国は見渡す限りないからね 389日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:38:46.44
>>386
清水眞一 前・奈良県桜井市教委文化財課長
私は二十年間、大和の中央部・桜井市で「邪馬台国は何処」とのテーマを持って、
発掘調査に従事してきた。その結果として、邪馬台国が成立して女王卑弥呼を擁立する
までの弥生時代中・後期に、大和には他地域を圧倒するような「ムラ」や「墓」が
見られないことに気付いた。
代表的なムラである唐子・鍵遺跡も、畿内の同時期の池上・曽根遺跡や田能遺跡などと
比較して、飛び抜けて大きいムラとは思えなかった。逆に、墓に関しては、
西日本各地と比べて遅れた地域との思いも抱いたことだった。
であれば、その次の古墳時代に入って、纏向の地に百メートル以上もの巨大古墳が、
なぜ突如として築造されるのか。これは、大和の地に別の地域の人々が入って来たと
考えざるを得ない状況とみた。
では、誰が何処からきたのか?考古学の資料からは、特定の地域が限定できない。
となれば、卑弥呼の邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる。 390日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:40:00.92
嘘つきコミュ障キナイコシ
普段からああいう話し方で、周りから嫌われているんだろうな
391日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:40:15.51
共立して女王を立てたがそれを認めない国が存在し卑弥呼は魏に願いでる始末。即ち、この時代はまだ三種の神器なぞ存在しない。
392日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:41:09.34
>>654
>銘文に「寿如金石 長相保」とか「生如金石 天相保」として「相保」 を入れてる。
平原遺跡の鏡から三角縁神獣鏡に継承されているとの見解。
製造工程も、平原遺跡の鏡と三角縁神獣鏡は量産の手法が一致するとのこと。<
という事は、平原で「錆色塗装」や巨大内行花文鏡に関与した「呉系楽浪鏡師」らは、
その後、大和へもやって来て、鏡作り神社などでの△の製作にも関与したらしい、
という事だな。 393日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:43:15.47
>>389
唐子・鍵遺跡
現段階の調査で認知されている遺跡面積は約30万平方メートル。
規模の大きさのみならず、
大型建物の跡地や青銅器鋳造炉など工房の跡地が発見
3か所の居住域の周りに大環濠を掘削し
、一つの居住域に統合する。(長径約500メートル、短径約400メートルの不整円形)
内側の環濠は幅8メートル以上、
その大環濠を囲むように幅4〜5メートルの環濠が4〜5重に巡らされる
多重環濠。これらの多重環濠群は居住区の外縁を
幅150〜200メートルで囲み、環濠帯を形成している。
各居住区の内部は未調査であるが、
村の西南部に河内や近江、紀伊など
各地の搬入土器が多く出土する市的な場所、また、
南部では木器の未成品や青銅器鋳造関連遺物や炉跡、
北部ではサヌカイトの原石や剥片が纏まって出土する所などがあり、
各種工人の居住の場所と推定される。
南地区の中央部に高床建物がたっていた可能性が高く、
中枢部と考えられる。このようなことから大環濠内では、
各種の機能別に区画されていたと考えられている。 394日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:43:58.31
クソテンプレ主へ
◆FAQ98
土器と政治状況を関連させて考えるなら、
纏向は東海の銅鐸政権で、邪馬台国とは無関係だな ???
395日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:44:32.17
>>368
>しかし、佐原真の冗談を真に受けて、奈良の鉄器は溶けたと信じているらしいお主も、とことんアホ、ボケだな。
畿内説が「溶けた」などと言うからバカにされているだけだけど? 396日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:45:54.74
結局のところ、
3世紀末までの倭国は九州中心
8世紀以降は畿内中心の日本国
で落ち着くのです。
※空白期間中は神武東征中
397日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:46:12.48
398日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:46:37.35
>>389
何か最後の結論がそれまでと繋がってないな 399日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:47:41.49
>>391
三種の神器は紀元前から九州では使われていた。 400日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:48:31.82
>>397
20mくらいの規模で畿内の古墳に比べて小さすぎ
畿内には径百歩に相当するような古墳が3世紀から無数に存在 401日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:50:21.14
もと歴博の館長もやった佐原真いわく、
「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」 と真顔で発言し〜
議事録からの抜粋です。
402日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:50:28.53
>>658
>鏡、玉、剣という三種の神器を王の象徴とする九州〜瀬戸内の一族が、<
これは、天孫族の阿毎氏(天や海のアマの伊氏)の事だろうね。
そして、317年に筑後〜久留米に遷宮した宮の高良大社も三種の神宝を持っている。
>4世紀前後に大和で王権を簒奪した。
だからホケノ山には三種が出ない(勾玉がない)が桜井茶臼山には三種が出るのだ<
成程。ホケノは阿毎氏本家ではなく、
「東征毛人五十五國」将軍の傍系か?、部将クラスであったんだろうね。
それに対して、桜井茶臼山は、
阿毎氏の(三種の神器を持てる)本家筋であったんだろうね。 403日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:51:46.99
>>396
考古学的に見ると3世紀中ごろにはすでに畿内が倭国の中心 404日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:52:32.84
>>393
清水眞一 前・奈良県桜井市教委文化財課長
私は二十年間、大和の中央部・桜井市で「邪馬台国は何処」とのテーマを持って、
発掘調査に従事してきた。その結果として、邪馬台国が成立して女王卑弥呼を擁立する
までの弥生時代中・後期に、大和には他地域を圧倒するような「ムラ」や「墓」が
見られないことに気付いた。
代表的なムラである唐子・鍵遺跡も、畿内の同時期の池上・曽根遺跡や田能遺跡などと
比較して、飛び抜けて大きいムラとは思えなかった。逆に、墓に関しては、
西日本各地と比べて遅れた地域との思いも抱いたことだった。
であれば、その次の古墳時代に入って、纏向の地に百メートル以上もの巨大古墳が、
なぜ突如として築造されるのか。これは、大和の地に別の地域の人々が入って来たと
考えざるを得ない状況とみた。
では、誰が何処からきたのか?考古学の資料からは、特定の地域が限定できない。
となれば、卑弥呼の邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる。 405日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:52:54.85
http://www.tokyo-np.co.jp/article/forum/list/CK2014092002000221.html
日本書紀をみると、王宮では崇神天皇が天照大神(あまてらすおおみかみ)の御霊代(みたましろ)を祭っていた。
天皇は御殿で「同床共殿(どうしょうきょうでん)」の祭祀(さいし)を行っていたが、神の霊威(れいい)を恐れて、宮内の大庭にホコラを建てて、大神(おおみかみ)のご神体である宝鏡をお納めした(神宮雑例集)。
これが建物Cである。それでもまだ恐れ多いので、垂仁天皇の時代に伊勢に社を造り、宝鏡をお移しした。
それが伊勢神宮であり、建物Cの復元形態は神宮の正殿と極めてよく似ている。
神明造(しんめいづくり)の形が倉庫と近いのは、王宮における建物Cが宝庫だったことによるのである。
ということで、纒向建物群は崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)であり、倉庫から発展した伊勢神宮のモデルとなる、独立棟持柱を持つ建物が含まれていたということ。
卑弥呼とは関係ない。 406日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:53:38.45
407日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:54:21.56
>>393
唐子・鍵遺跡は、倭人の風習である卜骨(弥生前中後期)も
木弓短下長上も出てる重要な遺跡だな 408日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:55:01.02
>>畿内説
公金の無駄遣いに関し、桜井市への謝罪を要求する。
「纒向学研究」に掲載
ソース
読売新聞YOL
21.11.2018
邪馬台国の候補地?見学施設、財政難で建設延期 社会
奈良県桜井市は、邪馬台国の有力候補地として注目される纒向(まきむく)遺跡で、
2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」の建設延期を決めた。
財政難が原因。整備を進める史跡公園の核となる施設で、遺跡見学の拠点として
期待されていたが、新たな完成時期は未定だ。
409日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:59:19.35
>>339
副葬品とか出てるなら殉葬じゃなくて埋葬
祇園山の古墳周りに墓が後から作られたということの証拠 410日本@名無史さん2019/11/02(土) 20:00:22.25
>>661
>桜井茶臼山古墳
この古墳の後円部の空濠の外に、宗像神社がある。筑前国宗像郡の宗像神社と同神である。
宗像神社は、全国に散在していて、この大和にある神社は、いつ頃からの鎮座か、
さらに社殿が建てられた年代はいつなのか、詳細は不明である。
しかし、北部九州系の神社が大和にあることは注目に値する。<
そうだった。桜井茶臼山には宗像神社があったんだった。
そして、宗像は、当然天孫族の「阿毎」氏系であったんだから、
三種の神器が出土して当然であったんだった。 411日本@名無史さん2019/11/02(土) 20:00:54.45
412日本@名無史さん2019/11/02(土) 20:02:43.17
413日本@名無史さん2019/11/02(土) 20:02:54.32
>>411
>桜井茶臼山には宗像神社があったんだった
ところがない。
前方部のかなり離れたところに宗像神社があるが、
あれは創建がかなり後で、謂れもハッキリしている。
414日本@名無史さん2019/11/02(土) 20:03:46.12
>>301
つまり2箇所しか勘考しなかったという事だろ
他の間違いはスルー
そして記述が一致している複数の史書の引用文の倭人伝と
勘考が2箇所しかされてない12世紀以降の復刻倭人伝は多くの字の違いがある 415日本@名無史さん2019/11/02(土) 20:04:20.46
>>398
奥山氏って清水氏に近しい人?
142-143への反論のニュアンスがあまりにも違うんで。
平気で捏造する奥山氏を嫌いだったけど、
論敵になった清水に匿名掲示板でも気を使う奥山氏を
見て、少し見直したわw 416日本@名無史さん2019/11/02(土) 20:07:26.21
クソテンプレ主へ
◆FAQ98
土器と政治状況を関連させて考えるなら、
纏向は東海の銅鐸政権で、邪馬台国とは無関係だな ???
417日本@名無史さん2019/11/02(土) 20:07:30.80
夷狄の邦と雖も、俎豆の象存す。中國禮を失い、之を四夷に求めるは猶ほ信す。(東夷伝序文)
その俗、挙事行来、云為する所有れば、すなわち骨を灼いて卜し、以って吉凶を占う。
先に卜する所を告げる。その辞は令亀法の如し。火坼を視て兆しを占う。(倭人伝)
華夏族が最古の王朝である夏の時代からやってる卜骨が日本のヤマト王権の地に伝わっていたわけだね
418日本@名無史さん2019/11/02(土) 20:08:27.27
419日本@名無史さん2019/11/02(土) 20:10:52.24
>>229
九州説は元々畿内の前方後円墳は全部4世紀以降とか息巻いてたのに
それが3世紀後半になってついに3世紀中ごろになってどんどん領地が狭まってるのが笑える 420日本@名無史さん2019/11/02(土) 20:12:30.63
>>415
九州説はどうしてそうすぐ全1病を発症するのか 421日本@名無史さん2019/11/02(土) 20:15:32.44
書き込みしている人間をスレ主と特定できた所で何になるのかねえ
やはり九州説は日本とは文化が違うようだ
422日本@名無史さん2019/11/02(土) 20:18:14.82
>>701
>三角縁と魏・晋鏡の鉛同位体比が一致しないんだろ
スプリング8では銀・アンチモン比が一致してるのに<
ふーん。 423日本@名無史さん2019/11/02(土) 20:18:33.02
クソテンプレ主へ
◆FAQ98
土器と政治状況を関連させて考えるなら、
纏向は東海の銅鐸政権で、邪馬台国とは無関係だな ???
424日本@名無史さん2019/11/02(土) 20:20:37.36
>>421
悪意は無かったんだが、
かなりカスったみたいだなw 425日本@名無史さん2019/11/02(土) 20:23:03.92
九州説は日本と文化宗教の違いからひっそり騙されて裏で笑われるというのを病的に嫌うようだ
ならスレ主さんたまには匿名でこっそり書き込んで下さいね
426日本@名無史さん2019/11/02(土) 20:23:05.22
427日本@名無史さん2019/11/02(土) 20:24:20.52
428日本@名無史さん2019/11/02(土) 20:25:28.40
纏向と東海との関連性はウマシマジと天の香具山のよるものであろう。
名古屋の味鋺(あじま)神社の祭神はウマシマジ、
纏向にも味間という地名がある。
東海土器の導入はウマシマジが東海を切り開いたからではないであろうか。
ウマシマジと天の香具山は東海から日本海にも抜けてるが、
纏向遺跡の外来搬入土器にも山陰北陸が多い。
429日本@名無史さん2019/11/02(土) 20:26:07.84
430日本@名無史さん2019/11/02(土) 20:27:21.06
>>727
こんなふうに
歴史学の史料事実や史料実態や人類の常識を
ことごとく否定しないと
成り立ちようもないのが「南→東」などの嘘付き騙しの大和説 431日本@名無史さん2019/11/02(土) 20:29:56.84
「住吉大明神こと住吉神社」
板野郡藍住町住吉神蔵に鎮座。
祭神は神功皇后、表筒男命、中筒男命、底筒男命。
鎮座地は神功皇后ゆかりの地で当社は全国住吉神社の元社にあたる。
神功皇后の本名は息長足姫 (おきながたらしひめ) 命。 息長ということは生粋の海人族である。
大陸進出にあたり航海の守護神として、底筒男命、中筒男命、表筒男命を御舟に祀っていた。
百済征伐の帰りに当地(板野郡藍住町住吉)に寄り、御舟に祀っていた住吉三神を降ろしたのであろう。
そのほか、夫にあたる仲哀天皇は西に位置する板野郡矢武の応神山仲哀寺で祀られ、大臣 武内宿禰は同町 矢武八幡神社を中心に武威神社、高良神社で祀られている。
また御子である応神天皇の葬場跡は南に位置する応神町宮島。
審神者(さにわ)で顕れた淡郡の嚴(いつの)事代主は吉野川を上流に上った阿波郡市場町伊月の式内社「事代主神社」で祀られている。
ちなみに海人族でも支配地域が違うと氏族も違う。 神功皇后も幼少の頃より古の各海人部族の神話を聞かされていたのであろう。
そもそも住吉三神は泡(阿波)より産まれた神。 この三神は神代より祀られた阿波の海人の神々なのである。
底筒男命は県南部海岸を支配した長国の神(大国主命、事代主命)
中筒男命は北に続く小松島市、徳島市の海岸を支配した阿曇の神(和多都美豊玉比賣命)
表筒男命はさらに北に続く鳴門の海岸一帯を支配し淡路、奈良大倭に進出した大倭の神(速吸宇豆彦)
神功皇后は阿波全ての海人族神を味方につけて異国との闘いに挑んだ訳である。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波
432日本@名無史さん2019/11/02(土) 20:31:25.72
武内宿禰の鎮守社に比定される「矢武八幡神社」は、徳島県板野郡矢武字鏡松に鎮座する。
当神社で注目すべきは、「往古、嵯峨御所から額(扁額か)が寄付された」とする伝承である。
「額は今存せざるも、ご寄付状は存在せり」(名勝案内)とみえ、その文書には「阿波国板野郡矢武村者上古武内大臣為縁由地云々」とあって、
武内宿禰の由縁の地が寄付の理由であったと理解される。
また、名勝案内の「船の本」条(矢武村に西接する大山村西分)には「此地武内宿禰の旧領なればその遺址存せるならむ」とあり、
船の本の聖地に斎田その他を設け、慶事や祭典の折には、村民挙げて奉祭したとされている。
つまり、現在の阿波国上板町大山から板野町矢武一帯は、武内宿禰の領地、または所縁の地であったとする伝承が存在している。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波
433日本@名無史さん2019/11/02(土) 20:32:21.25
蘇我氏、葛城氏のおこりはそれぞれ、蘇我石川宿禰と葛城長江曽都比古となるが、ともに武内宿禰の子。
武内宿禰は、第八代孝元天皇と伊迦賀色許売命との間に生まれた彦太忍信命(ひこふとおしのま)の子とある。
また伊迦賀色許売命は、次帝の開化天皇の妃ともなり、崇神天皇を生み、その崇神天皇は、対する孝元天皇と波邇夜須比売との間に生まれた建波邇夜須比古(武埴安彦)
との皇位争いに勝利し、閨閥を拡げていったのである。
もちろん、伊迦賀色許売・伊迦賀色許男姉弟も、日本で唯一、忌部の郷、徳島県旧麻植郡の延喜式式内社「伊加々志神社」に祀られている。
https://awanonoraneko.hatenadiary.com/entry/44664411
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 434日本@名無史さん2019/11/02(土) 20:37:37.99
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◆FAQ98
土器と政治状況を関連させて考えるなら、
纏向は東海の銅鐸政権で、邪馬台国とは無関係だな ???
435日本@名無史さん2019/11/02(土) 20:38:10.19
>>755
こんなふうに
歴史学での史料事実や史料実態が人類の常識を何も知らない人が
主張するのが「南→東」などの嘘付き騙しの大和説 436日本@名無史さん2019/11/02(土) 20:39:01.88
オラオラよくわからんけどこのスレに書き込む九州説は
わからない内に裏で騙されて笑われてるんだよ
だから畿内説にいいように操られるんだよ良くわからないけど
自分で書いてて本当に意味わからんけど
437日本@名無史さん2019/11/02(土) 20:46:08.35
438日本@名無史さん2019/11/02(土) 20:46:28.23
439日本@名無史さん2019/11/02(土) 20:47:01.36
440日本@名無史さん2019/11/02(土) 20:51:19.47
俺様は、邪馬台国畿内説を信じていたが、今夜、完全に破綻し、若い優れた考古学者達に論破され、叩き潰されてしまったので、むしゃくしゃするな。
441日本@名無史さん2019/11/02(土) 20:51:30.75
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◆FAQ98
土器と政治状況を関連させて考えるなら、
纏向は東海の銅鐸政権で、邪馬台国とは無関係だな ???
442日本@名無史さん2019/11/02(土) 20:51:32.21
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◆FAQ98
土器と政治状況を関連させて考えるなら、
纏向は東海の銅鐸政権で、邪馬台国とは無関係だな ???
443日本@名無史さん2019/11/02(土) 20:53:00.56
>>440
どのような物事で破綻したのか、分析すれば良いのではないのかな。 444日本@名無史さん2019/11/02(土) 20:53:31.39
444
445日本@名無史さん2019/11/02(土) 20:56:00.13
邪馬台国畿内説が、完全に破綻した理由は、何だろうか、、、
446日本@名無史さん2019/11/02(土) 21:00:09.17
邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏は、今日は、どのような意見を発表し、論破されてしまったのだろうか、、、
447日本@名無史さん2019/11/02(土) 21:01:08.99
今日は、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏に、元気がないな。。。
448日本@名無史さん2019/11/02(土) 21:01:19.62
>>780
>冢は土を盛った墓全般を指すから前方後円墳も含まれる<
ダメだ。
説文解字の「冢、高墳也」は、冢は、墳の中で「高さを強く感じる」もの、
という意味であり、だから錐体状であり、
馬韓の家の写真も「とんがり家」であって「冢」であったのだ。
それに対して「墳」は、尖らずに、こんもりと盛り上がった形だ。
>魏志倭人伝の南水行…を東水行とすれば行程が畿内に達するというのもまた事実<
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから×であるし、
「南≠東」等の拠っても×であるし、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、「東水行」自体が存在せず、
大和説は×だ。
>そして実は陳寿は南でも東でもどちらとも取れるような書き方をあえてしたのではないか…という研究が
最近巻向考古研究所で密かになされているらしい <
東西南北はほぼ間違えない、という事は成人人類の常識だから、×だ 449日本@名無史さん2019/11/02(土) 21:04:05.47
450日本@名無史さん2019/11/02(土) 21:08:51.16
>>781
>南→東はそうすれば確かに魏志倭人伝の行程が畿内にはなるのだし<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
東西南北をほぼ間違えないのは、人類の常識だから、畿内説は×だ。
>冢は土を盛った墓全般を指すから前方後円墳も入る<
逆だ。
墳の中の一部に冢が含まれ、
冢は「高さを感じられる墳」であるから「錐体状」であり、それで区別される。
史料的事実に反して嘘をついて掲示板を荒らしているのは大和説
そもそも「南→東」などの嘘付き騙しなどの説が書き込む事自体が、
掲示板のルールに抵触するんだけれど 451日本@名無史さん2019/11/02(土) 21:11:15.55
酸化水酸化鉄がその溶解度のどれ程まで溶解していた水溶液が検出されたときに、付近に鉄鏃があったことを推測できるのだろうか、、、
452日本@名無史さん2019/11/02(土) 21:13:39.39
>>792
>様式が変化したのは朝鮮半島から北部九州に持ってきた遼寧式銅剣系列
ど没落した甕棺墓が盛行した時代 <
ふーん。 453日本@名無史さん2019/11/02(土) 21:14:46.36
鉄鏃1個が完全に錆びた物体が、水溶するためには、何リットルの水が必要なのだろうか、、、
454日本@名無史さん2019/11/02(土) 21:15:35.87
>>449
>アワアワアワアワうるさいw
倭国(阿波)は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。 まともに反論・で・き・る・人・は、 はい、どうぞ。
まともに反論・で・き・な・い・人・は、 罵詈雑言はい、どうぞ。 @阿波 455日本@名無史さん2019/11/02(土) 21:15:39.78
>>450
>冢は「高さを感じられる墳」であるから「錐体状」であり、それで区別される。
素人じいさんが勝手に主観を言ってるだけ
それが九州説 456日本@名無史さん2019/11/02(土) 21:15:57.25
奈良の年間降水量は、何mmなのだろうか、、
457日本@名無史さん2019/11/02(土) 21:16:44.55
明日は文化の日。
親授式で渡される文化勲章は「橘」に「勾玉」をあしらったものという。
その「橘」も「勾玉」も倭国(阿波)の特産物とは此れ如何に。 @阿波
458日本@名無史さん2019/11/02(土) 21:23:30.16
>>428
だから西日本は饒速日ウマシマジ物部一族の王国なんだってば。
記紀にもそう書いてある。 459日本@名無史さん2019/11/02(土) 21:28:12.62
>>804
>投馬国は女王国より以北の国なので、北部九州説で宮崎を比定地とすることはできない<
投馬國は、
不彌國や邪馬壹國女王之所都付近から南に「水行二十日」の位置にあるから、
女王國以南の国であり、
類スレ主は、×。 460日本@名無史さん2019/11/02(土) 21:29:24.23
>>443
バンビシャスの日本人選手は、ポジションの役目を全て忘れて、ケンドリック・ナン氏の闘い方をお手本にして練習し闘えば良いのではないのかな、、、 461日本@名無史さん2019/11/02(土) 21:34:38.55
>>807
>だから、その成分比と鉛年代を考慮すると、
前漢鏡を西晋までリサイクルを繰り返したものの一部が舶載三角と言われ、
のちに銅材が安定して入手できるようになった頃、国産三角が制作された。
となるわけよ。<
だから、渡来の呉系楽浪鏡師らが材料銅を持ちこみ、
列島にあった銅製品も銅材料に使って、平原の鏡に関与し、
更に地方へも出向いて、4世紀の大和の△などにも関わった、という事になるんだよ。 462日本@名無史さん2019/11/02(土) 21:35:59.95
>>454
>まともに反論・で・き・る・人・は、 はい、どうぞ。
奴婢が埋葬された径百余歩の塚がない。
はい、論破。 463日本@名無史さん2019/11/02(土) 21:36:45.69
464日本@名無史さん2019/11/02(土) 21:38:36.23
九州説に騙される人など誰もおらず
逆に騙されて笑われているのが九州説
465日本@名無史さん2019/11/02(土) 21:40:35.23
>>458
ほぼ賛成だよ。
ところがここのスレ主は纏向古墳群の箸墓古墳が卑弥呼の墓だと言ってるわけだ、
もう、ほんと恥ずかしいよね、あれはイカガノシコオの墓。
箸墓が山城の五塚原古墳や交野の雷塚古墳と関連性があるのもイカガノシコオならでは。 466日本@名無史さん2019/11/02(土) 21:40:56.50
>>820
というか
「南→東」などの嘘付き騙しと同じように、
徹底して、都合の悪い史料事実や史料実態の否定や曲解をするのが
大和説の特徴であるな 467日本@名無史さん2019/11/02(土) 21:43:24.04
>>457
>その「橘」も「勾玉」も倭國(阿波)の特産物とは此れ如何に
定型化された高価な勾玉は弥生後期の山陰なんだが。^^ 468日本@名無史さん2019/11/02(土) 21:47:47.10
邪馬台国畿内説が完全に破綻したことは、頭が普通の者が、このスレッドを読めば、すぐに分かるが、
邪馬台国畿内説という物事は、あまり、人気がないので、このスレッドは、あまり読まれていないのだったな。。
469日本@名無史さん2019/11/02(土) 21:48:11.26
>>462
>奴婢が埋葬された径百余歩の塚がない。
径百余歩の塚が奴婢の墓? あたま大丈夫? @阿波 470日本@名無史さん2019/11/02(土) 21:50:05.20
>>824
>弥生時代の後期には、すでに大きな墳丘をもつ墓が各地で営まれていたが、
3世紀中頃から後半になると、より大規模な前方後円墳をはじめとする古墳が西日本を中心に出現した。<
「3世紀中頃から後半」というのが間違い。
筑紫では「3世紀中頃から後半」でもよいが、大和に巨大墓が出来たのは3世紀末以後。
>これら出現期の古墳は、多くは前方後円墳もしくは前方後方墳で、
長い木棺を竪穴式石室に収めた埋葬施設や、
多数の銅鏡をはじめとする呪術的な副葬品をもつなど、画一的な特徴をもっていた。<
それらは、九州倭國の「東征毛人五十五國」の将軍らに拠って、造られた。
>それは古墳が各地の首長たちの共通の意識のもとにつくり出された墓制で、その背景には古墳の出現に先だって広域の政治連合が形成されていたことが考えられる。
出現期の古墳の中でもっとも規模が大きいものは奈良県(大和)にみられ、この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた。
この大和地方を中心とする政治連合をヤマト政権という。」 <
広域連合の成立は、九州倭國の「東征毛人五十五國「」の結果。 471日本@名無史さん2019/11/02(土) 21:50:13.09
>>467
>定型化された高価な勾玉は弥生後期の山陰なんだが。^^
出雲忌部の分際で、頭が高い! 本国阿波に礼拝! わははははは @阿波 472日本@名無史さん2019/11/02(土) 21:54:41.38
>>829
大和説の特徴
・都合の悪い史料事実などは、「南」のように徹底して否定や曲解をする
・日常的にウソをついている証拠が丸出し
・他人に通じない妙な日本語を話す
・「南→東」などの嘘付き騙しのように、人類の常識とかけ離れた主張をする 473日本@名無史さん2019/11/02(土) 21:55:13.64
ホラ九州説はもっと書き込まないと国民みんなが畿内説になってしまうぞ
474日本@名無史さん2019/11/02(土) 21:59:54.12
>>472
それ、ひとつも証拠が出せないことばかりだよね
だから九州説はダメなんだ 475日本@名無史さん2019/11/02(土) 22:03:17.77
>>830
>畿内に倭王権があるから東漢氏などの渡来人が移住し擬制的同族結合を結んだ <
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
大和に「倭王権」もなかった。
あったのは、九州倭国からの「東征毛人五十五國」であり、
大和は九州倭国から別れた別種の旧小国の、地方の市を監督する大倭職の、
九州倭国の附庸國。
しかし、九州倭国は「自昔・・・渡平海北九十五國」もやっていたので、
半島からの避難民や平定された人々が、大和などの地に逃げて、定着したらしい、
という事だけ。 476日本@名無史さん2019/11/02(土) 22:04:46.35
なにやら九州説のもつ信仰に嘘に騙された者は魂を抜かれるとでもあるようだなあ
477日本@名無史さん2019/11/02(土) 22:05:13.51
もう九州説には、ウソをつくことくらいしか出来ることが無いんだね
478日本@名無史さん2019/11/02(土) 22:06:32.19
>>469
>径百余歩の塚が奴婢の墓?
径百余歩の塚は卑弥呼の墓。
奴婢はその周囲に埋葬。 479日本@名無史さん2019/11/02(土) 22:08:19.72
明日は文化の日。
親授式で渡される文化勲章は「橘」に「勾玉」をあしらったものという。
その「橘」も「勾玉」も倭国(阿波)の特産物とは此れ如何に。
ちなみに、深曽木の儀で踏む「青石」も倭国(阿波)の特産物。 @阿波
480日本@名無史さん2019/11/02(土) 22:08:34.71
>>384
>一系万世を前提としたネトウヨ畿内説としては
お前、日本人じゃないだろ?ww
日本人の常識があれば、萬世一系を間違ったりしないぞw 481日本@名無史さん2019/11/02(土) 22:10:10.63
ホレホレもしかしたらスレ主さんがひそかに書き込んで裏で笑っているかも知れないぞ
九州説はそれに騙されて魂を抜かれてしまうかも知れないな
ちなみにおれはスレ主じゃないぞ
482日本@名無史さん2019/11/02(土) 22:12:26.56
まあ九州説は魂抜かれるとか気にしなくてもいいんじゃないの
もともと魂のないゾンビみたいなものだしな
483日本@名無史さん2019/11/02(土) 22:12:42.85
学校で習ったことをおさらいしていたら
おじいちゃんが口角泡を飛ばしながら
先生の教えてくれたことを全部口汚なく否定してて
お孫さんはどんな気持ちだろうねえ
お母さんに「おじいちゃんボケちゃってるから」と
言い含められてるかな
484日本@名無史さん2019/11/02(土) 22:16:51.99
>>395
>畿内説が「溶けた」などと言うからバカにされているだけだけど?
実際に鉄は溶けるんだよ
まあ、水に砂糖が溶けるように溶けるわけではないが
芯まで錆びた鉄は脆く少しの力でボロボロになるし、
擾乱のある土壌中ではバラバラに分散して影も形もなくなる
実際に北部九州でも鉄は溶けてるんだよ
有史以来北部九州で消費された鉄がすべて出土しているはずもないだろ?
その差分はすべて「溶けてる」んだよ
科学が分からない人間だと理解が追いつかないかも知れないけどなw 485日本@名無史さん2019/11/02(土) 22:23:49.85
頭の悪い奥山氏は、インターネットで集めた情報を理解しないまま、鉄鏃1個分が錆びた物体を、水溶させるために、どれだけの水が必要なのか計算しないまま、僕達を笑いリラックスさせてくれているな、、、
486日本@名無史さん2019/11/02(土) 22:26:02.12
>>368にも答えておいてやるよ
>要するに、溶けた鉄由来の土壌中鉄分濃度に関する調査があって、
>確かに奈良の遺跡の土壌は他の土地の遺跡の土壌鉄分濃度より格段に高いので、
>奈良においては鉄器は溶けたといえるという調査報告があるのなら別だがな。
もうどこまでもバカww
纒向遺跡の範囲の土壌中の鉄濃度を上げるためにどれだけの鉄が必要か、ちょっと考えてごらん?
逆に鉄鏃1個が土の中で溶けた場合、どの範囲で鉄濃度が高くなると思う?
しかも奈良盆地は一通り田圃になった時期があるし、水中で代掻きでもすれば
田圃一枚の範囲に薄まってしまう
そしてその上に、1700年前以降、奈良盆地で鉄を使っていないならともかく、
鉄はずっと使っているし、鉄は溶け続けているww
土の鉄分量を測ったらとかいうのが、全く意味がないって分からないほど
理系の考え方が思考回路の中に存在しないんだろうww 487日本@名無史さん2019/11/02(土) 22:27:38.85
巻向や、巻向の上流域に降った水は、巻向の寂びた鉄鏃を溶かすためだけに、降ってきたわけではないのだったな、、、
488日本@名無史さん2019/11/02(土) 22:28:17.51
>>833
>この政治連合成立の画期は2世紀末頃。
それ以前には、そのような政治連合はまったく存在しなかった。<
いや、九州倭国からの政治連合なら、
国生み神話や神武ら東征や高地性集落の頃から、
「自昔・・・東征毛人五十五国」として継続していた。 489日本@名無史さん2019/11/02(土) 22:34:23.79
九州説はもうお経を唱えるだけか
490日本@名無史さん2019/11/02(土) 22:34:39.95
>>485
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している、頭の悪い奥山氏は、九州の鉄鏃が溶けなかった理由と、巻向には溶けた鉄鏃があったのだという空想科学を説明するためには、結局は、降水量の比率のデータを提示しなければならないことに、まだ、気づいていないのだな、、、 491日本@名無史さん2019/11/02(土) 22:38:45.09
>>400
>20mくらいの規模で畿内の古墳に比べて小さすぎ
平原1号墓はそんなに大きくない
墳丘サイズは12×8メートルくらいのしょぼい墓だ 492日本@名無史さん2019/11/02(土) 22:40:08.64
>>858
どっちにしても、「南→東」などの嘘吐き騙しがバレた大和説は、
国民の7割からも、中国学者らからも、大和説学者以外の学者からも、
一顧だにされてない説ですな
いや大和説お寒いデス 493日本@名無史さん2019/11/02(土) 22:42:06.86
巻向の古墳は、全て4世紀に出現したのだったね。
494日本@名無史さん2019/11/02(土) 22:42:13.18
>>409
>祇園山の古墳周りに墓が後から作られたということの証拠
むしろ逆
古い弥生時代の集団墓の上に、それを壊しながら祇園山古墳が作られたんだよ 495日本@名無史さん2019/11/02(土) 22:44:23.91
バンビシャスのリーグは、闘いの作戦が歪になる理由があるのだったね。
496日本@名無史さん2019/11/02(土) 22:46:33.58
>>868
かわいそうな「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説
大和説の爺さんの、子供や孫らが泣いてるってか 497日本@名無史さん2019/11/02(土) 22:47:20.32
498日本@名無史さん2019/11/02(土) 22:51:53.53
499日本@名無史さん2019/11/02(土) 22:52:57.42
>>872
>博多説、筑後説、熊本説、宮崎説、あと何?
同時にはなりたちませーん<
九州説は、ほぼ九州島付近で、29国位が女王共立の女王國で、
狗奴國を含めた30國が、ほぼ倭國の範囲ですから、同時に成り立ちます。 500日本@名無史さん2019/11/02(土) 22:53:18.97
>>497
通常のバスケットボールの作戦では、不利になってしまうことを、理解しないまま闘えば、勝てないのだったな。 501日本@名無史さん2019/11/02(土) 22:54:46.52
>>874の訂正
どうしても拭い去れぬ大和説の汚点:
「南→東」や「冢→前方後円墳」 502日本@名無史さん2019/11/02(土) 22:54:53.30
邪馬台国畿内説が完全に破綻したことは、頭が普通の者が、このスレッドを読めば、すぐに分かるが、
邪馬台国畿内説という物事は、あまり、人気がないので、このスレッドは、あまり読まれていないのだったな。。
503日本@名無史さん2019/11/02(土) 22:55:35.44
504日本@名無史さん2019/11/02(土) 22:56:36.92
>>500
バンビシャスの日本人選手は、ポジションの役目を全て忘れて、ケンドリック・ナン氏の闘い方をお手本にして練習し闘えば良いのではないのかな、、、 505日本@名無史さん2019/11/02(土) 22:59:33.37
>>497
魏志倭人伝時代についての討論では、国籍の制限がないので、
多くの北朝鮮人や韓国人が、邪馬台国畿内説の立場で、意見を発表してくるのだったな。 506日本@名無史さん2019/11/02(土) 23:03:24.29
>>490
それは本当にスレ主かな?
もしかしたらぜんぜん違って裏でほくそ笑まれているかも知れないぞ 507日本@名無史さん2019/11/02(土) 23:04:18.78
>>463
ケンドリック・ナン氏は、試合を通じて観察しなければ、真実の姿が分からないな。。。 508日本@名無史さん2019/11/02(土) 23:07:48.75
まあ頭の足りない知識もない九州説を騙すのなんて簡単簡単
509日本@名無史さん2019/11/02(土) 23:08:25.22
>>882
>それどころか鉄器で加工された木材が3世紀前半の纒向で出てる <
3世紀前半は知らんが、3世紀末頃以降は、
九州倭国の東征毛人五十五國の軍が入って来て、
鉄製武器で毛人や出雲系銅鐸祭祀部族を支配し、
その鉄を削り直して、木材加工に使ったんだろう、と思うよ。 510日本@名無史さん2019/11/02(土) 23:10:46.31
さあて九州説をどうやって騙してやろうかなあ
511日本@名無史さん2019/11/02(土) 23:12:37.61
>>507
ケミストリーという物事よりも、3ポイントシュートという物事を中心にして、個人的な攻撃を組み立て、回りにあまり遠慮しないという特徴があるのだったね。 512日本@名無史さん2019/11/02(土) 23:13:30.06
バンビシャスの日本人選手は、ポジションの役目を全て忘れて、ケンドリック・ナン氏の闘い方をお手本にして練習し闘えば良いのではないのかな、、、
513日本@名無史さん2019/11/02(土) 23:14:52.83
バンビシャスのリーグは、闘いの作戦が歪になる必要性があるのだったね。
514日本@名無史さん2019/11/02(土) 23:15:55.00
>>513
通常のバスケットボールの作戦では、不利になってしまうことを、理解しないまま闘えば、勝てないのだったな。 515日本@名無史さん2019/11/02(土) 23:18:01.79
どうやら九州説は嘘つく癖に自分が騙されるのは我慢ならないようだな
しかし実は九州説にとって最大限の騙されは
おっと電話が
516日本@名無史さん2019/11/02(土) 23:23:00.49
マンガーノ氏に得点してもらうためのケミストリーが失敗したための失点も、多いのだったな。。
517日本@名無史さん2019/11/03(日) 00:10:52.30
>>473
>ホラ九州説はもっと書き込まないと国民みんなが畿内説になってしまうぞ
事実を直視しろよw
大半の日本人は九州説 518日本@名無史さん2019/11/03(日) 00:12:37.18
>>484
>実際に北部九州でも鉄は溶けてるんだよ
>有史以来北部九州で消費された鉄がすべて出土しているはずもないだろ?
その通り。
しかし九州だけ残って纒向には残らないのは、元の数が圧倒的に違うからだ。 519日本@名無史さん2019/11/03(日) 00:15:07.27
>>486
>しかも奈良盆地は一通り田圃になった時期があるし、水中で代掻きでもすれば
>田圃一枚の範囲に薄まってしまう
>そしてその上に、1700年前以降、奈良盆地で鉄を使っていないならともかく、
>鉄はずっと使っているし、鉄は溶け続けているww
それは九州も同じ。
大和だけ特別だと思うなよ。
君は常にダブスタを主張している。 520日本@名無史さん2019/11/03(日) 00:33:23.60
>>518
違うよ
甕棺墓が土壌の擾乱から内部を保護してタイムカプセルの役目を果たしている分、残り易かった
つまり発掘バイアスが大きい
鉄の量が多かった訳ではない
結局、畿内3古墳が作られた前後の九州の鉄器出土量は示せないんだなww 521日本@名無史さん2019/11/03(日) 00:36:21.10
>>519
だから、九州でも土壌中の鉄の量を分析するのは無意味なんだぞ?
「九州の土壌の鉄の量を分析して確かに九州の遺跡の土壌は
他の土地の遺跡の土壌鉄分濃度より格段に高い」なんていう研究報告なんてないだろ?
どこがダブスタなんだ? 522日本@名無史さん2019/11/03(日) 00:38:07.28
>>488
>九州倭国からの政治連合なら
「女王国東渡海千余里復有国皆倭種」
その倭種が九州倭国由来なら、そのように倭人伝は書いてるよ。
しかし、そんなことまったくつゆほども書いてないということは、九州とは無関係の倭種ということは明らか。
むしろ、3世紀中頃に大和から西進して博多を傘下に入れ、卑弥呼もどうやら亡き者にしたようフシもある倭種だから、東征毛人の話とは真逆だよ。 523日本@名無史さん2019/11/03(日) 00:48:34.46
>>486
>纏向遺跡の範囲の土壌中の鉄濃度を上げるためにどれだけの鉄が必要か
理系ぶってるが、書き方の焦点があまりにも文系過ぎるので、理系じゃないこと晒しまくり。
しかもどんだけアホかも晒している。
3世紀前半には大和では鉄は使ってなかったの。
土壌分析したて言ってたけど、はよ、報告書の表題書き出さんかよ。
ウソこいて話有利に進めようとする大和説者の脳みその出来栄えも、まあたかがしれてるな。 524日本@名無史さん2019/11/03(日) 00:53:54.86
>>522
博多で畿内の供献土器の模倣製作が始まるのは3世紀初
那珂八幡古墳が造られるのは中ごろよりも前
だから卑弥呼の生存中 525日本@名無史さん2019/11/03(日) 00:56:45.65
大和の鉄は溶けた説は、九州では残っている説に粉砕されたのだから、大和説者は布団かぶってはやく寝てしまうことだな。
526日本@名無史さん2019/11/03(日) 01:05:00.11
関川尚功(邪馬台国大和説と箸墓古墳・纏向遺跡、2017)
「大和の弥生遺跡と纏向遺跡をみても、邪馬台国のあった地域の遺跡とは思えない。大陸系の遺物もほとんど出ないし、
古墳の起源になるような墳丘墓もみられない。
このようなところに北部九州の「奴国」や「伊都国」を統属して、中国王朝と盛んに交流を行ったという邪馬台国があったはずはないし、
またこのような国が大和において自然に現れてくるということは、まず考えられない。
また、箸墓古墳の土器や埴輪も布留式の時代ですから3世紀まで行くものではない。
纏向遺跡のピークもこのころだから、やはり邪馬台国の時代よりあとのことで、纏向遺跡はむしろ大和政権の確立期の遺跡であろうと思われる。」
527日本@名無史さん2019/11/03(日) 01:06:48.97
清水眞一 前・奈良県桜井市教委文化財課長
私は二十年間、大和の中央部・桜井市で「邪馬台国は何処」とのテーマを持って、
発掘調査に従事してきた。その結果として、邪馬台国が成立して女王卑弥呼を擁立する
までの弥生時代中・後期に、大和には他地域を圧倒するような「ムラ」や「墓」が
見られないことに気付いた。
代表的なムラである唐子・鍵遺跡も、畿内の同時期の池上・曽根遺跡や田能遺跡などと
比較して、飛び抜けて大きいムラとは思えなかった。逆に、墓に関しては、
西日本各地と比べて遅れた地域との思いも抱いたことだった。
であれば、その次の古墳時代に入って、纏向の地に百メートル以上もの巨大古墳が、
なぜ突如として築造されるのか。これは、大和の地に別の地域の人々が入って来たと
考えざるを得ない状況とみた。
では、誰が何処からきたのか?考古学の資料からは、特定の地域が限定できない。
となれば、卑弥呼の邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる。
528日本@名無史さん2019/11/03(日) 01:47:16.68
>>524
>博多で畿内の供献土器の模倣が始まるのは3世紀初
畿内の供献土器の模倣とは筑前型庄内甕のことだとすると、それは3世紀中頃以降の話。
最近、那珂八幡古墳が3世紀中頃といわれているが、大和政権の影響力が博多に及んだ証拠だから、筑前型庄内甕が普及しはじめた時期とぴったり重なる。
この時期は、卑弥呼が死んだ直後の時期になるよ。 529日本@名無史さん2019/11/03(日) 01:56:02.21
530日本@名無史さん2019/11/03(日) 01:57:36.63
纏向大溝の矢板の鉄器痕が河内の職人の仕事である可能性が極めて高く、大和にそうした鉄器を持った職人がいなかったということから導き出されるのは、大和には矢板を加工する鉄器がなかったことを意味している。
ここでも、「大和の鉄器の証拠」は粉砕された。
やはり、狗奴国と鉄器が大和説のネックとなった。
この二つはどう足掻いてもクリアできんだろうな。
つまり、大和説は根拠のない空想に過ぎんということだよ。
大和に造られた連合政権の初期組織は九州の卑弥呼の邪馬台国とはなんら関係なく、後にヤマト王権につながっていくまったく新しい連合政権だったということ。
531日本@名無史さん2019/11/03(日) 01:58:03.29
筑紫にいた卑弥呼の死による西日本の勢力分布の変動で全て説明がつく。
それを数十年年代を操作することで歴史を捏造しているのが畿内説。
532日本@名無史さん2019/11/03(日) 01:58:58.15
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
3世紀中葉から後半にかけて日本列島各地で出現した前方後円墳は,弥生時代後期後葉の様々な地 域の交流の所産という考えが日本考古学界で広く受け入れられている。
しかし古墳の出現は首長間交流の所産であるのに対し,集落から出土する土器は一般庶民の生活を 反映している。したがって,両者の関係をそう単純には結びつけることはできない。
纒向遺跡での搬入土器の主体は東海系であるのに対し,河内平野では吉備系土器が主体である。纒向遺跡では北陸系や近江系といった河内には 流入しない土器群がみられる。
前方後円墳で象 徴されるネットワークは恐らく大和が中心で,そしてそれは祭祀,あるいは政治的な意味合いも含めたネットワークであろう。
それに対して,畿内型(系)土器の拡散で象徴されるネットワークは大和や河内が必ずしも中心ではなく,場合によっては交易の所産である可能性も高い。
特に重要なのは, 福岡平野の比恵・那珂遺跡群で,一度畿内型土器が搬入され,模倣製作されたのち,在地の土器製作者がそれらを我流の技術で生産し,豊前,豊後の一部地域はもちろん,壱岐や遠く朝鮮半島南部に搬出するという現象である。
これは福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたことを示すものであろう。
中央(最高首長)の意思決定行為は内的に細分化・専門化されておらず(官僚機構の不在),支配能力が高くなく,したがって地方首長は自分の支配地域の維持運営にさまざまな責任を負っているため,地方は中央の意思とは別に,独自の行動をとることが可能である。
古墳出現期の福岡平野がまさに,独自の行動をとっている地方の実例である。古墳時代を国家段階と捉えた時期もかつてあったが,この研究の成果が示すように,少なくとも古墳時代初頭は国家段階にまったく達していないことが推測できるのである。 533日本@名無史さん2019/11/03(日) 01:59:51.65
>>528
筑前型庄内甕はTB期古相の3世紀初から 534日本@名無史さん2019/11/03(日) 01:59:59.93
小沢毅氏
「纏向遺跡を都市とみるには多くの問題がある。都市的要素にしても都市の存在は推定にとどまっており、
何よりも、集住を示す住居や居住区の確認例があまりにも少なすぎる、という現実につきあたる。
こうした点は、都市の定義の根幹をなす集住自体が、はたして寺沢が想定するような規模でなされていたかどうかを疑わせる。(中略)
纏向遺跡の段階に、王宮を核として多数の人々を恒久的に集住させるような必然性があったとは
到底思われない。(中略)また、かりに王権による強制的集住があったとしても、それが都市とするにふさわしい恒久性を有していたかは検討を要する。(中略)以上、纏向遺跡については、居住者
の質の問題はともかく、集住の規模と期間に疑問があり、都市としての要件を満たしているとはいいがたい。」
535日本@名無史さん2019/11/03(日) 02:01:11.97
邪馬壹国70,000戸の内訳は下記の計算で算出されている
1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)
斯馬国〜-烏奴国の20国の戸数は記の計算で算出されている
(1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、斯馬国-烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算
陳寿はマメなやつだ。
536日本@名無史さん2019/11/03(日) 02:07:34.00
>>529
ホケノが4世紀以降というのは常識だろ。 537日本@名無史さん2019/11/03(日) 02:12:47.30
>>531
素人が学者の編年を操作することで作り話の歴史にしてるのがお前 538日本@名無史さん2019/11/03(日) 02:15:53.01
>>532
中央(最高首長)が大和
福岡平野が地方と書いてある 539日本@名無史さん2019/11/03(日) 02:51:50.18
>>532
>福岡平野の比恵・那珂遺跡群で,一度畿内型土器が搬入され,模倣製作されたのち,
在地の土器製作者がそれらを我流の技術で生産し
持ち込まれたのは畿内型ではなく播磨型土器だろ。
だがやはり土器の移動と人の移動を安易に結びつける
ことはできないというのが常識みたいだな 540日本@名無史さん2019/11/03(日) 02:55:56.40
>>534
小沢毅の研究論文は藤原京や吉備池廃寺だから
7、8世紀の遺構と比較してるんじゃないか 541日本@名無史さん2019/11/03(日) 03:07:02.69
542日本@名無史さん2019/11/03(日) 03:21:48.88
小沢毅氏
たとえば五世紀にくらべて六世紀の天皇陵の規模は概して小さくなるけれども、
これが単純に権力の縮小を示すものではないように、
古墳の規模をそのまま権力の大小に結びつけるのは短絡的にすぎる。
そもそも、当事者にとって巨大な墳丘を築造する必要性がどれだけあったのか、
という点こそが、まず問われねばならないだろう。
必要があるからつくるのであって、そうでなければ、
わざわざつくる理由は乏しいからである。
543日本@名無史さん2019/11/03(日) 03:25:06.51
小沢毅氏
魏志倭人伝は邪馬台国と敵対していた狗奴国の官を「狗古智卑狗」と記しているが
これは「ククチヒコ(菊池彦)」と解するほかない
古代において「ククチ」と呼ばれた事が確認され、狗奴国に当てうる地域は
令制下の肥後の国、熊本県菊池市以外に存在しない
その北にある邪馬台国が九州にあることは明瞭である
両国を九州以外に求める説は成り立たない
544日本@名無史さん2019/11/03(日) 03:30:21.92
五世紀にくらべて六世紀の天皇陵の規模は概して小さくなる
五世紀の小さい古墳は天皇陵ではないということだな
545日本@名無史さん2019/11/03(日) 03:40:14.05
専門外に手を出すと失敗する例
546日本@名無史さん2019/11/03(日) 03:41:47.04
>>543
専門外になると根拠がそこらのお爺さんレベルだな 547日本@名無史さん2019/11/03(日) 03:57:12.90
548日本@名無史さん2019/11/03(日) 04:51:17.36
549日本@名無史さん2019/11/03(日) 05:16:27.83
一九八七年〜二〇〇三年にわたって全国(釜山〜関東)の研究者が集って研究をされた
「庄内式土器研究会」
その成果が「庄内式土器研究」で報告されています。
「庄内式土器研究XIX」一九九九年
米田敏幸氏の論文より引用
〜今まで日本各地から出土する大和の庄内式土器とされていたものは、
ほとんど播磨の庄内式土器であって、
大和の庄内式土器が移動している例は数えるほどしかない。
実は播磨で作られた庄内甕と纒向遺跡の庄内甕とは瓜二つで、
纒向遺跡の庄内甕が播磨の庄内甕を真似て作ったか、
あるいは播磨の人が纒向で作った庄内甕の可能性がある。
庄内土器は大和のウリジナルの可能性があるらしい
550日本@名無史さん2019/11/03(日) 05:18:27.32
さらに胎土(たいど)の研究を進めていくと庄内式の次の段階の布留式土器が
大和で発生し、初期大和政権の発展とともに全国に広がったとする現在の定説も
否定しなければならない。
なぜかというと胎土観察の結果、布留甕の原型になるものは畿内のものではなく、
北陸地方で作られたものがほとんどであることが判ったからである。
〜しかも北陸の土器の移動は畿内だけでなく関東から九州に至る広い範囲で
行なわれており、その結果として全国各地で布留式と類似する土器が出現
すると考えているのである。
〜したがって、日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散した
のではなく、北陸の土器の移動が各地の布留式に類似する土器を出現させたわけで、
初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果
はっきりしてきた。
我々はあまりにも土器様式と政治史を直接的に結びつけて考えてしまいがちであるが、
この誤解によって生じる歴史観の誤りが古代史を歪めてしまう危険すら存在
するのである。土器の移動は文化交流によって生じるもので、
その交流関係は対等である。〜
551日本@名無史さん2019/11/03(日) 05:41:07.46
クソテンプレが音もなく崩れさっていく
552日本@名無史さん2019/11/03(日) 05:43:54.05
三角縁神獣鏡は国産だとわかり、
土器も大和のウリジナルだったとわかった
畿内説には一体何が残されるのか...
553日本@名無史さん2019/11/03(日) 05:47:18.74
>>883
>>しかし、残念ながら、この遺構は3世紀後半のものだと橋本輝彦が講演で述べている。
つまり、卑弥呼が死んだあとの時代の遺構というわけだ。
3世紀前半に大和で鉄器生産が行われていた証拠はない。<
>ところが鉄器生産が行なわれていても、古墳以外からはまず鉄器が出ない<
鉄器の生産というレベルではない。
そりゃ、東征軍が九州倭国から持って来た「鉄器」の「修繕補修」程度の遺跡だ。
そして、鉄器が副葬に現れるのはホケノからであるから、3世紀末〜4世紀の事だ。
>ということは 古墳以外からは鉄器が見つからない→鉄器を持っていない
の論理が破綻するわけ それどころか鉄器で加工された木材が3世紀前半の纒向で出てる <
3世紀前半という断定がインチキ臭い。
>結論 纒向は「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)<
九州倭国の東征軍の到着を示す石塚が3世紀末だから、大和の在地民が鉄製武器を知ったのは、3世紀後半位だ。 554日本@名無史さん2019/11/03(日) 05:50:32.35
九州説のうそによる外見の汚れが少々残っている
555日本@名無史さん2019/11/03(日) 05:55:21.78
>>888
>何度目だ?この議論?
東南陸行五百里、到伊都國。有千餘戸
東南至奴國百里。有二萬餘戸
東行至不彌國百里。有千餘家
南至投馬國、水行二十日。五萬餘戸
南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月。可七萬餘戸 ここが女王国
自女王國以北、其戶數道里可得略載。其餘旁國遠絕、不可得詳。
次有斯馬國、次有已百支國
この並びで、投馬国が戸数道里略載の女王国より以北の国ではないという人は
文章を読む能力がない <
この並びで、投馬國は、不彌國の南にあって、水行二十日の位置にある、
と読めない男は、文章を読む知能がない。 556日本@名無史さん2019/11/03(日) 06:02:05.70
こんなふうに九州説は
素人の文献デタラメ読みで出来てるからなあ
557日本@名無史さん2019/11/03(日) 06:12:22.60
>>892
>東南陸行五百里、到伊都國。 でも実際には北東・・・方角を90度回さないとダメだよな?<
出発地点でも途中でも伊都国は見えないのだから、伊都国方向は計測記録出来ないし 、
陳寿の行程説明は人類の常識通りに原則として、
「出発説明+途中説明+到着説明」の順番であるから、
「東南」は出発時点での出発方向説明であり、後は案内人に任せる、って事だ。
>對馬國 対馬
一大國 壱岐 (魏略では一支國)
末盧國 松浦
伊都國 怡土
奴國 那珂、那の津 <
この奴國が間違い。
方向も距離も全く合わず、途中移動の文言もないから、側副傍線行程説明であり、
日向峠西麓に入口はあって、早良平野が中心であり、
背振山地の越えた吉野ヶ里付近にまで達するかもしれない範囲だ。
> 投馬國 出雲 (ィヅモ dug-mag)
と、魏志倭人伝の地名は現代の地名と対照できる音訳と見てよい
邪馬壹國(後漢書ほかでは邪馬臺國)は、吉備とも阿波とも読めないからね<
「南≠東」などに拠って、×だ。 558日本@名無史さん2019/11/03(日) 06:26:08.53
>>897
はっきり言うが、
国粋人種差別殺戮戦争の皇国史観を背景を持つキョクウ思想の持ち主は、
ほぼ全員ほぼ大和説支持だぞ?
まるで麻原や京都アニメ犯人のようだ。
万世一系八紘一宇思考から、間違いを認められない態度をとるのも全員大和説
畿内王権は天地開闢以来の天皇家が作ったという、トンデモを振り回すのも全員大和説
「南→東」などのウソをつくことにまったく躊躇いも抵抗も感じないのも大和説の書き込みだ 559日本@名無史さん2019/11/03(日) 06:36:46.90
>>558
こんな虚偽の中傷ばかりしているから
九州説は穢れて堕落した 560日本@名無史さん2019/11/03(日) 06:51:58.91
>>901
>倭国と日本国という対比関係はない
原文は日本國者倭國之別種也で、あくまで日本国が主語
意味するところは
「日本国は倭国と同じ国の別種の国号である
これ以降はこの国を日本国と呼ぶ」<
ダメだ。
唐会要は、倭國伝と日本國伝とを違う国として違う場所に書き分けて、
しかも唐代の同時代に別個に存在し、別の国だ、という説明をしている。
つまり、類スレ主は、「南→東」などの嘘付き騙しと同じように、
「日本国と倭国が同じ国だ」とするインチキ騙しをしている。
皆さま、思想宗教にクルった東大理系博士号には気を付けましょうね。 561日本@名無史さん2019/11/03(日) 06:59:16.08
>>560
>唐代の同時代に別個に存在
これがウソ
実際にそうだったら
唐側に「倭→日本に改名」説が存在しているわけがない
ところが存在しているのだ 562日本@名無史さん2019/11/03(日) 07:08:03.19
>>914
>「畿内王権は渡来人が作ったという、トンデモを振り回すのも全員九州説」そのものだ<
列島で人類が発生したのでない限り、列島の住民は全員渡来人であり、
列島の王権も渡来系だ。 563日本@名無史さん2019/11/03(日) 07:09:53.46
まだ同じ話をしているの?
カッパ、河伯?何なのか知らないけど、
上の人間なんだと言っているんだよw
キン肉マン〜・・・その他、
よくある漫画、小説などの設定と同じ。
例えばカッパのことを、下の人間だと思っていた、ずっと、そういう認識だった。
実際は・・・?みたいな話。
564日本@名無史さん2019/11/03(日) 07:13:22.89
調べると出てくるでしょ
王母〜寒いな〜・・・・、
このような名前の人物の話とか、ほとんど家の老婆と同じ話だし
山の上のほうにいて〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜とか、宗教関係?
565日本@名無史さん2019/11/03(日) 07:14:13.61
>>916
大和説ガキらの人生が見えたよ
ホワイトカラーにアゴで使われてきたか
銀行員の若造の靴舐めて諂ってたか、
人種差別的殺戮戦争に行かされて、死亡するかだな 566日本@名無史さん2019/11/03(日) 07:16:34.92
今日は文化の日。
親授式で渡される文化勲章は「橘」に「勾玉」をあしらったものという。
その「橘」も「勾玉」も倭国(阿波)の特産物とは此れ如何に。
ちなみに、深曽木の儀で踏む「青石」も、手に持つ「山橘の小枝」も、倭国(阿波)の特産物。 @阿波
567日本@名無史さん2019/11/03(日) 07:18:28.70
>>923
「南→東」などの嘘吐き騙しの証拠どころか、
論拠も出せないゴミ
それが大和説 568日本@名無史さん2019/11/03(日) 07:21:43.24
>>924
>畿内編年だから+50年ぐらいだよな。
歴史学者がよく言ってたw<
ふーん?、歴史学者さんらも、古田さんや私と同じ意見だったのだな。 569日本@名無史さん2019/11/03(日) 07:24:10.61
>>927
「南→東」などの嘘吐き騙しでクルった大和説が、また狂っていく 570日本@名無史さん2019/11/03(日) 07:27:23.97
>>930
「南→東」などの嘘吐き騙しに関しても、
証明できていないよ
大和説は無能だね 571日本@名無史さん2019/11/03(日) 07:33:11.22
>>931
>>卑弥呼の倭国が北部九州で確定しているんだから、<
>おやおや
熊本説や宮崎説を頭ごなしに完全否定? <
いや、女王之所都が北部九州。
熊本も宮崎も倭国に含まれるが、
熊本は卑弥呼に反抗したらしいから、女王國には含まれないだけ。 572日本@名無史さん2019/11/03(日) 07:34:44.84
>>933
また「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
結局、発狂で終幕か 573日本@名無史さん2019/11/03(日) 07:42:01.66
>>936
>投馬国五万戸を帯方郡から邪馬台国までのルート上に求めることのできない仮説は
その時点で無価値 その時点で無価値<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから×だし。
投馬國は、不彌國からの側副傍線国としての記載であり。
不彌國や邪馬壹國女王之所都付近から、南へ「水行二十日」の位置にあることになるから、
「郡から女王之所都」のルート上にはない。 574日本@名無史さん2019/11/03(日) 07:44:25.10
575日本@名無史さん2019/11/03(日) 07:45:18.28
>>939
大和説は「南→東」などの嘘吐き騙しをしているマイナス半人前なので、
いると、大和説支持者が減ります 576日本@名無史さん2019/11/03(日) 07:52:45.94
むかーしの話だから、詳しいことはわからないけど、
このような事を言っている人もいたり。
>百済出身は倭人・中国系
傾いた松の木(松の木が立てられている)の写真なども、
なぜ詳しいのか?なんだよな・・・。
577日本@名無史さん2019/11/03(日) 07:56:56.54
578日本@名無史さん2019/11/03(日) 08:01:34.84
>>943
>安本美典らの説では、「短里」は東夷伝のみに見られ、他の箇所では存在しないとしているが、
実際は中華中原に関わる部分にも頻出する。但し、220年以後の記述であっても従来通りの「長里」でないと
解釈できない部分もあり、「魏王朝=短里」という単線的構図は成立しない云々と述べている。<
私が、Yahooで、大和説者の天誅やハイエナらと三国志の里記載の議論をした時にも、
その里記載を「外縁部間の距離」とする解釈で、短里でほぼ十分解釈出来、
長里ではほぼ×であった。
ただし、漢代の事件記録や、部将らの上表文の転写説明や、蜀や呉の記録では、
長里の方がベターと思われる記載もあった。
だから私は、「魏朝の里」という言葉も使っており、
古田さんは「魏西晋朝の里」を使われた。 579日本@名無史さん2019/11/03(日) 08:06:48.09
家は、やくざ、暴力団ではないんだけど、
白い服(写真)もあったしな、あったでしょ?
例えばw『白い服 暴力団』
白い服の写真も、同じ家、傾いた松の家の写真
580日本@名無史さん2019/11/03(日) 08:15:47.60
>>578
>その里記載を「外縁部間の距離」とする解釈で、短里でほぼ十分解釈出来、
解釈できるわけないだろ
ソレやると部分距離の総計が12000余里にならないんだぞ
絶望感あふれるデタラメだよ 581日本@名無史さん2019/11/03(日) 08:19:48.65
>>573
>投馬國は、不彌國からの側副傍線国としての記載であり。
そういう架空の設定を根拠もなく自分勝手に創作するから
九州説どうしですら意見が合わないのだ
トンデモ説の宿命だがな 582日本@名無史さん2019/11/03(日) 08:32:58.77
>>580
>ソレやると部分距離の総計が12000余里にならないんだぞ
そもそも、それが間違い! 12000余里は、「直線距離」! @阿波 583日本@名無史さん2019/11/03(日) 08:39:14.02
原理的に総計=万二千余里でなくなれば「島巡り」珍法も消える
女王国以北の道里しか判ってないなら、北部九州が会稽東治の東だというトンデモも消える
里程論で破綻した九州説が消える
584日本@名無史さん2019/11/03(日) 08:41:26.93
今日は文化の日。
親授式で渡される文化勲章は「橘」に「勾玉」をあしらったものという。
その「橘」も「勾玉」も倭国(阿波)の特産物とは此れ如何に。
ちなみに、深曽木の儀で踏む「青石」も、手に持つ「山橘の小枝」も、倭国(阿波)の特産物。 @阿波
585日本@名無史さん2019/11/03(日) 08:49:30.08
何やらの日でもなんでも良いけど、
どこの天皇なんだ?と聞いているんだよ
頭が悪いんだろう
586日本@名無史さん2019/11/03(日) 08:54:28.80
勝□〜、何かのホンモノの家なんだろうという話
西王母のところにも「勝」が何やらと書いてあったり、
なぜか家の父親の名前と同じだし、蚕を飼い、機織りの話とか
587日本@名無史さん2019/11/03(日) 08:58:16.38
かなり前のことになるんだけど、とあるスレ
弟だと言っている人もいたり、
父親も二男(弟)で、もれ(仮)も弟(二男)なんだけど
588日本@名無史さん2019/11/03(日) 09:02:33.36
父親には兄もいるんだけど、もれ(仮)が小学生の頃だったかな?
亡くなっているし
弟(書き込みをしている人)・・・兄と妹、家の話しでしょ?
589日本@名無史さん2019/11/03(日) 09:19:02.01
『西王母 勝』
たしか河伯(日本ではカッパ?)なども出てくるし、
寒いな・・・・・・・・・・・・・・・・・の家の話でしょ。
590日本@名無史さん2019/11/03(日) 09:24:58.49
老婆談
結婚する前、何かの家の人だと言われたとかw
確実に何かの家の人でしょ?老婆の家では牛を飼っていて
591日本@名無史さん2019/11/03(日) 09:27:52.53
>>947
>>ダメだ。
3世紀倭国の最大の都市遺跡は、弥生銀座であり、
纏向は、3世紀末以後だ。<
>理由も言わずに連呼すれば 九州説がゴミだと宣伝するのと
同 じ <
理由など、この5chに数え切れない位書いて来てある。
それを知らん振りして、
「理由も言わずに」の嘘つき騙しを言い放って、連呼すれば、
大和説がゴミだ、と宣伝すると同じ。 592日本@名無史さん2019/11/03(日) 09:30:25.83
>>951
君のは頭の中で捏ね回した屁理屈。
引用先の論文は実験やデータによる考察だ。
その価値は全く違う。
反論したいならデータを揃えて反論すればいい。 593日本@名無史さん2019/11/03(日) 09:35:52.00
老婆(旧姓わたなべ)が言っているんだから、そうなんだろうw
家のほうが、何かの家の人だとか
594日本@名無史さん2019/11/03(日) 09:37:29.67
595日本@名無史さん2019/11/03(日) 09:38:20.38
>>952の訂正。また途中で投稿ボタンを押した事になってしまった。
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説のは、史料事実を頭の中で捏ね回した屁理屈。
九州説の論は、原則、史料事実や史料実態からの帰納的で高確率的な推論だ。
大和説学者ら論文は、史料事実ではなく、実験やデータの、都合の悪い部分を伏せて、
都合の良い部分をチェリーピッキングした事による考察だ。
その価値は全く違う。
反論したいなら文献考古の史料事実や史料実態を揃えて反論すればいい。 596日本@名無史さん2019/11/03(日) 09:47:21.43
老婆談、疎開したというところがあるんだけど、
なぜか川俣町〜飯野町、そっちのほうの話だしな
597日本@名無史さん2019/11/03(日) 09:52:31.12
11 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/01(金) 19:36:49.68
>邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
・(中略)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
401日本@名無史さん2019/11/02(土) 19:50:21.14
>もと歴博の館長もやった佐原真いわく、
「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」 と真顔で発言し〜
鉄板は、近畿圏では溶ける・・・
議事録からの抜粋です。
598日本@名無史さん2019/11/03(日) 09:52:43.71
>>957
>おいおい、新井氏の根拠だった、三角縁神獣鏡のK分類の銘文に相保が入るのは
平原鏡を引き継いでるからってのは、完全にガセネタだっただろ?
しかも論文を書いている新井氏が銘文そのものを確認していなかった所為だ<
中国の鏡に「相保」が入るのは、勿論全ての鏡ではなく、大多数の鏡でもなく、
逆に、非常に割合が少ない数だ。
という事は、「相保」という文字を入れる鏡師も非常に少ない、という事であり、
それが列島に多く見られる、という事は、それらは皆、渡来鏡師らが関与した鏡だった、
という事の証拠だ。
>となると、平原鏡と三角縁神獣鏡の類似点は「大陸鏡にはない突線ひびが入ること」
だけしかない
しかし、大陸でも技術水準が低い鏡があることは新井氏も認めているし
三角縁神獣鏡でも鋳上がりのよい舶載鏡には突線ひびの指摘はない <
これも同じ。
渡来の呉系楽浪鏡師らが持っていた、粘土版そのモノや技法や後の補正の必要性の有無などで、
説明が付く。 599日本@名無史さん2019/11/03(日) 09:56:56.47
何度も書いていることなんだけど、
家は軍人とか、そういう家ではないし、軍の学校、訓練?のようなこともしていない
600日本@名無史さん2019/11/03(日) 10:07:57.21
>>965
>ここに九州説の立場で書き込みをしている人が、
半島系の背景を持つパヨクだって話 <
パヨクなんて何の事か?は知らんが、
九州説者は、原則として、(右翼とも左翼とも関係なく)中道であり、
皆「史料事実や史料実態からの帰納っ確率的な推論」が原則の論者だ。
それに対して、大和説者は、
史料事実や史料実態の中の、都合の悪い文言を否定や曲解をして、
都合の良い文言だけピックアップして曲解捏造している詐術的な人間だ。 601日本@名無史さん2019/11/03(日) 10:13:51.58
>>591
>理由など、この5chに数え切れない位書いて来てある。
>それを知らん振りして、
はら、また頑として「理由も言わずに」
嘘つき騙し行為を続ける九州説の醜悪さ 602日本@名無史さん2019/11/03(日) 10:19:21.26
>>966
>福岡の甕棺2ヶ所3基(井原の記録入れて4基)の前漢鏡だから
文化というほどの数ではないな <
前漢鏡と言われる鏡は、絶対に前漢代に造られた、という事にはならず、
形式が前漢代の鏡の形式を踏襲して後漢代以後に造られた、という場合が幾らでも有り得、
形式が絶対年代の特定根拠にならない事が幾られも有り得る。
>1世紀に漢鏡を独占して、その後ど没落した<
これはもう何度も書いて上げた事。
博多湾岸地域は、没落せず、
317年頃筑後〜久留米へ遷宮した後も、伊都国地域は、
隋代以後は竹斯國となって存続している。 603日本@名無史さん2019/11/03(日) 10:21:56.11
>>969
大和説の人は、無視されるのが一番キツいみたいだね
相手にされれば、粘着声闘に持ち込んで精神勝利法で勝ち誇れるのに
その道を閉ざされると、真実が手元にない者はなす術がなくなるから 604日本@名無史さん2019/11/03(日) 10:26:23.11
>>525
畿内では鉄器は古墳から大量に出るが
九州のが住居跡から見つかるのは戦乱などで遺棄されて道具がそのままだったということ 605日本@名無史さん2019/11/03(日) 10:27:49.94
頭の良い人は気づいている、
あのムー大陸(例えば、中国など)の話と同じ
実際は日本(倭国?)の話しではないんだけど、
日本に置き換えている
606日本@名無史さん2019/11/03(日) 10:28:15.33
>>600
ザラコクはいつも相手を罵る時キョクウの嘘つきが…とか言ってないか 607日本@名無史さん2019/11/03(日) 10:34:50.35
老婆談、なぜか合致している
歌舞伎、芸能?の話もしているし、
橋が出来た完成したので来てくださいという招待状が届いたこともあると言っていたり
608日本@名無史さん2019/11/03(日) 10:35:31.72
609日本@名無史さん2019/11/03(日) 10:40:41.80
:
610日本@名無史さん2019/11/03(日) 10:40:56.91
招待状が届いたこともあるんだけど、
遠いし、歳も取っていたので〜・・・断った。
勝□(父親w)の話しではない、もっと前の代の話。
王母〜寒いな〜・・・の話しでしょ
611日本@名無史さん2019/11/03(日) 10:50:07.28
>>525日本@名無史さん2019/11/03(日) 00:56:45.65
>大和の鉄は溶けた説は、九州では残ってる説に粉砕されたのだから、大和説者は布団かぶってはやく寝てしまうことだな。 612日本@名無史さん2019/11/03(日) 10:50:47.36
『天狗の羽うちわ』
なぜか同じような話
613日本@名無史さん2019/11/03(日) 10:51:05.55
>>608
いや住居跡に鉄器が出るとこ全部だから九州だけじゃなくて全国だなあ 614日本@名無史さん2019/11/03(日) 10:51:34.92
>>604
畿内の古墳には釣り針とか工具とか、とても王の持ち物とは
思えないものが副葬されてるから、
工人の墓という説もあるらしいね。 615日本@名無史さん2019/11/03(日) 10:54:57.72
>>535
斯馬国〜-烏奴国の20国は遠すぎて詳細がわからないと
魏志倭人伝に書いてるが 616日本@名無史さん2019/11/03(日) 10:55:37.16
「日下姓の起源」
古い由来の姓に「日下(くさか)」姓がある。
日下姓は、聖徳太子様の時代には存在していた名前である。
「古事記 中つ巻」の冒頭に日下の名前が登場するので、神代の時代から人代の時代に入った時には、もう既に存在していた名前である。
勿論、日本書紀にも出てくる。
阿波国(あわのくに:徳島県)の蜂須賀藩家臣成立書に、日下姓が見られる。 また、隣の香川県も日下姓が多く、高知県高岡郡日高村にも日下の地名がある。
徳島県全体としては、徳島市に集中しており、日本一「日下姓」が多い地域である。
香川県全体としては、高松市に集中しており、日本一の徳島市に続いて「日下姓」が多い地域である。
このことから、西日本に存在する日下姓の大半は、徳島県や香川県等、四国地方を起源にしていると考えられ、
よって、記紀に登場する日下姓をみても、記紀は四国地方を記したものと言える。 @阿波
617日本@名無史さん2019/11/03(日) 10:55:47.68
>>536
科学分析でホケノ山は3世紀中葉になったよ 618日本@名無史さん2019/11/03(日) 10:57:43.19
>>552
三角縁神獣鏡は素材の銅を調べたら中国鏡と判明したよ 619日本@名無史さん2019/11/03(日) 11:02:27.77
620日本@名無史さん2019/11/03(日) 11:03:14.34
621日本@名無史さん2019/11/03(日) 11:03:16.75
>>983
>この銅鏡をありがたがる文化は、特に九州の人が畿内に持ち込んだ訳ではなく 交易圏への浸透という形で関東まで広がっている <
「市」を介しての交易は、相当昔からあったようだが、
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」が、強い支配性を齎した。
>文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。<
ホケノに鏡片が見つかっていた筈。
>また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。<
祇園山の墳頂の大型箱式石棺は、(盗掘されて何もないが)、
一人では広過ぎるから、囲繞型祭祀があった可能性がある。
>吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、<
吉備は、出雲支配と九州倭国の東征軍の両方が共存していた。
>精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。<
これは×ね。庄内ですら筑紫は3世紀前半で、大和は3世紀末の石塚からであるから、
その後になる精製三器種が、大和の方が筑紫よりも早かった、とはならない。 622日本@名無史さん2019/11/03(日) 11:05:46.08
『筋肉少女帯 グリグリメガネ』
同じような曲だしな、何の話なんだろう。
山の上のほうに住んでいたとか、当時家にあった、本や書なども誰かに?
623日本@名無史さん2019/11/03(日) 11:06:19.31
>>982
>なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、<
漢鏡6期とはいつのどの鏡であるのかは知らんが、呉系楽浪鏡師らの渡来は、
卑弥呼の遣使の直前の、魏の楽浪帯方攻撃戦の前に渡来して来ていたようであり、
糸島から弥生銀座付近は、鏡作りの核になっていた。
>ホウ製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型ホウ製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。<
このスレ主の「ホウ製鏡」という定義が曖昧。おそらく、渡来の呉系楽浪鏡師らの事と、
本当の倭人によるホウ製鏡の、二種類あった事を隠して、世間の人々を騙そうとしている。 624日本@名無史さん2019/11/03(日) 11:07:49.28
625日本@名無史さん2019/11/03(日) 11:10:36.62
>>983
どちら向きの書き込みかは読めば分かるだろ?
ここにいる大和説者は、この手のタカ派の、
喧嘩好きの「人種差別的な殺戮戦争大好き、朝鮮人中国人下げ」が基本で
ミラーリングが得意な人たちなんだよ 626日本@名無史さん2019/11/03(日) 11:12:36.91
627日本@名無史さん2019/11/03(日) 11:16:58.75
628日本@名無史さん2019/11/03(日) 11:19:55.19
>>984
>>可能性としては、河内において鉄器でもって生産された板を大和に持ち込む、
あるいは河内の板製造業者が受注して大和で鉄器でもって板を作るなどが考えられ<
>板のようなかさばるものが輸送できて、鉄材が輸送されていないと決め付けるww
九州説は結論ありきで考えるから、合理性も整合性もないデタラメを主張することになる
バカすぎw <
この大和説男(おそらく類スレ主?)は、本当にクルっているんだろうねえ。
大きな板でも、木だから海水に浮かぶが、
重い鉄では、浮かばないし、
大きな板に積んでも人と一緒に沈んでしまうかも知れない。 629日本@名無史さん2019/11/03(日) 11:23:51.18
>>608
北部九州の殺傷人骨は弥生中期で
鉄器が遺棄されてる住居が焼かれたり集落が破壊されてないので
朝鮮爺さんが置き忘れて、引っ越した新築竪穴住居で
ワシの鉄器がないないと探した
お爺さんは大抵そうやって生きている 630日本@名無史さん2019/11/03(日) 11:24:39.75
>>994
>畿内説では前方後円墳の定形化は、各地の墓制の統合だと考えているよ?
特殊器台、弧帯文の起源は吉備だし
「何でも大和起源だと主張したがる姿」とかいうのが、
お前さんの「半島的思い込み」そのものだ<
大和の前方後円墳自体が、筑紫の那珂八幡などの部族の、
東征毛人五十五國の将軍らの墓。 631日本@名無史さん2019/11/03(日) 11:25:28.08
632日本@名無史さん2019/11/03(日) 11:28:15.99
日本昔話・・・、
教本か何かと同じなんだろう、記紀神話?仏教?
633日本@名無史さん2019/11/03(日) 11:40:44.04
九州説に騙される人間なんぞ誰も居ないってこった
634日本@名無史さん2019/11/03(日) 11:42:47.80
>>626
棺材でも柱でも副葬品でもない
墓室に入っていたらおかしい小枝なんて
混入物でしょ 635日本@名無史さん2019/11/03(日) 12:04:06.30
『311 大震災』?
弟(兄と妹もいる)だと言っている人がいたりw
636日本@名無史さん2019/11/03(日) 12:15:34.99
>>634
ダサいコメするな、
故人の百人の愛妾たちが手向けた満開の桜井か桃井の小枝だったのさ 637日本@名無史さん2019/11/03(日) 12:19:12.44
成り済まし、騙り・・・何なのか知らないけど、
刑務所に行けと言っているに、なぜわからないんだろう
人の家の話だと言っているのにw
638日本@名無史さん2019/11/03(日) 12:59:38.63
ほとんど同じ話でしょ
『河童の雨乞い』
カッパ、河伯?のほうが上の人間、能力的な話もw
639日本@名無史さん2019/11/03(日) 13:01:02.88
『河童の雨乞い』
邪馬台国?のような設定だしw
640日本@名無史さん2019/11/03(日) 13:05:23.25
米を粉にして・・・、
供えたりするものも作っていたと言っていたり
『河童の雨乞い』
餅のようなものも出てくるし、そういうシーンw
641日本@名無史さん2019/11/03(日) 13:09:18.69
餅ではないのかな、
雨をふらせたまえwと言っているシーン
子供と老婆がいて、ゴザ?あと白い物体のようなもの
642日本@名無史さん2019/11/03(日) 13:11:42.44
何がおかしいのか?となるでしょ
『日本昔話』も、
なかった頃の写真(キュウリのような葉、葱の華)なのに、
あと家の老婆談も
643日本@名無史さん2019/11/03(日) 13:21:06.62
倭人伝で勝負できない畿内説は捏造で勝負するしかないよね
644日本@名無史さん2019/11/03(日) 13:24:02.92
キリスト者、キリスト者(不明)と言っている人もいたり、
そういう説?
645日本@名無史さん2019/11/03(日) 13:27:58.75
>>100
>・・・最初から詰んでいるんだよ、九州説はw<
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠っても、倭國は北部九州であり、
大和は、「南≠東に拠っても、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国の、倭国の別種の旧小国である事でも、
畿内や邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言である事でも、
大和説は最初から詰んでいるんだよ。 646日本@名無史さん2019/11/03(日) 14:06:04.44
吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前1〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(1世紀頃の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。
邪馬台国は、魏志伝倭人だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
西暦57年に博多湾沿岸の倭王が漢委奴国王印をもらい、107年に倭王帥升も朝貢しているが、190年頃とされる卑弥呼の即位までの間に倭が大和に東遷でもしたのだろうか?
魏志倭人伝にも後漢書にも、倭が東遷したとはまったく書かれていないし、考古学的な裏づけもまったくない。
647日本@名無史さん2019/11/03(日) 14:08:15.55
『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。
或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。
(日本語訳)
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。
あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。
あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。
(わかりやすくまとめ)
倭国の使者は異なる3つの説明をした。
A 倭国が日本に改名した。
B 日本と倭国は別の国である。
C 日本は東側の小国だったが倭国を併合した。
倭国の使者は不誠実だったので中国は倭国の使者の話を信用しなかった。
さて、日本国がした説明はどれでしょう?
おそらく、Aが日本国がした説明(嘘)。
真実は、倭国が日本国に改名したのではなく、日本国が倭国の別種であり、倭国を併合した。
倭国は古の倭奴国のこと、つまり九州北部の博多湾沿岸、筑紫のこと。
648日本@名無史さん2019/11/03(日) 14:08:44.17
649日本@名無史さん2019/11/03(日) 14:09:54.87
>>615
>>>535
>斯馬国〜-烏奴国の20国は遠すぎて詳細がわからないと
>魏志倭人伝に書いてるが
郡使が足を伸ばさなかったと言う意味だよ。
実際には佐賀長崎大分の各地域だろう。 650日本@名無史さん2019/11/03(日) 14:12:29.44
651日本@名無史さん2019/11/03(日) 14:24:33.18
>>523
>理系ぶってるが、書き方の焦点があまりにも文系過ぎるので、理系じゃないこと晒しまくり。
お前のような文系以前のバカにも分かりやすいように書いてやってるのにw
理系でも原稿料の取れるレベルの文章書いてるよw
バカな文系より理系の方が文章が上手いのは常識 652日本@名無史さん2019/11/03(日) 14:25:32.70
>>650
玉、剣、内行花文鏡が揃っていたから、王墓とみなしてよい。 653日本@名無史さん2019/11/03(日) 14:28:57.00
654日本@名無史さん2019/11/03(日) 14:30:19.01
>>523
>3世紀前半には大和では鉄は使ってなかったの。
それがウソ
一度も誰も証明していない
九州説のデタラメの一つ
>土壌分析したて言ってたけど、はよ、報告書の表題書き出さんかよ。
お前、本当に読解力ないんだなwww
土壌分析しても無意味ってずっと教えているのに(sigh)
纒向遺跡のどこの土をとっても分析すれば鉄が検出されるっていうのは「普遍の真理」であって
具体的な分析など必要ないし、誰も実際に分析したりはしていない
こんな簡単なことがどうして理科できないかなぁ?
理解できないから九州説なんてやってるんだろうけどさww 655日本@名無史さん2019/11/03(日) 14:32:29.59
>>525
>九州では残っている説に粉砕されたのだから
粉砕なんてされてないよ?
逆に九州説の人も「九州でも鉄が溶ける」ことを認めているww 656日本@名無史さん2019/11/03(日) 14:36:44.36
657日本@名無史さん2019/11/03(日) 14:38:05.01
>>530
>ここでも、「大和の鉄器の証拠」は粉砕された。
>>525
>>九州では残っている説に粉砕されたのだから
何か見覚えのある表現だと思ったらこれ、パヨクの人の好む表現だね!
「アベ政権粉砕」とかよく言ってる 658日本@名無史さん2019/11/03(日) 14:40:10.26
>>655
>逆に九州説の人も「九州でも鉄が溶ける」ことを認めている
その議論では、九州で残っているのは鉄の数量が多かったためで、大和はごく少なかったためだとして、大和鉄過疎地帯だったことを指摘していたな。 659日本@名無史さん2019/11/03(日) 14:46:40.94
>>657
>パヨクの人の好む表現だね!
粉砕は、例えば木の実を石の上に置いて、やや大きめの石で叩いて実を潰すことなどを表現する古典的な語彙。
パヨクはアホだから、この古典的表現を巨大な政治的力に対抗して自分らが撃退されたことを負け惜しみで粉砕と言った。
この粉砕をそうしたアホパヨクの力負けに適用するお主もパヨクの一党だな。 660日本@名無史さん2019/11/03(日) 14:53:04.58
大規模土木工事を行うためには
人や道具が組織的に管理されていなければできない
大和では鉄が管理されていたと考えたほうがいい
661日本@名無史さん2019/11/03(日) 14:53:53.33
>>654
>それがウソ
なら、鉄鏃の一つも掘り出してみたまえ。
>誰も実際に分析したりはしない
あれれ、分析したと言ったのにぃ。
まあ、お主の敗北宣言だと理解しておこう。 662日本@名無史さん2019/11/03(日) 14:56:36.67
>>660
>大和では鉄が管理されていたと考えたほうがいい
道具がないので、道具が揃っている他所の会社に外注しただけ。
無理に空想しなくてもいい。 663日本@名無史さん2019/11/03(日) 14:58:01.61
>>619
それも梓書院「季刊 邪馬台国」だろ?
よそでは相手にされないから、「邪馬台国の会(安本美典氏主宰)の機関紙」に載せてもらってるんだよ
ピアレビューを経た学術論文ではない 664日本@名無史さん2019/11/03(日) 14:58:29.92
>>647
>A 倭国が日本に改名した。
>さて、日本国がした説明はどれでしょう?
>おそらく、Aが日本国がした説明(嘘)。
九州説っていつもどうして
理由を言わずに決めるの? 665日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:01:43.14
>>651
>理系でも原稿料の取れるレベルの文章書いてるよ
そりゃ良かったね。
しかし、理系でお金取れる文章書こうとすれば、お主程度の知識では無理。
文系が抱く甘い妄想だよ。 666日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:03:06.69
それで、お前は何をしている(していたでも良い)家の人間なんだ?と質問されたとき、
お前は「何もしていない」と答えるだろう、実際は、人の家の話だからなんだよw
667日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:05:15.90
>>656
つ >>518
「>実際に北部九州でも鉄は溶けてるんだよ
>有史以来北部九州で消費された鉄がすべて出土しているはずもないだろ?
その通り。」
認めてるよな?ww 668日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:05:34.36
>>662
古鉄や鉄原料は朝鮮半島にある
遺伝子が朝鮮人に隔絶して近い北部九州や
異人であるコマビト民族地域には鉄が他所よりも多い
博多よりもさらに半島に近い壱岐では地上炉も見つかっている
韓濊人の雑居地域だな 669日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:06:21.94
大和の表土の鉄成分の分析結果はまだですか?
670日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:07:53.01
671日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:08:33.62
後漢書は倭の北限が狗邪韓国、倭の南限が倭奴国で、畿内など出てこない。
魏志倭人伝には後漢代までさかのぼった記事が書かれているのに、九州から畿内への遠大な東遷は書かれていない。
いつ倭は畿内に東遷したのかな?
672日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:09:11.08
>>647
>日本国が倭国の別種であり、倭国を併合した
もともと中国の王朝は、卑弥呼の倭国を潰したのは倭種の国だと疑っており、
その倭種の国の発展形であるヤマト王権を信用していなかったということ。
それで、いろいろ混乱した理解を示したということ。
倭種の国への不信感が根底にあったのよ。 673日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:09:28.58
あと明治、明治?
よくわからない事ばかり言っている人もいたり、
人の家の名前を名乗った人たちがいるとか?
詳しいことはわからないけど、何なんだろう
源、平〜?そういう名字の人もいないと言っていたり
674日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:11:00.51
>>670
鉄が多く流入し遺棄されている地域は、
本州より倭人特有の風習である卜骨が
畿内の影響が及ぶ時代になってわずかしか出ない 675日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:11:20.48
>>658
九州でも鉄が溶ける、遺物として残りにくいことが理解できたら、
次はその残りやすさの変異に議論が進む訳だ
九州で鉄が多く残るというのは甕棺墓の分が大きい
奈良盆地で残りにくいのは、奈良盆地の土地利用の変遷が効いている
それを雑に表現すると、奈良では鉄が溶けやすいとなる訳だ
減衰率がわずかに違えば、初期条件の違いはすぐに関係なくなるぞ
指数関数的に残存量が減衰するんだから
初期条件で九州の方が多かったかたというのは、幼稚な思い込みに過ぎない 676日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:13:48.00
>>659
つまり君は>>525、>>530の九州説の書き込みはアホパヨクによるものだと判断するんだね?
九州説の書き込みはアホパヨクの書き込みだ!と? 677日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:15:54.39
>>661
>なら、鉄鏃の一つも掘り出してみたまえ。
ほいよ
○ホケノ山 畿内 3世紀中葉
『鉄鏃 約60本』
素環頭大刀 1口
鉄製刀剣類 10口
○椿井大塚山古墳 畿内 3世後葉
鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、『鉄鏃約200本』、
銅鏃17本、鉄製甲冑1領、鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、
鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上、
鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本
その他鉄製冠ではないかと疑われる鉄製品
○黒塚古墳 3世紀後半
刀剣類27口以上、『鉄鏃170本以上』、小札、U字形鉄製品 678日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:16:28.48
傾いた松〜、何かの家なのかな?
松の木が立てられている写真の家w
679日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:18:24.26
>>661
>あれれ、分析したと言ったのにぃ。
また、捏造嘘つきだ!
このスレでのことだから、「分析」で検索かければすぐに分かるウソを
どうして平気で書くかねえ?
まあ、バカで卑怯な九州説だから仕方ないんだろうがww 680日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:19:19.69
大和では権力者に鉄器保有が集中している
681日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:27:36.37
>>671
後漢に朝貢したのは極南界の倭奴国だから
大倭王居邪馬臺國は漢代には遣使していない 682日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:28:01.80
『何者にもなれない お前たち』
なぜか家の写真、話だしな、うまやど?しょーとくたいし?
683日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:34:07.38
>>662
>道具がないので、道具が揃っている他所の会社に外注しただけ。
本物の学者の見解
「古墳時代にはいると前期古墳には鉄製武器・農工具を多量に副葬するのは一般的であって、
鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中したことも示している。」
橋口達也 684日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:34:17.20
「女王国東渡海千余里復有国皆倭種」
これが大和説者への殺し文句だ。
これに「其南有狗奴国」を合わせると、大和説者には無敵だ。
考古学の知見も邪馬台国は大和にあらずと示しているし。
もう大和説者は、降参しろ。
685日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:34:23.06
傾いた松〜、
家は、そういう名前の家なんだけどw誰かの本名なんだろう
カミタマ?
686日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:34:35.30
>>681
中国側の文献は倭は対馬海峡というのが共通認識。
いつの間に何千里も東遷したんだよ。 687日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:36:22.52
>>647
>倭国は古の倭奴国のこと、つまり九州北部の博多湾沿岸、筑紫のこと。
いくら言い張っても、碌な鍛冶炉遺構弥生集落遺跡や資源の無い九州博多湾沿岸に、「倭国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波 688日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:38:12.71
>>686
倭は対馬海峡という共通認識はない
離島民の認識だろう 689日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:39:03.60
>>683
鉄器の総量が増えれば、一般大衆もたくさん持っていたし、首長層もたくさん持っていた。
しかしそれは古墳時代にその傾向が強まったわけで、弥生時代には大和にほとんど鉄はなかった。
古墳からの出土品を持ち出すキナイコシはアホ。 690日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:39:44.65
>>688
倭の北限は狗邪韓国、南限は倭奴国(博多湾)。 691日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:40:25.08
692日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:42:11.52
>>690
それだと倭奴国(博多湾)よりも北に大倭王居邪馬臺國があることになる 693日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:44:03.60
>>683
>本物の学者の見解
笑っちゃうわ。
お主の出してくる鉄関連資料は、みな3世紀後半以降。
纏向遺跡の大溝の掘削が始まったのは庄内0式期。2世紀末。
そして4世紀初めには埋没する。
つまり、矢板が設置されたのは3世紀前半。
大型建物群が解体される3世紀中頃には大溝は完成していた。
つまり、3世紀後半の資料だしてきても、無駄。 694日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:44:45.48
>>689
朝鮮人が多い商店街に本場のキムチは多い 695日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:46:43.67
>>662
>道具がないので、道具が揃っている他所の会社に外注しただけ。
道具がない、というのがすでに根拠のないご都合主義の想像ww
その先の「他所の会社」とか「外注」とかは、3世紀の畿内をめちゃくちゃ先進経済地域だと考えているんだなww
もうこれだけで王都周辺だと言ってるようなものだろ?ww 696日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:48:05.41
>>690
そりゃ、1世紀のころのことだったんだろ。
フルタ派か安本派か知らんが、三世紀と混ぜくってはイカンな・・。 697日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:48:53.90
キムチの話?
家の老婆(オジーちゃんもw)は食べたこともないと言っているしw
なぜだと思う?
698日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:49:28.89
>>684
>「女王国東渡海千余里復有国皆倭種」
>これが大和説者への殺し文句だ。
>これに「其南有狗奴国」を合わせると、大和説者には無敵だ。
つーか
そう思う理由は?
理由がなければ妄想なんだけど 699日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:50:24.04
>>665
>文系が抱く甘い妄想だよ。
私は理系だから、その妄想とは無縁だなww 700日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:51:41.81
弥生時代に半島の鉄が多いところは第1次鶴橋商店街と考えればわかりやすい
701日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:51:44.96
>>693
?
もうちっと論理的に主張してもらわんと
他人には意味わからんのだが? 702日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:52:53.66
牛肉などがあるでしょ、肉自体食べなかったとかw
あの写真(キュウリの葉、葱の華)の世代の話、なぜだと思う?
これも以前から書いている、
老婆と言っているけど、あの・・・家に、嫁に来た人
703日本@名無史さん2019/11/03(日) 15:57:46.76
家は労働者ではないんだと言っているだろうw
軍人とか、そういう家でもないし
704日本@名無史さん2019/11/03(日) 16:00:22.31
おそらく
今、住んでいる家に来て(引っ越しをしてきたでも良い)、
近所で仕事をしていただけみたいな話
705日本@名無史さん2019/11/03(日) 16:01:52.52
>>669
理解力ゼロなんだなww
測る価値がない=測る意味がない=測った人はいない
>>670
その論証がない
九州でも鉄は溶けるし、鉄が出土しない理由は合理的に説明できるし、鉄の存在を認めないためには他所の会社に外注するなどの非合理な妄想をしないといけなくなるww 706日本@名無史さん2019/11/03(日) 16:03:28.52
戦争をしているときの話、疎開したところも〜w
だと言っているし、山の上のほう
日本昔話?
707日本@名無史さん2019/11/03(日) 16:10:55.12
傾いた松の木・・・?
たしか長男だと言っているし、何かは川崎区に移したとか、家の何か?
708日本@名無史さん2019/11/03(日) 16:16:11.91
傾いた松の木の写真があるでしょ、
立っている人物の祖父?父親?が死んだときだと言っていたのかな、
いま住んでいる川崎区に、家の何かを移したとか
たしか伊達郡のほうの役所まで行ったと言っているし
709日本@名無史さん2019/11/03(日) 16:24:48.95
伊達郡?現地に、家の何かが残っているのかな?
謎の掲示板なども、家と同じ話をしている人がいるというのも、おかしな話だしな・・・。
710日本@名無史さん2019/11/03(日) 16:26:47.38
>>677
>ほいよ
アホォォォォオ!
ホケノの刀剣類は、大和派遣軍が博多を押さえて凱旋したときの戦利品だ。
それ以前の鉄族はないのかぁぁぁぁぁア!
疲れるのぉ。 711日本@名無史さん2019/11/03(日) 16:29:13.24
>>676
>九州説の書き込みはアホパヨクの書き込みだ!と?
アホパヨクは君だよ。 712日本@名無史さん2019/11/03(日) 16:29:57.00
何の話なんだろう?
広瀬座というところがあって〜という話もしていたり
713日本@名無史さん2019/11/03(日) 16:31:58.74
>>675
>九州で鉄が多く残るというのは甕棺墓の分が大きい
住居跡からもたくさん出ているともう百回ほど言うたが。
君もたいがい記憶力減退しとるね。 714日本@名無史さん2019/11/03(日) 16:34:15.79
>>693
>つまり、矢板が設置されたのは3世紀前半
その矢板を作るために、大量の鉄の鎗鉋が纏向遺跡に存在していたって確認しただろ?ww
つまり3世紀前半に畿内纏向には、大量の矢板を作るのに十分なだけの鉄の鎗鉋があり、鉄を潤沢に使える環境にあったということだ
>>693はバカだから、すぐに墓穴を掘るww 715日本@名無史さん2019/11/03(日) 16:34:30.20
『伊達郡 役所』
調べてみると、霊山(周辺?)〜何やらの話も出てくるしw
716日本@名無史さん2019/11/03(日) 16:41:09.65
>>711
粉砕というパヨク用語(>>711が確認済み)を使っているのは>>525と>>530の九州説の書き込み
半島系パヨクが支持しているのは九州説だよ
ミラーリングの書き込みをいくらしても、現実は変わらない 717日本@名無史さん2019/11/03(日) 16:44:22.61
>>713
たくさんは出ていないし、鉄鏃は一つも出ていない
鉄は九州が多いというのは単に九州説の脳内にあるだけの幻想だ 718日本@名無史さん2019/11/03(日) 16:51:32.59
なぜ、そんなところに住んでいるの、住んでいたの?
となるんだけど、それは当時の人に聞いてみないと『❓』
確実に、王母〜の家でしょ、傾いた松の木?
719日本@名無史さん2019/11/03(日) 16:52:32.12
>>710
>大和派遣軍が博多を押さえて凱旋したときの戦利品
妄想乙
左側スロープ君はバカ 720日本@名無史さん2019/11/03(日) 16:54:57.49
>>719
>左側スロープ君は
わしは葛城先生ではない。 721日本@名無史さん2019/11/03(日) 16:58:23.15
>>121
>・・・そして投馬国が女王国より以北の国に対して有効な投馬国の比定地が北部九州説では存在し得ない<
女王之所都はほぼ筑紫付近であり、投馬國は南九州なので、この類スレ主が×男。 722日本@名無史さん2019/11/03(日) 17:00:16.03
>>717
>鉄は九州が多いというのは単に九州説の脳内にあるだけの幻想だ
無駄。
弥生の鉄器出土分布地図みてみろ。
大和は僅か。
こんな鉄器過疎地帯なのに、卑弥呼の都はない。 723日本@名無史さん2019/11/03(日) 17:03:20.73
>>720
左側スロープ君を「先生」と呼ぶ人は畿内説にはいないし、九州説から見てもトンデモだろうww
だいたいこのスレで「アホ」を使う人は左側スロープ君ぐらいしかいないよ?ww 724日本@名無史さん2019/11/03(日) 17:05:25.39
>>716
あれぇ、パヨク支持が大和説というのはこのスレの定説なのに。
それに、新語・半島パヨクて何?
文やチョ・グクのことか。
うん? 大和説の君がその新手の半島パヨク? 725日本@名無史さん2019/11/03(日) 17:06:14.58
鉄の出土分布が3世紀の経済共同体を示しています。
■考えられること
鉄の潤っていた九州と畿内は別国であった。
=一大率や大倭は畿内政権とは無縁である。
=魏志韓伝に出てくる「倭」には畿内は含まれていない。
■裏付け
実際、同時期の纏向遺跡からは九州産の土器が
出土せず、東海・伊勢地方のものが多数を占める。
■名言
もと歴博の館長もやった佐原真は、
「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」
とマジで答え、・・・ 726日本@名無史さん2019/11/03(日) 17:07:24.84
>>722
無駄
鉄器出土分布をよく知っている考古学者は畿内説だから 727日本@名無史さん2019/11/03(日) 17:08:11.26
>>722
>弥生の鉄器出土分布地図みてみろ。
だから、弥生時代全期間では無意味だと何度教えればww
>>677に示した3古墳の時期前後の九州の鉄器の量を示してくれってのからずっと逃げ回ってるだろう?ww
惨めだな、九州説はww 728日本@名無史さん2019/11/03(日) 17:09:26.50
>>127の訂正
最後の
「以上より魏志倭人伝の方角に錯誤があるのは明確
会稽東冶之東というのが陳寿の認識
以上より魏志倭人伝の方角に錯誤があるのは明確」
は、削除。 729日本@名無史さん2019/11/03(日) 17:09:39.65
畿内の鉄は古墳に詰め込んだので遺跡では出土しないのだー!
730日本@名無史さん2019/11/03(日) 17:13:00.86
理由がなければメシも食えない、お茶ものどを通らない畿内厨、
理由、理由、で延命を図る理由もみあたらないのだが・・・、
731日本@名無史さん2019/11/03(日) 17:13:50.73
>>723
>だいたいこのスレで「アホ」を使う人は左側スロープぐらいしかいないよ
アワがいるだろう。 732日本@名無史さん2019/11/03(日) 17:14:19.75
>>129
>つまり、倭は北部九州を指しており、この倭から東へさらに千里行ったところにある倭種の国が大和や河内などの国を指していることは、疑うことなく明白だということになる。<
倭人伝の千里の距離記載と比較して、「東へさらに千里行ったところ」は 大和や河内にならないから、×。
>大和に卑弥呼はいなかったというのが、魏略や魏志倭人伝の記述なのだよ。<
これは賛成。 733日本@名無史さん2019/11/03(日) 17:17:31.01
>>131
>三角縁の海東鏡に海東に至ると書いてあるから倭が海南になる楽浪鏡師は来てないよ<
△は呉地で始まったのであり、呉地から列島が海東。
楽浪は途中経由地。 734日本@名無史さん2019/11/03(日) 17:17:50.29
>>730
>理由、理由、で延命を図る理由もみあたらないのだが・・・、
つまり、九州説の主張には何一つ理由がないんだね?ww
きちんと理由を説明してこそ、畿内説を否定できるのに
それをしない、できないのが九州説ww 735日本@名無史さん2019/11/03(日) 17:19:16.68
>>727
>677に示した…
卑弥呼の大和にとって肝心なのは、ホケノの前だよ。
卑弥呼が死んだあとの古墳秘蔵の鉄器示してなんになるのよ。
ホケノはダメと何百回言っても、記憶にないと国会答弁。 736日本@名無史さん2019/11/03(日) 17:21:20.85
>>132
>九州説は歴史学者考古学者の十割に否定されてるんだけど<
大和説は、国民の7割位や中国学者や世界の科学者らから否定され、
定年退職した歴史学者や考古学者の何人かからも、否定されているんだけど。 737日本@名無史さん2019/11/03(日) 17:22:47.61
>>724
>パヨク支持が大和説というのはこのスレの定説なのに。
また、ウソついてるw
キウスとか明らかに日本人じゃないだろ?w
>それに、新語・半島パヨクて何?
また捏造している
半島「系」パヨクだ
半島儒教の事大主義的観念、エセ中華思想により
大陸がえらくて、次が大陸に近い半島、その先の島国が一番下位という
儒教的に固定された上下関係が絶対の真理であり原則という思考法
それで行くと日本列島の中でも、半島に近い九州が上位で
遠く離れた畿内は下位だと「最初から決まっている」という発想法が
半島系パヨクの思考の下敷きになっている
だから、結論ありきでウソ捏造も平気なんだよ
九州説の方だろ、こういうことをやっているのはww 738日本@名無史さん2019/11/03(日) 17:23:07.95
トンデモ同士の駄レス、尽きないね。 わははははは @阿波
739日本@名無史さん2019/11/03(日) 17:24:12.64
>>734
畿内にあったのなら理由の説明のしようもあろうが、
邪馬台国は畿内になく、卑弥呼もいなかったのだから理由もあるわけはない。
無い理由は説明できない。
出来ないことをせよというアホキナイ。 740日本@名無史さん2019/11/03(日) 17:24:35.89
トンデモ同士の駄レス、尽きないね。 わははははは @阿波
741日本@名無史さん2019/11/03(日) 17:25:10.91
トンデモ同士の駄レス、尽きないね。 わははははは @阿波
今日は文化の日。
親授式で渡される文化勲章は「橘」に「勾玉」をあしらったものという。
その「橘」も「勾玉」も倭国(阿波)の特産物とは此れ如何に。
ちなみに、深曽木の儀で踏む「青石」も、手に持つ「山橘の小枝」も、倭国(阿波)の特産物。 @阿波
742日本@名無史さん2019/11/03(日) 17:26:20.50
>>729
>畿内の鉄は古墳に詰め込んだので遺跡では出土しないのだー!
違うよ
古墳に大量にデッドストックとして鉄を死蔵することが負担にならないほど
鉄が潤沢にある時代、当然に大量の鉄を普段使いしている時代でも
古墳以外からは鉄は出土しない
であるなら、それ以前の鉄器が出土しない時期にも鉄が普段使いされていても
出土しないのは何の不思議もない
これが、正しい推論だ 743日本@名無史さん2019/11/03(日) 17:33:09.44
>>133
>中国人学者も昔は1歩≒1足底長≒1尺だったと言ってる人物は誰も居ない
中国の尺度の文献によれば尺度は古代では1歩=4〜6尺
それを1歩=6尺に固定したのが始皇帝の度量衡の統一 <
それでは、中国人学者らは、
秦の始皇帝の「1歩=6尺」の命令以後の度量衡しか考える事が出来なかったアホであり、
何故始皇帝がそんな命令を出したのか?と言えば、
それは秦は周代の1歩長とは違う度量衡を持っていた、という事であり、
周代の度量衡で書かれたのは周髀算経の一寸千里の法であり、それから計算すると、
1歩≒25.5cm≒成人男子の1足底長、であったの。 744日本@名無史さん2019/11/03(日) 17:33:34.41
右下パズル地元説は各地にいるが
荒らし九州説はどうしても神戸の区役所襲撃地域や旧炭坑地域に多い
745日本@名無史さん2019/11/03(日) 17:33:50.81
邪馬台国は九州に在り、卑弥呼も九州に居たのだから、
それらが畿内にあったとか、居たとかの理由は存在しえない。
746日本@名無史さん2019/11/03(日) 17:34:07.89
ほんとーに
一部の漫画やアニメ、ゲームなど、
実際は必要ないんだよな、あと実写映画やドラマ、芝居なども
お前の家の話しではないでしょ、
演じている人の話でもないし
747日本@名無史さん2019/11/03(日) 17:34:31.16
>>663
それとやりあってる「泉屋博古館紀要」とかいう雑誌に
俺の素晴らしい作文を投稿してやろうと思ったけど、
どこ見ても論文投稿を受け付けてないぞw
もしかして泉屋博の関係者の作文しか掲載されない雑誌じゃないだろうなw 748日本@名無史さん2019/11/03(日) 17:36:06.07
トンデモ同士の駄レス、尽きないね。 わははははは @阿波
今日は文化の日。
親授式で渡される文化勲章は「橘」に「勾玉」をあしらったものという。
その「橘」も「勾玉」も倭国(阿波)の特産物とは此れ如何に。
ちなみに、深曽木の儀で踏む「青石」も、手に持つ「山橘の小枝」も、倭国(阿波)の特産物。 @阿波
749日本@名無史さん2019/11/03(日) 17:37:16.40
邪馬台国は九州に在り、卑弥呼も九州に居たのだから、
それらが畿内になかったとか、居いなかったとかの理由も存在しえない。
750日本@名無史さん2019/11/03(日) 17:41:21.42
>>749
>邪馬台国は九州に在り、卑弥呼も九州に居たのだから、
その文句、畿内説といい勝負しているよ。 わははははは @阿波 751日本@名無史さん2019/11/03(日) 17:52:56.37
>>135
>そもそも1歩≒1尺なんて単位存在する意義があるのか
1尺=24cmと1歩=26cmが並列して存在するなんて邪魔くさいだけだろ <
元々、尺寸系単位と、里歩系単位は、計測対象が異なる別の単位系であったの、
尺寸系は家屋内にあるものの寸法単位であり、
里歩系は、里は「田の土」であるから、
「一つの田やそれを耕作する集落」を単位にした大雑把な計測法であり、
それの計測法として歩測が起こり、
それから「歩」の正確な長さとして、「1足底長」が起こったの。
尺定規を一々当てて行くよりも、歩測の方が簡便で早いし、
歩く時の両足の間隔を大体1足底長位として置けば、
両足での歩行距離は3足底長になる。
おそらく、魏の役人たちや伊能忠敬の歩測もそのような計算であった筈。 752日本@名無史さん2019/11/03(日) 17:55:05.13
深曽木の儀の青石は加茂川の河原の石だろ
753日本@名無史さん2019/11/03(日) 17:55:23.90
>>720、>>731
あと、左側スロープ君は一人称に「わし」を使う
「ヒミコは記紀に登場しないという固定観念があるからであろう。
わしは探した。 ほらヒミコもトヨもいた。」
泡は一人称は、ほぼ使わない 754日本@名無史さん2019/11/03(日) 18:00:44.57
>>749他
>邪馬台国は九州に在り、卑弥呼も九州に居たのだから、
こういう理由も根拠もなく繰り返すのが、「ウソも百回」方式の
半島系パヨクの常套手段
まあ、こういう意味のない繰り返しコピペは連続句読点の仕業だけれどw
連続句読点こそ、半島系パヨクだからそのまんまだけどな
連続句読点が畿内説側に半島人のレッテルを擦り付けるのは、ミラーリングの一種であり、
また半島人が「俺は生粋の日本人だが」と書くのと同じ文脈だ 755日本@名無史さん2019/11/03(日) 18:01:31.41
>>753
>泡は一人称は、ほぼ使わない
だよね。 それさえ分からないくらいだから、あとは推して知るべし。 わははははは @阿波 756日本@名無史さん2019/11/03(日) 18:02:07.66
>>750
ほう、あの阿波が行司役を務めるようになったか。
ずいぶんと成長したもんだ・・。 757日本@名無史さん2019/11/03(日) 18:03:49.25
>>752
>深曽木の儀の青石は加茂川の河原の石だろ
どこの加茂川かね? @阿波 758日本@名無史さん2019/11/03(日) 18:06:17.84
>>136
>この可能性を考える場合、板を作る職人は板を作るための鉄製品(鑓鉋)を
大和の現場に持って行くことになる<
まず、纏向の鉄の遺物の年次は、纏向の掘立柱建築の建設が3世紀後半以後になり、
更に、残存鉄の様相からは、製鉄から製品化までの全工程をしたものではなく、
破損した鉄武器や鉄道具の修理補修をしたような状況であり、
槍鉋もそのような修理を受けたんだろう、と思う。 759日本@名無史さん2019/11/03(日) 18:08:35.94
760日本@名無史さん2019/11/03(日) 18:12:16.39
761日本@名無史さん2019/11/03(日) 18:15:31.97
>>137
>九州説のいう短里の1歩=26cmを
1寸=2・4cmで1尺=24cmの普通の里だと1尺1寸で表されるのだから
それを歩という独立した単位にする意味がわからんな
およそ歴史上で倍数刻みになってない距離単位などないんだけれど <
>>751で説明済み。
>という事は1歩≒1尺なんて人類の常識から見て意味不明で<
元々、1歩=1足底長、という事があって、その1足底長が1尺に近かったの。
>中国の古尺度研究者及び通常の感覚を持つ畿内説の言ってるとおりに
1歩=6尺が始皇帝以来の統一的尺度<
魏朝は(西晋朝も)、
始皇帝の1歩=6尺の命令が、漢代において、度量衡の混乱をおこしたので、
周髀算経の一寸千里の周制への復古を決めたの。 762日本@名無史さん2019/11/03(日) 18:16:14.66
763日本@名無史さん2019/11/03(日) 18:19:44.67
畿内説と九州説がいくら言い合っても、永遠に埒は明かないんだよ。 いい加減に分かりそうなもんだがwww @阿波
764日本@名無史さん2019/11/03(日) 18:21:11.92
>>762
つまり、九州説が金科玉条のように何度も紹介する新井氏の三角縁神獣鏡の論文は
「邪馬台国の会」の身内だから「季刊 邪馬台国」にしか載せてもらえるんだって
言いたいんだね? 765日本@名無史さん2019/11/03(日) 18:23:52.95
畿内説と九州説がいくら言い合っても、永遠に埒は明かないんだよ。 いい加減に分かりそうなもんだがwww @阿波
766日本@名無史さん2019/11/03(日) 18:24:19.69
>>764
× 「邪馬台国の会」の身内だから「季刊 邪馬台国」にしか載せてもらえるんだって
○ 「邪馬台国の会」の身内だから「季刊 邪馬台国」にだけ載せてもらえるんだって 767日本@名無史さん2019/11/03(日) 18:24:36.37
確実に創価(日何やら?部落?)が関血Wしているんだb�、、
老粕kの親戚というbフがいて、創価bセったと言ってb「るし
何か事件などがあると、
また創価か?と言われていたり、なぜなんだろう
768日本@名無史さん2019/11/03(日) 18:26:04.07
>>764
>「季刊 邪馬台国」にしか載せてもらえるんだって言いたいんだね?
ゴメン、意地悪じゃなくて本当に何言ってるかわからない 769日本@名無史さん2019/11/03(日) 18:27:25.36
>>139
>九州説の言ってる魏は1歩≒1尺の短里があったというのは
1cm≒1.2cm=1mの短メートルがあったと言ってるような主張
短里説とは12cm=10mと言ってるようなもの<
周代以前は、里歩系と尺寸系は別単位系であったのであり、
1歩は、歩測用であり、
「成人男子の1足底長」を目安に(尺寸系とは別に)決められたの。 770日本@名無史さん2019/11/03(日) 18:27:55.90
詳しいことはわからないけど、
部落〜何やら?中華などから視た話なんだろう
771日本@名無史さん2019/11/03(日) 18:32:21.12
>>760
少しおだてると、すぐ調子に乗るクセは、まだまだ変わらんなあ 772日本@名無史さん2019/11/03(日) 18:33:35.97
>>771
畿内説と九州説がいくら言い合っても、永遠に埒は明かないんだよ。 いい加減に分かりそうなもんだがwww @阿波 773日本@名無史さん2019/11/03(日) 18:33:36.78
>>143
>清水眞一 前・奈良県桜井市教委文化財課長
私は二十年間、大和の中央部・桜井市で「邪馬台国は何処」とのテーマを持って、
発掘調査に従事してきた。その結果として、邪馬台国が成立して女王卑弥呼を擁立する
までの弥生時代中・後期に、大和には他地域を圧倒するような「ムラ」や「墓」が
見られないことに気付いた。
代表的なムラである唐子・鍵遺跡も、畿内の同時期の池上・曽根遺跡や田能遺跡などと
比較して、飛び抜けて大きいムラとは思えなかった。逆に、墓に関しては、
西日本各地と比べて遅れた地域との思いも抱いたことだった。
であれば、その次の古墳時代に入って、纏向の地に百メートル以上もの巨大古墳が、
なぜ突如として築造されるのか。これは、大和の地に別の地域の人々が入って来たと
考えざるを得ない状況とみた。
では、誰が何処からきたのか?考古学の資料からは、特定の地域が限定できない。
となれば、卑弥呼の邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる。<
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の軍が来たの。 774日本@名無史さん2019/11/03(日) 18:37:19.87
king(王)〜は中華だと書いてあるし、
むかーし日本にも渡ってきたとか
『倭人 朝鮮人』?系統が違うのかな?
775日本@名無史さん2019/11/03(日) 18:37:41.96
纒向の怪と、邪馬台国の怪で、千年万年のトンデモ言い合いが続くんだろうな。
いつまでたっても、正しい答えが出ることはないだろう
ま、そうやって年老いて死ぬのさ。
776日本@名無史さん2019/11/03(日) 18:47:33.80
>>775
「纒向の怪」なんてないよww
ザラゴキと連続句読点と、邪馬台国の会の中の人が年をとって
ネット環境から離れたら、九州説はネット上でも消滅だ 777日本@名無史さん2019/11/03(日) 18:49:53.06
>>159
>倭国の都は移ろい動いている<
糸島や弥生銀座や安徳台などを移り変わった後、
317年頃に筑後〜久留米に遷宮し 、更に618年に太宰府の遷都した。
>邪馬台国ってのはある特定時期の倭国の都であって、<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、×。
>そこは巻向が建造される前の都
どこから巻向に遷都されたのかは巻向への搬入土器を見ればわかる <
大和は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の旧小国の附庸國であるから、×。 778日本@名無史さん2019/11/03(日) 18:50:10.20
話なども、すり替えている人がいるんだろう、
king(王。中国の人。)なのに、なぜか日本の先住民で、国譲りが〜wとか
779日本@名無史さん2019/11/03(日) 19:03:46.22
まさか?とある時代の話になるんだけど、
king(一族など)がいるでしょ?日本の東北地方のほうに住んでいたから、
先住民、先住民扱いとか?
780日本@名無史さん2019/11/03(日) 19:05:25.67
>>776
畿内説と九州説がいくら言い合っても、永遠に埒は明かないんだよ。 いい加減に分かりそうなもんだがwww @阿波 781日本@名無史さん2019/11/03(日) 19:11:17.86
>>776
なんども言いたかないが、とっくに「其山有丹」で決着しているものをwww @阿波 782日本@名無史さん2019/11/03(日) 19:11:58.91
>>163
>畿内で3世紀の鉄がほとんど出てないというのと
三角縁神獣鏡が中国で1面も見つかっていないと連呼するのが九州説の荒らしマニュアルのテンプレなんだな
鉄器は畿内の古墳3基だけで600点 <
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
大和の鉄器大量出土も古墳は、3世紀末〜4世紀の古墳であり、卑弥呼には関係なく、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の将軍らの墓。
>三角縁神獣鏡は洛陽で1面出土で
三角縁と同じと言っていい斜縁神獣鏡は中国で珍しくないと
ソースつきで何回も言われているのに <
△も斜縁も、楽浪では(揚子江や呉に比べて)全く盛行しておらず、魏の敵国の鏡であり、
明帝の下賜鏡に選択される筈がないもの。 783日本@名無史さん2019/11/03(日) 19:25:02.71
>>782
>△も斜縁も、
これは鏡面を大きくする場合の工夫だから、盛行するしないではない
そして、神獣鏡群は画文帯神獣鏡をはじめ華北地域にも普通に存在する
大陸に三角縁神獣鏡が一枚も出ないというのは、今から見ればいかにも的外れな
為にする批難に過ぎない 784日本@名無史さん2019/11/03(日) 19:27:01.49
阿波と濃尾だったら濃尾説の方が信憑性があるな
785日本@名無史さん2019/11/03(日) 19:30:21.61
>>784
畿内説と九州説は? わははははは @阿波 786日本@名無史さん2019/11/03(日) 19:32:40.94
787日本@名無史さん2019/11/03(日) 19:39:06.04
邪馬台国畿内説が、破綻したので、スレッドが不活発になってしまっているな。
788日本@名無史さん2019/11/03(日) 19:40:34.64
纒向の怪と、邪馬台国の怪で、
千年万年のトンデモ罵り合いが続くんだろうな・・。
789日本@名無史さん2019/11/03(日) 19:42:12.46
・・・それにしても『姥清水』の話、何かの曲と同じような?
道に迷い、何やら〜、出口の無い迷路?
790日本@名無史さん2019/11/03(日) 19:42:14.72
バンビシャスは、闘いの勝負という物事だけでは、不活発にはならないので、破綻しないのだったな。
791日本@名無史さん2019/11/03(日) 19:42:25.03
>>787
九州説信者は九州説がとっくに破綻してるのも理解できない精神薄弱だけど 792日本@名無史さん2019/11/03(日) 19:43:49.91
王母 龍宮 寒いな〜wの話でしょ、家の話?
793日本@名無史さん2019/11/03(日) 19:44:15.82
>>787
邪馬台国畿内説は、学部の者達の中で、破綻したので、不活発になってしまうのだったな。 794日本@名無史さん2019/11/03(日) 19:46:27.31
>>790
来週のバンビシャスは、東京で連続勝利を勝ち取るのだったな。 795日本@名無史さん2019/11/03(日) 19:49:56.02
頭の悪い奥山氏は、酸化水酸化鉄が簡単に水溶し、地中深くに浸透し、地表から痕跡が消え去ると考えているのだったな、、、
796日本@名無史さん2019/11/03(日) 19:52:10.55
>>732
>大和や河内にならないから、×。
なおさら讃岐や小人島は、罰。 797日本@名無史さん2019/11/03(日) 19:52:44.26
邪馬台国畿内説がは、簡単に、破綻し、地上から消え去ったのだったね。
798日本@名無史さん2019/11/03(日) 19:54:17.97
>>797
が、、にしようか、、、は、、にしようか、迷ったのだね。 799日本@名無史さん2019/11/03(日) 19:54:41.41
邪馬台国畿内説が、簡単に、破綻し、地上から消え去ったのだったね。
800日本@名無史さん2019/11/03(日) 19:54:56.35
邪馬台国畿内説は、簡単に、破綻し、地上から消え去ったのだったね。
801日本@名無史さん2019/11/03(日) 19:55:04.25
『出口のない迷路 曲』
調べてみるとわかる、他の曲だったのかな?
そのような曲があったような
802日本@名無史さん2019/11/03(日) 19:57:25.23
九州説は自分がとっくに死んでるのにも気づかないでゾンビ化してるしw
803日本@名無史さん2019/11/03(日) 19:57:59.31
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏は、頭が悪いな。。。
804日本@名無史さん2019/11/03(日) 19:58:34.58
帯方東南の倭国とは九州のこと
そもそも最初からありえなかった畿内説の怪
805日本@名無史さん2019/11/03(日) 19:59:18.33
八村塁氏も、良い結果では無かったのだな、、、
806日本@名無史さん2019/11/03(日) 20:00:01.58
九州説も畿内説もありえへんということに気づいてる阿波はある程度は賢い
でも濃尾だということには気づけてないからやっぱ馬鹿だw
807日本@名無史さん2019/11/03(日) 20:03:25.94
さざ波の近江、つぎのう山背、あをによし奈良
お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる
これらに真実へのヒントが隠されてる
808日本@名無史さん2019/11/03(日) 20:03:41.49
>>747
つまり査読のない泉屋博古館紀要の掲載論文も学術論文
ではないわけかw
こりゃ傑作w
こりゃ傑作w 809日本@名無史さん2019/11/03(日) 20:05:01.86
>>782
>△も斜縁も、楽浪では(揚子江や呉に比べて)全く盛行しておらず、魏の敵国の鏡であり、
>明帝の下賜鏡に選択される筈がないもの。
大魏皇帝は中国全土の支配者なんだよ
どこの土地の産物も彼の栄光を示す
南方に盗賊が横行してる地域が2つほどあるだけ
これが公式見解
呉郡や会稽郡の名産品を忌避したら、そこに敵性国家があることを認めることになり
国是に反する 810日本@名無史さん2019/11/03(日) 20:05:59.88
>>742
>当然に大量の鉄を普段使いしている…
わしの頭が禿げているというのは間違い。
お前らに毛が見えないだけ。
昔もそうだった。
お前らに、わしの頭の毛がみえなかっただけ。
昔からずっと毛があったのだ。 811日本@名無史さん2019/11/03(日) 20:09:28.45
九州説にとっても畿内説にとってもド田舎の筈の濃尾の象鼻山からの出土品
青銅鏡(双鳳紋鏡)
玉(琴柱形石製品)
細身鉄刀
鉄刀2点、鉄剣5点、鉄槍1点(北陸の碧玉質の石(緑色凝灰岩)鉄)
朱入りの壺
812日本@名無史さん2019/11/03(日) 20:13:44.83
曲などをググると、みく尊(初音?)が出てくるでしょ、何なんだろう
813日本@名無史さん2019/11/03(日) 20:17:12.26
『月読』も同じような画像(〜ロイド?)が出てきたり、
本来なら〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜このように活躍していると言いたいのかな?
814日本@名無史さん2019/11/03(日) 20:17:59.65
>>811
それ全部、東海忌部の持ち物だ。 何を考えているのやらwww @阿波 815日本@名無史さん2019/11/03(日) 20:18:51.08
>>172
>三角縁神獣鏡は中国で出土していて<
△は洛陽からは0〜1枚であるから列島の500枚位の△の説明が出来ず、
呉付近や楽浪にみられるし「海東」鏡も出土しているから、
渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡。
>畿内の3世紀の古墳から鉄器は山ほど見つかってるのに?
批評じゃなくて明らかな嘘だろ<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×であり、
大和の鉄器出土古墳は3世紀末〜4世紀のホケノ以後であるから、
卑弥呼の3世紀前半にはならず、×。 816日本@名無史さん2019/11/03(日) 20:24:00.79
『もののけ姫』の台詞ではないけど、神殺し?何か、あったのかな
817日本@名無史さん2019/11/03(日) 20:24:21.78
神武が熊野で倒れた際に、高倉下が尾張から剣を持って助けに現れた
つまりその時代には尾張には既に剣があった
818日本@名無史さん2019/11/03(日) 20:24:41.98
>>176
>>また、箸墓古墳の土器や埴輪も布留式の時代ですから3世紀まで行くものではない。<
>関川の原始的な編年は出発点から間違っていたことが証明されている<
その証明の内容を紹介なり説明して貰わないと、
「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・詐欺師の大和説者の「証明されています」だけでは、
信用しない。 8191 ◆UiepmfCeDJqf 2019/11/03(日) 20:24:59.14
邪馬台国畿内説は破綻しました
820日本@名無史さん2019/11/03(日) 20:27:00.93
821日本@名無史さん2019/11/03(日) 20:29:49.91
>>177
大和説は文献や考古学的証拠を、
都合の悪い史料事実は黙殺するか曲解するかし、
都合の良い史料事実だけをピックアップしてつなぎ合わせる、
というインチキをしているから、全く信頼性がなく、
やはり女王國は九州と言うだけ 822日本@名無史さん2019/11/03(日) 20:35:03.57
>>180
一体何なんだろうねえ
大和説に騙される人は、自分が全てを知っていてコントロールできるとかいう、
何かの宗教的な信念でやってるのかね
背後に統一教会や創価学会やオーム真理教とか極右の皇国史観教とか 823日本@名無史さん2019/11/03(日) 20:37:31.34
>>807
>これらに真実へのヒントが隠されている
熊野の御師と同じ観光振興。 824日本@名無史さん2019/11/03(日) 20:38:24.01
>>820
鏡も勾玉も鉄器も朱も、みんな「忌部はん」 の持ち物だろ! なに考えてんの? @阿波 825日本@名無史さん2019/11/03(日) 20:39:37.13
>>181
>他地域の住人が大和に鉄器を持って行って仕事したと主張するなら
大和に鉄があったんだろ
持って行ったんだからな <
大和からも、鉄鉋は見つかっていないんだろ?。
それなら、鉄鉋職人は、持って帰ってしまったんだよ。 826日本@名無史さん2019/11/03(日) 20:47:11.18
どのスレだったかな?「神殺し?」という書き込みをしたあと、
「まーた、言ってもいないことを」・・・、
という謎の書き込みをしている人がいたり
「神殺し」
というのも作者(『もののけ姫』)などの創作なのかな
水の神?などと同じような話でしょ
827日本@名無史さん2019/11/03(日) 20:48:41.97
『河童 水の神』
828日本@名無史さん2019/11/03(日) 20:49:37.62
>>820
鏡も勾玉も鉄器も朱も、みんな「忌部はん」 の持ち物だろ! なに考えてんの? @阿波 829日本@名無史さん2019/11/03(日) 20:54:01.43
>>824
なんだ、ただの基地外か
レスしてしまってウンコ踏んづけた気分だわ 830日本@名無史さん2019/11/03(日) 20:55:14.08
>>184
>景初四年という年号が実在したけど抹殺された幻の年号だった場合
三角縁は後世の人が知り得ない歴史上の秘密の真実を証言したことになる<
景初四年は実在しなかった。景初三年の後は「景初三年の後十二月」になり、
その次の月に正始元年が始まったから。
>景初四年が実在しなくて改元を知らない遠隔地で誤って作られたがすぐ気付いて正始年銘鏡を作ったなら
改元当時リアルタイムに作られた鏡ということになる <
景初四年鏡は△ではなく、「陳是作鏡の斜縁盤龍鏡」であり、同范鏡もあるから、
渡来の呉系楽浪鏡師の陳氏らの作であり、
列島に来ていた陳氏らは「景初四年」が無かった、という事を知らなかったらしい。
>他に合理的な選択肢がないのだから
どっちにしても三角縁神獣鏡の製造開始は3世紀前半末
卑弥呼が朝貢したタイミングそのものなんだよな<
△ではなく斜縁盤龍鏡であるし、
陳氏の作であるから、明帝の下賜の銅鏡百枚にはならないよ。 831日本@名無史さん2019/11/03(日) 20:57:21.87
>>829
鏡も勾玉も鉄器も朱も、みんな「忌部はん」 の持ち物だろ! 井の中の蛙、なに考えてんの? @阿波 832日本@名無史さん2019/11/03(日) 20:58:31.08
今日は文化の日。
親授式で渡される文化勲章は「橘」に「勾玉」をあしらったものという。
その「橘」も「勾玉」も倭国(阿波)の特産物とは此れ如何に。
ちなみに、深曽木の儀で踏む「青石」も、手に持つ「山橘の小枝」も、倭国(阿波)の特産物。 @阿波
833日本@名無史さん2019/11/03(日) 21:06:34.13
>>184
>ホケノ山とか副葬品と炭素14C年代測定法で
科学的に3世紀中葉とされているよ <
前方後円墳の始まりは、
(卑弥呼の冢や壹與の平原の後の)3世紀後半半ば過ぎの那珂八幡などになり、
それの進化型の庄内1の石塚が3世紀末になり、
ホケノは庄内3だから、3世紀末〜4世紀になる。
という事は、炭素14C年代測定法が間違いであり、50年以上古い年次が出ていた。
>そして画文帯神獣鏡や内行花文鏡はあるけれど
239年に倭に伝わった三角縁神獣鏡がないから被葬者が埋葬されたのはそれ以前<
ホケノは庄内3だから、3世紀末〜4世紀。
また大和の大量出土の△は、4世紀。 834日本@名無史さん2019/11/03(日) 21:15:35.55
>>187
>「3世紀なかごろ、奈良盆地に大きな墳丘をもつ前方後円墳が出現した。」
全国の高校生がこう教わってます <
3世紀中頃の卑弥呼の墓は、冢であって前方後円墳ではなく、
奈良盆地の前方後円墳は3世紀末の石塚などが最も早く、
全国の高校生に嘘を教えた山川や東京や清水の教科書会社の責任は免れず、
その教科書を教えられた高校生は、
教科書会社を訴えて、責任を取らすべきですね。 835日本@名無史さん2019/11/03(日) 21:24:21.57
>>188
>奴婢を周りに埋めた痕跡のある古墳が国内のどこにもないので
魏使がそれを見れたわけがないだろ <
唯一、祇園山がある。
墳裾の62個の複数埋葬群を含む小型埋葬施設の中の1号甕棺に、
鏡片や剣などを持った成人女性の骨盤付近の骨が残っており、
卑弥呼に信頼され千人の婢をまとめ上げた「奴婢の長」であったんだから、
殉死を志願したんだろう、と思われる。 836日本@名無史さん2019/11/03(日) 21:27:12.73
>>189
>(殉葬)まあ箸墓は周りが掘られて池になってたり耕されてたりだから
痕跡はなくて当然だけどな<
箸墓は、「南≠東」などに拠って、始めから、×。 837日本@名無史さん2019/11/03(日) 21:28:56.09
ほとんど家の話のような?気がするでしょ
838日本@名無史さん2019/11/03(日) 21:38:34.67
>>829
成り済ますな!
おまえは朝鮮人なのか? 839日本@名無史さん2019/11/03(日) 21:45:54.01
>>197
>景初四年が存在した証拠として
陳寿は三国志に正始元年を景初四年として記事を書いていて
例えば正始元年春二月乙丑…の乙丑は正始では合わなくて 景初四年一月乙丑とすれば暦に合う
そして晋書天文志にある景初四年三月己巳太白與…の己巳は景初四年の暦に一致していて
その後の記述少帝正始元年七月戊申朔…の申朔は正始元年の暦に一致するから
正始元年七月までは殷暦にするか夏暦にするか等の争いがあって
暫定的に景初四年が七月までは使われていたと考察してるサイトがあった<
後代史家や文書やサイトの記載は、自己解釈や傍証にしかならず、
明帝が景初二年大晦日から景初三年元日の間に亡くなったのであれば、
次期皇帝や遺族は、翌年の元日まで喪に服し、その正月を景初三年後十二月と延長して、
その次の月から正始元年をスタートすれば済む事。
干支の混乱以前の話。 840日本@名無史さん2019/11/03(日) 21:50:34.91
841日本@名無史さん2019/11/03(日) 21:52:24.81
橋などの話をしている人もいるし、
キュウリ、役者とかw
あと炭鉱が何やらとか、
老婆によると、そういう話もしていた、・・・神殺し?
842日本@名無史さん2019/11/03(日) 21:53:54.82
>>195
>景初四年は7月ぐらいまで暫定的に使われて
その後記録を書くときに全部正始という事にしたというだけだな
青龍から景初年号に変更する際も似たような事があったのが記録に残っている<
「景初三年後十二月」を知らずに、景初四年を使うのか?は個人の自由。
列島に来ていた呉系楽浪鏡師の陳氏も「景初四年」鏡を造って、同范鏡まで作っている。
しかし、魏王朝が決めた方法は「景初三年後十二月」という方法。 843日本@名無史さん2019/11/03(日) 21:57:28.65
邪馬台国畿内説が、破綻したので、スレッドが不活発になってしまっているな。。。
844日本@名無史さん2019/11/03(日) 21:58:36.28
>>200
>奴国(本拠地・近江)
↓(倭国大乱)
奴国(本拠地・出雲) & 狗奴国(本拠地・濃尾)
↓(誓約)
大和王権(巻向の国造り) <
「南≠東」などに拠って、×。 845日本@名無史さん2019/11/03(日) 22:00:18.67
>>203
それは「南→東」などの嘘付き騙しの大和説の事だね 846日本@名無史さん2019/11/03(日) 22:00:56.21
847日本@名無史さん2019/11/03(日) 22:02:54.00
>>204
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
意味不明な信仰で人を騙そうとしてる薄気味の悪い国粋皇国史観宗教 848日本@名無史さん2019/11/03(日) 22:04:51.68
>>843
邪馬台国畿内説が完全に破綻したので、スレッドを活発化する役目の、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が、焦っているな。 849日本@名無史さん2019/11/03(日) 22:05:18.01
>>205
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
信仰活動は、どこかよその宗教スレでやってくれないかな 850日本@名無史さん2019/11/03(日) 22:06:05.41
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏は、頭が悪いな。。。
851日本@名無史さん2019/11/03(日) 22:08:10.23
歯ぎしりすると、歯茎に負担がかかるのでは、ないのかな、、
852日本@名無史さん2019/11/03(日) 22:10:17.49
>>207
安部文科省や文化庁などから身分や資金や給料提供を受けてる、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説 853日本@名無史さん2019/11/03(日) 22:11:20.57
奥山氏、、
邪馬台国畿内説は、破綻したが、自殺はしない方が良いよ。
854日本@名無史さん2019/11/03(日) 22:13:50.65
邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の、頭の悪い奥山氏は、酸化水酸化鉄が簡単に水溶し、地中深くに浸透し、地表から痕跡が消え去ると考えているのだったな、、、
855日本@名無史さん2019/11/03(日) 22:14:56.21
>>817
それ、建御雷神のフツの霊刀。
石上神社に保管されて埋められたが、明治になって掘ってみると、内反りの鉄剣だった。
古墳時代前期の作とみられている。
やはり、3世紀前半には大和に鉄はなかった。 856日本@名無史さん2019/11/03(日) 22:17:45.14
>>854
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏は、頭が悪いね。 857日本@名無史さん2019/11/03(日) 22:26:44.61
>>855
>それ、建御雷神のフツの霊刀。
式内社「事代主神社」 ・ 式内社 「建布都神社」
は、ともに同じ倭国(阿波)阿波市にあり、『ともに日本唯一 阿波にだけ在る式内社』。
式内社「事代主神社」が全国で倭国(阿波)にだけ在ることから、「事代主命」は倭国(阿波)の人物。
同じく、建布都神(武甕槌神)も全国で倭国(阿波)にだけ在ることから、「建布都神(武甕槌神)」も倭国(阿波)の人物ということ。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 858日本@名無史さん2019/11/03(日) 22:29:00.74
だから言っているだろう、
当時、家にあったものなども、誰かにあげちゃったのかな、売ったりしたのかな〜、
老婆も言っているし、その河童?の話も同じでしょ
859日本@名無史さん2019/11/03(日) 22:33:06.53
>>213
「南→東」などの嘘」などのウソをついてばかりの、人種差別的戦争宗教の、
皇国史観儒教の大和説 860日本@名無史さん2019/11/03(日) 22:34:23.62
861日本@名無史さん2019/11/03(日) 22:36:04.75
862日本@名無史さん2019/11/03(日) 22:43:31.33
>>218
大和説こそ、
学会というものが「南→東」などの嘘吐き騙しの詐欺の実行指令部になっており、
上層部は安部文科省や右翼マスコミやキョクウ神社庁などになっており、
「畿内」なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言を使ったりして、
大和説の負けで決着ついていて
国民の7割や中国学者らや世界の科学者らからも否定されている、
という現実に目を向けようね 863日本@名無史さん2019/11/03(日) 22:44:30.09
>>861
鹿嶋神宮は黒潮に乗って関東を開拓した関東忌部な @阿波 864日本@名無史さん2019/11/03(日) 22:50:35.19
>>221
>古い古墳では奴婢の殉死が行われそれに代えて埴輪を埋めるようになったと
記紀に書かれている通りの状況で実際に古墳から象形埴輪や人物埴輪が見つかっているんだぞ
文献の記述と実際の合致
これこそ動かぬ証拠というやつだろ <
それがどうしたの?。
祇園山は今のところ、日本で唯一の「殉葬奴婢百余人」を満たし得る墓だし、
だから、大和よりも筑紫の方が早かったのだし、
これこそ動かぬ証拠というやつだろ。 865日本@名無史さん2019/11/03(日) 22:54:26.41
>>222
本当に論理というものが根底から分かってないバカだな
大和には、弥生期に、鉄は圧倒的に少なかったんだよ。 866日本@名無史さん2019/11/03(日) 22:56:06.14
鹿嶋神宮のルーツは佐賀だろ
867日本@名無史さん2019/11/03(日) 23:04:15.29
>>863
根強い信仰のある鹿嶋と忘却の彼方に沈んでる阿波、どちらが本家なんでしょうね?w
皇室の新年最初の重要行事である四方拝で東国が重要視されてるのは何故なんでしょうね?w 868日本@名無史さん2019/11/03(日) 23:04:19.47
>>226
>この3古墳だけで、例えば鉄鏃は弥生時代全期間の北部九州の全出土量を超えている<
大和の鉄鏃は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の軍が齎し、
3世紀末〜4世紀のホケノ以後に副葬されたんだし。 869日本@名無史さん2019/11/03(日) 23:18:45.20
張政らが卑弥呼の墓を実測したのなら、径五十二歩とか径百十六歩とか記録したはずだよな。
殉葬した奴婢の実数も八十三人とかね。
それを径百余歩、殉葬奴婢百余人と百を対句にしているのだから、実視していないことは明らか。
それを百歩は130mだから箸墓古墳の後円部の150mとよく似ている、などとだまくらかしをするのはいかがなもんか。
倭人伝の記述は、単に大きい、多いと言っているに過ぎない。
そんなだまくらかしで邪馬台国は大和と印象操作するのは、よほど核心的な証拠を持っていないからなんだろうな。
もうそろそろちゃぶ台ひっくり返したらどう?
870日本@名無史さん2019/11/03(日) 23:42:11.08
>>857
建布都神社の祭神
建布都神
経津主神
大山祇神
事代主神
多過ぎ ^^ 871日本@名無史さん2019/11/03(日) 23:43:26.71
何が言いたいのか?
なぜ人の家に寄生している人間がいるんだ、
どうせ創価か何かなんだろう
ただ、それだけの話
挨拶にも来ないし、そもそも面識もないとか?
872日本@名無史さん2019/11/03(日) 23:50:34.52
「そうか、そうかw」(日何やら?)
つーちゃん、他ネットのサイトなども、
そういう書き込みばかりでしょ
なぜだと思う?
873日本@名無史さん2019/11/04(月) 00:22:43.42
熊本城が何やらというのも、
創価関係(日なにやら?)のような気がするし、地震があったの?
874日本@名無史さん2019/11/04(月) 00:23:58.67
875日本@名無史さん2019/11/04(月) 00:25:57.90
『千葉 ねずみーらんど』『千葉 台風』
千葉県の漁師の話?
876日本@名無史さん2019/11/04(月) 00:28:12.92
王母〜龍宮〜は、漁師ではないんだけどw
877日本@名無史さん2019/11/04(月) 00:46:31.06
『神風連』
こういう話も、
なぜか創価のような気がするんだけど
878日本@名無史さん2019/11/04(月) 01:02:20.28
『千葉 ネズミーランド』
「ネズミが出てきたか」どこかで見たことのある台詞だしなw
879日本@名無史さん2019/11/04(月) 01:04:08.62
探偵eye?
酒の飲んでいるキャラの台詞だろう、兄のような人物
880日本@名無史さん2019/11/04(月) 01:08:01.90
北斗の拳・・・のサウザー?シン?
881日本@名無史さん2019/11/04(月) 01:15:34.30
なぜか家の話なんだけどw
某ゲーム内に作成したキャラクター名?
カブキのようなキャラ(名)とか
882日本@名無史さん2019/11/04(月) 01:17:55.15
どう考えても日本の話だしな
883日本@名無史さん2019/11/04(月) 01:20:45.39
『西王母 北辰』北斗の拳?
884日本@名無史さん2019/11/04(月) 01:25:38.58
こーえー、信オン?
そういうゲームがあったんだけど・・・w
885日本@名無史さん2019/11/04(月) 01:48:20.68
ここは基地外の巣窟だな
886日本@名無史さん2019/11/04(月) 03:26:02.19
>>867
>四方拝で東国が重要視されている…
四方拝の順序は、
伊勢神宮、天神地祇、先帝三代凌、氷川神社(武蔵国一宮)、賀茂別雷神社と賀茂御祖神社(山城國一宮)、石清水八幡宮、熱田神宮、鹿島神宮(常陸国一宮)、香取神宮(下総国一宮))
これをみれば、伊勢神宮と天神地祇、先帝三代を別にすれば、地元東京から西へ行って、また戻ってぐるっと回り、最後に鹿島、香取に至る順序なのが分かる。
日本書紀の国生みでは地元の淡路、近畿から西へ行き、そこから戻って最後に吉備に至る順序となっているのと同じ。
特に東国が重要視されているとは言い難いけどね。 887日本@名無史さん2019/11/04(月) 03:28:42.03
>>885
>ここは基地外の巣窟だな
みなさん、そうおっしゃいますね。
その最初の感想を大切にしましょう。 888日本@名無史さん2019/11/04(月) 04:23:50.68
>>258
>北部九州や山陰では、工房を兼ねた住居あとから鉄器が出る。
大和は、3世紀中頃以降、古墳からしか鉄器は出ない。
大和には鉄器をもちいた工房がなかった、ということだ。
大和が鉄器過疎地帯だったことは、動かんよ<
ふーん、成程。 889日本@名無史さん2019/11/04(月) 04:27:51.88
>>261
>大溝は奴国で最初に作られ、纒向は数百年遅れ。
実際には鉄器が出ないのだから、鉄器を使った人たちは纒向には定住していなくて、どこかへすぐいなくなったんだよ。<
ふーん。 890日本@名無史さん2019/11/04(月) 04:38:24.14
>>273
>纏向遺跡だけではなくて、奈良盆地全体の話だよ
長い間、大和朝廷の中心地だったからね
唐子鍵遺跡だって、遺跡の名前からして「唐子池」「鍵池」から来ている
池の底になっていたから、遺構が残っていたという側面がある
それほど、奈良盆地は遺跡が残るのには不利な土地なんだよ 池の底になっていたから、遺構が残っていたという側面がある
それほど、奈良盆地は遺跡が残るのには不利な土地なんだよ <
「大和朝廷」なんて古代には存在しなかったから、×。 891日本@名無史さん2019/11/04(月) 04:51:11.46
>>277
>九州が大量の兵員を送り込んだことがわかるね。
>それを送り出した九州の3世紀の鉄製品はどれくらい出土しているんだい?wwww <
魏使らが「兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃」と記録出来た位であるし、
日田に鉄鏡が出土した位。 892日本@名無史さん2019/11/04(月) 04:59:31.39
>>283
>少し違うデータだが、筑紫、肥国、豊国、出雲、越という倭国の主要構成地域がよくわかる。
その中でも魏志倭人伝で郡使が滞在し、記紀で日向三代の王都とされるのは筑紫。<
成程。 893日本@名無史さん2019/11/04(月) 05:15:30.66
>>287
>畿内説は学説
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、
学説でもなく、×であるし、
大和説は、「南→東」などの史料事実の否定や曲解をしている嘘吐き騙しであるから、
「学」説ではなく、
皇国史観という結論先にありきの国家国粋宗教に狂った説。 894日本@名無史さん2019/11/04(月) 05:28:31.45
>>293
>「纒向遺跡174次調査」
「調査地は纒向石塚古墳の北東200m、居館域の発掘調査地点からは北西に約400mの地点
(中略) 調査の結果、浅い土坑や小規模な溝を検出したにすぎませんでしたが、
約60uの小さな調査範囲からコンテナケース20箱分の多量の遺物が出土しました。
そのほとんどは纒向遺跡の最盛期である3世紀代のものです。
それらの遺物の中には、近辺で鉄器生産がおこなわれていたことを示す鞴(炉に空気を送り込む道具)の
羽口や鉄滓、鉄片など特筆すべきものがありました。」<
「そのほとんどは纒向遺跡の最盛期である3世紀代のものです」というのが、
インチキの刷り込みだなあ。
纏向の最盛期は、3世紀末から4世紀。
895日本@名無史さん2019/11/04(月) 05:34:10.43
>>297
「南→東」など嘘吐き騙しまでする、という大和説者の背景は、
日本の正確な歴史を攻撃するのが実効的手段と確信を持ってて
組織立てて資金も投入して、
嘘がバレても念仏のごとく延々やってると
背景はそれなりの規模の政治的宗教団体に思えるなあ 896日本@名無史さん2019/11/04(月) 05:49:06.53
>>300
>今、問われているのが、畿内3古墳の鉄の出土状況を見て、
畿内に「九州が大量の兵員を送り込んだ」からだと主張する人がいるから、
その根拠を訊いている
それであるなら、畿内の3古墳が作られた時期及びその前後が、
「問題の時期」なんだから、その時期について答えられなければ無意味
で、3世紀の、北部九州の鉄の出土状況が、畿内の3古墳よりも多いという根拠があるから
「九州が大量の兵員を送り込んだ」なんて言ってるんだよね?
3世紀の九州の鉄の出土遺跡、具体的に教えてよ
まさか、鉄が溶けたから出ないなんて言わないよね?wwwwww<
史料事実根拠は、
魏使らの見聞記録である「兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃」や、
弁辰の「國出鐵、韓、wai、倭皆從取之。諸市買皆用鐵、如中國用錢」や、
日田の鉄鏡や、
倭王武の上表文の、
「自昔・・・東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」
があった事だ。
北部九州の考古学的発掘データは、
考古学者のほぼ全員が「思想宗教に狂った大和説者」であるために、
年代比定を卑弥呼のいた3世紀から外そう、としている事が余りにも丸見えであり、
根拠にならない代物。 897日本@名無史さん2019/11/04(月) 05:57:28.08
>>305
「無知でした、バカでした」って、間違いを認めて謝れないところが
この国の国家国粋皇国史観儒教の非学問的な道徳観なんだよな
「謝ったら負け」ってやつ 898日本@名無史さん2019/11/04(月) 05:58:38.93
皇国史観によって江戸時代に作られた政治思想が九州説だよ
九州説は最初から学問じゃなくて政治思想だったんだ
ザラコクの行状見てればよくわかるよね
899日本@名無史さん2019/11/04(月) 06:31:12.69
>>898
>皇国史観によって江戸時代に作られた政治思想が九州説だよ
その通りだよ。
ではなぜ新井白石や本居宣長が九州説なる政治思想を提起したのか。
彼らは卑弥呼が誰なのか分っていたからだ。
ではなぜそれを公に言えなかったのか。
卑弥呼の5世代100年前の倭国王帥升が誰なのか決定されてしまうからだ。
AD107年、渡海して洛陽で土下座した倭国王帥升がスサノオだと彼らは言えなかった。
日本の歴史が中国への土下座から始まる、彼らはその屈辱を避けたのだ。
という事はスサノオの5世代後にいる卑弥呼=ヒメ后が住んだのは葛城であり、その墓も葛城にあることになる。
そして魏志の記述通り、径百余歩の塚、土蜘蛛という奴婢が埋まった塚が高天原(御所市高天)にある。
そろそろ纏向説の君は敗北を認めないとな。 900日本@名無史さん2019/11/04(月) 07:05:14.31
歴史学は決して妄想に負けないよ
901日本@名無史さん2019/11/04(月) 07:09:46.87
>>900
そうだな。
国宝中平銘鉄刀という物証から卑弥呼やトヨを判明できる歴史学は、
纏向説という妄想には負けない。 902日本@名無史さん2019/11/04(月) 07:10:43.18
つまり、邪馬台国畿内説は、歴史学によって、完全に叩き潰されてしまったのだな、、、
903日本@名無史さん2019/11/04(月) 07:15:06.85
>>902
つまり、邪馬台国纏向説、ついでに九州説は、歴史学によって、完全に叩き潰されてしまったのだな、、、
に言い換えなさい。 904日本@名無史さん2019/11/04(月) 07:16:23.80
>>867
>皇室の新年最初の重要行事である四方拝で東国が重要視されてるのは何故なんでしょうね?w
皇室の最重要祭祀 「践祚大嘗祭」 で阿波が重要視されてるのは何故なんでしょうね?w わははははは @阿波 905日本@名無史さん2019/11/04(月) 07:20:23.57
明け方に、最近亡くなった飼い犬の夢を、見たのだったな。
906日本@名無史さん2019/11/04(月) 07:22:52.92
飼い犬が、亡くなってからは、日課の朝の散歩をさぼることが、多くなってしまっているな。
907日本@名無史さん2019/11/04(月) 07:24:08.28
>>307
>その時期の九州の鉄の出土遺跡、具体的に教えてよ 細かく時期を特定しなくていいからさ
まさか、鉄が溶けたから出ないなんて言わないよね?wwwwww<
だから、3世紀の文献的な根拠は十分揃っており、
大和説考古学者が、北部九州の発掘の年代比定を出来るだけ3世紀以前に造作する、
というインチキをしている事が問題。
例えば、き鳳鏡の須玖岡本や、21枚の「尚方作」鏡を伏せて平原を2世紀にするなど。 908日本@名無史さん2019/11/04(月) 07:24:57.61
>>867
>皇室の新年最初の重要行事である四方拝で東国が重要視されてるのは何故なんでしょうね?w
皇室の最重要祭祀 「践祚大嘗祭」 で阿波が重要視されてるのは何故なんでしょうね?w わははははは @阿波 909日本@名無史さん2019/11/04(月) 07:28:10.51
>>313
まあ「南→東」などの嘘付き騙しの大和説の目的は、
嘘がバレバレでも、書きまくって
最終的には九州説を潰す事なんだろうけど
金かけてそうまでしてやるのがまったく不可解
単なる八つ当たりとしたら狂的過ぎる 910日本@名無史さん2019/11/04(月) 07:48:31.81
>>886
関東が入っているのに九州が入っていないのは不自然だな。
やはり大和王権は九州に本拠地があった倭国とは別の東の倭種。 911日本@名無史さん2019/11/04(月) 07:54:13.84
>>317
まあ、「南→東」などの史料事実の否定曲解のイデオロギーには、
理由はないからね
そういう精神の情弱性にはまりやすい人が、今どき大和説をやってるんだよ 912日本@名無史さん2019/11/04(月) 07:57:45.69
>>905
亡くなった飼い犬が、生きている時に、毎日一緒に散歩していた奈良ではなく、熊本の御城下を亡くなった飼い犬と一緒に散歩している、不思議な夢だったのだね。。。 913日本@名無史さん2019/11/04(月) 08:03:01.85
>>320
>九州説の根拠一覧
・短里で萬二千里は九州
・方角で南と書いてあるから九州
・水行、陸行は総旅程を改めて書いたもので起点は帯方群
・平原1号墓は八咫鏡が出たから卑弥呼の墓
・鉄が多いから九州
これくらいかな?<
全く足りないねえ。
「正北抵新羅」や「自昔・・・東征毛人五十五國」や、
「日本国は倭国の別種の旧小国」や、
「白村江で戦ったのは倭國や倭衆や倭賊であった」などの根本的な根拠も抜けている。 914日本@名無史さん2019/11/04(月) 08:16:19.44
>>332
>何回言うたらいいのよ。
この羽口や鉄滓、鉄片などが出た遺跡は3世紀後半。
問題なのは卑弥呼の時代3世紀前半に大和に鉄があったのかということ。
3世紀後半の遺跡持ち出して煙に巻くなよな。<
成程。 915日本@名無史さん2019/11/04(月) 08:22:11.86
916日本@名無史さん2019/11/04(月) 08:25:23.65
>>337
>>だーれも卑弥呼の墓が祇園山とは断定してない <
>時代が異なるから、確率ゼロだよ、箸墓よりも遅いのは確実<
前方後円墳ではなく冢であるし、北部九州内の筑紫であるし、
殉葬奴婢百余人もあるし、「土師器の古い方=庄内」もあるし、
△もあるし、須恵器もあるし、箸墓は論外であるし、
確率は、90%位かな。 917日本@名無史さん2019/11/04(月) 08:25:49.15
>>914
>3世紀前半に大和に鉄があったのかということ
横レスだがホケノ山は布留式土器落ち込み説など議論があったが、
最新の研究ではどうやら3世紀前半になるようなので、
3世紀前半の大和に鉄はあった。 918日本@名無史さん2019/11/04(月) 08:29:17.56
>>338
例えば韓国でもやっつけようと思ってソウルは昔プサンにあった的なこと言おうと思うかな
ソウルは昔から今の位置にあってそういう資料も揃ってますと言われれば引っ込むしかないし
賛同者も居ないだろうしそれに資金を出す団体が出るとは思えない
しかし大和説はまさにそういったのに賛同する人間が集まっていて
資金まで提供されているようだ
やはり大和を倭国の中心だと言い張るような事に
何らかの実効性があると確信している団体が背景なんだろう 919日本@名無史さん2019/11/04(月) 08:38:18.91
>>917
>3世紀前半の大和に鉄はあった。
それ、大和忌部の鉄だから。 勘違いしないように! @阿波 920日本@名無史さん2019/11/04(月) 08:42:18.28
>>355
「南→東」などの嘘付き騙しのように、
歴史を嘘ついて変えることが相手への攻撃になるって思想はあんま聞いた事ないな
しかし金まで提供されて実行されてるわけだからそういうのは実在はしているんだな
世界を支配しようとしているというユダヤ思想とかナチスとか皇国史観とか、
その辺がベースなのかもねえ 921日本@名無史さん2019/11/04(月) 08:46:37.28
861日本@名無史さん2019/11/03(日) 22:36:04.75>>863
>>857
>武甕槌神は鹿嶋神宮な
866日本@名無史さん2019/11/03(日) 22:56:06.14
>鹿嶋神宮のルーツは佐賀だろ 922日本@名無史さん2019/11/04(月) 08:51:40.40
>>337
>>だーれも卑弥呼の墓が祇園山とは断定してない <
祇園山は、その名の通り仏教文化のお墓
その石組からしても、蘇我氏のご先祖の墓群だったのだろうな 923日本@名無史さん2019/11/04(月) 09:00:04.42
前方後円墳のルーツは神門古墳群
924日本@名無史さん2019/11/04(月) 09:06:16.13
>>367
>奴婢の血を特殊壷に入れて特殊器台に捧げるような儀式を
箸墓で行われたのを見たのかも知れない <
どうやって奴婢の血を採るのか?は知らんが、
「特殊壷に入れて特殊器台に捧げるような儀式」を、
張政らが見て、奴婢の殉葬だ、と判る筈もないから、×であり、
また、纏向では「南≠東」などに拠って、×。 925日本@名無史さん2019/11/04(月) 09:12:39.72
>>373
>それなら九州説は祇園山は卑弥呼の墓説を放棄という事でいいんだな?<
いや、日本の現在知られた墳丘墓や冢や古墳の中で、
祇園山が卑弥呼の冢の確率が最も高く、90%位だ、
と言っているの。 926日本@名無史さん2019/11/04(月) 09:15:37.64
>>376
>開いてても別に構わないように思える
その穴を通じ特殊器台に奴婢の血が少しづつ…とか
まあもっと穏当に酒とか流し込んでたのかも知れないけれど <
やはり、
張政らには、殉葬には、見えないなあ。 927日本@名無史さん2019/11/04(月) 09:18:53.66
>>379
>いいや詐欺師は九州説だったというだけ <
いや、「南→東」の史料事実の曲解捏造の大和説者は、
99.9%の確率で、詐欺師だよ。 928日本@名無史さん2019/11/04(月) 09:27:22.94
>>382
>畿内説は学会での定説であり学説 <
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言を使ったから、大和説は偽説であり、
「南→東」などの史料事実の否定や曲解の嘘つき騙しをした学会は詐欺師集団であり、
だから、大和説は偽説であり、詐欺説。 929日本@名無史さん2019/11/04(月) 09:41:49.81
>>385
>倭は楽浪から見ると南だから<
ほぼ南東だ。
>海東に至ると書いて△ある海東鏡を呉系楽浪鏡師が倭にやってきて作ったというのは根本的な矛盾
せめて楽浪を取って呉系鏡師と言うべき <
△の海東鏡の作者の出立地は、呉付近であり、呉付近から列島が「海東」であり、
呉地付近や楽浪付近から出土の△は4個余りになり、
それでは列島の500個もの△の説明が付かないから、
呉の鏡師らが、呉から一旦楽浪に来て、更に南東へ向かって、
楽浪から列島へ来て、△を造った、という事になる。
>けどこう指摘されても九州説は宗教思想だから一向に変える気配はない <
けどこう指摘されても大和説は、狂気の宗教思想だから一向に変える気配はない 930日本@名無史さん2019/11/04(月) 09:53:44.19
それで、お前の名前は?
931日本@名無史さん2019/11/04(月) 09:54:09.94
神武にバッチリ山椒を噛ませてる当たりが倭人伝読んどる証拠。しかしハッキリとさせられないあたりが後ろめたさ満載。帥升から乱れ統治されない時代があり卑弥呼が現れ、瓢箪墓時代に移る。それに神宮と呼ばれるのは石上だけ。
932日本@名無史さん2019/11/04(月) 09:54:10.27
>>384
>弥生の最大級規模を誇る唐古鍵遺跡<
勿論や弥生銀座には劣るし、
唐古鍵は、出雲銅鐸祭祀部族系の国であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」軍に拠って征服され、滅ぼされて、
墓守り人にされて、駆使された。 933日本@名無史さん2019/11/04(月) 09:56:38.91
以前から書いていることなんだけど
家は、王母〜傾いた松、寒いな・・・?
同じ家?というか、その家なのかな
934日本@名無史さん2019/11/04(月) 09:59:52.07
本当の話
とあるゲーム内に作成したキャラがいるんだけど、
歌舞伎役者のようなキャラクター名(下の名前)、探偵eye?
なぜか同じでしょ
935日本@名無史さん2019/11/04(月) 10:01:43.78
>>388
>恐らく当時もヤマトと発音してたはずだよ<
邪馬壹≠ヤマト。
>ヤマタイという呼び名の国は見渡す限りないからね <
後漢書の「邪馬臺國」の「邪馬臺」は、「ヤマト」の音韻ではない。 936日本@名無史さん2019/11/04(月) 10:02:16.67
王母〜wは中国人だと書いてあるでしょw
なぜだと思う?
937日本@名無史さん2019/11/04(月) 10:04:59.47
日本に住んでいるけど中国の人とか、そういう話と同じ、
百済というところに住んでいる、住んでいたけど中国人。
938日本@名無史さん2019/11/04(月) 10:05:05.47
>>389
>清水眞一 前・奈良県桜井市教委文化財課長 ・・・<
ほらまた、大和説を捨てて、九州説に転向する人が出て来た。 939日本@名無史さん2019/11/04(月) 10:10:34.79
『伊達の桃太郎』
むかーし住んでいたというところも同じだしなw
いまの福島県のほうでしょ
『西王母 北辰』
940日本@名無史さん2019/11/04(月) 10:14:19.43
芸能関係の何か(不明)になったのかな、
偶然でも何でも良いんだけど、たしか歌舞伎、芝居?
そういう話もしていたし『老婆談』
941日本@名無史さん2019/11/04(月) 10:21:44.55
>>391
>>共立して女王を立てたがそれを認めない国が存在し卑弥呼は魏に願いでる始末。
即ち、この時代はまだ三種の神器なぞ存在しない。<
三種の神器は、天孫族の阿毎氏系の倭奴國や伊都国系の王のお宝であり、
だから、安曇氏や宗像氏などや、日向や大和などもお宝になり、
姫氏系の卑弥呼の鬼道とは、直接的には関係がなかったが、
平原の壹與もお宝にし、
そして、317年頃の「博多湾岸から筑後〜久留米の遷宮」で、
東海姫氏國も高良大社も「三種の神宝」もお宝にするようになった。 942日本@名無史さん2019/11/04(月) 10:23:43.72
馬に乗り、謎の刀(剣だったのかな)も持っていたとか、
偶然にしては?川俣町というところの話もしていたり
943日本@名無史さん2019/11/04(月) 10:27:29.10
>>382
>畿内説は学会での定説であり学説 <
畿内説は、詐欺師の学会での詐欺定説であり詐欺学説 944日本@名無史さん2019/11/04(月) 10:27:38.07
>>923
>前方後円墳のルーツは神門古墳群
千葉の「前方後円墳」は黒潮に乗って関東を開拓した関東忌部な @阿波 945日本@名無史さん2019/11/04(月) 10:30:47.35
>>393
>唐子・鍵遺跡
現段階の調査で認知されている遺跡面積は約30万平方メートル。
規模の大きさのみならず、 大型建物の跡地や青銅器鋳造炉など工房の跡地が発見
3か所の居住域の周りに大環濠を掘削し、一つの居住域に統合する。
(長径約500メートル、短径約400メートルの不整円形) 内側の環濠は幅8メートル以上、
>大環濠を囲むように幅4〜5メートルの環濠が4〜5重に巡らされる多重環濠。
これらの多重環濠群は居住区の外縁を幅150〜200メートルで囲み、環濠帯を形成している。
各居住区の内部は未調査であるが、
村の西南部に河内や近江、紀伊など 各地の搬入土器が多く出土する市的な場所、
また、 南部では木器の未成品や青銅器鋳造関連遺物や炉跡、
北部ではサヌカイトの原石や剥片が纏まって出土する所などがあり、各種工人の居住の場所と推定される。
南地区の中央部に高床建物がたっていた可能性が高く、中枢部と考えられる。
このようなことから大環濠内では、各種の機能別に区画されていたと考えられている。<
参考になります。 946日本@名無史さん2019/11/04(月) 10:31:09.89
祇園山は、その名の通り仏教文化の聖地を表す。
その石組の形式からしても、蘇我氏のご先祖の墓群だったのだろうな
947日本@名無史さん2019/11/04(月) 10:36:28.04
wikiなども同じ、
天王〜後に天皇(神仙?)になったと言いたいんだろうw
確実に日本の話ではないでしょ、なぜだと思う?
948日本@名無史さん2019/11/04(月) 10:45:02.35
>>400
>畿内には径百歩に相当するような古墳が3世紀から無数に存在<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×であるし、
この大和説男が「古墳」といえば前方後円墳の事であろうから、
石塚以後の前方後円墳の事になり、「径百歩≒20〜30m」ではないから×であるし、
3世紀末以後になるから、また×。 949日本@名無史さん2019/11/04(月) 10:45:09.28
日本の外の国があるでしょ、ほとんど上の国なんだろう?
950日本@名無史さん2019/11/04(月) 10:57:22.24
河伯〜、沙悟浄(カッパ?)、何なのかわからないけど。
キュウリの葉、葱の華wその家の写真だと言っているし・・・家の写真。
951日本@名無史さん2019/11/04(月) 11:05:03.21
まさか?かなり前のことになるんだけど、とある陰謀スレ
「何度も言いました、だっつーの!」「生きてたのか」
「真似なんてしているから、こんなことになってしまった」
「偉いオジーさんだったんだよ〜ん」
このような謎の書き込みをしている人がいたり
952日本@名無史さん2019/11/04(月) 11:09:10.11
>>403
>考古学的に見ると3世紀中ごろにはすでに畿内が倭国の中心<
畿内なんて存在もしていなかった嘘つき騙し文言であるから、×であるし、
唐会要倭国伝の「正北抵新羅」に拠って倭国の中心は北部九州であったのであり、
大和は、北部九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の1国で、
北部九州倭国から別れた別種の旧小国の附庸國であったのであり、
「南≠東」などによっても×。
大和が独立を模索したのは、新唐書などに拠れば、梁代の欽明の頃からであり、
開皇末に初めて中国に使節を派遣して独立を報告し、
日本国の国号や独立が認められたのは、唐の武徳中。
そして、白村江の後で、大敗した母国の九州倭国を併合吸収継承して、
701年に大宝元年を建元して盟主国になった。 953日本@名無史さん2019/11/04(月) 11:09:10.21
>>403
>考古学的に見ると3世紀中ごろにはすでに畿内が倭国の中心<
畿内なんて存在もしていなかった嘘つき騙し文言であるから、×であるし、
唐会要倭国伝の「正北抵新羅」に拠って倭国の中心は北部九州であったのであり、
大和は、北部九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の1国で、
北部九州倭国から別れた別種の旧小国の附庸國であったのであり、
「南≠東」などによっても×。
大和が独立を模索したのは、新唐書などに拠れば、梁代の欽明の頃からであり、
開皇末に初めて中国に使節を派遣して独立を報告し、
日本国の国号や独立が認められたのは、唐の武徳中。
そして、白村江の後で、大敗した母国の九州倭国を併合吸収継承して、
701年に大宝元年を建元して盟主国になった。 954日本@名無史さん2019/11/04(月) 11:09:48.03
当時、家にあった本や書なんかも誰かにあげちゃったのかな〜、
売ってしまったのかな?それとも近所の人が?
ほとんど老婆談なんだけど、そういう書などの話なのかな
955日本@名無史さん2019/11/04(月) 11:13:50.81
wikiなどに乗っている画などがあるでしょ?
河伯と某と某は同一人物でしょ
これは他の人物の話になるんだけど、同じような事を言っている人がいたり、
某と某は同一人物なのでは?とか
956日本@名無史さん2019/11/04(月) 11:16:21.85
同一人物というか〜〜〜〜〜〜略〜〜〜〜〜同じ家の人物?
河伯と某、某と某・・・など
957日本@名無史さん2019/11/04(月) 11:17:41.26
>>407
>唐子・鍵遺跡は、倭人の風習である卜骨(弥生前中後期)も
木弓短下長上も出てる重要な遺跡だな<
ふーん。 958日本@名無史さん2019/11/04(月) 11:20:59.33
ほんとーに謎の川俣町という掲示板
川勝(不明)が何やらという書き込みもあったり、
秦氏?
959日本@名無史さん2019/11/04(月) 11:24:30.93
たしか蚕、機織りが〜、そういう話もしていたしな・・・。
よくわからない話ばかり(『老婆談』)。
960日本@名無史さん2019/11/04(月) 11:28:58.77
『天財若子』(風姿)と書いてあったり?芸能関係?
961日本@名無史さん2019/11/04(月) 11:35:52.64
俺、沖縄在住の沖縄人だけど、何か質問ある?
962日本@名無史さん2019/11/04(月) 11:41:27.15
>>961
チョンのお前が、沖縄人になりすます理由は? 963日本@名無史さん2019/11/04(月) 11:49:52.00
>>962
わんねー、うちなーんちゅやしが、あんすくとぅ、なまからうちなーぐちんでぃかいゆんたくすみ?
んじー、ちゃーすが、やまとぅー?
すまんな、沖縄方言で書いて(笑)。 964日本@名無史さん2019/11/04(月) 11:50:38.13
>>899
>卑弥呼=ヒメ后
3世紀に「后」という呼び名は倭國に存在しないんだから、
この時点で左側スロープ君の「大発見wwww」は最初からデタラメだと分かる 965日本@名無史さん2019/11/04(月) 11:54:20.59
>>409
>副葬品とか出てるなら殉葬じゃなくて埋葬<
関係がない。
祇園山の殉葬は、一種の陪葬であり、敬意を持って埋葬されたものであり、
副葬品があってもおかしくない。
>祇園山の古墳周りに墓が後から作られたということの証拠<
1号甕棺などが、地山成型の時に上面を削られたようだから、
62個の墳裾の小型埋葬施設は、中央の墳頂の主体の埋葬と同時期の埋葬であった事になり、
何年も後からの陪葬にならない。 966日本@名無史さん2019/11/04(月) 11:54:38.72
>>910
>関東が入っているのに九州が入っていないのは不自然だな。
単に重要度の低い僻地の片田舎だからだよ
関東が200メートルを超す太田天神山古墳を作っている中、北部九州は100メートル級がやっと 967日本@名無史さん2019/11/04(月) 11:59:12.50
>>918
>資金まで提供されているようだ
ミラーリング乙
発想が半島人 968日本@名無史さん2019/11/04(月) 11:59:28.37
誇り高き武人である北部九州倭人に重労働なんてさせられません
生口にでもまかせておけばいい
969日本@名無史さん2019/11/04(月) 12:02:04.60
>>919
>>3世紀前半の大和に鉄はあった。
>それ、大和忌部の鉄だから。
泡も3世紀の大和に鉄があったのを認めたなw
九州説も「大和に鉄がない」ってのは時代遅れの妄説だって早く認めた方が楽になれるよw 970日本@名無史さん2019/11/04(月) 12:07:23.85
>>931
最近、左側スロープ君が自分の書き込みであることを隠そうとしているようだww
左側スロープ君名義というだけでバカにされるってことに少し気付いたようだw
でもスサノオとか帥升とか言いだした時点でバレバレ 971日本@名無史さん2019/11/04(月) 12:11:41.51
川勝氏(秦氏)のwikiだけでもわかる、
若返ったり何やら〜と書いてあるでしょ
浦島太郎→河伯→浦島太郎、同じ存在
972日本@名無史さん2019/11/04(月) 12:14:00.70
>>413
>>桜井茶臼山には宗像神社があったんだった<
>ところがない。 前方部のかなり離れたところに宗像神社があるが、
あれは創建がかなり後で、謂れもハッキリしている。<
当たり前だ。
神社そのものが、はるか後代の設置であり、
何らかの謂れや伝承があったから造られたものだ。
という事は、
桜井茶臼山が宗像氏関係であった、という伝承があったから宗像神社が造られた、
という事になり、宗像は、当然天孫族の天照の三人娘らの神社だし、
当然阿毎氏系であり、東征毛人五十五國の将軍に選ばれても何もおかしくない。
市杵島姫神が祀られている神社もあちこちにあるが、
いずれも、宗像氏との関わりがあったんだろう、という事になる。 973日本@名無史さん2019/11/04(月) 12:19:20.90
>>966
>関東が200メートルを超す太田天神山古墳を作っている中、北部九州は100メートル級がやっと
それは、関東忌部のほうが筑紫忌部より力が強かった、ということなんだよ。 @阿波 974日本@名無史さん2019/11/04(月) 12:20:06.30
??965
>1号甕棺などが、地山成型の時に上面を削られたようだから、
>62個の墳裾の小型埋葬施設は、中央の墳頂の主体の埋葬と同時期の埋葬であった事になり、
状況が理解しがたいカキコだ。
1号甕棺などが上面を削られたということは、棺の上部が破壊されたという意味か???
ならば、過去の墓地の上に、新たな侵入者が墓を築いたと読めるのだが???
975日本@名無史さん2019/11/04(月) 12:28:39.50
古代中国、釣りの名人という人物がいるでしょ?
詳細は不明みたいなことになっているし
本当は河伯(浦島太郎?)の話なのかな
976日本@名無史さん2019/11/04(月) 12:32:20.59
>>974
>過去の墓地の上に、新たな侵入者が墓を築いたと読めるのだが???
侵入者ではないと思うけれどね
忘れられた弥生時代の集団墓地の上にに、古墳時代になって在地の首長が古墳を作ったというだけの話
原口古墳って知ってるかな?
これ発掘時に甕棺が出て、「古墳時代に甕棺が?時代が合わない!」って話題になったんだけれど
何のことはない、忘れられた甕棺墓の上に古墳が作られただけ
祇園山古墳もこれと状況は同じ 977日本@名無史さん2019/11/04(月) 12:40:44.01
>>976
>62個の墳裾の小型埋葬施設は、中央の墳頂の主体の埋葬と同時期の埋葬であった事になり、
そのような経過があるのであれば、
古来より、高良台一帯は墓場として繰り返し利用されてきたのであるから、
中央墳頂の主体の埋葬と62個の墳裾の小型埋葬施設とが同時期であったとは即断できない。
それなりの証明を要する。 978日本@名無史さん2019/11/04(月) 12:42:27.00
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| ::::| .. | ::::| .|| 主 |
| ::::|日本人、今年も貢物 | ::::| ..|| 国 |
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∧,,_∧ ( ))) ) ∧,,_∧ ヒェー、宗主国アメリカ様お許しを…
、,.,,<♯`Д´> | | | <`Д´♯>,,.,、
(,⌒) |lll|lll|l )) (__)_) (( l|lll|lll| (⌒,).
..⊂、`ヽ⊃ >⊃ ..と< とノレ
∨ ∨ ∨ ∨ Σ ガンガンガガガン…
こんな惨めな奴隷国家(日本)から救ってやったのが心優しきアメリカ人
979日本@名無史さん2019/11/04(月) 13:06:47.01
>>977
>小型埋葬施設とが同時期であったとは即断できない。
即断できないとか以前に、古墳時代の古墳を甕棺墓と同時期というやつが頭おかしいんだよ
ザラコクの書き込みに反応するだけムダ 9801 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/04(月) 13:11:00.20
新スレ立てました。
http://2chb.net/r/history/1572837750/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 981日本@名無史さん2019/11/04(月) 13:18:38.46
阿波って九州説並みに妄想が酷いな
982日本@名無史さん2019/11/04(月) 13:20:40.65
983日本@名無史さん2019/11/04(月) 13:44:07.18
すべての倭人を忌部にしてしまうところとかw
984日本@名無史さん2019/11/04(月) 14:03:14.77
>>983
忌部以外にどんな部族があるのかね?
全国に、今もって名を残しているのは「忌部(物部)一族」 だけ。
ここでいう「忌部一族」とは、衰退した平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。
「忌部一族」とは倭人(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。
その忌部(斎部)氏は、物部氏の衰退後、残党が「忌部氏」を名乗った可能性が高い。 @阿波 985日本@名無史さん2019/11/04(月) 14:06:30.62
>>983
「天皇家」も「蘇我氏」も「物部氏」も「中臣氏」も「葛城氏」も「大伴氏」も、みんな元を辿れば全部、「忌部一族」=「倭人」。 @阿波 986日本@名無史さん2019/11/04(月) 14:15:32.96
なぁ、俺の太い球と陰棒を見てくれ
987日本@名無史さん2019/11/04(月) 14:18:07.78
壊れたのかな? @阿波
988日本@名無史さん2019/11/04(月) 14:19:00.51
部民は王ではない
989日本@名無史さん2019/11/04(月) 14:19:00.69
部民は王ではない
990日本@名無史さん2019/11/04(月) 14:22:31.11
フトタマが連想出来なかったか
991日本@名無史さん2019/11/04(月) 14:52:23.73
いま九州説と書かれているのものは
実は旧醜説
992日本@名無史さん2019/11/04(月) 14:58:19.98
>>417
>夷狄の邦と雖も、俎豆の象存す。中國禮を失い、之を四夷に求めるは猶ほ信す。(東夷伝序文)
その俗、挙事行来、云為する所有れば、すなわち骨を灼いて卜し、以って吉凶を占う。
先に卜する所を告げる。その辞は令亀法の如し。火坼を視て兆しを占う。(倭人伝)
華夏族が最古の王朝である夏の時代からやってる卜骨が日本のヤマト王権の地に伝わっていたわけだね<
成程。
しかし、壱岐にもト骨が盛んであったという事は、壱岐は天孫族の本拠地であるから、
結局壱岐〜出雲〜越地域に伝来して、それから大和へも伝来した、という事になり、
夏は日本の弥生時代以前の縄文期になるし、縄文期なら出雲の国引き神話時代であるのだから、
国引き神話の新羅や沿海州や越から出雲にト骨は伝えられ、出雲や越から壱岐や大和にも伝わったんであろう、
とも、十分に考えられる事になる。 993日本@名無史さん2019/11/04(月) 15:02:48.52
>>419
大和説は元々大和の前方後円墳はほぼ全部4世紀以降とか息巻いてたのに
それが、布留0のインチキを始めてから、3世紀後半になって、
ついに3世紀中ごろになって
どんどん領地が広まってるのが笑える。 994日本@名無史さん2019/11/04(月) 15:04:51.69
>>420
「南→東」などの史料事実の否定曲解の大和説は、
どうしてそうすぐに、嘘つき騙しの病気を発症するのか 995日本@名無史さん2019/11/04(月) 15:08:46.03
>>421
書き込みしている人間を「〜国人」とか特定した所で何になるのかねえ?
やはり大和説は、日本国憲法の精神や文化とは違うようだ 996日本@名無史さん2019/11/04(月) 15:16:48.97
>>425
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説やスレ主らは、
日本と文化宗教や日本国憲法の規定との違いを指摘されてから、
ひっそり騙されて裏で笑われる、というのを病的に嫌うようだ
ならスレ主さんたまには匿名で、今度ははっきり嘘つき騙しを書き込んで下さいね 997日本@名無史さん2019/11/04(月) 15:18:11.19
>>993
>大和説は元々大和の前方後円墳はほぼ全部4世紀以降とか息巻いてたのに
ひたすらウソをつく
それも、すぐバレるウソをつく
それが九州説 998日本@名無史さん2019/11/04(月) 15:19:33.56
気が狂ってないと、こんなウソをつくのは難しいね
999日本@名無史さん2019/11/04(月) 15:48:28.25
九州教は旧宗教
1000日本@名無史さん2019/11/04(月) 15:48:28.57
九州教は旧宗教
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