石田三成が徳川家康に勝てた可能性があるやり方を教えてくれ
>>2
死んでないよ
そのあと16年も生きてるだろ >>8
確かに横綱だけど、徳川家康みたいな大横綱ではなくヘタレやんけ
大野国や鶴竜みたいな 言い尽くされてることだが家康布陣の夜に石田・島左近・大谷善継勢1万数千で本陣を急襲して家康を殺してしまえば決着がついた
この時はまだみんな日和ってるから石田勢が家康本陣に近づいてもスルーしてくれたろう
まだ家忠旗下6万が健在だが今度はどんどん西軍に寝返ることになる
裏切りがなくて全軍がちゃんとフル参戦してれば勝ててた可能性が高いんだなよな
数的優位と陣構え(鶴翼の陣)の優位でな
机上の空論かもしれないけど
小早川他が寝返らなければ
関ヶ原だけでもなんとかなったかもぐらいではあるんだろ?
>>9
ヘタレというがそもそも毛利は豊臣恩顧の大名ではなく力関係で頭を下げただけで自分の家を守る事が第一だった
風向きで生き残る為にどちらに付くかを変えるのは仕方がない
家康も関ヶ原は表向きは「謀反を起こした三成を成敗する」という大義名分で戦った為に豊臣恩顧の大名が付いた(三成憎しというだけではなく)という経緯がある >>12
BBCの番組だったかな
西軍と東軍の戦力陣形を見たら軍事の専門家なら
100人中100人が西軍が勝つと予想するといってた 東軍側だって、秀忠率いる主力の徳川本隊が戦いに間に合わないという致命的な失態を犯していたんだからな
西軍にとっても勝てない戦ではなかった
小早川はどちらに付くか迷っていたので戦意が低く寝返らなくても戦力にはならない
徳川本隊は真田に足止めを食らって遅参していたため丸々残っており関ヶ原で有利に進めていても合流すれば劣勢になる
前日に夜討ち案を却下した時点で詰んでる
関ヶ原で死力を尽くして戦ったのは 石田軍
大谷軍 宇喜多軍の三軍のみ それでも小早川軍
が寝返るまでは 五分の戦いか 西軍やや有利
大善戦だろ 小早川が寝返らなければ どう転んだかわからんぞ 毛利 島津 などは所詮 お家大事の
日和見なんだから 西軍有利と見れば 東軍に
襲いかかっている
>>20
いや、小早川が寝返らなくても、吉川広家さえいなければ毛利軍が参戦できていたし、徳川本隊だって到着が遅れただけでなく無理な行軍でヘロヘロだったらしいからな >>23
輝元も大坂城から動かず毛利軍自体にそれほど戦意がなかった
西軍が勝てた説はその数の兵がその数のままそのまま動いたらというもので個々の戦意までは想定していない 歴戦の将島津義弘の助言通りに家康が到着する前に東軍に夜襲をしてれば勝つ可能性があった
>>13
関ヶ原は西軍が勝っても家康殺せなきゃ意味がない戦いだったよ。
どの大名も戦う理由がないのだから。
戦国大名を叩き潰さず懐柔して天下統一した秀吉の失策
信長なら毛利も島津も上杉も徳川すら潰していただろうからな。
家康は戦国大名を外様とし譜代を重用したのは正しいやり方。 まずは福島正則と加藤清正と黒田親子と前田親子に土下座
徳川の本隊である秀忠が遅れたのは
家康からの何日までに来いという手紙が
大雨で届かなったから(今の通説)
手紙が届いていたら
真田なんか相手にせず関が原に徳川本隊は来ていた
頭数だけは揃ってしまったのが問題
真っ向勝負にチャンスがあると勘違いした
>>14
関ヶ原の戦いの本質は 高台院(北政所)と淀殿の
女の戦いだよ 東軍の 加藤 福島 浅野などは
高台院を母と慕ってきた尾張派(実際 加藤も福島も秀吉の縁者)小早川秀秋は高台院の実の甥であり 養母でもある 淀派は石田も大谷も近江出身
浅井長政の娘である淀殿に付く
家康は高台院派を利用しただけ その証拠に
天下平定後も家康は終生高台院を丁重に扱った >>32
豊臣家から三成方は金を引き出せていない(拒否されている)のでその説の信憑性は低い >>16
明治時代に軍事教官として招いた外国の軍人(プロイセン?)が陣形見てソッコーで西軍が勝ったはずと言った話はあまりにも有名。 >>32
秀吉古参の尾張派vs長浜以降の近江派の対立との見方もあるね
石田三成は人徳がなさすぎた
豊臣秀次が殺されたのは三成のせいだと思われ
秀次の重臣だった田中吉政(近江出身)・中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊、一柳直盛も東軍に属した
彼らは東海道に城を持つ武将だったから東軍の進軍には大きかったよ
小早川秀秋は近江の出身
近江派の一部からも嫌われた三成の人徳のなさ >>35
大谷吉継は小早川の寝返りまでは予測していた
だから小早川軍を牽制する為その4人を小早川
軍の抑えとして配置したのにその4人まで 大谷
軍に襲いかかられては さすがに勇猛果敢名将
大谷吉継でもどうにもならんわな 大阪城の秀吉の息子を関ヶ原に引っ張り出して来たら勝てたな
そもそも家康に対抗した三成という図式ではなくて、三成絡みの豊臣内紛を利用した家康という図式だからな。豊臣守る気なら武断派と仲良くしてるだろ。
人徳と言っても仕方ない面もあると思うけどな
家康なんて長生きしてるのもあってたたき上げで
ゲームのパラメータでいう武威みたいなのが高値
三成は当時のイメージだと勉強のできるエリート官僚だろ?
武威みたいなの積めるわけがない
家康が関東に追い払われて
家康生誕の地、岡崎城に入ったのは田中吉政
しかも対家康のために岡崎城を強化
その田中吉政が最後、石田三成を捕縛した
運命というか皮肉を感じる
東海道は家康がやすやすと侵攻出来ないような鉄壁の配置にしてあるのにそこら辺が家康の与力になった時点で三成に落ち度がある
あと数日まてば主力の立花宗茂らが来るからそこまで待てば良かった
毛利両川脇坂朽木赤座小川が西軍として本気でやりあってたら関ヶ原大敗しないで豊臣領は安堵されてたな
>>43
そうそう
初めから小早川秀秋は東軍なんだから裏切りもクソもない
そもそも秀次につぐ豊臣継承候補だった小早川秀秋が石田三成に従う道理もない >>32高台院家康から貰った化粧領僅かでケチ臭いたねき親父と や三成がもっと大大名か逆に小大名だったらと風雲児たちでは言われてたな
野心なのか忠義なのか分かりにくいポジションにいた
秀頼を前線に出せば
豊臣恩顧の武将は逆らえないんだから
秀吉のチンポのたまきんの繁殖力が数年早ければ勝てた
西郷どんも最近話題になってたけど
関ヶ原も西郷どん同様、
一般の認識と大分、異なるという事実が
最近の研究で明らかになってるのでは?
そもそもあの有名な陣形自体
疑義があるのでは。
ワイも多少好きなレベルで
詳しくは知らぬが(´・ω・`)
逸話で言われてるようにせめて三成が秀吉からの北九州地方100万石の加増領地替えを断らなければ貫目自体はあったはずで
不治の病にかかった大谷義経だって100万の軍勢を指揮させたいと秀吉さんに言われた話もどこかで見たし
まあこんな話をしたらいろいろキリがないけど
江戸時代に美化した話じゃなく、最近の関ヶ原は一瞬で終わってた説が、正しいんだろうな。
大谷刑部が実は無能で、小早川秀秋が一瞬で西軍を破壊する名将だったとかさ
結局歴史のif は関ヶ原の結果なんかよりもしも信長が暗殺されなかったらに尽きるよな・・
>>47
総大将が本家である以上裏切り者と見られてもしゃあない
吉川の立ち回りが正解 福島とケンカしない。
戦法というより政治力の差だからね。
なんかTVで見たな
この布陣でこちら(三成側)が負けるわけが無いとか
結局は家康の根回しがモノを言ったわけだが
>>59
毛利の分家連中を根回ししてて後ろから徳川本隊が来るから負けようがないけどな
それを意図的に排除したら西軍圧勝の布陣に見えるけど 京都まで負けたふり続けながら地味に戦力削っていって
入京させて二十日くらいで調子にのったとこで関東とのつながり切って
また負けたふりして戦をしらないアホボン達を引きずり出して切り離して討ち取る
まあ普通にやったらこれ味方の寝返り続出してにっちもさっちもいかなくなるんだけどね
治部殿は兵担が下手だったから本拠から離れたら本当に弱かった
>>48
高台院にしてみれば「私が天下を取らせてやったのに」と言う思いは当然あるだろうね 秀長、利家、氏郷の何れかが総大将なら家康に付く武将減っていただろうな
浅い知識で言っちゃうと
淀を口説いて秀頼を本陣に入れてれば東軍にいる秀吉子飼いの連中は寝返らないまでも身動きは取れなくなってたんじゃないの?
って思うんだがどうなのさ?
水攻め覚悟で大垣城に籠城。大谷吉継たちは佐和山城に撤退させ立花宗茂たちの合流を待つ。
大分の大学教授で関ヶ原は無かった説はおもしろいよな
関ヶ原は江戸時代に徳川が作った作り話ってあるね
>>68
東軍が大垣城を無視して佐和山城に向かう動きを見せたから
関が原に西軍が出てきたのだけどね >>69
そう言う大学教授って馬鹿だよな
その後の改易や領地替えの証拠も全部捏造だと言うんかね >>52
前田利家が死んで、三成が武闘派の武将に襲撃されて
家康の屋敷に逃げ込んだ話は創作らしい
実際は伏見城に逃げ込んだ >>71
歴史学者って新しい説を言ったり、新しいことを見つけて評価される
通説と同じことを言っても普通だから
「つまり、これは〇〇ってことだったんだよ!!」とかの「な、なんだってー!」ってなるような
驚天動地みたいなことを言わないと評価されないからな >>66
淀は大阪の陣を見てもわかるように無能だからなあ
真田丸だと竹内結子の淀君を悪役にできないのか、側近とか織田有楽とかが無理やり無能に描かれてて草生えたw 総務課長の三成が、代表取締役副社長に勝つのは、専務の秀長、利家が死んだ段階で
無理だった。
>>73
負けて江戸に逃げ戻れば、大老から降ろされて秀頼の代理人の資格を無くし、諸将に下知する権利を無くす
関東に拠って守りに徹するなら幾らでも粘れるだろうが、天下を獲るのは無理だと思うで >>70
それでも不穏な小早川がいる以上史実よりはまし 正攻法にこだわらず島津らが主張した夜襲をかけて家康さえ討ち取っていれば
流れは西軍だったかもしれないが、三成の人望、統率力では勝ったとしても
いずれ西軍の有力者にとって代わられていたんじゃないかと想像
互角かのような錯覚を起こさせたのは淀だろうねえ
実際は烏合の衆だった
>>77
秀長に刃向かうのは謀反人なわけで
秀頼の後見人の利家に刃向かうのも下手したら謀反人なわけで、
結局死ぬべき人が死に内紛に乗じてテしか事を起こせなかった家康も評価低い >>8
元就じいちゃんなら、話は違ってくるが、担がれおぼっちゃんじゃあ無理 応仁の乱みたいに、ダラダラと西軍と東軍の戦いが続けば
黒田如水とか伊達政宗が伸長して、また戦国時代に戻りそうだな
で、横から西欧諸国が介入してきて、植民地になってEND
>>84
天下をとった家康の評価が低いなら
家康に負けたやつらの評価はさらに地に落ちるなw >>85
吉川広家「西軍とか勝つわけないじゃんw徳川家康と通じておいて、元就公の所領を守るぞ」
毛利秀元、安国寺恵瓊「西軍について三成とともに家康をぶっ倒すぞ!」
家の中でチームがバラバラじゃねえか、って状態だしな >>87
日本人の判官贔屓とか、コーエーがやたらと三成推しというもあるけど
家康って功績の割にはあまり人気がないのはあるw源頼朝も同じだが
まあいちゃもんつけて大阪の陣を起こして、約束を反故にして堀を埋め立てたりして勝ったり
関ヶ原も小早川とかに裏切らせて勝っただけだし
姑息なイメージはあるけど >>87
三成は置いといて少なくとも秀長や利家よりは格下だってこと
利家が秀頼の後見人として大阪にいるのに加藤や福島ら恩顧が家康に付くわけがないし 前田利家なんかを意味不明な過大評価をする馬鹿が湧いてる
前田家にせよ上杉にせよ家康が豊臣家臣団として禁止されてた大名間の婚姻を屁理屈言って約束事を破り進めてた事を糾弾してたわけだし野心は見抜く人には見抜かれてた。大義はないよ
糾弾したのは上杉の家老直江状でも明らかで正論突かれてブチ切れた家康が上杉を罠に嵌めて起こした軍が関ヶ原の家康軍
あほなのはやすやすと騙された大阪在城の大阪方の人々
>>95
その気配があったから脇坂朽木赤座小川をあそこに置いたんじゃないの? 三成が勝ってその後の天下取りを誰がするかって考えると面白いな
三成は結局殺されただろう
吉川の読みが結局よかったのか悪かったのかよくわからないねw
東軍は勝って世は太平になり毛利家は後々まで続いたとはいうものの
功労者のはずの小早川は断絶、本家は領地ごっそり削られ干され・・・
もう関ケ原以前に秀長の病死と秀次事件が豊臣家臣団を半分崩壊させているから
秀長が生きていれば、諸大名や秀次・秀頼間の調整弁になっていた可能性が高い
さらに、秀吉のヒステリーで起こした秀次事件で巻き添えを喰らった大名の殆どが家康を頼った
最上義光や浅野長政、田中吉政、山内一豊なんかは典型例だし、小早川秀秋も一時秀次事件で連座しているぐらい
もっとも三成も、秀次事件で浪人になった旧家臣団を多く採用しているんだけど、そういう話はなかなか伝わらないもの
秀長の病死はともかくとして、全ては老害の秀吉が巻き起こしたことで豊臣政権を衰えさせる原因を作った
>>99
ほぼ同意
秀長の死はかなり大きかった
それと小早川隆景の死も大きかった
隆景が死んでいなければ毛利は一致して
西軍に組みしていたはず >>98
広家は生涯、輝元に口をきいて貰えなかったらしい
それでも広家が両天秤掛けたから西軍総大将だった毛利が生き残れた 朝鮮の役で、名護屋城で前田利家と徳川家康の部隊でもめたとき
かなりのメンバーが前田利家についてたな
あれで徳川家康は前田利家が健在な間は好き勝手できないと痛感した感はある
あと、秀吉と利家は信長時代から
家族ぐるみで仲良くて
子供を授からなかった
秀吉と正妻北政所に利家と松の娘を
養子として譲った
その子こそ、宇喜多秀家の正妻豪姫だから
北政所、後の高台院も
利家さえ生きていれば敵対する動きは
人情として出来なかったと思われ
武力や智謀では家康に敵わないのはわかってはいるけど利家には親父様と慕われる人望があったんだよね
人望と言えば人望だけど
あの時代は国の豊かさや大名として年を重ねてきたか
それ自体が格になるからなあ
文官気味だった三成はそれだけでも無理があるし
大一大万大吉よくやったと思うよ
>>99
>>100
家康と影の軍団による陰謀みたいに秀吉にとって不利な状況になっているのが実に面白い
山田風太郎の本なら毒殺や妖術で長きに渡り幾人も葬った話しになるくらい重要人物が消えている 火縄銃の銃身の内側に螺旋状の溝を掘って、弾丸をどんぐり状にすればワンチャンあったかも。
>>89
家康が約束を破り大坂城の掘りを埋めたという当時の資料はない
それは後になってからの資料の記載
君の家康像は結論ありきなだけ
敵味方工作は西軍もやっているが
工作がいきすぎて三成は細川ガラシャは死に追いやっただろ >>95
関が原は豊臣恩顧の武将の内紛にすぎない
小早川が三成に従う道理はないから裏切るもクソもない
初めから小早川は東軍
だから松尾山に布陣した >>107
なんか、一連の意見を読ませてもらうと学術的な考えではあるんだろうけど
ほとんど夢もロマンもないねw面白みのない人だなあ >>109
資料、事実に基づかない君は歴史を語る必要はないね というか、ほぼ東軍側から見た歴史だよね。家康びいきの人なのかな
西軍が勝つならどんな戦法があったんだろうというスレタイだからそこ察して欲しい
>>109
人殺しに夢やロマンがあると思っている君の精神に異常性を感じる あっそ。じゃあ戦国もののゲームも歴史小説もみんな異常なんだね
もういいやさよなら。
>>112
どうぞどうぞw
君がそれについてレスをしたらどうかな
君のご高説を拝聴しようじゃないかw
さぞ高尚なレスなのだろうw >>104
石田軍には島左近 宇喜多軍には明石全登と言う
当時 希代の戦さ上手がいたから関ヶ原序盤の
西軍の攻勢も頷ける 挙兵した時点で尾張から美濃にかけて主力を集結させれば良かったんだよ
元々あのあたりは対徳川の巨大要塞みたいなもんだから一定数の兵が確保できたら負けるはずがない
西軍の戦略的敗北
長期戦になると考えたのか田辺城や大津城みたいな小城に大軍を割き過ぎ
家康着陣が判明の時点で大津城は緩包囲する程度に留めてほぼ全軍を大垣に移動させるべきだった
信長が本能寺で死んでなければ
信長が朝鮮出兵で大コケして秀吉の天下だったのになあ
上杉は伊達、最上に抑えられ
毛利は吉川、小早川の両川が内応し
島津は二千しか兵を出さず
秀吉子飼いの加藤、福島らは家康に付き
三成は20万石しかない
そんで家康自体が最強の軍事司令官
勝ち目なしですわ
>>119
いや・・信長時代の大陸出兵なら全盛期の秀吉が前線で活躍するからまた話が違ってくるでしょ >>118
それに加えて伊勢でも無駄な動きをしすぎた。清洲城奪取に全力を注ぎ込むべきだった。 三成さんは女に負けたんだよ。秀吉の2人の正室、ねねと淀殿を味方に付けられなかった時点でアウトだったね。
ねねは自分に子で出来ず、淀殿の産んだ秀頼の世を内心、望んでなかった。
幼少から養った黒田長政・加藤清正・福島正則が徳川に付くことを認めた時点で勝負あり。ねねが説得すれば3人を止められた。
実質、豊臣家首脳の淀殿は家康に丸めこられて金と兵糧と豊臣の旗を与える始末。この時点で朝敵扱いになってしまった。
当時の毛利一族の長が凡庸な輝元ではなく、もし元就だったとしたら立派に家康と渡り合えていただろうに
>>120
上杉は最上討伐中で、伊達は上杉から逃げ回って押さえる所じゃないぞ
最上が片付けば越後と繋がるから一大勢力になってた
両川は内応はしてたが完全に様子見で徳川が不利と見れば容赦なく徳川に攻め込んでただろう 四年前かな
大関ヶ原展を指原座長公演とセットで
福岡に見に行った思い出(^-^)
毛利輝元が真田昌幸に
「味方してくれるよね?」
と泣きついてる書状とか
脇坂安治の面白げな甲冑とか展示せれていて
見所てんこ盛りだった(ゝω・´★)
東海道筋の大名は軒並み家康に付いて行ってガラガラなんだから
切り取り放題進撃すればいいのにw
>>125
関東には家康が武勇でいちばん信頼していた息子の結城秀康を置いておいた
秀康も関ヶ原の戦いに参戦したかったが、家康は上杉らに備えで関東に残した
後顧の憂いを排除した秀康は論功行賞で加増され、家康は高評価をした 人望もないし戦も下手なんだから完全に裏方に徹すればよかった
宇喜多を総大将に島津と大谷を軍師にしておけばなんとなく負ける気がしない
>>123
秀頼は名目上秀吉と正室北政所の子供 北政所が
秀頼の世を望んでいないなんて有り得ない
但し北政所は子供いないだけ現実派だから家康の庇護のもと一大名として豊臣の家が存続するのを選んだだけ >>130
本領の120万石に最上領を併呑すれば旧領の越後も手に入るから、秀康程度じゃとてもとても
たぶん伊達が尻尾振って上杉軍の先鋒勤めてるぜ 朝廷に働きかけて官軍になれば良かった
皇族を総大将にして錦の御旗を掲げれば東軍の諸将も雪崩をうって寝返っただろう
裏切った裏切ったって言うけど豊臣を裏切ったと言うより三成なんかにつかん結果徳川についたって事でしょう