◆ソ連の極東政策
ソ連の西部国境は比較的平穏であったのに対し、同時期の極東の国境では、
熱い外交的・政治的紛争が、直接的軍事衝突の形をとりつつあった。
最初の軍事衝突は1929年の夏から秋にかけて、北満州で勃発した。その原因
となったのは東清鉄道であった。1924年のソ連と中国北京政府の条約で、東清
鉄道はソ連と中国の共同管理下に移管されていた。しかし、1920年代末までに、
中国管理部はソヴィエトの専門家により排除され、鉄道とその支配下の部門は事
実上ソ連の所有に移行した。このような事態になりえた要因は、中国の極めて
不安定な政治状況であった。1928年、中国全土の統一を目指す蒋介石政府が権
力の座につくと、東清鉄道を軍事力で取り戻そうとした。
軍事衝突が発生した。ソヴィエト軍は中国領内で、軍事行動を開始した中国
国境守備隊を粉砕した。
同時期、極東では日本という戦争を煽る強力な源が台頭した。1931年に満州
を占領した日本は、ソ連邦との国境線に接近したが、当時のソ連の所有下に
あった東清鉄道は日本が支配している地域にあった。日本の脅威は、ソ連と中
国の外交関係を復活させることになった。
1936年11月にドイツと日本は反コミンテルン協定(日独防共協定)を締結、
その後同協定にイタリアとスペインも参加した。1937年7月に日本は、大規模
な中国侵略を開始した。このような状況下、ソ連と中国は相互に接近し、1937
年8月に不可侵条約が締結された。条約締結後、ソ連は中国に技術的・物質的
援助を行った。戦闘では、ソヴィエトの指導員や志願飛行士が中国軍側で闘う
ことになった。
1938年夏に、日本軍とソ連軍との軍事衝突がソヴィエト・満州国境で始まっ
た。日本側にとっては、最初の偵察戦闘であった。結果としてソヴィエト国
境を占領できないと思われたものの、日本軍は1939年5月にモンゴル人民共和
国内のハルヒン・ゴル川域へ侵略した(ノモンハン事件)。ソ連には1936年にモ
ンゴルと締結した相互援助条約があった。その任務にしたがって、ソ連は軍隊
をモンゴル領内へ進めた。
ロシアの歴史〈下〉19世紀後半から現代まで―ロシア中学・高校歴史教科書
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