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2016/05/19(木) 00:43:40.76 ID:CAP_USER9
ハプニング解散
ハプニング解散(ハプニングかいさん)とは、1980年5月19日の衆議院解散の通称。
経緯
前年1979年に、与党・自民党議員の首相指名選挙での投票先がほぼ二分されるという日本国憲法施行以来前代未聞の事態(四十日抗争)があった1980年5月16日、日本社会党の飛鳥田一雄委員長が、浜田幸一衆議院議員のラスベガス・カジノ疑惑など、一連の自民党のスキャンダルを理由として衆議院に大平内閣不信任決議案を提出した。
解散総選挙を警戒していた公明党、民社党も同調の気配を見せ、これに呼応するかのように自民党の反主流派が動き出し、浜田の証人喚問とKDD事件のため国会に綱紀粛正委員会を設置することを求め、大平正芳首相の回答を求めた。
これに先立ち、社公民の野党3党は不信任案について党首会談を行った。当然のごとく自民党議員全員が反対し否決すると思い込んでいた飛鳥田と公明党の竹入義勝委員長は不信任案提出で合意したのに対し、民社党は春日一幸顧問から「自民党内の反主流派の動向が掴めないため、
不信任案を提出することは危険だ」との分析を受けていた佐々木良作委員長が提出に難色を示すが、この意見は受け流される格好となり、大平内閣不信任決議案は、議事進行係・玉沢徳一郎を通じて衆院本会議に上程された。
自民党の反主流派は不信任案を巡って同調するか否かで混乱し、灘尾弘吉衆議院議長は当初午後3時の予定だった本会議の開会を5時まで延長する。しかし、それでも反主流派は結論に達せず再延長を灘尾に申し込むが、灘尾はこれを国会を軽視するものと拒否し開会を宣言。
前年の四十日抗争で大角(大平派と田中派)主流派に敗れ、自民党内で反主流派となっていた三木派や福田派、中川グループなどの議員69人は本会議を欠席した。これにより内閣不信任決議案は賛成243票・反対187票で56票差で可決となった。内閣不信任決議可決は1953年以来27年ぶり。
中曽根派は土壇場で反主流派を離脱し、本会議に出席して反対票を投じた。ほかに、福田派から13人、三木派から6人が本会議に出席している。反主流派ながら党幹部として不信任案反対の意向であった安倍晋太郎政調会長は、
本会議場において森喜朗等若手議員に羽交い絞めにされるようにして会議途中に退席した。また福永健司(大平派)、小坂善太郎(無派閥)が病気入院のため欠席したが、元大平派の小坂に対しては一部から親三木・反大平だったことから欠席したのではないかとの憶測がなされた。
可決後、大平は即座に総辞職ではなく解散する旨を表明、大平内閣は閣議で衆議院解散を決定し、3日後の5月19日に灘尾議長が本会議を開かずに議長応接室に各会派の代表を集め、解散詔書を朗読し、前回の選挙からわずか7ヶ月余で衆議院は解散となった。内閣不信任決議可決当日に衆議院を解散しなかったのはこの時だけである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B0%E8%A7%A3%E6%95%A3
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ハプニング解散(ハプニングかいさん)とは、1980年5月19日の衆議院解散の通称。
経緯
前年1979年に、与党・自民党議員の首相指名選挙での投票先がほぼ二分されるという日本国憲法施行以来前代未聞の事態(四十日抗争)があった1980年5月16日、日本社会党の飛鳥田一雄委員長が、浜田幸一衆議院議員のラスベガス・カジノ疑惑など、一連の自民党のスキャンダルを理由として衆議院に大平内閣不信任決議案を提出した。
解散総選挙を警戒していた公明党、民社党も同調の気配を見せ、これに呼応するかのように自民党の反主流派が動き出し、浜田の証人喚問とKDD事件のため国会に綱紀粛正委員会を設置することを求め、大平正芳首相の回答を求めた。
これに先立ち、社公民の野党3党は不信任案について党首会談を行った。当然のごとく自民党議員全員が反対し否決すると思い込んでいた飛鳥田と公明党の竹入義勝委員長は不信任案提出で合意したのに対し、民社党は春日一幸顧問から「自民党内の反主流派の動向が掴めないため、
不信任案を提出することは危険だ」との分析を受けていた佐々木良作委員長が提出に難色を示すが、この意見は受け流される格好となり、大平内閣不信任決議案は、議事進行係・玉沢徳一郎を通じて衆院本会議に上程された。
自民党の反主流派は不信任案を巡って同調するか否かで混乱し、灘尾弘吉衆議院議長は当初午後3時の予定だった本会議の開会を5時まで延長する。しかし、それでも反主流派は結論に達せず再延長を灘尾に申し込むが、灘尾はこれを国会を軽視するものと拒否し開会を宣言。
前年の四十日抗争で大角(大平派と田中派)主流派に敗れ、自民党内で反主流派となっていた三木派や福田派、中川グループなどの議員69人は本会議を欠席した。これにより内閣不信任決議案は賛成243票・反対187票で56票差で可決となった。内閣不信任決議可決は1953年以来27年ぶり。
中曽根派は土壇場で反主流派を離脱し、本会議に出席して反対票を投じた。ほかに、福田派から13人、三木派から6人が本会議に出席している。反主流派ながら党幹部として不信任案反対の意向であった安倍晋太郎政調会長は、
本会議場において森喜朗等若手議員に羽交い絞めにされるようにして会議途中に退席した。また福永健司(大平派)、小坂善太郎(無派閥)が病気入院のため欠席したが、元大平派の小坂に対しては一部から親三木・反大平だったことから欠席したのではないかとの憶測がなされた。
可決後、大平は即座に総辞職ではなく解散する旨を表明、大平内閣は閣議で衆議院解散を決定し、3日後の5月19日に灘尾議長が本会議を開かずに議長応接室に各会派の代表を集め、解散詔書を朗読し、前回の選挙からわずか7ヶ月余で衆議院は解散となった。内閣不信任決議可決当日に衆議院を解散しなかったのはこの時だけである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B0%E8%A7%A3%E6%95%A3
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