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畿内説は完全に破綻したのだから、そろそろ、九州にあった邪馬台国がどうなってしまったのか、討論すれば良いな。
九州にあった邪馬台国は、日本武尊に滅ぼされたのでは、ないのかな、、、
もう滅ぼされてしまったのか。
で、卑弥呼も気になるが、それより1000人の侍女の方はどうなってしまったのかな
卑弥呼と日本武尊は、時代が200年違うので、1000人の侍女は、日本武尊の時代には、骨が九州の地下に埋まっています。。
熊襲討伐の話があったと思うのだが、邪馬台国討伐の話は出てこないから、
日本武尊の前にすでに邪馬台国は滅亡していたんだろう
熊襲タケルが邪馬台国の末裔の一人かと。
河上神社の淀姫が壹與だとすれば、同じところに拠点を持っていたのだからね。
壹與と熊襲タケルは年代も近いはず(4世紀初頭)。
滅亡していたかもしれないし、逃亡していたかもしれないし、お引っ越ししていたかもしれないし・・。
とにかく、足跡を辿れない感じだね。
>>5 ヤマトタケルというのは、元々、川上梟帥の倭王の称号ヤマトと名前タケルのことで、
神の宝と共に、称号も名前も、日本武尊に奪われてしまったのではないのかな。
小碓命だったけど熊襲建を騙し討ちした時にタケルという名も奪った
本名ヲウス、別名ヤマトオグナ
クマソタケル「てめぇ!止め刺したら俺の名前を名乗りやがれ!」→ヤマトタケル
>>11 本当にこれは意味不明
女のフリして近づくような卑怯者に自分の名前を名乗って欲しいと懇願するとか日本書紀とか時期の編纂者は不自然すぎるとは思わなかったんやろか?
クマソタケルが呪いをかけた(名は一種の呪い)って説もあるけど
自分の体は死んでも名前と共に魂は英雄とともに生き続ける、というような感じの発想なんだろ
>>13 英雄になるのはもっと後だろ
その時点では正々堂々と勝負することも出来ず女のフリして近づく卑怯者でしかないやん
>>14 最終的には神話であって実話じゃないし、細かいことはまあいいやろw
>>1 邪馬台国は狗奴国との戦争に負けて滅びたんだと思います
時期的には卑弥呼よりいくらか下るようだけど、
九州地方(倭国)における二大勢力(?)の政権交代劇を神話活劇風に取り込んだのではないだろうか。
そうすると、邪馬台国にとって変わる新勢力の台頭であり、その舞台は佐賀平野だったということになるのかな。
魏志倭人伝では、邪馬台国と狗奴国は、卑弥呼が死にそうになったので、卑弥呼が男王と和平して、男王を倭王にしたが、反対意見からの挑戦があって殺人が発生したので、二人の間に産まれた娘を王にし、倭国が安定したのではないのかな。
だから、邪馬台国は日本武尊に滅ぼされるまで、倭国の本部だった可能性が高いな。
卑弥呼と卑弥弓呼は同族で、家督争いをしていただけ。
だから卑弥呼も火の国の女王であり、壹與や熊襲梟師も倭王。
4世紀の佐賀は王都だった。
そこへ福岡から男具那がやってきてトロシカヤを討った。
得意がりたいんやろけど、日本書紀の呼称と古事記の呼称をごっちゃにするヤツ嫌いやわー
A:其八年、太守王頎到官。倭女王卑弥呼與狗奴国男王卑弥弓呼素不和。遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻擊状。
B:遣塞曹掾史張政等、因齎詔書黃幢、拝假難升米為檄告諭之。
C:卑弥呼以死、大作冢。径百余步。徇葬者奴婢百余人。
D:更立男王、国中不服、更相誅殺。当時殺千余人。復立卑弥呼宗女壹與年十三為王、国中遂定。
A:素よりの不和ありて、Bの告諭を行った。
C:卑弥呼死して、塚を作り弔った。
D:卑弥呼亡き後、男王立つも国中服せず殺千余人、台与を共立して治まった。
つまり、倭国ー狗奴国の紛争と卑弥呼の死は直接的な因果関係はない。時期が近かっただけのようだ。
そして卑弥呼の弔い終了後、男王立つも「国中不服」云々・・、とあるから、
これは「倭国中不服」、すなわち倭国内の乱であり、台与を共立して治まっているので、狗奴国紛争は関係なし。
>>21 いくつもある呼び名を、わざわざ作為的に選んで誤読を誘うのが日本書紀のやり方だからね。
卑弥呼の逝去により、狗奴国を含めた倭国の首長の座をめぐる争いは振り出しに戻ったのだろう。
途中で送信してしまった
>男王立つも「国中不服」云々・・
この男王が、狗奴国の卑弥弓呼の可能性は無いのかな?
可能性としてはあると思う。
ただしその息子かもしれないし、厳密にはわからん。
個人的には
>>22のA.「倭女王卑弥呼與狗奴国男王卑弥弓呼素不和」が引っかかった
卑弥弓呼は狗奴国の男王と明記されてるのに、卑弥呼は倭国女王ではなく倭女王、つまり民族の女王ということではないな?
男弟とは「月読尊」
卑弥弓呼とは「素戔嗚尊」
卑弥呼とは「天照大御神=大宜都比売」だよ。 @阿波
魏志倭人伝は倭や倭国や女王国や邪馬台国や、用語の言い換えなのか入れ子構造なのか、関係がわかりにくいよね。
>>30 阿波にして、素晴らしくいい線ではないのかな、、。
陳寿文の基本構造は時制(歴順)
(王・・・共立時)
A:倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子 為「王」
B:自為「王」以来 少有見者
(倭女王・・・共立時代)
C:景初二年六月 「倭女王」遣大夫難升米等詣郡
D:其年十二月 詔書報「倭女王」曰
(親魏倭王、倭王・・・女を略して倭王に出世なった時代)
E:制詔 「親魏倭王」卑弥呼 帶方太守劉夏遣使送
F:今以汝為「親魏倭王」 假金印紫綬
G:正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮「倭王」
H;「倭王」因使上表 答謝詔恩
I;其四年 「倭王」復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人
(注:「倭国王」でないのは、九州島内に狗奴国という反乱分子を残していたため。狗奴国鎮圧後には倭国王に昇格させる含みだったか?)
(共立時代を回顧して云う倭女王)
J:「倭女王」卑弥呼 與狗奴國男王卑弥弓呼 素不和
倭人の連合国であって、倭国を国名にはしてないから倭国王はない
>>34 なるほど、いまだ倭人の連合国状態であって、
卑弥呼体制は、「倭国」を国名にするまでには至っていなかったのだろうね・・。
>>38 お久しぶりだね
今のところ劇団3人、かな、、。君を入れると4人。、
唐という中国の国号の時代について書かれた文章に、倭国が日本国と並んで登場したという真実は、唐という中国の国号の時代に、まだ倭国が滅ぼされていなかったことを証明するのだろうか、、、
それとも、しないのだろうか、、、
5chのパカのみなさんへ
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あらあらかしこ あらかしこ
満州センセイ、すっかりアカデミックにおなり遊ばしてなにより。
それに引き換え、畿内説や畿内もどき説は戦いすんだ関ヶ原の状況、南無南無、、、
関ケ原とか・・・どこの池沼なんだ、
信長ヲタか何かなのか?
邪馬台国大研究・方保田東原遺跡
(inoues.netより)
>福岡市天神にあるアクロス福岡で行われた『邪馬台国フェスタ in 九州』の中で、「邪馬台国・リレー講座」第1日目に、
>熊本県山鹿 市教育委員会文化課審議員である中村幸史郎氏が『邪馬台国と狗奴国』と題して講演した。その論旨は・・・、
1.3〜4世紀に、方保田に一つの国が存在したことは間違いなさそうである。
2.佐賀県の吉野ヶ里は、国営吉野ヶ里歴史公園として整備されているが、おそらく吉野ヶ里を遥かに凌ぐ遺跡がここには眠っている。
3.邪馬台国はここである可能性が高い。
>気持ちはわかるが、一般的にはこの地域は狗奴国と想定されており、
>魏志倭人伝の記述に拠るかぎり、ここを邪馬台国と比定するには無理があるような気がする。
>しかし狗奴国をもっと南の熊本県南部・鹿児島県北部あたりにもっていき、不弥国(注:宇美)から筑後川を下って有明海へ出、
>また菊池川を遡って方保田東原へ来るとすれば、「水行十日」の謎は解けるのかも知れない。
>そうなるとまた邪馬台国比定地が九州に一つ増えたことになる
>>48 >また菊池川を遡って方保田東原へ来るとすれば、「水行十日」の謎は解けるのかも知れない。
水行二十日、水行十日は、解読に難儀するところではある。
しかし洛陽住まいの貴族読者の身になって考えれば、倭人伝の起点はあくまで支配拠点の帯方郡。
二十日・十日の前に、「則ち(行程を日数で言い直せば)・・・」、と置いて読めば、
帯方郡から末盧国までの1万里+αを日数で言い直したと読めるのではないであろうか。
なお投馬国は宮崎西都市都万と思われるので、末盧国から、更に水行十日(海路1万里)を要したのであろう。
>>50 熊本県の熊本平野北部の山鹿市。
山鹿市街の南側で、菊池川と其の支流に挟まれた(防御された)三角地帯。
>>47 川崎の重度統合失調症症患者「松傾」は午前中に首を吊れよ
前から何度も何度も何度も!、
繰り返し繰り返し繰り返し!
「死ね!」と命令されているだろう?
むしろ松傾へのレスは「首を吊って死ね!」以外にないじゃないか
誰にも相手にされてない=存在する意味がない!という事だ
なぜ素直に命令をを聞いて首を吊ることができないんだ??
いくら無能な統合失調症症患者とは言え、
日本語くらい読めるのだろう???
これだけ多くの者達に首を吊れ!と命令されているのだから
さっさとセルフ絞首刑を実行しろよ松傾!
午前中に必ず実行しろ!
必ずだ!!!
東京帝国大学 白鳥庫吉
>本居氏の説出でてより以後、本朝の學者は殆ど卑彌呼を熊襲の類と見做すに於いて一致したるに、
>獨り三宅博士と星野博士とは時流と異れる見解を有せり。三宅氏は「漢委奴國王印考」(『史學雜誌』第三編第三七號[#「『史學雜誌』第三編第三七號」は
>底本では「『史學會雜誌』第三編第三七號」])に於て不彌(不詳)千餘家、投馬(備後備中ノ内ナルベシ)可四萬餘戸、邪馬臺(大和)可七萬餘戸。
>と云はれたれば、博士は『魏志』の邪馬臺を五畿内の大和と見做し、卑彌呼を神功皇后に擬したるなり。
>果して然りとせば、博士は卑彌呼問題を『書紀』編纂時代の舊説に飜したるものと謂ふべし。
>又星野博士は『史學雜誌』に於て、神功紀に「轉至二山門縣一、則誅二土蜘蛛田油津媛一」とある山門縣、即ち筑後の山門ノ郡を以て邪馬臺國と考定せり。
>那珂氏が博士の説に對して此ノ山門ノ郡ハ、筑前ナル國々ト相近クシテ、魏志ノ行程ニ合ハザルコトハ、近藤氏ノ山門ノ郷ヨリモ甚シ。
>博士ハ魏志ノ文ヲ引クニ、伊都ノ國ヨリ邪馬臺マデノ行程ヲバ略カレタレドモ、コレラノ行程ハ、
>國々ノ位置ヲ求ムルニ必要ナル者ナレバ、多少ノ誤謬ハ免レズトモ、全クハ棄ツベキ者ニアラズ。
>今其ノ略カレタル行程ヲ算スルニ、東南百里、東行百里、水行二十日、及十日、陸行一日ニシテ、少クトモ水陸三十餘日ハ費シタルニ、
>怡土郡ヨリイカニ迂 シテモ、陸行四五日ニ過ギザル山門ノ郡ヲ以テ之ニ當ツルハ、地理甚違ヘリ。
東京帝国大学 白鳥庫吉
>鶴峯戊申は其著『襲國僞僭考』に於いて、『魏志』上文の百里を不彌國より投馬國に至る里程と「誤解」して曰く
>投馬は和名鈔筑後郡名上妻加牟豆萬カムツマ、下妻ノ郡ハ准レ上、とある妻なるべし。
>兵部式諸國驛傳馬に、筑後國傳馬、御井上妻狩道各五疋とあり。此處より水行二十日にして、大隅國囎唹郡に至るべし。
>今上妻下妻の間に矢部川あり。即チ柳川の川上なり。此川を下りてまた内海に浮び南方に到るべし、と。
>蓋し氏は九州西岸航行説を主唱せられしなり。
>又近藤芳樹氏は、倭女王の都邪馬臺を肥後の菊池郡山門郷なるべしと説かれたれば、
>鶴峯氏の如くまた西岸航行説を執れる論者の一人なりしなり。
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宮内省 近藤芳樹
>生年:享和1.5.25(1801.7.5)
>没年:明治13.2.29(1880)
>幕末・明治期の国学者。
>初名は裕。通称,源吾。のち晋一郎。号は寄居,風月史生など。
>周防国岩淵村(防府市)田中源吉の長男。
>早くから上方に遊学して村田春門,本居大平,山田以文に、国学,律令を学んだ。
>天保11年(1940)、長州(萩)藩士の近藤家を継いで藩の和学方となり,萩に居を構えた。
>藩主毛利敬親に重用され,元治1年(1864)には藩校明倫館の教官となった。
>維新後しばらく山口県庁に勤めたが,明治8年(1875)、宮内省に出仕して文学御用掛に任じられた。
>明治天皇の東国行幸,北陸行幸に供奉して『陸路の記』『十符の菅薦』の供奉日記を著す。
白鳥庫吉博士は、邪馬台国・肥後熊本説を唱えた人として知られる。
其の源を訪ねると、明治の宮内省の近藤芳樹博士の熊本県菊池郡山門郷説にたどり着いた。
つまり肥後熊本説は、そもそもは宮内省から出た最も由緒正しき説ということになる。
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>>48 この遺跡は面白いね。調べても出てこないから教えて欲しいんだが、勾玉は出てる?
>>61 その
>>48 を貼ったのは俺なんだけど、勾玉の有無は気付かなかったし、
古墳時代の勾玉の産地の一つは出雲で、玉造の花仙山のメノウから作られた、くらいしか知識がない。
方保田東原のことは、誰かからのアンサー待ちということでお願いします。
簡単な話だ
九州で一番でかい古墳がある所が邪馬台国
>>62 わざわざ、ありです
この位置と規模から弥生後期のヒスイ勾玉が出てこなかったら面白いよね
古墳時代のメノウの勾玉は九州全体で出てるから余計に面白い
出土品が少なすぎるし王国を示す遺物がなさすぎる
>>65に同意
>>60 5chのパカとはあなたのような人です、
と満州先生は仰っておりました。
あらあらかしこ あらかしこ
>>65 倭女王 卑彌呼 與 狗奴國男王 卑彌弓呼 素不和
遣倭 載斯烏越等 詣郡 説 相攻撃状
狗奴國 男王 卑彌弓呼 であって、
菊池彦が治めた なんて書いて無いし聞いたことが有りません。
熊本を治めた菊池氏であれば、菊池は氏姓であって
時代的に無理があるし、菊池彦はおかしい。
ただし、狗奴国が熊本である事には異論はない。
女王国所属国の大夫=王の姓は、
奴国 難 升米
都支国 都市 牛利
巳百支国 伊聲耆 掖邪拘
のような国名そのものなので、
狗奴の卑彌弓呼 でなければならない。
ちなみに、卑弥呼には姓が無いようなので出自が不明だが
邪馬台 卑弥呼 では、ないはず。
肥国?、卑弥国なら有り得るけど、
次有21国などに該当しそうなものは無いです。
これが姓だと、狗奴国王と同族説になっちゃうかもw
邪馬台国という国名はこれら所属王の国名とは別物。
邪馬国にあった、女王宮=臺 を
ランドマークとした女王所属21国の総称の漢文仮名でしょ。
「其南有狗奴國,男子為王,其官有狗古智卑狗,不屬女王。」
代官だね
官だから、治めたという表現は使うことができる。
その上に王がいただけ。
古来より地名と人名の一致は多く、菊池氏より遥か前に菊池彦がいても構わない。
九州の古代三城のうちの一つが菊池城であり、邪馬台国と敵対する狗奴国の拠点であったと考えるのは無理のない話だ。
どの菊池氏なのかわからないけど
オウム〜、さいきば事件・・・、
そういう事件と関係があるんだよな、
みたいな事を言ってる人もいなかった?
>>70 約1000年を隔てて、菊池彦と狗古智卑狗の名が似通っているという論拠だな。
しかし似ているというなら、
狗奴国と、熊本県最大の郡であった球磨郡やその球磨郡を源流とする球磨川の方が更に似ているのではないだろうか・・。
律令制時代から知られる球磨郡も肥後熊本なのだから、そこに狗奴国があっても不思議ではない。
>>71 川崎の重度統合失調症症患者「松傾」は日暮れ前に首を吊れよ
前から何度も何度も何度も、
繰り返し繰り返し繰り返し
「死ね!」と命令されているだろう?
むしろ松傾へのレスは「首を吊って死ね」以外にないじゃないか
誰にも相手にされてない=存在する意味がないという事だ
なぜ素直に命令をを聞いて首を吊ることができないんだ??
いくら無能な統合失調症症患者とは言え、
日本語くらい読めるのだろう???
これだけ多くの者達に首を吊れ!と命令されているのだから
さっさとセルフ絞首刑を実行しろよ松傾
日暮れ前に必ず実行しろ!
必ずだぞ!!!
>>70 >九州の古代三城のうちの一つが菊池城であり、邪馬台国と敵対する狗奴国の拠点であっ>たと考えるのは無理のない話だ。
「菊池城」は、中世の城の名前だ。
古代三城のときはククチ城(久々知城)で、高い山の上に在り、飲水なく、ただの備蓄倉庫。
陳寿文の基本構造は時制(歴順)
(卑弥呼の称号は、時代を追って変遷した)
A:王、女王・・・(共立時)
・倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子 為「王」
・自為「王」以来 少有見者
・此「女王}境界所盡。
B:倭女王・・・(共立時代)
・景初二年六月 「倭女王」遣大夫難升米等詣郡
・其年十二月 詔書報「倭女王」曰
C:親魏倭王、倭王・・・(女を略し、倭王に出世なった時代)
・制詔 「親魏倭王」卑弥呼 帶方太守劉夏遣使送
・今以汝為「親魏倭王」 假金印紫綬
・正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮「倭王」
・「倭王」因使上表 答謝詔恩
・其四年 「倭王」復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人
(注)「倭国王」でないのは、九州島内に狗奴国という反乱分子を残していたため。狗奴国鎮圧後には倭国王に昇格させる含みだったか?
D:共立時代を回顧して云う倭女王
・「倭女王」卑弥呼 與狗奴國男王卑弥弓呼 素不和
中国人研究者の間でも意見が割れてるようだけど、
倭王=民族の統治者、倭国王=倭国だけの王との解釈と
倭王=国の体を成さない倭人地域の統治者、倭国王=倭を国家と見なした上での国王との解釈
菊池彦と狗古智卑狗の名が似通っているから、狗奴国は熊本だ、、、というイメージが広がっているようだが、
三世紀の倭人伝に狗古智卑狗の名があり、
飛んで、11世紀に大宰府から下野した藤原の孫が菊池氏を名乗って、両者の名が似通っているというだけ。
7世紀にククチ城の記録もあったが、それと三世紀の官の一人の狗古智卑狗と名が似通っているというだけ。
印象としては悪くないものの、古代に種族の移動は頻繁にあった。
古代どころか、江戸時代だってお国替えはたびたびあった。
地名・官名というのは、方角里数を押しのけてまで断定できるほどの根拠ではないな。
>>77 地名にちなんで似たような名前になったわけで、別に問題ないよね。
そもそも弥生時代には漢字が使われていなかったのだから、表記の違いは意味がない。
>>76 魏王、漢王などと同じだから、倭王と倭国王に違いがあったとは思わないな。
>>78 其もとになったという「古代のキクチ」という地名の存在が証明できないのだ。
あるのは11世紀になってからのこと。
鞠智城は、『続日本紀』に記載された文武天皇2年(698年)の城の修復記事が初見であり、築城年は不明である。
しかし、発掘調査では少なくとも7世紀後半〜10世紀中頃まで約300年、存続したことが判明している。
ルーツが明らかでない菊池にこだわるより、
狗奴国に似通った地名の球磨郡・球磨川の方がはるかに優れた類似ではないであろうか。
<臺城の後陣、米原台地に築かれた鞠智城趾から弥生の遺物が出土>
地元の考古学関係者によると、
かって菊池氏も居城とした鞠智城趾から出土した遺物は、なぜか不連続である。
縄文時代と、それから飛んで弥生終末〜古墳時代前期の土器類と、
そこからさらに飛んで7世紀以降の遺跡・遺物が出土しているという。
「弥生終末から古墳時代前期」という限られたこの時期には、倭国大乱が入り、吉野ケ里が長い役割を終えた時期とも重なる。
「鞠智城址」は、戦乱の時代において、強固な砦としての役割を果たしたのかもしれない。
これは、臺(うてな)台地及び米原台地の古代史上の重要性を物語る貴重な証言であろう。
>>83 ククチというのは7世紀以降の山城の名前であって、地名ではない。
城の名前が地名ではないとは詭弁。
11世紀からというのが間違いだと認めるか?
卑弥弓呼を王とする狗奴国(熊本県)の鞠智城に鞠智彦がいて、卑弥呼を女王とする邪馬台国と敵対していた。
この説明でいいではないか。
>>80 > 存在が証明できないのだ。
チョンコの口癖wwwww
弥生時代後期の大陸からの文物、鉄器などの量は
博多湾沿岸>佐賀>熊本 これははっきりしてる
熊本が邪馬台国というなら論拠が必要
熊本は狗奴国説のほうが説得力があるな
何の根拠もなく「存在が証明できないのだ。」とうめき
妄想フルスロットルで「のだろう。」と断定したがる
識者らに追い詰められると「妥当」と逃げまどう
それがキナイコシ(主に邪馬台国関連スレでの呼び名)
別名も多くあり、半島関連スレでは無能ヒトモドキと呼ばれ
高天原スレではカマチョン(猿芝居ではカモ先生)
海人族スレでは摂津チョン
などスレ毎の呼称も存在する
特徴としては思い込みが強く、他説を聞き入れる耳がなく
また聞き止める度量がない
そして追い詰められると様々なスレを渡り歩いて逃げ回るスタイル
【稲作の分布】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88 旧国 『延喜式』出挙稲数(束)
◆畿内 2,087,126
山城 424,070
大和 554,600
河内 400,954
和泉 227,500
摂津 480,000
◆西海道 5,990,581
筑前 790,063
筑後 623,581
豊前 609,828
豊後 743,842
肥前 692,589
肥後 1,579,117
日向 373,101
大隅 242,040
薩摩 242,500
壱岐 90,000
対馬 3,920
畿内の開墾が進んだ時代でさえ、九州の方がはるかに稲の収量が多く、より多くの人口を維持できたと考えられる。
弥生時代においては、奈良、京都、大阪などに沼地が広がっており、この差はさらに大きかったと考えられる。
九州ならば、福岡奴国2万戸を含む7万戸を福岡県だけでまかなえるし、熊本狗奴国が邪馬台国に対抗できた理由も説明できる。
【狗奴国】
狗奴国王の名前は卑弥弓呼といい、卑弥呼と瓜二つである。
卑弥呼とはもとより不和であるとある。
倭国大乱は倭国の王位をめぐる争いのことである。
九州で出土した副葬品の分布地図
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
このことから、狗奴国と邪馬台国は近縁関係であると推察される。
卑弥呼亡き後の争いは、狗奴国が筑紫に攻め上ったものであると考えられるが、壹與の共立によりこれが収まったということは、狗奴国も納得のいく人事であったということだ。
狗奴国熊襲は邪馬台国の南、熊本の勢力であるが、実質的には肥国の王家であり、肥前河上のヨド姫であれば熊襲の姫でもあるので狗奴国の納得のいく人事であった。
また、卑弥呼が筑後山門の出身であるならば、筑後も本来は肥国の一部に筑紫が膨張して張り出した部分であるので、卑弥呼とヨド姫も同属である。
壹與を邇邇芸の妃であり志賀島の海神の娘である豊玉姫に比定しないわけは、豊玉姫では狗奴国との争いを収める立場になれないからである。
後世には肥前のヨド姫は豊玉姫に習合されてしまうが、本来は別人である。
邇邇芸と神功皇后は天津神である筑紫王家、卑弥呼と卑弥弓呼と壹與は肥国王家、綿津見神と豊玉姫は豊国王家に属している。
いずれも連合国家である倭国を構成する中心的な王国である。
>>92 御託を並べても
邪馬台国や狗奴国たる財源がない
九州北部は畿内より圧倒的な財力なんだけど。
肥後だけで畿内の8割の稲の収穫高がある。
邪馬台国は九州北中部で間違いないだろうけど、そうなると日本の中心が大和に移った理由が良く分からないんだよね
肥沃な土地があっての侵攻なら理解できるけど当時の大和は沼だらけだし
反対に肥沃な土地を求めて大和が九州に攻め込んだとするには財力がなさすぎるし、そもそもマトモな船がないから来られない
>>101 神武東征の神話とあわせて考えれば畿内は九州の分家なんだろ
本家の方は力が衰えていったということだろう。まあよくある話じゃないか
神話では兄貴は途中で死んだことになっているが、本家が落ちぶれたことをそういう書き方したのかもしれん
もしかしたら白村江の戦いの後、九州の勢力が畿内に逃げていったのかもしれんし、その辺の事情はよくわからんが
>>102 よくチョンコが白村江の戦いで倭国が敗戦国になったとかって妄想するのがおるけど、敵地の局地戦に負けただけで何で国が負けたことになるのかと正座させて小一時間は叱りつけたい
>>102
>本家の方は力が衰えていったということだろう。まあよくある話じゃないか
なんで急に力が衰えたの? 得意の妄想でどうぞ。
>もしかしたら白村江の戦いの後、九州の勢力が畿内に逃げていったのかもしれんし、その辺の事情はよくわからんが
なんで遥か遠方の奈良まで逃げたの? 中国地方や四国地方を飛ばしてまで。 これも得意の妄想でどうぞ。 @阿波 >>103 いや、敗戦は敗戦やろ。そこは素直に認めないと
新羅はともかくとして、唐とアウェーで戦って勝てるわけないけどな
九州地方の豪族が何人も捕虜になっているし、それなりに影響あったと思うぞ
>>102
>本家の方は力が衰えていったということだろう。まあよくある話じゃないか
なんで急に力が衰えたの? 得意の妄想でどうぞ。
>もしかしたら白村江の戦いの後、九州の勢力が畿内に逃げていったのかもしれんし、その辺の事情はよくわからんが
なんで遥か遠方の奈良まで逃げたの? 中国地方や四国地方を飛ばしてまで。 これも得意の妄想でどうぞ。 @阿波 >>101 その通り。考えられるのは神武が
@狗奴国出身A倭国大乱の時脱出したB卑弥呼から壹與に変わる時に脱出した
C卑弥呼が死んだ次に立った男王の息子。の4つ
ただ@の場合、紀の東征で筑紫国の菟狭に着いた事になってるので敵国の港に寄るのか矛盾がある
神武が大和を選んだのは親類が先に大和(纏向)におり、その人を頼ったのではないか
>>106 普通は敗退と言うし、トピックは局地戦での敗退をなぜチョンコロは”敗戦国"としたがるのかってこと
>>108
>ただ@の場合、紀の東征で筑紫国の菟狭に着いた事になってるので敵国の港に寄るのか矛盾がある
その矛盾により、@はボツなんだね?
>神武が大和を選んだのは親類が先に大和(纏向)におり、その人を頼ったのではないか
その親類は なんで遥か遠方の、山に囲われ、不便で、湿地帯の奈良まで行ったの? 中国地方や四国地方を飛ばしてまで。 これも得意の妄想でどうぞ。 @阿波 >>111
>神武が大和を選んだのは親類が先に大和(纏向)におり、その人を頼ったのではないか
その神武が大和に構えた拠点は纏向遺跡でいいの? @阿波 >>111 >その親類は なんで遥か遠方の、山に囲われ、不便で、湿地帯の奈良まで行ったの?中国地方や四国地方を飛ばしてまで。
そんな事は知らんwただ紀で塩土老翁から良い所と聞いてとなっている
もちろん大和だけでなく阿波にも親類はいたのかもなw
>>113
>そんな事は知らんwただ紀で塩土老翁から良い所と聞いてとなっている
そんなだから、トンデモ説になるんだよ。 きっちり理論武装しないとw
その親類は なんで遥か遠方の、山に囲われ、不便で、湿地帯の奈良まで行ったの? 中国地方や四国地方を飛ばしてまで。 >>114
>纏向ではないな。纏向近くの橿原だね
神武が橿原に居を構えたと思う根拠はなに? @阿波 >>115 別に邪馬台国四国説擁護するつもりはないけど、当時の豪族は一夫多妻制だろうから分家はいくらでもいるわけで、
九州から畿内だけじゃなくて九州から四国に行ったやつも中にはいるやろ
実際アマテラス祀っている神社いくつもあるやろ?
でも、降水量少なくて米あまりとれないから繁栄したとは思えんけどな
>>102 >本家の方は力が衰えていったということだろう。まあよくある話じゃないか
4から5世紀の九州北部はむしろ最盛期の一つで、全然衰えていない。
>>116
>おう。考えておくよw
よく考えてね。 畿内説者もきっと喜ぶだろうから。 @阿波 >>103 福岡を首都として海運で栄えた倭国にとって、海軍力は重要だった。
それが白村江で壊滅状態となった。
さらに同時期に陸戦でも壊滅的被害を受けた。
それまで攻め込む一方だった倭国が制海権を失い、初めて外国から攻められる立場に立たされることになった。
そりゃやばいでしょ。
あと、半島人と一緒にするな。
>>108 >神武が大和を選んだのは親類が先に大和(纏向)におり、その人を頼ったのではないか
2だな。
しかも親戚筋としては記紀に饒速日が明記されている。
>>102
>本家の方は力が衰えていったということだろう。まあよくある話じゃないか
なんで急に力が衰えたの? 得意の妄想でどうぞ。
ちゃんと理論武装できていないと、トンデモ説になっちゃうよw @阿波 >>111-112,117,120
オッケー分かった
戯言は巣に帰ってやれマヌケ
邪馬台国四国説 part2
http://2chb.net/r/history/1547615010/ >>122 論点はそこじゃなくて、
なぜチョンコは敵地から撤退しただけの事実を「倭国は敗戦国になった」と錯覚するんだろうね?
馬鹿みたい笑
って言ってるだけだろ
文盲なのか?
>>121
>ん?紀だし橿原遺跡なのでは?
神武は縄文時代かね? @阿波 唐がGHQよろしく、2000人もの人員を筑紫に派遣したからだよ。
彼らは軍人ではないため、戦うことなく駐留した。
百済や新羅と同じく、倭にも筑紫都督が置かれて、制度上は唐の直轄地になっている。
>>130 郭務宗は文官なんだから外交訪問でしかないだろ。
そもそも唐と倭の間には戦闘はあっても戦争はない。
あくまで百済の援軍と新羅の援軍という関係。
>>128 縄文時代の跡は削平され消滅となってるから、元々人が住んでいて放棄されたのでは?
そこを整地し新たに神武一行が中心となり建て直したではいかがか?
>>89 >日本@名無史さん2019/05/21(火) 12:46:53.80
>>93 >卑弥弓呼を王とする狗奴国(熊本県)の鞠智城に鞠智彦がいて、卑弥呼を女王とする邪馬台国と敵対していた。
>この説明でいいではないか。
熊本の鞠智城に狗奴国・鞠智彦がいたとすると、
邪馬台国は筑後・八女ということになる。
すると、倭人伝に書かれた「末盧国ー伊都国…(奴国)ー不彌国ー邪馬台国」の方角と里数を修正せざるを得なくなる。
そこが最大の難点なわけ。
その点、肥後熊本に邪馬台国、其の南(宇土・宇城、或は球磨郡)に狗奴国を置けば、万事修正しなくてよい。
地名論争は後からで良いではないか。
まずは、方角・里数を修正しなくて良い各国配置ができるかどうかだ。
オレは村おこしを図っているのではない。修正しなくてよい配置を探し続けているのだ。これ最重要。
>>130 唐、百済、新羅の国名になってる時点で論外w
>>131 外交訪問というか戦後処理会議でしょう。
唐は新羅の宗主国としての責任があり、直接の敵国百済が逐滅したので人質やら難民の処理をする相手が倭国しかいなかったんだよ。
>>131 >そもそも唐と倭の間には戦闘はあっても戦争はない。
詭弁だな。
一般的にも、唐と新羅の連合と、倭と百済の連合の戦いとなっている。
しかも正式には百済はもう滅亡していたし、実質的にも倭の水軍が戦った。
>>132
>そこを整地し新たに神武一行が中心となり建て直したではいかがか?
神武一行が中心となり建て直した跡でも在ればいいんだがw
もし、在ったならば畿内説信者も橿原遺跡を推しているはず。 その妄想、いまひとつだね。 @阿波 >>137 橿原には弥生後期の遺跡もあるんだが?
あと畿内説はあくまで邪馬台国の説だよ。魏志から橿原は当てはまらないから推さないでしょ
いつも九州説者は畿内との関係を問われると、とたんに元気がなくなるね。
なんせ、山に囲われた湿地帯の奈良盆地だからね、そりゃ、苦慮するだろう。 @阿波
>>135 百済の熊津にも都督を置いたから、そちらはそちらで処理できた。
倭と百済は敗戦国として同列に扱っているように見えるね。
しかも、白村江のしばらく後から倭の名称はほとんどの史書から姿を消して、国内の文献も古事記を最後に、日本書紀では日本になっている。
>>139
九州説も結局のところ、畿内説と同根だからw @阿波 >>136 文盲ってみっともないね
レスするならちゃんと読んでからにしましょうね
>>140 敗戦処理と戦後処理は全く違う性質なのを理解できないおバカさん
宮崎が邪馬台国だとすると古事記と日本書紀の神武天皇の記述が歴史的事実だってことになる
戦後一貫して皇国史観を否定した戦勝国側の陣営にとって許しがたい事態だろうね
おさほ塚めさほ塚には木が生えてる
木の太さでいうと30センチくらい
どう見ても墓が作られた時からある木じゃない
戦後墓を隠すために誰かが植えたんだよ
>>143 そもそも戦争をしていないというバカには説明してやらないのかよ。
>>146 現代風に言えば交戦はしたが敵対はしていないって意味だろ
分かってるくせに
歴史の歪曲はいかんよ。
白村江は局地的衝突ではなく、全面戦争、総力戦だよ。
そこで負けて海洋国家が水軍の大半を失ったのだよ。
>>148 朝鮮学校ではそう教わったかもしれないけど、現実の歴史では違うんだよ
客観的史実は倭国も唐も宗主国として、それぞれの属国を属国の領土内で支援しただけ
>>148 当事者の百済と新羅にとっては全面戦争・総力戦だが、倭と唐は当事者ではないからな
百済はすでに滅んでいたから、名実ともに戦ったのは倭だよ。
>>151 国家の解体は敗戦側が認めるか滅亡のいずれか、白村江の戦いの時点では滅亡も敗北宣言もしていないのだから存続はしている
主力が倭軍であったことに異論はない
>第一派:1万余人。船舶170余隻。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。
>第二派:2万7千人。軍主力。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。
>第三派:1万余人。指揮官は廬原君臣(いおはらのきみおみ)(廬原国造の子孫。現静岡県静岡市清水区を本拠とした[20])。
まあ4万7千余人を出兵させたんだから主力は倭国軍だわな
>>149 日本の普通の学校でも倭と百済の連合軍が大敗したって教わるけどな
>>101日本@名無史さん2019/05/21(火) 14:19:29.74
>>102>>108
>邪馬台国は九州北中部で間違いないだろうけど、そうなると日本の中心が大和に移った理由が良く分からないんだよね
オレは、邪馬台国の主邑は山鹿市〜菊池市にあり、卑弥呼の都は阿蘇・高千穂にあったと主張してるんだけど、
それは、熊本平野の地質的特質も踏まえてのことなんだ。
この辺りは、四国ー別府ー阿蘇ー熊本ー天草ー甑島にかけて、ご承知の中央構造線というのが走っている。
中央構造線の北側は毎年数センチメートルずつ北へ移動し、南側は南へ移動しているのだそうだ。
このため数十万年後には、中央構造線に沿って九州島は南北に引き裂かれて海水が侵入し、
北の九州島と南の九州島の2つに分裂するのだそうだ。
この数十万年単位の地殻変動のため、
この辺りは、絶えず巨大地震と(阿蘇・雲仙・霧島・桜島などの)噴火に脅かされてきた。
中世には、阿蘇神社は火山灰を避けて南の山都町へ避難していたこともあったそうだ。
だから、有史時代はもちろん、有史以前から今日に至るまで、或は数十万年の先まで、
この地帯は、巨大地震と噴火に脅かされ続けてきたし、これからも脅かされ続けることになる。
阿蘇山や桜島山の噴煙を自慢している場合ではないのだ。
このようにいえば、思い出す方も少なくないであろう。
記紀の高天原神話では、ある時、天地が鳴動し、海も荒れ狂った。
天照大御神の軍勢は、さてはスサノヲが攻めてきたのかと弓矢を構えた・・・。
このように、熊本平野から阿蘇山にかけては、温暖で豊かな実りも享受できたが、
古代人にとっては呪われた恐るべき土地でもあったというわけだ。
このような地質の特質を知れば、
神武が、そう豊かでもない奈良の沼地へ新天地を求めた気持ちも推察できるのではないか・・・。
>>154 日本は民主主義だから教科書は何社からも出てるんだ。
そしてお前の祖国から拉致被害者を保護し終えるまでは近隣諸国条項を尊重し過ぎな教科書も中にはあるんだよ。
>>156 お前、日本の教科書検定の仕組みも知らないし、検定教科書で百済と倭の連合軍が敗れたと書いてあることも知らないだろう。
どこの馬の骨だ?
>>157 そうファビョルなって
お里が知れるぞ無能
愛国心は結構だが、ボロ負けしたのは事実だから素直に認めるべきやろ
実際戦後唐の人たちが日本に来ていたわけだし、
日本は敗戦国として扱われていたとしか思えない
そのうち、太平洋戦争さえも「負けたわけではない」とか言い出しそうだ。
>>160 思うのは勝手だが、妄想を事実のように語るのはただの虚言癖
>>163 歴史を歪めるなよ。
倭は大敗したんだよ。
>>164 お前に歴史学は難しすぎるようだ
オカ板にでも行ってホルってろ
wiki 百済より引用
唐が成立すると、唐は高句麗を制圧するためその背後を抑えるべく百済攻略を企図し、新羅を支援して百済を攻撃した。
これによって660年に百済は滅亡し、王族や遺臣たちは倭国(日本)の支援を受けて百済復興運動を起こしたが、663年の白村江の戦いにおける敗戦とともに鎮圧された。
Wikiを根拠に持ち出すのって
すごく頭悪そうに見えるから
本当にやめてほしいんだが
>>167 レスの内容がまともならいいんじゃないの?
>>164 将軍6人送り込んで1人しか帰ってこられなかったんだろ?
まさにボロ負け
敗戦国かはともかく半島から完全に手を引く事になるとか負けた陣営側としての報いは受けてんだよなぁ
で白村江の戦いが邪馬台国とどう関係してくる訳?
元々どうしようもない妄想から始まってるんだが
>>166 が正しいのではないかな?
660年に、百済、在日移民の祖国は滅びている。
663年に百済復興と称して、日本で貴族化していた王族や移民を送還した。
この時唐海軍の奇襲を受け、百済皇子は逃亡したため、復興運動は成立しなかった。
こういうもんを戦争というのかは疑問。
日本が新羅百済戦に参入するなら、白村江じゃなくて
もっと初期に釜山の攻略から初めれば唐海軍との戦線も全然有利だろ。
わざわざそんな方から上陸って、目的が戦争ではなかったように見える。
これに報復するとしても、釜山から攻めあがるはずだし。
この後、逆に傀儡防衛線の新羅の反唐体制を支援して唐を牽制するわけで・・・
完全に戦略的勝利かと思えるだろ。
白村江スレじゃなかったし・・・w
>>173 早めに行って唐が介入してくる前に新羅叩き潰してしまおうと考えて総力戦で挑んだんだよ
結果的にボロ負け、敗戦国になって終わっただけ
戦争とは言えないとかアホやろ
5万近い大軍を半島に送って目的である百済復興が失敗したんだから
これは倭国の敗戦だろう
『日本書紀』の「天智天皇紀」は白村江の戦いで、日本水軍が唐の水軍に破れて
溺死する者が多かったとた記述してるんだから負けだよ
>>173 >この時唐海軍の奇襲を受け、百済皇子は逃亡したため、復興運動は成立しなかった。
奇襲じゃないよ。
倭国も大軍を三次にわたり送っているのだから。
陸戦でも敗北している。
全面対決の末の敗北だよ。
百済の復興に成功したら傀儡とするつもりで、倭から仕掛けている。
>>173 660年に泗?が陥落し熊津でウィジャ王が降伏したが、プヨ・ボクシンを始めとする王族や臣官は抵抗を続けている
またムンジュ王やトンソン王、ウィドク王などは百済の宗主国である倭国が任命した百済王であり、倭国は百済の王位任命(承認)権を持っており、ウィジャ王降伏の一報を受けた倭国は人質として勾留していた百済王族プジャンを百済王として帰国させている
この時点の状態は近代の亡命政府または亡命政権とみなせる
ウィジャ王政権の朝貢先は唐と倭国の二国であり、一方の宗主国唐側の認識は660年滅亡であるが、もう一方の宗主国である倭国の認識では663年の白村江敗退のをもって滅亡とする
唐は熊津都督府において敗戦処理を行い、筑紫都督府において戦後処理を行った
チョンコは筑紫都督府は唐が設置し、熊津都督府と同列と錯覚しているようだが、筑紫都督府は太宰府の唐側呼称であることは明白
現に唐は筑紫都督を任命しておらず、劉徳高も郭務宗も駐留したにすぎない
百済王の任命権は唐が持っており、ウィジャ王はなかなか承認されなかったように記憶しているのだが?
倭は唐の任命権が及んでいなかった。
>>178 >筑紫都督府は太宰府の唐側呼称であることは明白
>現に唐は筑紫都督を任命しておらず、劉徳高も郭務宗も駐留したにすぎない
実際に駐留していたのに、任命記事が見当たらないからと言って、筑紫都督府が倭国側の役所だとか言わないよね?
倭国本土は戦場になっていない
交戦=戦争と考えるのは無知
英語で言えばBattleとWarの違い
>>179 勅使の駐留を根拠にするなら筑紫都督府設置のニ年前に守大石や坂合部磐積が唐に駐留してるわけだが
唐は倭国に占領されたんか笑
>>182 そりゃそうだろ国と国は戦っていないのだから。
ああ、本当に太平洋戦争は本土決戦していないから負けてはいないとか言い出しそうだよ。
>>183 それは無理やりすぎる
筑紫都督府の名称見ればわかる通りで、明らかに唐が倭を監視するための組織
大東亜戦争後のGHQみたいなものだよ
>第一派:1万余人。船舶170余隻。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。
>第二派:2万7千人。軍主力。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。
>第三派:1万余人。指揮官は廬原君臣(いおはらのきみおみ)(廬原国造の子孫。現静岡県静岡市清水区を本拠とした[20])。
日本の古代史で最大級の全面戦争だよね。
>>184 古代の戦いを現代的な視点で語っても意味が無い
倭は白村江で唐と交戦して負けたと言うのが史実
>>182 アホなんか?
半島で交戦したのは倭国「軍」と唐「軍」であって倭国と唐ではないんやで?
アホの言い分やったら
1942年にフィリピンでアメリカ「軍」は日本「軍」降伏し撤退したわけやが
これはアメリカが敗戦国になったっちゅうことになるんか?
日本はこの時点で戦勝国なんか?
倭はその後で唐の人員を受け入れているから、その時点で敗戦国だよ。
筑紫都督府の設置で主権を喪失している。
百済復興という戦争目的が達成できなかった時点で倭国の負け
筑紫都督府は唐側が大宰府をそう呼んだだけだろ
現に唐側にも日本側にも設置した記録は皆無だし、任命された都督も存在していない
現実問題として唐にとって地続きでもなく管理もしづらい倭国なんてどーでも良かった
白村江の戦いでも対戦国という認識より、百済討伐に邪魔が入ったくらいの感覚
だから捕虜握っときゃもう邪魔はしてこないだろって程度のあしらいで、倭国のほうが勝手にビビって山城築いたりしてただけってオチ
>>196 まだ高句麗攻めなあかん時やから実情はそんな感じやろな。
「ビビったからって勝手に遣唐使やめんなや。」で劉徳高が遣わされ、
「こっちの捕虜どうするんや?百済難民も元々はお前んとこの臣民でもあるんやから引き取れよ。」で郭務宗が遣わされ、
ビビり上がった天智は山城作りまくり、難波から近江に引っ越し。
遣唐使が活発になるのは、敗戦後だよ。
対等外交から土下座外交に変化して、唐の制度を積極的に入れるようになった。
なにしろ敗戦国になったからね。
戦後の日本と同じ。
>>198 アホなんか?
半島で交戦したのは倭国「軍」と唐「軍」であって倭国と唐ではないんやで?
アホの言い分やったら
1942年にフィリピンでアメリカ「軍」は日本「軍」降伏し撤退したわけやが
これはアメリカが敗戦国になったっちゅうことになるんか?
日本はこの時点で戦勝国なんか?
>白村江の戦いでも対戦国という認識より、百済討伐に邪魔が入ったくらいの感覚
これが一番リアリティーがある
>>201 百済は王都がすでに陥落しているから、唐軍は倭軍を倒しに海を越えてやって来たのだが?
>>197 >ビビり上がった天智は山城作りまくり、難波から近江に引っ越し。
戦後処理の最中に山城を作ってどうするんだよ。
大宰府を囲む羅城は東アジア最大級の城塞になるらしいが、唐が都督府に進駐してから作っても無意味だろ?
あれは決戦前に作ったんだよ。
そして敗戦後の畿内の王都はいずれも城壁がないという不思議。
もう白村江の戦いを敗戦と認めたくないだけじゃん
日本書紀でも負けを認めてるのに
そろそろ話題を邪馬台国に戻すけど、卑弥呼がいた倭国の王都はどこなのか。
丸裸の盆地に建物が散在する畿内か、長大な羅城に囲まれた大宰府か。
邪馬台国が機内にあったとすれば
なぜヤマト王権の後裔たる皇室に金印が伝わってないのだろうか
金印ってのは死んだら返さないといけないものらしいから、残ってなくても不思議じゃない
そんな慣習初めて聞いたな
中国王朝の印綬は冊封した各地に残ってるのに?
現物は返すけど、記念に模造品を作って残すものらしい。昔テレビで見たよ
邪馬台国九州説
・筑後国山門郡説
・肥後国菊池郡山門郷説
・豊前国宇佐説
他はどこが候補地?
>>213 そんなわけないでしょ
仮に所有者が死んだ時に返還しなきゃいけないならば
当然所有者の後継者が新しい印を求めるはず
印は中国王朝より授けられた権威・権力の象徴、記念の模造品勝手に作ってたとなれば国が吹き飛ぶわ
>>210 天皇が外国の臣下になって朝貢したなんて認めたくないから
卑弥呼は天皇じゃないし、書紀に朝貢の事実は記事があるし
>>211 国璽だから、いちいち返さなくていい。
ただし、新王は中国の承認を得なくてはいけない。
中国の王朝が変わった時は新しく下賜される。
だから、漢委奴国王印を使って卑弥呼は国書を送ったはず。
代わりに魏は新しい親魏倭王印を与えて、国璽を更新した。
>>210 つまりヤマト王権は邪馬台国ではないのだよ。
そもそも返さなきゃいけないなら
今有る国宝・漢委奴国王印はなんで有るんだって話だね
>>222 一番可能性大なのは
国が滅んだからだろ
倭国大乱の後に最後に漢委奴国王印を使ったのは卑弥呼のはず。
その金印が博多湾にあったと言うことは?
>>224 倭の代表として金印を受け取ったのだから、滅んではいない。
つまり、返さなくてはいけないという過程に誤りがあるということ。
>>220 >だから、漢委奴国王印を使って卑弥呼は国書を送ったはず。
そうなら魏志倭人伝に倭奴国朝献と書かれるよ
>>225 でも発見されたとこってどうにも逃げられない場所って感じではあるんだよね
勢力争いで追い詰められきった所有者が隠した・・とか
でも元々近くの神社に奉納されてたって噂もあるんだっけ
>>226 >倭の代表として金印を受け取ったのだから、滅んではいない。
いつ、だれが?
その記録は?
>>229 近くの神社に奉納されてたってことは
そのへんの石ころをご神体と崇めるのと同じレベル
親魏「倭」王
漢「委」奴国王
ややこしいね
左にニンベン有るか、〇の〇の国王という授受例が他にあれば
明確になるのにモヤモヤするね
>>218 記紀編纂時、唐に朝貢しまくってたのに何故わざわざ過去の朝貢例を隠すの?
>>231 弥生時代だから、大切に保管するといえば、高床式の建物、つまり神社みたいなところに保管するしかない。
そもそも九州北部では、古い神社は王宮だったわけだし。
>>229 近くの神社ではなく、糸島市の細石神社が保管していたという口伝がある。
細石神社は三雲南小路遺跡を祭る神社なのだが、三雲南小路遺跡はその金印をもらった頃の倭王の墓なんだよね。
漢委奴国王印だけど、何度見ても書体に違和感あり。中国人はああいうギトギト尖がった書体は好みではない。
どことなく日本人的な印影だけどねえ、しかもタガネ掘り。。
>>237 中国製ならもうちょっと流麗な感じに仕上げるような気はするね
偽物じゃないか?という話が出てくるのも仕方ない
邪馬台国が九州だったか畿内だったかは置いておくとして
少なくとも邪馬台国=ヤマト王権ではないのは明白だよね
金印も朝貢の記録も全く伝わってないんだから
お役人は真贋を見分ける仕事はしない。
その道の名の通った学者の推薦によりパスしてしまう。国宝になるもならぬも、万事、学者次第だからねえ。
もし漢委奴国王印が明治政府による贋作だとしたら・・
どうせなら親魏倭王印作るんじゃない?
わざわざ漢委奴国王印を贋作する意味が見いだせないよ
>>246 名前:日本@名無史さん 2019/05/22(水) 19:03:12.28
>もし漢委奴国王印が明治政府による贋作だとしたら・・
ま、それは無しだよ。
漢委奴国王印は、江戸時代の中頃、志賀島の農民二人により発見されたことになってる。
新井白石が畿内説を唱えてから1年後くらいだった。
>>246 昭和に入っても不思議な事件が起こっている。
糸島の原田大六が畿内説を唱え、邪馬台国論争という分厚い著書を出版して2-3年後に、
例の「八咫鏡」の破鏡5面が平原の畑から発見された。この時も畑仕事中の農民が見つけたという。
仮に贋作だとしたら江戸時代の作成である可能性の方が高いよね
でも、そうなると、あの時代にあの精度で作ったとするならば
江戸時代に元にしたオリジナルが存在してたってことになるよね
>>250 そうなると今も皇室は親魏倭王の金印を密かに伝えてるってこと?
ちょっと考え難いんじゃない?
隋や唐に朝貢はしてても冊封は受けてないけどね
それが冊封を受けてた倭の五王以前との違いかな
>>251 漢委奴国王印の「オリジナル」というと何を指すのかなあ
中國の何かの金印の寸法と金の純度が一致してたということらしいけど。
その何かと寸法・純度を合わせておいて、あとはエイヤッと彫れば出来上がるんじゃないの。
>>254
中国の偽造専門団に任せとけ やっつけ仕事をきっちりやってくれるやろ >>210 別スレからの転用だけど、機内説なら場所は特定された
>>255-256 そうなのか、
そうすると、順序が逆で、
漢委奴国王印に寸法と純度を合わせおいてて、滇王之印を掘ったということもありうるわけだ。
滇王之印とかいうのの写真を見た記憶があるが、実にへたくそな字だったねえ。あれは贋作。
>>254 「漢委奴国王印のオリジナル」と言えば
当然「本物の漢委奴国王印」に決まってるじゃないか
まあ私は現存してるものが本物だと思ってるけども
都合が悪くなると猿芝居で煙にまこうとする畿内チョンコ
倭国軍と唐軍は共に援軍
交戦(戦闘)はあっても、互いに戦争はしていない国という関係
戦地は共に属国だと認識している附庸地
倭国百済連合軍の大敗は歴史的事実
倭国軍が尻尾を巻いて逃げたのも事実
しかしそれをもって敗戦国(現代用語)とは言わない
例)
アメリカ軍は1942年にフィリピンで日本軍に降伏し、尻尾を巻いて逃げたが、この時点を指してアメリカが敗戦国になった
日本が戦勝国になったと言うことは不可能
シンプルに日本軍の勝利、アメリカ軍の敗走と言う
唐軍が海を渡った? そんな記録はどこにもない
唐が筑紫都督府を設置した事実はない
唐が筑紫都督を任命した事実もない
そもそも筑紫都督府という名称は唐側に記録されていない
日本書紀に一度書かれただけの機関
日本書紀編纂に関わった唐からの渡来人が大宰府を筑紫都督府と認識していた可能性が最も高い
>>260 >まあ私は現存してるものが本物だと思ってるけども
ともあれ、現存しているのが本物オリジナルというのは、一番まっとうな考えではあるな
大宰府はそもそも倭国の王都だったからこそ、唐は戦勝後に大和ではなく筑紫を占領したのだろう。
もちろん卑弥呼がいたのも筑紫。
金といえば、畿内スレで話題になってたあさぎり町出土の鍍金銅鏡って、
九州にはあんなすばらしいのがあったんだねえ。。
皇帝・王朝の宝飾鏡と、豪族・土族の三角縁では、同じ神獣鏡でも違い過ぎてお話にならんわ。
いずれ畿内中心に金銀象嵌鏡がぽこぽこ出土するから問題ないさ
>>266 チョンが敗戦国って言いたい為だけに伸ばしたようなものだからな笑
>>270 でもその後唐に朝貢してるから完全完璧に敗戦国じゃない?
そもそも唐はとっくの昔に滅亡し当時の倭国と現代日本じゃ体制が違い過ぎて
うちは負けてないだなんて言い張る意味なくない?
皇国史観が白村江の戦における、倭の敗北を認めたくないからだろう
日本書紀の編纂者より頭が変だわ
>>272 バトルオブフィリピンの例を挙げられてもなお、負けたから敗戦国というのは歴史を知らない朝鮮脳と言われても仕方がない
>>274 降伏してないからな
その後も百済の王子匿ってるし
まあな
「唐にケンカ売った前政権倒したッス。ぼくら関係ないッス。そいつらの敵ッス」
とか言ったから、実を持って答えない連中とか
書き残されちゃったんだよ
いや、
>>277は歴史少し詳しい人なら誰でも知ってるレベルの常識だと思うけど・・
>>280 九州説に、ちょっと歴史に詳しい人
いないから
>>277 ビビって都を移した日本
戦後処理で弱体化した倭国
>>277 正解
倭国と日本国の関係がどの史書でもボカしてあるのは、戦後処理として記紀が書かれたため
仮に九州王権が存在したとしても6世紀後半時には
畿内政権に服属してたのはいろんな文献・物証からほぼ確か
にも拘わらず
>>277のように倭と日本の関係を尋ねても
「彼らの言う事は要領を得ない」と中国王朝の史書に書かれ
東国から招集してまで防人を置いて防塁を築いたってことは
「あんたらが白村江で戦った九州政権と俺らは違うよ」という事にして朝貢したってこと
ぶっちゃけこの時に国号を倭→日本と変えたんだろう
弱体化というか、その後は倭国は歴史から姿を消してしまう。
古事記(712年完成)にはまだ倭の名前は多く登場するが、日本書紀(720年完成)ではその大部分が日本と書き改められてしまう。
(例:倭健尊→日本武尊)
だから金印の話しようぜ金印のよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
>>283が指摘するように戦後処理(主に人質開放と身代金の支払い)で弱体化し、畿内の日本に飲み込まれた倭国という構図は理解できるのだが
中華的な律令制度を踏襲したはずの日本であれば、倭を滅ぼしたまたは併合した事実を「天命の尽きたクソ国家を平定した正しき国家 日本」というヒーロー譚にするはず。
しかし記紀では東征という物語を採択しているのが謎
だから倭=日本で単に国号変えたんだよ、丁度その時期でしょ
日本=倭=邪馬台国とは限らないけどね
てかこの話邪馬台国とは関係ないよね?金印の話しようね?
>>293 全然「だから」になってないな。
日本語の勉強復習してから出直してこい。
>>295 言い方キツ過ぎだよ・・・
>>293くん
「だから」で始めるからには
>>292の焦点である
「なぜ畿内側が筑紫側を征伐した英雄譚ではなく、九州側から畿内側への東征譚になっているのか」
について書かなければ、日本語としておかしいって事を自覚してね。
>>296 神武東征は白村江より遥か昔やん?
祝いの乱・筑紫征伐はちょっと前やん?
なんで邪馬台国のスレで邪馬台国の金印の話を潰して白村江の話するの;;
祝の乱!
デーンパミンジョク! チョチョンガ ホルホル ホルホル
П∧_∧.ミ __ ヽ:::..ヽ チョンチョン! ∧_∧ ∧_∧
∩< `∀´> // i::::::: |Σ ∩ `∀´> ∩ `∀´>
チョンチョン ヾ冫恨 ⌒lつ l:::::::::| ヽ ⊂丿 ヽ ⊂丿
チョン! (__.八 _._ノ._ノ ( ( ノ )) ( ( ノ ))
)_)_) 凵凵 凵
>>299 金印って漢委奴国王印じゃなく親魏倭王印の話じゃないの?
そこ違うでしょ
漢委奴国王の刻印は今の倭は相争って(倭国大乱)大変なので
奴国を倭の国王と認めてくれという希望があったのかもしれない
親魏倭王の刻印は乱が収まり倭族の首長として要望する必要は無かったのかもしれない
つまり当時の狗奴国は倭族とは習俗も違う別種ということになる
まあ委奴国は伊都国だと思うけど
祝いの乱舞!
デーンパミンジョク! チョチョンガ
П∧_∧.ミ __ ヽ:::..ヽ チョンチョン!
∩< `∀´> // i::::::: |
チョンチョン ヾ冫恨 ⌒lつ l:::::::::|
チョン! (__.八 _._ノ._ノ
)_)_) 凵凵 凵
ホルホル ホルホル
∧_∧ ∧_∧
∩ `∀´> ∩ `∀´>
ヽ ⊂丿 ヽ ⊂丿
( ( ノ )) ( ( ノ ))
>>293 邪馬台国は倭の王都だから、倭がどこにあったかは邪馬台国がどこにあったかと同じ議論
>>304 >つまり当時の狗奴国は倭族とは習俗も違う別種ということになる
いや、多少争いがあっても、それを収めるために片方を王に冊封することはある。
>まあ委奴国は伊都国だと思うけど
同意
古墳近畿には纏向遺跡(セレモニーホール)以外には、仁徳難波宮とされる倉庫群の柱穴くらいしか見つかっていない。
つまり巨大前方後円墳だけがあり、王宮がない、つまり倭国王(九州王朝)の奥津城(王家の谷)であり、ヤマト王権など最初からなかったということ。
ヤマトにいた豪族は、物部氏と共に前方後円墳を造っていた九州王朝の豪族の分家に過ぎない(彼らの本家はすべて九州にいた)。
漢委奴国王~帥升〜邪馬台国卑弥呼・台与→崇神~仲哀→応神~武烈→筑紫君磐井(本家)←継体(熊本八代淡海分家)と推移した歴代倭王は、一貫して九州にいた。
南九州分家の継体が筑紫本家の磐井(武烈の息子)を滅ぼしたのが磐井の乱の実態(百済本紀531年「日本の天皇、皇太子、皇子共に死す」)。
唐新羅連合が成立し、倭国の防衛ラインである高句麗百済連合を脅かすようになる飛鳥時代になって、唐新羅の倭国への直接攻撃の現実味が増し、
北部九州にいた継体朝の大臣蘇我氏が欽明皇子とともに大和入りし(神武東征の実態)、
太宰府裏口国東半島から瀬戸内海経由ですぐに脱出できる避難シェルターとして、奥津城(王家の谷)だった大和の飛鳥に天皇の離宮や寺院を建て始めた
(九州王朝・大和分家「ヤマト王権」の誕生)。
卑弥呼以来、倭の五王と続く九州王朝の奥津城・大和で前方後円墳(ピラミッド)を造っていた物部氏と対立したのはそのため。
欽明朝と共に飛鳥宮を築いていった大臣蘇我氏の権力が強くなり、大和分家(欽明朝)を乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智が中臣氏と共に飛鳥に赴いてその実態を確認し、誅殺したのが乙巳の変。
その際、唐新羅連合の倭国攻撃に備えて、亡命百済人に瀬戸内海に朝鮮式山城を築かせていた天智は、飛鳥豊浦では全国支配のためには不十分と感じ、
畿内でも都城(万が一の避難シェルターも)の候補地を物色、最終決定したのが孝徳難波宮652(大津宮)。
記紀が編纂に当たって、漢委奴国王(欠史八代あり)もしくは卑弥呼(欠史八代なし→崇神)の時代に、
天孫降臨(真実)→神武東征(虚構)→大和入り(真実)して大和朝廷(虚構)を建てて日本を支配していたことにするため、
入口(神武東征)と出口(欽明朝東遷→避難シェルター飛鳥板葺宮造営→孝徳難波宮→新益藤原京へ本格東遷)を設定することで、
古代から一貫して倭王権が畿内にあったかのような脳内電波が発生するように画策(倭王武の上表文を参考にした)。
九州の地名(例:阿蘇山→御輪山→三輪山、鯨漁をしていた八代湾淡海→近江)を付けて、奥津城であった畿内全体を「歴史テーマパーク」化していった。
記紀に描かれる飛鳥時代以前の政争や政変はすべて九州王朝内部の主導権争い(内ゲバ)である。
漢委奴国王→帥升→邪馬台国→崇神〜仲哀→応神〜武烈(×筑紫君磐井)と推移した倭王本家を乗っ取った九州王朝淡海(近江)分家・継体以降1500年はおおむね史実とされているため、
天皇家は世界最高権威なのであるが、正確な歴史は下記のとおりであることに留意されたい。
継体朝である九州本家(天智)と大和分家(天武)、天智死後の壬申の乱で弘文(大友皇子)に大海人皇子(天武)が勝つも、称徳で断絶。
天智の子孫である桓武が平安京に遷都して、現在に至る。
継体朝九州本家(倭王)…安閑・宣下〜阿毎多利思比孤〜天智〜弘文〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜光仁〜桓武(平安京)〇
継体朝大和分家(東遷)…欽明〜推古(摂政厩戸)〜天武(飛鳥浄御原宮)持統(藤原京)文武・元明(平城京)・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳×
天智も天武も、継体朝(九州本家・大和分家欽明朝)だから、(実際は九州王朝の熊本八代・淡海分家だった)継体も畿内出身としなければならなかった。。
よって琵琶湖(淡水)を淡海(海水)と名付けたり、北陸を越(熊本分家の継体が孫呉の南にあった越王家末裔だったため)と名付けたりして苦労している。
倭王阿毎多利思比孤が阿蘇山麓の邪馬台に都していたのは、継体の本拠地(九州王朝・熊本分家)だったからである。
後に三輪山に祀られた大物主を祖とする物部氏が臣下の土師氏とともに築いた、関西の前方後円墳は倭王墓であることは定説通り。
箸墓(卑弥呼)西殿塚(台与)〜崇神朝(大ヤマト)応神朝(百舌鳥古市)〜継体朝(今城塚・今井大塚・三瀬丸山)である。
歴代倭王権(九州王朝)が倭国大乱を収め、魏帝に朝貢して倭王に冊封された女王卑弥呼の命令で、
出雲(朝鮮半島から青銅・鉄の輸入販売)&吉備(瀬戸内海の製塩・桃販売)の混血王・大物主(物部氏の租)が、
東海王&北陸王と共に唐古鍵を挟み撃ちにして征服。
奥津城(王家の谷)として、纏向で各地の墓制を合わせた前方後円墳を築いていった(古墳造営キャンプ)。
纏向遺跡は王宮ではなく、倭王権(九州王朝)の陵戸公邸であり、歴代倭王墓の命日祭祀を行っていたセレモニーホールである。
>>308 >多少争いがあっても〜
いや、王朝側の判断じゃなく邪馬台国側が求めなかったということね
>>313 すみません、誰の目にも明白な間違いでしたね
ちょっと寝ぼけてました
>>311 >北陸を越(熊本分家の継体が孫呉の南にあった越王家末裔だったため)と名付けたり
三国時代の呉も列島に調査団派遣してるんだっけ
稲も南からだし古代には南ルートが明白にあったんだろうね
んでこのうちのどれなの?
@ 玄界灘沿岸説 A 甘木朝倉説 B 諫早半島説 C 宇佐説
D 佐賀説 E 熊本説 F 都城説 G 西都原説 H 南九州説 I その他
ニュース板で拡散されてたw
<箸墓古墳のバグ>
2001年12月
「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」
奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、
木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市 教委は三十日、
「輪鐙は四世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具
である可能性が高い」 と発表した。
<馬具研究史より>
樋口隆康「鐙の発生について」(1972)は、中央アジアの騎馬民族に
鐙が出てくるのは7世紀以降であるが、中国では4世紀初頭の騎人俑に
足踏みとしてのみ利用された片側だけにつけられた鐙の存在を指摘し、
中国における鐙の発生を4世紀初頭と推定した。
ここ重要→「中国における鐙の発生を4世紀初頭」
中国よりも先に馬を導入していたと言い張る桜井説w
>>304 中華王朝に附庸国側から印綬を乞うなんて話は存在しない
>>319 いまだに五十年前の説に頼る九州説の悲哀
>>322 三角縁神獣鏡が魏鏡だったら一発逆転もあっただろうけど・・・
>>322-323 中国で見つかれば中国製かも、という話になるんだけど、骨董市ででてきただけだからな
むしろ日本国内ではたくさん見つかっているわけだから、国産品の可能性が高い
少なくとも今のところ中国製を裏付ける根拠は何もなし
これだけ国内で出てきて大陸ではまったく出ないんだから
今の所はほぼ10割がた国産ですよね
今後あっちで出てくる可能性もゼロじゃないけども
誰がどう考えたって邪馬台国は九州以外にあり得ない
畿内王朝が最終的に邪馬台国を飲み込んだとするならば、なぜ神武は畿内に降りず、また東征を行ったのか
葛城に降りて西征したほうが中華英雄譚ぽくなって気に入られるはずなんだが・・・
>>327 こういうと畿内説の人は「下賜用の鏡だから中国大陸では見つかるわけない!」と言い出すんだけどね
わざわざ邪馬台国用に鋳型から作るわけないのにw
むしろ三角縁こそ国産の代表的鏡っていうくらい出てる
三角縁は既に畿内説も九州説も邪馬台国論争においては
気に掛ける必要さえない存在になったよね、なぜ今だにあーだこーだ言うのか謎です
>>332 人の頭の心配するヒマがあったらさっさと首を吊れよ松傾チョン
鏡の研究者は列島外の作製との意見が多い
文献史学者は倭国製との主張
>>334 仿製じゃないと言ってる鏡の研究者って例えば誰がいる?
>>328 頭の病院に行ったほうが良いんじゃないのか?
蛍光X線分析って自分でやってみた人いる?
とんでもなく結果がばらつくんだよな。
スプリング8だと放射光を使う事で精細なデータが取れるんだが、
そのデータを分析して人間向けに形に変えてあげるのは人間の
仕事でさあ、結局はどうにでも表現できるんだよ。
ヒ素入りカレー事件のヒ素分析の件で有名な話だよね。
冤罪の可能性が拭いきれず、死刑も執行出来ない状況。
>>336 川崎の重度統合失調症症患者「松傾チョンコ」は日暮れ前に首を吊れよ
何度も!何度も!何度も!
繰り返し!繰り返し!繰り返し!
「即死しろ!」と命令されているだろう?
むしろ松傾チョンコへのレスは「首を吊って死ね!」以外にないじゃないか
誰にも相手にされてない=存在する意味がないという事だろう?
なぜ素直に命令をを聞いて首を吊ることができないんだ??
いくら無能な統合失調症症患者のヒトモドキとは言え、
日本語くらい読めるのだろう???
これだけ多くの者達に首を吊れ!と命令されているのだから
さっさとセルフ絞首刑を実行しろよ松傾チョンコ
日暮れ前に必ず実行しろ!
必ずだぞ!!!
景初三年の記銘の入った画紋帯神獣鏡(精緻)と三角縁神獣鏡(大味)が出土したということは、倭国内に両者が併存してたということ。
命懸けで渡海&帯方郡経由で朝貢してるわけだから、どう見ても曹魏官製「銅鏡百枚」は前者でしょ。
三角縁は画紋帯神獣鏡の神獣部分(漢字を読めない倭人が有難がった漫画チックな西王母東王父&龍)をコピーし、
(画紋帯の代わりに)弥生近畿の銅鐸の鋸歯紋で囲んで作った国産(関西地方限定→全国販売)鏡と思われる。
日本人の特徴として、伝統品と組み合わせて舶来品を受け入れるイイトコドリがある。
明治のキムラヤあんパンは舶来のパンで、大正のどら焼きは舶来のホットケーキで江戸レトロの「あんこ」を包んだ・挟んだ「1個で2度美味しい」和菓子w
最近暴走事故多発のプリウスは、高速域の加速に優れたガソリンエンジンと低速域の瞬発加速に優れた電気モーターを組み合わせた「1台で2度美味しい」ハイブリッド車。
三角縁神獣鏡は、魏帝下賜の(画紋帯)神獣鏡(ありがた〜い部分)を弥生近畿レトロ(銅鐸)鋸歯紋▲▲▲帯で囲んた「1枚で2度おいしい」(国内の支配者向け)副葬用国産鏡じゃないかな。
>>339 >最近暴走事故多発のプリウスは、
まぁ、畿内説というのは、歴史学における池袋の自称「上級国民」老人暴走事故みたいなもんだからな
>>340 今となっては、まったく無意味だったことだけがわかる。
倭人伝行程記事の 至と到のちがい
「従郡至倭、循海岸水行歴韓国、乍南乍東、到、其北岸狗邪韓国」
この「到る狗邪韓国」の前には、「乍南(途中左折して)乍東・・」が入っている。
これに関連し、筑紫島上陸後の第一歩を北東の糸島平原へ踏み出せば、難路ではあるが一本道で右折左折はない。
前出事例に照らして「到るイト国」という記述に適合しているようには思えない。
しかしここを、前出「乍南乍東、到る狗邪韓国」に倣って読めば、
まず、唐津中原港から松浦川沿いの唐津古道を南に下り、途中多久邑で左折して、さらに佐賀楠大路を東行し、
東南陸行500里で佐賀川上(の伊都国)に到る・・、と読める。
つまり「到る」の場合は、行程中に右折/左折など、大きく曲がる地点が含まれることを示す用法だったのではないか・・。
実際のところ北部九州で出土してる八連弧文鏡(内行花文鏡)が卑弥呼の鏡だろ
大型八連弧文鏡を知ったときは決定打だなって思ったのに、あんまそういう風潮にならないことが不思議でたまらない
西暦200年頃という(やや根拠の薄い)年代比定を、2世紀後半などとすり替えて宣伝する姑息なキナイコシという悪人がいるよ。
>>344 鏡の仕様に関する記述が無いから決定打には出来ないね。
何らかの特徴などか記載されていればいいんだが。
卑弥呼の治世における倭国王権の所在地を知るには十分だろう。
>>344 鏡だけで倭国王権の所在地www あほ決定
>>346、347、349
必死すぎ
しかも>347はsage消し失敗してて草不可避wwwwwwwwww
>>344 ・・・ぜひご参考に
伊都国歴史博物館(1)平原遺跡
(原田大六展)
>左が原田氏が復元した大型八連弧文鏡の表で46,5センチ。
>右がその裏側。
>(今回は国宝ばかりのためにブログに写真は出せません。
そこで、原田氏の本の表紙を掲載します。)
>左の鏡の表面を見るとひび割れ程度にしか見えませんが、
>右の裏側写真を見ると、その破砕ぶりのすごさが伺えます。
>よくみると、型から抜いた後の、ガタガタした表面が残っているので、
>この鏡は磨かれていなかったんではと思うのですが・・・。
「実際のところ北部九州で出土してる八連弧文鏡(内行花文鏡)が卑弥呼の鏡だろ」
卑弥呼の鏡という場合、通常は卑弥呼が魏の皇帝から下賜された銅鏡100枚を指すんだが?
大陸には絶対に存在しない、伊都国でだけガラパゴス進化した46センチ鏡が
魏からの下賜鏡の可能性はゼロだよ
>>352 >大陸には絶対に存在しない、伊都国でだけガラパゴス進化した46センチ鏡が
>魏からの下賜鏡の可能性はゼロだよ
ということは三角縁神獣鏡が魏からの下賜鏡である可能性もゼロですね
漢が滅亡したから、卑弥呼としては魏の鏡にそれほど意味を見出さず、独自の大型鏡を製作したのかもね。
>>348 じゃあ、この鏡が出土した時期には、山口に倭王が居たのかな?
「鼉龍鏡」44.5センチ 山口 柳井茶臼山古墳
平原1号墓以降では、これが最大の銅鏡なんだけど?
しかも半肉彫りで平原の46センチ鏡よりも、製作技術が高い
>>354 だったら、そもそも魏に朝貢する意味がないんじゃないか?
魏からの鏡に意味がないなら、魏に聴講する意味が最初からないことになる
>>356 攻め込まれたら困るから、友好は結ばないと。
しかし国内的にはすでに漢や魏の権威に頼る段階ではなかったのだろう。
>>351 中途半端な引用ほど役に立たないものはない
ちゃんと出典をリンクさせるなりしろよ無能
八連弧文鏡(内行花文鏡)っていまのところ何枚見つかってるんだっけ?
>>359 いまどき、「原田大六 鏡、平原」とか、
「引用文の一部」とかを張り付けて検索すれば、たちどころに出てくるよ。
大昔の学術論文の引用文献とはまるきり違う、瞬間検索の大革命時代だね。
連弧文鏡ってだけでいいなら、やたらたくさん出てるよ
三雲南小路遺跡王墓から出た鏡も、相当数が連弧文鏡だし
ただし面径が20センチを超えるものはないし、女王墓の方では
面径10センチ以下のものばかり
熊本県球磨郡あさぎり町の遺跡
「6世紀-7世紀の才園古墳(さいぞんこふん)出土、鎏金獣帯鏡」
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12313557213.html もともと4基の円墳があったとされるが、現在は2基のみ。
昭和13年に2号墳から、刀剣、玉、馬具類、鏡などが発見され、特に金メッキされた鎏金獣帯鏡が話題となった。
直径 11.7cm、厚さ 3mm 青銅鏡(白銅鏡)の背面全体に分厚く鍍金(国指定重要文化財)
中国の鏡の研究者である王士倫氏によると、三国志時代(3世紀)に中国の江南地方(呉の領域)でつくられたものという。
鍍金鏡は中国でもたいへん貴重なもので、日本では3枚しか出土していない(福岡県糸島市・一貴山銚子塚古墳、岐阜県三野・城塚古墳)。
相当の実力者の墓とみられる。
3世紀の中国でつくられたものが、同国内で伝世した後、海を渡って球磨郡にきたのか、それとも3世紀ごろに球磨郡にやってきて、伝世したのか。
球磨郡は狗奴国の候補地でもあるが、
邪馬台国に対抗するため呉と連携をとっていた可能性もあり、注目される出土品である(熊本市立博物館所蔵)
邪馬台国畿内説を完全に論破されたキナイコシや#okuyamaや韓国人100パーが、呟き荒らしのキャラクターで出現したり、意味のない悪口を言い放つことがあっても、この邪馬台国九州論のスレッドでは相手をしないほうが良いな、、、
>>365 確かにw
ところで、その奥山って何者なの?
>>363 >「八」連弧文鏡って何枚?
そういうの調べてる人っていないんじゃないかな
とりあえず、三雲南小路の女王墓の10センチ以下のだけで12枚はあるよ
>>358 >攻め込まれたら困るから、友好は結ばないと。
海を渡って攻めてくるなんてことはないよ、3世紀の大陸王朝がww
九州説はいつも妄想ベースだから適当w
#okuyamaは、◆UiepmfCeDJqfがその前に使用していた、固定ハンドル用のトリップキーです、、、
>>358 >攻め込まれたら困るから、友好は結ばないと。
友好は結ばないと、といいつつ、友好の証の鏡はバキバキに割ったり、
鋳潰してほかの鏡にしたと主張できるお花畑脳がすごいと思うのww
それ、知られたら相手は大激怒だよねww
今、韓国がそれと同じようなことをやってるけどさw
倭地に(高速移動できる)牛馬(直線道や駅伝制度も)なし
纏向遺跡に文字の痕跡(硯の出土)なし
こんな状態で大和に居てどうやって北部九州経由で大陸からの情報を得、適切な命令を下せるのか?
>>312 >卑弥呼の命令で、
>奥津城(王家の谷)として、纏向で各地の墓制を合わせた前方後円墳を築いていった(古墳造営キャンプ)。
>纏向遺跡は王宮ではなく、倭王権(九州王朝)の陵戸公邸であり、歴代倭王墓の命日祭祀を行っていたセレモニーホールである。
北部九州にいた倭王墓を大和盆地→河内平野に築いた理由は、農閑期の失業対策だろう。
倭国大乱に懲りて、2度と戦争エネルギーに向かわないため、巨大王墓建設現場を列島の中心・大和盆地に作れば、
全国各地の出稼ぎ農民たちを集めやすく、毎年コンスタントに仕事があるので、秋の収穫から春の田起こしまでの農閑期の約半年弱、飢えさせないことができる。
戦国時代に信長・秀吉・家康が安土城・大坂城・伏見城を建設して全国の大名に手本を示し、民のエネルギーを戦争からへ民力を向かわせ、天下を統一したのと一緒。
今でも青森県のりんご農家は雪に閉じ込められる冬の間、首都圏の道路建設現場に出稼ぎに来る。
>>374 最近、世界中で大型公共施設の建設は失業対策って説が増えてきてるな
古墳もそんな感じだったんかもね
古墳の大型化は農業技術の向上とともに開墾で溜まった土砂のリサイクル利用という側面があったと聞く
>>375 エジプトのピラミッドはあのくらい大きくないと、毎年コンスタントに仕事をあげられなかったから、という説もあるくらいだから、
古墳時代の倭国も、巨大な前方後円墳をたくさん造る必要があったのかもね。とある計算では、数からみて、大王即位じゃなく、立太子されたらすぐ造り始めてたことになるとか。
倭王権のある北部九州(人口密度が日本一高い)じゃそんな土地ないし、大和盆地なら本州のほぼ中心地だから、出雲、吉備、北陸、東海からの農民を集めやすかったからジャマイカ?
>>377 > 本州のほぼ中心地
これさえ言わなければ良かったのにな
>>310 >>377 飛鳥時代になって、九州本家太宰府にいた天智天皇が東遷してきたからこそ、
今度は逆に、新たに首都圏となった大和盆地が手狭になり、薄葬令を出して、天皇陵や豪族の墓を小さくしてスペースを確保しようとしたのかもw
>>368 >海を渡って攻めてくるなんてことはないよ、3世紀の大陸王朝がww
楽浪郡と交易していた卑弥呼配下の倭人たちは、公孫氏が滅ぼされるのを見ていたはず。
可能性が低いとはいえ、まったくあり得ないとは言い切れなかったはず。
ただし幸いにも、魏も呉との対立に追われて、倭を仲間にした方が良かったのだろう。
魏志倭人伝は倭を友好的に書いているが、倭の方がどうだったのかはよくわからない。
卑弥呼は中国からの贈り物にホクホクだったろうけど。
(平原遺跡の副葬品は中国趣味だから)
北部九州 大和飛鳥
弥生時代 首都(奴国・伊都国) ド田舎(唐古鍵)
━ 倭国大乱 ━
古墳時代 首都(邪馬台) 奥津城(纏向)
━唐新羅連合の脅威・仏教伝来━
飛鳥時代 副都(太宰府) 首都(板葺宮・浄御原宮・藤原京)
>>381 おおい、全長50キロに及ぶ羅城を持つ大宰府は東アジア屈指の文字通りの王都だが、ポツンと立つ板蓋宮は王都ではないぞ。
(大宰府とは天子が政を行うところという意味だとか)
福岡県教育委員会、九州歴史資料館、太宰府市教育委員会、筑紫野市教育委員会によって
条坊施工想定範囲内での発掘調査が断続的に行われており、現時点では下記のような成果を得ている。
(1)政庁第1期に対応する7世紀段階では、条坊の存在に結びつくような遺構は確認できない。
>>310 古田信者さん、相変わらず電波を飛ばしてるね
日本書紀の記述が全て史実だとは思わないけど
古田武彦よりは日本書紀の編纂者の方が真ともだわ
>>236 >近くの神社ではなく、糸島市の細石神社が保管していたという口伝がある。
その「口伝」って言うのがねぇ
日本人は記録魔なのに、文書化したものが一切ないってことは、
ごく近世に思いつきで言いだしたやつがいてそれが口伝てことにされてるだけなんじゃないか?
細石神社って、小さな神社だし
>>241 >にせもん説が出ること自体、国宝失格
それだとどんな国宝でも偽物説をでっち上げれば貶めることができるっていう考え方だなw
日本人の発想ではない
>>257 >中国の偽造専門団に任せとけ
中国の偽造団なら金無垢(金95%)でなんて作らないよ
偽造団に夢を見過ぎw
>>308 >まあ委奴国は伊都国だと思うけど
光武帝の頃の上古音で委奴をイト、イドと読むのは無理
>>324 >中国で見つかれば中国製かも、という話になるんだけど、骨董市ででてきただけだからな
中国でも普通に出てるよ、「斜縁」神獣鏡がね
そして日本で出る三角縁神獣鏡とまとめられる銅鏡のうち最初期の舶載鏡とされるものは
斜縁神獣鏡
つまり日本出土の「斜縁神獣鏡+三角縁神獣鏡」がすべて三角縁神獣鏡と呼ばれてしまっていて
大陸で出る斜縁神獣鏡との関係が見えにくくなっている
大陸で出る斜縁神獣鏡が日本でも出るというシンプルな話なんだけどな
>>339 >弥生近畿の銅鐸の鋸歯紋で囲んで作った国産
鏡背の外周部の鋸歯文は、大陸でも普通にある
方格規矩鏡にも普通に鋸歯文付いてるよ
>>386 もう糸クズのスレで論破された些末なネタの一つでしかないからな
>>374 まぁ、農閑期の(出雲・吉備・北陸・東海、特に日本海側は雪に閉ざされる)農民は道なき道を何週間もかけて大和盆地に歩いてくんだから、
毎年確実に建設作業を提供してやる必要があったんだろうね。せっかく苦労して行ったのに「今年は仕事はない」じゃ暴動になってしまう...orz
だからピラミッドも前方後円墳も巨大化し、同時に複数造らざるを得なかったのかも。
>>395 >卑弥呼の鏡は鍍金鏡
卑弥呼の鏡が(前期古墳から出土する)鍍金鏡であった可能性はある(もちろん、画文帯より仕上がりが稚拙な三角縁でないことは確かだがw)
ただ、鍍金鏡は宝飾銅鏡として最高ランクではなく、金銀象嵌鏡が最高ランクだそうだ
「三角縁神獣鏡と卑弥呼の鏡」西川 寿勝 日本考古学 6(8), 87-99, 1999
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonkokogaku1994/6/8/6_8_87/_article/-char/ja/ 倭女王(卑弥呼)本人もしくは男弟に近い倭王権幹部用が金銀象嵌細工を施した宝飾鏡で、
「還到錄受、悉可以示汝國中人、使知國家哀汝」とある、各地の王(豪族)用がの鍍金鏡という可能性もありそう
兵庫県立博物館より
www.hyogo-koukohaku.jp/kodaikyou/modules/mirror/index.php?action=PageView&page_id=137
鰭(ひれ)状の装飾をもつ大きな神像と、その両側の二獣の三像が一つの単位紋様となっており、
それが中央の鈕(ちゅう)を挟んで向かい合って対置することから、「対置式」と呼ばれている。
紋様は、漢代に流行した陰陽五行説や神仙思想に基づいた様々な神仙や霊獣が半肉彫りで表現されている。
日本では、主に古墳時代前半の古墳から出土する例が知られている。
鍍金は、水銀に溶かした金を塗り、加熱して水銀を蒸発させることで金メッキするという技法(金アマルガム法)で行われた。
>>395 邪馬台国と狗奴国と戦争したあと、合併していたとしたら熊本にあるかもしれないな。
>>398 邪馬台国熊本説の根拠=隋書東夷倭国伝より
俀王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雞彌
王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子爲利歌彌多弗利
有「阿蘇山」 其石無故火起接天者俗以爲異因行祷祭 w
聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法 其國書曰 日出處天子致書日沒處天子無恙云云
夷人不知里數但計以日 其國境東西五月行南北三月行各至於海 其地勢東高西下都於「邪靡堆」 則魏志所謂「邪馬臺」者也 w
>>398
才園古墳(さいぞんこふん) 6世紀-7世紀 横穴式石室
卑弥呼の時代ではない。 @阿波 >>399
>邪馬台国熊本説の根拠=隋書東夷倭国伝より
根拠がお粗末すぎ。 恥ずかしいレベル。 @阿波 >>399 邪馬台国の所在地を、随書の記述に求めるのは年代が違いすぎる
邪馬台国、筑後国山門郡説(福岡県南部)を支持する
>>403
>邪馬台国、筑後国山門郡説(福岡県南部)を支持する
これも恥ずかしいレベル。 @阿波 熊本にそんな大きな遺跡はない。
大きい都市といえば、大宰府。
>>401 家宝として引き継がれていたかもしれない。
>>406
かもしれない程度。 根拠がお粗末すぎ。 恥ずかしいレベル。 @阿波 >>408
その反応もお粗末すぎ。 恥ずかしいレベル。 @阿波 「呉をけん制するため意図的に呉の東に有ると改ざんされた」説を採り
「地図・地形」からアプローチしてみる
奴国(博多付近)までは概ね合致、そこから
・東へ100里で不弥国 南へ水行20日で投馬国 南へ水行10日+陸行1月で邪馬台国
・自女王國以北、其戸數道里可得略載(女王国の北は略載可能)
このことから投馬国・邪馬台国は奴国・不弥国と「本来ほぼ隣接してた」とする
(続く
(続き
奴国2万戸 福岡平野
不弥国1000家 宗像方面or大宰府付近
投馬国5万戸 大宰府南、筑紫平野北部
邪馬台国7万戸 筑紫平野大部分 筑紫大和郡 帯方郡より1万2千里以内に合致
狗奴国 熊本平野 狗奴国=熊国 狗古智卑狗=菊池彦
米の生産力=人口=軍事力
広大な平野を有する筑紫の邪馬台国、熊本の狗奴国が強国となり
その地域の覇権を争うのは不思議じゃない
仮に不弥国=宗像方面、水行=投馬国より本州方面とすれば
その当時広大な筑紫平野に存在したであろう人戸を無視することになる
邪馬台国=機内とすれば南の狗奴国は伊勢or名古屋辺りになるのだろうか?
>>411
>広大な平野を有する筑紫の邪馬台国、熊本の狗奴国が強国となり
根拠がお粗末すぎ。 恥ずかしいレベル。 @阿波 >投馬国5万戸 大宰府南、筑紫平野北部
投馬国の所在地は日向国(宮崎県)だわな
>>412 三国志が書かれた時代は晋の時代、呉の滅亡直後
参考・引用したのは魏の時代の公文書を含めた書物
238年 邪馬台国遣使開始
280年 呉の滅亡
280-297年 三国志執筆
>>416 >「呉をけん制するため意図的に呉の東に有ると改ざんされた」説
成り立たないよね
>>417 当時魏と呉は覇権を争い大陸東北部の公孫氏政権と駆け引きをしていた
魏の宮廷にも当然呉と繋がっていた間者は幾人か居ただろう(戦争とはそういうもの
そして実際呉は日本列島に向けて調査隊を派遣してる
「呉をけん制するため意図的に呉の東に有ると改ざんされた」
つまり「水行20日・水行10日陸行1月」を「陸行1日・陸行2日」にでもすれば
残された文献・考古学的遺構・地形的な可能性・想定し得る情勢とほぼ全てが合致する
簡単でした
>>419 魏王は武王だったから数字は大きく報告されてた。
とかね。
そんなわけで俺の中での邪馬台国の真実は確定したが
「呉へのけん制のために位置を改ざんされた」という仮定に納得する者は多くないだろう
すなわち邪馬台国論争はこの先永遠に続いていくのだ
しかし、それもまた、歴史のロマンであろう
完
>>422
>すなわち邪馬台国論争はこの先永遠に続いていくのだ
時間の問題だよ。 @阿波 >>424
マジだよ!?あわあわわわわ・・ @阿波 >>420 >280年 呉の滅亡
>280-297年 三国志執筆
バカなの?
>>425 なんでこっち来るんだよw
あっち行けよw
>>427
>なんでこっち来るんだよw
邪馬台国九州説がおもしろいから。 @阿波 そもそも帯方郡から1万2千里と水行〜が矛盾してるんだわ
どちらかが間違ってるのは明白
>>430 方角はともかく距離なんて適当。中華大帝国が異民族の国に行くまでの距離をきちんと測るわけがない
漢の歴史書見ても方角はともかくとして朝貢国までの距離は結構いい加減
同じように金印渡したクシャーナ朝と同じような距離に設定しただけだろ
三百年前から現物(写本)研究してる奴らが導き出せないんだから、二次活字研究しかできない俺たちに答えが出せるわけがない
度量衡は時代によって変わるし、地方政権が独自の度量衡を使ってた可能性もあるからね
方位は時代や場所で変わらない
短里の1里が80mで解決だよ。
>>434 今の時代はインターネット、コンピュータの検索能力が高いから
素人でも昔の学者以上の情報が簡単に得られるよ。
纏向は過去にすでに発掘されていたという形跡は無いのかな?
なんであんなにスカスカなんだろう?
史書には倭国大乱の記述がある
なぜ数千年縄文時代を平和に暮らした弥生時代の倭人は国を競って争ったのか?
答えはもちろん富の集約と人口問題だ
稲作が始まり富が集中し管理する権力者が生まれ人口も増える
広げる土地があるうちは戦争にはならないがそれも限りがある
倭国大乱は土地で養える人口が限界に達したのだろう
すなわち大乱を経た卑弥呼の時代には九州の平野部には
基本的に大きな人戸=クニがあったとみていい
(続く
(続き
つまり筑紫平野・熊本平野・宮崎平野には大きなクニが存在した
仮に筑紫平野・熊本平野の政権が相争い決着を付けたとするならば・・
宮崎平野のクニは大きな圧迫を受けることになる
ヤマト王権の故地、神武東征・・・
ひょっとすると記紀に伝説として残された記述は大部分、真実なのかもしれない
>>439
>なぜ数千年縄文時代を平和に暮らした弥生時代の倭人は国を競って争ったのか?
西日本一帯が弥生の大洪水によって、灌漑稲作が壊滅状態になったからだよ。 遺跡が証明している。 @阿波 >>440
>つまり筑紫平野・熊本平野・宮崎平野には大きなクニが存在した
その痕跡遺跡なし。
>ひょっとすると記紀に伝説として残された記述は大部分、真実なのかもしれない
だから、記紀は倭国(阿波)国内の記述だと、何度言えばw @阿波 「自郡至女王國萬二千餘里」が狗奴国の紹介の後にポツンと
書かれているのは、写本する際の誤写じゃないかな。
本来は「水行十日・陸行一月、自郡至女王國萬二千餘里。」と
総行程として記述されていたのではないかな?
>>443
違うよ。 行程記述とは別にポツンと書かれているのは、行程記述とは別項目だから。
帯方郡から女王国までの距離が、「直線距離」で一万二千余里を記述したもの。 @阿波 >>444 当時の技術で帯方郡と女王国の直線距離を測れるとは思えんけどな
>>444 女王国に属さなかった国の後に、女王国まで、と記載するのはおかしいだろ?
邪馬台国の紹介のすぐ後に記載するなら自然だが。
>>445
>当時の技術で帯方郡と女王国の直線距離を測れるとは思えんけどな
たしかに、測量技術は不明だが、世界地図に日本国が書かれているのも事実。
なんらかの測量技術があったのだろう。 @阿波 >>446
>女王国に属さなかった国の後に、女王国まで、と記載するのはおかしいだろ?
だからなおさら、各行程記述とは切り離した。 直線距離を言いたかったから。 @阿波 >>415投馬国は天草だぞ
しかも昔の地震の前の三角半島は倍以上
大きかった
半分以上が海に沈んだと地質学者が言ってたぞ
誰かはわすれたが
>>449 雲仙が大爆発して有明海で津波が起きた話かな?
>>445 水行1日を大まかに千里としているらしいぞ。
>>445
>当時の技術で帯方郡と女王国の直線距離を測れるとは思えんけどな
たしかに、測量技術は不明だが、世界地図に日本国が書かれているのも事実。
なんらかの測量技術があったのだろう。 @阿波 >>452 さすがに3世紀の日本が描かれた地図なんて残存してないんだから、想像の域をこえないよ?
単に行程を累積したらざっくり万二千里だったと判断したんじゃないかな。
>>453
>さすがに3世紀の日本が描かれた地図なんて残存してないんだから、想像の域をこえないよ?
3世紀も江戸時代も、さして測量技術の進歩はないんじゃないかな。 光学機器が発明されるまでは。
手漕ぎ船から帆船に替わったような技術革新は、測量技術においては、なかったのでは? @阿波 忌部は穢れ処理の氏族 現代の屠殺業、精肉業、葬儀屋
阿波忌部は屠殺業、精肉業、葬儀屋の下請け清掃員
>>454 以前にも気になって調べたことはあるんだけど、とても実用的とは思えないものだった
↓
西暦220年〜400年: 指南車についての諸説と指南魚.
中国では大昔、すでに“指南車”という方位を示す
機械製品が作られ、実用化していました。
https://www.jasnaoe.or.jp/mecc/fushigi/report/report028.html >>455
維新を除名された丸山氏 以下だね。 @阿波 畿内は三角縁神獣鏡が多数出土
卑弥呼の時代三世紀からの前方後円墳が存在
魏志倭人伝に書いてる邪馬台国までの距離を辿ると赤道越える
おまけに場所は九州や畿内のどちらでもなく台湾や沖縄辺りと書いてある
文献的に九州説は否定され考古学的証拠では
畿内が邪馬台国という事実を示している
想像して欲しい、2万年前日本列島は無人だった(現生人類としては、無人ということで)
そこに縄文人が流入し1万年の長きに渡り漁労採取で生活していた
想像して欲しい、稲作が伝わったその時人々は富を集約させクニを形成したのだ
ヨーロッパでは地中海交易を中心とした都市国家が形成された
島に平野が点在する弥生期の日本列島では平野国家が形成された
私はこの平野国家説を推したい
すなわち古代九州において覇権を握ったのは筑紫平野王権なのだ!
なんつって
基本的には海洋国家だよ。
後漢書は対馬海峡の北岸から南岸までを倭としている。
考古学的には、玄界灘沿岸が弥生稲作文化の成立の地だ。
その王都として栄えたのが博多湾沿岸だ。
>>459 >畿内は三角縁神獣鏡が多数出土
三角縁神獣鏡は国産の鏡なんですが
たった今畿内説スレで
三次元世界で四次元なんか書けるわけねーだろwww
と豪語してノーベル脳みそ一次元賞を受賞された方が出ました
表彰したいので畿内説スレへお越しを
大まかに言ってフルタ・ヤスモツは博多湾岸説といえるだろうな。
>>461 福岡平野=奴国を筑紫平野=邪馬台国が押さえたんじゃないかなあ
漢に朝貢したのが海洋国家で覇権を握っていた福岡平野の奴国、
騒乱を収め魏に朝貢したのが豊穣の祭祀を司った筑紫平野の邪馬台国・・・と考えられる
>>465 言い換えると、筑紫の天孫族が王位から転落して、肥国王家から卑弥呼が共立されて伊都で倭国王に即位したんだよ。
魏志倭人伝によれば倭の小国家群で王が居たのは伊都国、邪馬台国、狗奴国
卑弥呼の時代に、奴国に王は居ないわけだ
かつて半島・九州北部で海をまたいで大陸との交易で先進地域として覇権を握った海洋国家奴国
しかし食料生産力自力の差が出てしまいやがて筑紫の国家に敗れ
その王族は九州の北の果てに逃れそこに王権の証たる金印を隠した・・
うん、ロマンだね
>>467 奴国に王墓が作られたのは前漢の頃だ。
後漢では伊都国に移っている。
金印をもらったのは伊都国の三雲南小路遺跡の頃だよ。
倭奴国とは、奴国ではなく、魏の時代に伊都国と呼ばれることになる糸島平野だよ。
奴国の王家というのが、別スレで取り沙汰されている綿津見、住吉、安曇などの海神達だ。
そこに天孫族がやって来て、筑紫の日向の向こう側、つまり伊都国が王都となり、金印をさずかった。
なぜ伊都国(倭奴国)の王家が天孫族だとわかるか?
伊都国の王墓の始まりである三雲南小路は、祭殿である細石神社の祭神が木花咲耶姫なのだが、実は三雲南小路遺跡は王と王妃の墓だったので、片方がニニギだったというわけ。
狭ま〜い糸島平野を買いかぶり過ぎだ
糸島平野は、博多奴国・王家の谷の西の末端。
伊都国の王家が天孫族だとすると、記紀の日向三代なので、魏志倭人伝の男王70〜80年にピッタリ。
倭国大乱で神武が筑紫を出て、代わりに伊都で倭王となったのが卑弥呼。
鴨男が言うように、神武と卑弥呼が同年代でピッタリ。
>>476
>倭国大乱で神武が筑紫を出て
だから、神武はどこへ出ていったんだ? ジメジメした山に囲われた奈良盆地かね?
東遷説は、いつも尻切れトンボ。 @阿波 九州説は文献的に否定され
考古学的な根拠もないので畿内説に負けました
>>478
いや、九州説は文献的に否定され
考古学的な根拠もないので倭国(阿波)に負けました。 @阿波 3次元上には、クラインの面を、交差部分を誤魔化さずには、作製できないな、、、
463日本@名無史さん2019/05/24(金) 18:11:21.35
たった今畿内説スレで
三次元世界で四次元なんか書けるわけねーだろwww
と豪語してノーベル脳みそ一次元賞を受賞された方が出ました
表彰したいので畿内説スレへお越しを
>>480 クラインの面とは、呼ばれていないのでは、ないのかな、、、
三次元世界で四次元を表現するためには、次元を2次元に一段下げて、文章にすれば良いな。。。
魏志倭人伝時代、南北に真っ直ぐではない方向に、長く移動したときの直線距離は、日食や月食を利用して、測ろうとした可能性があるな、、、
>>483 魏志倭人伝時代、中国人も倭人も、地球が丸いことや、太陽や月が、どこにあるか判らなかったのではないのかな、、、
>>484 魏志倭人伝時代、中国人も倭人も、地面が平だと誤認し、太陽や月がどの高さを回っているか、間違えたまま、南北に真っ直ぐではない方向に、長く移動したときの直線距離は、日食や月食を利用して、測ろうとした可能性があるな、、、
継体期や壬申期に王朝交代説とか流布されてるけど
記紀等が本当に隠したい事実は九州王権からの畿内遷都だろうね
わかってしまえば実につまらぬ事実よ
九州説はほんとに日本の歴史を知らないんだな
驚くわ
なんでわざわざ日向から畿内に東征したの?ってことだよ
北九州政権に圧迫され畿内に逃れたんだよ
その後北九州政権は半島に侵攻する、東の蛮地なんかより
資源も豊富で先進地域である大陸との要衝攻めるのは当然だ
>>488 応神天皇(神功皇后)も九州から大和に攻め込んで兄の麛坂皇子と忍熊皇子を倒している
ここで王朝交代があった可能性もある(井上光貞説)
>>492 但し、麛坂皇子忍熊皇子が本当に応神天皇の異母兄だったかは分からない
応神天皇は実在したとしても謎が多い
応神王朝が崇神王朝を倒して、自身の権威付けの為に宋に朝貢して
倭国王に冊封された可能性もある
応神天皇が仲哀の子ではなく、武内宿禰の子だという疑いは古来からあり、記紀は仲哀の崩御から十月十日を過ぎて生まれた理由について、神功皇后が朝鮮出兵中に石を抱いていたからだとしている(あり得ない)。
神功皇后と武内宿禰は、出兵前に仲哀の皇后と皇太子を滅ぼしたというのが真実だろう。
このあまりに都合の悪い話から、応神天皇を非実在の架空の人物にしてしまおうとする輩もいる。
>>491 >なんでわざわざ日向から畿内に東征したの?ってことだよ
>北九州政権に圧迫され畿内に逃れたんだよ
その日向は伊都国のことだけどね。
神武らは倭国大乱に嫌気がさしたか、負け込んできたから、筑紫の日向を離れたんだろう。
その後に新たな北九州政権、つまり邪馬台国が成立したのだろう。
キナイコシが主張していたように、三雲南小路遺跡の一族と、平原遺跡の一族は違う。
つまり、伊都国の中で、倭国大乱の年代を挟んで政権交代があったんだよ。
平原遺跡は倭国大乱の後の女王墓であることは、概ねほとんどの人が認めているわけだし。
>>499 平原は隅々までちゃんと調べたんだろうか
殉葬の形跡とかは無かったのかな?
骨は溶けてしまうので、殉葬があってもわからない。
しかし痕跡があったと主張する人もいる。
「日向は伊都国だ」「倭国女王墓なのは確実だ」と言い切るのは別にいいんだけどさ
理由とかちゃんと解説してもらわんとね?
端から否定する気はないが、自分の頭の中で構築された常識言い張るばかりじゃしょうがないからね?
>>501 殉葬があったと書いてあったよ。
ただし100人はないだろうと。
本当に平原遺跡に奴婢を百余人も殉葬することができたのかどうかに関しては疑問の余地がある。
複数の被葬者を同じ方形周溝墓に埋葬する例は、九州では数多く見られるものの、平原遺跡全体の
広さから考えて、百余人も殉葬しようとすると、かなり窮屈になったことだろう。ともあれ、
殉葬の痕跡があったということで、平原遺跡が卑弥呼の墓である蓋然性は、高くなった。
>>503 別のスレで何度も書いたから知ってて当然と?
バカかよ、自説推したいならちゃんとやれ
祇園山より確率高いとか
久留米市御井町にある祇園山墳丘墓(通称、祇園山古墳)が卑弥呼の墓だと言う人もいる。
墳丘墓の対角線は約30-35メートル、高さは約5メートル、槨はなく、第一号甕棺の周辺には
多数の殉葬用の小型墓があった。また、第一号甕棺からは成人女性の人骨が出土している。
だから、卑弥呼の墓であるための基本的条件を満たしている。しかし、第一号甕棺内には、
画文帯神獣鏡片があったことから、卑弥呼の墓ではないことがわかる。
墳裾から土師器や須恵器が出土したことも併せ考えるならば、築造は、3世紀後半以降であろう。
ゆえに、現時点で最も有力な卑弥呼の墓の候補は、平原遺跡1号墓であるということになる。
【筑紫の日向】
筑紫の日向は、しばしば宮崎県のことだと誤解されるが、福岡県のことである。
筑紫の日向の小戸の阿波木原はイザナギが禊をしたところとされており、福岡市西区小戸に比定されている。
この禊で生まれたのが博多に祭られる住吉三神や志賀島に祭られる綿津見三神である。
博多湾沿岸は、倭国の王権の発祥の地として知られている。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とある。
福岡県の高祖山の南側は、別名をクシフル山とも言う。
「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべしと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」
(福岡県地理全誌抜萃目録、恰土郡之部)
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生墳墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の高祖山なら、福岡平野と糸島平野の間にあり朝鮮半島に向かう博多湾に面している。
最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前1〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(1世紀頃の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、その中に高祖神社がある。その原型が記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の日向にあった伊都国が倭国の王都であり、高祖山の高千穂宮が倭王である天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の王城である。
伊都国は邪馬台国の首都じゃないし日向は普通に宮崎かな
卑弥呼の墓も平原では文献と規模が違うし
魏志倭人伝の奴国までの道程の定説に反するには、ちょっと弱いね
伊都国をどこにするかで九州邪馬台国の所在地が決まってくる
定説通り糸島とするのか、それとも東南という記述を重視して糸島以外に置くか
まずここが議論されなくてはならんな
昨日呉へのけん制のための改ざん説書いたんだけど
水行〜の部分を短くするだけでほぼ全てが合致するんだよね
地名の符合、方角、人戸と平野の大きさ、残された遺跡、
奴国までは定説通りだし距離と陸行か水行か以外合致する
決して飛び抜けた話じゃないと思うんだけどなあ
でも陳寿が三国志を書いたのは呉の滅亡後なんだけどな
呉の滅亡が280年
三国志は大著だから、陳寿はそれ以前から書いていたと思うが
中国の史書は前王朝がなくなってから書くのが慣例で
陳寿が三国志を完成させたのは280年代と考えられている
だから、陳寿自身には呉を牽制する意図はない
もし呉を牽制するような内容があったとしたら
陳寿がそのことを知らずに文献を引用した場合くらいだろうな
改ざんというか呉をけん制し惑わすための偽の記録だね
それを陳寿が引用したということ
もちろんおそらく陳寿は歴史家として先達司馬遷に並ぶべく
国史のつもりで書いたのだろうから記録者が生存してるならば
出来得る限り確認したのではと思うけどね
それでもおよそ30年は経過しているから・・ね
1万2千里と水行〜の矛盾と女王の都までは戸数・道程を
詳細に書けると言いながら不弥国から大雑把な行程の矛盾
水行30日陸行1月かけて途中に他に国は無かったのか?
それなのに遠く隔たった国々を名前だけではあるが多数記述してる
邪馬台国が遣使する直前、大陸東北部の公孫氏を巡って魏呉は駆け引きをしている
実際には公孫淵が両者に見放され愚かな結末を迎えるが
その直後に遣使する東南海の未知の国、邪馬台国の存在は両者にとって決して軽くはなかっただろう
実際魏は邪馬台国に最恵国とも言える待遇を与えてる
計其道里、當在會稽東冶之東
(その(倭国の)位置を計ってみると、ちょうど會稽や東冶の東にある。)
当時計れるものなのかな?
会稽はもちろん呉の領土ね
遣使の前か後かは失念したけど実際呉は列島に調査隊送ってるんだよね
当時の倭国という存在は大陸の情勢的に思いのほか重要だったのだろう
緯度と経度という概念がないし正確な地図もないから計れないだろ
ただし會稽東冶から東に進むと島に行き着くということは
経験上知られていたと思われる
>>510 それは考古学で糸島以上に国際的出土物が発見される地域を探さんといかんなぁ
伊都は記紀にも倭人伝にもある地域名だから、重要なんだよね
死んだ伊作とかは伊都国を佐賀あたりに置いてたよな
邪馬台国熊本説に、伊都国を糸島としない人が多い
>>520 しかし、その説は考古学的状況が追い付いていない
>>511日本@名無史さん2019/05/25(土) 05:51:11.38
>地名の符合、方角、人戸と平野の大きさ、残された遺跡、
>奴国までは定説通りだし距離と陸行か水行か以外合致する
奴国までは定説通りという意味は、邪馬台国論争の経緯を踏まえれば、
「実態として神功皇后記の通り」という主張だとおもうけどね・・。
三世紀の書の内容を八世紀の書に置き換えようとする論に疑問が呈されているのではないかな。
>>510日本@名無史さん2019/05/25(土) 05:34:10.43
>伊都国をどこにするかで九州邪馬台国の所在地が決まってくる
当にその通り、同意。
倭人伝の東南陸行500里を間違いであると言下に否定しようとするのであれば、
例えば、東南の方角は海で陸行できない、というような明白合理的根拠が必要ではないのかな。。。
(あえて方角ちがいの北東へ陸行しようとするのは、神功皇后記に合わせようとしているからではないか)
>>521 名前:日本@名無史さん 2019/05/25(土) 07:11:44.12
>しかし、その説は考古学的状況が追い付いていない
追い付いていないのはその通り。
これまで、神功皇后伝説に従って糸島方面を伊都国と考えてきた新井白石以来の強力な流れがあり、
だから佐賀方面は過去300年にわたってパスされてきたのだはないかな。
しかし「倭人伝通りに読めば、佐賀だ!」と声を上げた伊作以来、
300年遅れで、佐賀が注目されるようになってきたと理解してるけどね。
日本では近世近代になっても、大陸と闘う時は、首都を九州もしくはその付近に遷して戦っていた。
豊臣秀吉の朝鮮出兵…肥前名護屋城、明治天皇の日清戦争…広島大本営など。
黄巾の乱で頼みの綱だった後漢が滅び、魏呉蜀三国が戦国状態で風雲急を告げる大陸状勢に加え、国内では南の狗奴国と戦争、しかも「牛馬(直線道&駅伝制度)なし」の3世紀倭国で、大和盆地にいては、
伊都国の一大率や半島の帯方郡を通じてさらに内陸にある曹魏の援軍要請に最低でも往復1ヶ月かかるだろう。
邪馬台国卑弥呼の宮殿は比定できないにしても、九州島を遠く離れた大和になかったことだけは確実。
>>523 三雲や井原、平原まで続く多数の鏡の副葬文化と大陸製品の豊富さは他の北部九州の地域より圧倒的
吉野ヶ里一帯は、律令制のもとでは「三根郡・みねぐん」であった。
今も三養基市とか上峰町などとして名残りをとどめている。
だから、古くから佐賀ルートが注目されていれば、吉野ヶ里発掘に伴って、
「倭人伝の方角里数通りに読めば、もしかして、ここは不彌国だったのではないか・・」、
と容易に想定できたのではないであろうか。
>>526 それはその通りであろう。
何しろ漢倭那国王の前後を通して、有力な国邑郡であったことは間違いない。
だからといって、当時、筑紫平野には何もなったということにはならない。
福岡平野に比べ、筑紫平野(筑前・筑後・佐賀平野)は約10倍の規模を有している。
此処に台頭してきた肥系の大勢力と、旧来の博多平野の奴国系の勢力の衝突こそ、倭国の大乱ではなかったのであろうか。
両者の境界域となった筑前・筑後平野辺りには、多数の環濠集落があり、そこに争乱の跡が検出されている。
>>529
>だからといって、当時、筑紫平野には何もなったということにはならない。
>まず第一に、「其山有丹」に該当しない。 即、失格済み。 @阿波 4世紀に入ると筑後や肥前が重視されていた時期もある。
しかし邪馬台国の3世紀にはまだそこまで佐賀は成熟していない。
>>531
>4世紀に入ると筑後や肥前が重視されていた時期もある。
「忌部はん」 の進出だね。 @阿波 >>476 >>525 秀吉は、小田原征伐の後、(将来の秀頼の脅威となるだろう)家康を北条氏の旧領関東八州に国替えし、東海道に重臣を配置して家康の動静を逐一監視&報告させていた(家康、座敷牢状態w)。
神武東征の実態はまさに↑これで、伊都国王家・平原女王(国内最大の内向花紋鏡=伊勢神宮の八咫鏡)の娘・卑弥呼と男弟の息子・神武が、狗奴国対策を巡り対立。
姉・卑弥呼に島流しにされた男弟(甥?)の磐余彦(神武)は、纏向で本州島各勢力を結集し前方後円墳を築いていた饒速日(物部氏の租)に、重臣長脛彦との戦闘の末、天孫族の証を見せて新しい王となり、ヤマト王権を樹立。
崇神朝→応神朝→継体朝と代替わり。一方、九州本家は卑弥呼→台与→筑紫君磐井→阿毎多利思比孤と代替わり、両者は並存していた。
しかし、白村江の戦いで百済滅亡後、ヤマト王権(大和分家)が倭王権(九州本家)を合併し、日本国が誕生。まとめると↓
漢委「奴国」王(57)→伊都国王・帥升(105)→倭国大乱→平原女王の娘・卑弥呼を共立↓
九州本家…姉・卑弥呼(248)→台与→筑紫君磐井(527)→阿毎多利思比孤(607)→天智→→→→桓武(平安京)
大和分家…弟・磐余彦(神武朝)→崇神朝→応神朝→継体朝(欽明→推古摂政厩戸→天武持統(藤原京)→元明(平城京)
>>531 名前:日本@名無史さん 2019/05/25(土) 08:21:52.68
>4世紀に入ると筑後や肥前が重視されていた時期もある。
>しかし邪馬台国の3世紀にはまだそこまで佐賀は成熟していない。
佐賀は、
神功皇后記の糸島人気を受けて無視され続けた影響で、吉野ヶ里以外の発掘は遅れに遅れているので、
「 三世紀は未熟で、四世紀は一部栄えていた」と、高い所から論評できる段階ではないのではないか。。
>>533 卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
更立「男王」 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與
魏志倭人伝によると、卑弥呼の死(248)後、男王が立ったが、国中が従わずに乱れて、千人以上の死者を出す大乱闘が起こり、卑弥呼の養女・台与が新倭女王に立ててその戦闘が収まったという記述がある。
この人望のない「男王」こそ磐余彦(神武)で、命を助ける代わりに「この責任を取って(大物主の息子)饒速日のいる大和盆地を征服せよ!」と派兵されたのが磐余彦(神武)東征の実態ではないか?
壹與が河上神社の淀姫なら、筑紫と肥国の両方をあわせて支配できる位置にいたことになる。
だから卑弥呼死後に、以前から家督争いをしていた狗奴国の王が乗り出してきて揉めたのだろうね。
あと、記紀での神武は、遠征というよりは、親戚筋を頼っての都落ちといった風情だな。
佐賀の考古学は、吉野ヶ里という大成果を上げたまでは良かったが、
その後、いささか歴史的立ち位置を見失ってきたと感じるね。
考古学の重鎮自ら、「伊都国は糸島だった」と、未だに神功皇后の錦の御旗を振りかざしているようだから、
とうぶん、進展は期待できないね。
壹與の都として旗を振らないから。
淀姫神社のナマズの知名度を上げないとね。
まあ、近年ではゾンビの方が集客力があるかもしれないけれど。
>>537 名前:日本@名無史さん 2019/05/25(土) 09:00:21.75
>一般的な認識として熊本は狗奴国だろう
「(神功皇后記を前提とする糸島伊都国説を前提とすれば、)一般的な認識として熊本は狗奴国だろう」・・、
こういうことではないかな。
>>525 治水や軍事と並んで、皆既日食の予言は、農耕民族の王の仕事。
卑弥呼の生前、北部九州では、247年3月24日と248年9月5日、なんと2年連続で皆既日食が起こっている(畿内は前者のみ)。
前者の的中にすっかり安心してしまった卑弥呼が油断して、後者を予言できなかったため、神に通じる巫女として責任を取って死んだものと思われる(男弟による暗殺?自死?)。
後者が起こらなかった畿内にいたら、卑弥呼はその後も巫女王として君臨できたはずという推理も成り立つ。
>>312 >>535 男弟かその息子かは判らないものの、男王の男系であることは想像できる。
卑弥呼と男弟の姉弟は、天照大神とスサノオ(出雲大国主→大和大物主→饒速日→物部氏)を強く連想させる。
男弟(スサノオ)が九州の本妻に産ませたのが磐余彦で、出雲で産ませたのが大国主だったら笑うw
淀姫神社は河上の神社として重要な地理的位置にあるね。
大鯰は、神話のタケイカズチ神の守り神ではなかったかな。
(伊都之尾羽張イツノオハバリのせがれか孫だったような記憶がある)
>卑弥呼の生前、北部九州では、247年3月24日と248年9月5日、なんと2年連続で皆既日食が起こっている
もう少し勉強しろ
>>541 ヤマタノオロチ(朝鮮半島南部の鉄)を退治(征服)したスサノオが、櫛稲田姫に産ませたのが出雲大国主(国造りの神様)で、
九州の磐余彦は、伊都国平原女王の娘・卑弥呼(≠姉)に産ませた「男王」だったりすてw
>>537
>一般的な認識として熊本は狗奴国だろう
一般的な認識として、狗奴国たる国力(資源・航海術など)がない。 @阿波 >>545 月刊ムーの清掃員さん、おはようございます
其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不属女王
(中略)其八年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼興狗奴國男王卑彌弓呼素不和
遺倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状
卑弥呼の邪馬台国と対立していた南の狗奴国の官・狗古智卑狗は男王である卑弥弓呼より先に書かれていることから、狗奴国の実権を握っていたとされ、
河内彦と読んで大和を狗奴国に比定する人もいるが、和名類聚抄(930年代成立)に「菊地(久々地)」と書かれた熊本県菊地郡っぽいね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%97%E5%8F%A4%E6%99%BA%E5%8D%91%E7%8B%97 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%97%E5%A5%B4%E5%9B%BD >>547 ソースにウィキ持ってくるのはFラン並の無能行為
>>547
男弟とは「月読尊」
卑弥弓呼とは「素戔嗚尊」
卑弥呼とは「天照大御神=大宜都比売」だよ。 @阿波 >>549 月刊ムーの清掃員さん、おはようございます
狗奴国四国説もあるけど、女王国の「東」に海がありと書かれている以上、南と東を間違えるはずもなく、ちょっと難しいんじゃないのかな?
一方「南→東」の畿内説だと東海(尾張)ということになるけど、纏向遺跡(邪馬台国)の外来土器に東海(狗奴国)が一番多い理由に説得力がない。
やはり、南の狗奴国や当時の交通(馬なし)通信(文字なし)事情から言っても、九州島のどこかにあったことは間違いないと思われ。
>>551
>狗奴国四国説もあるけど、女王国の「東」に海がありと書かれている以上、
狗奴国は倭国(阿波)の南部地方(長国)
「女王国の「東」に海があり」は、倭国(阿波)から東の紀伊水道。
南と東を間違えるはずもない。 @阿波 魏志倭人伝には鉄鏃や骨鏃の記述が出てくる。
種禾稻紵麻 蠶桑 緝績出細紵縑緜 其地無牛馬虎豹羊鵲
兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與儋耳朱崖同
稲や麻を種(う)え、蚕桑する。緝を績して細紵、縑、緜を出す。その地には牛、馬、虎、豹、羊、鵲無し。
兵士は矛、盾、木弓を用いる。木弓は下を短く、上を長くす。竹箭或いは鉄鏃、或いは骨鏃。それらの有無は儋耳、朱崖と同じである。
もし倭国の盟主だった邪馬台国が戦争したとすれば、当然それらが出土するハズだが、
大和(邪馬台国)vs東海(狗奴国)なら、鈴鹿山脈もしくは琵琶湖東岸には全く出土しない。
もちろん戦争の痕跡(人骨や火災痕)皆無の纏向遺跡は祭祀遺跡&古墳造営キャンプであったはずで、そこで防衛戦争しながら、あれだけの巨大古墳が造れたはずもなく、畿内説は成立しえない。
>>552 月刊ムーの清掃員さん、おはようございます
>>553
>稲や麻を種(う)え、蚕桑する。緝を績して細紵、縑、緜を出す。その地には牛、馬、虎、豹、羊、鵲無し。
まさに、忌部一族。 @阿波 −女王国の東に海あり(九州説…豊後水道、四国説…紀伊水道、畿内説…×鈴鹿山脈w→〇巨椋池・琵琶湖w)
−南の狗奴国と戦争中(九州説…熊本菊地郡もしくは薩摩隼人、四国説…南阿波、畿内説…仲良し東海w)
「南→東(東→北、北→西、西→南)」とする畿内説は、いずれも成立しえない。
そして考古学的出土物で四国説には無理がある。つまり消去法によっても、九州説が正しい。
>>556
>そして考古学的出土物で四国説には無理がある。つまり消去法によっても、九州説が正しい。
そして考古学的出土物で九州説には無理がある。
取りも直さず、「其山有丹」で九州説には無理がある。
つまり消去法によっても、倭国(阿波)が正しい。 @阿波 >>557 月刊ムーの清掃員さん、おはようございます
>>558
>九州説も消去され済み
当然として、残るのは倭国(阿波)のみ。 @阿波 >>560 月刊ムーの清掃員さん、おはようございます
>>556 その矛盾を解決しようと出来たのが、邪馬台国近江説(滋賀県守山市伊勢遺跡)…東(北)に琵琶湖&南(東)に狗奴国。
http://www.moriyama-cci.or.jp/moriyama-himiko/www/index.html もう滅茶苦茶、朱(丹)だけが命綱のム―の清掃員(阿波爺ちゃん)→高校中退の孫娘がソープ嬢(泡姫ちゃん)に身を落として修羅朱朱朱w
どうせなら徳島県教育委員会と組んでホームページ勃ち上げろやっ!無理ポ?w
>>562
>もう滅茶苦茶、朱(丹)だけが命綱
海人でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅矛でも、四国の阿波
銅戈でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
風土記でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。 @阿波 >>562 地元の徳島県教育委員会からも黙殺される阿波説
邪馬台国近江説>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>阿波説
>>563 あわわわw
奇説珍説の紹介雑誌・月刊ムー清掃員バイトのお爺ちゃんが壊れていく〜!!w
こんな人の元ヤン子持ちバツイチの孫娘がソープ嬢に身を落とすのも無理ゎないな
こんなとこで暇潰しなんかしてないでシフトバンバン入れて、曾孫父無wに小遣い稼がなきゃ!
>>563 忌部は穢れ処理の氏族 現代の屠殺業、精肉業、葬儀屋。
しかも阿波忌部は忌部とは血縁関係のない赤の他人で屠殺業、精肉業、葬儀屋の下請け清掃員。
何で月刊ムーは下請け清掃員の基地に何でもかんでも揃ってると思いこんでるんだよ(笑)
>>566 まぁ、阿波説なんてぇのは、餞民となった忌部氏の末裔がすがる「栄光の過去妄想&創作」の産物だろうね
孫娘がヤンキーとして暴走族の下っ端の子供を妊娠→子持ちバツイチ→ソーブ嬢「泡姫ちゃん」に身を落とすのも当然の帰結だろうな…
>>548 Wikiは玉石混交だけどソース無しよりは良い
>>568 Wikiしかソース探せないレベルなら書き込む資格が無いってことだよ
>>547 >和名類聚抄(930年代成立)に「菊地(久々地)」と書かれた熊本県菊地郡っぽいね。
久々地(久々知)というのは、新羅・渡来人集団のこともあり
現在も尼崎市に久々知の地名が残る。しかも生業として、城塞建築などの木工建築技術に長けていたようだ。
そのため、菊池のククチ城はこの久々知族の手になるものであったのではないかとの説もある。
こうしたことから、
この渡来久々知族が「クコチヒク」であり、
三世紀から10世紀ころまで菊池を占拠できていたか、なかなかむつかしいところだ。
>>569 匿名掲示板でそれを言ってもねぇ…
まあWikiだけに頼るのはよくないけどね
>その南に狗奴国あり。男子を王となす、その官に狗古智卑狗あり。女王に属さず。(中略)
>その八年(正始8年)、太守王頎官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼ともとより和せず、倭の載斯・烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。
前段は、倭地の地理・地勢を述べた中で官の狗古智卑狗を登場させているわけで、女王国以北の諸国と同じ書きぶりであるから。並みの官の扱い。
後段は、事件として帯方太守に報告したものであり、その中に登場する男王卑弥弓呼は、悪役ではあるが、当然格上の王の扱いと理解すべきであろう。
>>411 >投馬国5万戸 大宰府南、筑紫平野北部
水行二十日は全無視ですな
魏志倭人伝の表記を無視するなら何でもありだし、どこでもOKだ
>>435 >短里の1里が80mで解決だよ。
短里はないww
地方政権に度量衡をいじれる実力はない
【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県伊万里市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊佐早国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は長崎県長崎市(または長崎県西彼杵郡)または嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は高来郡(長崎県雲仙市)
7番 不呼国は須古(佐賀県杵島郡白石町)
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の広川か高良台、室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市(旧怡土郡)、奴国 福岡市(那の津)→あわせて邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
>>451 >水行1日を大まかに千里としているらしいぞ。
渡海千里は一日で渡った距離だけど、水行距離は対応しない
>>495 >記紀は仲哀の崩御から十月十日を過ぎて生まれた理由について、
ヒトの妊娠期間は285日
春秋年(二倍年暦)では、足かけ三年になる
これを太陽年のようにごまかしたから無理な説話になったのだと思っている
>>577 >短里はないww
>地方政権に度量衡をいじれる実力はない
中央の度量衡をいじって、地方政権独自の短里なる制度を制定したのではない。
昔から東夷地方にあった古来伝統の長さ単位を、未だに使っていたということだろう。
完璧に勘違いしてるね。
>>501 >骨は溶けてしまうので、殉葬があってもわからない。
>しかし痕跡があったと主張する人もいる。
平原1号墓は方形周溝墓で、その周溝に土坑墓がいくつもあって
それを殉葬墓だと言い出した人がいるだけ
しかし考えてみれば、周溝が埋まった後にその埋まった土を掘って作った土坑に葬られた人は
1号墓主体が完成して周溝が掘られてから何十年も経ってから埋められたことになる
そんな殉葬はない
さらに言えば、土坑墓は周溝だけではなく墳丘主体の中にも作られており、
土坑墓が作られる頃(おそらく数十年後)には、埋葬主体の人物に対する崇敬の念は
既に失われていたことになる
>>580 年ではなく月で数えているから、その問題は発生しない。
>>541 >卑弥呼の生前、北部九州では、247年3月24日と248年9月5日、
>なんと2年連続で皆既日食が起こっている(畿内は前者のみ)。
これを事実のように振り回す人がいるが、これ、それほど当てになるものじゃない
太陽と地球と月の位置はかなり正確に計算ができるが、地球の自転の減速がそれほど正確には
計算できない
地球の自転の分が2000年で1時間ずれれば、経度で15度分ずれてしまう
あてにならんよ
>>581 >昔から東夷地方にあった古来伝統の長さ単位を、未だに使っていたということだろう。
「昔から東夷地方にあった古来伝統の長さ単位」
これが妄想
東夷世界をおさえていた公孫氏は最後の叛旗を翻すまでは漢の官職、左将軍の地位にあり
漢の度量衡以外を使う理由がない
秦の始皇帝の度量衡の統一から既に400年が経過しており、地方に古い単位が
残っていると考えることに妥当性がまったくない
原住民が何か距離単位を使っていたと仮定しても、
それに大陸中華皇帝の公定度量衡の単位である「里」という文字を当てると想定するのがおかしい
いずれにしても、九州説の主張する短里なるものを使う理由のある人も、
短里の長さを知っている人も、3世紀にはどこにも一人たりともいない
>>584 >年ではなく月で数えているから、その問題は発生しない。
具体的に論証してみて
記紀はそこまで細かく時系列を記録していないぞw
>>586 畿内説だと、帯方郡の張政が援軍を引き連れて、狗奴国(尾張)と戦争中の邪馬台国(大和)まで、日本海側を水行十日、丹後当たりで上陸、延々陸行一月行軍したことになるw
しかも戦争の痕跡(火災痕、首なし人骨、鉄鏃、骨鏃、竹槍)皆無w
九州説なら、狗奴国(卑弥弓呼+弧狗古智卑狗)は熊本/薩摩だからすぐで、戦争の痕跡だらけだけどw
>>581 此れも完璧に勘違いしてるね
左将軍に取り立てられたといっても、洛陽に赴任して朝廷の官・武官になったわけではない。
あくまで東夷の管理人どまりであり、たまたま曹操に下心あって厚遇されただけのこと。
っそもそも東夷というのは、半人前の人もどき、漢王朝・漢族の枠外なんだから、
神聖な秦の始皇帝の度量衡などを当てはめると思うのが大きな勘違い。倭人伝は差別の条だということをわきまえて読みなよ。
海神スレで摂津安曇が本家じゃないと完全論破されちゃったからこっちに逃げてきたんかキナイコシw
妄想とウソで精神勝利とは本当に見下げた在日根性だな
まさに↓の通りじゃないかwww
何の根拠もなく「存在が証明できないのだ。」とうめき
妄想フルスロットルで「〜のだろう。」と断定したがる
識者らに追い詰められると「が妥当」と逃げまどう
見たくないものは見えなくなり、見たいものは幻を作ってでも見る習性
それがキナイコシ(主に邪馬台国・神代関連スレでの呼び名)
別名も多くあり、半島関連スレでは無能ヒトモドキと呼ばれ
高天原スレではカマチョン(猿芝居ではカモ先生)
海人族スレでは摂津チョン
などスレ毎の呼称も存在する
特徴としては思い込みが強く、他説を聞き入れる耳がなく
また聞き止める度量もない
最後には見え透いたウソを吐いてでも精神勝利で現実から目を背ける
そして追い詰められると様々なスレを渡り歩いて逃げ回るスタイル
>>556 つまり、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に邪馬台国の位置も決まるというこつ。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置(比定)であることに留意されたい。
九州島の地図
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/34/Geofeatures_map_of_Kyushu_Japan_ja.svg 狗奴国=熊本(菊地+八代)平野なら、邪馬台国=福岡筑紫平野(筑後川の扇状平野)だし、
狗奴国=鹿児島川内平野なら、邪馬台国=熊本(菊地+八代)平野と決まる。「南→東」畿内説なら、尾張平野しかない。
ここで注目したいのが、白鳥庫吉の熊本説の根拠である隋書東夷倭人伝
>>399 南「水行二十日」の投馬国とは九州南端の薩摩→大隅半島を回り込み北上してすぐの志布志湾上流の「都城」盆地w
もしくはさらに九州東岸を北上した西都原のある宮崎平野に比定できるのではないだろうか?
>>576 無条件に無視するわけではないのよ
・まず不弥国以降の水行〜という道程の記述と全道程1万2千里の矛盾がある
この記述はどちらかが間違ってると考えるのが自然
・大陸の情勢
魏呉の情勢を考えれば魏が呉のけん制のために倭国の位置を
意図的に呉に近づけて記述することはそれほど不思議ではない
・不弥国からの水行〜の道程が意図的な改ざんだと想定した場合の一致
奴国までの道程は従来の定説通り、不弥国〜投馬国〜邪馬台国の道程が
本来近かったと想定した場合、地名・文献・方角・人戸・遺跡全てがほぼ合致する
・邪馬台国までの道程は詳細に書けると言いながら水行〜以降邪馬台国までの国の記載が少ない
遠く離れた名前だけ記述出来る国名が多数あるにも関わらずだ
水行〜が間違いであり不弥〜投馬〜邪馬台国までの道程は本来短かったと考えればほぼ全てが合致する
なら、「不弥国以降の距離・道程は間違いだった」でいいじゃないか
何も難しいことはない
魏呉の情勢を考えれば魏が呉のけん制のために倭国の位置を
>意図的に呉に近づけて記述することはそれほど不思議ではない
>>592 つまり、卑弥呼の王宮の具体的な場所はとりあえず置いとくとしてw、邪馬台国の候補地は、3つに絞られているということね。
@筑紫平野 A熊本平野 B大和盆地
ここで提案があるんだけど、名前欄に↑の@ABと卑弥呼の王宮の場所を書いてから議論してみないかね?
それじゃまず漏れからw
>>596 邪馬台国七万戸(35万人)を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸35万人)もしくはそれ以上の人口(八万戸40万人)と仮定。
面積から見て、狗奴国が川内平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地+熊本+八代の3平野を合わせた超大国と想定して、
北の邪馬台国は筑紫平野、卑弥呼王宮は(天気が良ければ)福岡平野→糸島(伊都国)→壱岐島までズドーンと見渡せる英彦山近辺であろう。
>>398 >>592 女王卑弥呼(239)が都した邪馬台(英彦山麓もしくは高祖山麓)国と、
帯方郡の張政が援軍に来て狗奴国が滅ぼされ併合された後、約360年後に倭王阿毎多利思比孤(日出処天子607)が都していた(旧狗奴国の)邪靡堆(阿蘇山麓)が同名異所で、
裴世清が両者を混同して記述した可能性はないだろうか?
邪靡堆(阿蘇山麓)で混同された可能性はどうだろうか?
>>597 やはり安本美典先生の甘木朝倉説が正しかったか…orz
http://www.catv296.ne.jp/~sensyo/yamataikoku-yasumotosetu.htm
邪馬台国ってさ、
ひょっとして邪馬「大」国だったんじゃない?
>>599 >>603 漏れたちは、「邪馬台」の日本語の意味を見落としていたのではないか?
邪馬台をヤマダイと濁って発音していたなら、山台=高い「山」の中腹もしくは麓に広がる(平野より一段高くなった)「台」地 が考えられる。
これに相当するのは九州説では福岡の甘木朝倉、熊本の阿蘇大津あたり。
畿内説だとヤマトは山戸が考えられ、瀬戸内海から河内平野と大和盆地の境にある二上山あたりの生駒(北)と和泉(南)の山地の切れ目(出入り口)を山戸と呼び、
それがそのまま現在の大和盆地の地名になったと考えられる。
>>606 筑紫平野なら八女台国か
磐井は卑弥呼政権の後嗣なのだろうか
さすがに何度か政権交代があったと思われる。
九州は抗争が激しいんだよ。
まとめると、
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末期)神武東征?←この時代が謎
崇神朝=4世紀(前期古墳)
応神朝=5世紀(中期古墳)
継体朝=6世紀(後期古墳)
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)
天武朝=8世紀(奈良時代)
桓武朝=9世紀(平安時代)
有効な考古学的証拠がなにもない九州説は終焉
腹いせに畿内説にケチをつけるだけ
>>613 >九州は抗争が激しいんだよ。
なんせ狭い地域の小さな国が統一できないんだもんね
考古学的には、大陸で騒乱があって九州に渡来人が入ってくると
九州内で戦争が起きていることがはっきりわかる
四次元の概念がサッパリ理解できない九州説
こんな頭じゃ学問は無理だな
量子テレポート現象をSFか何かと勘違いしている痛々しい九州説
979 返信:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2019/05/25(土) 19:16:12.42
>>976 いやもう痛々しいぐらいムーになってるぞw
量子テレポートとかwww
ごめんお前がそんなに無知だとは思わなかったw
>>620 >>621 ムー脳畿内説はこっち来とったんかw
お前がいくら考えても理解できないのは構わないから、
さっさと次スレ立ててこいw
>>620 3D図形を2次元の紙に書いて立体と呼ぶ畿内説w
九州説の脳内には立体図という概念がないようだ
まあ一次元の脳みそじゃあ仕方ないか
低次元の存在には高次元が理解できないというのは
どうやら本当だったようだなあ
低次元九州説
>>626 さっさと次スレ立てろ畿内越w
どんだけ頑張ってググった単語を並べても、
低脳をさらしてるだけだぞw
唐の正式見解はこれ
(旧唐書 倭國条)
倭國者,古倭奴國也。
倭国は昔の倭奴国である。
(旧唐書 日本条)
日本國者,倭國之別種也。
日本国は倭国の別種である。
邪馬台国畿内説という仮説が、完全に破綻したので、邪馬台国畿内説を宣伝するプロ固定が、魏志倭人伝時代には、関係が無い物理や化学や数学や論理の話題で、
物理や化学や数学や論理の知識や思考実験に対するレベルが高い、邪馬台国九州論の学者に、破れかぶれの挑戦を仕掛けてきたな、、、
だが、なぜ、猟師のテレポーテーションの話題になったのか、分からないのではないのかな、、、
>>632 スパーリングと、関係があるのだろうか、、、
>>630 次スレを立てる勇気まで失った負け犬畿内説の遠吠えw
もっと大きな声で吠えないと聞こえないぞw
では、奥山氏がBBAなのだろうか、、、、
636 名前:日本@名無史さん 2019/05/25(土) 21:12:38.05
俺スレ主じゃないし
全1病発症してるのか
奥山氏は、やはり、倭国と日本国が別の国だという文章から、逃げたいのではないのかな、、、
三角縁神獣鏡、斜縁神獣鏡の紋様について
笠松形紋様は中国鏡にはない。
〇))))←こういう紋様
https://imgur.com/uw2C83I 倭国と日本国が別の国として、同時に存在していたのは、何時までなのだろうか、、、
>>641 それを討論するために、このスレッドを使用すれば良いな、、、
邪馬台国は最終的に狗奴国に乗っ取られ、出雲政権、大和政権と手を組んだ。
あとは南九州狗奴国による神武東征のお話かな。
>>641 川上梟帥殺害事件や、仲哀天皇殺害事件と、関係があるのでは、ないのかな、、、
>>643 水野祐は狗奴国が東征して三輪王朝を滅ぼしたと言う説を唱えた
博多女にふられた腹いせ
チョン顔キナイコシのうめき
>>647 その三輪王朝の痕跡が纏向遺跡なのかな。
邪馬台国は4世紀初頭で消滅し、
狗奴国が東征開始、
纏向が4世紀中頃に消滅している。
中国人の認識では邪馬台国がある時期から東征が始まってる
ダウンロード&関連動画>> >>651 >中国人の認識では
その中国人とは、どこの馬の骨だよ?
>>652 動画の製作元だろ。
なお、当局の見解に反する内容は動画にできないらしい。
>>641 倭国=畿内の大和朝廷。
日本国(ひのもとの国)=東北(奥州)地域並びに北海道のアイヌも参画。元々は畿内大和のプレ大和王権勢力(いわゆる神武東征等により追撃、退却を繰り返した末)
首都は津軽=日ノ本中央
奈良東大寺の大仏造営に関連して金等が産出する事が判りそれまでは大和朝廷と交易するなど比較的平和裏に並立していた(大和朝廷の最前線、国境が安宅関、白川関、多賀城等)のが
一方的に大和朝廷が触手を伸ばして来たことから日ノ本国/東北地方は争乱の時代に否応なしに引き込まれていき、、、
最終的に?奥州の藤原三代?の滅亡により
東北地域は大和朝廷に平定される?
ニュー速+で今度は阿波説が持ち上がってまた炎上するなw
邪馬台国=卑弥呼の女王国=古の倭奴国=倭国の都=福岡県=筑紫の日向
投馬国=宮崎県=隼人の祖である海幸彦の国
狗奴国=熊本県=熊襲の国
日本国=奈良県=倭の別種=ヤマト王権
まあ近いうちシンギュラリティが起こって
過去の出来事全てつぶさに知れるようになるかもね
正直九州説の方こそやってる事が朝鮮儒教思想丸出し
歴史の作り変えだもの
邪馬台国畿内説は、2世紀に既に九州から畿内までの連合国家が成立したとする
夜郎自大説
畿内説はこのままフェードアウトする模様
読売新聞YOL21.11.2018
邪馬台国の候補地?見学施設、財政難で建設延期 社会
奈良県桜井市は、邪馬台国の有力候補地として注目される纒向(まきむく)遺跡で、
2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」の建設延期を決めた。
財政難が原因。整備を進める史跡公園の核となる施設で、遺跡見学の拠点として
期待されていたが、新たな完成時期は未定だ。
>>655
>ニュー速+で今度は阿波説が持ち上がってまた炎上するなw
なんで? @阿波 >>590 >左将軍に取り立てられたといっても、洛陽に赴任して朝廷の官・武官になったわけではない。
もともとが公孫氏というのは「漢人」だぞw
土着の韓人ではないし、漢の度量衡の下で生まれ育っている
「民族・風習とも、まったくの漢民族であるが」
「189年、公孫度は後漢により遼東太守に任命されたが、そのまま後漢から自立する。
そして朝鮮半島の北端である楽浪郡や、一時は山東半島まで勢力を伸張した」
その公孫氏の支配領域で公孫氏が記録するのに使う度量衡が
漢の公定尺じゃなかったらびっくりだよ
>神聖な秦の始皇帝の度量衡などを当てはめると思うのが大きな勘違い。
>倭人伝は差別の条だということをわきまえて読みなよ。
差別の条であったとしても、読む人の理解できない単位系を注釈なしで用いていると考えるのが妄想
そして、差別の条だというなら、被差別民の距離単位に「神聖な秦の始皇帝の度量衡」の単位の「里」を
使うはずがないというのが正しい理路になるんだが?
言ってることが矛盾だらけで支離滅裂だぞw
>>592 >つまり、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に邪馬台国の位置も決まる
その前に、投馬国の比定地の方が考えやすいし、直接的だ
戸数五万戸の投馬国を女王国以北に置くことのできる九州説は存在しない
九州説は、投馬国で詰んでいる
>>593 >・まず不弥国以降の水行〜という道程の記述と全道程1万2千里の矛盾がある
> この記述はどちらかが間違ってると考えるのが自然
短里なんぞを想定しなければ、特に矛盾しないよ
倭国本土上陸後にまだ2千里もあるのだから、水行30日、陸行1月かかることに
特に不審はない
まあ、女王国まで萬二千里、倭国本土上陸まで萬里というのは、測定値の積み上げではなく
最初に「遠い国」という観念に合わせて「設定」された、現実の地理とは無関係な数字だけれど
>>670 1万4千里などもあるが?w
畿内ありきの曲解乙w
>>593 >・邪馬台国までの道程は詳細に書けると言いながら水行〜以降邪馬台国までの国の記載が少ない
> 遠く離れた名前だけ記述出来る国名が多数あるにも関わらずだ
ここが間違い
自女王國以北、其「戶數道里」可得『略載』。
戸数と道里が略載できるだけで、「詳細に書ける」なんて何処にも書いていない
>水行〜が間違いであり不弥〜投馬〜邪馬台国までの道程は本来短かったと考えればほぼ全てが合致する
こっちの方が一致してるよ
投馬国は上古音で「dug-mag国」、雑にカタカナに直せば「ヅマ国」だ
現代の山陰の発音ではイヅモのイがかなり弱く読まれることも傍証となるが
「ィヅモ」が外「dug-mag」となるのは異国語の聞き書き音訳としては
よく一致しているといってよい
もちろん邪馬台国はヤマト国の音訳で一致している
投馬国と邪馬台国の戸数の略載の仕方が、可五萬餘戶、可七萬餘戶となっている
投馬国が四隅突出墓文化圏の丹波以西の中国地方日本海側、
邪馬台国が畿内第V様式土器圏の大和+河内〜環大阪湾の範囲と見れば、
一つの平野にとどまらない広域の国であり「可」という表現が現実的な意味を持つ
広域の国なので、間の国名が書いてないという批判も意味がなくなる
>>640 >笠松形紋様は中国鏡にはない。
>〇))))←こういう紋様
これが「黃幢」を図案化したものという説があって、
それだと魏が倭のために特鋳したっていう考えとよく合うんだけどね
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国九州論に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
九州論以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b)
>>671
>1万4千里などもあるが?w
どうせ、旧唐書しか読んでないんだろ?
旧唐書の起点は「去京師一萬四千里」で洛陽だから、洛陽から帯方郡までの二千里を足してるんだよ
短里なんてないだろ?ww
九州説の頭の悪いところは、萬二千里が「女王国までの距離」であって 「邪馬台国までの距離じゃない」ことを理解していないこと
魏志倭人伝「自郡至女王國萬二千餘里」
魏略 「自帯方至女國万二千余里」
後漢書 「樂浪郡徼去其國萬二千里」
梁書 「去帶方萬二千餘里」
隋書 「古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」
旧唐書 「去京師一萬四千里」
新唐書 「去京師萬四千里」
邪馬台国までと書いてあるのは一つもないし、かなりざっくりした表現なのが分かる
ざっくりしているのは実測値ではなく、淮南子時則訓からの観念的な値だからというのも
何度も教えている
漢文が読めなくて、原文を確認していないから、延々と頭の悪い書き込みを 続けている訳だ
隋書で「『古云』去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」という書き方になっている
『昔はこう云っていた』というのは、「今は違うことが分かっているけど」ということを
意味している
隋書では、裴世清の記録でこの萬二千里が間違っていることが把握されたから、
『古云』が付いている訳だ
この萬二千里に全てを託している九州説は、萬二千里に意味がないことが
明らかになった時点で無理なんだよ <萬二千里の変遷>
淮南子:碣石山→東方之極
後漢書:楽浪郡→倭
魏志: 帯方郡→倭
要は中国の国境から辺境まで「萬二千里」と観念距離を置いているわけ
中国の範囲が拡大していっても「萬二千里」は変わらない
>>675 そんなことはテンプレには一切書いてなかったなww
具体論になると一つも反論できない九州説が、
九州説同士で傷を舐めあいたいだけのスレだから
他説は書き込まないでくれって云う泣きが入ったってことだろ?ww
畿内教信者はおやさとに引きこもって妄想おなにーでもやっとけ
>隋書では、裴世清の記録でこの萬二千里が間違っていることが把握されたから、
>『古云』が付いている訳だ
楽浪郡・帯方郡がもうないからだよ、バカなの
>>678 畿内チョンコが具体的なこと書いてるの一度も見たことがないんだけど(笑)
>>676 短里を知らない人が加算しただけでしょ?
>>679 >扶余国は2万里だが?w
それはどの史書のどこの話だ?
>>683 >短里を知らない人が加算しただけでしょ?
そりゃそうだろ?
「短里を知っている人」なんて、二十世紀以降の日本にしかいないんだからww
3世紀の大陸にも東夷世界にも、短里を知っている人も、使う理由のある人もどこにもいません
それを、大陸中央への報告に使う人ももちろんいないww
>>681 >楽浪郡・帯方郡がもうないからだよ、バカなの
後漢書の書かれた時代にも、梁書の時代にも楽浪郡・帯方郡は既にないのだが?ww
でもこれらは、そのまま三国志の記述を引き写しにしているだけ
隋代に、遣隋使があって裴世清が倭国を訪問して、それで情報が更新されたんだよ
頭使って論理的に考えるってのができないんだなw
>>682
>畿内チョンコが具体的なこと書いてるの一度も見たことがないんだけど(笑)
つ >>676
「魏志倭人伝「自郡至女王國萬二千餘里」
魏略 「自帯方至女國万二千余里」
後漢書 「樂浪郡徼去其國萬二千里」
梁書 「去帶方萬二千餘里」
隋書 「古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」
旧唐書 「去京師一萬四千里」
新唐書 「去京師萬四千里」 」
思いっきり具体的だな
つ >>672
「こっちの方が一致してるよ
」
さらに具体的だなww
ああ「畿内チョンコ」なんて存在しないから、
だから「畿内チョンコ」は具体的なことは書けないってことかww
半島の血筋、半島の価値観で生きているのは九州説だもんな!
それなら納得だ!!w そして畿内説は捏造予算をカットされたというわけだw
読売新聞YOL21.11.2018
邪馬台国の候補地?見学施設、財政難で建設延期 社会
奈良県桜井市は、邪馬台国の有力候補地として注目される纒向(まきむく)遺跡で、
2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」の建設延期を決めた。
財政難が原因。整備を進める史跡公園の核となる施設で、遺跡見学の拠点として
期待されていたが、新たな完成時期は未定だ。
>>686 >でもこれらは、そのまま三国志の記述を引き写しにしているだけ
これは正解
>隋代に、遣隋使があって裴世清が倭国を訪問して、それで情報が更新されたんだよ
これはお前の思い込み
頭使って論理的に考えるってのができないんだなw
対馬の面積700平方キロメートルでは、魏志倭人伝時代に千戸あったのだが、平野部の割合が高い133平方キロメートルの壱岐の方が人口が密集して三千家なので、
大平野が多い、36780平方キロメートルの九州島は、戸数が50万戸以上でも不思議ではなく、熊本城の北に20万戸あっても良いな。。。
669日本@名無史さん2019/05/26(日) 14:17:53.02
>>592 >つまり、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に邪馬台国の位置も決まる
その前に、投馬国の比定地の方が考えやすいし、直接的だ
戸数五万戸の投馬国を女王国以北に置くことのできる九州説は存在しない
九州説は、投馬国で詰んでいる
>>651 日中合わせおよそ15億人の中で畿内説は3人ぐらいだろうなw
>>692 僕達の意見では、投馬国は豊国で、大分市が本部なのだったな、、、
何の根拠もなく「存在が証明できないのだ。」とうめき
妄想フルスロットルで「〜のだろう。」と断定したがる
識者らに追い詰められると「が妥当」と逃げまどう
それがキナイコシ(主に邪馬台国・神代関連スレでの呼び名)
別名も多くあり、半島関連スレでは無能ヒトモドキと呼ばれ
高天原スレではカマチョン(猿芝居ではカモ先生)
海人族スレでは摂津チョン
などスレ毎の呼称も存在する
特徴としては思い込みが強く、他説を聞き入れる耳がなく
また聞き止める度量もない
そして追い詰められると様々なスレを渡り歩いて逃げ回るスタイル
>>695 奥山でいいよ
名前で呼んであげると少し静かになるしw
九州説に対してはあ、何はともあれとりあえず反論しなくちゃという感じで、
すっかり浮足立ってきてるな。。。
しかし奥山ってなんでこんなに暇なんだ
普通なら5chの書き込み以外にやることいろいろあるやろ
投馬国(都万国)、狗奴国(球磨国)、と置けば、
熊本平野山鹿市を中心にに邪馬台国7万戸がすんなり納まる。
加えて、伊都国を佐賀川上に比定するならば、倭人伝の行程は、方角・里数とも修正せずに読める。
>>697 他スレで書かれてたけど、奥山は博多女に振られて恨んでるんだってさ
>>700 そうだったのか、お気の毒、女運に恵まれてないのか。
見てくれで神功皇后みたいな過激女に手を出したからじゃないの。
熊襲女酋と記紀は言うが、優しい女もたくさんいるよ。(ちなみにうちのカミさんも博多女な。)、
奥山は、相手が言っていないことを創作して批判して「九州説を論破した」と言い張っているだけ。
>>703 日常生活に支障をきたすレベルだよなw
コミュニケーション能力に障害があるんだろうw
これだけ5chに書き込みしているんだから、
奥山はどう考えても高齢独身で童貞だな
年齢=彼女いない歴かもしれん
>>692投馬国は三角半島天草一体やけん
天草と島原を出さずに縄文弥生初期を語れん
>>705 デイトレード成金かもしれんよ
その場合は博多ホステスに金むしり取られて、風俗三昧だろう
素人童貞には違いないだろうが
>>706 投馬に相当する地名がない。
五万戸も確保できない。
宮崎平野なら、都萬の地名と豊かな平野、西都原古墳群などの遺跡がある。
やっぱ邪馬台国は筑紫なんじゃないかなあ
磐井の乱とかあって昔はヤマト王権より栄えてたら都合悪いから
記紀で歴史から抹消されたんだよ
>>712 状況的にはそうなんだけど、考古学的証拠が乏しいからな
もっとも畿内説もたいした証拠が揃っているわけではないが
古代史で最も大事な話、
まあ大前提が、記紀は無視。
あっ、逝かんね、ご飯だなw
>>713 吉野ヶ里遺跡→?→磐井の墓
筑紫平野に卑弥呼の時代に主だった遺跡ってあるっけ?
>>715 少なくとも博多湾岸を差し置いて九州の都と名乗れるような遺跡はない
>>711 邪馬台国=卑弥呼の女王国=古の倭奴国=倭国の都=福岡県=筑紫の日向
投馬国=宮崎県=隼人の祖である海幸彦の国
狗奴国=熊本県=熊襲の国
日本国=奈良県=倭の別種=ヤマト王権
山幸彦と対立した海幸彦は、筑紫の日向を出て南に行った。
その末裔が隼人となったとされている。
福岡県の邪馬台国と宮崎県の投馬国が兄弟国として魏志倭人伝に並び記載されている。
>>716 >
>>715 >少なくとも博多湾岸を差し置いて九州の都と名乗れるような遺跡はない
それを言うなら、博多湾沿岸を差し置いて倭の王都と名乗れるような遺跡は列島に存在しない。
平原の1号墓は出土品は素晴らしいのだが、大きさがなあ…
大陸の文物、金属器などの出土数は
福岡>>佐賀>熊本>>>>>南九州だな
福岡と佐賀をあわせて邪馬台国、熊本が狗奴国でいいじゃん。
あの「八咫鏡」は、鋳型から取り出したままで、鏡面は磨かれていなかったそうだ。
失敗作?
畿内説スレで九州説が畿内説弱っちいから苛めるの飽きたとか言ってて笑える
>>721 アイデイアは最高だが、方角と里数がなあ、、。
>>726 佐賀も含めると、里数もあってしまう。
九州上陸からの二千里も説明がつくからね。
距離は適当だからあまり気にしなくていいとおもう
クシャーナ朝と似たような距離に設定しただけだよ
現実にはショボい国なんで、戸数や周旋は事実よりかなり盛っているだろう
九州は素通りで会稽東冶の東
沖縄や台湾あたりにに邪馬台国があると魏志倭人伝は記す
距離も方位も九州を指してはいない
ただ吉野ヶ里が1国として、最盛期で環濠内の人口が1300程度
周辺部含めても4000程度という試算が出ている
当時の1国の規模は大きくない
もし広い範囲を邪馬台国にするのなら
それは30国の連合国家なのかもしれん
吉野ヶ里で1国だとして、傘下の国が30国程度だと恐ろしくしょぽい国にしかならんな
なんで金印渡したのかと文句言われかねないレベル
>>733 正直委で礼儀を重んじる卑弥呼の国への称賛だ。
>>733 呉へのけん制のためだよ
5万戸・7万戸も盛ってると思う
東にそこそこの規模の魏の同盟国が存在するという情報だけでけん制としては十分
実際呉は列島に調査団派遣してる
>>732 内部に兵士や官僚、王とその使用人が
1300もいれば、周囲はその十倍くらい
いなければ、維持していけないんじゃないかな?
戦国時代以降、戦や普請の動員数は
人口の2.5%ていど。
それでも死者数が多いと
労働力不足で村が壊滅する。
ひょっとすると狗奴国が大陸との南ルート確立したんじゃねえかなあ
倭の五王が遣使したのは北じゃなく南朝なんだよね
>>738 じゃあ戸数とかを盛る必要はないじゃない
東南海にある100戸の家の国、呉が気に掛ける必要はないだろ
呉は東南に海がある、ここは本来防備する必要の無い所だ
しかしそれなりの力を持ってる同盟国が東の海にあるなら北に全力を割けない
魏が邪馬台国を異例とも言える厚遇を施したこと、
呉が東の海上に調査団を派遣したこと、
東南の海の未知の国の存在は当時の情勢では決して小さな事ではなかったんだろう
この吉野ケ里の周辺部が4000人というのは
九州説の高島氏がせいいっぱい多く見積もって出した試算で
もちろん環濠内の成員が労働の中心で主張層を養っている
王と使用人が1300人というのがまずおかしい
支配層は100人もいるかどうか
それと佐賀平野には、吉野ケ里レベルのクニがあと最低4つはある
それぞれ柚比木村、宗左、土生などを中心とした集落だ
>>744 佐賀平野で見つかっている範囲でそれだけなら30ヶ国ってのはかなりの小国だな
>>709古代の宮崎平野もほとんど海
山がちな島が当時の集落
弥生時代後期の佐賀平野はこんな感じ
いやそりゃ少しは作るだろうけど地域まとめる大きなクニにはなれないでしょ
>>749 「山や島に貼りつくように国があった」
の描写にぴったりだな。
そうだな
後ろに山をおいた川の近くに集落がある
水源に近いのかもしれん
なんだ。
弥生時代後期にはもう佐賀も発展しているじゃないか。
誰だよ、4世紀にならないととか言っていたのは。
>>747 古墳群が形成されるくらいだから、それは言い過ぎだろ。
>>746 こんな感じ?
早良平野に推定されているクニ
唐津湾に推定されているクニ
何の根拠もなく「存在が証明できないのだ。」とうめき
妄想フルスロットルで「〜だろう。」と断定したがる
識者らに追い詰められると「〜が妥当。」とホラを吹いて逃げまどう
それが キ ナ イ コ シ (主に邪馬台国・神代関連スレでの呼び名)
蔑称も多くあり、半島関連スレでは無能ヒトモドキと呼ばれ
高天原スレではカマチョン(猿芝居ではカモ先生)
海人族スレでは摂津チョン
などスレ毎の呼称も存在する
最近では奥山と呼ばれることもしばしば
特徴としては思い込みが強く、他説を聞き入れる耳がなく
また聞き止める度量もない
そして追い詰められるとテキトーなホラを吹いて
様々なスレを渡り歩いて逃げ回るスタイル
惣座遺跡というのは、大和インターの建設に当たって発掘された狭い区域の遺跡のこと。
(惣座は総社のことで、元締め社・一之宮のような意味なんだろ)
その東の現在市街地になっているところを含めて「尼寺地区」とでも呼ぶのが良いのではないか。
>>592 邪馬台国七万戸(35万石)を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸35万石)もしくはそれ以上の人口(八万戸40万石)と仮定。
面積から見て、狗奴国が川内平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地+熊本+八代の3平野を合わせた超大国と想定して、
北の邪馬台国は筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所&(天気が良ければ)福岡平野→糸島(伊都国)→壱岐島までズドーンと見渡せる甘木朝倉と推定。
>>606 そして、女王卑弥呼(239〜248)が都した邪馬台(甘木朝倉)国と、帯方郡の張政が援軍に来て狗奴国が滅ぼされ邪馬台国に併合された後、
約360年後に倭王阿毎多利思比孤(日出処天子600・607)が都していた(旧狗奴国の)邪靡堆(阿蘇山麓)が同名異所で、
裴世清が両者を混同して「都於 邪靡堆 則魏志所謂 邪馬臺 者也」と記述した可能性
>>399大。
吉野ヶ里は一つの丘に作られた環濠集落で、2世紀末で終了だったそうだから、
総体としては、神崎・目達原を含めた地域都市国家だったとみるべきじゃないかな。
そしてこの辺りは律令制の三根郡(彌根郡)であったので、
ここを倭人伝の不彌国に比定すると、
唐津・末盧国、→佐賀川上・伊都国、↘佐賀市・奴国、→吉野ヶ里・不彌国となり、方角も里数も良くつじつまが合う。
それは奴国までの道程の定説から外れるほどの根拠と価値はあるの?
>>761 惣座遺跡は佐嘉川(嘉瀬川)の東岸、
河上神社(現・一之宮)はその川の西岸(対岸)にある。
時代的には西岸地区が古く、ここの主要施設・人家は、何らかの理由で7-8世紀ごろに東岸地区に移転したのではないか。
>>614 補足してみた
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(卑弥弓呼、帯方郡張政に降伏、卑弥呼に服従)投馬国王・神武を派遣し大和征服、奥津城(王家の谷)化。
崇神朝=4世紀(前期古墳)狗奴国系(台与死後「男弟」子孫に入婿、阿蘇遷都)
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国系(仲哀を神功皇后が暗殺、筑紫遷都)
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国系(武烈死後、倭王磐井を暗殺、筑紫君と史実歪曲→阿蘇遷都・倭王阿毎多利思比孤へ)
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)(唐新羅連合軍の脅威現実味→欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)大和東遷、飛鳥疎開宮造営)
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→崇神朝・応神朝・継体朝の倭王権(旧中央町)内の抗争がすべて大和で起こっていたように史実歪曲。
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(狗奴国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…→神武朝(投馬国)派遣、饒速日征服、奥津城造営→→→→→→→欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)
>>764 それは真逆の思考じゃないかな
「奴国までの道程の定説・・」というのは、卑弥呼は記紀の神功皇后であったと信じていた新井白石の唱えた道程が出発点であり、、
これが、何らの疑問を挟まれることなく、そのまま三百年間経過して「定説化」しただけのこと。
これは記紀を信仰するあまり、倭人伝を無視して末盧国からの方角を北東に捻じ曲げた摩訶不思議な誤説・巷説・俗説のたぐいで、もともと価値はない。。
というわけで、近年この欠陥を真正面から指摘したのが、森村伊作の佐賀ルート説であったわけだ。
倭人伝の原典に立ち返り、二心なく読めば、その指し示す方角は末盧国(唐津)からは東南の佐賀平野である。
倭人在帶方東南大海之中 依山?為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
@「今使譯所通三十國」の「今」っていつのことなの?
A「三十國」に狗奴国は含まれるの?
B「漢時有朝見者」これは帥升のこと?
C「帶方東南大海之中」の帯方郡の郡役所ってどこなの?
@「今使譯所通三十國」の「今」っていつのことなの? ・・・倭人伝の舞台となった魏王朝のころ
A「三十國」に狗奴国は含まれるの? ・・・今使譯所通とは、帯方郡と懇意な国のことで、それが三十國だから敵対の狗奴国は含まれない。
B「漢時有朝見者」これは帥升のこと? ・・・師升・漢倭那国王のいずれか不明、或は両者のことかも
C「帶方東南大海之中」の帯方郡の郡役所ってどこなの?・・・どこだったのだろうねえ・・
@は難しいな
魏の時代であるのは間違いないと思うが
おそらく卑弥呼の遣使からしばらくたって
伊都国に郡使が常駐しているころの話だろう
陳寿が三国志を書いたのは晋の時代の280年代だが
それからあまり遡らない魏末の時期かな
從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
@「從郡至倭」この「至」には意味があるの?
A「循海岸水行」の「水行」には陸地に沿って進むという意味なの?
B「到其北岸」はどこの北岸ということなの?
C「狗邪韓國」には倭人は住んでいたの?
>>771 今 は、陳寿の記述の時点
使譯 所通 三十國 で 使譯は、240年と247年
正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王
と
其八年 太守王頎到官
倭女王卑弥呼 與狗奴國男王卑弥弓呼 素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状
遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢拝假難升米 為檄告喩之
この二回の報告に拠り 今 知るところとなった30国についてが、倭人伝。
ちな、「從郡至倭」について、意味が有るのは 至 ではなく
從 であり、この二回の 使譯 の説明に『從』る
郡至倭 が、以降に記されている。
さらに、循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸 狗邪韓國 七千餘里
循海岸が韓の西岸目視での水行4千里、韓を過ぎ東行3千里で狗邪韓國 七千餘里
そして、到 其北岸 については、主語は冒頭の倭人であるが、
魏の倭人伝で倭は、在帶方東南 大海之中であり
沿海州諸国の日出処、東の海の向こう、も含むという認識なので
到 其北岸については、女王国の北岸という意味でしかない。
つまり、女王国は対馬の対岸にある倭のほんの一部でしかない筑紫の倭人国。
倭人伝冒頭の、70字足らずでも、邪馬台国は九州なのである。
>>770 森村伊作先生がお隠れになって、何年たったかなあ。
はや、伊作を知らない世代も出没するようになったか。
その正体は俺も知らぬが、「邪馬台国は九州にあったスレ」の主で、200回くらい続いたのだったかなあ。
大勢の畿内説相手に、高橋英樹か、鬼平犯科帳かの如くの大活躍で、佐賀ルートを説いたお人だった。。。
森村伊作の著書って、
「民族の指紋」
「大和の揺籃 邪馬台国 上下巻」
以外にはある?
伊作がザラコクに辟易してヤフー掲示板から逃げ出し
それでザラコクが2chに居ついてしまった
>>774
へぇ〜、お相手したかったなあ。 @阿波 【倭人伝 行程文要約】
倭人 在帶方東南 大海之中 依山㠀 為國邑 舊百餘國 漢時 有朝見者
今(魏時) 使譯(梯儁、張政) 所通 三十國
從郡至倭 247年 張政
↓― 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 七千餘里
到 其北岸 狗邪韓國
↓― 始度一海 千餘里
至 對海國 有千餘戸
↓― 又 南渡一海 千餘里・瀚海
至 一大國 有三千許家
↓― 又 渡一海 千餘里
至 末盧國 有四千餘戸
↓― 東南 陸行五百里
到 伊都國 有千餘戸
以上、動的な直列行程、里程合計満五百里
東南 至 奴國 百里 有二萬餘戸
東行 至 不彌國 百里 有千餘家
奴国の文節には動詞が無い。 前文までの行程とは直列しない。
また動的行程は、動詞 距離 至 地名の語順で有るのに対し
奴國 不彌國は、方角 至 地名 距離の語順である。
247年張政の最終到達地、伊都の隣国の紹介であり、女王宮に近づく行程ではない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【魏時の所通 30国とは】
240年梯儁の参問女王所属国=邪馬台国可7万戸 は、
斯馬國 巳百支國 伊邪國 都支國 彌奴國 好古都國 不呼國 姐奴國 對蘇國 蘇奴國
呼邑國 華奴蘇奴國 鬼國 為吾國 鬼奴國 邪馬國 躬臣國 巴利國 支惟國 烏奴國 (奴國)
此女王境界所盡 (190年女王共立の 次有21王国 240年当時)と、行程の
帯方郡南→投馬国→邪馬台国(計満二千里)→(其南有)狗奴国
狗邪韓國→一大國→末盧國→伊都國 不彌國 奴國(構成国に重複)
>>756 証拠がないからなんとも言えんが、馬がいない時代だから、デカい国にはなりようがない
情報伝達ができないから国としてまとまることができない
仲哀天皇の熊襲征伐の時に、伊都国や奴国が服従してきた、という話があるのだから、
すくなくともこれらの国々が大和朝廷に服属するのは卑弥呼の時代よりもかなり後の話になるはず
卑弥呼が神功皇后だという日本書紀の記載が正しいなら、矛盾しないのだけど・・・
>>781 服従とは恣意的な解釈に過ぎない。
三種の神器を提示しただけで、身分の証くらいの意味かもしれないし、歓迎の意かもしれない。
砦を出て相手の軍隊を出迎えるというのは、古今東西降伏の証
仲哀天皇は穴門豊浦宮だから、そもそも九州の倭王だけど。
>>782 >服従とは恣意的な解釈に過ぎない
>三種の神器を提示しただけで、身分の証くらいの意味かもしれないし、歓迎の意かもしれない
提示しただけというが、先祖伝来の重要な宝物を差し出しているのに身分の証、ただの歓迎ってのもかなりの恣意的な解釈だな
もっとも議論してみたところで正解がわかるわけでもないが
>『日本書紀』の記述のみでも日本武尊の子である仲哀天皇が日本武尊の死後
>36年後に産まれたことになってしまう。
仲哀天皇がヤマトタケルの子と言う可能性はないな
非実在性が高い天皇だわ
>>786 差し出したとは書いてない。
榊に掲げただけ。
古神道の様式だったのだろう。
【魏時の所通 30国とは】
(韓地・狗邪韓國)→対海国→一大國→末盧國→伊都國→奴國(遠絶奴国に重複しない) →不彌國 →投馬国→邪馬台国
次有り斯馬國(次有りとは隣接してありの意味か)
巳百支國 伊邪國 都支國彌奴國 好古都國 不呼國 姐奴國 對蘇國 蘇奴國 呼邑國 華奴&蘇奴國(次にこの2国が並んでいたの意味か)
鬼國 為吾國 鬼奴國 邪馬國 躬臣國 巴利國 支惟國 烏奴國 奴國(女王以北の奴国とは同名別国)
意外と半島南端の任那かもしれんな。
郡より水行30日、陸行なら一月。
女王国の領域は九州北部。
仲哀天皇は、足仲彦尊という名前なので、中つ国か、長門国に生まれ落ちた者という可能性が、あるな。。。
長門は、九州と本州の地峡に開いた穴戸だった可能性があるな。。。
隠れたふりをしている、優れた伊作氏は、次元が高い世界でレベルの高い討論をしているのではないのかな。。。
>>789 陳寿の文章は
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
官有 伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
次有 − 21国列記− 此 女王境界所盡
其南有 狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里
この部分は、現代語訳すらいらないはず。
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
は、陳寿の付加した説明であるが、
自女王國以北なのは、 女王国は狗奴國を除き行程の南限であるから通過国のこと。
付加した箇所が、あまりよくない。 これが無ければ、
南至 邪馬壹國 可七萬餘戸 が
次有 − 21国列記− で、 次有は、此 女王境界所盡 の、此 に掛かるのが明瞭。
印綬の際に調査した、卑弥呼の所属国総計7万戸の内訳である。
其餘旁國遠絶 は旅程とは無縁の倭国
女王國東渡海千餘里 復有國皆倭種 (名前すらない)
又有侏儒國在其南人長三四尺 去女王四千餘里
又有裸國 黒齒國在其東南船行一年可至(大倭はいまだ奇譚の中に有る)
などであり、これに対する、今 使譯 所通 三十國 は
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
しかない、糸島、福岡、筑紫平野の倭国のほんの一部でした・・・
と書いてある。
満二千里で短理なんて無いのは当然で、この間違いで中華皇帝のメンツを汚さない為。
明らかな筑紫小国と大倭王を間違えて印綬したことを口籠った陳寿の嘘。
暗号にしか見えない、日程表記もこれに類するもの。
魏志韓伝によると、半島にも卑彌国、不彌国という名前の国が存在している。
そこで、卑弥呼は半島南部の倭国領土にあった邪馬台国に住んでおり、
その卑弥呼に属する北部九州領域を女王国と呼んだのではと推測してみる。
水行20日の投馬国も半島のどこかだと思う。
トンネル状だった穴門を仲哀天皇が掘削させて関門海峡とした。
その近くの壇ノ浦は神功皇后が干珠満珠を得るために舞を奉納したところ。
>>795 弁辰韓について
有已柢國 不斯國 弁辰彌離彌凍國 弁辰接塗國 勤耆國 難彌離彌凍國 弁辰古資彌凍國
弁辰古淳是國 冉奚國 弁辰半路國 弁樂奴國 軍彌國 弁軍彌國 弁辰彌烏邪馬國 如湛國
弁辰甘路國 戶路國 州鮮國 馬延國 弁辰狗邪國 弁辰走漕馬國 弁辰安邪國 馬延國
弁辰瀆盧國 斯盧國 優由國
弁 辰韓 合二十四國 大國四五千家 小國六七百家 總四五萬戶
其十二國 屬辰王 辰王 常用 馬韓人。
であるが、邪馬台国所属国のような
表音和名の漢字化と似たものと 表意文字っぽいものが混ざる。
魏は246年に韓王を滅ぼし直接統治としたので280年までに変わったはずだが
これは漢時の記録と思うが、240年時もこの程度の認識と国体であると思われる。
狗邪韓國が弁辰狗邪國とは思うが、弁韓部分は、国体不明な入会植民地状態と思われ
韓伝による、馬韓、弁韓、辰韓の南が倭と接するは、おかしい。
この入会植民地状態の国に、240年初探検の梯儁と言う名を与え5万戸と記した。
倭人による開拓については、
BC200年から、日本海ルートの銅鐸社会も青銅器移入が有る以上
この地域や、公孫氏とはうまくやっていた。
この古い青銅器ルートを魏が韓王朝も落とし断ったったのである。
魏と邪馬台国の外交は247年で終わり、日本は半島への軍事進出に切り替えた。
これが古墳時代でなければ、313年四郡撤退から、百済新羅建国、高句麗戦、
400年までの、牛馬の移入は有り得ない。
半島進出はもう少し後では
南に狗奴国が存在してわざわざ半島進出するかな?
鉄資源を求めたとか?
>>798 文化的に上下で表現すると、中国が上、国内東方は下。
本能的に上を目指すんじゃないかな。
もともと中国系渡来人ということもあって。
逆に狗奴国に押されて衰えた半島に進出するって考え方もあるか
>>800 そんなことをしていたら、むしろ九州から追い出されるだろうね。
南の狗奴国に押されて魏に応援頼むくらいだから、邪馬台国の力がそこまで圧倒的ではなかったことは間違いないな
甲:其八年、太守王頎到官。倭女王卑弥呼與狗奴国男王卑弥弓呼素不和。
遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻擊状。遣塞曹掾史張政等、因齎詔書黃幢、拝假難升米為檄告諭之。
乙:卑弥呼以死、大作冢。径百余步。徇葬者奴婢百余人。
丙:更立男王、国中不服、更相誅殺。当時殺千余人。復立卑弥呼宗女壹與年十三為王、国中遂定。
つまり、狗奴国不和なんて大したことじゃなかったのだよ。
陳寿が、ちょっとした悪役物語に仕上げて、場を盛り上げただけさ。
甲:の「因齎詔書黃幢、拝假難升米為檄告諭之」で、カタがついたのだからね。
それより問題だったのは、
乙:卑弥呼が死んで墓を作ったわけだが、その後釜をねらって、、
丙:共立倭30国のなかの男王が立ったことだ。案の定、各国不服で、千余人の戦死者がでるほどの大騒動になった。
そこで再び宗女・台与の色気に頼ることになったわけだが、、、
この大騒動の一方の首領頭目こそ、遠絶国の最後に出てくる奴国であり、それは博多大奴国だったのであろう。
卑弥呼<南の狗奴国ウゼーわぁ そうだ、魏に遣い送ろう!
魏 <遠路ご苦労(こいつら呉のけん制に使えるな)最恵国待遇で慰労するやで
卑弥呼<愛されてるわーめっちゃ愛されてるわーw
卑弥呼<狗奴国マジやべーわ、援軍頼もう マジ愛されてるし
魏 <遣塞曹掾史張政等、因齎詔書黃幢、拝假難升米為檄告諭之。
卑弥呼<アガガガガガ...
この辺り、歴史のロマンやね
>>802 魏に応援を頼む? そんな戦国時代の調略なんて日本には無い。
245年の 其六年 詔賜 倭難升米黄幢 付郡假授
は、韓王朝滅亡の戦線に、魏の倭難升米黄幢での参戦要請である。
なんで三国志やってる魏が、辺境国の応援?
勝ったものを招請するだろ?
日本はこの三国志の檄に応えず、313年四郡滅亡。
350年高句麗楽浪候幽州刺史就任、新羅百済立国を経て
半島進出〜牛馬移入、鉄の国内生産で富国強兵で、古墳時代到来である。
この間に有るべきは、一大率による筑紫国外交権剥奪である。
使大倭監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
おまえらに、読めるか?
2000年前の字が読めるって、よく考えたら漢字ってすげーよな
>>807 1700年前の 陳寿が、どういう文語の前例を作ったか。
至と到、有と可、主語、動詞、述語? の語順による文法。
これが今、理解された訳だが、何か、反論ある?
ワロス 不要というレスは要らない。 アラシか?
何か質問有るの? 否定してもらいたいのは山々なんだが
君にも、アタシに否定や質問が できるのかな?
では、不毛な妄想でない注文を・・・
スレの子なんで、持論は直ぐ破棄できるんだけどな。
>>811 まず持論を展開したがる前に日本語の勉強をし直してくれ。
日本語勉強してから?
【倭人伝 行程文要約】
倭人 在帶方東南 大海之中 依山㠀 為國邑 舊百餘國 漢時 有朝見者
今(魏時) 使譯(梯儁、張政) 所通 三十國
從郡至倭 247年 張政
↓― 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 七千餘里
到 其北岸 狗邪韓國
↓― 始度一海 千餘里
至 對海國 有千餘戸
↓― 又 南渡一海 千餘里・瀚海
至 一大國 有三千許家
↓― 又 渡一海 千餘里
至 末盧國 有四千餘戸
↓― 東南 陸行五百里
到 伊都國 有千餘戸
以上、動的な直列行程、里程合計満五百里
東南 至 奴國 百里 有二萬餘戸
東行 至 不彌國 百里 有千餘家
奴国の文節には動詞が無い。 前文までの行程とは直列しない。
また動的行程は、動詞 距離 至 地名の語順で有るのに対し
奴國 不彌國は、方角 至 地名 距離の語順である。
247年張政の最終到達地、伊都の隣国の紹介であり、女王宮に近づく行程ではない。
>>806 せっかくの漢文を前にして、書かれてもいない妄想を繰り広げるだけとは情けない。
冊封は権威づけだよ。
それは周辺部族に対する牽制となる。
邪馬台国女王を倭王とすることで、魏が直接出兵しなくても、卑弥呼への攻撃は魏への反乱になるから、抑止力になるんだよ。
だから、魏に助力を求めたという表現は間違いではない。
それが冊封体制だ。
反論に対して、即時、悔い改める用意はある。
しかし、なにを言ってるのかわからない?
というか、アタシの文が、判らないなら反論は要らない。
それが5ちゃんw
大率は伊都に置かれたが、伊都を支配するためだけではなく、伊都を含む伊都から北、つまり対馬海峡に目を光らせていた。
これは刺史の如くとあるように、内政の監視が目的である。
大率は各地の官の上に位置する中央統治機構であり、それが置かれた伊都が倭の首都である。
やはり、このスレッドに次々に出現する、邪馬台国九州論の考古学者達には、優れた者達が揃っているので、スレッドのレベルが自動的に上昇するな、、、
持衰という言葉を、魏志倭人伝時代の中国人は、どのように発音したのだろうか、、、
やはり、ローガンは名無しで意見を発表し続けていたのだな、、、
僕達の予測では、ローガンは奥山氏なのだったな、、、
持衰という言葉を、魏志倭人伝時代の中国人は、どのように発音したのだろうか、、、
>>831
自信がなくなって、名乗れなくなったのかね? @阿波 >>832 むしろなぜ自信があったのかが分からないからな
>>833
阿波説は逆立ちしていても、どの説にも負けない自信にあふれている。 @阿波 新井白石は、神功皇后ゆかりの糸島深江を伊都国に比定した。
イヤ深江ではない、伊都国は数キロ東に寄ったオレのナワバリの平原ダー、と派手に噛みついたのが、
ケンカ大六こと地元の顔役・原田大六だった。
そして、あの大六なんかに任せておけるものかと、勢い込んで乱入したのが、フルビタ、ヤスモノ。
火事とケンカはナントカかんとか、邪馬台国論争は一気に燃え上がった。
ま、昭和・平成の邪馬台国論争はそんな次第だったな・・・、
しかし令和になったのを契機に、紳士・森村伊作の佐賀ルート説に沿って展開していくのではないかな
伊作氏の内容を初めて読んだが非常に説得力のある内容で面白かった。
邪馬臺國はウテナ台地の久々知にあったというせつなのだな。
箸墓の築造を四世紀と見る他
三角縁神獣鏡は呉鏡
鏡と剣の祭祀が列島規模で伝播、前方後円墳は初期道教祭祀など、一貫した論で小気味が良い。
しかし魏志倭人伝では邪馬台国は会稽東冶の東
沖縄か台湾辺りにあると書いているそうだ
この点については伊作氏の理論に見落としがあるのではないだろうか
ウテナというのは、「台(台地)」のことで、旧字で書けば「臺」、
熊本県菊池市には「台集落」や「台(うてな)簡易郵便局」として、ウテナ(台・臺)という地名が今も残る。
伊作はここを7-8世紀の遺跡のようだとして、先へ進み、熊本市内の健軍神社方面をめざした。
しかし実は、この台周辺には環濠集落も検出されており、ここが邪馬台国の主邑・見張り台だったのではないか。
鏡の件は誰か貼ってくれてた。
ガラッと雰囲気が変わるねえ。
持衰という言葉を、魏志倭人伝時代の中国人は、どのように発音したのだろうか、、、
ヤマトというのは大和のことで
3世紀の中国で当て字をすれば邪馬台
3世紀の畿内には魏志倭人伝にある7万戸を思わせるような
広大な地域にまたがる形で前方後円墳が散見され
ここが魏志倭人伝にいう邪馬台国だったのではないかというのが
学会では定説になっている
伊作の偉大なる功績としては、
唐津の東南陸行500里は佐賀平野としたことを挙げるべきであろう。
これによって、「300年来の糸島イトコク定説」に大穴があけられたわけだ。
ただ、行程論の細部については異論もなくはないであろう・・・
>>843 スクナヒコナとは、何者だったのだろうか、、、
持衰という言葉を、魏志倭人伝時代の中国人は、どのように発音したのだろうか、、、
伊作の佐賀ルート説で、
「末盧国東南陸行500里」を捻じ曲げて北東の糸島半島へ進んだ畿内説・福岡説は大打撃をこうむった。
これはたいへんと、大勢で寄ってたかって伊作をいじめたのではないであろうか。。。
ちいさい者とは、持衰であり、スクナヒコナだったのでは、ないのかな、、、
邪馬台国は会稽東冶の東
沖縄か台湾辺りと魏志倭人伝に書いている以上
伊作の言ってる事は全部間違いで九州説破滅
邪馬台国は筑紫でしょ
長く倭の政権を握ってたけど磐井の乱でヤマト王権が奪取したんだろう
磐井の乱では息子が筑紫の君を継承しているから、負けてないんだよ。
継体は長門より西を取ることはできず、賠償として屯倉ひとつを手に入れて終わった。
>>842 伊都を一貫してイツとしか読まないというのもよい。糸島のイトとは区別されるべきだね。
てか奴国まで定説通りで
投馬国・邪馬台国=筑紫
狗奴国=熊本
告知彦=菊池彦
で問題無いのにわざわざ新たな異説唱える必要ってあるのかな?
>>834 道化と小馬鹿にされても反論できなかった道化師
他スレで大宰府ネタが盛り上がっていたので一考
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。諸国は之れを畏れ憚る。常に伊都国を治むる。國中に於ける刺史の如く有り。”
女王国の北には一大率を置いて、特に(厳しく)検察に努めている。
(そのため)諸国(の使)は之れ(大率)を畏れ、気を使っている。
(大率は)常に伊都国を統治(監視?)している。
(大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。
「王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯」
”王が京都、帯方郡、諸韓国に使を遣わせる、及び郡が倭国に使するとき。皆な津を臨みて、捜され露わにされる。女王に詣る文章、賜わ遺の物は伝え送られ、差い錯りは得られない。”
(女)王が洛陽や帯方郡、諸韓国に使者を遣わせる時も、(反対に)帯方郡などから倭国に使者があった時も。
例外なく港に留められて(大率が)全ての荷を開けて調べる。
女王に贈られた文章も賜わりの品も(大率が)伝え送るので、違い誤りは許されないのである。
ご存知のように大率の職務は筑紫率や『記紀』に散見される筑紫総領、筑紫大宰との類似点が指摘されています。
一般に「常治伊都國」は”常に伊都国に務めている”と解釈されますが、伊都国には長の爾支と副長の泄謨觚・柄渠觚がいますし、そもそも伊都国には「丗有王」とありますから伊都国王も存在していますので矛盾します。
また漢文に置いて”常治”は監視(管理)しているとなります。
伊都国は現在の糸島市と誤解される場合が多いですが、律令制下の細長い怡土郡(福岡市西区・糸島市前原

)ですから、捜露の津は今津湾と断定できるはずです。
とかく邪馬台国九州説では伊都国に注視しがちですが、人口が倍の奴国が経済の中心であることは間違いがありません。
そして筑紫率や筑紫総領、筑紫大宰とは大宰府政庁の前身である鴻臚館を指します。
鴻臚館から今津湾までは高低差のほとんどない福岡平野で6kmしか離れていません。
大率は筑紫率に務める女王直属の官僚と考えるのがもっともシンプルかつ自然だと感じます。
そうなると自ずと女王国は筑紫率の南となります。
>>855 悪くない
で、筑紫宰の南にある女王国はどこなんだ
>>852 京都の都はト、東京都の都もト、さらに宮崎西都市の都もト。
だから、現代人は都をトと読むのが正しいと思っている。とくに関西・関東人はそうだ。
しかしくだんの日向西都市にある「都万」はツマと読む。
全国の神社の御祭神も、「都」とあるはツと読むのが習わし。最たる例として「伊都之尾羽張」はイツノオハバリである。
古代語の「都」は「ツ」、則ち「伊都国」は「イツ国」。
俺のふるさと、西日本の傍県内には「都」と着く古地名がいくつかある。
その全てで「都」はツと読む。
「都」をトと読ませる風習が広まったのは明治以降のことではないのか???
東京も昔は東京府だったもんな
津と都の違いがわからなかったのよねぇ
その昔、都をト、伊都国をイトコクと読んだのであれば、
大和ヤマトのトも耶麻都、夜摩都、などのように「都」を当てたはずである。
怡土(糸島)だから伊都国イトコクであったと主張するものは、ヤマトに都を当てた記紀・風土記等の事例を示してくれ。
>>861 正解。
台をトと読むのは畿内説の捏造。
橋本進吉氏の『古代国語の音韻に就いて』の中の万葉仮名類別表には、「ト」の乙類に万葉仮名としてはどこにもないはずの「臺」があり、
逆に『日本書紀』にあるはず(前掲「興台産靈」)の「台」がない。「臺」は「台」ではなく、「臺」は「と」とは読まないことは、資料上明白である。
「邪馬台」を「やまと」と読む人は、まず「壹」と「臺」を「台」に置き換え、さらに「台」を「と」と読んでいるのである。
倭人伝では倭国の地名・人名には基本的に卑字が使われているが
伊都はそうではないな
これは倭語に漢字の音を当てたのではなく
昔から大陸でもその漢語で知られていたんだろう
倭国の人名・地名については基本的に卑字で一字一音になっている
これが原則だが、そうではない「伊都」「末盧」「持衰」などは
昔から大陸側に知られた漢語表現
>>863 考えてもみてくれ、記紀においては、
「倭人伝の卑弥呼・台与は、神功皇后のことを取り違えて女王に仕立て上げたのではないか・・、」と思えるような書きぶりである。
神功皇后の在位も卑弥呼・台与にほぼ相当する201-269になっている。
さらに、糸島に怡土・伊斗村などの古い地名逸話有りと、由来になった仲哀天皇の故事も紹介している。
まさに、鬼さんおいて、手の鳴る方へ・・・、である。
しかしながら、
他方で東南500里の佐賀平野に「伊都・イトコク」と読める古地名・古代官衙が残っていては、フェイクであったことは簡単にばれてしまう。
であるからして、実は佐賀平野にあった「本当の伊都国」の痕跡は、大和朝廷により、それとなく消し去られたのではないであろうか。
あと三国志全体では「都」という漢字は他にも出てくる
都尉とか京都とか
この読みは「to」だろう
私はイツだとすればどこに否定するの?と聞いたはずだが
>>869 確認だが、863かな
伊作は佐賀平野の佐賀市西方の牛津あたりの水郷を伊都国とみていたようだ。
やや大き目の農村だ。
しかし、多くの渡来人や邪馬台国人が往来し、一大率も常治しており、
また東南百里には、2万戸の奴国が有ったということから逆推すれば、
佐賀市大和町の川上地区を伊都国と推定するのが最も適当と思う。カワカミノタケルの伝承地だ。
この川上地区のど真ん中を東西に横切る長崎高速道の北側に、標高15-25mの微丘陵地帯がある。
航空で見ると東西1q、南北250mくらいの道路に囲まれた団地風の遺構らしきがあり、
その内側は、幅150m前後の小道で縦に区切られている。
中央には藤原氏の守り神の大神宮跡を示す五社大明神あり、
また西端と中央北端には現状・ため池がある。
全体として、古代に稲穂を刈り取ったという石包丁のカタチに見えるのは、まさに古代伊都国ならではである・・・、
>>870
引っかかったなww そう言うのを「語るに落ちる」という、 >>871 確認だがその伊作という人は伊都国はイツ国と読むんだ!と提唱した人なの?
>>873 牛津あたりは当時海沿いだぞ
そもそも津の意味を考えろ
>>873 伊都国に港があったとは書かれていないな。
大事な郡使が来るなど、格別の用向きがあるたびに、一大率が津に出向いた、となっている。
賓客は、年に数回のことだったのであろう(当時、渡海の好機は6月と12月)。
末盧国には官が常駐していなかったようであるが、もちろん一大率の部下は常駐していたであろう。、
つまり、大事な時にはその都度、佐賀川上から御大将が松浦・唐津へ出向いたと考えれば良いのではないか。
(なお、一大率部隊の主要任務の一つは、この伊都国ー松浦港間のルート確保・連絡・護送であったように読める。)
>>876
>つまり、大事な時にはその都度、佐賀川上から御大将が松浦・唐津へ出向いたと考えれば良いのではないか。
つまり、大事な時にはその都度、直方から御大将が福津へ出向いた。 @阿波 >>877 現在の小城市だったという考え方もある。
以前俺も、そう考えたことがあるが、庶民の邑だったらしく、適当な官衙遺構と思しきが見当たらない。、
また里数的にやや足りない。(川上なら唐津中原港から37.5qくらいで500里ピッタリ)
>>876
>つまり、大事な時にはその都度、佐賀川上から御大将が松浦・唐津へ出向いたと考えれば良いのではないか。
つまり、大事な時にはその都度、直方から御大将が福津へ出向いた。 @阿波 伊都をイツと読む説は後の五十や伊覩、怡土に繋がらないから却下
>>855とは若干解釈が違うが
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯
帯方郡からの使者のことより先に自国から送る使者のことを書いているのが気になる
そして一大率の勤め先が筑紫宰という点は
>>855と同じなんだが、「皆臨津捜露」の津は筑紫宰の津だと考える
民間の荷は伊都国、外交の荷は筑紫宰
筑紫宰は草香江の突端、福崎にある
筑紫率=宣化紀の那津官家(なのつのみやけ)
天智紀に行政機能をさらに内陸に移動(太宰府政庁)
伊万里という地名は、伊の泊「いのとまり」が訛ったのだったな。。。
>>888 妄想を書き込む前に自分なりに調べたりできないのか?
伊万里という地名は、伊の泊「いのとまり」が訛ったもので、元々は伊の津「いのつ」だった可能性が高いな。。。
>>888 伊の泊「いのとまり」が訛って、伊万里という地名が定着した後に、移住してきたものが伊万里氏を名乗ったのだったね。。。
>>890-891 妄想を書き込む前に自分なりに調べたりできないのか?(二度目)
>855、>886
今津湾か草香江
いずれにしてもその南に邪馬台国があるってことやな
末盧国からの東南を北東に、
伊都国からの東南を東に読み替えての今津湾か草香江だから、
邪馬台国の方角も、正直そのまま南とは限らぬぞえ、、。
>>895 855と886のアプローチは女王国の北にある一大率の比定に絞ってる
>>896 難しすぎて、カキコの意味をつかみかねるわ
>>897 それはいくらなんでも読解力がなさすぎる
出発ルートに沿ってではなく逆に考えれば
仮に邪馬台国が九州だとすれば鉄器・遺跡の出土状況から狗奴国は人吉盆地・球磨地方が南限
狗奴国は邪馬台国と交戦した国、軍事的に邪馬台国と「タメ」を張るはず
考古学的証左から日向・九州南部はもはや狗奴国さえ比定することは考えられない
熊本平野=邪馬台国 人吉盆地・球磨地方=狗奴国
もしくは
筑紫平野=邪馬台国 熊本平野=狗奴国
が九州説の南限となる
すれ違いねえ、なかなか面白いこと云うじゃないかww
>>899 その一つが
>>855と
>>886だね
邪馬台国までの道程では推測不可能だが、邪馬台国からの道程から考察
北限が大宰府から南=筑紫平野北部
邪馬台国は筑紫平野か熊本平野に絞られる
そして筑紫平野と熊本平野は出土品などから文化的な差異がある
つまり大雑把ではあるが邪馬台国は筑紫平野のどこかだ
>>903 だからさっきから皆んなそう言ってんじゃんw
帯方郡の使いは、出発〜ルートをたどって邪馬台国に行ったのだから、その行きのルートは明瞭でなくてはならぬ。
そして邪馬台国での用務を終えたなら、無事帯方郡まで帰着しなくてはならぬのだから、帰りのルートも、これまた明確でなくてはならぬ。。
女王の使いが洛陽に行き、そして帰って来る時も又同様である。
いうまでもないことだ。
だが待って欲しい
大率=筑紫率=大宰府と考えるのは早計ではなかろうか
>>906
大宰府は早くて、7世紀の終り頃でしょ。 @阿波 >>906 大率=筑紫率=鴻臚館ね
大宰府は7世紀に建立だから
>>908 大率(役職)=筑紫率(役職)=大宰府(現在の場所)
>>911
そんなにビビらんでもwww 噛みつきゃしないよ。 @阿波 阿波さんってチューリングテスト用のテストAIなんだっけ
>>912 何でもお里起源にしようとする
勝ってるつもりでいる精神勝利法
阿 波 は 朝 鮮 人 ソ ッ ク リ だ な w
>>914
>何でもお里起源にしようとする
真実は如何ともしがたいんだよ。 面白くないだろうがw @阿波 >>915 何でもお里起源にしようとする
勝ってるつもりでいる精神勝利法
阿 波 は 朝 鮮 人 ソ ッ ク リ だ な w
>>791 >仲哀天皇は、足仲彦尊という名前なので、
「ナ」の国に足跡をもたらした彦⇒奴国征服王だよ
名前だけで解釈するならそうなる
まあ、これが記紀の立場だってことだ
>>804 >乙:卑弥呼が死んで墓を作ったわけだが、その後釜をねらって、、
>丙:共立倭30国のなかの男王が立ったことだ。案の定、各国不服で、千余人の戦死者がでるほどの大騒動になった。
これ単に、卑弥呼の死後に佐治国の男弟が、倭王を名乗ろうとしてだけじゃないか?
何の根拠もなく「存在が証明できないのだ。」とうめき
妄想フルスロットルで「〜だろう。」と断定したがる
識者らに追い詰められると「〜が妥当。」などとホラを吹いて逃げまどう
しばらくすると記憶喪失で再び同じ思い込みを延々とコピペする
それが キ ナ イ コ シ (主に邪馬台国・神代関連スレでの呼び名)
蔑称も多くあり、半島関連スレでは無能ヒトモドキと呼ばれ
高天原スレではカマチョン(猿芝居ではカモ先生)
海人族スレでは摂津チョン
などスレ毎の呼称も存在する
最近では奥山と呼ばれることもしばしば
特徴としては思い込みが強く、他説を聞き入れる耳がなく
また聞き止める度量もない
そして追い詰められるとテキトーなホラを吹いて
様々なスレを逃げ回り、あらためて妄想を書きなぐる
>>917 カはどうした?
那珂を支配した王の方がまだいい。
まあ、大帯日子の末裔で、次の応神朝への中継ぎくらいの意味の方が可能性があるけどね。
何の根拠もなく「存在が証明できないのだ。」とうめき
妄想フルスロットルで「〜だろう。」と断定したがる
識者らに追い詰められると「〜が妥当。」などとホラを吹いて逃げまどう
しばらくすると記憶喪失で再び同じ思い込みを延々とコピペする
それが キ ナ イ コ シ (主に邪馬台国・神代関連スレでの呼び名)
蔑称も多くあり、半島関連スレでは無能ヒトモドキと呼ばれ
高天原スレではカマチョン(猿芝居ではカモ先生)
海人族スレでは摂津チョン
などスレ毎の呼称も存在する
最近では奥山と呼ばれることもしばしば
特徴としては思い込みが強く、他説を聞き入れる耳がなく
また聞き止める度量もない
そして追い詰められるとテキトーなホラを吹いて
様々なスレを逃げ回り、あらためて妄想を書きなぐる
邪馬台国が筑紫平野にあったとすれば
女王墓はどこになるのだろうか
伊都国が糸島なら邪馬台国は筑紫平野
伊都国が佐賀近辺なら邪馬台国は熊本
さてどっち?
邪馬台国=熊本の可能性も否定できないが
狗奴国=クマ国、クコチヒコ=菊池彦 の比定と文化の差異から筑紫優勢かな
ただ熊本南部が球磨地方だから
熊本平野=邪馬台国、球磨・人吉=狗奴国の線も捨てがたい
人吉からは金鍍金鏡が出土してるね
卑弥呼から卑弥弓子へのケンカしないで仲良くしようぜ!ってプレゼントだったのかも
ところで伊都国は
倭人伝だと「有千餘戸」で魏略逸文だと「戸万餘」だが
どっちが正しいんだ?
陳寿が魏略を参考にしたのは間違いないが
逸文は誤って伝わってる可能性もあるし
>>923 >伊都国が糸島なら邪馬台国は筑紫平野
>伊都国が佐賀近辺なら邪馬台国は熊本
>さてどっち?
正しくその通り。
伊都国まで、糸島ルートか、佐賀ルートかで結果は変わる。二択だな。
邪馬台国が熊本なら、必然的に狗奴国は球磨郡になる。
球磨郡といってもお馴染みでないお人も多いだろうが、球磨郡は熊本県で最大の郡(旧郡時代)だ。
そしてこの球磨郡(現・人吉盆地)だけで、奈良盆地と同じだけの水田がある。
宙ぶらりんどころか、一大帝国を形成していたのだ(これは現在も同じような状況)。
邪馬台国と狗奴国の境は、やはり、緑川しかないな、、、
むか〜し、
緑川ナントカという歌い手が居たのでは、なかったかな、、、
熊本平野は現熊本県の中央部から北部にかけての平野、北東に菊池郡がある
熊本南部は球磨郡で山がちの地形だが人吉盆地が存在する
守りに適してると思われるので人吉盆地を拠点とした狗奴国が
邪馬台国連合に抵抗した可能性はある
古より、球磨郡は呉系の種族とされてきたそうだ。
3世紀の呉で製作された鍍金銅鏡も出土している。
だから狗奴国の本拠地が球磨郡で、その最前線が緑川だった可能性がある。、
卑弥呼と素不和は当然の成り行きだったと言えるのではないかな、、、。
そうだったな、緑川アコ、
5ちゃんの影響でふと思い出したわ
>>839
邪馬台国の会のインチキデータを得意気に貼るバカww
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku250.htm のページの
「県別・卑弥呼がもらった可能性の大きい「10種の魏晋鏡」の数」というグラフの、福岡県が37枚」
表2の抜粋だが、
三雲遺跡寺口U-17 2号石棺墓 福岡県 連弧文鏡(蝙蝠)△1
汐井掛遺跡4号箱式石棺墓 福岡県 方格規矩渦文鏡 ●1
汐井掛遺跡6号箱式石棺墓 福岡県 連弧文鏡 △1
汐井掛遺跡28木棺墓 福岡県 飛禽鏡 △1
汐井掛遺跡203土壙墓 福岡県 連弧文鏡 △1
平原遺跡 福岡県 方格規矩四神鏡 ●32
連弧文鏡 ●2
キ竜文鏡 ●1
連弧文八葉鏡 ●5
と、庄内期の福岡県の鏡が45枚挙げてあって、このうち37枚を「10種の魏晋鏡」としている訳だ
『ひと頃までは』、この平原遺跡の40枚のうち、大型の連弧文八葉鏡5枚は仿製鏡とされ、
キ竜文鏡1枚は前漢鏡、連弧文鏡2枚のうち1枚は後漢鏡で1枚は仿製鏡とされていた
とすると、平原1号墓の方格規矩四神鏡32枚と、その他の遺跡で1枚ずつの5枚を合わせて、
「福岡県は37枚」としていたと考えられる
たぶんこれで合っているだろう
ただ、問題は、同じ邪馬台国の会のウェブページで、この鏡のグラフだけを示したページがある
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/206kagami.htm
このページでは、福岡県の37枚が、「およそ邪馬台国時代」の20枚と、
「およそ古墳時代」の17枚に分割されている
福岡県の枚数が多いのは単に平原1号墓の方格規矩四神鏡32枚を数えているから多いだけで、
20枚と17枚に分けるのであれば、必ずこの32枚のうちの何枚かが「およそ邪馬台国時代」
別の何枚かが「およそ古墳時代」に分割されていることになる
ひとつの墳墓からの遺物をどうして「邪馬台国時代」と「古墳時代」に分けられるのか、 説明は一切ない
つまり不適切なデータの扱いということになる
さらに、
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku250.htmの表2では平原1号墓の鏡の枚数が
「40枚」になっていて、このページ自体は2002年の「季刊邪馬台国」のデータの転載だと考えられる
平原1号墓の鏡の枚数は、長らく「39枚」されていたが、
2000年の「平原遺跡(前原市文化財報書)」での「40枚」への修正を反映したものだと考えられる
2000年の報告書の内容が、2002年の季刊邪馬台国に反映されているので問題はないように見えるが、
この2000年の報告書で平原1号墓の鏡は「漢鏡5期の雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡と漢鏡3期の
四螭二朱雀龍虎鏡のの2枚以外は『全て仿製鏡』」とされている
鏡の枚数が40枚になっているところを見ると、2000年の報告書を参照していると見られるが、
それならば平原1号墓の鏡は全て外れるので、卑弥呼の銅鏡百枚候補の「10種の魏晋鏡」の
福岡県の枚数は「5枚」でなければおかしい
先に『ひと頃は』とカギカッコを付けたのはそういう意味
新しい報告書を参照しながら、九州説に都合の悪い部分はデータを更新しないままにしてあるのは、
誠実な態度ではないと思う
結局「三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではない」とセットで九州説の人がいう「10種の魏晋鏡は福岡県が
圧倒的」というのは、平原遺跡出土鏡だけに依拠したものであり、現在平原遺跡の鏡が古い
伝世鏡2枚を除き『全て仿製鏡』とされている以上、まったく根拠がないことになる
そして、桜井茶臼山古墳の方が「10種の魏晋鏡」でも圧倒的に多い
安本美典氏の九州説は、エンターテイメントとして需要があるから意味のある仕事だと思うけれど、
きちんと考古学的資料・報告書を見て、学会誌などでピアレビューを経た論文をしっかり読めば、
九州説はオワコンっていうのは「素人でも判断できる」んだよ
九州説の説明できない点は投馬国だよ
例えば伊都国を佐賀に持ってきたとして、投馬国はどこにする?
水行二十日はどこからどこまで?
>>944 船でしか行けないってことだとしたら、種子島、徳之島、奄美島、いろいろあり得る
当時の船を再現した航行実験によると、
「帯方郡(今の仁川港)から奴国(今の博多)、までを47日かかって航海した。」
これは参考になるな。
http://inoues.net/science/war.html >>942-943 何の根拠もなく「存在が証明できないのだ。」とうめき
妄想フルスロットルで「〜だろう。」と断定したがる
識者らに追い詰められると「〜が妥当。」などとホラを吹いて逃げまどう
しばらくすると記憶喪失で再び同じ思い込みを延々とコピペする
それが キ ナ イ コ シ (主に邪馬台国・神代関連スレでの呼び名)
蔑称も多くあり、半島関連スレでは無能ヒトモドキと呼ばれ
高天原スレではカマチョン(猿芝居ではカモ先生)
海人族スレでは摂津チョン
などスレ毎の呼称も存在する
最近では奥山と呼ばれることもしばしば
特徴としては思い込みが強く、他説を聞き入れる耳がなく
また聞き止める度量もない
そして追い詰められるとテキトーなホラを吹いて
様々なスレを逃げ回り、あらためて妄想を書きなぐる
>>944 邪馬台国が熊本平野なら投馬国は筑紫平野
邪馬台国が筑紫平野なら投馬国は筑紫平野北部で邪馬台国は筑紫平野南部
ひょっとすると八女=八女台かもしれない
不弥-投馬-邪馬台国までの道程、水行〜は誤記・意図的な改ざんのどちらか
ところで邪馬台国が筑紫平野だとすればみんな女王墓はどこだと思う?
>>948 野生号は途中で随行船に曳航されてるんだよ
あの実験で分かったのは現代人の筋力では準構造船で対馬海峡を渡ることは不可能という結果
カモ先生というのはサイキバ事件のような存在?
なぜか『ストU』というゲームの話をしていたり、
さかきばら事件のwikiを読んでみた?
あと『ストU』の画像も見てみて
>第三の事件で殺害された男児の首は遺体を冷凍して切断した可能性が考えられる。
>岩田は若いころ、来客に料理をふるまうためにニワトリを屠殺した経験があり、
>ニワトリの首は簡単に切れなかったと述べている。
>岩田は糸ノコギリで人間の首は切断できないのではないかと疑問を呈している
>のちに、鑑定結果を弁護士から知らされたAは「騙された、悔しい」といって泣いたといわれている
>>948 なみはやも漕手が大阪市立大学ボート部の現役選手という猛者だったにもかかわらず動力船の曳航なしでは津軽海峡を渡れなかった
野生号もなみはやも古墳時代の舟形埴輪をモデルとして商船大学教授らが設計したのだが、それ自体が誤りだった可能性もある
さかきばら事件
>さらに、「龍馬のナイフ」と呼んでいる鞘付きのくり小刀を一本、
>ジーパンのポケットか腹に差して持って出た。
>以前は龍馬のナイフ3本と出刃包丁1本を所有していたが、
>龍馬のナイフ2本は親に取り上げられていた
あいつが犯人だったのか・・・となるでしょ、
リョーマの家の人?
長ーいテンプレより
この程度で良い
キナイコシは
九州説の本を2〜3冊読んで参戦されたし
>>951
>あの実験で分かったのは現代人の筋力では準構造船で対馬海峡を渡ることは不可能という結果
そもそも、出航地(釜山)が間違ってるんだよ。 釜山出航では、対馬海流に流されて、対馬には着けない。 @阿波 >>961 あれ?お前の言い分だと縄文人は骨太で現代人の人知を超えたマッスルパワーがあるんじゃなかったっけ?
九州説の根幹「行程」は崩壊している。
対馬海流に流されて「末蘆国」が呼子や唐津や松浦は有り得ない。 @阿波
>>963 インチキ年毛神社にしか伝わらない「万津浦」=末盧国ってトンデモネタは聞き飽きたお(´・ω・`)b
阿波というのは、む〜かし満州コテで出没していた男の精神構造に似てるな、、、
先日は、自著の宣伝に忙しかったようだが・・・
>>964
阿波説は逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。 はい、次。 @阿波 >>966 ごめん勝ってる姿見たことないけど心の病か何か患ってるの?
>>967
負けているところも見たことないでしょ。 ハハハハハ @阿波 >>967 彼はヤンキー漫画によくある「負けは認めない限り負けじゃない!」を実践してるんだよ
だから勝ったことがなくても良いし、こうやって触り続ける限り「負けてない!」と言い張り続けるからスルーが最善の対処法だよ
>>967
阿波説は逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。 はい、次の方どうそ。 @阿波 >>948日本@名無史さん2019/05/29(水) 00:37:53.94
>当時の船を再現した航行実験によると、
>「帯方郡(今の仁川港)から奴国(今の博多)、までを47日かかって航海した。」
近年の九州大学の最新観潮レーダー観測によると、
潮の流れ(離岸流?)を利用することで、各島間を原則1日で渡れるそうだ。
(但し季節と月齢に左右される、年2か月程度。6月頃が最適)
このことを考えていなかった野生号の実験は、ただの冒険野郎の無謀な行動だったわけだ。
古代は潮の流れに乗って渡海してたっぽいね
だからたまに出雲や能登に流れ着く
>>970
>スルーが最善の対処法だよ
そりゃ、無理だよ。 @阿波 >>972
>このことを考えていなかった野生号の実験は、ただの冒険野郎の無謀な行動だったわけだ。
そもそも、出航地(釜山)が間違ってるんだよ。 釜山出航では、対馬海流に流されて、対馬には着けない。 @阿波 >>974 その話は以前も聞いた。
野生号のような潮・風を全く考えない冒険でそうだったから、古代もそうだったというのは断定し過ぎではないか。
inoues.netには、当時の船の構造は確定していないと書いてある、
当時、潮や風を全く利用しなかったとは到底思えぬ。
現に、対馬海峡を頻繁に渡海航行していたのだから、安易に否定に走るのはいかがかと思う。
>>977 東アジアで海洋帆船が出現するのは宋代以降
さいきん、出戻りしてきた阿波。
九州論に未練たらたらとお見受けしました、、、(どうやら九州説に嫉妬しておるなww)
実際遣使しまくってるからね
そして遭難しまくってるんだよね
何かしら成功率高めるメソッドあったんだろうけど基本博打だったんだろうね
持衰とか居たわけだし
>>979
九州説に嫉妬? ハハハハハ、心配しなくてもそれは、絶対ないから。 ちょうどいいイジリネタを提供してくれるからだよ。 @阿波 その渡海技術を独占していたのが、対馬海峡に成立した倭国だったのだろう。
後漢書では、倭の北限が狗邪韓国、南界が倭奴国だからね。
海洋国家であったから、和語でアマツクニ(天津国)
>>980 遣唐使船でさえ片道の成功率は80%だったから基本的に4隻1セットだったらしい
>>980
大陸からの玄関口(福津市周辺 万津浦)
大陸への出航地(平戸市周辺) @阿波 >>983 天と海は上古ですら違う語アンド違う音だとナゼ学習しないのだ・・・
>>983
>その渡海技術を独占していたのが、対馬海峡に成立した倭国だったのだろう。
渡海技術を独占していたのは、全国へ進出していった倭国(阿波)の海人族だよ、 そんなところに倭国はない。 @阿波 >>986 記紀や万葉集が書かれたのは後世だから、それまでに表記と音韻の分離が完了したのだろう。
>>985 芦屋〜古賀までの海岸線に「濱山海居。」に該当する土地はないと何度叱りつけられれば学習するんだ?
芦屋〜古賀までの海岸線にアワビが自生してる海域は存在していないと何度叱りつけられれば学習するんだ?
お前もキナイコシと同じで記憶喪失が得意技なのか?
>>983 やっぱ北九州の古代倭国は海洋民族だったのかなあ
江南地方とやっぱ関係あるのかね
【倭国】
紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸の狗邪韓国から九州北岸の倭奴国までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生み神話で、イザナギが矛を使って最初に得た領土である淤能碁呂島は、銅矛文化圏の中心である博多湾にある能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国土のうち、天の冠詞がつく隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国(海の国)の本来の領域である。
倭は博多湾沿岸を都として対馬海峡に広がるという後漢書の記事とよく対応している。
国産み伝説には、記紀編纂までに西日本各地の土地が追加された。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
卑弥呼の時代には倭は九州内陸へ拡大していく。
九州で出土した副葬品の分布地図
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。
>>988 忌部の下請け精肉屋・葬儀屋が全国に進出?
何の冗談だよwww
海流の表層50p位は、風の影響を受けて深層の流れとは別方向へ流れるらしい。
帆がない時代でも、風は有用だったのだそうだ。
なお倭人伝の水行日数には、たぶん風待ち汐待ち日数は含まれていない。航海の正味日数だったのだろうな。
>>993 それ妄想
海はワタであり、文字が入ってきた後もアメとは読めないんだから天とは無関係
天津神、国津神
天照、大国主
海幸、山幸
綿津見、大山祇
海と山の対比は記紀の基本的な枠組みだよ。
天津国が海洋国家を意味するのは当然だ。
後漢書とも一致する。
>>997 内水面の関西から出た船は参考にはならぬ
マッチョな弥生人は、丸木船を使ったのではないのかな。。。
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・【古代】邪馬台国九州・畿内並存説、魏志倭人伝の矛盾を解く ★2 [樽悶★]
・【邪馬台国九州説】邪馬台国九州説に新たな視点 卑弥呼が統治した「クニ」考察★2 [しじみ★]
・【福岡】邪馬台国九州説に新たな視点 「近畿は絶対的な王権で後のヤマト、隣接したクニとも調和を保った北部九州こそ邪馬台国」
・邪馬台国ヤマト説
・邪馬台国四国説 part2
・邪馬台国畿内説 Part392
・邪馬台国畿内説 Part541
・邪馬台国畿内説 Part296
・邪馬台国畿内説 Part543
・邪馬台国畿内説 Part418
・邪馬台国畿内説 Part488
・邪馬台国畿内説 Part458
・邪馬台国畿内説 Part417
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・邪馬台国畿内説 Part533
・邪馬台国畿内説 Part316
・邪馬台国畿内説 Part283
・邪馬台国畿内説 Part536
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・邪馬台国畿内説 Part384
・邪馬台国畿内説 Part380
・邪馬台国畿内説 Part538
・邪馬台国畿内説 Part480
・邪馬台国畿内説 Part486
・邪馬台国畿内説 Part434
・邪馬台国畿内説 Part423
・邪馬台国畿内説 Part505
・九州の古代史【邪馬台国畿内説前提】
・邪馬台国、九州にも畿内にもあった説
・邪馬台国纏向説破綻の理由を初心者に。。。
・考古学者の邪馬台国畿内説離れは集団心理なのか
・邪馬台国はどこにあったか初心者に説明するスレ4
・【古代】邪馬台国論争、議論は永遠の平行線★2
・【論破済】 邪馬台国 卑弥呼 馬韓説 【完全破綻】
・2019年台風6号「ナリ」は瀬織津姫様の顕現である
・【歴史】卑弥呼の邪馬台国と争った国「狗奴国」が熊本に? 九州説に新解釈 ★3
・【奈良】大和の地こそ邪馬台国に相応しい 箸墓古墳と纒向遺跡、大神神社★2
・【昨年台風21号】損保支払額は1兆円超 大都市圏直撃 強風と高潮で金額膨らむ
・子供に名付けようと思う。日本の礎を築いてほしいから邪馬台(やまだ)なんてどう?
・【東京】纒向遺跡は邪馬台国か、箸墓は卑弥呼の墓か議論 東京で纒向フォーラム★3
・【書評】まさに「偽史倭人伝」 あの邪馬台国は中韓が捏造した?★2[8/26]
・【邪馬台国】古代体感、施設整備を 大阪でヤマト王権シンポ「卑弥呼のクニを探る 唐古・鍵から纒向へ」
・【奈良】邪馬台国の有力候補地「纒向遺跡」見える化 桜井市、建物跡に目印設置へ 900万円目標、ネットで募金
・【大阪】「邪馬台国」卑弥呼の後継者“台与”の西晋朝貢以降〜「倭の五王」時代までの「空白の4世紀」に迫る特別展
・そろそろ「邪馬台国」がどこにあったか決めよう 東遷説は頭ネトウヨの妄想 畿内説は魏志倭人伝の記述からありえない 九州でいいよな?
・【大阪】「邪馬台国」卑弥呼の後継者“台与”の西晋朝貢以降〜「倭の五王」時代までの「空白の4世紀」に迫る特別展★3
・新刊発売、中国九州地方で1日遅れに 物流危機で書店逆風 Amazon「うちは今まで通りの日程で配達できます」
・【天気予報】大寒波が年末襲来 クリスマス寒波より強い「那覇夏日」→「クリスマスイブ寒気」→「年末は本州四国九州最強寒波」
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・【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★9
・【宮崎】邪馬台国はどこにあったのか、考古学者・北郷泰道さん講演 「北部九州の範疇の中に邪馬台国の所在地は絞り込まれる」★2
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・邪馬台国畿内説 Part629
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