スレ主がテーマを提起させて頂きます。
そのテーマに従った仏教思想を論じるスレです。
1.荒らしは無視で。
2.テーマから外れたレスはしないで下さい。
3.その他、スレ主の指示に従って下さい。
仏性について(wiki引用)
仏性(ぶっしょう、梵: Buddha-dh?tu)とは、、衆生が持つ仏としての本質、仏になるための原因のこと。
主に『涅槃経』で説かれる大乗仏教独特の教理である。覚性(かくしょう)とも訳される。
仏教では、この仏性を開発(かいほつ)し自由自在に発揮することで、煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく、また他の衆生の苦しみをも救っていける境涯を開くことができるとされる。
この仏性が顕現し有効に活用されている状態を成仏と呼び、仏法修行の究極の目的とされている。
『法華経』では、仏種(ぶっしゅ、梵: Buddha-gotra)「仏の種姓」、『勝鬘経』では、如来蔵(にょらいぞう、梵: Tath?gata-garbha)などと、さまざまな表現がされるが、基本的に仏性と同じ意義である。
ただし仏性には如来蔵のように「煩悩が付着して隠れている」という意味はない。
スレ主補足
1.仏性はサンスクリット語では ”ブッダ ダーツ” って云うそうですが、意味はご自身でお調べください。
2.仏教は基本的に(インド的)唯名論に立ちますから、ダーツ(界・基体…)は現象界に対する本体界であるという解釈は成立しません。
3.
訂正
スレ主補足
1.仏性はサンスクリット語では ”ブッダ ダーツ” って云うそうですが、意味はご自身でお調べください。
2.仏教は基本的に(インド的)唯名論に立ちますから、ダーツ(界・基体…)は現象界に対する本体界であるという解釈は成立しません。
3.これが正しい的な言い方はご遠慮ください
ちなみに、仏性が衆生が持つ仏としての本質(wiki引用)として、その本質を空性に求めるのか自性清浄心に求めるのか、両者は同じなのか別なのかという大きな問題があると思うんです。
また、サラッと
>2.仏教は基本的に(インド的)唯名論に立ちますから、ダーツ(界・基体…)は現象界に対する本体界であるという解釈は成立しません。
と言ってしまいましたが、この問題についてはここでは深入りされないでください。
”仏性について”ですが、仏性とは
、
1..空性のそれを云うのjか自性清浄を言うのか?
2.両者は同じなのか別なのか?
3.内在論か顕在論か?
上記に絞って考察して頂くと幸甚です。
ちなみに禅宗(臨済宗)では趙州無字という公案があって、 W趙州和尚ちなみに僧問う、狗子にかえって仏性ありやまたなしや、州云く無、この公案に参じておりますW ってやる。
隻手でも父母未生以前の自己でも同じ事だが、そういう公案ごっこは此処ではやらない。迷惑。
禅宗なら最低限 WムーW を師家の前で透過した奴が来て論じてくれ。
程度が低くて話にならない。
また変な話を始めるのなら、このスレも即廃スレにする。
自性清浄は客塵煩悩の存在が前提となるとして、その客塵煩悩が去った後に残ったそれはなんなのだろうか?
果たしてなにものかが残るのだろうか?
それと何も残らないのだろうか?
空性に於いては菩提も煩悩もそれにおいて即ってされている様に、自性清浄も客塵煩悩も空性って捉える事は成り立ち得る、
乱入されそうだから釘を刺しておきましょう。
仏性とは何か?
そう問う心そのものであるとか、説い続ける事が大事であるとか、そういう低次元の話はお断り。
ハイデガーの認識作用と存在は様々な形であり
何々をする前、と、何々をした後という先後観念に人間は取り憑かれやすいと言っている。
ギリシャ・イデア論、それこそプラトンからアリストテレスまで形而上的概念にコミットするのは
ハイデガーは世界は実存カテゴリーだと主張する理由にはなるだろう。(限界)
では、世界はカテゴリーという存在性格を持つというのだろうか?
そう考えると「仏性」というのはアナロジーにしか思えない。
仰る通りだと思いますが、そこは空即是色に還って後得智を磨いて頂ければと思います。
悟れない馬鹿野園が言うことである。大爆笑である。
人間にも仏性がない。
バカには理解できない。
大爆笑である。
>>7
1、空は自性を認めてないから仏性も否定されるのでは?
2、仏性は自性なので空と対立しませんか?
3、あらゆる存在が仏性なので顕在論を支持します >>12
賛成。
即廃止。
馬鹿野園の思う通りなどなりまっかいな。
5chをなめんなよ。 >>13
あらゆる存在が仏性ならば、当然煩悩も仏性の現れに過ぎないのでは? 解脱って解脱したことにより輪廻転生しなくなるんですよね?
つまり、ずっとあの世にいるということですか?あるいは
あの世と一体になるとか?
>>22
>解脱って解脱したことにより輪廻転生しなくなるんですよね?
>つまり、ずっとあの世にいるということですか?あるいは
>あの世と一体になるとか?
10年前パシフィコ横浜だったか?精華大学だったか?でダライ・ラマが同じ質問を受けた。
質問者はバルドトドル(バルドソドル)に疑問を感じるという意で。
大体こういう事を語っていた略して書くと
修行を積めば輪廻から解脱出来ます。しかし貴方は目でも見ず触れも出来ない輪廻という物を無条件で信じるのですか?
例えば貴方が高い崖から数百メートル下に波打つ海を見たら怖いと思うでしょう。
怖い怖いと思っていては、それは恐怖に自分が支配される事です。
でも、もし貴方が「怖いけど、それがどうした」と貴方が思った途端に、あなたは世界を支配する主体になるのです。
この話は多くの人が「勇気の話」だと誤解します。
しかし、高い崖も、恐怖心も消える事は無いのです。
ただ、その場から、その場の恐怖を自分の方から無にするのです。
これが解脱です。
再度言いますが、これは勇気の話ではありません。
ましてや前世や来世や死後の世界というオカルト話ではありません。
その時代その時代に、人々に伝えやすい話があったという事を考えて下さい。
その数年後、ダライ・ラマ14世は
「私の来世は金髪おてんば娘に生まれ変わることに決まっているのです」発言
テクスト論的仏教解釈の弊害に警鐘を鳴らそうとしたのだろうか? そもそも法を実体視したり自分の見解に固執したりという態度は
仏教徒らしくない態度ですよね?
>>22
死後の世界、あの世はあるのよ
もちろん生きてる世界、この世もあるのよ
死んだらあの世に行くんだから、あの世が生きてる世界でありこの世になる
つまり、あの世もこの世も区別は無い
それを区別してるのは生と死という観念だわな
そもそも生まれ変わるんなら、永遠に生きれるから死なないじゃん?
ほんで生まれ変わらないなら、永遠に死ぬんだから生まれないじゃん?
つまり、生と死も区別は無い
解脱した世界とは、この「無い」という世界なのよ
あの世とこの世、死んでる世界と生きてる世界があるんなら、そんなモノは「無い」という世界に入るのが覚者なんだよ
誤解して欲しく無いのは、あの世とこの世が無いとして短絡して否定してる訳では、無い
死後の世界も、この今生きてる世界も「無い」けど確実に「実在」しているんだよ(´・ω・`) 誰もが仏性=空性=無自性=清浄という図式を思い浮かべるのでしょうが、そう簡単な問題ではないんです。
つーか、馬鹿ばかりでルール守れないなら話す意味ねーな。
このスレ終了。
再掲
******************************************
まことに勝手ながらこのスレは当初の目的達成が困難と思慮しましたので終了とさせていただきます。
スレタイの主旨にご参加頂きました皆様には感謝申し上げます。
合掌
******************************************
ま、宗教板で最強なのは、体験でも知識でもないって事だな。
超人並の嫌がらせと猿並の智能があれば、宗教板では最強って事だ。
人類が滅んでもゴキブリは生き残るっていうじゃん。
まぁ、未来永劫輪廻転生を繰り返すって事じゃないのかな?
本当かどうかはともかく、宗教板でも生存本能で生きてる奴には敵わないって事だな。
あえて言うならメンタルの図太さでしょうか
人類が地球環境の変化に適応できなければまたゴキブリからやり直すしかないでしょうねw
ま、どんどん嫌がらせをしては新スレを潰して、サーバーに負荷を掛けて自らの首を締めればいいじゃん。
こっちはまたこっそりと新スレを立てるから。
んで、邪魔されたら即廃スレにするから。
土台、テーマを決めて深く掘り下げて考えていくなんて無理なんだな。
気が散ってテーマに集中出来ないんだから。
そんなんじゃ、ダメだわw
>>40
ごめんなさい
気を取り直してくれませんか?
そもそも悟りスレをメチャクチャにした私が悪いんです
大山さんがそれに嫌気をさして出て行って新スレ建てたのも分かります
このスレだけは真面目にするんで許してください >>26はスタンフォード大学でのスティーブ・ジョブズの演説と同じ
分析哲学的・実存主義哲学の話をダライ・ラマもしてたと言いたかったのだがな。
蓮實重彦が言う様に、仏教用語を表層批評としてテーマ主義的に構造分析した後にも
人間は意見は言える。というが、会話でもBBSでもSNSでも
言葉により、要素還元主義が出現するとはどういう事だ?
いや、逆だな
安易な還元論、むしろ個人の独善的審美的価値観を持って話を出来る人は何処にいるんだろう?
私は、その人に会いたい。 間違い
>安易な還元論、むしろ「個人の独善的審美的価値観を持って話を出来る人は」何処にいるんだろう?
>私は、その人に会いたい。
訂正
>安易な還元論、むしろ個人の『独善的審美的価値観でラベリングをしない人』は何処にいるんだろう?
>私は、その人に会いたい。
このスレ主は
おそらく仏教を共分散構造分析のパス図を言葉で描きながら
その不可知性や不可視性、また可視化について
考えたいのでは無いか?
それなら、それでスレ主さんは仏教用語とは関係ないような言葉で
例えばポストモダニズム思想や構造主義哲学的な用語を、最初に書いて
信教という自由を自己欺瞞にしか使わない癖に、自分を仏教徒だと言っている
知の低下と教養が崩壊している人達を、除外出来たんじゃ無いかな?
グレゴリー・チャイティンの「神の非存在証明」の論理演算式でも書いときゃ
邪魔な奴らは、消えるよ。理解できないから、皆んなビビって書き込みを止めるよ。
ただ「インテリぶりやがって!」というヤジは飛ぶかもしれないが
そういう奴らは無視して行こうぜ
解脱した人の輪廻は無くなる。
自分の輪廻が無くなったことを分かるということは、つまり、自分の前世、前々世を分かる能力なしには、解脱はない。
輪廻を信じている状態では解脱はない。
輪廻を知る状態まで行くと、解脱は可能だね。
>>41
なーにを何をw
そうやってハプニングを楽しんでるくせにwww 自分の前世や前々世を知る能力を、釈迦仏教では宿命智という。六神通の一つである。禅定が進めば、その能力が生じてくると、釈迦が阿含経で説いている。その能力なしに、輪廻や解脱を説くわけもない。
が、大乗仏教になるとわけ分からなくなった。
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l ヽ、ヽ ノ 今 日 も 終 日 中 年 ひ き こ も り 板
l ^ 入! !
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'. `丶、 γ'´ !
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お昼は食べた?
>>46
テヘッ(´・ω・`)エヘッエヘヘヘヘヘヘ
>>30
気を取り直して本題
仏性=空性=無自性=清浄
仏性とは自性そのものですよね
ならば、この図式は根本的に間違ってると
そういう問題ですか(´・ω・`)? >>51
仏性(如来蔵)思想にも二系統があって、空性由来とされるそれと、独立した思想というのがある様ですよ。 >>53
いろいろ調べたのですが、如来蔵思想の系統の一つは縁起説である空性由来
もう一つの系統は、釈迦が批判したウパニシャッドのブラフマン・アートマン論ですか?
基体を認めない空と、アートマンという基体を認めること
つまり仏性とはアートマンの焼き直しだと
違ってたらすいません つまり仏性、如来蔵思想は仏教では無いとする説になりますわな
>つまり仏性、如来蔵思想は仏教では無いとする説になりますわな
さすが、話の持って行き所が分かってますね。
そういう人は宗教板には殆どいないw
で、 ”如来蔵思想は仏教では無い” と云うのが私には疑問なんです。
立川先生の ”基体とその属性” だの ”インド的唯名論” のところで話したんですけど、掛かる意味において、松本説での如来蔵=基体という見方が果たして成立するのかな? と。
>>56
難しくてデリケートな問題ですね
もっと根源的なことを言えば、果たして釈尊はそもそも基体は存在しないと考えてたのか?という疑問が出る
もし釈尊が基体を認めていたら仏教は消えて無くなります
だってバラモン教と同じですから すいません
テーマとズレましたか
しかし松本さんはハッキリと言ってますね
「仏性のdhatu"と は 「置 く 場所」を原義とし,「基体」とか, 英語でいう"locus"の 意味であって, そこに 「本性」や 「本質」の意味は全 くない。」
>>58
いえいえ、テーマからは外れていません。
むしろその根幹にかかわる問題点では?
松本先生はサラッと ”L(locus)とS(Super-Locus)は明らかなとおり二分される” って仰ってますけど、そうれはどうかなって思うんです。 >>59
難しいですねー
私は言語学者じゃ無いんで・・・
『大乗 阿毘達磨経』
「無始 時来 の界(基 体)は 一切諸法の 〔等 しい〕所依(基 体)で あ る。 それが あれ ば, 一切の趣はあり, また浬繋の証悟 もある。」
『現観 荘厳論』
「法 界(諸 法の基体)は 無差別 であ るか ら, 種姓 の差別 は不合理 である。 しか し,
〔その基体 に〕置かれるべ き もの(能 依, super-locus)た る諸法 は異 なってい るか ら, それ(種 姓)の 差別が説かれる。」
松本先生によれば法界、S法とL界は二分されるんでしょうね
界という基体が縁起して法という現実?を作り出す・・・
原因と結果みたいな関係ではないかと
基体とは、根本原因であって、それ以上遡及できないモノでしょ? いろいろ調べたんですが、松本史朗という仏教学者は皆んなからボロクソに叩かれてますね
私は如来蔵思想や仏性は、完全に仏教であると思います
しかし松本史郎はある意味間違ったことは言ってない
仏教が基体を認めて何がいけないの?ってスタンスです
ど素人が偉そうにすいません
>>61
訂正
私は仏教が基体を認めて何がいけないの?ってスタンスです 独り言いいですか?
釈尊の縁起説を因果関係と捉えるならば、必然的に原因の無限遡及に陥る
無限遡及を認めれば諸行無常と矛盾してしまう
ならば、それを解決するには、どーしても「基体」を設定せざるおえない
それが無我でしょ?
そもそも、無我を基体の否定とする解釈は正しいのか?
それが疑問なのですが、テーマとズレますか?
>>47
>うるせーよ、低知能www
あなたも、こういうレベルで話したかったんですね。
これは失礼しました。
では、私は無用ですな。 釈迦は人の四苦八苦の消滅に絞って、法を説いた。それを自然界全てに当てはめて考察したのがアビダルマ論師たちだ。五位七十五法などの役に立たない論をまとめた。もし、像の子供が卵から生まれるとしたら、卵の殻の厚さはいくら必要か?と、これがアビダルマ研究だ。
釈迦は原始経典で四段階の悟りを説いた。輪廻を把握出来るのは第三段階の悟りに達した者だけである。
大乗仏教になると、この四段階の悟りが消えてしまった。そして、わけの分からん悟り話に創り変えてしまったのだよ。
例えば、原始経典四段階の悟り、とかで検索すれば、たちどころに釈迦の教えがヒットする時代になった。自分で調べてみることだ。
アビダルマ研究などは、人生の無駄遣いだ。
自己顕示欲を満たすためにこのスレに書くとか、猿だろwww
猿はこのスレに書く資格がないんだから、サル山に還れよwww
>>71
見事なまでの自己紹介ありがとう。wwwwwwwwwwwwwww
大爆笑。 清浄性と云うのは客塵との関係性においての清浄性って事だな。
鏡と塵の関係になる。
如来蔵思想における如来蔵が基体と云うのはどうかなと思うんです。
基本的に仏教は基体を認めず、また、基体とその属性の区別をしないというのですが、如来蔵思想もそれに他ならないと思うんです。
つまり、如来蔵思想は ”発生論的的一元論 とか 根源実在論 ではないと思います。
その根拠は後の機会に譲るとしますw
法界の界と云うのは因だそうですが、因と云うのは果から導き出されるものであって、因が単独で成立するものではないと思うんです。
創造主を創ったのは誰だ!?っていう問題にも似てると思います。
”発生論的的一元論”というよりも、中沢新一がレンマ学で
>純粋レンマ的知性に時間性が介入することによって、スペクトル分解がおこって、そこから分別を本質とするロゴス的知性の発生がおこるのである。
仰ってるように、発生というよりも分解と云った方が近しいのではないのかと思うんです。
>>76
基体が無いとは、同時に「無い」という属性であり基体が有る事になりませんか?
『大縁方便経』
「アーナンダよ、唯一にして、絶対のもの、
アートマンを想定すると、如何なるだろうか。」
「尊師よ、非アートマンも、想定するでしょう。」
「即ち、真我が生まれて、非我が埋まれる。
アーナンダよ、有ると思えば、無いのであり、
アートマンなど、無いと思えば、有るのである。」 >>77
原因が無ければ結果も無い
無いと云う因が無いと云う果から導き出されるのならば、因が無いと云うのは単独で成立する事になる
つまり、無いと云う原因を作ったのは、どこまで追求しても「無い」という原因であり無限遡及は回避されます
しかし、ここで大問題に突き当たります
仏教では、基体が無いからリンゴが存在すると説く
言い換えれば、原因が無いのに結果が有る事になる
これは、完全に矛盾でありジレンマですよね?
中沢新一さんの言う事は難しくてよくわかりませんが、レンマ的な世界がジレンマに陥ると宇宙が誕生する、みたいな(笑
科学は未だこのジレンマを解決できません
釈尊のみが、基体を否定する事で解決したのではないかと >>79
暗黙の前提においている条件で論理を語り、論理思考ばかりやっているとこの無意識の前提を忘れてしまう、それが硬直的な思考をもたらす結果となる >>78
それって、言語を立てるときは常に対義語が仮定されているって意味なのでは? ブッダの無我と自我について 田上太秀
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/18739/KJ00005120206.pdf#search='%E7%A7%81(%E3%83%96%E3%83%83%E3%83%80)%E3%81%AF%E6%A2%B5%E3%81%A8%E3%81%AA%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%82%8B(%E3%82%82%E3%81%AE)+%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8A%E3%80%81%E7%84%A1%E6%AF%94%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8A%E3%80%81%E9%AD%94%E8%BB%8D%E3%82%92%E3%81%BB%E3%82%8D%E3%81%BC%E3%81%97%E3%81%99%E3%81%B9%E3%81%A6%E3%81%AE%E6%95%B5%E3%82%92%E5%B1%88%E6%9C%8D%E3%81%95%E3%81%9B%E3%80%81%E3%81%8A%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AA%E3%81%8F%E5%96%9C%E3%81%B6%E3%80%82' 仮に、真我というものが限定されないものとしても、限定されないものとして限定されてしまいますからね。
絶対というのも同じ様に、絶対といった途端に絶対という相対になりますからね。
まさに、ネイティ・ネイティですw
仏性も掛かる意味に於いて解釈されないとと思います。
仏教は五蘊無(非)我説を説いているけど、その五蘊(ダルマ)を五蘊たらしめている場(ダルミン)としての基体を認めていない。
また、両者の別を説いていない。
>>85
真我なんて無いですね
無いモノは限定されようも無いです
絶対無いの相対関係は、絶対有るですね
>>86
そうですね
仏性とはアートマンそのものである
つまり仏性は無いという意味ですね
>>87
そのとおりですね 坐禅が無所得・無所悟とされるのも、根性論を言うのではなく、真我を求める事は限定する事だからと思うんです。
>>83
たいへん勉強になりました
>>89
無い物を求めても無駄ですね
しかし!
無い物を得た時が修行であり同時に解脱である
それが坐禅だと思います
坐禅したことも無いのに上から目線、すいません >>91
ですねー
話が尽きてきましたな(´・ω・`) ダライラマは解脱していない。
ダライラマ何世かが無くなると、転生を信じて、転生先の子供を探す。そして、この子供が生まれ変わりだと断定して、ダライラマ何世とかになる。活仏だとか。馬鹿げた話だ。
仏に輪廻転生などない。
法界について考えるとき、非限定というのが想起され無限の問題が頭を過るんだけど、言葉の相対性で無限という有限に堕ちてしまう。
だから、法界という限定さえたものになってしまうんだけど。
法界=基体=非限定とした場合、また、因の問題が頭を過るんだけど、因ってあるのか?
果があってはじめて因があるのではないのか?
であるならば、法界だの基体と云うのは後付けって事になるのでは?
>>96
やはり時間という観念が曲者ですよね
原因があるから結果があるという因果関係には、どうしても無意識に無条件に過去と現在と未来を設定してしまう
そもそも時間なるものは有るのかと
今は瞬間じゃなくゼロ時間ですよね?
ならば原因と結果の区別なんて無意味であり、因果は同時であり一如ですよね
そこには相対性も無ければ限定もありませんよね(´・ω・`) キチガイどもが煩いので、阿頼耶識が現量である事について考えてみよう。
勿論、猿には理解できない事は百も承知で書く。
取り敢えずスクラップ。
☆阿頼耶識の異熟性(善・不善業 → 無記化)
☆阿頼耶識(観心覚夢鈔、八門分別)
釈名(由来) 〜 能蔵、所蔵、執蔵
所縁(対象) 〜 種子、五根、器世間
仮実(存在性) 〜 別種所生
性類(判断) 〜 無覆無記
界?(所属) 〜 欲界・色界・無色界
所依(由来) 〜 末那識
三量(認識) 〜 現量
心所応相 〜 五つ(触・作意・受・想・思)
☆現量
直接知覚。現前にある対象の非言語的な認識。
”任運にして無分別なり”
”諸分別の行解を離れて任運の境の事相に敵う”
”境に任せて任せてこれを縁ずる”
>八識のうちで前五識と第八阿頼耶識は常に現量である。
>なぜなら前五識すなわち五感覚は言葉を起こすことは出来ず対象をあるがままにとらえるから、
>また、阿頼耶識は深層の領域で任運に無分別にはたらく心であるからである。
>(唯識とはなにか 法相二巻抄を読む 横山紘一)
触・作意・受・想・思 〜 遍行の心所(八識がはたらくとき、常に作用してる心所)
捨受 〜 苦楽の感受はない(=非苦・非楽の感受がある)
阿頼耶識の見分・相分(身体と環境(器界) = (それ自体は)無記)
阿頼耶識の種子は、阿頼耶識自体から生じる(阿頼耶識内の種子が現行する=相分として顕れる)
見分 〜 現量・比量・非量
自証分・証自証分 〜 現量 (→観たものを確認するので)
境に似たる相は所量なり(成唯識論)
>初阿頼耶識 異熟一切種
>不可知執受 処了常与触
>作意受想思 相応唯捨受
>是無覆無記 触等亦如是
>恒転如暴流 阿羅漢位捨
阿頼耶識 = 無覆無記 = 現量 って事も理解できない猿どもwww
現前にある対象の認識が相分と呼ばれており、その認識に言語に依る分節が伴えば比量、或いは非量となり、伴わなければ現量となる。
ところで阿頼耶識の相分は、阿頼耶識自身の種子から生じた身体(有根身)と環境(器界)とされており、そこに言語に依る分節は介在しない。
当たり前だけどw
故に阿頼耶識は現量。
猿の分かる事ではない。
阿頼耶識や前五識は、任運にして無分別であって境の事相を得する。
つまり、性境であって種子から実際に現れたものである。
これに対して意識は独影境や帯質境。
阿頼耶識の相分は、種子、有根身、器世間であっていずれも阿頼耶識自身の種子から生じた相分。
性境(相分)〜見分とは別の種子から生じる
阿頼耶識が縁ずる五根・器世間・種子
五識の相分
五具の意識の相分
無分別智が縁ずる真如
独影境〜見分と同じ種子から生じる、本質の無いもの(ex:兎の角・カメの毛)、遍計所執性
第六識が無法を縁ずる時の相分
第六識が仮法を縁ずる時の相分
第八阿頼耶識に相応する心所の相分
帯質境〜相境ではあるが第六識の意識の分別力が絡み錯覚したもの
第七末那識が第八阿頼耶識の見分を縁ずる場合の相分
第六識が非量するときの相分
無分別 自相を(直接知覚=現量によって)得する
分別 共相を(言語による分節=比量・非量によって)得する
仮有に実法と仮法があり、実法(現量)は見分と相分が別種所生であり、仮法(比量・非量)は同種所生であり、それは意識の分別力によって作り出された影像である
唯識の説によると、此の世の存在を構成する有根身(我、有根身、身体)と器界(法、外界、環境)は、阿頼耶識の種子から生じるとされているんです。
勿論、阿頼耶識という実体がある訳ではないので、此の世の存在は仮有であると言えるでしょう。
ところで、仮有には実法と仮法があって、実法(現量)は見分と相分が別種所生(性境)であり、仮法(比量・非量)は同種所生(独影境、帯質境)であり(末那識や意識の)分別力によって作り出された影像であるとされています。
で、阿頼耶識が現量でないと想像してみましょう…
余程の馬鹿でない限りそれがどういう事か分かりますよねwww
境に任せてこれを縁ずる。
行動可能性としての種子を蔵する阿頼耶識の種子が、所縁に触れて(=任運)現行するんです。
阿頼耶識に何かしらの意思があって種子が現行するのではないんです。
それ故に ”任運にして無分別なり” なのです。
縁に触れて現行するのですから、そこにタイムラグはありません。
つまり、時間が介在する事がないといえるでしょう。
時間の介在なしに ”諸分別の行解(=言語による分節)” は当然に在りません。
ひいては、無分別って事であり、現行された相分が直接知覚されるって事です。
それ故に ”諸分別の行解を離れて任運の境の事相に敵う” という事なのです。
…馬鹿猿の理解する処ではありませんwww
補足しましょう。
所縁に触れて(=任運)、此の世の存在を構成する有根身(我、有根身、身体)と器界(法、外界、環境)という種子が現行するんです。
その現行されたものが見分(主観)と相分(客観)とその主客の認識(自証分、証自証分)によって ”認識” されるんです。
比量・非量は同種所生であって、見分と相分が分析されること無く(=種子が見分と相分の2個ではなく)、見分から相分を産み出す故に独影境であり、遍計所執性なのです。
で、阿頼耶識が別種所生でないと想像してみましょう…
余程の馬鹿でない限りそれがどういう事か分かりますよねwww
見分(主観)から相分(客観)を産み出す故に独影境であり、遍計所執性なのです。
要するに客観性がないって事です。
円成実性・・・・実有
依他起性・・・・仮有〜実法、仮法
遍計所執性・・畢竟無〜無法
仮法〜存在はしなくとも想像上存在するもの(ex:兎角亀毛)
無法〜決して存在しないもの
円成実性・・・・実有
勿論、空であり空性って事です。
阿頼耶識はいわゆるこの世の存在(我・法)を産み出してそれを同時に認識する。
その認識が現量でなければ…
余程の馬鹿でない限りそれがどういう事か分かりますよねwww
心によって造られているものが刹那生滅しているというよりも、その心が刹那生滅しているって事。
言葉にして阿頼耶識は語れない
阿頼耶識を語るのが現量であり、阿頼耶識は現量でない