かつて静岡県を流れる大井川で水返せ運動というのがあったが
宗教界にも統一協会の元信者たちによる「青春を返せ裁判」がありましたね
みんなで宗教活動にまつわる想い出をいろいろ語りましょう
「“機会費用”とは、複数の選択肢があるとき、
ある選択肢を採用したことによって犠牲にされた選択肢を選んでいたならば得られたであろう価値のことである」
生涯において
新興宗教への入信が
機会費用の莫大な損失
ということにならないように…
宗教とは公のための救済ではなく、商売のための娯楽になっている
利益のためには血眼になって、新しい言葉や概念を市場に送り出す
購買心理をあおるには、目先をかえて新概念をドンドン作る。モデルチェンジをはかっていくのだ
アセンション、レプタリアン、副守護霊、○○祈願、宇宙波動、パワ−スポット・・・・
需要をかき立てるには宣伝しかない。人々の欲望を刺激する宣伝によって大昔の宗教用語を使っていては恥ずかしくて仕方がないという雰囲気をつくり出すのだ
こうして、宗教家が経済的に発展すればするほど、それを崇める依存心の強い凡人たちはめまぐるしく、せわしく、貢ぎ続けなければならない仕組みになっている
新宗教で、正しい道は低俗な情報娯楽化し続け、過度の情報インフレによって、
過去の正法は埋もれていく、ということも感じられてきたと思う
現在の宗教は低俗化された商業的活動であり、いわば聖者や神を使って、自己の欲望を果たそうという荒廃の世といえるだろう
現代人の精神性への興味は、個人の自由主体性の確立などという理念は忘れられて、
個人は、単に宗教団体やスピリチュアル屋のあやつり人形と化している
こうして、生産された有形、無形のスピリチュアル商品は、消費者の欲望を刺激させて、これを消費させるため、
開運商法や神秘体験の名の下にあらゆる宣伝戦を展開する
こうして宗教は、主体性のための修練ではなく、欲望のための依存に変わっていった
しかし、人間の限りない欲望を助長するような組織というものは、ゆきつくところは破滅であり、末代までの恥になってしまう