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司馬遼太郎 Part6 [無断転載禁止]©2ch.netYouTube動画>2本 ->画像>863枚


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0001日本@名無史さん2016/12/31(土) 11:46:51.41
司馬遼太郎全集を重箱の隅をつつきつつ読み進めてまいります。
ただいま「国盗り物語」が進行中。

前スレ
司馬遼太郎 Part5 [無断転載禁止]©2ch.net
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/books/1480533004/

0002日本@名無史さん2016/12/31(土) 11:49:33.41
【凡例】
★小説・紀行では物語の場所もしくは旅の場所を示す(余談のときは、項目を示す)。評論文では、項目を示す。
▽作品に出てくる語句・文章
▼作品には出てこないが、背景を理解するために必要だと思われる語句
【注意】
このスレッドでは、司馬作品を忠実かつリアルに画像化しているため、エログロ画像が含まれています。
18才未満の方あるいはご覧になりたくない方は、〈エログロ〉をNGワードに登録なさることを推奨いたします。
また、エログロ画像をレスされる方は、必ず〈エログロ〉の文字を添付してくださるよう、お願い申し上げます。
【注意】
多くのユーザーの方々が、現在進行中の司馬作品一作に集中して、注釈を加えたり、議論をなさっておられます。
他の司馬作品に関して議論ないしおしゃべりをなさりたい方は以下のスレッドへお引越しをお願い申し上げます。

司馬遼太郎をあれこれ語る 37巻目
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/books/1402184001/
【何もかもが】司馬遼太郎アンチスレ【嫌い】part2
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/books/1405223859/

0003日本@名無史さん2016/12/31(土) 11:52:41.11
【過去ログ】
司馬遼太郎 Part1
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/books/1362974282/
〔数年後に削除予定〕

司馬遼太郎 Part2
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/books/1471228785/
〔数年後に改訂予定〕

司馬遼太郎 Part3
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/books/1474718092/
「街道をゆく」豊後・日田街道/大和丹生川(西吉野)街道/種子島みち/潟のみち/播州揖保川・室津みち/高野山みち

司馬遼太郎 Part4
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/books/1477812018/
「街道をゆく」信州佐久平みち/「国盗り物語1」

司馬遼太郎 Part5
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/books/1480533004/
「国盗り物語2」

0004日本@名無史さん2016/12/31(土) 11:57:00.13
>>1

0005日本@名無史さん2016/12/31(土) 12:04:40.25
いつの頃からか、画像君の口調が我妻榮ふうに変化してきている。

0006日本@名無史さん2016/12/31(土) 12:09:28.94
>>1
探しても無かったからどこへ行ったのかと思っていたら、ここにあったのか。

0007日本@名無史さん2016/12/31(土) 12:10:26.74
ちゃんとお気に入りに追加しておけよ。何度も引越しするスレになるかもしれんぞ。

0008日本@名無史さん2016/12/31(土) 12:15:49.01
>>2
一般図書板から日本史板に引っ越したのだから、姉妹スレッドも日本史板のものにしようぜ。

0009日本@名無史さん2016/12/31(土) 12:17:44.86
テンプレ
【注意】
多くのユーザーの方々が、現在進行中の司馬作品一作に集中して、注釈を加えたり、議論をなさっておられます。
他の司馬作品に関して議論ないしおしゃべりをなさりたい方は、以下のスレッドへお引越しをお願い申し上げます。

■■司馬遼太郎症候群について語るvol.3
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1365866256/
★司馬遼太郎の正体は大嘘つきの印税詐欺師★
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1366377163/
司馬遼太郎の家康過少評価は異常
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1331922006/

0010日本@名無史さん2016/12/31(土) 12:24:31.11
以上自演である

0011慈円2016/12/31(土) 12:25:06.63
なにか?

0012日本@名無史さん2016/12/31(土) 12:25:30.28
この小ネタは毎回出てきます

0013国盗り物語2016/12/31(土) 14:30:43.22
第20章 桶狭間

午前二時ごろである。
「丸根砦に今川が攻めかかりました」
という報が城にとどき、人は走って信長のもとに報らせた。
「来たか」
とこの若者ははね起きた。

0014日本@名無史さん2016/12/31(土) 14:40:35.13
弘治2年 (1556) から永禄3年(1560)へと4年ワープしているので、その間の主な出来事をおさらいしましょう。

0015日本@名無史さん2016/12/31(土) 14:40:49.14
▼弘治
天文の後、永禄の前。1555年から1558年までの期間。
この時代の天皇は後奈良天皇→正親町天皇。室町幕府将軍は足利義輝。

0016日本@名無史さん2016/12/31(土) 14:41:32.02
▽永禄
弘治の後、元亀の前。1558年から1570年までの期間。最終年:永禄13年。
この時代の天皇は正親町天皇。室町幕府将軍は足利義輝→足利義栄→足利義昭。

0017日本@名無史さん2016/12/31(土) 14:47:45.37
▼弘治2年(1556年)
信長の当主としての器量を疑問視した重臣の林秀貞(通勝)・林通具・柴田勝家らは、信長を廃して聡明で知られた弟・信行を擁立しようとした。これに対して信長には森可成・佐久間盛重・佐久間信盛らが味方し、両派は対立する。
道三の死去を好機と見た信行派は、8月24日に挙兵して戦うも敗北(稲生の戦い)。その後、信長派は末森城に籠もった信行を包囲するが、生母・土田御前の仲介により、信行・勝家らを赦免した。

0018日本@名無史さん2016/12/31(土) 14:51:37.85
▼弘治3年(1557年)
信行は再び謀反を企てる。この時、柴田勝家の密告によって(稲生の戦いの後は信長派に鞍替え)事態を悟った信長は、病と称して信行を清洲城に誘い出し殺害した。直接手を下したのは河尻秀隆とされている。

0019日本@名無史さん2016/12/31(土) 15:01:13.62
▼永禄元年(1558年)

   ( ^ω^ )ニコニコ

0020日本@名無史さん2016/12/31(土) 15:01:29.25
▼永禄2年(1559年)
浮野の戦いで織田一門の宗家であった岩倉城主・織田信賢を破って、これを追放した。
新たに守護として擁立した斯波義銀が、一族の石橋氏・吉良氏と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、義銀を尾張から追放した。
こうして、永禄2年(1559年)までには尾張国の支配権を確立し、信長は尾張の国主となった〔尾張統一〕。

0021日本@名無史さん2016/12/31(土) 15:06:31.27
★清洲城

▽信長のこのころの版図は「尾張半国」と通称されていたが、厳密には半国はもっていない。
岩倉織田家を倒し、すでに尾張統一を果たしています〔>>20〕 ( ^ω^ )ニコニコ

0022日本@名無史さん2016/12/31(土) 15:07:23.17
プギャ━━━━≡≡≡≡≡⊂`⌒m9^Д^)⊃━━━━ !!!!!!

0023日本@名無史さん2016/12/31(土) 15:10:08.08
おまいらww司馬作品の新しい楽しみ方を発見したなw

0024日本@名無史さん2016/12/31(土) 15:16:17.60
こう見えても僕は人は悪くないです ( ^ω^ )
むしろお人好しと言われています ( ^ω^ )
しかし、。゚(゚^∀^゚)゚。ギャーハッハッハッハッハッハハッハッハッハッハッハ!!

0025日本@名無史さん2016/12/31(土) 15:17:24.90
だから、そこのところは『濃尾参州記』でだな……  なんでもない。

0026日本@名無史さん2016/12/31(土) 15:22:39.76
▽駿河今川氏
清和源氏のひとつ河内源氏の流れを汲む足利家御一門・吉良家の分家にあたる。吉良家は足利将軍家の親族であり足利宗家の継承権を有しており、斯波家や畠山家をはじめとする他の足利一門諸家とは別格の地位にあった。
今川家はその分家として、駿河の守護に代々任命された。さらに遠江守護家も分流する。
初期の分家である今川関口家は幕府の奉公衆であった。
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0027日本@名無史さん2016/12/31(土) 15:29:00.59
▽今川義元
永正16年(1519年)、今川氏親の五男として生まれる。母は正室である中御門宣胤の娘・寿桂尼。既に跡継ぎとして、同母兄の氏輝がいたために4歳で仏門に出された。
臨済宗の善得寺に預けられて栴岳承芳(せんがくしょうほう)と称し、教育係を務めた太原雪斎とともに京都に上り学識を深めた。
その後、京都から駿河に戻るが、その直後の天文5年(1536年)に氏輝が急死する。重臣たちから還俗を乞われた承芳は、征夷大将軍・足利義晴から偏諱を賜り義元と名乗った。
※今川義元 / 花柳喜章
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0028日本@名無史さん2016/12/31(土) 15:33:03.75
▽駿府
城は家康期のものだが、美しい風景である。
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0029日本@名無史さん2016/12/31(土) 15:36:08.81
▽中御門宣胤
藤原北家勧修寺流中御門家当主。官位は従一位・権大納言。
応仁元年(1467年)に勃発した応仁の乱以来、朝廷儀式の荒廃・形骸化は著しく、これを嘆いた宣胤は復興を目指して公卿の長老で有職故実に詳しい一条兼良らから教えを請い、先例を学んで若い公卿らに指導した。
大永5年(1525年)に薨去。享年84。日記として『宣胤卿記』がある。
娘の寿桂尼は、今川氏親に嫁ぎ、氏輝・義元などを生み、孫の今川氏真の後見役を務めるなど影響力が強く、駿河の女大名と呼ばれた人物である。

0030日本@名無史さん2016/12/31(土) 15:38:00.12
本文の叙述は、中御門宣胤が駿府に流寓しているようにも読めるが、そうではない。

0031日本@名無史さん2016/12/31(土) 15:42:07.81
▽義元の妹は山科家に嫁した。
〔義元の姉妹の嫁ぎ先〕
瑞渓院(北条氏康室)
松平親善妻→のち鵜殿長持室
中御門宣綱室
関口親永室

0032日本@名無史さん2016/12/31(土) 15:43:00.17
で、山科家に嫁いだ妹というのは……、だ、誰ですか?

0033日本@名無史さん2016/12/31(土) 15:45:05.47
▽山科家
羽林家の家格を有する公家。藤原北家四条流。家名は家領があった京都山科荘に由来する。
家業は装束・衣紋で江戸時代には高倉家(藪家)とともに装束色目を担当した。江戸時代の家禄は300石。

0034日本@名無史さん2016/12/31(土) 15:46:58.11
山科って内職公家だろう。
収入が途絶えがちで苦しい公家の財政事情を、山科言継は己の技能によって家の収入を支えた。

0035日本@名無史さん2016/12/31(土) 15:56:36.99
▼桶狭間以前の織田氏と今川氏の対立
1.天文9年(1540)2〜6月:織田信秀による安祥城攻略
2月9日、松平広忠が尾張の鳴海城を攻め、織田信秀に先制攻撃をかけた。これに対し、信秀は6月6日、三河に侵入して安祥城を包囲。守将・安城左馬助長家は、広忠から派遣された援軍とともに開門して戦うも討ち死。安祥城は、西三河における織田氏の拠点となった。
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0036日本@名無史さん2016/12/31(土) 15:59:27.80
2.天文11年(1542)8月10日:第一次小豆坂合戦
織田信秀は安祥城から進軍し小豆坂で今川氏と対戦。始めは今川氏が優勢だったが、「小豆坂七本槍」の活躍で信秀の辛勝に終わる。
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0037日本@名無史さん2016/12/31(土) 16:03:15.80
3.天文14年(1545)9月:安祥城防衛
松平広忠が安祥城の織田信広を攻めるが、織田信秀の救援によって撤退。
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0038日本@名無史さん2016/12/31(土) 16:04:56.65
4.天文16年(1547):信長初陣
前年に元服した信長の初陣。那古野城を発った信長は吉良大浜を攻め、所々に放火し、翌日帰城した。
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0039日本@名無史さん2016/12/31(土) 16:08:10.32
5.天文17年(1548)3月:第二次小豆坂合戦
今川義元は安祥城を取り戻すため太原崇孚率いる大軍を三河に送り、まずは織田氏の出城である山崎砦を落とした。これに対して、織田信秀は安祥城救援のため、17日に出兵。19日に、小豆坂で今川軍と激突したが、敗北。 安祥城に息子の織田信広を残して、尾張に撤退した。
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0040日本@名無史さん2016/12/31(土) 16:14:13.24
6.天文18年(1549)3月〜11月:安祥城陥落
3月、織田信広の守る安祥城を太原崇孚率いる今川軍が包囲する。信広は9ヶ月も粘ったが11月9日に落城して捕虜となる。この頃、織田氏は松平氏から今川氏に捕虜として出されるはずだった松平竹千代を捕虜として抱えていたため、双方の人質交換が行われ、信広は帰還し、竹千代は駿府に送られた。
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0041日本@名無史さん2016/12/31(土) 16:14:56.71
このあたりは、前スレにあったね。

0042日本@名無史さん2016/12/31(土) 16:18:54.42
7.天文22年(1553):山口氏謀反
この前年に織田信秀が他界したことにより、うつけの信長では尾張を治められないと見た鳴海城の山口左馬助・九郎二郎父子が今川氏に内通し、信長に反旗を翻した。 山口父子は今川氏の将を尾張に招き入れると、大高・沓掛両城を調略で落とし、笠寺・中村に砦を築いた。
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この報を受けた信長は、4月17日に那古野城から出陣。赤塚で今川・山口勢と対戦するも引き分けに終わった〔赤塚の戦い〕。
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0043日本@名無史さん2016/12/31(土) 16:20:08.22
大高城・沓掛城が今川方の城になったことに関しては、国盗り物語に書かれていないので、たいへん勉強になります。

0044日本@名無史さん2016/12/31(土) 16:22:49.77
8.天文23年(1554)正月:水野氏救援
今川氏が知多郡の村木に築城して、信長に与する緒川の水野信元に攻撃を仕掛けてきた。
信長はこれを救援するため、那古野の守備を舅の斉藤道三に要請。20日、援軍の安藤守就の到着を確認後、熱田から知多半島に渡り緒川に着陣。
24日、今川勢の籠る村木砦を攻撃。信長は多くの犠牲者を出しつつも1日で落城させ、那古野に帰還した。

0045日本@名無史さん2016/12/31(土) 16:27:10.48
9.弘治2年(1556)3月:吉良地方侵入
三河国守護で西条城主の吉良義昭は、今川氏の三河進出を快く思ってはいなかった。信長は、義昭の手引きで三河幡豆郡荒河へ侵入。野寺原で今川氏の軍勢と対戦した。
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0046日本@名無史さん2016/12/31(土) 16:30:51.24
本文に出てくるのは>>36の第一次小豆坂合戦だけだろう。
早く桶狭間の話をしろよ。

0047日本@名無史さん2016/12/31(土) 17:02:29.41
小説の時代背景を理解するのに最小限必要なものだけを取捨選択しないと、冗長になるだけだぞ。

0048日本@名無史さん2016/12/31(土) 19:50:00.60
▽楊弓
楊柳で作られた遊戯用の小弓。転じて、楊弓を用いて的を当てる遊戯そのものも指した。弓の長さは2尺8寸(約85cm)、矢の長さは7寸から9寸2分とされる。中国の唐代で始まったとされ、後に日本にも伝わり、室町時代の公家社会では、「楊弓遊戯」として遊ばれた。
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0049日本@名無史さん2016/12/31(土) 20:07:45.67
▽永禄3年(1560)5月12日に駿府出立
18日に沓掛城に到着
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0050日本@名無史さん2016/12/31(土) 20:11:10.73
▽松平元康
丸根砦攻撃部隊2,500の将
※徳川家康 / 寺尾聰
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0051日本@名無史さん2016/12/31(土) 20:15:20.45
▽林通勝(秀貞)
籠城論を主張する。
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0052日本@名無史さん2016/12/31(土) 20:17:20.02
▽さい
清洲城の老女

0053日本@名無史さん2016/12/31(土) 20:29:07.51
▽森可成
大永三年(1523年)- 元亀元年(1570年)
かつての美濃国主・土岐頼芸が尾張に亡命するとこれに従い、土岐氏没落後は一貫して織田弾正忠家に仕える。信長の父である織田信秀から二代に亘って仕えた重臣である。由緒ある清和源氏の家系の森可成の出自と経歴は群を抜いている。

0054日本@名無史さん2016/12/31(土) 20:37:38.55
▼桶狭間の戦い布陣
〔今川〕
今川義元:沓掛城→桶狭間山
松平元康:丸根砦→大高城
丸根砦:鵜殿長照
鷲津砦:朝比奈泰朝
鳴海城:岡部元信

0055日本@名無史さん2016/12/31(土) 20:44:13.66
〔織田〕
丹下砦:水野帯刀
善照寺砦:佐久間信盛
中島砦:梶川高秀 / 佐々隼人

0056国盗り物語2016/12/31(土) 21:58:06.31
第21章 風雨

「駿府のお屋形っ」
と叫んで、義元にむかい、まっすぐに槍を入れてきた者がある。織田方の服部小平太であった。
わっ、と小平太が倒れようとすると、そのそばから飛びだしてきた朋輩の毛利新助が太刀をふるって義元の首の付け根に撃ちこみ、義元がひるむすきに組みつき、さらに組み伏せ、雨中で両人狂おしくころがりまわっていたが、やがて新助は義元を刺し、首をあげた。
首は、首のままで歯噛みしており、その口中に新助の人差指が入っていた。

0057国盗り物語2016/12/31(土) 22:20:38.10
★丸根砦

▽永禄3年(1560)5月19日
支隊長:松平信康(満17歳)…司馬は数えで19歳という。どうしていつも1歳上に数えるのだろうか。数えでも18歳。
今川軍2,500 vs 織田軍400

0058日本@名無史さん2016/12/31(土) 22:24:15.68
▽丸根砦
場所は、鷲津砦の東南400m、大高城からは東に約800mに位置し、鳴海から延びた丘陵の先端に築かれ、東西36m、南北28mの砦の周囲を、幅3.6mの外堀が囲んでいる。
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0059日本@名無史さん2016/12/31(土) 22:29:22.72
▽松平喜兵衛…今川方の先鋒隊長。戦死。
▽筧又蔵…今川方の先鋒隊長。戦死?
奇妙な文章を見つけた。
「徳川家の臣に筧又蔵という男がいた。 彼は長篠の戦いで見事な采配を見せたので信長は非常に感心した」

0060日本@名無史さん2016/12/31(土) 22:31:56.57
子孫が先祖と同じ通称を名乗ることは珍しくないよ。先祖の筧又蔵が長篠の戦いに参陣したのではないか?

0061日本@名無史さん2016/12/31(土) 22:33:42.00
筧家はみんな又蔵なんだとよ ( ´д)ヒソ(´д`)ヒソ(д` )

0062日本@名無史さん2016/12/31(土) 22:38:49.60
▽高力新九郎…今川方の物頭(将校)。戦死。
▽能見庄左衛門…今川方の物頭(将校)。戦死。

0063日本@名無史さん2016/12/31(土) 22:41:54.73
▽佐久間大学
佐久間盛重…永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは丸根砦を守備したが、大高城救援のため出陣した今川方の部将の松平元康勢の攻撃により丸根砦は陥落し、盛重は戦死した。
盛重の子・盛昭は姓を「奥山」に変え、丹羽長秀・豊臣秀吉に仕えた。娘は新庄直頼・佐久間盛政に嫁いだ。
※佐久間大学:玉川伊佐男
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0064日本@名無史さん2016/12/31(土) 22:44:17.34
玉川伊佐男は『戦争と人間』で永田鉄山少将を斬殺した相沢三郎中佐役の印象が強いな。
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0065日本@名無史さん2016/12/31(土) 22:51:33.32
★鷲津砦

▽鷲津砦
名古屋市緑区にあった砦。大高城の北東約700mの丘陵上に築かれ、東西25m、南北27mの規模だった。
http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/wasidu_01.JPG
織田信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信秀に従っていた鳴海城主山口教継が駿河の今川義元に寝返り、義元は大高城を手中にした〔>>42〕。
そこで信長は、鳴海城に対して丹下砦・善照寺砦・中島砦を築き、さらに大高城と鳴海城の間を遮断するために、丸根砦と鷲津砦を築いた。鷲津砦には守将として織田秀敏と飯尾定宗・尚清父子が置かれた。

0066日本@名無史さん2016/12/31(土) 22:55:22.78
▽朝比奈泰朝〔>>54
鷲津砦を攻撃した今川方の武将は『武徳編年集成』等の後世の史料や司馬遼太郎の小説では朝比奈泰能とされているが、泰能は弘治3年(1557年)に死去しているため、実際は子の泰朝で、親子を誤ったものである。

0067日本@名無史さん2016/12/31(土) 22:57:44.15
先生、まだ〈エログロ〉が一回も使われていませんが……。

0068日本@名無史さん2017/01/01(日) 00:36:48.10
★熱田明神

▽春敲門
熱田神宮の東門であった春敲門(戦災で焼失)に掲げられた扁額である。全体に黒漆を塗り、一行書を彫り下げ、底に金泥を押した重厚華麗なものであったが、現状はわずかに金泥を残す程度である。隷書体の文字は小野道風筆と伝えられる。
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0069日本@名無史さん2017/01/01(日) 00:44:58.27
▽武井夕庵
織田信長の右筆・官僚。茶人でもある。諱は助直。
はじめは美濃国の守護土岐氏、次いで美濃斎藤氏の道三、義龍、龍興の三代にわたって右筆として近侍する。弘治元年(1555年)、道三が義龍を廃嫡しようとした際は日根野弘就とともに義龍についた。さらに義龍が弟の孫四郎、喜平次を殺害し、道三に反逆した時もこれに従い、道三と袂を分かった。
永禄10年(1567年)より、斎藤氏を滅ぼした織田信長に仕えて右筆及び側近官僚となり、客の取次や京都の行政官の一員として活動した。また検視、重要時の奉行や使者も務めた。

0070日本@名無史さん2017/01/01(日) 00:46:34.78
現在は文禄3年であるから、武井夕庵は斉藤義龍の右筆だな。

0071日本@名無史さん2017/01/01(日) 00:55:51.17
▽海蔵門
永禄3年(1560年)、織田信長が桶狭間の戦いの前に熱田神宮に戦勝祈願し、見事勝利したために奉納したという塀。かつてこの付近には海蔵門があり、弘法大師筆の額がかかげられ、織田信長が元亀2年(1571年)に改築した豪壮な門でしたが、戦災で焼失しました。
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※本宮
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0072日本@名無史さん2017/01/01(日) 01:01:39.41
▽上知我麻の祠
熱田神宮の境内社として崇敬されている。
信長はここから鷲津砦・丸根砦から立ち上る二すじの黒煙を見た。
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0073日本@名無史さん2017/01/01(日) 01:05:07.25
▽井戸田・新屋敷・黒末川・古鳴海
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0074日本@名無史さん2017/01/01(日) 01:10:52.04
▽信長の馬丁をつとめた男
5月19日はまるで猛火のそばに居るがようでございました。山澄本桶狭間合戦記註に記述がある。
▽山澄淡路守…尾張徳川家の家臣
▽成瀬隼人正…尾張徳川家の家臣

0075日本@名無史さん2017/01/01(日) 01:21:13.32
★善照寺砦

▽善照寺砦
今川義元との戦いの際に織田信長が鳴海城を囲むように築いた三砦のひとつ。名古屋市緑区鳴海町砦。
山口教継は〔>>65〕、織田信秀の死後、織田氏から離反して今川氏に寝返り、鳴海城を子の山口教吉に守らせ、笠寺に砦を構えて岡部元信〔>>54〕などの駿河勢を引き入れて、自らは中村に立て籠もった。教吉はここで出陣してきた信長と戦い、引き分けている〔>>42〕。
教継は織田方の大高城、沓掛城を調略を用い奪取したが、その後駿河へ呼び寄せられ親子共ども切腹させられた。山口父子の殺害は信長の調略ともされる。

0076日本@名無史さん2017/01/01(日) 01:23:10.35
善照寺砦は現在は砦公園という名前になっている。
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善照寺砦から見た桶狭間山
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0077日本@名無史さん2017/01/01(日) 01:26:47.12
▽右翼隊500が潰滅
▽佐々隼人正政次
尾張国井関城主。佐々成政の長兄。
永禄3年(1560年)、織田信長が善照寺砦に到着したのを見て、千秋四郎とともに今川義元軍に攻撃をかけ討死した。

0078日本@名無史さん2017/01/01(日) 01:29:50.77
▽千秋(せんしゅう)季忠
尾張国羽豆崎城主。通称四郎。
父・千秋季光は熱田神宮の大宮司で、武士として織田信秀に仕えていたが、加納口の戦いで戦死した。
季忠も大宮司職を継ぎ、信長に仕えた。信長が善照寺砦に到着したのを見て義元本隊に攻撃を仕掛け、政次ともども討ち死にを遂げた。

0079日本@名無史さん2017/01/01(日) 01:32:44.84
▽前田孫四郎利家
尾張国海東郡荒子村(名古屋市中川区荒子)の荒子城主・前田利春の四男。はじめ小姓として織田信長に仕え、青年時代は赤母衣衆として従軍し、槍の名手であったため「槍の又左」の異名を持った。
※前田犬千代:目黒祐樹
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0080日本@名無史さん2017/01/01(日) 01:40:33.85
▽簗田政綱
尾張国春日井郡九之坪城主
司馬さんは沓掛村の豪族とする。しかし、『太閤記』によると、桶狭間の戦いの戦功によって3,000貫文の知行と沓掛城を与えられたとしている。
桶狭間の戦いにおいて今川義元の首を挙げた毛利新介良勝を超える論功行賞を受けたことから、田楽狭間に陣取る今川義元の本陣位置を織田信長に報告した人物とされている。しかし、そのような事実が判定できる史料は、今のところ発見されていない。

0081日本@名無史さん2017/01/01(日) 01:47:09.98
▼桶狭間か?田楽狭間か?
田楽狭間説:小瀬甫庵の『信長記』を明治の陸軍が採用したもの →司馬遼太郎
桶狭間説:『信長公記』の記述を藤本正行が解釈したもの

0082日本@名無史さん2017/01/01(日) 15:06:36.48
▽このとき、太陽のそばに一朶の黒雲があらわれ、たちまち一天にひろがり天地が陰々として参りました。
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0083日本@名無史さん2017/01/01(日) 15:11:09.29
★田楽狭間

▽沓掛村
現在の豊明市沓掛町および二村台、三崎町、西川町の各一部にあたる。
桶狭間合戦では、今川義元が討死する前日に沓掛城で軍議が開かれていた。桶狭間合戦で織田軍は沓掛城を落とし、簗田政綱が城主となった。
天正3年 (1575年) 簗田広正は加賀国大聖寺へと移り、かわって信長の弟である織田信照、ついで川口久助が城主となる。 しかし、関ヶ原合戦で川口久助は西軍に属したため捕らわれ、廃城となった。
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0084日本@名無史さん2017/01/01(日) 15:18:15.17
▽大高村
現在の名古屋市緑区大高町。
永正年間 (1504年〜1521年) 花井備中守によって築城された。天文・弘治年間 (1532年〜1558年) には水野忠氏父子の居城であった。
永禄2年 (1559年) 織田方の鳴海城主・山口教継が今川方に寝返り大高城を攻略したため〔>>75〕、織田信長は丸根砦と鷲津砦を築き大高城と今川方の連絡を遮断した。
桶狭間合戦の後に廃城となったが元和2年 (1616年) 尾張藩家老・志水氏の舘が設けられた。

0085日本@名無史さん2017/01/01(日) 15:24:55.78
▽戦勝祝い
山岡荘八の『徳川家康』では、この場面で竹之内波太郎が戦勝祝いにやってきて……、なんでもない。
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0086日本@名無史さん2017/01/01(日) 15:28:16.33
▽田楽狭間
昭和初期の田楽狭間
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(黄色の着物のねえさんの尻がなかなか……、なんでもない)

0087日本@名無史さん2017/01/01(日) 15:31:20.34
▽雨が横なぐりに降りはじめた。
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0088日本@名無史さん2017/01/01(日) 15:38:19.80
▽太子ヶ根
田楽狭間という地名はちょうど太子ヶ根のふもとにあり、信長は山の上から谷間に下って攻撃した。
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※小田切春光「大将(太子)ヶ根にむかう信長」
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0089日本@名無史さん2017/01/01(日) 15:40:30.54
▽味方の反乱としか思えなかったのであろう。
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0090日本@名無史さん2017/01/01(日) 15:48:05.71
▽服部小平太一忠
織田信長の馬廻。桶狭間の戦いにおいて今川義元に一番槍をつける戦功をあげた。しかし、義元の反撃を受けて膝を斬られたので、首級を挙げたのは助太刀に入った毛利良勝であった。桶狭間の戦い以降は織田氏の配下として目立った活躍は知られていない。
文禄4年(1595年)、豊臣秀次失脚に連座して所領を没収され、上杉景勝に預けられた後、切腹を命じられた。次男の勝長は、大崎長行の養子となり、紀伊徳川家に仕えた。
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※服部小平太:村松克巳
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0091日本@名無史さん2017/01/01(日) 15:51:47.80
▽松倉郷の太刀
織田信長が桶狭間にて今川義元を討った際、義元左文字(よしもとさもんじ) と今川家重代の二尺八寸の松倉郷の太刀を分捕ったとされる。

0092日本@名無史さん2017/01/01(日) 16:00:52.68
▽毛利新助良勝
織田信長の馬廻。桶狭間の戦いでは負傷した服部一忠を助け、今川義元の首を取り名を上げた。この際、指を噛み千切られたといわれる。
桶狭間以後は諱を良勝と名乗り、通称は新介から新左衛門に改めた。信長上洛後は、吏僚として活躍した。信長の側近として尺限廻番衆(さくきわまわりばんしゅう)に属し、判物や書状に署名を残した。
本能寺の変の際も信長に従って京に滞在しており、信長の長子・信忠を守って二条御新造に籠り、信忠と共に奮戦の末に討死した。
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※毛利新助:津嘉山正種
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0093日本@名無史さん2017/01/01(日) 16:04:07.99
▽首は、首のままで歯噛みしており、その口中に新助の人差指が入っていた。
北方水滸伝の張青の元ネタ
「張青に気づかれた史文恭は、張青を刺すが、張青は噛んだ史文恭の指を最期まで離さない」

0094日本@名無史さん2017/01/01(日) 17:11:30.84
〈前スレ〉388 名前:無名草子さん[sage] 投稿日:2016/12/12(月) 15:52:20.57
>いいえ。氏家ト全に対する愛が足りないから間違えるのです。大事なのは愛です。

氏家氏に対する愛ではなくて、竹腰氏に対する愛が足りんわな。
大垣城を初めに築城したのは竹腰氏。竹腰氏が大垣周辺に勢力をもっていたのは簡単に想像できる。
「西美濃三人衆」なんて言葉は、信長の美濃攻略の頃にできた言葉じゃないかな。
こんな言葉に引きづられるから、まだ氏家ト全が大垣にいない頃から、

261 名前:無名草子さん[sage] 投稿日:2016/12/10(土) 21:16:23.48
▽氏家卜全(ぼくぜん)
氏家直元 / 永正9年(1512年) - 元亀2年5月12日(1571年)
最盛期には美濃国の三分の一を領し、三人衆の中では最大の勢力を有していた。

なんてバカなことを小説に書いてしまうんだわな。

0095日本@名無史さん2017/01/01(日) 17:13:49.87
「三人衆」「御三家」「四天王」「七本槍」等々、むかしから日本人は、こういう言葉が好きだったんだな。
バカさの程度が、現代のマスコミと変わりがない。

0096日本@名無史さん2017/01/01(日) 17:18:08.70
「三好三人衆」も同じだね。内容を詳らかにする前に、言葉を使いたがる。
「三人衆」「御三家」「四天王」「七本槍」だからといって、強いわけでも、偉いわけでもない。
頭を冷やせ。

0097日本@名無史さん2017/01/01(日) 17:21:51.40
「御三家」「三人娘」だからといって、その三人だけが歌が巧いわけじゃない。

0098日本@名無史さん2017/01/01(日) 21:44:56.96
《地図を読む》
筆者はいま名古屋市の10万分の1の地図を眺めている。地図の上方を東から庄内川が西流している。
庄内川の北に春日井市、西へ行って名鉄犬山線を横切ると、清洲町がある。その南に須賀口駅があった。
庄内川の南には、東から守山区、北区、西区と並んでいる。
一段下がって、千種区、東区、中区、中村区がある。
西区と中区の文字のほぼ中央に名古屋城がある。
千種区には末森城、中村区は秀吉出生の地。
もう一段下がると、昭和区と中川区。さらに下がって、瑞穂区と熱田区。
熱田区には熱田神宮があるが、信長時代の海岸線は、このあたりであったようである。
その海岸線に沿って南南東に向かうと、南区、緑区と続く。
鳴海城の南南西に大高城があり、その連絡を絶つべく鷲津砦と丸根砦がある。桶狭間はそれらの東である。

0099国盗り物語2017/01/01(日) 21:52:51.03
第22章 須賀口

「いま、須賀口で妙なやつを見た」
といった。信長の視線は一瞬光秀をとらえたようだったが、当の光秀は見られたことに気づかなかった。むしろ信長を見たつもりであった。見るのはむろん不敬といっていい。顔を伏せ視線を地に落しつつ領主の通りすぎるのを待つのが、路上の礼儀であるべきだった。
信長のいう「妙なやつ」とは、「おれを見たやつがある」という意味であった。

0100日本@名無史さん2017/01/01(日) 21:57:03.86
史実にしばられる信長パートに比べ、牢人である光秀パートは自由に書けるので、このあたりから徐々に光秀パートが増えてまいります。

0101日本@名無史さん2017/01/01(日) 22:12:47.79
★木ノ本

▽賤ヶ岳
滋賀県長浜市(旧伊香郡木之本町)にある標高421 mの山。琵琶湖と余呉湖を分ける。
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0102日本@名無史さん2017/01/01(日) 22:17:02.31
▽さつき茶屋
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▽若狭へ行く旅僧
▽商人
▽茶屋の老婆

0103日本@名無史さん2017/01/01(日) 22:21:25.69
▽ほんの三日前
この日は、永禄3年(1560年)5月22日である。

0104日本@名無史さん2017/01/01(日) 22:31:19.99
▽桂能登守元澄
明応9年(1500年)- 永禄12年(1569年)。桂広澄の嫡男。
※桂広澄:草刈正雄…大河ドラマ「毛利元就」(1997年)
※桂能登守元澄:鶴見辰吾…大河ドラマ「毛利元就」(1997年)
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0105日本@名無史さん2017/01/01(日) 22:32:48.38
>>104
反則。それ軍師官兵衛の小早川隆景(鶴見辰吾)

0106日本@名無史さん2017/01/01(日) 22:37:13.63
★大垣

▽「ねずみが、猫を噛んだようなものでございましょう」
美濃大垣の旅籠の主人の言葉
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0107日本@名無史さん2017/01/01(日) 22:43:45.84
★尾張

▽摩利支天
仏教の守護神である天部の一柱。日天の眷属である。
原語のMariciは、太陽や月の光線を意味する。摩利支天は陽炎を神格化したものである。
陽炎は実体がないので捉えられず、焼けず、濡らせず、傷付かない。隠形の身で常に日天の前に疾行し自在の通力を有すとされる。これらの特性から、日本では武士の間に摩利支天信仰があった。
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0108日本@名無史さん2017/01/01(日) 22:52:19.62
★清洲城下

▽猪子兵助
猪子兵助の子も、同姓同名の猪子兵助。ともに道三と信長に仕えた。こういう例は、ままある。〔>>59-61
子の兵助は天文15年(1546年)生まれなので、ここまで登場しているのは、父の猪子兵助。
※猪子兵助 / 常田富士男(左)
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0109日本@名無史さん2017/01/01(日) 23:28:39.93
▽清洲の須賀口
須ヶ口駅は、愛知県清須市須ケ口駅前一丁目にある名古屋鉄道(名鉄)の駅である。
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0110日本@名無史さん2017/01/02(月) 01:06:50.19
《地図を読む》
筆者はいま、87万分の1の地図で福井県を眺めている。福井県は旧分国の若狭国と越前国で構成されている。
若狭国は、近江の北辺に貼りついた瘡蓋であると思っておけばよい。西側は丹後・丹波と境を接する。
西から順に、高浜町、大飯町、小浜市、若狭町、美浜町が並んでいる。近江と境を接していないのは、高浜町のみである。
越前国で近江と境を接するのは、敦賀市と南越前町のみである。
日本海と接する町を南から順にあげると、敦賀市、南越前町、越前町、福井市、坂井市、芦原市(あわら市)がある。
越前町の奥に鯖江市と越前市が並んであり、その奥に池田町がある。それら4市町の上に福井市が横たわる。
それらの最奥に大野市が美濃の町と境を接してある。
坂井市の奥には永平寺町、さらに勝山市、そして最奥にふたたび大野市がある。

0111国盗り物語2017/01/02(月) 01:17:50.29
第23章 一乗谷

(なんの、俺を亡き宗滴の位置につかせてくれるならば、朝倉の勢威は隆々たるものになり、ついに近隣を合併しつつ京に上り、将軍を擁して天下に号令できるようになるであろう)
義景が無能でもいい。いやむしろ無能なほうが、光秀の才が縦横無尽に揮えていい、とこの男は思っていた。

0112日本@名無史さん2017/01/02(月) 05:44:14.84
>>70
文禄3年なら、武井夕庵は信長の右筆をやっているよ。
現在は永禄3年(1560)です。

0113日本@名無史さん2017/01/02(月) 05:49:32.89
★一乗谷

▽永禄3年(1560)真夏
一条の小径が樹海のなかを縫ってつづき……
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0114日本@名無史さん2017/01/02(月) 05:53:09.00
>>112
文禄3年だと信長は死んでいるから、武井夕庵は信長の右筆をやれないよ。

0115日本@名無史さん2017/01/02(月) 05:59:56.39
▽木ノ芽峠
木ノ芽峠は、福井県の嶺北(越前地方)と嶺南(若狭地方)を隔てる峠である。木嶺ともいい、「嶺北」「嶺南」の語源となっている。
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0116日本@名無史さん2017/01/02(月) 06:03:59.87
▽中年の旅商人
「朝倉様五世百年のお城下でございます」
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0117日本@名無史さん2017/01/02(月) 06:13:27.05
▽朝倉氏
はじめ日下部を姓としたが、平安時代末期に但馬国朝倉に居住し朝倉氏を称した。
南北朝時代、朝倉孫右衛門広景が足利方の斯波高経に属して越前で戦功を挙げ、坂井郡黒丸城に拠り斯波氏の目代となって越前に地歩を築いた。
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0118日本@名無史さん2017/01/02(月) 06:22:32.71
▽朝倉敏景
当初は祖父や父も名乗った教景を名乗り、次いで敏景→教景→孝景の順で改名している。
第7代当主。応永35年(1428)- 文明13年(1481)。
敏景は北条早雲・斎藤道三らと同様に戦国大名の先駆けともいうべき存在であり、根拠地の一乗谷に家臣を集めるという当時としては画期的な中央集権制を布いた。
また、徹底した合理主義者であり、「合戦に際しては吉日や方角を選んだりして、いたずらに時を空費してはならない」「家老は家柄ではなく、その者の器量や忠節をもって選ぶべきだ」など、当時に重んじられていた迷信や風潮を大胆に切り捨てた。
敏景の遺した『朝倉敏景十七箇条』からもそれらが窺える。
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0119日本@名無史さん2017/01/02(月) 06:30:30.48
▽朝倉義景
越前朝倉氏第11代(最後)の当主。天文2年(1533)- 天正元年(1573)。現在27歳。
天文17年(1548年)3月、父の孝景が死去したため家督を相続して第11代当主となり延景と名乗る。
※朝倉義景 / 浜畑賢吉
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0120日本@名無史さん2017/01/02(月) 06:38:08.51
浜畑賢吉の奥さんは、上村香子(きょうこ)。
「義景は先祖の敏景に似気もなく凡庸」と司馬に貶されているが、家に帰ればこんなきれいな奥さんとセックスができた。
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0121日本@名無史さん2017/01/02(月) 06:44:31.56
▽中年の旅商人
「敏景様は、御当代より五世前のお方でござりまする」

0122日本@名無史さん2017/01/02(月) 06:46:20.53
11−7=4
敏景は義景の4代前の朝倉家当主である。

0123日本@名無史さん2017/01/02(月) 06:46:37.65
この商人、つり銭間違えそうだなw

0124日本@名無史さん2017/01/02(月) 06:58:02.60
▽朝倉宗滴(教景)
朝倉敏景〔>>118〕の八男。文明9年(1477)- 天文24年(1555)。5年前に死去。
第8代・氏景の弟。第9代・貞景の叔父。
朝倉貞景・朝倉孝景(宗淳)・朝倉義景の三代の朝倉氏当主を一族の参謀格としてよく補佐し、各地を転戦して武名を轟かせた。
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0125日本@名無史さん2017/01/02(月) 07:02:23.48
宗滴の歿年を、司馬さんは「弘治元年九月でありましたか」としている。
正確ではないが、誤りではない。天文24年(1555)の10月に「弘治」に改元されている。

0126日本@名無史さん2017/01/02(月) 08:45:05.55
★称念寺

▽長崎
福井県坂井市丸岡町長崎
丸岡町は平成18年(2006)までは坂井郡の市町村だったが、同年、三国町・春江町・坂井町と合併して坂井市が発足し丸岡町は廃止された。
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0127日本@名無史さん2017/01/02(月) 08:46:39.65
丸岡町には、継体天皇が即位前に住んでいたといわれる。町内の女形谷(おながたに)の地名は、この即位により「御名が谷」と呼ばれるようになったものが変化したものとされる。

0128日本@名無史さん2017/01/02(月) 08:54:24.54
▽称念寺
福井県坂井市丸岡町にある養老5年 (721年) から続く歴史あるお寺です。南北朝時代の武士である新田義貞の遺骸が手厚く葬られ、墓石が建てられています。
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0129日本@名無史さん2017/01/02(月) 09:01:22.60
▽禅道
明智光秀に関する「京都の天竜寺に禅道という老僧がいる」という文章からすると、禅道は実在した人物のようにも思える。
しかし、「わざわざ京都の天竜寺から勝恵和尚を招いて禅道を学ばせたり」という文章からすると、禅道を人名と勘違いしたようにも思える。

0130日本@名無史さん2017/01/02(月) 09:08:28.61
▽一念〈F〉
日本の仏門が言うところの「一念悟仏」とは、ひたすらに念仏することを指し、心の内に阿弥陀仏への信念と発願を起こさせるものである。
時宗の大寺である称念寺の住持にふさわしい名前であるが、架空の人物である。
※一念住持:嵯峨善兵
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0131日本@名無史さん2017/01/02(月) 09:17:42.31
▽上泉伊勢守
上泉信綱…上州出身の戦国時代の兵法家。永正5年(1508)- 天正5年(1577)。

0132日本@名無史さん2017/01/02(月) 09:25:24.51
▽塚原卜伝
延徳元年 (1489) 、常陸国の鹿島神宮に使える卜部・吉川覚賢(あきかた)の子・朝孝。
吉川朝孝は塚原家の養子となり、元服して塚原新右衛門高幹と名乗ることとなる。養父の安幹は鹿島七流とともに、香取の飯篠長威斎家直の天真正伝香取神道流を学んでおり、これを高幹に教授した。
弘治二年 (1556)、高幹は息子・幹重に家督を譲ると、剃髪出家して『卜伝』と名乗るようになる。
68歳になった卜伝は三度目の旅に出る。この時には、まるで大名のような一団を整えて上洛したと言う。この上洛のおり、卜伝は伊勢の国司・北畠具教、将軍足利義輝などに剣を伝授したとされる。
元亀二年 (1571)、弟子の松岡則方の家にて亡くなった。享年83。

0133日本@名無史さん2017/01/02(月) 09:27:46.72
塚原卜伝は、同時代の剣豪・上泉伊勢守と並んで“剣聖”と称されることがある。
しかし、塚原卜伝を“上泉伊勢守の門人”と称しているのは、司馬遼太郎だけである。

0134日本@名無史さん2017/01/02(月) 09:31:53.73
▽印可
?仏教? 弟子が悟りを開いたり、宗教的能力を得たことを、師が証明認可すること。主に禅宗・密教で使う。印信許可(いんじんこか)。
?芸道・武道?師が弟子に秘伝の伝授の終了を認めて授ける許し。

0135日本@名無史さん2017/01/02(月) 09:49:37.81
★一乗谷

▽朝倉土佐守
朝倉景行…北ノ庄城主。当時の北ノ庄城は、防御力のさほど高くない居館形式の城だったのだろう。
北ノ庄朝倉氏は、朝倉家中における有力一門として軍の中核を担っていた。
朝倉義景は天正元年(1573)に小谷城の浅井氏を救援する為に近江に赴いたものの、前線の砦が陥落したことから撤退を決意し、その撤退戦である刀根坂の合戦で朝倉軍は壊滅してしまう。朝倉景行ももちろんこの軍中にいたが、乱戦の中で討死したとされる。
※朝倉土佐守:神田隆
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0136日本@名無史さん2017/01/02(月) 09:56:28.22
▽朝倉土佐守の執事
「正気か」という顔を執事はした。
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※おまけ
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0137日本@名無史さん2017/01/02(月) 10:02:29.16
▽諸芸教授所
牛小屋同然のもので、床さえなく、五坪ほどの土間があるだけである。
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0138日本@名無史さん2017/01/02(月) 10:10:03.22
▽六角浪右衛門
武田家の牢人。松本備前守の門人。
※六角浪右衛門 / 伊吹聡太朗
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0139日本@名無史さん2017/01/02(月) 10:10:52.99
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0140日本@名無史さん2017/01/02(月) 12:04:23.14
▽鹿島明神
茨城県鹿嶋市宮中にある神社。式内社、常陸国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。全国にある鹿島神社の総本社。
古代には朝廷から蝦夷の平定神として、また藤原氏から氏神として崇敬された。その神威は中世に武家の世に移って以後も続き、歴代の武家政権からは武神として崇敬された。現在も武道では篤く信仰される神社である。
http://風水.co/wp-content/uploads/2015/09/2bf54284.jpg

0141日本@名無史さん2017/01/02(月) 12:04:51.06
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0142日本@名無史さん2017/01/02(月) 12:10:20.69
▽松本備前守
松本政信…鹿島神流は飯篠長威斎家直の高弟である松本備前守政信が創始した流派である。
松本備前守政信は、鹿島神宮の祝部(ほふりべ)である。政信は、薙刀、十文字槍、杖、さらに各種の鎌などの武具に熟達しており、師の飯篠長威斎から学んだ天真正伝香取神道流に独自の工夫を加えて、塚原土佐守安幹(塚原ト伝の父)および塚原ト伝に伝授した。

0143日本@名無史さん2017/01/02(月) 12:12:43.55
>>133
塚原卜伝は、実父・吉川覚賢(あきかた)から家伝の鹿島古流を学び、養父・塚原土佐守安幹から飯篠長威斎の香取神道流を学び、さらに飯篠長威斎の門人・松本備前守政信の創案した「一つの太刀」を学んだ。

0144日本@名無史さん2017/01/02(月) 12:24:21.10
>>133
上泉伊勢守信綱〔>>131〕は、松本備前守政信〔>>142〕に鹿島神流を学び、塚原ト伝高幹〔>>132〕に香取神道流を学んだ。
塚原卜伝を“上泉伊勢守の門人”と称しているのは、司馬遼太郎だけであり、真実は、塚原卜伝が師で上泉伊勢守が門人である。
要するに、逆である。

0145日本@名無史さん2017/01/02(月) 12:25:01.22
生年から考えれば、当然そうなるんだがな。

0146日本@名無史さん2017/01/02(月) 12:28:43.12
【凡例】
司馬遼太郎が作品の中で書いたウソの大きさを、エロ画像の枚数で示しています。
5段階評価です。エロ画像1枚であれば小さなミス、エロ画像5枚であれば取りかえしのつかないミスです。

0147日本@名無史さん2017/01/02(月) 12:36:06.42
《上泉伊勢守の門人塚原卜伝》☆☆☆
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0148国盗り物語2017/01/02(月) 13:08:21.26
第24章 六角斬り

「男を酔わしめるものは、胸中に鬱勃と湧いている野望という酒だ。わしは常にその酒に酔ってきた。いまも酔っている」
と、関係のないことをいった。
「しかし」
光秀は、話題にもどった。
「酒に酔うだけでは人の世は渡れぬということを、近頃、やっとわかってきた。男はお槇、妻子を養わねばならぬ」
(まあ)
お槇は、笑いだした。

0149日本@名無史さん2017/01/02(月) 13:15:59.44
★一乗谷

▽楓の馬場〈F〉
紅葉の一乗谷朝倉氏遺跡
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0150日本@名無史さん2017/01/02(月) 13:19:11.12
▽鯖江源蔵〈F〉
光秀と六角浪右衛門の試合の検分役。インターネット初の「鯖江源蔵」です。

0151日本@名無史さん2017/01/02(月) 13:21:01.01
>鯖江源蔵  に一致する情報は見つかりませんでした。

これを見ると、処女とやれたときと同等の喜びがある。

0152日本@名無史さん2017/01/02(月) 13:22:49.61
▽天流
斎藤伝鬼房が開いた武術流派。剣術、槍術、薙刀術、鎖鎌術、棒術、手裏剣術、取手・小具足(柔術)などを含む流派であったが、系統によって伝える内容は異なる。
開祖の斎藤伝鬼房は、常陸国真壁郡井手(現、茨城県桜川市)出身。

0153日本@名無史さん2017/01/02(月) 13:34:58.55
▽お槇〈M〉
明智光秀の正室は、妻木煕子(ひろこ)が正しい。
明智光秀の前半生については明らかでない点が多く(生年月日ですら諸説がある)、また、前スレ〈915〉で紹介した明智光秀の最初の正室である山岸光信の娘・千草のこともあり、煕子をモデルにした「お槇」を登場させたものと思われる。
※お槇 / 中野良子
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0154日本@名無史さん2017/01/02(月) 15:08:18.51
まずはモデルになった妻木煕子のエピソードを紹介するね。
天文14年(1545)頃、明智光秀と婚約。婚約後しばらくして煕子は疱瘡にかかり、美しかった顔に痘痕が残ってしまった。
妻木氏にとっては潰したくない縁談だったので、父・範煕は煕子と瓜二つの妹・芳子に姉の身代わりをさせて光秀のもとにやったが、光秀はそれを見破り、煕子を妻として迎えたという。

0155日本@名無史さん2017/01/02(月) 15:11:35.14
その後、光秀は牢人する。
困窮する生活のなか連歌会を催す金がなかった時に、煕子は自分の黒髪を売って、その金で光秀を助けたという。光秀はこれに感謝して、煕子存命中は側室を置かずに大切にしたという逸話は有名である。
天正4年11月7日に死去。享年は46。42、36という説もある。

0156日本@名無史さん2017/01/02(月) 15:16:17.82
▼煕子が産んだ三男四女
嫡男:十兵衛光慶(千代寿丸)
次男:十次郎光泰
三男:乙寿丸
長女:明智光春の室
次女:明智光忠の室
三女・珠(細川ガラシャ)…細川忠興の室
四女:織田信澄の室

0157日本@名無史さん2017/01/02(月) 15:28:44.63
続いて「お槇」の設定について…一族の土岐頼定の娘
▽土岐頼定〈F〉
同姓同名の人物が同時代に存在するが、美濃土岐氏ではなく上総土岐氏。
上総土岐氏は万喜城に拠ったため万喜土岐氏とも呼ばれる。
斎藤道三に領国を追われた土岐宗家の美濃守護・土岐頼芸を江戸崎城の土岐治頼より受け入れた人物として、前スレに書いたかもしれない土岐為頼の父が、土岐頼定である。
名前を借用しただけ、あるいは適当な名前を付けたら、偶然にも上総土岐氏に同名の人物がいたのだろう。頼定とお槇の父子は架空の親子である。

0158日本@名無史さん2017/01/02(月) 15:39:29.37
▽明智弥平次光春
天文5年(1536)- 天正10年6月15日(1582)。
明智光秀の重臣かつ女婿。異説に従弟(明智光安の子)ともいうが、真偽の程は定かではない。
天正6年(1578)以降に光秀の長女を妻に迎えている。彼女は荒木村重の嫡男・村次に嫁いでいたが、村重が織田信長に謀反を起こしたため離縁されていた。三宅姓を名乗っていた光春は、このときから明智姓を名乗る。
なお、本作品では、明智光安の子ということになっている。
※明智弥平次光春 / 三ツ木清隆
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0159日本@名無史さん2017/01/02(月) 15:50:59.74
ストーリーに矛盾が生じているね。
光秀の叔父・光安は、明智城落城のとき、光秀に光安の「遺児たち」を託し、「遺児たち」は山岸光信〔>>153〕に預けられた。
弥平次光春も光安の遺児であるが、なぜか弥平次光春は天竜寺の禅道に預けられている。

0160日本@名無史さん2017/01/02(月) 15:55:16.98
第17章「お万阿の庵」では、明智城落城のときに光秀が連れ出したのは光安の遺児たちだけで、お槇と弥平次光春については一言も触れていない。 

0161日本@名無史さん2017/01/02(月) 15:57:16.36
弥平次も明智光安の遺児には違いないんだから、許してやれよ。
お槇に関して一言も触れていないのは、最初の正室である山岸光信の娘・千草の問題があったからだよ。

0162日本@名無史さん2017/01/02(月) 16:01:06.64
この小説では、千草の存在は完全にスルーされている。山岸光信の娘が光秀の最初の正室であるというのは、そういう見解があるというだけのこと。
お万阿の庵は天竜寺のそばにあると記されているから、光秀は天竜寺の禅道にお槇と弥平次光春を託した後に、お万阿を訪ねたのかもしれないね。

0163日本@名無史さん2017/01/02(月) 16:09:59.74
「遺児たち」=複数の遺児ではなく、「遺児たち」=弥平次光春とお槇ということで。
お槇と弥平次光春はいちどは山岸光信に預けたが、その後光秀を追いかけてきたので天竜寺の禅道に預けたということで。
>>159-160様、これぐらいで納得していただけましたでしょうか?
先に進みます。

0164日本@名無史さん2017/01/02(月) 16:11:20.61
やれやれ、これでエロ画像を見なくて済むんだなww

0165日本@名無史さん2017/01/02(月) 16:24:01.14
弥平次の「イー・エス・パー」の掛け声によって、遺児の一人が瞬時にお槇に変身したとは考えられないか?
それから弥平次とお槇は、西美濃の山岸光信屋敷から、光速で天竜寺まで飛んできたはずだ。
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0166日本@名無史さん2017/01/02(月) 16:27:43.59
前振り ナガッ

0167日本@名無史さん2017/01/02(月) 16:30:50.46
光速エスパー〔動画〕
ダウンロード&関連動画>>


0168日本@名無史さん2017/01/02(月) 16:43:45.78
▽「禅道殿が、遷化なされたのでございます」
都合よく死なされてしまった禅道ではある。
遷化(せんげ)は、高僧の死亡を婉曲に且つ敬っていう語。正しくは遷移化滅(せんいけめつ)で、遷化はその略語。お隠れになるとも表現する。

0169日本@名無史さん2017/01/02(月) 16:46:47.38
>>157
「お槇(は)、……(略)……美濃にあるときは土岐頼定の姫君として……」という叙述があるから、土岐頼定は美濃土岐氏の設定だね。

0170日本@名無史さん2017/01/02(月) 16:51:49.38
▽米櫃
http://www.medias.ne.jp/~hunohana/ss-komebitu_thumb.jpg

0171日本@名無史さん2017/01/02(月) 17:00:12.83
▽光秀はお槇を抱きあげ、寝わらの上まで運んでゆき……(略)……ただひたすらな身動きを、お槇のなかで果たしつづけた。
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http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-2d-e7/syow2007/folder/934578/97/34296097/img_3?1335916011
『わらの犬』のレイプ・シーンも、下の糞映画と同じだったんじゃないだろうな?
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0172日本@名無史さん2017/01/02(月) 17:08:13.53
▽大黒天の木像
ヒンドゥー教のシヴァ神の化身であるマハーカーラ(Mahaa-kaala / 摩訶迦羅)のことである。
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マハーカーラは、インド密教に取り入れられた。密教の伝来とともに、日本にも伝わった。
日本で大黒天といえば、神道の大国主と神仏習合した日本独自の神をさすことが多い。台所の守護神。
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0173日本@名無史さん2017/01/02(月) 17:12:27.00
▽中村閑雲斎〈F〉
明智城に流寓していた槍術と兵法の師範

0174日本@名無史さん2017/01/02(月) 17:18:04.22
▽中川右近〈F〉
閑雲斎を倒した西国牢人で槍術の名手。光秀に咽喉仏を破られた。
名前は、「中川」瀬兵衛と従兄弟の高山「右近」を組み合わせたもの。

0175日本@名無史さん2017/01/02(月) 17:27:05.36
サブタイは「六角斬り」なんだが、あまりに薄味な六角浪右衛門〈F〉。

0176国盗り物語2017/01/02(月) 20:18:41.33
第25章 堺と京

それまでの信長にとっては、
――日本を制覇する。
ということは途方もなく大きな望みのように思われたが、この町の華麗な潮風に吹かれてみると、日本制覇などはひどく小さな野望にすぎぬように思われはじめた。

0177日本@名無史さん2017/01/02(月) 20:25:03.09
★清洲城

▽永禄4年(1561)正月
臥龍梅:竜が地上でとぐろを巻いたような形の梅の木
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0178日本@名無史さん2017/01/02(月) 20:28:55.56
▽「お濃よ、膝を貸せ」
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0179日本@名無史さん2017/01/02(月) 20:35:16.59
▽丹羽長秀
天文4年(1535年)、丹羽長政の次男として尾張国春日井郡児玉(現在の名古屋市西区)に生まれる。丹羽氏は元々斯波氏の家臣であったが、長秀は天文19年(1550年)から織田信長に仕えた。…現在25歳
天正元年(1573年)9月、長秀は信長より若狭一国を与えられ、織田家臣で最初の国持大名となった。
家老の席順としては、筆頭格の佐久間信盛失脚後、柴田勝家に続く二番家老の席次が与えられ、両名は織田家の双璧といわれた。
ただし軍事面では、独立した軍団を持つ柴田勝家・滝川一益・明智光秀・羽柴秀吉などの一段下とみなされ、知行も信長治世の末期には彼らとは大きな開きが生じていた。
※丹羽長秀 / 北村晃一
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0180日本@名無史さん2017/01/02(月) 20:43:13.72
★泉州堺

▽堺
堺の地名は、方違神社が摂津国・河内国・和泉国の三国の「境」であったことに由来する。市街地はその西方に形成された。
中世に貿易港として発展し、「東洋のベニス」として栄華を極めた。戦国時代には環濠都市となり、自治的な都市運営が行われた。
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0181日本@名無史さん2017/01/02(月) 20:48:32.16
▽ベニス
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0182日本@名無史さん2017/01/02(月) 20:51:33.04
▼東洋のペニス
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0183日本@名無史さん2017/01/02(月) 21:03:22.30
▽絨
厚い毛織物=絨毯、軟らかい糸=絨毛
※天鵝絨(ビロード):綿・絹・毛などで織り表面に毛羽 (けば) や輪奈 (わな) を出した滑らかで光沢のある織物。
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※女里弥寿(メリヤス):綿糸または絹糸で機械を用いてよく伸縮するように編んだもの。
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0184日本@名無史さん2017/01/02(月) 21:08:41.80
★京

▽等持院
京都市北区にある臨済宗天龍寺派の寺院。足利氏の菩提寺であり、足利尊氏の墓所としても知られる。
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0185日本@名無史さん2017/01/02(月) 21:16:24.49
▽義輝は、居館がない。
ついに二条館はなくなりましたね。
※意味不明の諸君は、前スレの〔922-923 / 926-927〕を読んでくれたまえ。
細川藤孝 / 伊吹吾郎 司馬遼太郎 Part6 [無断転載禁止]©2ch.netYouTube動画>2本 ->画像>863枚
足利義輝 / 竹脇無我 司馬遼太郎 Part6 [無断転載禁止]©2ch.netYouTube動画>2本 ->画像>863枚

0186日本@名無史さん2017/01/02(月) 21:20:32.19
信長の将軍義輝への拝謁は、2年前の永禄2年(1559年)2月2日の出来事である。
信長は80〜100名ほどの軍勢を引き連れて上洛し、室町幕府第13代将軍・足利義輝に謁見した。当時、義輝は尾張守護・斯波家(武衛家)の邸宅を改修して住しており、信長はそこへ出仕した。

0187日本@名無史さん2017/01/02(月) 21:24:16.87
桶狭間の戦いと順序が前後しているが、この史実改変は許せると思う。
桶狭間前に信長の将軍拝謁をやってしまうと、同じく上洛して将軍に拝謁するだろう今川義元との戦いが???になってしまう。

0188日本@名無史さん2017/01/02(月) 21:25:05.76
>>187
つーか、おまいがエロ画像を見たくないだけだろうw

0189日本@名無史さん2017/01/02(月) 21:37:13.79
▽臨済寺
司馬さんによると、二条西洞院に臨済寺があるそうだが、残念ながらありませんでした。

0190日本@名無史さん2017/01/02(月) 21:38:30.01
臨済寺は、静岡と大分のが有名だわな。
こりゃもうエロ画像3枚だっぺ?

0191日本@名無史さん2017/01/02(月) 21:44:06.61
★一乗谷

▽光秀
(あの男にも、若い女を相手にチンコを勃てる野望があるのか)
嘲笑って笑い捨てたい気持ちと、モテるおっさんに対する軽い嫉妬、
(あるいは道三殿が申したように、意外な巨根の持ちぬしかもしれぬ)
というあらためて見直してみたい気持と、複雑にいりまじった感慨を味わった。

0192日本@名無史さん2017/01/02(月) 23:02:37.58
《地図を読む》
筆者はいま87万分の1の石川県の地図を眺めている。咆哮するゴジラの上半身のようなこの県は、旧分国の名で言えば、下半分が加賀国、上半分は能登国ということになる。
下辺は越前国と境を接し、右辺は飛騨国・越中国と境を接している。
〈能登国〉
          輪島市・珠洲市(すず)
            穴水町・能登町
         志賀町・七尾市
         羽咋市(はくい)・中能登町
         宝達志水町
〈加賀国〉   河北市・津幡町
       内灘町
      金沢市
     川北町・野々市市
    能美市(のみ)
  加賀市・小松市・白山市

0193日本@名無史さん2017/01/02(月) 23:06:20.96
>>190
AVはやめて洋画のエロいのにしようよ。三浦恵理子以外のAV女優は、どれも全部ダメ。

0194日本@名無史さん2017/01/02(月) 23:26:10.39
>>189
〔判決〕京都にない寺をあると書いた罪は重い。エロ画像4枚の刑。

0195日本@名無史さん2017/01/02(月) 23:27:37.62
《二条西洞院の臨済寺》☆☆☆☆
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0196国盗り物語2017/01/02(月) 23:34:07.06
第26章 浮沈

こうなれば朝倉土佐守といった田舎大名の家老などの場合、無邪気なほどの傾倒を示しはじめるものだ。
「ぜひ、推挙したい」
と言い、光秀を一乗谷につれて行って、わが屋敷に泊らせ、数日して義景に拝謁させた。

0197日本@名無史さん2017/01/02(月) 23:49:05.52
★一乗谷

▽いい面の皮
自分の「面の皮」が好いのではなく、自分に恥をかかせた相手(ないし第三者)の「面の皮」が好いという意味。
「面の皮」が好いは、反語として使われていて、恥をかかせた相手(ないし第三者)の「面の皮」が厚いという意味。
※顔の表皮が厚ければ表情が乏しくなると考えられるので、「面の皮が厚い」は、どんな非難を受けても顔色をかえたり、表情に表れたりしないふてぶてしさを意味する。「面の皮が厚い」は鈍感、ずうずうしい、腹黒いといったネガティブな印象の強い言葉である。

0198日本@名無史さん2017/01/02(月) 23:50:51.38
▽偸安
〔安きを偸(ぬす)む意〕目先の安楽を求めること。

0199日本@名無史さん2017/01/02(月) 23:53:25.88
>>195
おまえはオッパイを基準に画像を選んでいるのか?

0200日本@名無史さん2017/01/02(月) 23:54:16.36
そうです。ピンク・フロイドが女性コーラスを選ぶ基準と同じです。

0201日本@名無史さん2017/01/02(月) 23:57:42.75
▽驥足を展ばす
〈「蜀志」?統伝から〉優秀な素質をもっている人が、その才能を存分に現す。
「驥」は足の速い馬の意。転じて、すぐれた才能を意味するようになった。

0202日本@名無史さん2017/01/02(月) 23:59:32.91
三国志のホウ統のホウが?になってしまいました。
臥竜鳳雛の?統です。

0203日本@名無史さん2017/01/03(火) 00:07:30.80
▽束脩
司馬さんは、授業料に(そくしゅう)の振り仮名をふっている。
束脩は入学金で1回支払うのみなので、授業料の意味なら謝儀が適当である。
▼江戸の寺子屋の学費の例
束脩:入学金……扇子、扇子に金銭を添える、品物などさまざま。
謝儀:授業料……年5回払う。1回分は家格に応じて金額が異なる。
月並銭:月謝

0204日本@名無史さん2017/01/03(火) 00:13:05.78
★称念寺(長崎)

▽考庵
越前長崎の医者。称念寺のそばで開業している。
※昭和48年大河ドラマで配役されているが、役者が不明である。

0205日本@名無史さん2017/01/03(火) 00:20:30.19
▽焙烙頭巾
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女性が被ったのでは似合わないだろうな。
光秀の妻お槇は、考庵に薦められた朝鮮人参を光秀に買い与えるために、自分の髪を売った。
史料に残っているのは、連歌会を催す金を賄うために髪を売ったのであるが〔>>155〕、主人の熱病の治療のために髪を売ったほうが美談になるな。

0206日本@名無史さん2017/01/03(火) 00:28:36.71
▽凛烈
〈寒さが厳しく身にしみいるさま〉が本来の意味であるが、司馬さんの文章ではニュアンスが異なる。
「壮夫の貧はむしろ凛烈としている」「もはや凛烈たる気は保てぬ」
厳しい寒さに打ちひしがれているのではなく、厳しい寒さに打ち勝っているニュアンスが読み取れるのだ。

0207日本@名無史さん2017/01/03(火) 00:33:32.14
和歌山県立箕島高校校歌の「凛烈の意気」が参考になると思うよ。
意味は「厳しい状況のなかにあっても目標に向かって臆することなく積極的に意欲的に取り組む心意気」だそうだ。
※和歌山県立箕島高校出身者を含む東洋医療専門学校ブログの画像
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0208日本@名無史さん2017/01/03(火) 00:34:26.95
凛烈としていないような……。

0209日本@名無史さん2017/01/03(火) 21:52:50.81
▽富樫氏
藤原利仁に始まるといわれる氏族である。代々加賀国に勢力を張り、加賀介を世襲し、武門の栄職であると言われる八介の一つの富樫介を称した一族である。
1387年(至徳4年)に富樫昌家が没すると、管領・斯波義将が実弟の義種を加賀守護職に任じ、30年近くにわたって富樫氏は守護職を奪われていた。だが、将軍足利義持の側近である富樫満成が1414年(応永21年)に斯波満種を失脚させて加賀半国守護(南部)となり、更に残り半国(北部)も一族の富樫満春(昌家の甥)に与えられた。
以後、富樫政親が1488年(長享2年)、高尾城で加賀一向一揆に攻め滅ぼされる(長享の一揆)までが富樫氏の加賀国支配時期である。

0210日本@名無史さん2017/01/03(火) 21:59:49.24
▽加賀一向一揆
長享2年(1488年)から天正8年(1580年)にかけて、加賀の本願寺門徒らが中心となった惣国一揆。
文明3年(1471年)吉崎へ下向した蓮如は、親鸞以来の血脈相承を根拠に一宗独立を宣言し、浄土系諸門流の掌握を開始した。蓮如教団は世法的宗教観の否定を唱える門流をも内包し、他宗派との間に鋭い緊張関係を生じた。
一方加賀守護勢力は、15世紀中期以降幾度も二手にわかれ支配権を争っていた。このような状況下で一部守護勢と一向衆とは、国人層・百姓層・寺社勢力をも糾合し、それぞれの反対勢力打倒の惣国一揆をおこした。

0211日本@名無史さん2017/01/03(火) 22:13:33.93
▽坪坂伯耆
坪坂包明…伯耆入道、空性。加賀国石川郡鶴来の地侍。本願寺から加賀に派遣された坊官。金沢御坊にいた加賀一向一揆の頭領。

0212日本@名無史さん2017/01/03(火) 22:17:32.56
▽鶴来
鶴来町(つるぎまち)は、石川県の南に位置し、石川郡に属していた金沢市南郊の町。金沢市への通勤率は29.7%(平成12年国勢調査)。2005年2月1日に、野々市町を除く石川郡を構成する町村及び隣接する松任市と合併し、白山市になった。
※白山市立鶴来博物館
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0213日本@名無史さん2017/01/03(火) 22:24:02.21
▽永禄5年(1562)9月
称念寺前の陋居:狭くてむさ苦しい家。 狭くてみすぼらしい家。 ぼろ屋。
※中国妓女村陋居草席
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0214日本@名無史さん2017/01/03(火) 22:36:22.31
▽加賀・大聖寺城
石川県加賀市大聖寺八間道
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0215日本@名無史さん2017/01/03(火) 22:44:39.52
朝倉土佐守〔>>135〕 4,000
朝倉義景〔>>119〕  1,000

0216日本@名無史さん2017/01/03(火) 23:23:14.36
▽九頭竜川
福井県嶺北地方を流れる一級河川。流域面積2,930kmは福井県の面積の約70%にあたり、県のシンボルの一つとされている。
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0217日本@名無史さん2017/01/03(火) 23:32:23.70
▽凛呼
りりしく勇ましいさま。毅然としているさま。凜然。
>>206の「凛烈」は、凛呼の意味で使っているな。
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0218日本@名無史さん2017/01/03(火) 23:34:29.19
「りりしい」も漢字で書くと「凛々しい」だから、凛呼の意味だろうな。
「凛烈」だけが意味が違う。

0219日本@名無史さん2017/01/03(火) 23:42:53.18
▽御幸塚
花山法皇が当地に一時滞在して住んでいた時に、加賀三湖を望む三湖台に上り、周囲を眺望されたという伝承による。なお、花山法皇が上ったという所は「御幸塚」と呼ばれる。現在の小松市の西端にあたる。
※今江城址(御幸塚城)
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0220日本@名無史さん2017/01/03(火) 23:46:19.62
▽「ぜひ、推挙したい」
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▽光秀の都びた物腰や相貌をひと目みて気に入り、当家に仕えぬかといった。
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0221日本@名無史さん2017/01/03(火) 23:48:37.21
▽禄、わずか二百石である。
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0222日本@名無史さん2017/01/03(火) 23:52:32.44
光秀は足の指でピアノを弾いたりする。
行儀の悪い人だから、二百石で十分よ。
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0223日本@名無史さん2017/01/03(火) 23:52:49.45
この画像では、足の指でフリージャズを弾いている。
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0224日本@名無史さん2017/01/03(火) 23:55:57.34
足の指だとスウィングしないんだよな。
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0225日本@名無史さん2017/01/04(水) 02:32:12.71
この章の加賀一向一揆と朝倉軍との戦いは、ほんとうにあったのか?

0226日本@名無史さん2017/01/04(水) 02:35:07.53
尻垂坂の戦いをはじめとして、上杉謙信と北陸の一向宗との戦いは有名だよな。
加賀一向一揆は朝倉と仲良くしておかないと、上杉と朝倉に挟み撃ちにされるよな。

0227日本@名無史さん2017/01/04(水) 02:37:39.48
司馬さんは、坪坂伯耆守を天才的な戦術家と絶賛しておられるが、朝倉は味方にしておかないとまずいよね。
坪坂伯耆守は、バカとしか思えないけど。

0228日本@名無史さん2017/01/04(水) 02:46:47.91
>>226
尻垂坂の戦いは越中の一向宗との戦いだし、時期も元亀3年(1572年)だからな。
いまの時期なら、越前朝倉と加賀一向一揆の間に紛争があっても不思議じゃない。

0229日本@名無史さん2017/01/04(水) 02:52:19.09
《今夜の尻垂坂》
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0230国盗り物語2017/01/04(水) 17:37:48.87
第27章 美濃攻略

信長はすでにこの年五月に三河の徳川家康と同盟して東方の脅威を去っている。北方の美濃攻略に専念できるはずであった。
(もし美濃をとれば、天下を望むこともできるのではないか)
朝倉家に身を寄せている光秀としては、信長の成長は決してうれしい話題ではない。

0231日本@名無史さん2017/01/04(水) 17:43:44.98
▼桶狭間戦後の信長
桶狭間の戦いの後、今川氏は三河の松平氏の離反等により、その勢力を急激に衰退させる。これを機に、信長は今川氏の支配から独立した徳川家康(この頃、松平元康より改名)と手を結ぶことになる。
それまで織田家と松平家は敵対関係にあり幾度も戦っていたが、信長は美濃国の斎藤氏攻略のため、家康も駿河国の今川氏真に対抗する必要があったため、こちらの利害関係を優先させたものと思われる。
両者は永禄5年(1562年)、同盟を結んで互いに背後を固めた(清洲同盟)。この同盟は信長死後あるいは小牧・長久手の戦いまで維持された。

0232日本@名無史さん2017/01/04(水) 17:57:55.19
★清洲城

▽馬場殿
『濃陽諸士伝記』に記された斎藤義龍の娘。
馬場殿を信長の側室として政略結婚に用いようという意見が美濃にあったが、龍興が言うには「其妻死後に遣り難し」として嫁入りさせるのは難しいと述べたという。
これは濃姫が既に亡くなっていて、信長の正室にも別の人物が収まっていたことを窺わせるような内容である。濃姫死亡説の根拠とされている。

0233日本@名無史さん2017/01/04(水) 18:03:33.03
▽「火を見ているのだ」
『絵本太閤記』と『武将感状記』のよく知られた逸話に、濃姫が熟睡すると信長は毎夜寝所を出て暁に帰るという不審な行動を一ヶ月も続け、浮気を疑う濃姫が尋ねると、信長は密計を図っていて謀叛を起こす道三の二人の家老・堀田道空および春日丹後守からの連絡を待っているのだと答えたというのがある。

0234日本@名無史さん2017/01/04(水) 18:08:25.64
▽濃姫付の侍女
各務野のことである。名前をド忘れしたのであるが、調べるのが面倒だった。
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0235日本@名無史さん2017/01/04(水) 18:11:41.39
▽義竜が死んだ
永禄4年(1561年)5月11日に急逝した。享年35。後を子の龍興が継いだ。
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0236日本@名無史さん2017/01/04(水) 18:29:08.22
▽別伝和尚
別伝座元…斎藤家は日蓮宗を信仰していたが、義龍の代になってから臨済禅に傾倒していった。義龍は別伝座元に帰依し、伝灯寺という禅宗の菩提寺を創建した。
なお、快川紹喜は「永禄別伝の乱」と呼ばれる宗教上の混乱により一旦美濃を離れるが、義龍の死去に伴い帰国している。

0237日本@名無史さん2017/01/04(水) 18:29:22.95
※伝燈護国寺は、斎藤義龍が永禄3年(1560)に、京都の妙心寺から別伝を招いて建てた。
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0238日本@名無史さん2017/01/04(水) 18:35:11.96
▽斎藤龍興
天文17年(1548年)、斎藤義龍の庶子として生まれたと伝わる。幼名は喜太郎。正室近江の方の子という説もある。近江の方は、浅井亮政の娘であるというのが有力な説となっている。
永禄4年(1561年)、父・義龍の死により14歳で美濃斎藤氏の家督を継ぐ。
※斎藤龍興 / 大石悟郎
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0239日本@名無史さん2017/01/04(水) 18:41:20.34
《鰐淵晴子の若い頃》※国盗り物語とは、まったく関係ありません。
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0240日本@名無史さん2017/01/04(水) 18:45:57.27
★森部の戦い

▽永禄4年(1561年)5月14日
森部村(安八町)にて長井利房、日比野清実らを討ち取り勝利する。
※岐阜県安八郡安八町森部…大垣市と羽島市に挟まれている。
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0241日本@名無史さん2017/01/04(水) 18:53:21.69
云い忘れた。本文に「墨俣付近」とあるのが、森部のこと。
前田利家は、この戦で勘当を解かれます。
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0242日本@名無史さん2017/01/04(水) 19:07:18.26
▽日比野下野守
日比野清実…前スレの〔793〕に名前だけは紹介しておいた。斎藤家の重臣 「斎藤六人衆」 の一人。
永禄年間に日根野弘就〔>>69〕と氏家卜全直元〔>>94〕・安藤守就〔>>44〕・竹腰尚光との4人、あるいはこれに日比野清実・長井衛安〔利房/>>240〕を加えた6人の連署で発給された書状が多く残っている。

0243日本@名無史さん2017/01/04(水) 19:11:27.70
▽長井甲斐守
長井利房(衛安)…前スレの〔793〕に名前だけは紹介しておいた。斎藤家の重臣 「斎藤六人衆」 の一人。

0244日本@名無史さん2017/01/04(水) 19:14:44.35
5月13日 信長は河を越え勝村に布陣した。1,500名の兵力である。
   14日 総大将斉藤龍興が墨俣方面から、長井利房・日比野清実が森部方面から、総勢6,000名を繰り出した。
       激闘数時間の末、織田軍の勝利。敵の首級170余を挙げたという。

0245日本@名無史さん2017/01/04(水) 19:16:50.62
この戦いの後、信長の勘気を蒙り牢人していた前田犬千代の帰参が許されたという。ちなみに、彼は桶狭間の戦にも参戦し兜首を三つ挙げているが、帰参を許されていない。

0246日本@名無史さん2017/01/04(水) 19:19:45.57
斉藤軍には油断があった。敵兵が少ないことを侮っていた。油断を物語るエピソードがある。「近江猿楽座一行の二人の若者の死」である。
二人は長井利房〔>>243〕、日比野清実〔>>242〕の男色の相手であった。そんな若者を合戦に同伴させているくらいだ。美濃勢はこの戦いの勝利を確信していたのであろう。しかし、思いがけない大敗に四名とも討死してしまった。猿楽座の二人は手を取り合って死んでいたという。
この合戦で、信長は墨俣砦を奪い取っている。

0247日本@名無史さん2017/01/04(水) 19:27:42.22
日根野と日比野は、勘違いしそうだな。

0248日本@名無史さん2017/01/04(水) 20:25:14.19
勘違いしそうなところが、試験に出題されるのじゃよ。
そういうところを集中的に勉強してくれたまえ。

0249日本@名無史さん2017/01/04(水) 22:29:46.19
>>246
>この合戦で、信長は墨俣砦を奪い取っている。

森部の戦いは、永禄4年(1561年)5月14日の一日で終結した。
信長が墨俣を奪い取った戦いは、5月23日の十四条・軽海の戦いとして、森部の戦いと区別するのが今日一般的である。

0250日本@名無史さん2017/01/04(水) 22:41:11.52
▽七月二十一日、一万の大軍を動員し……(略)……非常な勢いで稲葉山城下にせまった。
第一陣 柴田勝家
第二陣 池田信輝(恒興)
第三陣 丹羽長秀

0251日本@名無史さん2017/01/04(水) 22:45:34.46
▽河田渡し
河田橋(こうだ)…以前は、河田の渡しという渡船があったが、木曽川の洪水により欠航となることがあった。
愛知県一宮市浅井町河田と岐阜県各務原市川島河田町の木曽川南派川に架かる橋梁。
愛知県一宮市浅井町河田と岐阜県各務原市川島河田町は、安土桃山時代の大洪水で木曽川の流れが変わるまでは、同じ尾張国葉栗郡河田嶋村であった。
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0252日本@名無史さん2017/01/04(水) 22:48:33.30
▽池田恒興
諱を信輝としている軍記物もあるが、信頼できる同時代史料には見当たらない。
天文5年(1536年)、尾張織田氏家臣・池田恒利の子として誕生。母は養徳院。母の養徳院は織田信長の乳母であり、後に信長の父の織田信秀の側室となっている。

0253日本@名無史さん2017/01/04(水) 22:53:44.59
▽長森
岐阜市長森本町
ここで斎藤方の竹中半兵衛が、十面埋伏の陣で織田勢に大打撃を与える。

0254日本@名無史さん2017/01/04(水) 22:55:41.20
>>250以降の戦いは史料で確認できないのですが、★(仮称)長森の戦い、ということにしておきます。

0255日本@名無史さん2017/01/04(水) 23:00:37.61
▽日根野備中守兄弟
日根野弘就……前スレ〔792-793〕〔>>242
永正15年(1518年)- 慶長7年(1602年)。美濃本田城主。備中守。
弘治元年(1555年)10月22日、義龍の命で義龍の異母弟である孫四郎、喜平次兄弟を稲葉山城内で斬殺した。
日根野盛就……前スレ〔795〕
日根野備中守弘就の実弟

0256日本@名無史さん2017/01/04(水) 23:02:54.17
▽木下藤吉郎秀吉
織田軍を潰滅から救った殿軍の一将校
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0257日本@名無史さん2017/01/04(水) 23:07:05.70
▽瑞龍寺山
岐阜市のスーパー低山「瑞龍寺山」。金華山の前に東西に連なる丘陵で、最高点はわずか156m。
秀吉は野伏の群れを瑞龍寺山に伏させておいた。
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0258日本@名無史さん2017/01/04(水) 23:15:27.14
▽十面埋伏の陣
元々は項羽と劉邦の戦いで、劉邦側が用いた戦法(計略)に由来する。
『三国志演義』では、曹操が程cと荀攸のすすめで「十面埋伏の計」を実行した。

0259日本@名無史さん2017/01/04(水) 23:19:48.50
▽竹中半兵衛
竹中重治……天文13年(1544年)、美濃斎藤氏の家臣で美濃国大野郡大御堂城(岐阜県揖斐郡大野町)城主・竹中重元の子として同地に生まれる。
永禄元年(1558年)、父は不破郡岩手城主・岩手弾正を攻略し、永禄2年(1559年)、菩提山城を築いて居城を移し、重治もこれに従う。永禄3年(1560年)、父の死去(または隠居)により家督を相続する。

0260日本@名無史さん2017/01/04(水) 23:23:32.91
信長が、永禄5年(1561年)7月に美濃に侵攻してくるが、斎藤勢は重治の十面埋伏陣という独特の伏兵戦術で織田勢を破ったとされている。
半兵衛の活躍は『武功夜話』や『太閤記』によって描かれている。江戸時代の講談などで、黒田孝高とともに天才軍師の人物像が固まり、現在の人気に至っている。しかしながら『信長公記』には記述が少なく実態はよく分かっていない。
※竹中半兵衛 / 米倉斉加年
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0261日本@名無史さん2017/01/04(水) 23:28:24.37
★森部の戦い…………………〔>>240-246
★十四条・軽海の戦い………〔>>249
★(仮称)長森の戦い………〔>>250-260

0262日本@名無史さん2017/01/04(水) 23:39:11.81
★一乗谷

▽清洲同盟
桶狭間の戦いで今川義元が織田信長によって討たれると、家康は空き城となった岡崎城を取り戻した。
その後、今川氏の本家である吉良氏などの三河における親今川勢力を攻撃しはじめる(善明堤の戦い及び藤波畷の戦い)。
これに怒った今川氏真は、永禄4年(1561年)に家臣の吉田城代・小原肥前守鎮実に命じ、徳川側の人質を城下の龍拈寺口で殺した。一説には串刺しと言う。

0263日本@名無史さん2017/01/04(水) 23:39:59.58
今川家と敵対関係となった家康は、西の隣国である尾張国織田家との接近を考え、石川数正を交渉役として織田信長との同盟を模索する。
一方の信長も、美濃の斎藤氏と交戦している経緯から家康との同盟を考えており、家康の母方の伯父に当たる水野信元が家康を説いた。
正式に同盟が締結されたのは桶狭間の戦いから2年後である。このとき、家康が信長の居城である清洲城を訪問して、信長と家康との間で会見が持たれた上で同盟が締結されたことから、これは清洲同盟と呼ばれている。
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0264日本@名無史さん2017/01/04(水) 23:49:35.05
▽光秀としては、信長の成長は決してうれしい話題ではない。光秀はむしょうにピアノを足で弾きたくなった。
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0265日本@名無史さん2017/01/05(木) 19:19:16.68
「とどめは、十面埋伏の陣で」
「よくぞ申した、程c」

0266日本@名無史さん2017/01/06(金) 05:55:06.68
このスレは、庄九郎の命を狙った木下闇が、昭和48年大河ドラマでは下柘植次郎左衛門に置き換えられていたと勘違いしていた画像君の提供です。

0267日本@名無史さん2017/01/06(金) 06:10:32.84
画像君は昭和48年にはまだ生まれてないから、大河の国盗り物語は、総集編しか観でないんだろう?

0268日本@名無史さん2017/01/06(金) 20:35:24.34
>>53
配役されている。武勇の誉れ高く「攻めの三左」という異名を誇った。
※森三左衛門:佐竹明夫
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0269日本@名無史さん2017/01/08(日) 14:18:53.93
>>263
>正式に同盟が締結されたのは桶狭間の戦いから2年後である。

森部の戦いは永禄4年(1561年)であるが、この件では永禄5年になっている。
次章の記述からすると、次章はどうやら永禄6年らしい。

0270国盗り物語2017/01/08(日) 14:35:22.13
第28章 光秀奔走

翌永禄八年、信長は相変わらず美濃侵攻作戦を断念せず、いままで西濃を侵攻路にしていたのを一転して東濃に刃を転じ、この夏ついに東濃の一部に斬り入り、その後一進一退しつつあるという噂を光秀は聞いた。
ところが、この年五月、光秀の身にも重大な異変がおきた。
将軍義輝が、松永久秀の手で殺されたのである。

0271日本@名無史さん2017/01/08(日) 15:11:48.51
むかしテレビでやっていた子供番組のロンパールームに『おやつの時間』がありました。
そこでコップ一杯の飲み物を飲むのですが、何を飲んでいたのでしょう?
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0272日本@名無史さん2017/01/08(日) 15:13:14.88
少なくとも初代の時はミルクだったようですね。
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0273日本@名無史さん2017/01/08(日) 15:17:21.31
★一乗谷

▽朝倉土佐守景行〔>>135
「ほう、枢密なこと」
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0274日本@名無史さん2017/01/08(日) 15:30:14.67
▽三好長慶
天文22年(1553年)、三好長慶が芥川山城を包囲している最中に、足利義輝が細川晴元と連合して入京を目論むが、長慶が上洛すると晴元軍は一戦もなく敗走し、将軍義輝は近江朽木に逃れた。
長慶は将軍に随伴する者は知行を没収すると通達したため、随伴者の多くが義輝を見捨てて帰京したという。以後5年間にわたって、義輝は朽木滞在を強いられ、京都は事実上長慶の支配下に入った。

0275日本@名無史さん2017/01/08(日) 15:34:19.70
三好長慶は芥川山城を兵糧攻めにして落とし、芥川孫十郎が没落した後の芥川山城を居城とした。
越水城が摂津下郡の政治的拠点であったのに対して、芥川山城は細川政権の畿内支配の拠点であり、長慶はその拠点を引き継いだのである。

0276日本@名無史さん2017/01/08(日) 15:37:08.45
永禄元年(1558年)6月、足利義輝は細川晴元・三好政勝・香西元成らを従えて京都奪還に動き、将軍山城で三好軍と交戦した(北白川の戦い)。
しかし戦況は叔父の三好康長や三好実休、安宅冬康、十河一存ら三人の弟が率いる四国の軍勢が摂津に渡海するに及んで三好方の優位となったため、六角義賢は義輝を援助しきれないと見て和睦を図った。
和談は11月6日に成立し、義輝は5年ぶりに帰京した。この時長慶は細川氏綱・伊勢貞孝とともに義輝を出迎えている。以後の長慶は幕府の主導者として、幕政の実権を掌握したのである。

0277日本@名無史さん2017/01/08(日) 15:38:05.27
永禄年間初期までにおける長慶の勢力圏は摂津を中心にして山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨などに及んでいた。
当時、長慶の勢力に匹敵する大名は相模国の北条氏康くらいだったといわれる。

0278日本@名無史さん2017/01/08(日) 15:43:32.44
永禄2年(1559年)2月に織田信長がわずかな供を連れて上洛しているが、長慶とは面会せずに3月に帰国した〔>>186〕。
同年4月には、長尾景虎が上洛しているが、この時の上洛では面会はなかったようである。

0279日本@名無史さん2017/01/08(日) 15:45:00.27
細川家家中においても三好氏の権力は頂点を極めた。この永禄2年(1559年)は長慶の権勢が絶大となり、長慶の嫡男・慶興が将軍の足利義輝から「義」の字を賜り義長と改めた(後に義興と改名)。
この頃にはかつての管領家である細川・畠山の両家も長慶の実力の前に屈し、永禄3年(1560年)1月には相伴衆に任命され、1月21日に長慶は修理大夫に、義興は筑前守に任官した。1月27日には正親町天皇の即位式の警護を勤め、財政難の朝廷に対して献金も行なっている。

0280日本@名無史さん2017/01/08(日) 15:47:13.49
三好長慶の衰退は永禄4年(1561年)4月から始まった。弟の十河一存が急死したのである。
一存の持城・岸和田城のあった和泉支配が脆弱となり、その間隙をついて畠山高政と六角義賢が通じて、細川晴元の次男・晴之を盟主にすえ7月に挙兵し、南北から三好家に攻撃をしかけた。
この戦いは永禄5年(1562年)まで続き、3月5日に三好実休が畠山高政に敗れて戦死した(久米田の戦い)。

0281日本@名無史さん2017/01/08(日) 15:49:12.43
しかし京都では三好義興と松永久秀が善戦し、一時的に京都を六角軍に奪われながらも、安宅冬康ら三好一族の大軍を擁して反攻に転じ、5月20日の教興寺の戦いで畠山軍に大勝して畠山高政を再度追放、河内を再平定し、六角軍は6月に三好家と和睦して退京した。

0282日本@名無史さん2017/01/08(日) 15:51:17.44
なお、この一連の戦いで三好長慶は出陣した形跡がなく、この頃の長慶は病にかかっていたのではないかといわれている。以後、和泉は十河一存に代わって安宅冬康が、河内高屋城主には三好康長が任命されて支配圏の再構築が行なわれた。
しかし十河一存と三好実休の死による三好政権の弱体は明らかであった。

0283日本@名無史さん2017/01/08(日) 15:55:10.84
▽松永久秀
永禄5年(1562年)8月には幕府の政所執事である伊勢貞孝が、畠山・六角の両家と通じて京都で挙兵したため、9月に松永久秀・三好義興の率いる三好軍によって貞孝は討たれた。だがこのように久秀の功績・実力が大きくなり、三好家の実権は次第に松永久秀が握るようになっていたのである。
※松永弾正 / 永井秀明
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0284日本@名無史さん2017/01/08(日) 15:57:19.02
永禄6年(1563年)8月には義興が22歳で早世、唯一の嗣子を失った長慶は十河一存の息子である重存(義継)を養子に迎えた。
本来であれば十河氏を継ぐべき重存が後継者に選ばれたのは、彼の生母が関白を務めた九条稙通の娘でありその血筋の良さが決め手であったとみられる。

0285日本@名無史さん2017/01/08(日) 15:58:12.60
永禄6年(1563年)12月には名目上の主君であった細川氏綱も病死、この少し前には細川晴元も病死しており、三好政権は政権維持の上で形式的に必要としていた傀儡の管領まで失うことになった。

0286日本@名無史さん2017/01/08(日) 16:02:10.25
三好義継が若年のため、松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が後見役として三好氏を支えた。
しかし、両者はやがて対立し、永禄8年(1565年)から永禄11年(1568年)までの3年間内紛を起こした。
その後、久秀と、久秀の側に鞍替えした三好義継は、新たに台頭した織田信長と彼が推戴する足利義昭に協力、三好三人衆は信長に蹴散らされ、三好政権は崩壊した。

0287順序を間違えた2017/01/08(日) 16:02:58.31
>>285の次
永禄7年(1564年)5月9日、長慶は弟の安宅冬康を居城の飯盛山城に呼び出して誅殺した。松永久秀の讒言を信じての行為であったとされている。
この頃の長慶は、相次ぐ親族らの死で心身に異常を来たして病になり思慮を失っていた。冬康を殺害した後に久秀の讒言を知って後悔したものの後の祭りであり、病がさらに重くなってしまったという。そして7月4日、長慶は飯盛山城で病死した。享年43。

0288日本@名無史さん2017/01/08(日) 16:12:37.59
松波庄九郎が少壮の頃から、三好侍は京の町をわがもの顔で歩いていたのではないのですか?

0289日本@名無史さん2017/01/08(日) 17:41:02.94
三好・松永の京支配は、永禄年間と記憶しておけばいいよ。
それも、信長が上洛するまでの間。

0290日本@名無史さん2017/01/08(日) 20:24:03.59
▽長尾輝虎
永禄2年(1559年)5月、再度上洛して正親町天皇や将軍・足利義輝に拝謁する。このとき、義輝から管領並の待遇を与えられた(上杉の七免許)。
永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いにより甲相駿三国同盟の一つ今川家が崩れた機会に乗じ、ついに景虎は北条氏康を討伐するため越後国から関東へ向けて出陣し三国峠を越える。
上野国に入った景虎は、長野業正らの支援を受けながら小川城・名胡桃城・明間城・沼田城・岩下城・白井城・那波城・厩橋城など北条方の諸城を次々に攻略。厩橋城を関東における拠点とし、この城で越年した。

0291日本@名無史さん2017/01/08(日) 20:25:22.53
永禄4年(1561年)3月、景虎は関東管領・上杉憲政を擁して、宇都宮広綱、佐竹義昭、小山秀綱、里見義弘、小田氏治、那須資胤、太田資正、三田綱秀、成田長泰ら旧上杉家家臣団を中心とする10万余の大軍で、小田原城をはじめとする諸城を包囲、攻撃を開始した(小田原城の戦い)。小田原城の蓮池門へ突入するなど攻勢をかけ、籠城する氏康を窮地に追い込む。

0292日本@名無史さん2017/01/08(日) 20:26:07.09
永禄4年(1561年)閏3月16日、景虎は、上杉憲政の要請もあって鎌倉府の鶴岡八幡宮において、山内上杉家の家督と関東管領職を相続、名を上杉政虎と改めた。

0293日本@名無史さん2017/01/08(日) 20:29:29.62
>>290の上洛は、>>278の上洛のことである。
司馬さんは、永禄2年(1559年)の滞京中に関東管領職を頂戴したと書かれているが、真っ赤ななウソ。
>>292で述べたように、永禄4年(1561年)のことである。

0294日本@名無史さん2017/01/08(日) 20:30:07.45
これは、エロ画像5枚の刑に値するウソですな。

0295日本@名無史さん2017/01/08(日) 20:34:02.33
▽織田氏
越前国丹生郡織田庄に住む庄官織田氏の末裔が、守護斯波氏の被官となって成長していった。
応永7年(1400)、室町幕府の管領家で越前守護であった斯波義教が尾張の守護を兼ね、兵庫助将広の子と思われる織田伊勢入道常松(信広・郷広)が尾張守護代に抜擢された。

0296日本@名無史さん2017/01/08(日) 20:37:38.94
>>225
時期は異なるが、加賀一向一揆と越前朝倉氏との間に合戦はあったよ。
弘治元年(1555年)と永禄7年(1564年)に、両者は戦っている。

0297日本@名無史さん2017/01/08(日) 20:42:04.62
>>293
史実では永禄2年(1559年)4月に、長尾景虎は上洛しているが、この小説では、その上洛時期を、永禄6年(1563年)に変えているんだよ。
だから、小説の世界では、ここのところで山内上杉家の家督と関東管領職を相続したと書いても、許されるんじゃないかな?

0298日本@名無史さん2017/01/08(日) 20:51:04.54
▽紐帯
「じゅうたい」というルビが振られているが、間違いではない。
しかし、一般的には「ちゅうたい」と読む。

0299日本@名無史さん2017/01/08(日) 20:56:00.44
▽白桐の御紋
桐は鳳凰の止まる木として古代中国で神聖視されていたことに倣って、日本でも天皇の衣類の文様に用いられるなど、菊紋章に次ぐ格式のある紋とされた。
室町幕府以後は武家が望んだ家紋とされ、足利尊氏や豊臣秀吉などもこれを天皇から賜っている。このため、五七桐は「政権担当者の紋章」という認識が定着することになった。
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0300日本@名無史さん2017/01/08(日) 21:00:20.17
★永禄6年

▽美濃攻め
永禄6年(1563年)、東美濃へ進入、新加納の戦いで斎藤龍興と戦い敗れる。

0301日本@名無史さん2017/01/08(日) 21:02:22.70
★永禄7年

▽美濃攻め
1.北近江の浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹・お市を輿入れさせた。
2.斎藤家家臣の竹中重治と安藤守就が造反し、稲葉山城乗っ取りを行い、斎藤龍興は城を捨てる。重治らは半年ほど城を占領した後、これを龍興に明け渡す。
この時、信長から重治に城を明け渡すよう誘いがあったというが、重治はこれを拒否した。しかし、この出来事によって斎藤氏の衰退が明らかとなり、家臣らの離反が目立つようになる。

0302日本@名無史さん2017/01/08(日) 21:07:02.86
>>300 ★永禄6年の忘れもの

▽小牧山城
丹羽長秀を奉行として小牧山山頂に城を築き、永禄6年(1563年)7月には主要兵力を小牧山城に移した。
織田信長が美濃攻めを終えるまでの4年間しか使用されなかったため、急造の砦に近いものと想像されていたが、近年の発掘調査の結果、城郭を取り巻く三重の石垣が発見された。
城の南部の発掘調査では、小牧山築城によって移転してきた住民によって営まれた町割も発見され、戦時急造の城ではなく、清州城に代わる新たな拠点として築かれた城郭であることが判明した。
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0303日本@名無史さん2017/01/08(日) 21:11:40.20
★永禄8年

▽美濃攻め
永禄8年(1565年)には、加治田城主佐藤忠能が信長に寝返り、加治田城を攻めようとした堂洞城主の岸信周が織田軍に討たれた。岸信周に呼応した関城主長井道利〔前スレ785〕も斎藤利治に破れて関城を奪われ、中濃地方も信長の勢力圏に入った。
※長井道利 / 森幹太(かんた)
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0304日本@名無史さん2017/01/08(日) 21:21:54.88
▽将軍義輝暗殺
永禄8年(1565年)5月19日、松永久秀の長男・松永久通と三好三人衆は、主君・三好義継(長慶の養嗣子)とともに清水寺参詣を名目に集めた約1万の軍勢を率い、二条御所に押し寄せ、将軍に訴訟(要求)ありと偽り取次ぎを求めた(永禄の変)。
足利義輝は自ら薙刀を振るって奮戦したが衆寡敵せず、最期は寄せ手の兵たちが四方から畳を盾として同時に突きかかり殺害された。または、槍で足を払われ、倒れたところに上から刺し殺されたともいう。
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享年30(満29歳没)。

0305国盗り物語2017/01/08(日) 23:44:27.85
第29章 剣と将軍

敵方に池田某という者がいて背後から槍をもって義輝の足をはらった。
義輝はころんだ。
「すわ、おころびあそばされたぞ」
とその上から杉戸をかぶせ、義輝の自由をうばい、隙間から槍を突き入れ、くどいばかりに突き入れ突き入れしてついに殺した。

0306日本@名無史さん2017/01/09(月) 00:56:41.28
★信貴山城

▽弾正殿
武野紹鴎に師事しており、茶人としての交流は広かった。
平蜘蛛茶釜の所持者として有名だが、他に九十九髪茄子(現在静嘉堂文庫所蔵)を一時所持していた。その他にも名物を多数所持しており、当時の茶人としての位置づけは高かった。野村美術館には、天正3年(1573年)1月22日に、久秀自ら作成した茶杓「玉椿」が所蔵されている。

0307日本@名無史さん2017/01/09(月) 01:11:04.40
▽信貴山城
信貴山城は大和と河内の国境にある生駒山系に属する信貴山(標高433m)山上に築かれた山城である。奈良県生駒郡平群町にあった。松永久秀は山上に南北700m、東西550mに及ぶ城郭を築いて、大和経略の拠点とした。
永禄2年(1559年)8月に松永久秀が信貴山城を改修し、今日にみられるような規模の城郭を築いた。その後、大和を一挙に制圧した久秀は多聞山城も築城し、大和南部の抑えを多聞山城、河内の抑えを信貴山城とし、両城を頻繁に行き来した。
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0308日本@名無史さん2017/01/09(月) 01:22:22.11
▽三好義興
天文11年(1542年)- 永禄6年(1563年)
三好長慶の嫡男で嗣子。将来を有望されたが〔>>281/>>283〕、父より先に早世した。義興は足利義輝と年齢が近く、教養も武勇もあったためか、義輝と厚い親交があった。
義興の死の背景には、主家奪取を目論む松永久秀の毒殺ではないかと疑う見解があるが、どれも後世に作られた軍記物を典拠とする風聞であり、全く事実無根である。

0309日本@名無史さん2017/01/09(月) 01:31:27.29
▽飯盛山城
三好長慶は、畠山高政の居城高屋城を攻囲、援軍に駆けつけた安見宗房軍を寝屋川付近で撃退し、翌永禄3年(1560年)11月13日に飯盛山城に入城した。この時から長慶は飯盛山城を居城と定め大規模な改修作業を実施し、現在の城郭になったと思われる〔>>287〕。
※大阪府大東市及び四條畷市にまたがる山城
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0310日本@名無史さん2017/01/09(月) 01:45:58.50
▼三好四兄弟……三好元長の子
長男:三好長慶……大永2年(1522年)- 永禄7年(1564年)
次男:三好実休(義賢)……大永7年(1527年)- 永禄5年(1562年)
三男:安宅冬康……享禄元年(1528年)- 永禄7年(1564年)
四男:十河一存(かずまさ)……天文元年(1532年)- 永禄4年(1561年)
五男:野口冬長
若くして死去したため冬長は事績に乏しく、三好家を扱った文献の中では、十河一存を末弟とし、冬長はその存在自体がなかったものとして扱われていることが多々ある。

0311日本@名無史さん2017/01/09(月) 01:55:49.06
▽安宅(あたぎ)冬康
三好元長の三男。安宅氏へ養子に入り淡路水軍を統率し三好政権を支えたが、兄・三好長慶によって殺害された〔>>287〕。
安宅氏は淡路国の水軍衆である。三好長慶は細川晴元によって畿内を追われ淡路島にいた。長慶は冬康をこの安宅氏の当主・安宅治興の養子にして家督を継承させた。
以降、三好家は、長慶が摂津・河内・和泉の兵を、実休が阿波衆を、安宅冬康が淡路衆を、十河一存が讃岐衆を率いるという体制で各地を転戦した〔>>276>>281>>282〕。

0312日本@名無史さん2017/01/09(月) 02:06:22.82
▽茨木城
大阪府茨木市にあった城である。現在、城跡は宅地化され、茨木神社に移築された搦手門と茨木小学校に復元された櫓門がある程度で、城をしのばせるものはほとんど残っていない。
城主は、茨木氏 →天正5年(1577年)中川清秀 →慶長6年(1601年)片桐貞隆(且元の弟)。
「一国一城令」により摂津では高槻城のみが残り、且元の息子片桐孝利は龍田城へ、貞隆は小泉城へ移っていった。元和2年(1616年)廃城。
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0313日本@名無史さん2017/01/09(月) 02:12:36.83
三好(安宅)冬康が茨木城主だなんて『国盗り物語』に書いてあるもので、茨木城についてもレスを残しておいた。
しかし、調べる前から安宅冬康が茨木城主でないことは分かりきっているわけで、徒労感がハンパじゃないな。
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0314日本@名無史さん2017/01/09(月) 02:15:23.56
司馬さんの三好氏関連の叙述はわやくそなんで、やけくそにならんように読んでつかーさい。

0315日本@名無史さん2017/01/09(月) 02:20:29.68
司馬の秀吉ひいきは、大阪出身だからだろう。三好にも多少は関心を持てよ。

0316日本@名無史さん2017/01/09(月) 02:26:05.66
三好長慶の最期は鬱病みたいだし、ドラマにしにくいから、一般的に日本人に愛されてないのよ。

0317日本@名無史さん2017/01/09(月) 02:46:18.52
▽足利義維(よしつな)
生涯の間に数回改名している。亀王→義賢→義維→義冬。
永正6年(1509年)、第11代将軍・足利義澄の次男として生まれる。第10代将軍・足利義稙の養子。第14代将軍・足利義栄の父。

0318日本@名無史さん2017/01/09(月) 02:54:26.57
▽足利義栄(よしひで)
第14代将軍……在職:永禄11年(1568年)2月 - 9月。
天文7年(1538年)、足利義維(平島公方)の長男として阿波国平島荘で生まれる。
永禄8年(1565年)、永禄の変で従兄の第13代将軍・義輝が三好三人衆・松永久秀に殺害されると、中風で将軍の任に堪えられないであろうとされた父・義冬(義維)の代わりに、将軍候補として擁立された。
しかし同年11月から三人衆と久秀が権力抗争を開始すると、義栄は12月に三人衆に強要されて久秀討伐令を出すことを余儀なくされた。

0319日本@名無史さん2017/01/09(月) 09:13:30.37
★二条館

▽足利義輝
将軍就任の翌年には細川晴元とケンカして近江へ出奔、まもなく仲直りするものの、天文十八年(1549)には晴元に代わって台頭した三好長慶に敗れて再び近江へ逃走、天文二十二年(1553)にも長慶によって近江へ追われている。
永禄元年(1558)十一月、ついに義輝は六角義賢(定頼の子)の仲介により、天敵長慶と講和して帰京した。
が、長慶は永禄七年(1564)に病没する。
代わって権力を握ったのは、陪臣・松永久秀と、三好長逸(ながゆき)・三好政康(まさやす)・石成友通(ともみち)、三人そろって「三好三人衆」と呼ばれる人々である。

0320日本@名無史さん2017/01/09(月) 09:19:30.49
▽林久大夫
松永久秀の腹心。
※七条朱雀……「保元物語」では、源為義はこの七条朱雀野で斬首された。
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0321日本@名無史さん2017/01/09(月) 09:24:13.12
▽霖雨
幾日も降り続く雨。ながあめ。
※霖雨蒼生とは、苦しんでいる人々に救いの手を差し伸べること。また、民衆の苦しみを救う慈悲深い人のこと。
「霖雨」は長雨。ここでは、喉の渇きをいやし植物を生育させる三日以上降り続く恵みの雨のこと。「蒼生」は世の人民・万民のこと。
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0322日本@名無史さん2017/01/09(月) 09:32:45.87
▽三好義継
河内の戦国大名。三好氏本家の事実上最後の当主である。
天文18年(1549年)、三好長慶の実弟・十河一存の子として生まれる。永禄6年(1563年)8月に従兄で長慶の世子であった三好義興が早世したため、長慶の養子として迎えられ三好姓に改めた。
十河家は三好実休の次男・存保を養子に迎えなければならなくなる。
永禄7年(1564年)7月に長慶が死去すると、後見役の三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)の支持を受けて家督を継ぎ名実共に三好家の当主となる〔>>286〕。

0323日本@名無史さん2017/01/09(月) 09:49:07.46
▽永禄8年(1565年)5月19日〔>>304
【司馬氏による布陣】
三好義継……三本木。兵450〔>>304〕。
松永弾正……烏丸春日〔>>283〕。
十河一存(故人)……室町〔>>280〕。
三好笑岸(康長)……西大路〔>>276/>>282〕。
岩城(岩成)主税助〔>>322〕……勘解由小路(かでのこうじ)

0324日本@名無史さん2017/01/09(月) 09:57:37.35
▽十河一存(故人)
故人であるにもかかわらず、将軍義輝暗殺計画に加わった勇者〔>>310〕。
※ここは、おそらく三好三人衆の筆頭格・三好長逸(ながゆき)と述べるべきなのであろう〔>>319〕。
長逸は長慶から頼れる一族の年長者として信頼された。松永久秀と共に三好政権の双璧と称される。

0325日本@名無史さん2017/01/09(月) 10:06:58.42
▽三好笑岸
三好康長……三好長秀の子で元長の弟、つまり三好長慶の叔父。
「笑岸」ではなく、「笑巌」が正しい。
笑巌康長は三好三人衆ではないが、三好三人衆と松永久秀が敵対して家中が分裂すると、康長は三人衆側に同調した。
この笑巌康長と紛らわしいのが、三好政康。こちらは三好三人衆。釣竿斎宗渭(ちょうかんさい そうい)。

0326日本@名無史さん2017/01/09(月) 10:11:07.84
▽岩城主税助
まず、姓が違う。岩城ではなく岩成。次に布陣した勘解由小路の読み方を間違っている。
「かげゆこうじ」ではなく「かでのこうじ」。
※岩成主税助友通
三好三人衆の一人。三好長慶の奉行人として頭角を現し、三好政権の中枢を占めるに至った。

0327日本@名無史さん2017/01/09(月) 10:18:37.61
このあたりはボロボロだな。三好三人衆について整理しておく。
【正解】             【司馬インチキ三人衆】
三好長逸(ながゆき)     十河一存(故人)
三好宗渭(政康)        三好笑岸(笑巌康長)
岩成友通(主税助)       岩城主税助(岩成友通)

0328日本@名無史さん2017/01/09(月) 10:27:24.80
>>95-96
>「三人衆」「御三家」「四天王」「七本槍」だからといって、強いわけでも、偉いわけでもない。

「三好三人衆」が誤解を受けやすい最たる「○○衆」だな。
補欠三人衆・二軍三人衆と考えてもらって差し支えない。落ち目の三好家の代表的家臣は、この程度になってしまったという三人衆。
それくらい三好長慶の弟三人〔三好実休/安宅冬康/十河一存〕は有能であった〔>>310〕。

0329日本@名無史さん2017/01/09(月) 10:32:36.09
ここまで自信たっぷりに間違えるということは、元ネタになった軍記物があったのだろうがな。

0330日本@名無史さん2017/01/09(月) 10:39:49.63
▽勝竜寺城
京都府長岡京市勝竜寺に所在した城
元亀2年(1571年)、細川藤孝が山城西岡一帯を信長より与えられ勝竜寺城主となり、二重の堀を持つ堅固な城に改修したとされる。
永禄8年(1565年)の現在、いまだ細川藤孝は勝竜寺城主になっていない。

0331日本@名無史さん2017/01/09(月) 10:40:41.18
細川藤孝はどこにいたんだろうね( ´д)ヒソ(´д`)ヒソ(д` )

0332日本@名無史さん2017/01/09(月) 10:42:37.30
▼勝竜寺城の戦い
観音寺城の戦いで勝利した織田信長は、足利義昭を奉じて上洛する2日前の永禄11年(1568年)9月26日、柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚ら4人の家臣に先陣を命じ、桂川を渡河し三好三人衆の岩成友通〔>>326〕が守る勝竜寺城を攻撃させた。

0333日本@名無史さん2017/01/09(月) 10:50:19.40
▽沼田上総介
沼田光兼……藤孝の正室・麝香(じゃこう)の父。
女婿荒川晴宣、飯河信賢らも将軍家に仕え、義輝生害の折討死した。次子清延も義昭に仕えたがのち細川藤賢の客分として丹後中山城を預かった。肥後沼田氏の祖。その他の娘もそれぞれ、若州前川城主山形秀立、北畠教正、進士国秀に嫁いだ。

0334日本@名無史さん2017/01/09(月) 10:52:21.17
▽室町口の攻撃をうけもっていた十河一存が兵を静め……(略)……。
やりますな、十河一存の幽霊w

0335日本@名無史さん2017/01/09(月) 10:55:23.69
▽細川隆是(たかよし)
はじめ大内義隆に仕えるが、大内家の滅亡後は京都へ移って足利将軍家に仕え、1565(永禄8)年5月に将軍足利義輝が暗殺された際、これに殉じた。

0336日本@名無史さん2017/01/09(月) 10:58:12.43
大寧寺の変で義隆が自刃し大内氏が滅びたのが天文20年(1551年)なので、永禄8年(1565年)の現在、細川隆是を「若者」と呼ぶのは無理があります。

0337日本@名無史さん2017/01/09(月) 11:00:16.87
▽義輝の辞世
  五月雨は 露か涙か 不如帰
    我が名を上げよ 雲の上まで

0338日本@名無史さん2017/01/09(月) 11:04:11.90
▽上泉伊勢守
かつて司馬遼太郎は、塚原卜伝を上泉伊勢守の門人と称してしまい、エロ画像3枚の刑に処せられた〔>>147〕。
真実は、塚原卜伝が師で上泉伊勢守が門人である〔>>144〕。

0339日本@名無史さん2017/01/09(月) 11:09:03.06
   *      . .,、.;.,,,、  *    
    i     ,;;;''    ゙;.  i  * 
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0340日本@名無史さん2017/01/09(月) 11:15:49.83
▽着背長の鎧
着背長は固有名詞ではなく普通名詞。
鎧 (よろい) ・具足の美称。特に大将の着るものをいう。
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0341日本@名無史さん2017/01/09(月) 11:18:01.41
▽五枚兜
錏 (しころ) の板が5枚ある兜。
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0342日本@名無史さん2017/01/09(月) 11:23:46.80
▽池田某
足利義輝の足をはらって、ころばした三好方の侍。
『戦国BASARA』シリーズでは、声優の池田秀一が足利義輝役である。
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0343日本@名無史さん2017/01/09(月) 11:29:25.35
★草津


▽草津宿
近江国栗太郡にあった東海道五十三次の52番目の宿場で中山道が合流する。
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※草津市……県庁所在地の大津市に次ぐ県下第二の人口を有する都市である。
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0344日本@名無史さん2017/01/09(月) 11:33:33.35
▽止んぬるかな
「やんぬるかな」は、漢語の「已矣哉」の訓読み。「今となってはどうしようもない」「もうおしまいだ」という諦めの意。
「已矣哉」の読み下しなので、司馬さんのように「止んぬるかな」とはなりません。
正しくは「已んぬるかな」。

0345日本@名無史さん2017/01/09(月) 11:37:55.03
▽若葉につつまれた南山城の野
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0346日本@名無史さん2017/01/09(月) 11:38:39.68
光秀パートも情報量が増えてきたな。

0347国盗り物語2017/01/11(水) 18:46:22.23
第30章 奈良一条院

門跡は、僧名は、覚慶。
のちの十五代将軍義昭である。
「やってくださるか」
藤孝はにじり寄って光秀の手をとり、
「天下ひろしといえども、この将軍後継者の奪還に命をすてようとしているのは我ら二人しかいない」
藤孝の顔に、噴き出るほどの血がさしのぼった。

0348日本@名無史さん2017/01/11(水) 19:09:13.07
★勝竜寺

▽永禄8年(1565年)暑い季節
南山城の野には、竹薮が多い。
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0349日本@名無史さん2017/01/11(水) 19:14:42.56
▽帷子
夏の麻のきもの。古くは片枚 (かたひら) と記し、裏のない衣服をすべてこう呼んだが、江戸時代には単 (ひとえ) 仕立ての絹物を単 (ひとえ) と称するのに対して、麻で仕立てられたものを帷子(かたびら)と称した。
武家のしきたりを書いた故実書をみると、帷子は麻に限らず、生絹 (すずし) 、紋紗 (もんしゃ) が用いられ、江戸時代の七夕 (7月7日) ・八朔 (8月1日) に用いる白帷子は、七夕には糊を置き、八朔には糊を置かないのがならわしとなっている。
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0350日本@名無史さん2017/01/11(水) 19:19:44.55
▽勝竜寺
山城国乙訓郡勝竜寺村……京都府長岡京市勝竜寺
※現代の勝竜寺城公園
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0351日本@名無史さん2017/01/11(水) 19:24:01.56
>>330
>元亀2年(1571年)、細川藤孝が山城西岡一帯を信長より与えられ勝竜寺城主となり……(略)……。
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0352日本@名無史さん2017/01/11(水) 19:48:09.04
《地図を読む》
      能勢町
        豊能町                長岡京 - 向日
              島本町           大山崎町 - 久御山町 - 宇治
                          八幡 - 城陽 - 宇治田原町
池田 - 箕面 - 茨木 - 高槻 - 枚方……………京田辺 - 井出町 - 和束町
豊中 - 吹田 - 摂津 - 寝屋川 - 交野…………精華町 - 木津川 - 笠置町 - 南山城村

0353日本@名無史さん2017/01/13(金) 08:44:00.21
▽椋の木
学名は椋ではなくてムクノキ……アサ科ムクノキ属の落葉高木。東アジアに分布する。単にムク(椋)、またはエノキに似るためムクエノキ(椋榎)ともいう。成長が比較的早く大木になるため、日本では国や地方自治体の天然記念物に指定されている巨木がある。
※倉敷市真備町の「服部新田のムクノキ」……写真を撮った方の命名
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0354日本@名無史さん2017/01/13(金) 08:48:44.13
▽丁々とたたいた
丁丁発止……激しく議論し合うさま。また、刀などで激しく音を立てて打ち合うさま。
「丁丁」は続けて打ちたたく擬音。「発止」は堅い物どうしが打ち当たる擬音。

0355日本@名無史さん2017/01/13(金) 08:48:50.43
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0356日本@名無史さん2017/01/13(金) 08:51:43.86
▽低徊趣味
世俗を離れてのんびりとした気持ちで自然や芸術を楽しむこと。
「低徊」は考え事をしたりしながら、ゆっくりと歩き回ること。
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0357日本@名無史さん2017/01/13(金) 08:52:50.80
▽細川家の郎党
「あっ、明智様で」

0358日本@名無史さん2017/01/13(金) 08:55:33.54
▽細川家の小女
汗ばんだ衣服を着かえさせた。
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0359日本@名無史さん2017/01/13(金) 08:56:17.83
着かえさせたのは光秀であって、小女の衣服が汗ばんだわけではない。

0360日本@名無史さん2017/01/13(金) 08:57:09.13
永禄8年(1565年)に藤孝は勝竜寺にいないから、何をやってもいいよw

0361日本@名無史さん2017/01/13(金) 09:04:48.12
▽藤孝の妻……麝香(じゃこう)〔>>333
まだ未婚の姫御前のように稚い。
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0362日本@名無史さん2017/01/13(金) 09:06:30.32
▽乳母らしい女
▽満一歳になったかならぬかの男の児
のちの細川忠興である。

0363日本@名無史さん2017/01/13(金) 09:15:59.79
▽「これは、とろろ茶でござるな」
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▽鯉のなます
※しめ鯖なますで代用
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0364日本@名無史さん2017/01/13(金) 09:16:55.65
なますにされなかった鯉
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0365日本@名無史さん2017/01/13(金) 09:32:07.01
▽周ロ
足利将軍家の一族で、室町幕府12代将軍・足利義晴の末子。13代将軍・足利義輝、15代将軍・足利義昭の弟である。
幼い頃から仏門に入り、相国寺の塔頭・鹿苑院の院主になった。永禄7年(1565年)5月19日、松永久秀・久通父子と三好義継・三好三人衆によって将軍・義輝が殺害され(永禄の変)、周ロも松永らの命令を受けた平田和泉守に誘い出され、小姓とともに京都へ行く途中で殺害された。
司馬さんは周ロを17歳であったとしているが、義晴の死後に出生したことになり、年代が合わない。

0366日本@名無史さん2017/01/13(金) 09:40:58.05
▽平田和泉守……松永久秀の家臣
▽紙屋川
天神川……京都市を流れる淀川水系の一級河川。江戸時代までは紙屋川の名が一般的であった。古くは西堀河と称した。「天神川」の名は、中流で北野天満宮の西を流れていることによる。
※前スレ……210 名前:国盗り物語[sage] 投稿日:2016/12/07(水) 17:47:24.11
第55章 紙屋川
庄九郎は、お万阿を肩にかつぎ、堂のそとへ出、月の下を歩いた。寺の背後に、紙屋川が流れている。土手を降り、瀬のふちにお万阿を横たえた。

0367日本@名無史さん2017/01/13(金) 14:56:38.64
 ___ _
  ヽo,´-'─ 、 ♪
   r, "~~~~"ヽ
   i. ,'ノレノレ!レ〉 ☆ 衆議院と参議院のそれぞれで、改憲議員が3分の2を超えております。☆
 __ '!从.゚ ヮ゚ノル  総務省の、『憲法改正国民投票法』、でググって見てください。
 ゝン〈(つY_i(つ 日本国憲法改正の国民投票を実施しましょう。お願い致します。☆
  `,.く,§_,_,ゝ,
   ~i_ンイノ

0368日本@名無史さん2017/01/13(金) 15:30:20.89
▽亀助
美濃屋常哲の倅。周ロの雑色。周ロの仇である平田和泉守を斃す。

0369日本@名無史さん2017/01/13(金) 15:38:15.86
▽三条夷川
京都市上京区夷川町
▽小川町
京都市上京区小川町

0370日本@名無史さん2017/01/13(金) 15:40:57.21
▽美濃屋常哲
武儀小三郎……明智家の元家来。

0371日本@名無史さん2017/01/13(金) 15:49:47.67
▽奈良一条院
奈良市の興福寺にあった塔頭の一つ。天禄元年 (970年) 、興福寺別当定昭によって建立される。
門跡が入る院家の一つで、大乗院とともに門主は興福寺別当をつとめた(延暦寺における青蓮院に該当する)。はじめは近衛家の子弟が門跡をつとめていたが、江戸時代初期以降は皇族が門跡となったため、門主は南都一乗院宮とよばれた。
廃仏毀釈により廃絶したため現在は存在せず(建物の一部は芳徳寺等の他の寺院に移築されている)、明治期に奈良県庁となり、その後奈良地方裁判所として使用されている。

0372日本@名無史さん2017/01/13(金) 15:49:55.23
※芳徳寺
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※奈良地方裁判所
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0373日本@名無史さん2017/01/13(金) 15:50:50.12
>>371
>はじめは近衛家の子弟が門跡をつとめていた

義昭は足利氏じゃん。

0374日本@名無史さん2017/01/13(金) 15:52:09.19
義昭の母親の慶寿院は、近衛尚通の娘。

0375日本@名無史さん2017/01/13(金) 15:57:35.27
▽覚慶
父は室町幕府第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。第13代将軍・足利義輝は同母兄。
足利将軍家の家督相続者以外の子として、慣例により仏門に入って覚慶と名乗り一乗院門跡となった。兄・義輝らが松永久秀らに暗殺されると、三淵藤英・細川藤孝ら幕臣の援助を受けて奈良から脱出し、還俗して義秋と名乗る。

0376日本@名無史さん2017/01/13(金) 15:57:51.38
美濃国の織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任する。信長が本能寺の変によって横死した後も将軍職にあったが、豊臣政権確立後はこれを辞し、豊臣秀吉から山城国槙島1万石の大名として認められ、前将軍だった貴人として遇され余生を送った。
※足利義昭 / 伊丹十三
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0377coffee break2017/01/14(土) 14:53:36.61
Miles Davis『The Man with the Horn』(1981年)の1曲目"Fat Time"は、ギタリストのマイク・スターン(Mike Stern, 1953年1月10日 - )のあだ名。当時のマイク・スターンは現在とは違い異常な肥満体型で、マイルスから「FAT TIME」と呼ばれていた。
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0378日本@名無史さん2017/01/14(土) 14:58:36.00
最後の曲“Ursula”は、どうしてドイツ語のウルスラ(女性の名)と訳し、英語のアーシュラではないのですか?

0379日本@名無史さん2017/01/14(土) 14:59:00.51
そんなこと司馬遼太郎にわかるわけがない。

0380日本@名無史さん2017/01/14(土) 15:01:00.05
>>362
おい、忠興。一万石、俺によこせよ。

0381日本@名無史さん2017/01/14(土) 15:05:23.90
>>378
阿修羅については、前スレの〈100〉で説明した。八部衆または二十八部衆に属する仏教の守護神。
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/books/1480533004/

0382日本@名無史さん2017/01/14(土) 15:06:09.22
>>362
おい、忠興、忠興。返事しろよ。

0383日本@名無史さん2017/01/14(土) 15:06:52.54
シカトかよwww

0384日本@名無史さん2017/01/14(土) 15:18:32.13
また、忠興、降臨してんのか

0385国盗り物語2017/01/14(土) 15:38:30.32
第31章 奈良坂

「おそれながら、背負い奉る」
かるがると背負い、足音を消して忍び走りに走りはじめた。
「光秀、苦労」
と、のちに十五代将軍になるにいたる覚慶は、光秀の耳もとでささやいた。おそらく覚慶にすれば、このときの光秀こそ、仏天を守護する神将のように思えたであろう。

0386日本@名無史さん2017/01/14(土) 15:50:46.70
★奈良

▽油坂
奈良市油阪町
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※油阪駅は、奈良市にあった近畿日本鉄道奈良線の駅(廃駅)である。線路の地下化に伴い廃止された。なお廃止に伴い、線路が地下に進入する手前に新大宮駅が設置されている。
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0387日本@名無史さん2017/01/14(土) 16:03:05.35
▽鎌倉屋柏斎
奈良油坂の茶道具屋
※鎌倉屋柏斎 / 斎藤英雄……画像なし

0388日本@名無史さん2017/01/14(土) 16:07:51.83
斎藤英雄の奥さんの田中筆子の画像ならあるよ。
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0389日本@名無史さん2017/01/15(日) 01:31:36.24
▽覚慶
天文6年(1537年)11月13日、第12代将軍・足利義晴の次男として生まれる。幼名は千歳丸。兄に嗣子である義輝がいた。
跡目争いを避けるため、あるいは寺社との結びつきを強めるために嗣子以外の息子を出家させる足利将軍家の慣習に従って天文11年(1542年)11月20日、外祖父・近衛尚通の猶子となって興福寺の一乗院門跡に入室し、法名を覚慶と名乗った。
のちに興福寺で権少僧都にまで栄進している。このまま覚慶は高僧として生涯を終えるはずであった。

0390日本@名無史さん2017/01/15(日) 01:33:45.94
現在、永禄8年(1565年)なので、覚慶は数え年で29歳。
めずらしく間違えていない。

0391日本@名無史さん2017/01/15(日) 01:38:10.97
▽肩衝
肩を張った姿の黒釉の小壺
※細川三斎の茶……出雲肩衝茶入・利休尻ふくら茶入 (永青文庫)
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0392日本@名無史さん2017/01/15(日) 01:39:01.98
また出たな、忠興。

0393日本@名無史さん2017/01/15(日) 01:44:36.45
説明するまでもないと思うが、明智光秀が覚慶を背負って奈良一乗院を脱出した挿話は、すべてフィクションである。
光秀が義昭と接触を持つに至ったのは、義昭が朝倉義景を頼って以来のことである。

0394日本@名無史さん2017/01/15(日) 01:48:47.35
義昭は奈良を脱出すると、まず姉婿である若狭国守護・武田義統のもとに逃れた。
その直後から義昭は織田信長を含む各地の武将に上洛と自身の将軍擁立を促し、細川藤孝が使者に立ち信長は了承した。
義昭は永禄9年(1566年)4月に織田・斎藤両家の間に和睦を結ばせたが、信長がこれを破る形で8月29日に美濃へ出兵したことで流れた。
義昭は信長に不信を募らせて、いったん見切りをつけ、朝倉義景を頼った。

0395日本@名無史さん2017/01/15(日) 01:54:27.38
実際に覚慶脱出作戦に従事したのは、一色藤長、和田惟政、仁木義政、畠山尚誠、米田求政、三淵藤英、細川藤孝および大覚寺門跡・義俊(近衛尚通の子)らである。

0396日本@名無史さん2017/01/15(日) 02:02:01.59
▽一色藤長
天文6年(1537年)に父祖同様に式部少輔に任官され、天文13年(1544年)に第13代将軍の足利義輝より所領を拝領する。奉公衆となっていた一色式部家の当主として京都に召され、細川輝経らと共に義輝に近仕した。
※一色藤長 / 長島寛

0397日本@名無史さん2017/01/15(日) 02:15:01.96
▽和田惟政
享禄3年(1530年)- 元亀2年(1571年)
和田氏は近江国甲賀郡和田村の有力豪族で甲賀武士53家のうち特に有力な21家に数えられていた。初めは六角氏の被官であったが、惟政の父の代に室町幕府13代将軍・足利義輝の幕臣として仕える。
天文22年(1553年)に三好長慶に追われた足利義輝が六角氏を頼って近江に逃れており、その時期に和田氏と足利将軍家の関係が生じて幕府の奉公衆化したと推定されている。
※和田惟政 / 奥野匡(ただし)
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0398日本@名無史さん2017/01/15(日) 02:22:08.49
▽米田求政
国盗り物語では医師にされているが、史実では武将。
永禄12年(1569年)からは細川藤孝に仕える。元亀2年(1571年)には山城国勝竜寺城の普請を務める。
子孫は熊本藩上卿三家の家老二座として1万5,000石と長岡姓を与えられ、さらに明治維新後には男爵となっている。
※米田求政 / 久松保夫
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0399日本@名無史さん2017/01/15(日) 07:56:35.51
>>236
別伝座元はどうだか知らないけれど、快川紹喜は大河の国盗り物語に登場しているよ。
※快川国師:島田正吾
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0400日本@名無史さん2017/01/15(日) 08:01:09.50
ハル国務長官に怒られた人だな。

0401日本@名無史さん2017/01/16(月) 18:57:24.97
▽永禄8年(1565年)7月28日
春日の森にこの地方特有の夕靄が立ちはじめたころ
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0402日本@名無史さん2017/01/16(月) 19:01:40.65
▽二月堂
奈良市の東大寺にある奈良時代(8世紀)創建の仏堂。現存する建物は1669年の再建で、日本の国宝に指定されている。奈良の早春の風物詩である「お水取り」の行事が行われる建物として知られる。
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0403日本@名無史さん2017/01/16(月) 19:08:51.79
▽奈良坂
奈良市の北から京都府木津川市木津に出る坂道。古くは平城京大内裏の北の歌姫から山城へ越える歌姫越えを称したが、のちには東大寺の北の般若寺を経て木津へ出る坂をいう。
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0404日本@名無史さん2017/01/16(月) 19:16:21.16
▽木津川
三重県および京都府を流れる淀川水系の支流で一級河川。三重県伊賀市で柘植川と服部川を、京都府相楽郡南山城村で名張川を集める。名張川合流点よりも上流を伊賀川と称することもある。
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0405日本@名無史さん2017/01/17(火) 16:38:09.02
▽笠置
京都府相楽郡笠置町
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0406日本@名無史さん2017/01/17(火) 16:47:04.70
▽安養寺
安養寺の創建は文明5年(1473)、朝倉敏景がこの地に開いたが始まりと伝えられています。
永禄10年(1567)、後の室町幕府15代将軍足利義昭が朝倉氏を頼り一乗谷に身を寄せると、屋敷が建てられ御所と呼ばれるようになりました。
天正元年(1573)、朝倉氏が滅亡すると一乗谷も壊滅、安養寺も焼失したと思われます。
天正3年(1575)、北の庄城の城主となった柴田勝家により北の庄城下に移され再興、江戸時代に入ると福井藩藩主松平家から帰依され寺運が隆盛します。
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0407日本@名無史さん2017/01/17(火) 16:47:15.05
▽射?(あずち)
弓場で、的をかけるために、土または細かい川砂を土手のように固めた盛り土。南山 (なんざん) 。的山 (まとやま) 。射? (あむつち) 。
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0408国盗り物語2017/01/17(火) 18:04:05.77
第32章 甲賀へ

「さっそく御前に罷らせましょうと存じましたが、なにぶん十兵衛光秀は無位無官。この御前にまかり出ることができませぬ」
「なんの、わしとて流寓の身よ。格式などどうでもよいではないか」
「しかし」
藤孝はなおも遠慮したが、覚慶はいらだたしく手をふり、
「十兵衛はわが恩人ではないか。早うこれへ」
と、せきこんだ。覚慶はよほど光秀が気に入っているのであろう。

0409日本@名無史さん2017/01/17(火) 18:10:41.18
★奈良坂

▽鉄砲
火挟/火蓋/火皿/導火薬(くちぐすり)
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0410日本@名無史さん2017/01/17(火) 18:16:03.89
▽手向山八幡宮
たむけやま……奈良市街東部の手向山麓に位置する。手向山は紅葉の名所として知られ、古今和歌集では菅原道真が「このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに」と詠んでいる。
天平勝宝元年(749年)、東大寺及び大仏を建立するにあたって宇佐八幡宮より東大寺の守護神として勧請された。創建以来、東大寺に属しその鎮守社とされてきたが、明治の神仏分離の際に東大寺から独立した。
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0411日本@名無史さん2017/01/17(火) 18:22:07.52
▽興福寺の方角、手向山の森にむかい
興福寺とは……、またずいぶん離れた場所を目印にしたものである。
東大寺なら、手向山のすぐ傍なのに……。
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0412日本@名無史さん2017/01/17(火) 18:26:49.23
★木津

▽京都府木津川市木津池田
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0413日本@名無史さん2017/01/17(火) 18:32:43.44
▽木津の寺僧
うろん臭げに光秀の血しぶきをあびた小袖を見ていた。
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※胡乱(うろん)
正体の怪しく疑わしいこと。確かでないこと。真実かどうか疑わしいこと。

0414日本@名無史さん2017/01/17(火) 18:39:40.30
★加茂

▽京都府木津川市加茂町
平成19年(2007年)3月12日、山城町、木津町と合併し木津川市となった。
奈良時代の一時期、都(恭仁京)が置かれたという歴史があり、多数の史跡・文化財を有する。日本最初の流通貨幣「和同開珎」が造られた地でもある。
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0415日本@名無史さん2017/01/17(火) 18:47:31.63
★笠置

▽馬を渓流へ突き落とし
琴奨菊が、日馬を突き落とし、三横綱連破!
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0416日本@名無史さん2017/01/17(火) 18:51:05.38
▽樹海
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0417日本@名無史さん2017/01/17(火) 18:57:38.38
★信楽

▽近江甲賀郡信楽
平成16年(2004年)10月1日に、水口町、土山町、甲賀町、甲南町との合併に伴い廃止され、甲賀市(こうかし)となった。現在は「甲賀市信楽町」として、地名に残る。
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0418日本@名無史さん2017/01/17(火) 19:03:00.70
▽紫香楽宮
740年(天平12年)の藤原広嗣の乱ののち、聖武天皇は恭仁京(現在の京都府木津川市加茂地区)に移り、742年(天平14年)には近江国甲賀郡紫香楽村に離宮を造営してしばしば行幸した。これが紫香楽宮である。
翌743年(天平15年)10月、天皇は紫香楽の地に盧舎那仏を造営することを発願した。12月には恭仁宮の造営を中止して、紫香楽宮の造営が更に進められた。
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0419日本@名無史さん2017/01/17(火) 19:06:19.19
▽信楽の百姓
中年の小男。ことばはやわらかで、京言葉にちかい。
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0420日本@名無史さん2017/01/17(火) 19:15:10.33
▽多羅尾四郎兵衛尉
多羅尾光俊……永正11年(1514)〜 慶長14年(1609)
1568年、多羅尾光俊は没落した六角氏を見限り織田信長に鞍替えした。しかし、1582年に本能寺の変で信長が自害。堺に取り残された徳川家康は近江路を通って三河へ帰ることにした。
家康一行の先導の長谷川秀一は南近江において多羅尾光俊の所領を通り宿してほしいと願い出たところ、光俊は子の山口光広邸に迎え入れ、家康一行に従者50人を付け伊勢路を警護した。

0421日本@名無史さん2017/01/17(火) 19:18:20.56
豊臣秀次が近江八幡に入ったときに、光俊は秀次を多羅尾で歓待した。光俊の次男の娘「お万」を秀次の嫁として入れるのに成功した。この時多羅尾氏の領地は信楽・近江諸領・伊賀・山城・大和に8万石に達し、多羅尾光俊は多羅尾氏全盛時代を築いたのである。
しかし、秀次が斬首された後、お万も秀次の家族と同じく処刑され、連座の咎で多羅尾氏はことごとく改易となった。

0422日本@名無史さん2017/01/17(火) 19:21:10.32
1598年、秀吉が死去した後、徳川家康は多羅尾光俊のことを気にしていて、多羅尾で困窮している光俊のことを知った。家康は光俊・光太親子を旗本に取り立てた。光太は上杉景勝討伐・関ヶ原の戦い・大坂の陣に参戦。徳川幕府旗本領7000石に復活した。
以来多羅尾氏は、代々、近江・畿内の天領代官職を任された。地元では「多羅尾代官」と言われ、多羅尾の屋敷に「代官信楽御陣屋」を置いた。
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0423日本@名無史さん2017/01/17(火) 19:21:58.18
多羅尾氏の子孫に、1960年代、信楽町長になった人物がいる。

0424日本@名無史さん2017/01/18(水) 09:36:29.61
▽足利義尚
室町幕府第9代将軍 在職:文明5年(1473年) - 長享3年(1489年)。
寛正6年(1465年)11月23日、第8代将軍・足利義政と正室・日野富子の次男として生まれる。
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0425日本@名無史さん2017/01/18(水) 09:36:44.60
長らく実子のなかった義政は弟の義視を養子にしていたが、義尚が誕生すると、富子は義尚を次期将軍に願望して有力守護大名の山名宗全と結託する。対する義視も管領・細川勝元を後ろ盾としたため、両派は次期将軍の座をめぐって激しく対立する。

0426日本@名無史さん2017/01/18(水) 09:36:57.61
やがて、勝元と宗全による権力闘争や、畠山氏や斯波氏の家督争いも重なって、応仁の乱に発展した。文明5年(1473年)には義政から将軍職を譲られ、義尚は第9代将軍に就任する。

0427日本@名無史さん2017/01/18(水) 09:42:47.74
▽六角高頼
六角定頼の父。
応仁の乱の後、公家領・寺社領や奉公衆の領地を横領して配下の国人衆に分け与えたため、第9代将軍足利義尚らの反発を受け、長享元年(1487年)に義尚の親征を受けて甲賀山中に逃亡した。

0428日本@名無史さん2017/01/18(水) 09:52:53.50
▽鈎(まがり)の陣
長享・延徳の乱……応仁の乱の後、守護の統制は弱まり、国人層による貴族・社寺の荘園の横領が進展。将軍義尚は、守護がその取締りをできないことを口実に親征を固め、近江守護六角高頼が標的にされた。
長享元年(1487年)、義尚が坂本に着陣すると、六角高頼は対決を避け逃亡。このため義尚は、翌10月に陣を鈎(まがり)の安養寺に移し、甲賀郡に攻め込む。もはや、「この一帯には将軍の敵は全くいない状況」とまで記録されて いるが、青年将軍は今度は下鈎の真宝館に陣を移し、ここに御所を建造して長期戦に備える体制をとる。

0429日本@名無史さん2017/01/18(水) 09:53:03.02
しかし、そんな義尚も小姓達との酒色に溺れ、不規則な生活がもとで体調を崩し、短い生涯をここで終える。
長享3年(1489年)3月晦日、将軍義尚の遺体は管領細川政元や母日野冨子に護られ京に帰還、さながら凱旋将軍のような隊列であったと記録されている。

0430日本@名無史さん2017/01/18(水) 09:59:36.14
▽甲賀忍者
六角氏と関係が深かった甲賀の土着武士団は六角氏側に立ち、義尚を迎え撃つ。将軍方の陣に煙を流し込み混乱させる、夜襲を繰り返す、山中でのゲリラ戦など独特の戦法を駆使し、義尚が陣中で亡くなるまでの約3年間戦い抜いた。
こうした戦法を編みだし、功労者となった甲賀武士たちが「甲賀忍者」のルーツとされる。
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0431日本@名無史さん2017/01/18(水) 10:03:16.45
▽甲賀五十三家
「鈎の陣」にて六角氏に味方した甲賀の地侍五十三家のこと。
突出した領主がいなかった甲賀では、土着武士たちが中世以降密接な関係を結び、血縁連合的な自治組織「同名中惣」を組織。さらに連合を重ね、より大規模な「甲賀郡中惣」となり、共和国のような地域に発展した。

0432日本@名無史さん2017/01/18(水) 10:05:43.74
筆頭格は望月家。信濃国佐久郡望月の豪族である望月氏一族の一部が甲賀に移り住んだことから始まったともされる。

0433日本@名無史さん2017/01/18(水) 10:13:23.26
美濃部家:子孫を名乗る人物に美濃部達吉・美濃部亮吉・古今亭志ん生・古今亭志ん朝・池波志乃がいる。
和田家:一族の著名人物として和田惟政がいる。
佐治家:一族の著名人物として佐治三郎がいる。

0434日本@名無史さん2017/01/18(水) 10:13:43.83
隠岐家:「風神の門」に登場する大野修理治長の妹である隠岐殿の名前は、ここから拾ったかもしれない。
杉谷家:一族の著名人物として杉谷善住坊がいる。
三雲家:三雲賢持の子が猿飛佐助のモデルであるとする説もある。
多羅尾家:多羅尾光俊などを輩出。

0435日本@名無史さん2017/01/18(水) 10:38:52.91
★和田

▽滋賀県甲賀市甲賀町和田
伊賀の柘植と隣接している。
※和田惟政 / 奥野匡(ただし)〔>>397
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0436国盗り物語2017/01/18(水) 15:29:33.56
第33章 和田館

ほどなく覚慶は、和田の在所が交通上不便すぎるため、同じ近江の矢島(守山付近)の少林寺という寺に移り、ここで髪を貯え、名を足利義秋と名乗った。
矢島は、野洲・守山・草津といった街道の要衝に近いため、諸国の情報が聞こえやすい。この矢島に移ってから、
「尾張の織田信長の勢いはいよいよ熾んなそうな」
という風聞がしきりと入ってくるため、光秀も捨てておけなくなり、
「いちど、探索に参りとうござりまする」
と義秋まで申し出、そのゆるしを得て尾張にむかって発った。

0437日本@名無史さん2017/01/18(水) 19:10:35.56
★和田

▽和田館
永禄8年(1565)、三好三人衆と松永久秀に兄・足利義輝を暗殺され、自身も奈良に幽閉されていた一乗院覚慶(後の足利義昭)が和田惟政に匿われた屋敷地。
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0438日本@名無史さん2017/01/18(水) 19:14:46.34
▽楠(クスノキ)
クスノキ科ニッケイ属の常緑高木である。一般的にクスノキに使われる「楠」という字は本来は中国のタブノキを指す字である。別名クス、ナンジャモンジャ。幹周囲10m以上の巨樹になる個体も珍しくない。単木ではこんもりとした樹形をなす。
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0439日本@名無史さん2017/01/18(水) 19:16:53.89
▽沓脱石
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0440日本@名無史さん2017/01/18(水) 19:51:16.84
▽蚊いぶし
木片をいろりや火桶でたいたり、ヨモギなどをいぶして、大型のうちわであおいだりした。江戸時代には、おがくずに硫黄の粉をまぜたものも使われた。
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※蚊いぶしにつかうヨモギ
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0441日本@名無史さん2017/01/18(水) 19:57:28.94
▽公方屋敷
滋賀県甲賀市甲賀町和田小字門田
>>437〕と同じ場所を撮影したものであるが、こちらの画像の方が、司馬の叙述に適合している。
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0442日本@名無史さん2017/01/18(水) 19:59:47.24
▽覚慶
「予を見よ」
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0443日本@名無史さん2017/01/19(木) 12:56:08.01
▽上杉輝虎
永禄4年(1561年)閏3月16日、山内上杉家の家督と関東管領職を相続し、名を上杉政虎と改めた〔>>292〕。
永禄4年(1561年)8月、第四次川中島の戦い。
永禄4年(1561年)12月、将軍義輝の一字を賜り、諱を輝虎と改めた。

0444日本@名無史さん2017/01/19(木) 13:00:41.87
永禄7年(1564年)8月、第五次川中島の戦い。信玄が本陣を塩崎城に置いて輝虎との決戦を避けたため、60日に及ぶ対峙の末に越後に軍を退き、決着は着かなかった。
永禄8年(1565年)3月、関東の中原をおさえる要衝・関宿城が北条氏康の攻撃に晒される(第一次関宿合戦)。
永禄8年(1565年)5月には、将軍・足利義輝が三好義継・松永久秀の謀反により世を去った(永禄の変)。
永禄8年(1565年)6月、信玄が西上野へ攻勢をかけ、上杉方の倉賀野尚行が守る倉賀野城を攻略。9月、輝虎は信玄の攻勢を食い止めようと、大軍を率いて武田軍の上野における拠点・和田城を攻めたが成功しなかった。

0445日本@名無史さん2017/01/19(木) 13:05:19.64
▽一色藤長〔>>396
元亀4年(1573年)に足利義昭が織田信長によって京を追放され、備後国鞆へ移った際は、これに同行せず、細川藤孝を頼っている。

0446日本@名無史さん2017/01/19(木) 13:10:34.77
▽島津貴久
島津氏の第15代当主。永正11年5月5日、薩摩島津氏の分家である伊作家・相州家当主の島津忠良の長男として田布施亀ヶ城にて生まれる。
永禄9年(1566年)、剃髪して長子・義久に家督を譲り、自らは伯囿と号して隠居した。
元亀2年(1571年)、大隅の豪族である肝付氏との抗争の最中に加世田にて死去。享年57。

0447日本@名無史さん2017/01/19(木) 13:15:25.40
▽島津義久
島津氏第16代当主。天文2年(1533年)2月9日、第15代当主・島津貴久の嫡男として伊作城に生まれ、幼名は虎寿丸と名づけられた。
薩摩・大隅・日向の三州を制圧する。その後も耳川の戦いにおいて豊後国の大友氏に大勝し、また沖田畷の戦いでは肥前国の龍造寺氏を撃ち破った。

0448日本@名無史さん2017/01/19(木) 13:15:37.67
義久は優秀な三人の弟(島津義弘・歳久・家久)とともに精強な家臣団を率いて九州統一を目指し躍進し、一時は筑前・豊後の一部を除く九州の大半を手中に収め、島津氏の最大版図を築いた。
しかし、豊臣秀吉の九州征伐を受け降伏し、本領である薩摩・大隅二ヶ国と日向諸県郡を安堵される。
慶長16年(1611年)1月21日、国分城にて病死した。享年79。

0449日本@名無史さん2017/01/19(木) 13:22:51.67
▽毛利氏・尼子氏
永禄3年(1560年)に尼子晴久が死去する。晴久の嫡男・尼子義久は足利義輝に和睦を願うも、この和睦を元就は一方的に破棄し、永禄5年(1562年)より出雲侵攻を開始する(第二次月山富田城の戦い)。

0450日本@名無史さん2017/01/19(木) 13:23:19.13
永禄6年(1563年)に、元就は尼子氏の支城である白鹿城を攻略し、ついに月山富田城を包囲して兵糧攻めに持ち込むことに成功する。
だが一方で、当主である嫡男・隆元の不慮の死という悲運にも見舞われている。

0451日本@名無史さん2017/01/19(木) 13:23:36.64
永禄9年(1566年)11月、尼子軍は籠城を継続できなくなり、義久は降伏を余儀なくされた。こうして元就は一代にして中国地方8ヶ国を支配する大名になった。
元亀2年(1571年)6月14日、吉田郡山城において元就死去。死因は老衰とも食道癌とも言われる。享年75。

0452日本@名無史さん2017/01/19(木) 13:31:01.26
▽長宗我部元親
天文8年(1539年)、岡豊城で生まれる。永禄3年(1560年)6月、父の国親が急死すると、家督を相続する。
長宗我部氏が土佐中部を完全に平定したのが、永禄11年(1568年)。
一条氏を斃し土佐国を完全に統一したのは、天正3年(1575年)。

0453日本@名無史さん2017/01/19(木) 13:44:55.25
▽足利義栄
現在は義勝と名乗っている。
永禄9年(1566年)6月、三好三人衆方の篠原長房・三好康長(笑巌)らに擁されて淡路国に渡海、同年9月摂津に渡る。
永禄10年(1567年)1月5日、正式に従五位下左馬頭に叙任され、その際、義栄と改名した。

0454日本@名無史さん2017/01/19(木) 13:45:32.70
将軍宣下は永禄11年(1568年)2月であるが、〔>>318〕三好三人衆と久秀の抗争が止まず、義栄自身が背中に腫物を患っていたため入京できなかった。
永禄11年(1568年)9月、足利義昭を織田信長が擁立して上洛してきたため、三人衆は畿内で信長に抗戦したが、敗れて阿波に逃れた。

0455日本@名無史さん2017/01/19(木) 14:08:38.01
▽六角承禎
六角義賢〔>>276>>280>>281〕…大永元年(1521年)、六角定頼の子として生まれる。
永禄元年(1558年)、北白川の戦いの後に、足利義輝と三好長慶の和睦を仲介することで義輝を京都に戻し、面目を保っている。
これを契機に、北近江の浅井久政が六角領に対して侵攻を開始するが撃退し、浅井氏を従属下に置いた。従属関係を強調するため、久政の嫡男に偏諱を与えて賢政と名乗らせたり(後に長政と改名)、家臣の平井定武の娘を娶わせたりしている(後に離婚)。

0456日本@名無史さん2017/01/19(木) 14:09:03.05
永禄2年(1559年)に嫡男・義治に家督を譲って隠居し、剃髪して承禎と号した。
翌永禄3年(1560年)、浅井長政が六角氏に対して反抗を開始、承禎はこれを討伐するために大軍を自ら率いたが、長政率いる浅井軍の前に大敗を喫した(野良田の戦い)。

0457日本@名無史さん2017/01/19(木) 14:09:43.62
永禄4年(1561年)、細川晴元が三好長慶に幽閉されると、承禎は激怒し畠山高政とともに京に進軍して長慶の嫡男・三好義興および松永久秀と対戦する。一時的ではあるが三好氏を京都より追い出すことに成功している(将軍地蔵山の戦い)。
翌永禄5年(1562年)3月5日、畠山高政は河内国において三好実休に大勝し、実休を敗死に追い込んでいる(久米田の戦い/>>280)。
そして翌6日に承禎は洛中に進軍し、8日に徳政令を敷き山城国を掌握した。

0458日本@名無史さん2017/01/19(木) 14:10:19.67
永禄6年(1563年)、六角義治が重臣で人望もあった後藤賢豊を観音寺城内で惨殺するという事件が起こった(観音寺騒動)。
これにより、家臣の多くが六角氏に対して不信感を抱き、承禎も義治とともに観音寺城から追われるに至ったが、重臣の蒲生定秀・賢秀父子の仲介により承禎父子は観音寺城に戻ることができた。

0459日本@名無史さん2017/01/19(木) 14:10:50.21
永禄8年(1565年)に将軍足利義輝が殺害される永禄の変が起きると、当初、承禎は覚慶の上洛に協力する姿勢を見せて野洲郡矢島に迎え入れたり、織田信長・浅井長政の同盟(お市と長政の婚姻)の斡旋をしていた。
しかし、三好三人衆の説得に応じて義昭(覚慶)を攻める方針に転じたため、義昭は朝倉義景の元に逃れた。

0460日本@名無史さん2017/01/19(木) 14:11:19.77
永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、六角承禎は三好三人衆と通じて信長の従軍要請を拒絶し織田軍と戦った。しかし、観音寺城の戦いで大敗を喫し、東山道沿いの観音寺城から南部の甲賀郡に本拠を移した。
晩年の六角承禎は、天下を掌握した豊臣秀吉の御伽衆となり、秀吉が死去した慶長3年(1598年)に死去した。享年78。

0461日本@名無史さん2017/01/19(木) 15:10:12.89
《永禄8年 - 勢力地図》
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0462日本@名無史さん2017/01/19(木) 16:29:56.73
▽根来衆
根来衆は信長には好意的で、信長の紀州征伐にも加勢していた。
しかし、信長の死後、小牧・長久手の戦いでは雑賀衆とともに大坂城を攻め豊臣秀吉の心胆を寒からしめた。
戦後は秀吉による紀州征伐(千石堀城の戦い)が起こり、根来大善(霜盛重)を中心に抵抗した。
雑賀衆の鈴木佐大夫が藤堂高虎に謀殺されると、伊勢に逃れ、徳川家康に従い、成瀬正成を組頭とする根来組同心として内藤新宿に配置される。関ヶ原の戦いの際は正成の組下として活躍する。

0463日本@名無史さん2017/01/19(木) 16:33:19.86
▽懸河の弁
水を上から流すように、とどこおりなく弁舌を振るうこと。

0464日本@名無史さん2017/01/19(木) 16:44:57.27
★矢島

▽滋賀県守山市矢島町
永禄8年(1565年)5月に甲賀の和田惟政の館を経て、この矢島少林寺に入室した。佐々木六角承禎の命に依って建立した館を本拠として、土豪矢島越中守の庇護を受けて、永禄9年(1566年)2月に還俗し、名を足利義秋と改めた。
同年9月に西江州にて三好長逸(ながゆき)の乱〔>>286〕があり、永く続かなかった矢島の館を去ることになる。
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0465日本@名無史さん2017/01/19(木) 16:50:52.69
▽少林寺
曹洞宗澤龍山少林寺……一休禅師の居住地
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0466日本@名無史さん2017/01/19(木) 17:02:54.96
▽野洲・守山・草津
中山道六十九次の宿場名を記すと、
三条大橋 →大津 →草津 →守山 →武佐(近江八幡市)→愛知川(愛知川町)→高宮(彦根市)→鳥居本(彦根市)
→番場(米原市)→醒井(米原市)→柏原(米原市)→今須(関ケ原町)→ 関ヶ原 →垂井 →赤坂(大垣市)
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0467国盗り物語2017/01/19(木) 17:17:51.42
第34章 半兵衛

(まるで、怪談のようだ)
と信長は思い、陥した人物の名をきいた。
「竹中半兵衛重治という人物でござりまする」
稲葉山城を陥した話というのは、ちょっと浮世ばなれがしているほど、ふしぎな話なのである。

0468日本@名無史さん2017/01/19(木) 17:36:11.55
★小牧山城

▽細作
「忍者」「忍びの者」は、昭和になって小説家がつくりだした言葉である。明治・大正時代は「忍術遣い」と呼ばれていた。
日本書紀:「斥候」=敵軍の地形や動静を探る少数の兵士、「間諜」=ひそかに敵の様子を探るスパイ。いずれもウカミと読む。

0469日本@名無史さん2017/01/19(木) 17:36:28.86
萬川集海:聖徳太子がつかった伊賀の大伴細人(さびと)は、「志能便」「志能備」と呼ばれた。いずれもシノビと読む。
そのため、後世「細人」「細作」と書いて“シノビ”と読むようになった。

0470日本@名無史さん2017/01/19(木) 17:38:03.15
武家名目抄:関東では「乱波」「乱破」(らっぱ)、甲斐国より以西では「透波」「透破」(すっぱ)と呼ばれた。
常に忍びを役するものの名称にして、一種の賤民なり。
ほかに、かまり、軒猿、三ツ者、風間、風魔、せっぱ、突破、草という呼び方もある。

0471日本@名無史さん2017/01/19(木) 17:49:30.08
▽竹中氏は、光秀の明智氏と同族で
竹中氏は清和源氏土岐氏の支流を称しているだけで、実際には、美濃国の名門・長江氏(桓武平氏)から興った岩手氏の分流といわれる。
岩手氏は室町時代当初より、不破郡岩手の漆原を中心に六千貫を領していた。岩手信忠の弟・重氏がはじめて竹中氏を名乗った。重氏は、半兵衛重治の祖父にあたる人物である。

0472日本@名無史さん2017/01/19(木) 17:52:56.12
▽不破郡の菩提という村に小さな城館を持っていた
「持っていた」のではなく、奪った。
永禄元年(1558)、揖斐郡大野町を本拠としていた半兵衛の父・重元(しげちか)は、菩提山を本拠として勢力をふるっていた岩手弾正頼重を攻略して、ここに新城の建設に着手した。しかし、重元はその翌年病死し、16歳の嫡男・半兵衛重治が家督を相続し完成させた。
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0473日本@名無史さん2017/01/19(木) 20:16:55.98
▽竹中半兵衛〔>>259-260
▽菩提……岐阜県不破郡垂井町岩手
竹中半兵衛重治公の墓
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菩提の町
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0474日本@名無史さん2017/01/20(金) 21:09:24.12
この章は前章より1年前に遡って、永禄7年(1564年)の話をしておる。

0475日本@名無史さん2017/01/20(金) 21:17:52.91
▽竹中半兵衛の具足
関ヶ原町役場に現在も保存されているかどうかは知らない。
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0476日本@名無史さん2017/01/20(金) 21:23:00.95
司馬さんは一ノ谷の立物と書いておられるが、画像でみると「兎耳立物」だな。

0477日本@名無史さん2017/01/20(金) 21:25:03.83
〔出典〕
戦場之出立は、静かなる馬に乗、虎御前と云刀(元重)を常の如くにさし、具足は馬皮のうらを表に用い、つぶ漆にてあらあらとぬりたるを、あさ黄の木綿糸にてをどし立、甲は一谷の立物打たるを猪首に著なし、餅の付たる浅黄之木綿筒服を長々と打はおり、ゆらりゆらりと打みえしなり。

0478日本@名無史さん2017/01/20(金) 21:31:22.84
▽虎御前の太刀
司馬さんは、「虎御前」という家重代の名刀を常用していた、と書かれているが、もう少し後の話である。
なぜならば、「虎御前の太刀」は、竹中半兵衛が小谷城攻めの際に虎御前山で功を挙げた時に秀吉から拝領した刀だからである。
なお、現在は、京都の井伊美術館に寄託されている。

0479日本@名無史さん2017/01/20(金) 21:32:15.46
半兵衛の死後、その遺品のうち、一ノ谷兜は福島正則へ、虎御前の太刀は山内一豊へ、采配は黒田長政に分け与えられた。

0480日本@名無史さん2017/01/20(金) 21:41:21.48
▽半兵衛の正室:得月院(安藤守就の娘)
▽本巣郡芝原……岐阜県本巣郡北方町芝原〔前スレ:257〕
安藤守就(もりなり)は北方城主。北方町は本巣市と岐阜市にはさまれた小さな町。
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0481日本@名無史さん2017/01/20(金) 21:44:49.79
▽安藤伊賀
安藤守就(もりなり) / 文亀3年(1503年) - 天正10年(1582年)
美濃北方城主。稲葉良通や氏家直元らと並んで西美濃三人衆と称された。

258 名前:無名草子さん[sage] 投稿日:2016/12/10(土) 21:02:00.57
安藤守就は、弘治2年(1556年)、道三と斎藤義龍の抗争(長良川の戦い)では義龍に協力している。

259 名前:無名草子さん[sage] 投稿日:2016/12/10(土) 21:03:15.12
義龍の死後は斎藤龍興に仕えた。しかし、龍興が一部の重臣だけを寵愛して、守就をはじめとする三人衆らを遠ざけたため、永禄7年(1564年)、クーデターを起こした。娘婿の竹中重治が稲葉山城に乗り込むと、守就は兵2,000で稲葉山城下を制圧し、一帯を占領した。

260 名前:無名草子さん[sage] 投稿日:2016/12/10(土) 21:09:30.43
永禄10年(1567年)、信長の美濃侵攻に際して、三人衆はそろって内応し、そのまま信長の家臣として仕えた。
しかし、天正8年(1580年)8月、信長に嫌疑をかけられ、林秀貞、丹羽氏勝と共に粛正の対象となり追放される。
※安藤伊賀守は大河ドラマで配役はなされているが、役者は不明である。

0482日本@名無史さん2017/01/20(金) 21:51:29.67
▽斎藤龍興〔>>238
▽永禄7年(1564年)の美濃攻め〔>>301

0483日本@名無史さん2017/01/20(金) 21:54:58.27
▽若い国守の龍興の荒淫ぶり
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0484日本@名無史さん2017/01/21(土) 12:09:02.84
>>475
この耳が回転すると空を飛べるのか

0485日本@名無史さん2017/01/21(土) 23:58:04.69
《Ivanka Trump》
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0486日本@名無史さん2017/01/22(日) 00:57:34.70
▽斎藤龍興
「退れ!二度とその面を見せるな」
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0487日本@名無史さん2017/01/22(日) 01:02:58.75
★稲葉山城

▽永禄7年(1564年)2月7日
「稲葉山城乗っ取り事件」
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0488日本@名無史さん2017/01/22(日) 01:10:13.55
▽斎藤飛騨守
斎藤秀成……永禄7年、半兵衛が新年の挨拶をするために稲葉山城の龍興の元に出向いた帰りの出来事だった。飛騨守秀成は、菩提山城へ戻って行く半兵衛に対し櫓から小便をかける蛮行を見せた。
小便をかけられても、なお半兵衛は無表情のまま、不気味なほど冷静な目礼をし稲葉山城を去っていく。この半兵衛の姿に逆に恐怖感を覚えたのは斎藤飛騨守だった。

0489日本@名無史さん2017/01/22(日) 01:13:18.20
後日、龍興は半兵衛を稲葉山城に呼び出し、逆心の疑いをかけられていることを伝えた。そして半兵衛はそのつもりはないと証明するため、弟である竹中久作重矩を人質として差し出した。
だがこの人質は半兵衛が仕掛けた作戦の一つだった。重矩は、2月になると腹痛で苦しむ振りをした。これは命に関わる重病に違いないと思った龍興は、菩提山城の半兵衛に報せを走らせた。
2月7日、半兵衛は16人の郎党を連れ稲葉山城に入った。

0490日本@名無史さん2017/01/22(日) 01:15:15.64
遭遇するなり威丈高に物言う飛騨守を、半兵衛は一瞬のうちに切り捨てた。実はこの夜の夜警が斎藤飛騨守であることを、半兵衛はあらかじめ知っていた。だからこそ半兵衛はこの日に稲葉山城を乗っ取ることにしたのだった。
城内は大混乱に陥り、着の身着のまま城を逃げ出す者が続出し、城を守ろうとする者はほとんどいなかった。斎藤龍興も側近である長井新八郎と新五郎兄弟に支えられ、状況を把握できないまま城を捨て逃げ出すという有様だった。

0491日本@名無史さん2017/01/22(日) 01:21:46.94
▽日根野備中守
日根野弘就……前スレ〔792-793〕
美濃における日根野氏の居城は、岐阜県本巣郡穂積町の本田と呼ばれる地区にあったと伝えられ〔>>255〕、いまも日根野弘就が発給した文書が多く残されている。
一方、『美濃国諸旧記』によれば美濃国厚見郡中島城であったという。司馬氏は、こちらに拠っている。

0492日本@名無史さん2017/01/22(日) 01:29:37.99
▽祐向山(ゆこうやま)
岐阜県本巣市文殊にある標高374mの山。龍興は、この山まで逃げた。
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0493日本@名無史さん2017/01/22(日) 01:32:22.20
★小牧山城

▽織田信長
「この城はわしに譲れ」
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0494日本@名無史さん2017/01/22(日) 01:36:49.59
▽木下藤吉郎
菩提山城を七度訪ね、竹中半兵衛を家臣にした。
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0495日本@名無史さん2017/01/22(日) 01:42:53.48
▽安藤伊賀守守就
織田家に帰属した二、三の将と謀反を企てて失敗し、領地を没収されて武儀郡の山中に蟄居した。
 ↑
大ウソ。

0496日本@名無史さん2017/01/22(日) 01:43:04.20
信長から野心ありとの嫌疑をかけられ、林秀貞、丹羽氏勝と共に粛正の対象となり追放されるのは、天正8年(1580年)8月のこと。いまから16年も将来の話である。

0497日本@名無史さん2017/01/22(日) 01:45:13.94
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起こると、安藤守就は子の安藤尚就とともに挙兵して北方城を奪い再起を試みた。しかし当時の北方城の領主・稲葉一鉄(良通)に攻められ敗北する。6月8日に一族ともどもに自害し美濃安藤氏は滅亡する。享年は80。

0498日本@名無史さん2017/01/22(日) 02:09:29.37
「稲葉山城乗っ取り事件」の顛末
娘婿の竹中重治が稲葉山城に乗り込むと、安藤守就は兵2,000で稲葉山城下を制圧し一帯を占領した。しかし、しばらくして稲葉山城を龍興に返還した。
後世、半兵衛重治の美談として語られることが多いが、実際は他の斎藤氏の家臣から思ったより支持を集められず進退に窮したともいわれる。

0499日本@名無史さん2017/01/22(日) 02:13:53.24
この小説では、竹中半兵衛は永禄7年のうちに秀吉の家臣になっているように読めるが、違う。
半兵衛は「稲葉山城乗っ取り事件」の後、斎藤家を去り、北近江の浅井長政の客分として東浅井郡草野に3,000貫の禄を賜っている。
その浅井家を約1年で辞して、旧領の岩手へ帰り隠棲した。

0500日本@名無史さん2017/01/22(日) 02:15:50.37
永禄10年(1567年)、織田信長の侵攻により斎藤氏は滅亡した。信長は、浪人していた重治を自分の家臣として登用したいと考えた。
美濃攻めで頭角を現していた木下秀吉に勧誘を命じ、秀吉は「三顧の礼」で重治を誘ったとされる。
つまり、半兵衛が秀吉の家臣になるのは、斎藤氏を滅ぼした年であり、この物語の3年後のことである。

0501国盗り物語2017/01/22(日) 20:30:18.01
第35章 藤吉郎

その翌日、龍興は降伏し、信長によって助命され、近江へ逃げた。
城は陥ちた。
信長は、ここを居城にしようとした。
が、美濃の戦後情勢がなお不穏であったことと、城の修築のため城番を置いて、みずからは尾張にしりぞき、あいかわらず小牧山城を指揮所として美濃の戦後経営にあたった。

0502日本@名無史さん2017/01/22(日) 20:30:40.37
なんか文章がおかしいね。

0503日本@名無史さん2017/01/22(日) 20:42:07.45
★墨股

▽岐阜県大垣市墨俣町墨俣
当時の地名は洲股、いくつかある支流の合流点という意味である。後に墨俣という字が当てられた。
司馬さんは、そのいずれでもなく「墨股」という字を当てている。
筆者は、この文字をみると、素股を想起してしまう。

0504日本@名無史さん2017/01/22(日) 20:42:19.60
※その城跡に、当時の砦のような城ではなく、城郭天守の体裁を整えた墨俣一夜城(歴史資料館)が、平成3年4月に開館した。センスを疑う。
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0505日本@名無史さん2017/01/22(日) 20:47:13.40
▽墨俣一夜城
築城時期は不明である。
『信長公記』:「十四条合戦の事」に、洲股要害の修築を命じ、十四条で美濃勢と合戦に及んで勝利、洲股帰城の後これを引き払う、との記述がある。
『甫庵太閤記』:永禄9年(1566年)に秀吉は敵地の美濃国内で新城の城主になった、という記述がある。 城の場所や城名は明らかではない。
『絵本太閤記』:永禄5年(1562年)の6月中旬に洲股砦城が建てられたという逸話が伝えられている。最初に佐久間信盛、次に柴田勝家が修造を試みるが失敗。そこで、秀吉は信長に7日のうちに完成すると言上した。

0506日本@名無史さん2017/01/22(日) 20:51:48.20
▽蜂須賀小六
蜂須賀正勝……蜂須賀氏は尾張国海東郡蜂須賀郷を拠点とした国衆で、正勝は大永6年(1526年)、蜂須賀正利の長男として蜂須賀城に生まれた。
『太閤記』『絵本太閤記』では、蜂須賀小六は野盗の親分とされて、これが長らく信じられていたが、単なる作り話である。
※蜂須賀小六:山田吾一
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0507日本@名無史さん2017/01/22(日) 20:55:55.31
天文22年(1553年)の父の死後、正勝は郷里を出て斎藤道三に近侍した。濃尾の争いで道三にしばしば用いられ、初名の利政も道三より偏諱を受けたものらしい。弘治2年(1556年)、道三と斎藤義龍が争った長良川の戦いでは、道三側について首級を上げた。
道三死後は尾張国の岩倉城主・織田信賢に仕えた〔>>20〕。

0508日本@名無史さん2017/01/22(日) 20:58:43.12
秀吉との出会いについても俗説が広く信じられている。浪人時代の秀吉と矢矧川の橋(矢作橋)で出会ったという逸話が有名であるが、矢矧川に橋が架かったのは江戸時代初期の元禄年間であり、この逸話は後世の創作である。

0509日本@名無史さん2017/01/22(日) 21:01:01.39
秀吉は織田氏に仕える前は蜂須賀小六に仕えていたとも云われ、秀吉による推薦があって、小六は信長の家臣となったという話もある。
秀吉の父・弥右衛門は蜂須賀正利の配下であったことがあり、秀吉はその縁で正勝に仕えた。

0510日本@名無史さん2017/01/22(日) 21:01:13.82
永禄9年(1566年)、墨俣城の築城に土豪衆(稲田大炊助、青山秀昌、長江景親、梶田景儀など)の一人として、正勝は弟・又十郎とともにこれに加わった。秀吉が城の守将とされた後も与力として付けられて、斎藤方を調略する案内役として活動した。

0511日本@名無史さん2017/01/22(日) 21:13:34.78
▽西美濃三人衆〔>>481
三人衆は斎藤龍興の代に相次いで斎藤氏を離反し、新たに美濃の領主となった織田氏の配下に入る。 織田氏の元では、織田信長の直属軍として転戦する。
元亀2年(1571年)には、長島一向一揆討伐戦において氏家卜全直元が戦死。
天正8年(1580年)8月に、安藤守就が罪を得て追放された。この追放劇には尾張・美濃の軍団を子の織田信忠の下に再編成しようとした信長の意図があったとされる。
本能寺の変後、旧領復帰のために蜂起した守就ら安藤一族を討伐したのは、かつての三人衆の仲間であった稲葉一鉄(良通)であった〔>>497〕。

0512日本@名無史さん2017/01/22(日) 22:01:57.19
★稲葉山城

▽尾張小牧から美濃稲葉山城へは20kmある。
ほぼ西北方向である。
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0513日本@名無史さん2017/01/22(日) 22:04:52.16
▽巍然
ぎぜん。山などが高くそびえたっているさま。また、ぬきんでて偉大なさま。
※巍然屹立
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0514日本@名無史さん2017/01/22(日) 22:10:02.38
▽瑞龍寺山
ずいりょうじ。
金華山から延びた山稜の南西端に標高158mの瑞龍寺山がある。
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0515日本@名無史さん2017/01/22(日) 22:13:10.58
▽鹿垣
ししがき……害獣の進入を防ぐ目的で山と農地との間に石や土などで築いた垣のこと。
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0516日本@名無史さん2017/01/22(日) 22:23:25.33
▽堀尾茂助
堀尾吉晴……天文13年(1544年)、尾張国丹羽郡御供所村の土豪である堀尾泰晴の長男として生まれた。父は尾張上四郡の守護代・岩倉織田氏(織田伊勢守家)の織田信安に仕えて重職にあり、同じく同氏に仕えた山内盛豊(山内一豊の父)とともに連署した文書が残っている。
永禄10年(1567年)の稲葉山城攻めでは、織田軍の稲葉山城に通じる裏道の道案内役を務めたといわれている。
稲葉山住まいの猟師というのは『太閤記』による創作である。
※堀尾茂助:赤津進

0517日本@名無史さん2017/01/22(日) 22:27:17.65
▽達目洞
だちぼくぼら……金華山の東山麓に位置しており、昔ながらの里山の自然を今に残しています。
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0518日本@名無史さん2017/01/22(日) 22:34:22.44
▽木下小一郎
兄・秀吉に仕官した時には、木下長秀と名乗った。秀長へ改名したのは、天正12年(1584年)のことである。
天文9年(1540年)、竹阿弥の子、秀吉の異父弟として尾張国愛知郡中村に生まれる。幼少時に秀吉が家を飛び出したため、面識は少ないと思われる。
秀吉に仕え始めた時期の正確な記述はなく、秀吉とねね(高台院)との婚礼の後という説が多い(永禄7年)。
斎藤龍興との戦いでは、合戦に参加する秀吉に代わって、城の留守居役を務めることが多かった。

0519日本@名無史さん2017/01/22(日) 22:39:17.29
▽斎藤龍興
「龍興は降伏し、信長によって助命され、近江へ逃げた。」←大ウソ。
永禄10年(1567年)、西美濃三人衆の稲葉良通、氏家直元、安藤守就が信長に内応したため、遂に稲葉山城を信長によって落とされた(稲葉山城の戦い)。
城下の長良川を船で下り、北伊勢の長島へと亡命することになる。その為、龍興を追って織田軍が長島に攻め寄せている。
当時20歳。以降、再び大名として美濃に返り咲くことはなかった。
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0520日本@名無史さん2017/01/22(日) 22:44:13.68
長島に亡命した龍興は、元亀元年(1570年)に始まる長島一向一揆に長井道利〔>>303〕とともに参加し、信長に対する抵抗活動は継続した。
その後は、畿内において三好三人衆と行動を共にすることが多かった。

0521日本@名無史さん2017/01/22(日) 22:44:49.10
その後、縁戚関係にあったことから越前国の朝倉義景のもとへ逃れ保護された。
天正元年(1573年)8月、義景が信長と対決するために近江国に出陣した際に龍興も従軍したが、朝倉軍が織田軍に敗れて刀禰坂で追撃を受けた際、龍興は戦死した。かつての重臣であった氏家直元の嫡男・氏家直昌に斬られたとされている。享年26。

0522日本@名無史さん2017/01/23(月) 05:38:29.20
稲葉山城の戦いに勝利して、信長が稲葉山城を奪ったのは、永禄10年(1567年)なんだが、この小説では、前章で「半兵衛事件の半年後」、つまり永禄7年(1564年)の出来事とされているな。
相変わらず、おかしいな。

0523日本@名無史さん2017/01/23(月) 05:42:16.77
しかし、稲葉山城は陥落し、斎藤龍興は近江に逃げたのだから、もう永禄10年(1567年)にしないとまずいんじゃないの?
小説を読んだ印象は、永禄7年(1564年)のまんまだけどね。

0524日本@名無史さん2017/01/23(月) 05:44:01.93
まあ、いずれにしても、信長はいまだに小牧山城に居るそうな。

0525日本@名無史さん2017/01/23(月) 05:45:28.99
司馬史観だから、これでいいんだよ。

0526日本@名無史さん2017/01/23(月) 05:46:39.40
飼い猫がお腹をこわしていて、鼻が曲がるほど臭いウンコをしよる。

0527日本@名無史さん2017/01/23(月) 05:52:55.61
>>522
史料が二つ存在するんだよ。『美濃明細記』『土岐累代記』『土岐斎藤軍記』『豊鑑』等は落城を永禄7年としている。

0528日本@名無史さん2017/01/23(月) 05:54:02.89
しかし、閏8月18日付けの斎藤家四家老の連判状が存在するじゃないか。閏8月があるのは永禄9年で、その年に龍興が当主として健在なんだから、永禄7年説は成り立たないよ。

0529日本@名無史さん2017/01/23(月) 05:56:23.27
そういう論争を小説の中に叙述すると、物語がつまらなくなるだろう。だから、対立する二つの見解に配慮して、曖昧な書き方になっているんだよ。

0530日本@名無史さん2017/01/23(月) 05:59:58.66
永禄7年説の史料をベースに小説を書き進めていたら、稲葉山城落城が永禄10年であることは疑問の余地がないという文献に遭遇し、慌てて誤魔化したとしか思えないけどね。

0531日本@名無史さん2017/01/23(月) 06:01:18.34
細かいことはどうでもいいんだよ。司馬史観なんだから。

0532国盗り物語2017/01/23(月) 06:13:35.00
第36章 探索

あの苛烈火のごとき信長にこういう反面があるとは、光秀にとって意外であった。信長は待つことも知っている。屈することも知っている。むしろ桶狭間で冒険的成功をおさめた信長は、それに味をしめず、逆に冒険とばくちのひどく嫌いな男になったようであった。
(桶狭間のような成功は、人生に二度とない)
と、信長は決めこんでいるかのごとくである。

0533日本@名無史さん2017/01/23(月) 06:18:51.33
★岐阜

▽河渡の渡し
こうどのわたし……「馬場(ばんば)の渡し」は、前スレの873に出てきた。そこで、「河渡の渡し」についても、すでに述べている。繰り返す。
明治7年(1874)には「明七橋」(現在の長良橋で、南側は木橋、北側は舟橋)、明治14年(1881)には 「河渡橋」が架けられました。これらは、従来の「長良の渡し」「河渡の渡し」を廃止し、地元の有志が私費で架設したもので有料橋でした。
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0534日本@名無史さん2017/01/23(月) 06:22:24.98
河渡宿(ごうどじゅく)は中山道54番目の宿場で、現在は岐阜県岐阜市になる。 加納宿から河渡宿へは長良川を渡る必要があったため、1881年(明治14年)に河渡橋が架けられるまでは「河渡の渡し」を利用していた。
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※河渡には美人が少ない。
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0535日本@名無史さん2017/01/23(月) 20:13:55.07
▽杜甫『春望』
国破山河在
城春草木深
…………

0536日本@名無史さん2017/01/23(月) 20:23:51.00
▽岐山県
陝西省宝鶏市に位置する県。 県内の東北部にある「箭括嶺」という山には、峰が二つあって向かい合っており、山頂が二つに分岐していることから「岐山」の名がついた。諸葛亮で有名になった五丈原の近辺。
周の文王は殷に仕えて、三公の地位にあり、父である季歴の死後に周の地を受け継ぎ、岐山のふもとより本拠地を豊邑に移し、仁政を行ってこの地を豊かにしていた。
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0537日本@名無史さん2017/01/23(月) 20:32:15.69
▽沢彦宗恩
臨済宗妙心寺派の僧。
平手政秀の依頼により吉法師の教育係となり、信長が長じた後は参謀となった。また、自刃した平手政秀の菩提を弔うために建立された政秀寺の開山も務めた。
信長が美濃国を攻略した際には稲葉山城下の「井ノ口」について改名を進言し、中国・周の故事にならい沢彦の挙げた「岐山・岐陽・岐阜」の3つから岐阜が選ばれたとの説がある。また、信長の政策である天下布武も沢彦の進言によるともいわれる。
※沢彦 / 志水辰三郎

0538日本@名無史さん2017/01/23(月) 20:44:51.75
>>523-524
「岐阜の城下町の完成まで二、三年はかかると信長は見、みずからは身をひいて尾張にすわりつづけているのであろう」ということなので、現在は永禄7年(1564年)なんでしょうね。

0539日本@名無史さん2017/01/23(月) 20:52:51.78
▽信長公居館跡
稲葉山城(岐阜城)の歴代城主の館は、金華山の西麓にある槻谷(けやきだに)にある。発掘調査の成果から、この地形は斎藤氏三代の頃に造られ、織田信長が大規模に改修をした。
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0540日本@名無史さん2017/01/23(月) 20:56:53.36
前スレ
107 名前:国盗り物語[sage] 投稿日:2016/12/05(月) 19:50:31.53
第51章 わが城

「おぬしは天下の岡部又右衛門ではないか。たかが一国の小守護が来たからといって、居ずまいをただす必要はない。わしは一代で死ぬ。おぬしの仕事は百世に残る。どちらが上か」

112 名前:無名草子さん[sage] 投稿日:2016/12/06(火) 22:36:18.85
▽岡部又右衛門
諱は以言、吉方とも伝わる。尾張の大工で、熱田神宮の宮大工の棟梁。「岡部家由緒書」に拠れば、岡部家は室町将軍家の修理亮をつとめた家柄とされる。
※岡部又右衛門:清水紘治
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113 名前:無名草子さん[sage] 投稿日:2016/12/06(火) 22:38:08.23
天正3(1575年)、信長の熱田神宮造営に被官大工として参加した。
小説の時点よりも39年後のことなので、岡部又右衛門はまだ生まれていない。

0541日本@名無史さん2017/01/23(月) 21:08:49.55
★北方城

▽本巣郡芝原〔>>480
安藤伊賀守守就は、北方城主。

0542日本@名無史さん2017/01/23(月) 21:14:15.21
▽長井隼人佐
長井道利〔>>303〕…… 森幹太(かんた)
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>>520
長島に亡命した龍興は、元亀元年(1570年)に始まる長島一向一揆に長井道利〔>>303〕とともに参加し、信長に対する抵抗活動は継続した。

0543日本@名無史さん2017/01/23(月) 21:31:19.21
長井道利は、斎藤義龍に出生の秘密を暴露した人物。その後何度か登場している。
初登場のときに長井隼人佐道利と紹介されている〔前スレ785-786:第12章 崩るる日〕。

785 名前:無名草子さん[sage] 投稿日:2016/12/24(土) 21:27:39.26
▽長井道利
美濃金山城主。通称は隼人佐。斎藤道三・義龍・龍興の斎藤家三代に仕えた重臣で、中濃・北濃方面を担った。
弘治元年(1555年)11月、義龍に接近して、道三の寵愛する義龍の異母弟・孫四郎・喜平次らの暗殺を提言し、義龍とともに2人を謀殺した。
永禄10年(1567年)、稲葉山城が陥落したため、龍興とともに長良川を下り伊勢国に逃れた。

0544日本@名無史さん2017/01/23(月) 21:36:41.56
この小説は、現在、永禄7年(1564年)なので、東美濃の抵抗勢力として長井道利が美濃にいるのはかまわないのだが、すでに斎藤龍興が美濃にいないからなあ。
龍興とともに長良川を下り伊勢国に逃れた長井道利が、いまだ美濃にいるというのは違和感があるなあ。

0545日本@名無史さん2017/01/23(月) 21:44:58.16
>>543
長井道利は美濃金山城主とあるが、同地にあった鳥峰城は天文17年 (1548年) に廃城になっていた。
それまでの城主は斎藤正義である。斎藤正義は斎藤道三の猶子で、関白近衛稙家の庶子と云われる。

信長の東美濃攻略に備えて長井道利を金山城主にしたのであろうか?
永禄8年 (1565年) 、織田信長は東美濃に侵攻して森可成(よしなり)を城主とする。

0546日本@名無史さん2017/01/23(月) 21:54:46.23
長井隼人佐は、「刀鍛冶で有名な関に城をもつ」と書かれているけど、関城主?金山城主?どっち?

0547日本@名無史さん2017/01/23(月) 21:57:19.42
長井道利は永禄8年4月時点で、可児・加茂地方を斎藤龍興の代官として支配しており、金山城も支配下にあったんだろうよ。
また、関城は中世城館としての遺構はほとんど見られない。だから関城主というより金山城を本拠として斎藤政権の東部方面軍を指揮していたんじゃないかな。

0548日本@名無史さん2017/01/23(月) 22:07:29.53
▽多治見修理
猿啄城(さるばみじょう)は、現在の岐阜県加茂郡坂祝町勝山にある。
天文16年(1547年)、多治見修理が田原左衛門から猿啄城を略奪する。
永禄8年(1565年)、織田信長が丹羽長秀を総大将として東美濃攻略を開始すると、先鋒である川尻鎮吉が猿啄城を攻略し、猿啄城は落城する。川尻鎮吉が猿啄城城主となり、城名を「勝山城」と改称する。
※猿啄城展望台
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0549日本@名無史さん2017/01/23(月) 22:18:57.09
▽佐藤紀伊守
佐藤忠能(ただよし)……加治田城城主。
斎藤龍興の代になると、尾張国の織田信長の侵攻に備えるため、金山城主・長井道利、堂洞城主・岸信周の三者で盟約を結ぶ。
しかし、忠能父子は家臣の梅村良澤を遣わして、信長に内通する。信長から武儀郡・加茂郡・郡上郡の反銭を押さえ、その土地を手に入れ次第知行してよいという褒賞を得た。
その後、西美濃三人衆が信長に寝返るという風聞が伝わると、岸信周らに去就を問われ、信長への内通を悟られぬために娘を信周の子・信友に嫁がせる。

0550日本@名無史さん2017/01/23(月) 22:22:25.81
永禄8年(1565年)8月、織田信長が美濃国に侵攻すると密約通り織田側に与し、そのために岸信友に嫁がせた娘は磔にされ、加治田城に面した長尾丸山に晒された。
長井道利は織田方に寝返った佐藤忠能の加治田城を奪取しようと、加治田から25町先の堂洞城の岸信周と共に出陣し、自らは関城で後詰をした。

0551日本@名無史さん2017/01/23(月) 22:24:01.37
これに対し、8月28日、織田軍は堂洞城に攻撃を開始。佐藤忠能父子は織田軍側で堂洞城攻撃に加わり、6時間の攻防の末、堂洞城は陥落した(堂洞合戦)。

0552日本@名無史さん2017/01/23(月) 22:25:19.07
堂洞城落城後、長井道利が加治田城へ攻め寄せてきた(関・加治田合戦)。加治田絹丸捨堀において激しい攻防戦となるが、織田方の斎藤利治の援軍も得て、佐藤忠能の加治田勢はよく奮闘し、長井勢を追い払った。
永禄10年(1567年)、信長の命で斎藤利治を養子として加治田城を任せ、自らは隣村の伊深村に隠居し、加治田に菩提寺の龍福寺を建立した。

0553日本@名無史さん2017/01/23(月) 22:25:54.69
▽岸勘解由
岸信周(のぶちか)……美濃堂洞城城主で、父は佐藤信連。岸氏ははじめ佐藤姓で、藤原秀郷から分かれた一族と言われる。
永禄8年(1565年)、関城主長井道利とともに織田信長に寝返った加治田城主佐藤忠能と戦うが、援軍に来た織田軍に敗れ一族もろとも城を枕に自刃した(堂洞合戦)。

0554日本@名無史さん2017/01/23(月) 22:28:04.74
以上を要約すると、>>303のようになる。

0555日本@名無史さん2017/01/23(月) 23:08:49.04
▽関城・猿啄城・堂洞城(どうほら)
金山城は、これら三城からみると、木曽川のはるか上流にある。
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0556日本@名無史さん2017/01/23(月) 23:19:44.30
★関ヶ原

▽永禄7年(1564年)晩秋
上に長々と述べてきた東美濃攻略戦は、永禄8年(1565年)の出来事である。
これより光秀中心の叙述になり、美濃攻略戦に関しては端折られるであろうから、敢えてこの場で述べておいた。
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0557日本@名無史さん2017/01/23(月) 23:20:28.89
まあ端折られるわな。龍興は美濃にいないんだから。

0558日本@名無史さん2017/01/23(月) 23:33:32.67
>>553
>岸氏ははじめ佐藤姓で、藤原秀郷から分かれた一族と言われる。

はじめ佐藤姓で後に岸姓というと、安倍晋三の祖父・岸信介みたいなんだが、長州の佐藤氏の先祖は美濃にいたのか?

0559日本@名無史さん2017/01/23(月) 23:40:49.18
佐藤姓は全国に200万人もいるのだから、分家は岸でも何でもありよ。
詮索するだけで疲れるから、やめよう?

0560日本@名無史さん2017/01/25(水) 13:49:19.56
>>555
>木曽川のはるか上流にある。

若干上流に位置するにすぎない。

>>556
>東美濃攻略戦

「中美濃攻略戦」と云ったほうが正確だな。東美濃は信州と接し、古くから遠山氏の領地であった。
遠山氏は鎌倉の御家人で、美濃における歴史は、土岐氏より古い。

0561国盗り物語2017/01/29(日) 15:39:19.33
第37章 花籠

嗣知のいうのは、朝倉家が京に旗を立てるなどは夢の夢である。もし義景が国を離れれば加賀の本願寺勢が越前に一揆をおこさせ国はたちどころに亡びてしまう。
「もともと」
と、嗣知はいった。
「一国の国主たるお人が、流れ者の才弁に踊らされるとはなげかわしい。それに、さほどの大事を、この刑部にひとことの御相談さえないのはどういうことでござる」
「刑部、わかった。あれは座興じゃ」

0562日本@名無史さん2017/01/29(日) 16:19:51.97
★一乗谷

▽槿木
ムクゲ……アオイ科フヨウ属の落葉樹。別名ハチス、もくげ。庭木として広く植栽されるほか、夏の茶花としても欠かせない花である。
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0563日本@名無史さん2017/01/29(日) 16:21:45.72
▽お槇
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▽明智弥平次光春
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0564日本@名無史さん2017/01/29(日) 16:24:24.58
▽アメノウオ
ビワマス(琵琶鱒)……サケ目サケ科に属する淡水魚。日本の琵琶湖にのみ生息する固有種である。産卵期には大雨の日に群れをなして河川を遡上することから、アメノウオ(雨の魚、?、F)ともよばれる。
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0565日本@名無史さん2017/01/29(日) 16:27:52.20
アメノウオは、斎藤道三篇の第8章「兵法者」にも登場した。
琵琶湖にのみ生息する固有種であるはずなのに、本作品では、なぜかしらないが日本各地に棲息しているようである。

前々スレ
372 名前:無名草子さん[sage] 投稿日:2016/11/13(日) 23:29:01.10
▽山魚(あめのうお)
ビワマス(琵琶鱒)のこと。サケ目サケ科に属する淡水魚。日本の琵琶湖にのみ生息する固有種である。産卵期には大雨の日に群れをなして河川を遡上することから、アメノウオ(雨の魚、?、F)ともよばれる。
琵琶湖にのみ生息する固有種であるはずなのに、本作品では、なぜかしらないが有馬にいた。
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0566日本@名無史さん2017/01/29(日) 16:31:34.49
▽懇意の奥医師
「土佐守様、お病きでござりましてな」

>>135 自分:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2017/01/02(月) 09:49:37.81
★一乗谷

▽朝倉土佐守
朝倉景行…北ノ庄城主。当時の北ノ庄城は、防御力のさほど高くない居館形式の城だったのだろう。
北ノ庄朝倉氏は、朝倉家中における有力一門として軍の中核を担っていた。
朝倉義景は天正元年(1573)に小谷城の浅井氏を救援する為に近江に赴いたものの、前線の砦が陥落したことから撤退を決意し、その撤退戦である刀根坂の合戦で朝倉軍は壊滅してしまう。朝倉景行ももちろんこの軍中にいたが、乱戦の中で討死したとされる。
※朝倉土佐守:神田隆
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0567日本@名無史さん2017/01/29(日) 16:35:41.67
▽鞍谷嗣知
鞍谷御所嗣知の息女は朝倉義景の内室になっている。後に足利義昭が義景に庇護を求め、兄である将軍義輝を討った三好三人衆と松永久秀を討伐するための出兵を求めてきたとき、義昭の従者であった明智光秀が義景に取り入って家中に勢力を築いたが、嗣知は義景に讒言して光秀を退けたという。

0568日本@名無史さん2017/01/29(日) 16:38:18.02
▽鞍谷氏
第3代将軍足利義満の次男義嗣の子嗣俊に始まる。
足利義嗣は、親王に準じた格式で元服を挙げるなどその父義満に溺愛されたが、そのぶん兄の足利義持(4代将軍)とは険悪な間柄となり、後に謀叛を企てた罪で自害させられた。
足利嗣俊は越前に逃れ、 今立郡味真野に住して鞍谷殿と称され、また将軍連枝の高家として鞍谷御所を称した。

0569日本@名無史さん2017/01/29(日) 16:40:56.84
▽鞍谷嗣時
足利(鞍谷)嗣俊の子。鞍谷刑部大輔嗣知の父。

0570日本@名無史さん2017/01/29(日) 16:44:08.29
▽義景の内室
内室とは、身分の高い人の妻を敬っていう語。転じて、一般に他人の妻を敬っていう語。令室。
必ずしも正室には限らないようである。

0571日本@名無史さん2017/01/29(日) 16:46:30.42
ですね。
現に朝倉義景の正室は、細川晴元の娘。継室が、近衛稙家の娘。
鞍谷嗣知の娘は小宰相と呼ばれ、側室にすぎませんでした。

0572日本@名無史さん2017/01/29(日) 16:53:15.40
ちなみに、国盗り物語には別の小宰相が登場している。
物語の序盤に登場した有年備中守の妾の名が小宰相である。
松波庄九郎に秘所を触られた。
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0573日本@名無史さん2017/01/29(日) 16:58:12.27
▽申次ぎの者
「十兵衛殿、これへ」 

0574日本@名無史さん2017/01/29(日) 17:02:17.49
▽朝倉義景
「さればさ、京に入って都の酒をのみ、都の女を掻い抱くのが楽しみになってきたわ」
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0575日本@名無史さん2017/01/29(日) 17:06:03.40
家に帰れば、きれいな奥さんがいるのに?
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0576日本@名無史さん2017/01/29(日) 17:08:44.29
▽朝倉左膳
光秀のいる詰め間にやってきた老人。朝倉家の宿老であるが架空の人物。

0577日本@名無史さん2017/01/29(日) 17:11:53.42
▽懇意の申次衆
>>573の「申次ぎの者」と同一人物であるかどうかは明確でない。
なお>>573では送り仮名の「ぎ」があるが、ここでは「申次衆」とある。

0578日本@名無史さん2017/01/29(日) 17:15:34.84
▽嵬
かい……岩石がたかく盛りあがったさま。高尚な。

0579日本@名無史さん2017/01/29(日) 17:22:56.95
▽花籠に月を入れて 漏らさじこれを 曇らさじと 持つが大事な  / 『閑吟集』310
“花籠”が女性を、月が“男性”の比喩とされています。ゆえに、漏らすまいとしているものは、女性器の中に放った精液なのです。

国盗り物語で謡われている今様は、
「花籠に 水をば入れて 月影宿し 漏らさじと 漏らさじと 持つが大事ぞ」と変えられています。

0580国盗り物語2017/01/31(火) 19:35:39.78
第38章 夕陽

細川藤孝が、すでに帰っていた。光秀の顔をみるや、
「形勢が切迫している」
と、御所のなかを指さした。侍が駈けまわり人夫が働き、荷物を作り、それらをかつぎ出している。
「湖水を渡って若狭か越前へ逃げ出すのだ」
(有為転変とはこのことか)
光秀は、背に夕陽を浴びつつ立ちつくした。

0581日本@名無史さん2017/01/31(火) 19:43:53.36
★一乗谷

▽たま
永禄6年(1563年)生まれであるから、現在数え年で3歳である。珍しく間違えていない。
※たま:今別府ミカ

0582日本@名無史さん2017/01/31(火) 19:51:01.75
▽矢島で流寓している将軍後継者義秋
永禄9年(1566年)2月17日、正統な血筋による将軍家を再興するため、覚慶は矢島御所において還俗し足利義秋と名乗った〔>>464〕。
永禄9年(1566年)4月21日には、従五位下・左馬頭(次期将軍が就く官職)に叙位・任官する。
※矢島御所の名残の土塁
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※矢島御所の跡地に建つ公民館
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0583日本@名無史さん2017/01/31(火) 20:01:39.33
★矢島

▽永禄9年(1566年)夏
野洲宿から湖畔にむかって折れ……中山道の草津宿のひとつ手前は守山宿〔>>466〕。
野洲宿という宿場は存在しない。

0584日本@名無史さん2017/01/31(火) 20:02:31.34
ですね

0585日本@名無史さん2017/02/01(水) 19:01:45.53
▽守山市の水田地帯
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0586日本@名無史さん2017/02/01(水) 19:15:02.72
▽一色藤長……義秋の小姓〔>>396>>445
▽細川左京大夫
足利義輝に近侍していた者に、細川輝経がいる〔>>396〕。
しかし、輝経の官位は陸奥守である。

0587日本@名無史さん2017/02/01(水) 19:16:01.85
「若者」とあるから、輝経ではないな。

0588日本@名無史さん2017/02/01(水) 19:22:08.21
左京大夫は、一色氏などの四職の家門の武家官位であった。
しかし戦国時代になり、朝廷や公家が経済的に困窮し、官位が売られるようになると、左京大夫は地方の戦国大名にとって箔付けのために最も人気のある官位となった。
大内氏・武田氏・後北条氏といった有力大名の他、大崎氏・岩城氏・大宝寺氏といった陸奥・出羽の国人領主まで左京大夫となったため、同時に何人もの左京大夫が出現するような状態であった。
細川左京大夫も、そのなかの一人なんだろうな。

0589日本@名無史さん2017/02/01(水) 19:23:10.13
細川家は、代々右京大夫の職を世襲したんじゃなかったっけ?

0590日本@名無史さん2017/02/01(水) 19:24:38.85
それは、細川宗家。
ちなみに、細川輝経(>>586)は、細川奥州家当主です。

0591日本@名無史さん2017/02/01(水) 19:29:21.14
>>589
ちなみに、細川宗家は戦国時代になっても京都周辺の支配をしていたから、右京大夫の職は細川宗家の当主が独占していた。

0592日本@名無史さん2017/02/01(水) 19:36:04.97
▽素襖
室町時代にできた単 (ひとえ) 仕立ての直垂。庶民が着用したが、江戸時代に平士・陪臣の礼服になった。
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0593日本@名無史さん2017/02/04(土) 19:29:14.73
▽上杉輝虎〔>>443-444
永禄9年(1566年)、輝虎は常陸国へ出兵して再び小田城に入った小田氏治を降伏させるなど、積極的に攻勢をかける。
また輝虎と同盟を結ぶ安房国の里見氏が北条氏に追い詰められていたため、これを救援すべく下総国にまで侵出。3月20日に北条氏に従う千葉氏の拠点・臼井城に攻め寄せた。上杉方が有利で実城の際まで迫ったが、3月24日に敗北する。
撃退された要因は、足利義昭の3月10日附の書状を義昭の使者が臼井の上杉軍のもとに持参して、北条氏と和睦して幕府再興のために上洛するように要請したことが、上杉軍の退却に繋がったのではないかとも指摘されている(臼井城の戦い)。

0594日本@名無史さん2017/02/04(土) 19:30:23.54
臼井城攻めに失敗したことにより、輝虎に味方・降伏していた関東の豪族らが次々と北条氏に降る。
9月には上野金山城主・由良成繁が輝虎に背く。さらに同月、西上野の最後の拠点・箕輪城が信玄の攻撃を受けて落城。城主・長野業盛は自刃し、西上野全域に武田の勢力が伸びた。
関東において、北条氏康・武田信玄の両者と同時に戦う状況となり守勢に回る。さらに輝虎は関東進出を目指す常陸の佐竹氏とも対立するようになる。

0595日本@名無史さん2017/02/04(土) 19:38:49.68
▽松永久秀〔>>270
永禄8年(1565年)5月19日、松永久通と三好義継、三好三人衆が軍勢を率いて上洛、室町御所の足利義輝を襲撃し殺害する(永禄の変)。この事件は久秀が首謀者のように言われているが、この時期の久秀は京への出仕は久通に任せ大和にいることが多く、事件当日も大和におり参加していない。久秀は義輝殺害に全く関与していなかった、または消極的だったと言える〔>>304〕。

0596日本@名無史さん2017/02/04(土) 19:49:40.39
永禄8年(1565年)11月16日に義継を担いだ三人衆が久秀と断交。両者は三好家中を二分して争い、これが内乱の幕開けとなった〔>>286〕。
永禄9年(1566年)には三好康長(笑巌/>>325)や安宅信康(安宅冬康の長男/>>287)ら一門衆も三人衆側に加担する。
また三人衆が新たに担いだ第14代将軍・足利義栄〔>>453〕からも討伐令を出されるなど、三好家中で孤立してしまう〔>>318〕。

0597日本@名無史さん2017/02/04(土) 19:51:11.44
2月17日、松永久秀・畠山高政は、三好三人衆・筒井順慶と堺近郊の上芝で戦うが(上芝の戦い)、両者の挟撃を受け松永・畠山軍は敗退する。
久秀は一旦多聞山城に退却して5月に再度出陣し、かつての領国摂津で味方を募り堺で畠山軍と合流した。しかし、高屋城から出撃した三人衆に堺も包囲されたため、久秀は5月30日に堺から逃亡し、数ヶ月間行方不明となった。
留守中の多聞山城は松永久通が守っていたが、筒井順慶が大和を荒らし回るなど劣勢に立たされた。

0598日本@名無史さん2017/02/04(土) 20:03:41.26
▽足利義栄〔>>453-454
永禄9年(1566年)9月23日に摂津越水城に入城した。そして12月5日には摂津国富田の総持寺に、7日には普門寺に入った。
11月、朝廷に対して将軍宣下を申請したが、朝廷の要求した献金に応じられなかったために拒絶された。

0599日本@名無史さん2017/02/04(土) 20:09:16.37
▽摂津国富田(とんだ)
現在の大阪府高槻市富田町 http://uub.jp/47/osaka/map.html
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0600日本@名無史さん2017/02/04(土) 20:20:59.55
▽普門寺
大阪府高槻市富田町四丁目にある臨済宗妙心寺派の寺院。
永禄4年(1561年)に元管領・細川晴元を隠居させるための城郭として築城され、晴元は出家してこの寺に隠棲している。
細川晴元没後の永禄9年(1566年)には、三好三人衆に擁立された足利義栄が入り、ここで宣下式を行い征夷大将軍に就任している。
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0601日本@名無史さん2017/02/04(土) 20:43:25.50
しかし、今はまだ足利義勝。

0602日本@名無史さん2017/02/04(土) 20:53:53.46
▽織田信長
永禄4年(1561年)に斎藤義龍が急死し、嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、信長は美濃に出兵し勝利した(森部の戦い/>>240-241)。
斎藤氏は家中で分裂が始まる。竹中重治と安藤守就が稲葉山城を占拠するクーデターも勃発した〔>>301〕。
永禄7年(1564年)には北近江の浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹・お市を輿入れさせた。
一方で、信長は永禄8年(1565年)より滝川一益の援軍依頼により伊勢方面にも進出し、神戸具盛など当地の諸氏(北勢四十八家)とも戦っている。

0603日本@名無史さん2017/02/04(土) 20:59:19.54
永禄9年(1566年)、加治田城主・佐藤忠能〔>>549-552〕と加治田衆を味方にして中濃の諸城を手に入れた(中濃攻略戦)。
さらに西美濃三人衆(稲葉良通・氏家直元・安藤守就/>>511)を味方につけた信長は、ついに永禄10年(1567年)、斎藤龍興を伊勢長島に敗走させ、尾張・美濃の二ヶ国を領する大名になった(稲葉山城の戦い)。ときに信長33歳。このとき、井ノ口を岐阜と改称した。

0604日本@名無史さん2017/02/04(土) 21:02:42.31
たたし、本作品では、稲葉山城は永禄7年(1564年)に落城し、斎藤龍興は、同年、近江へ逃げたことになっている〔>>519〕。

0605日本@名無史さん2017/02/04(土) 21:04:19.10
足利義秋は、六角義賢や和田惟政とともに全国の諸大名に三好氏を討伐して義昭の上洛と将軍擁立に協力するよう働きかけた。
ところが上杉謙信・武田信玄ら地方の諸大名は近隣諸国との対立を抱えていて動くことができなかった。
そのため、比較的京都に近い大名を連合させて義昭を上洛させるという計画が立てられ、永禄の変の直後から和田惟政が尾張を訪れて信長に上洛を要請した。

0606日本@名無史さん2017/02/04(土) 21:05:29.99
ただし本作品では、信長に上洛を要請したのは、和田惟政ではなく、細川藤孝になっている。

0607日本@名無史さん2017/02/04(土) 21:07:24.44
信長は美濃との抗争を理由に躊躇したが、義昭側の働きかけに応じた龍興が信長との停戦に応じたため、信長は斎藤領である美濃から北伊勢・南近江を経て上洛の兵を送ることになった。
ところが、永禄9年(1566年)8月に信長が上洛の兵を起こしたところ、斎藤龍興が離反して道を塞いだために上洛を断念して撤退した。

0608日本@名無史さん2017/02/04(土) 21:08:13.32
このあたり、すでに信長が美濃国を手中にしているので、たいへん理解しにくくなっております。

0609日本@名無史さん2017/02/04(土) 21:09:09.81
斎藤龍興と相前後して六角義賢も離反し、義昭と信長の交渉は一時中断する ←現在ココ。

0610国盗り物語2017/02/05(日) 09:44:33.58
第39章 湖水渡り

「伊賀者は命を惜しむ。要介、古来、伊賀の出の者で天下に名を成した者がいないのはたったその一事によるものだ」
光秀は抜き手を切って泳ぎはじめ、やがてしかるべき声を発し、
「船へあげてくれ」
と、いった。

0611日本@名無史さん2017/02/05(日) 17:14:35.48
★矢島

▽六角氏〔>>455-459
六角義賢は永禄2年(1559年)に嫡男・義治に家督を譲って隠居し、剃髪して承禎と号している。
永禄8年(1565年)、京で三好三人衆と松永久秀が将軍・足利義輝を殺害する(永禄の変)。六角義治は義輝の弟・一乗院覚慶が亡命してくるとそれを匿ったが、三好三人衆が管領職などを条件にして義治を誘ってくると、義治はこれに応じて覚慶を追放した。

0612日本@名無史さん2017/02/05(日) 17:18:59.53
足利義秋を裏切り三好三人衆と通じたのは、息子の六角義治が主導したようである。
承禎は巻き添えを食ったかたちになった。

0613日本@名無史さん2017/02/05(日) 17:26:31.37
「湖水渡り」というサブタイトルから、「明智左馬助の湖水渡り」伝説を想起された方もいらっしゃるかと思うが、この章で湖水を渡ったのは、光秀である。
この逸話に関して詳しく述べると、光秀の敗死を知った秀満(弥平次光春)は坂本に引き揚げようとしたが、大津の打出の浜で敵に遭遇した。
窮地に陥った秀満(弥平次光春)は突然、琵琶湖に馬を引き入れると浮いたり沈んだりして泳がせ、自分は馬の尻の所に下がって手縄を鞍の後輪に取り付けて、湖水を渡った。敵が唖然とする中、こうして秀満は坂本に帰り着いたという。

0614日本@名無史さん2017/02/05(日) 19:01:50.83
▽坂本
滋賀県大津市坂本……湖西線の駅名で言うと、南から順に「唐崎駅」「比叡山坂本駅」「おごと温泉駅」「堅田駅」となる。
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※雄琴のソープランド
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0615日本@名無史さん2017/02/05(日) 19:05:08.42
観音寺城(滋賀県近江八幡市安土町)を本拠にする六角氏が、なぜに湖西の坂本に軍勢を集結させたかは謎である。

0616日本@名無史さん2017/02/05(日) 19:11:44.91
▽矢島同名衆
どうみょうしゅう……室町時代末期、同じ苗字を持ち行動をともにした武士の集団。
平安時代後期から鎌倉時代にかけて、武士は惣領を中心に武士団を形成し、一族が党という組織を作ることもあったが、室町時代になると党結合は弱くなり、規模もしだいに小さくなり、それとともに衆という語が用いられるようになった。
たとえば、美濃三人衆、山家三方衆、九一色(くいしき)衆、武川衆、那須衆、三好三人衆等の衆組織が有名である。

0617日本@名無史さん2017/02/05(日) 19:14:47.48
矢島同名衆は、矢島越中守を頭領とする。
矢島越中守は、足利義秋のために矢島御所を築造し、みずから義秋の警固に当たっていた。

0618日本@名無史さん2017/02/05(日) 19:34:27.40
▽堅田衆
琵琶湖の西岸に面し、中世には水運の拠点として栄えた。
中世以後、堅田荘には「堅田三方」という三つの惣組織が形成され、殿原衆(地侍)と全人衆(商工業者・周辺農民)からなる「堅田衆」による自治が行われており、「堅田湖族」とも呼ばれてもいた。
蓮如が寛正の法難によって大谷本願寺を延暦寺によって破壊されると、堅田に逃亡する。蓮如は全人衆からの強い支持を受けて後に「堅田門徒」と称せられるほどの勢力をこの地に築くことになった。
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0619日本@名無史さん2017/02/05(日) 20:15:40.85
▽三淵藤英〔>>395
永禄8年(1565年)に第13代将軍・足利義輝が松永久通・三好三人衆に暗殺されると、藤英は異母弟の藤孝とともに一乗院門跡・覚慶を監禁されていた興福寺から救出し、近江国矢島にて還俗させる。そして越前国の朝倉義景を頼り、ついで織田信長を頼った。
義昭が織田信長に擁立されて将軍となると、山城国で伏見城周辺の守備を命じられた。その後も南山城の軍勢を率いて和田惟政・伊丹親興とともに三好氏との戦いに参加する一方、政治にも手腕を発揮して義昭の重臣となる。永禄11年(1568年)に大和守に叙任。

0620日本@名無史さん2017/02/05(日) 20:18:33.47
天正元年(1573年)7月に義昭が信長に対し挙兵するとこれに従った。
降伏した義昭は、信長によって三好義継の河内国若江城に追放され、室町幕府は事実上滅亡した。これにより藤英も信長に仕えることとなり、いまだに淀城に立て籠もっている義昭派の岩成友通を攻めるように信長に言われ、藤孝と共にこれを陥落させ8月2日友通を討ち取った。
翌年、信長によって突如所領を没収されて明智光秀の元に預けられると、嫡男の秋豪と共に坂本城で自害を命じられた。

0621日本@名無史さん2017/02/05(日) 20:25:33.22
▽飯河信堅
足利義輝家臣。官位は肥後守。室は沼田光兼の次女。1565年、「永禄の変」で足利義輝が謀殺されると足利義昭に尽くした。
細川藤孝、一色藤長とともに京都清水寺に禁制を発した。1572年、「摂津中島城の戦い」「河内高屋城の戦い」に参陣した。
1573年、織田信長、足利義昭が和議を結ぶと、誓紙に連署した。

0622日本@名無史さん2017/02/05(日) 20:28:12.36
▽智光院頼慶
主として上杉謙信との外交交渉に当たる。

0623日本@名無史さん2017/02/05(日) 20:37:52.05
★琵琶湖

▽野洲川の河口(やすがわ)
滋賀県を流れる淀川水系の一級河川。琵琶湖への流入河川では最長である。近江太郎の通称がある。
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0624日本@名無史さん2017/02/05(日) 20:41:48.84
▽琵琶湖の波
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0625日本@名無史さん2017/02/05(日) 23:13:01.48
▽善哉
ぜんざい「よきかな」の意。ほめ喜んで発する語。
※「善哉もち」の略。関西では、つぶしあんの汁粉。関東では、粟餅・白玉餅などに濃いあんをかけたもの。

0626日本@名無史さん2017/02/05(日) 23:15:19.75
▽矢立
筆と墨壺を組み合わせた携帯用筆記用具。真鍮製・銅製・陶製などがある。 一見喫煙パイプのような形をしている。墨壺がついているため、出先で即座に筆が使える。
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0627日本@名無史さん2017/02/05(日) 23:17:08.37
▽怱忙の間
忙しくて落ち着かないこと。「怱忙の間 (かん) 」

0628日本@名無史さん2017/02/05(日) 23:20:14.13
▽亂を避け 舟を 江州の湖上に 泛ぶ/足利義昭

落魄江湖暗結愁
孤舟一夜思悠悠
天公亦怜吾生否
月白蘆花淺水秋

0629日本@名無史さん2017/02/05(日) 23:22:05.81
江湖に落魄して 暗に愁(うれひ)を結び、
孤舟一夜 思ひ悠悠たり。
天公も亦 吾が生を怜(あはれ)むや否や、
月は白し 蘆花 淺水の秋。

0630日本@名無史さん2017/02/05(日) 23:26:50.71
▽服部要介
和田惟政の配下で伊賀黒田ノ荘の住人。実在した忍者である。

0631日本@名無史さん2017/02/05(日) 23:29:46.32
前章に登場した細川左京大夫は、ここにはいないのですか?

0632日本@名無史さん2017/02/05(日) 23:38:56.00
▽堅田多左衛門
党首の堅田多左衛門という髭づらの男が槍を伏せて光秀に一礼し、「謹んでお味方に」と、ひくい声でいった。
※堅田多左衛門 / 加藤 忠

0633日本@名無史さん2017/02/10(金) 10:02:04.89
>>631
司馬作品では、よくあることです。

0634国盗り物語2017/02/10(金) 10:58:00.40
第40章 転身

「信長は、将来、将軍を擁して天下に号令しようとしている。その将軍後継者から派遣されてきた将、ということになれば、当然、粗略にはあつかわぬ。粗略どころか、黄金をあつかうようにして扱うだろう」
語りながら、光秀の肚はきまり、方寸もきまった。

0635日本@名無史さん2017/02/10(金) 11:03:32.47
★若狭

▽若狭国
律令制で統一国家が成立する前の若狭地方は、若狭国造や角鹿国造の領土だったが、4世紀後半にはヤマト王権の支配下にあった。7世紀に若狭国が設置された。
奈良時代、ヤマト王権の日本海側入口として、海産物を朝廷に多く献上した為に、「御食国 (みけつくに)」に該当すると推定されている。調・庸で塩を納めるよう定められ、8世紀には製塩が非常に盛んであった。

0636日本@名無史さん2017/02/10(金) 11:06:11.31
鎌倉時代には執権である北条氏自身が守護職を務めていた。
室町時代初期の一色範光以降は一色氏が世襲するようになるも、一色義貫が殺害された後は、安芸国分郡守護の安芸武田氏から分出した若狭武田氏が若狭守護職を獲得し、丹後に拠点を移した一色氏と丹後守護職を廻り激しく対立した。
若狭武田氏は、戦国時代に将軍家や管領細川氏の信任を得て勢力を保ち小浜を拠点に日本海交易を展開するが、永正の錯乱以降の畿内の戦乱と共に衰退の色を深め、一族間の内乱の末、親族である越前朝倉氏に庇護され、その傀儡となる。

0637日本@名無史さん2017/02/10(金) 11:17:49.17
▽武田義統
よしむね……「よしずみ」と読む文献も多い。
大永6年(1526年)、武田信豊の長男として生まれる。天文17年(1548年)には、12代将軍・足利義晴の娘(足利義輝・義昭の妹)を正室に迎えた。義兄の足利義秋は、永禄9年(1566年)に若狭国を訪れた。

0638日本@名無史さん2017/02/10(金) 11:24:03.39
武田信玄のイメージを決定づけている下の画像であるが、近年はこの画像の人物は甲斐の武田信玄ではないことが、ほぼ確定している。
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他の絵像の武田信玄の風貌からかけはなれているから、おそらく信玄ではないであろう。
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それでは最初の画像の人物は誰か?
30数年前のTVニュースで、若狭守護の武田義統ではないか、というのがあった。

0639日本@名無史さん2017/02/10(金) 11:25:50.08
武田義統は、将軍・足利義晴より偏諱を賜り、武田晴信と名乗っていた時期があるからな。

0640日本@名無史さん2017/02/10(金) 11:34:33.46
若狭武田氏に天下を統べるだけの軍容があるかという観点からの叙述があるが、
義昭の若狭訪問の実情は、食いっぱぐれの親戚の居候が、妹婿を頼ってきたというにすぎない。

0641日本@名無史さん2017/02/10(金) 11:37:08.87
★一乗谷

▽朝倉義景
「そうか、若狭にまで参られておるか」
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0642日本@名無史さん2017/02/10(金) 11:44:27.97
★敦賀

▽永禄9年(1566年)9月
光秀39歳……成すところもなくいたずらに齢のみかさねてしまった。
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光秀の後ろ盾……朝倉土佐守景行〔>>135
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0643日本@名無史さん2017/02/10(金) 11:49:13.73
▽金ヶ崎城
敦賀市北東部、敦賀湾に突き出した海抜86mの小高い丘(金ヶ崎山)に築かれた山城である。 治承・寿永の乱の時、平通盛が木曾義仲との戦いのためにここに城を築いたのが最初と伝えられる。
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0644日本@名無史さん2017/02/10(金) 11:52:34.80
▽金目蛙
おそらく関西地方特有のある種の蛙の呼び名。他地方の方は無視してよし。

0645日本@名無史さん2017/02/10(金) 11:57:33.34
「仮面の忍者 赤影」の金目教篇に、大ガマが登場していた。
あれは金目蛙が巨大化したものだったのだろうか?
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0646日本@名無史さん2017/02/10(金) 12:02:08.52
金目教の甲賀幻妖斎は、忍術を用いて足利義昭を病気に陥れたことがある。

0647日本@名無史さん2017/02/10(金) 12:06:28.30
白影の牧冬吉さんの映画版『大忍術映画ワタリ』における役名は、忍者四貫目だったな。

0648日本@名無史さん2017/02/10(金) 12:06:48.76
司馬遼太郎の「忍者四貫目の死」については、いずれ詳解する。
なお、「四貫目」は「しかんめ」と読む。 これは、米を四貫食いだめできる異能から出た名前で、「忍者四貫目の死」や「伊賀の四鬼」に当該記述がある。
以上、余談である。

0649日本@名無史さん2017/02/10(金) 12:10:56.15
▽木ノ芽峠
福井県の嶺北(越前地方)と嶺南(若狭地方)を隔てる峠である。
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0650日本@名無史さん2017/02/10(金) 12:14:50.23
▽月見御殿
金ヶ崎の最高地(海抜86m)は、通称月見御殿と呼ばれている。南北朝時代の金ヶ崎城の本丸跡で、戦国時代にも武将が月見をしたと伝えられている。
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0651日本@名無史さん2017/02/10(金) 12:19:25.82
▽美女二十人に義秋を接待させ
……酒池肉林
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0652日本@名無史さん2017/02/10(金) 12:24:51.73
▽臍を決める
……臍を固める:覚悟を決める。《ほぞ》は、へそ。
※臍を噬む
《「春秋左氏伝」荘公六年から。自分のへそをかもうとしても及ばないところから》後悔する。すでにどうにもならなくなったことを悔やむ。

0653日本@名無史さん2017/02/10(金) 12:33:41.70
★一乗谷

▽良禽は木を択ぶ
出典は三国志。人材マニアの曹操は楊奉配下の徐晃が欲しくなり、面識のあった満寵は説得する事になる。徐晃を説得する際に『良禽は木を択ぶ』と言った。

0654日本@名無史さん2017/02/10(金) 13:00:48.59
▽猪子兵助〔>>108
猪子久左衛門……本作品に登場する猪子兵助は、本能寺の変で織田信忠とともに二条城に籠って討死した猪子兵助の父・久左衛門である。
息子の兵助は、天文15年(1546年)生まれ。
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0655日本@名無史さん2017/02/10(金) 13:04:35.75
本作品の猪子兵助は、天文22年(1553年)の正徳寺の会見の際、密かに織田信長を観察する道三の側に控えていて、信長をどう見るかと訊かれて「上総介はたわけにて候」と答えている。
これは生年的に無理があるとして、同じく兵助(兵介)を称した父であるとする説もあるが、父は織田信清に仕えて犬山城で戦死しており、正徳寺の会見の時期には、故人になっている。

0656日本@名無史さん2017/02/10(金) 13:09:36.22
▽方寸
元来の意味は、一寸(約3センチ)四方。ごくわずかな広さをいう。
むかし心臓の大きさは一寸四方と考えられていたことから、「心の中・心中・胸中」を示す語に転じた。出典は三国志「蜀志」諸葛亮伝。

0657日本@名無史さん2017/02/10(金) 13:12:07.81
徐庶の台詞から出た言葉だな。

0658日本@名無史さん2017/02/10(金) 13:18:37.22
「万事方寸の中にある」

0659国盗り物語2017/02/10(金) 17:20:20.32
第41章 豹の皮

「京に上られるそのみぎりは、この上総介、必死に働いてお道筋の掃除をつかまつりまする」
と何度も言い送っていた。この言葉を、信玄ほどの者が、幼児のような素直さで信じるようになっていた。
幼童と童女の婚約が結ばれたのは、永禄十年十一月である。信長はさっそくその御礼として、例のぼう大な進物を甲斐へ送った。虎の皮五枚それに豹の皮が五枚、さらに緞子五百反という途方もない珍品ばかりであった。

0660日本@名無史さん2017/02/10(金) 17:44:03.73
★小牧山城

▽稲葉山城を陥してからの信長の動きは……。
史実では永禄9年(1566年)現在、まだ稲葉山城は陥ていない。

0661日本@名無史さん2017/02/10(金) 18:01:49.44
▽お市御料人
信長よりも13歳下の妹。母は土田御前。信長とは同腹の妹。
浅井長政との婚姻時期については諸説あるが、通説は、永禄10年(1567年)9月または永禄11年の1月から3月ごろ、美濃福束城主・市橋長利を介して、浅井長政に輿入れしたとされる。
当スレッドでは、江戸時代前期の軍談物『浅井三代記』に従い、永禄7年(1564年)に浅井長政に嫁いだことにした〔>>602〕。めんどくさいので、これでよい。
※お市/松原智恵子 司馬遼太郎 Part6 [無断転載禁止]©2ch.netYouTube動画>2本 ->画像>863枚

0662日本@名無史さん2017/02/10(金) 18:11:22.28
▽浅井長政
天文14年(1545年)に浅井久政の嫡男として、六角氏の居城・南近江の観音寺城下(現在の滋賀県近江八幡市安土町)で生まれる。幼名は猿夜叉丸。
下克上によって京極氏を追い落とした浅井氏も、南近江の守護であった六角氏との合戦に敗れ、浅井亮政(長政の祖父)の代に手に入れた領地も失い、六角氏に臣従していた。そのため長政自身も、生母・小野殿とともに人質になっていた。

0663日本@名無史さん2017/02/10(金) 18:14:09.85
15歳で長政が元服した際、六角氏は臣従関係をはっきりさせるため、長政に六角義賢の一字をとって賢政と名乗らせた。また、六角氏の家臣である平井定武の娘との婚姻も強いた。
六角氏に服従する状況に不満を持っていた浅井氏の家臣達は、賢政に期待を寄せ、久政を竹生島に追放して隠居を強要した。長政は家督を強奪に近い形で相続した。長政は六角氏から離反する意思を明確にするため平井定武の娘を六角氏に返し、「賢政」の名も新九郎に戻した。

0664日本@名無史さん2017/02/10(金) 18:17:15.96
永禄6年(1563年)、六角氏の筆頭家臣であった後藤賢豊が暗殺された(観音寺騒動/>>458)。この騒動で六角を離れ浅井に仕官した者も多く、六角氏の改革失敗が決定的になった。
同年、長政の美濃遠征中にその留守を狙い六角氏が軍を動かしたため、長政は軍を反転させて六角軍を撃破した。
この二つの出来事で浅井氏は領地を拡大したが、その後は六角氏との停戦協議により膠着状態が続く。

0665日本@名無史さん2017/02/10(金) 18:19:10.16
織田信長は、美濃斎藤氏との膠着状態を打破するため、不破光治を使者として送り、長政に同盟を提案した。
同盟の条件は浅井側に有利であったが、浅井家臣の中では賛否両論あり、遠藤直経も反対だったという。
最大の問題は、久政の盟友である朝倉義景と信長の不仲だった。西美濃勢が信長寄りに振る舞う度に領地が油阪で通じることになり、織田・朝倉は互いに挑発を繰り返していた。

0666日本@名無史さん2017/02/10(金) 18:23:40.55
同盟に際して織田・浅井の両家は政略結婚をした。永禄10年(1567年)9月頃に、長政は信長の妹の市を妻とした。
当スレッドは、永禄7年(1564年)説を反故にして、永禄10年(1567年)説に従うことにする〔>>661〕。
織田・浅井の同盟により、信長は上洛経路ともなる近江口を確保し、美濃国攻略の足掛かりとした。
信長は同盟成立を大いに喜び、通常は浅井側が結婚資金を用意するのが当時のしきたりだったが、信長自身が婚姻の費用を全額負担したとされている。結婚に際して、信長の一字を拝領し、長政と改名したともされる。
※浅井長政/杉良太郎 司馬遼太郎 Part6 [無断転載禁止]©2ch.netYouTube動画>2本 ->画像>863枚

0667日本@名無史さん2017/02/10(金) 18:56:09.24
★甲斐武田氏

▽武田信玄
川中島の戦いと並行して信玄は西上野侵攻を開始した。武田軍は長野業盛を激しく攻め、永禄9年(1566年)9月には箕輪城を落とし、上野西部を領国化した。
川中島合戦・桶狭間合戦を契機とした対外情勢の変化に伴い武田と今川の同盟関係には緊張が生じ、永禄10年(1567年)10月には武田家において嫡男義信が廃嫡される事件が発生している(義信事件)。
※武田信玄/大友柳太朗 司馬遼太郎 Part6 [無断転載禁止]©2ch.netYouTube動画>2本 ->画像>863枚

0668日本@名無史さん2017/02/12(日) 00:12:20.54
空海の風景を今読んでいるが、当時の天皇はある意味生々しく、人間的である
翻って、人間宣言後の象徴天皇であらせられる今上天皇は、いろんな制約があり、現人神的であると思う

0669日本@名無史さん2017/02/12(日) 16:44:07.64
▽武田菱
武田氏の家紋は「四つ割菱」である。すなわち「武田菱」として有名なもので、武田氏の専用なので武田菱の名が起こった。
武田氏は割菱ほかに「花菱」も用いたが、花菱は裏紋または控え紋として用いたようで、女性などがやさしさを表わすために多用したようだ。
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0670日本@名無史さん2017/02/12(日) 16:45:59.58
▽劫を経る
長い年月を経る。年功を積む。
※劫
仏教用語で、非常に長い時間。

0671日本@名無史さん2017/02/12(日) 16:59:42.03
▽織田掃部介
織田忠寛(津田一安)……尾張国楽田城主・織田寛貞の子として生まれる。
『甲陽軍鑑』によれば、永禄8年(1565年)に武田信玄の元へ派遣され、信長の養女(龍勝院)と信玄の嗣子勝頼との婚姻をまとめたとされるが、文書上からは確認されない。
また後には信長の庶子坊丸(勝長、信房)をおつやの方の養子とする縁組をまとめたといわれている。
『甲陽軍鑑』によれば、忠寛は信長に勘当され、11年間甲府に滞在していた経歴があったという。

0672日本@名無史さん2017/02/12(日) 17:01:19.03
しかし、この武田家との繋がりが遠因となったのか、後に信長の不興を買い、誅殺されたという。
あるいは追放を受け、信長の死後に出家し、羽柴秀吉に仕えるも、信長の遺児信雄に誅された説もある。

0673日本@名無史さん2017/02/12(日) 17:24:26.94
▽遠山勘太郎
遠山直廉……美濃国東部恵那郡の国衆・岩村城主の遠山景前の三男。
兄の遠山景任〔織田信長の叔母・おつやの方の夫/>>671〕が岩村城主となったので、天文21年(1552年)、断絶した遠山景徳(苗木氏)の養子となり、手賀野(現在の岐阜県中津川市手賀野)に館を築いて入り、後に高森山砦を拡張し苗木城主となった。

0674日本@名無史さん2017/02/12(日) 21:25:43.53
▽苗木城
岐阜県中津川市苗木 司馬遼太郎 Part6 [無断転載禁止]©2ch.netYouTube動画>2本 ->画像>863枚
木曽川北岸の小高い山に築城された戦国及び近世の城郭跡です。川面から天守までの比高差は約170mあります。
土岐氏と並んで東美濃一帯を根拠として覇を称えた遠山氏の居城で、「赤壁城」や「霞ヶ城」ともよばれています。
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0675日本@名無史さん2017/02/12(日) 21:28:42.66
▽恵那峡
大正9年、世界的に有名な地理学者・志賀重昂氏によって命名されたもので、その後多くの文人、文化人に愛される場所となり、公園内には記念碑も残されています。
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0676日本@名無史さん2017/02/12(日) 21:32:45.05
▽遠山の金さん
遠山景元……江戸時代の旗本で、天保年間に江戸北町奉行、大目付、後に南町奉行を務めた人物である。
知行500石の明知遠山氏の分家の6代目にあたる人物である。父は長崎奉行を務めた遠山景晋、母は榊原忠寛の娘。
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0677日本@名無史さん2017/02/12(日) 21:43:02.78
▽遠山勘太郎の妻女
小見の方の妹 →というのは真っ赤なウソ。こういうウソは、どういう頭脳から出てくるのだ?
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苗木(遠山)勘太郎の正室は、織田信秀の四女。つまり、信長の姉妹。
織田信秀の妹の「おつやの方」も岩村遠山氏の遠山景任に嫁いでいたので、織田氏と遠山氏は重縁の関係であった〔>>671〕。

0678日本@名無史さん2017/02/12(日) 21:46:33.36
▽雪姫
永禄8年(1565年)に金山城の森可成と米田城の肥田玄蕃允が武田軍に攻撃された後、信長はこの女性が産んだ苗木の娘(信長にとっては姪)を自分の養女として、武田信玄と同盟を結ぶために織田掃部助を派遣して、武田勝頼との婚儀をまとめた。
この娘が後の龍勝院で、勝頼嫡男の信勝を産み、元亀2年(1571年)9月16日に死去した。

0679日本@名無史さん2017/02/12(日) 21:53:34.19
▽明智氏の血をひく者は美男美女が多いといわれているが、雪姫はその代表的な存在であった。
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まあ、司馬は織田氏も美男美女家系と常に言っているので、ここは結果オーライ。
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0680日本@名無史さん2017/02/12(日) 22:02:11.09
▽この雪姫は信勝を生んだが、この産後に死んだ。これが永禄九年の末である。
ウソ。『甲陽軍鑑』に拠れば、信勝は永禄10年(1567年)11月1日、諏訪勝頼の長男として伊那高遠城に生まれたという。
『甲陽軍鑑』によれば、龍勝院は、永禄10年(1567年)11月に信勝出産に際した難産のため死去したとされるが、これは誤りであることが指摘される。龍勝院は、元亀2年(1571年)9月16日に死去した〔>>678〕。

0681日本@名無史さん2017/02/12(日) 22:10:42.09
▽武田信勝
永禄10年(1567年)11月1日、諏訪勝頼の長男として伊那高遠城に生まれた。
父の勝頼は信濃諏訪氏の娘を母とした信玄庶子として生まれ、諏訪庶流の高遠諏訪家を相続して高遠城主となっていた。
天正10年(1582年)2月、織田信長・徳川家康の甲州征伐が始まると有力家臣の離反により武田領国は崩壊し、勝頼は3月3日に新府城を放棄して郡内領主の小山田信茂を頼るが、信茂の離反により3月11日には天目山の麓の田野で織田家臣の滝川一益に捕捉され、信勝は勝頼や家臣の跡部勝資・土屋昌恒らと自害したという。享年16。

0682日本@名無史さん2017/02/12(日) 22:23:36.71
真田丸の小山田信茂
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真田丸の跡部勝資
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0683日本@名無史さん2017/02/12(日) 22:39:16.26
▽菊姫
司馬遼太郎は、武田信玄の五女・菊姫と織田信忠が永禄10年(1567年)11月に婚約したと書いているが、大ウソ。
菊姫は、上杉景勝の正室になっている。
2009年のNHK大河ドラマ「天地人」では、比嘉愛未(ひが まなみ)が演じた。
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0684日本@名無史さん2017/02/12(日) 22:47:58.97
織田信忠(11歳)と婚約したのは、菊姫の妹の松姫(7歳)。武田信玄の六女。
しかも、婚約時期も永禄10年(1567年)12月なので、ウソ。
元亀3年(1572年)、信玄が西上作戦を開始すると、徳川家康との間で三方ヶ原の戦いが起こる。同盟関係にある信長は徳川方に援軍を送ったことから武田・織田両家は手切れとなり、松姫との婚約も解消される。

0685日本@名無史さん2017/02/12(日) 22:52:33.31
三谷幸喜の「清須会議」では、剛力彩芽演じる松姫が三法師の生母として登場していたが、これは一部の史料にそういう説があるというだけで、事実ではない。
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松姫と信忠は実際に会ったことはなく、手紙のやりとりをして過ごし、両者は次第に精神的な繋がりが出来たという。つまり、ペンフレンドであり、エッチはしていない。

0686日本@名無史さん2017/02/12(日) 22:57:35.11
武田氏の滅亡後、八王子に落ち延びていた松姫のもとに、ペンフレンドの織田信忠から迎えの使者が訪れる。6月2日、松姫が信忠に会いに行く道中にて本能寺の変が勃発し、信忠は二条御所で明智光秀を迎え討ち、自刃する。
元武田家臣であり、当時は江戸幕府代官頭の大久保長安は、信松尼のために草庵を作るなど支援をしたという。また、武田家の旧臣の多くからなる八王子千人同心たちの心の支えともなったという。
元和2年(1616年)に死去、享年56。草庵は現在の信松院である。

0687日本@名無史さん2017/02/12(日) 23:01:22.55
▽信長の申し出は、「姫御の菊姫さまを」というのである。
「尾張のたわけが、何ということを申すか……」
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0688日本@名無史さん2017/02/12(日) 23:07:33.11
▽織田信忠
弘治元年(1555年)から同3年(1557年)間に、織田信長の長男(信正が実在すれば次男)として尾張国で生まれる。実母は久庵慶珠(生駒吉乃?)。幼名は奇妙丸。
天正4年(1576年)11月28日、信長から織田家の家督と美濃東部と尾張国の一部を譲られて、岐阜城主となった。
天正8年(1580年)には、尾張南部を統括していた佐久間信盛と西美濃三人衆のひとり安藤守就が追放された為、美濃・尾張の二ヶ国における支配領域が広がる。

0689日本@名無史さん2017/02/12(日) 23:12:35.74
天正10年(1582年)の甲州征伐では、総大将として美濃・尾張の軍勢5万を率い、徳川家康・北条氏政とともに武田領へと進攻を開始する。
論功行賞により、寄騎部将の河尻秀隆が甲斐国(穴山梅雪領を除く)と信濃国諏訪郡、森長可が信濃国高井・水内・更科・埴科郡、毛利長秀が信濃国伊那郡を与えられたことから、美濃・尾張・甲斐・信濃の四ヶ国に影響力を及ぼす。
※織田信忠:松原守 →覚えている人はいないだろうから、去年の大河ドラマから玉置玲央
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0690日本@名無史さん2017/02/12(日) 23:20:54.93
▽秋山伯耆守晴近
秋山信友……筆者はこの名前で記憶していたのだが、近年は『戦国遺文』『山梨県史』の編纂事業に伴う文書調査によって武田家臣の実名の確定作業が行われ、確実な諱は署判部分の写により「虎繁」であることが指摘されている。
なお、『甲陽軍鑑』『三河物語』によれば、虎繁は岩村城の開城に際して前城主・遠山景任の未亡人で信長の叔母に当たるおつやの方(岩村殿)を正室として迎えたとされるが、これは誤りであることが指摘されている〔>>677〕。

0691日本@名無史さん2017/02/12(日) 23:27:32.62
戦国武将のイメージは、たとえば「秋山信友」という漢字四文字によって形成される部分が大きい。
いきなり「晴近」だの「虎繁」だのと言われても、別人のようにしか思えない。

0692日本@名無史さん2017/02/12(日) 23:28:30.09
武田家臣の実名の確定作業には、正直、迷惑しています。

0693日本@名無史さん2017/02/12(日) 23:43:14.57
事実や虚構を交えた秋山信友に関する多くの事跡が、「秋山信友」という符牒によって統一されているんだよね。
いまさら秋山虎繁といわれても、イメージが崩れるだけだわ。
俺は、死ぬまで「秋山信友」でいいや。

0694日本@名無史さん2017/02/12(日) 23:45:53.98
漢字から受けるイメージは、その漢字の主である人格のイメージに影響してしまうんだよな。
「友」と「虎」では、全然イメージが違ってくる。

0695日本@名無史さん2017/02/12(日) 23:48:45.73
加藤清正が虎之助ではなく友之助だったら、ちっとも強そうではないということね。

0696日本@名無史さん2017/02/12(日) 23:52:36.15
真田丸の加藤清正は、友之助だったけどな。

0697国盗り物語2017/02/13(月) 00:07:10.57
第42章 桔梗の花

「美濃の安八郡に、五百貫文の知行所があいておりまする」
石高になおすとざっと五千石の地である。侍大将の待遇といってよい。
(とりあえず、それを与えよう)
信長にすれば、光秀の経歴を聞いただけでそれだけの値打ちがあると思った。

0698日本@名無史さん2017/02/13(月) 00:32:42.74
★一乗谷

▽永禄9年(1566年)秋
司馬さんも書かれているように、織田信忠と菊姫(藁)の婚約話は、物語の現在よりも1年後の話です。
※桔梗の花
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0699日本@名無史さん2017/02/13(月) 03:57:35.13
>>688
>天正8年(1580年)には、尾張南部を統括していた佐久間信盛と西美濃三人衆のひとり安藤守就が追放された為、美濃・尾張の二ヶ国における支配領域が広がる。
>>511
天正8年(1580年)8月に、安藤守就が罪を得て追放された。この追放劇には尾張・美濃の軍団を子の織田信忠の下に再編成しようとした信長の意図があったとされる。

0700日本@名無史さん2017/02/13(月) 13:52:23.03
▽お槇
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▽鞍谷嗣知〔>>567

0701日本@名無史さん2017/02/13(月) 14:02:54.56
★敦賀

▽足利義秋〔>>582/>>605
矢島御所において義秋は、三管領家の一つである河内国の畠山高政、関東管領の上杉輝虎、能登国守護の畠山義綱(近江滋賀郡在国)らとも親密に連絡をとり、しきりに上洛の機会を窺った。
六角義賢は当初は上洛に積極的で、和田惟政に命じて浅井長政と織田信長の妹・お市の婚姻の実現を働きかけている。義秋や六角・和田の構想は敵対していた六角氏・浅井氏・斎藤氏・織田氏、更には武田氏・上杉氏・後北条氏らを和解させ、彼らの協力で上洛を目指すものであったと考えられている。

0702日本@名無史さん2017/02/13(月) 14:03:06.88
実際に和田惟政と細川藤孝の説得で信長と斎藤龍興は和解に応じ、信長は美濃から六角氏の勢力圏である北伊勢・南近江を経由して上洛することになった。 この義秋の行動に対して、三好三人衆の三好長逸〔>>327〕の軍勢3,000騎が突然矢島御所を襲撃してきたが、この時は大草氏などの奉公衆(親衛隊)の奮戦により、からくも撃退することが出来た。

0703日本@名無史さん2017/02/13(月) 14:09:33.79
しかし、永禄9年(1566年)8月、先の約束通り上洛の兵を起こした信長の軍は斎藤龍興の襲撃にあって尾張国に撤退し〔>>607〕、さらに六角義賢・義治父子が三好三人衆と密かに内通したという情報を掴んだため、妹婿である武田義統を頼り、若狭国へ移った〔>>637〕。
斎藤龍興と六角義賢の離反がほぼ同時に起きているのは、三好方による巻き返しの調略があったとみられている。しかし、若狭武田氏も、義統自身が息子との家督抗争や重臣の謀反などから国内が安定しておらず、上洛できる状況でなかった。

0704日本@名無史さん2017/02/13(月) 14:12:37.66
永禄9年(1566年)9月には若狭から越前国の朝倉義景のもとへ移り、上洛への助力を要請した。義秋は朝廷に義景の母を従二位にすることを上奏して、実現したりしている。
朝倉義景は、すでに足利将軍家連枝の「鞍谷御所」足利嗣知も抱えており、仏門から還俗した義秋を奉じての積極的な上洛をする意思を表さなかったため、滞在は長期間となった。……現在ココ

0705日本@名無史さん2017/02/13(月) 14:20:21.66
★小牧山城

▽猪子兵助〔>>654-655
▽濃姫
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0706日本@名無史さん2017/02/13(月) 14:28:36.83
▽安八郡
あんぱちぐん……かつては「あはちのこおり」
以下の3町を含む。 神戸町(ごうど)輪之内町(わのうち)安八町(あんぱち)……大垣市と羽島市に挟まれた地
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『明智記』は、「濃州安八郡四千二百貫っ闘所っ在ケルヲ、十兵衛ニゾ下サレケル」とあるが、もとよりこの数値をそのまま信用することはできない。『細川家記』が五百貫文としているあたりが妥当な線かもしれない。

0707日本@名無史さん2017/02/13(月) 14:42:47.27
▽明智光安〔>>158司馬遼太郎 Part6 [無断転載禁止]©2ch.netYouTube動画>2本 ->画像>863枚
▽各務野〔>>234
吉行和子……言うまでもないんだろうが、ゆとりも見ているからなあ……、吉行和子の兄は作家の吉行淳之介な。
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ついでに、妹が吉行理恵(芥川賞作家・詩人)、父は吉行エイスケ(本名は栄助、ダダイスト・詩人)。
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0708日本@名無史さん2017/02/13(月) 14:46:35.25
美男美女一家だな。次女の理恵は、美女というより猫好きだけど。

0709国盗り物語2017/02/13(月) 16:49:47.67
第43章 謁見

光秀は、下座で平伏していた。
(頭髪のうすい男だな)
と、ひとの身体的特徴に過敏な信長は、最初にそう思った。
(金柑に似ている)
少年の眼である。この信長のなかには、悪童のころの彼がつねに同居していた。
(あの頭に触りたい)
とさえ思った。

0710日本@名無史さん2017/02/13(月) 17:00:21.76
★称念寺(長崎)

▽越前長崎〔>>126-128
この章には、称念寺の一念住持は登場しない。
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正徳寺における道三・信長会見の話を猪子兵助とする。茜部という懐かしい地名も出てきた。

0711日本@名無史さん2017/02/13(月) 17:49:43.49
★三国湊

▽三国湊
福井県坂井市三国町
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0712日本@名無史さん2017/02/13(月) 18:00:21.84
▽汐越の松原
『満潮(むつしお)の 越してや洗う あらかねの 地(つち)もあらわに 根あがりの松』〈明智軍記〉
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/kuhi/shiogoshipine.jpg
このとき光秀に同行したのが越前の福井県丸岡町長崎にある称念寺の園阿上人です。
どうやら一念上人ではないようですぞ〔>>710〕。

0713日本@名無史さん2017/02/13(月) 18:03:32.33
★府中

▽福井県武生市
2005年10月1日、今立町と合併し越前市の新設に伴い廃止となった。そのため名残として「現・越前市」に対して「旧・武生市」と併記されることもしばしばある。
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0714日本@名無史さん2017/02/13(月) 18:10:51.31
▽越前大滝
福井県越前市大滝町
※髪結紙……丈長(巫女用髪結)のことだろうか?
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濃姫は、こんなものを何に使うのだろう?

0715日本@名無史さん2017/02/13(月) 18:11:34.60
熱田神宮の巫女用じゃないのか?

0716日本@名無史さん2017/02/13(月) 18:17:03.32
《尻撮り物語 - 巫女篇》
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0717日本@名無史さん2017/02/13(月) 18:23:20.42
▽府中
越前鳥の子紙のことを言っているのか?
鳥の子紙であれば、別名が「打雲紙」だが、名物の「雲紙」って何でしょうか?
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0718日本@名無史さん2017/02/13(月) 18:27:53.76
▽戸口
戸口坂のことを言っているのか?
戸口坂(とのくちさか)は福井県福井市と鯖江市を隔てる峠である。
※信長の内室は、光秀の従兄妹であるので、これとは別に御台所へ土産として、 住国越前の大滝の髻結紙を三十帖と府中の雲紙千枚、戸口の網代組の硯箱・文箱・香炉箱の類のもの五十ほどを献上した。信長は光秀の奇特な振る舞いをご覧になって濃州安八郡で四千二百貫の所領を光秀に授けられた。

0719日本@名無史さん2017/02/13(月) 18:31:17.14
★敦賀

▽足利義秋
義秋はこのころ、義昭と改名している ←大ウソ
永禄11年(1568年)4月15日、義秋は「秋」の字は不吉であるとし、京都から前関白の二条晴良を越前に招き、ようやく元服式を行って義昭と改名した。 加冠役は朝倉義景が務めている。
義昭が織田信長を頼って尾張国へ移るのも、永禄11年(1568年)のことである。

0720日本@名無史さん2017/02/16(木) 09:16:04.70
>>666
あとの章で書かれているけど、司馬遼太郎は永禄8年(1565年)説ですね。

0721日本@名無史さん2017/02/16(木) 09:20:59.52
★岐阜城下

▽常在寺…日威上人
開山日護上人から数えて三代目

0722日本@名無史さん2017/02/16(木) 09:25:33.61
★小牧城

▽小牧山城
これまでは小牧山城と書かれることが多かったが、この章では小牧城になっている。
愛知県小牧市にある標高86mの山。かつて織田信長の居城であった小牧山城があった。現在は山全体が公園となっており、桜の名所としても知られる。公園の分類は「史跡公園」。なお現在、山頂にある天守閣風建物は、昭和48年に再建されたものである。
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0723日本@名無史さん2017/02/16(木) 09:31:10.99
★岐阜城

▽守成
「蝮めはこの城を作ったときから、守成の立場にまわった」
建築物のような大きな物をつくるときは、「造る」と書く。
「守成」とは貞観政要が出典で、先人の業績を守り固めるという意味である。
蝮は一代で創業したわけだから「守勢」と書くべきである。

0724日本@名無史さん2017/02/16(木) 09:33:22.10
おい、ヒキコモリ。大作家の書き間違いを指摘すると楽しくなるのか?

0725日本@名無史さん2017/02/16(木) 09:39:10.52
▽信長公居館跡
永禄10年(1577)織田信長は、稲葉山城主・斉藤龍興を追放し、「井ノ口」から「岐阜」とその名を改め、金華山山頂に岐阜城を修築して天下統一への拠点とした。
金華山の西麓には人工的な二〜三段のテラス状地形があり、最上段を千畳敷、中段以下の大部分を千畳敷下という。ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスがその著書の中で壮麗なものとして紹介した信長の居館の跡といわれている。
昭和59年から行なわれた発掘調査で、両側に板状の巨石を立て並べ、千畳敷下から千畳敷へと折れ曲がりながら上がって行く通路をはじめとして、その途中や周囲に配置された土塁状遺構・石垣・階段・水路などが発見された。
壮麗豪華な建築と伝えられる信長の居館そのものの建築遺構はまだ確認されていないが、中世から近世への過渡期の様相を探る上で極めて重要な遺跡である。
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http://www.geocities.jp/qbpbd900/gifujo3.html

0726国盗り物語2017/02/16(木) 17:09:44.36
第44章 道三桜

(薄禿ではない)
と、濃姫は言いながら思った。髪の毛が細いほうだから信長の目には光線のかげんでそう見えたのであろう。濃姫のみるところ、光秀は相変らず唇の姿にえもいえぬ雅趣があり、目は涼やかで眉がのびのびと長い。その点、年若いころとすこしも変わっていないのである。
「そなたも、変わりませぬな」
「それは」
光秀は苦笑した。

0727日本@名無史さん2017/02/16(木) 17:19:53.69
★岐阜城

▽光秀は京都の公卿、僧侶のあいだにも顔がひろい
いつ顔がひろくなったかは不明。光秀はずっと一乗谷にいた。
もっとも、明智氏の先祖は土岐氏の京都駐在官として室町幕府に直接仕える奉公衆を務めていた〔前スレ973〕。

0728日本@名無史さん2017/02/16(木) 17:23:13.06
光秀には、京都の天竜寺に禅道という知り合いの老僧がいるよ。
禅道の紹介で越前長崎称念寺の一念上人のやっかいになった〈>>129

0729日本@名無史さん2017/02/16(木) 17:24:27.16
光秀は天竜寺の禅道にお槇と弥平次光春を託したこともあった。

0730日本@名無史さん2017/02/16(木) 17:27:17.29
★小牧城

▽福富平太郎
福富貞家。美濃国山県郡福富の出身で、清和源氏土岐氏支流の明智氏の一族と言われる。
子に福富平左衛門秀勝がいる。
※福富平太郎 / 和崎俊哉
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0731日本@名無史さん2017/02/16(木) 17:31:19.61
▽福富平左衛門
福富秀勝……姓は「ふくとみ」と読まれてきたが、 『宇野主水日記』に「福住」とあり、『兼見卿記』でも「福角」、『家忠日記』には「ふくつみ」と書かれてあることから、「ふくとみ」と読むのは誤りである。
永禄年間に赤母衣衆に追加選抜され、その後は一貫して馬廻衆として仕え、信長の出陣したほとんどの合戦に従軍したと考えられる。
天正5年(1577年)2月からの雑賀攻めにも従軍。ただしこれを最後に、以後は信長が軍の指揮を離れたために、その馬廻である秀勝も、戦場に出る事よりも中央で政務を担当する事が多くなり始めて、副状の発給などが以前より多く見られるようになる。

0732日本@名無史さん2017/02/16(木) 17:32:45.16
本能寺の変の時は、信忠の直臣として妙覚寺にあって変を知ったが、信長の宿泊していた本能寺に参じることは叶わず、信忠に従って二条御新造に拠って明智勢を相手に奮戦し、猪子高就、毛利良勝、菅屋長頼、野々村正成、村井貞勝など、多くの武将とともに討死した。

0733日本@名無史さん2017/02/16(木) 17:40:45.23
★岐阜城

▽永禄10年(1567年)9月18日
清洲城下と小牧城下の織田家臣団が美濃国岐阜城に移転する。
嫡子織田信忠が岐阜城の城主となるのは、これより9年後の天正4年(1576年)である。

0734日本@名無史さん2017/02/16(木) 17:44:06.40
国盗り物語では物語の進行上稲葉山城の戦いを永禄7年(1564年)の出来事にしているが〔>>522〕、
実際には永禄10年(1567年)に稲葉山城の戦いがあり、斎藤龍興は伊勢の長島に亡命している。当時20歳。

0735日本@名無史さん2017/02/16(木) 17:48:21.39
▽濃姫
入念に化粧をしたせいか二十三、四ほどにしか見えなかった。
http://ユウキ919.com/wp-content/uploads/2015/05/WS001573.jpg
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0736日本@名無史さん2017/02/16(木) 17:53:42.35
▽えもいえぬ
「えもいわれぬ」が現代風に変化した表現である。
「えもいわれぬ」とは、言葉では何とも言い表せないさまを表す言い回し。
下二段活用動詞「う」の連用形「え」から転成した副詞「え」はよく使われました。「えも」は「何とも」に当たり、「言えぬ」を修飾して「何とも言えぬ」の意味になります。当然漢字は「得」です。「え、え、う、うる、うれ、えよ」と活用します。

0737日本@名無史さん2017/02/16(木) 18:06:56.04
▽士は三日見ざれば刮目して見よ
原文は、「士別れて三日なれば刮目して相待すべし」
日々鍛錬する人が居れば、その人は3日も経つと見違える程成長しているものだと言う意味。出典は、三国志演義。
呂蒙は無学だったので、君主の孫権が少しは学問を学び、人間の幅を広げるよう呂蒙に諭した。
それから時が流れて、呉の知将魯粛が、前線司令官として赴任する途中に呂蒙を訪ねた。呂蒙は学問に励み、いつしか勇に智が伴う武将になっていた。武骨な呂蒙しか知らない魯粛は驚き、「復た呉下の阿蒙にあらず」と言ったところ、呂蒙は、「士別れて三日なれば刮目して相待すべし」と返した。

0738日本@名無史さん2017/02/16(木) 18:07:27.90
▽青嵐
「亡き父が青嵐と名づけて愛しんでいたものです」
あやうく勘違いするところだったが、道三が信長に贈った桜の一枝は、「養花天」と名付けられた鷺山城内の老桜の一枝である。
ここは稲葉山城。
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0739日本@名無史さん2017/02/16(木) 18:11:58.43
本能寺の変は、これより16年後の天正10年(1582年)6月2日に起きる。

0740日本@名無史さん2017/02/16(木) 18:20:22.47
▽寧日がない
平穏無事な日がないこと。「寧」は安寧の寧であることから連想せよ。

0741日本@名無史さん2017/02/16(木) 18:23:16.69
徐寧の寧から連想したので、戦がないことと思ってしまった。

0742coffee break2017/02/16(木) 19:30:21.20
とつぜんですが、トッポジージョが見たくなった。
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ダウンロード&関連動画>>


0743日本@名無史さん2017/02/17(金) 00:24:49.66
いや

0744日本@名無史さん2017/02/17(金) 06:49:33.63
ここすごく上から目線だな

0745国盗り物語2017/02/17(金) 11:23:45.21
第45章 天下布武

この男が三万五千の大軍をひきい、義昭を奉じつつ西上を開始したのは、この年の九月である。
この無鉄砲さに、天下が戦慄した。戦国の本格的な統一戦がはじまったのはこの時からといっていい。

0746日本@名無史さん2017/02/17(金) 11:34:39.69
★敦賀

▽浅井氏
「永禄八年に信長の妹お市が嫁して姻戚関係を結んでいる」
長政は永禄10年頃に尾張国の織田信長と同盟を結び、信長の妹・お市の方を妻として迎えて、六角氏からの自立を図った〔>>666〕。

0747日本@名無史さん2017/02/17(金) 11:45:08.59
▽六角承禎〔>>455-460
永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、承禎は三好三人衆と通じて信長の従軍要請を拒絶し織田軍と戦った。しかし観音寺城の戦いで大敗を喫し、東山道沿いの観音寺城から南部の甲賀郡に本拠を移した。これは祖父の六角高頼〔>>427〕の鈎の陣〔>>428〕に倣ったものでもあった。

0748日本@名無史さん2017/02/17(金) 11:50:35.23
★小谷城

▽永禄11年(1568年)7月
7月16日:義昭、小谷城に到着……滋賀県長浜市湖北町伊部(旧・近江国浅井郡)にあった戦国時代の日本の山城。
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0749日本@名無史さん2017/02/17(金) 11:54:26.46
▽浅井長政……饗応
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▽柴田勝家……出迎え指揮
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▽木下藤吉郎……勝家の補佐
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0750日本@名無史さん2017/02/17(金) 12:01:43.46
▽勁烈
つよくはげしいこと。
「強」には、「しいる」「こわい(固い)」の意味がありますが、「勁」には、その意味はありません。それを除けば両語の意味は変わりありません。
ただ、「勁」は、勁草・簡勁・雄勁など古の中国由来の熟語に関連して使われている例が多いです。例えば、櫻井よしこ『美しき勁き国へ』へも中国の故事「疾風勁草」を取り上げています。

0751日本@名無史さん2017/02/17(金) 12:04:30.63
▽尾籠
きたないこと。けがらわしいこと。
「ばかげていること」「愚かなさま」を意味する和語「をこ(痴)」を当て字で「尾籠」とし、さらに音読みした和製漢語。
当て字として用いられるようになったのは鎌倉時代以降で、文書で多く「尾籠」と書かれるうちに音読されるようになった。

0752日本@名無史さん2017/02/17(金) 12:07:08.52
こういう言葉の意味・読みの変遷を見ていると、「ちょー○○」から派生しら略語も日本語として生き残るかもしれないな。
くそいまいましい。

0753日本@名無史さん2017/02/17(金) 12:08:54.61
>>751
「をこ(痴)」には烏滸という当て字もありますね。

0754日本@名無史さん2017/02/17(金) 12:19:33.47
▽天下布武
信長が自身の印章に用いた文言。
一般に「天下を武力で平定する」というような意味で捉えられがちだが、武力の「武」ではない。
「武」とは本来「戦いを止める」という意味を持つ。武という漢字を分解してみると、「戈(ほこ)」と「止」から成る。戈は、戦で使われる武器であり、戦いを表す。それを止めるのが、「武」である。
また、「天下布武」の武は「七徳の武」のことであると言われている。古代中国の古典『春秋左氏伝』には、「武の七つの目的を備えた者が天下を治めるにふさわしい」とある。その七つの目的とは...@暴を禁じる、A戦を止める、B大を保つ、C功を定める(功績を成し遂げる)、D民を安んじる、E衆を和す、F財を豊かにする、である。
こうして見ると、「天下布武」の本当の意味は、「天下に七徳の武を布く」という、天下泰平の世を創る決意表明なのである。
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0755日本@名無史さん2017/02/17(金) 12:29:57.83
へえ〜、そうなんだ

0756日本@名無史さん2017/02/17(金) 12:30:17.84
>>754
>「武」とは本来「戦いを止める」という意味を持つ。武という漢字を分解してみると、「戈(ほこ)」と「止」から成る。戈は、戦で使われる武器であり、戦いを表す。それを止めるのが、「武」である。

違うよ。「武」の字の成り立ちは「戈」をもって「止」む(すすむ)姿を表したもの。この「止」は「あしあと」の形で、甲骨文字の形は之(ゆく)、行く、進むの意味がある。
つまり、「武」は矛をふりかざし勇壮に歩く意である。どこにも武力を制すという意味はない。
「天下布武」の意味が『春秋左氏伝』の「七徳の武」に由来するのは、そのとおり。沢彦《>>537》が望んでいた真の「天下布武」とは「春秋左氏伝」に記された"七徳の武を備えた者が天下を治める"ことに由来する。

0757日本@名無史さん2017/02/17(金) 12:37:47.03
交差点の停止線前に「止まれ」と書かれてあるのに、それを無視して優先道路に侵入してくる運転手は、甲骨文字に関する教養があるために、進んでくると考えて差し支えないですか?

0758日本@名無史さん2017/02/17(金) 12:41:11.17
警視庁交通部、見ているか?
「止まれ」の道路標識は「とまれ」に変えたほうがいいみたいだぞ。

0759日本@名無史さん2017/02/17(金) 12:51:19.78
▽北条氏康
関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで関東を支配し、上杉謙信を退け、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した。
永禄9年(1566年)以降は実質的にも隠居し息子達に多くの戦を任せるようになる。元亀2年(1571年)10月3日、氏康は小田原城において死没した。享年57。

0760日本@名無史さん2017/02/17(金) 12:57:16.04
▽禄壽應穏
司馬は氏康が考案した印であるかのような書き方をしているが、誤り。
初見は永正15年(1518)の氏綱が発給した文書。以後、氏康・氏政・氏直と代々使用された。
禄(財産)と寿(生命)が応(まさ)に穏やかであるように。人々が平和で暮らすという願いが込められている。
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0761日本@名無史さん2017/02/17(金) 13:00:51.92
▽地帝妙の印
上杉謙信の印判は「地帝妙」で、軍神としての地蔵尊(勝軍地蔵)、帝釈天、妙見菩薩のそれぞれの頭文字が印判に彫られている。
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http://www.1059do.com/photo(sh-202)b.jpg

0762日本@名無史さん2017/02/17(金) 13:07:59.32
★美濃西ノ庄

▽立政寺
りゅうしょうじ……岐阜市西荘3丁目7-11
美濃など東海地方の中世浄土宗の一大中心地として栄えた寺。明智光秀と細川藤孝の仲介により、織田信長が戦国最後の将軍となった足利義昭を迎えた歴史上の重要な舞台にもなりました。
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0763日本@名無史さん2017/02/17(金) 13:12:44.67
▽智通光居
浄土宗の寺院である亀田山護国院立政寺は、文和3年(1354)、浄土宗西山派の高僧であった智通光居が開山した。
その前年、伊勢参拝の帰途に西荘を訪れた智通上人は、しばらくこの地に滞在したことから、近隣の村人がその徳を慕って参詣したといわれ、全盛時には浄土宗西山派の中心寺院ともなった。
1891年(明治24年)の濃尾地震で被災した。
※智通光居墓
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0764日本@名無史さん2017/02/17(金) 13:44:21.81
▽開山智通が植えた桜
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0765日本@名無史さん2017/02/17(金) 13:49:22.99
▽大紋
鎌倉時代頃から直垂に大きな文様を入れることが流行り、室町時代に入ってからは直垂と区別して大紋と呼ぶようになった。室町時代後期には紋を定位置に配し生地は麻として直垂に次ぐ礼装とされた。
江戸時代になると江戸幕府により「五位以上の武家の礼装」と定められた。当時、一般の大名当主は五位に叙せられる慣例となっていたから、つまり大紋は大名の礼服となったのである。
現在では歌舞伎や時代劇の「勧進帳」で富樫泰家が、「忠臣蔵」’松の廊下’のシーンで浅野長矩が着用している姿を見ることが出来る。
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0766国盗り物語2017/02/17(金) 14:46:14.34
第46章 上洛軍

北近江を通過するとき、浅井長政の軍八千がこれに加わり、四万を越えた。
この四万が琵琶湖の東岸を南下し、数日のうちに六角方の十八個の城を将棋倒しに潰滅させるというすさまじい進撃ぶりをみせ、最後に湖畔の観音寺城に対し、信長みずから陣頭で突撃して攻めつぶしてしまった。
承禎入道は城を出て奔り、甲賀から山伝いで伊賀にのがれ、頼朝以来の名家は、ほとんど瞬時に、といっていいほどのあっけなさでつぶれた。

0767日本@名無史さん2017/02/17(金) 15:10:20.98
★岐阜城下

▽堀田某の屋敷のまわりで領内津島村の盆踊り
「堀田某」は、この小説では斎藤道三の家臣として登場している堀田道空のこと。
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堀田道空は津島神社の社家出身の織田家の家臣で、道三の斎藤家と織田家との外交交渉に当たっていたので、道三がらみの文献に度々登場するが、本来は織田家の家臣であるとする説もある。

0768日本@名無史さん2017/02/17(金) 15:13:13.94
『信長公記』には、「上総介殿(信長)は天女の御仕立に御成候て、小鼓をあそばし、女踊りをなされ候。津島にては堀田道空の庭にてひと踊りあそばし、それより清須へ御かえりなり。津島五ヶ村の年寄ども、(清須)踊りの返しを仕候……(略)……」とある。

0769日本@名無史さん2017/02/17(金) 15:19:49.03
▽津島村
愛知県津島市……司馬遼太郎 Part6 [無断転載禁止]©2ch.netYouTube動画>2本 ->画像>863枚
織田信長の祖父である信定は、中島郡・海西郡に勢力を広げて津島の港を手中に収め、津島に居館を構えた。この港から得た経済力が戦国大名としての織田氏の発展の基礎となったとされる。
永正年間に勝幡城を築城し、大永年間に津島の館から拠点を移した。天文年間はじめに嫡男・信秀に家督を譲って隠居した。この際、木ノ下城(犬山城)に移り、勝幡城を信秀に与えたとされる。

0770日本@名無史さん2017/02/17(金) 15:24:42.00
▽蛇池
名古屋市西区……東海交通事業城北線「比良」下車4分。地下鉄「庄内緑地公園」より市バス「蛇池神社前」下車。
「大蛇が出た!」という噂を聞いた若き日の織田信長は、村人達に池の水を全て汲み出すように命令し、自ら池の中に入り大蛇を探したという伝説が残る。池は底無しで、結局大蛇も見つからず、信長は諦めたという。
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0771日本@名無史さん2017/02/17(金) 15:29:25.06
この章に書かれている無神論についての信長の台詞は、知らない間に筆者の血肉になっていたようだ。
筆者は常日ごろ信長の台詞と同じことをいっている。
忘れていた出典を探し当てるというのも、こっ恥ずかしいものだな。

0772日本@名無史さん2017/02/17(金) 15:38:34.23
内容は記憶されているのに、出典を忘れるのは、脳にある扁桃体(amygdala)の働きによるものです。
扁桃体はアーモンドの形状をしています。amygdala(アミュグダラ)とは、ギリシャ語でアーモンドという意味です。扁桃体は、情動反応の処理と記憶において主要な役割を持ちます。
扁桃体は記憶固定 (memory consolidation) の調節にも関わっています。学習される出来事の後に、その出来事の長期記憶が即座に形成されるわけではありません。むしろその出来事に関する情報は、記憶固定と呼ばれる処理によって長期的な貯蔵庫にゆっくりと同化され、半永久的な状態へと変化し、生涯に渡って保たれるのです。

0773日本@名無史さん2017/02/17(金) 15:48:44.49
★小谷城

▽遠藤喜左衛門
遠藤直経……享禄4年(1531年)- 元亀元年(1570年)
小谷城下の清水谷に居館を持つことを許されており、直経自身は子に居城を任せ館に在番していた。直経は浅井長政の傅役的存在で長政が幼い頃から相談役を務めてきた。
※遠藤喜左衛門:東大二朗……東大二朗の画像はなかった。探していたら仁科明子が出てきた。共演歴があるのかもしれない。
http://yuma.apples.jp/index.php?plugin=ref&page=%E6%B0%B4%E6%88%B8%E9%BB%84%E9%96%80%2F%E7%AC%AC07%E9%83%A8&src=02_02.jpg

0774日本@名無史さん2017/02/17(金) 15:50:15.62
早くから織田信長の底知れぬ才能を見抜き、永禄11年(1568年)、まだ浅井家と織田家が同盟関係にあった時、近江佐和山城を訪れた信長の接待役を命じられていた直経は、信長暗殺計画を長政に進言した。
朝倉氏と織田氏との関係が悪化すると朝倉との旧縁を重んじるべきか、織田との婚姻関係を重んじるべきかの決断を迫られていた際、直経は織田側につくべきであると強硬に主張した。

0775日本@名無史さん2017/02/17(金) 15:50:53.14
元亀元年(1570年)の姉川の戦いで、浅井軍総崩れとなって大敗が濃厚となった後、直経は味方武将三田村左衛門の首級を掲げて織田の武将に成りすまして敵陣に入り、信長の暗殺を謀った。
しかし本陣の信長まで手前数十メートルのところで竹中重治の弟・竹中久作(重矩)に見抜かれてしまい、捕らえられ斬首され、その首は竹中久作の手柄となった。

0776日本@名無史さん2017/02/17(金) 15:54:19.75
★観音寺城の戦い

▽永禄11年(1568年)9月12日
足利義昭を奉じて上洛の途にあった織田信長と近江守護である六角義賢・義治父子との間で行なわれた戦い。支城の箕作城が主戦場だったため、別名「箕作城の戦い」とも云われている。
信長の天下布武が実践された最初の戦いであり、直後の京都・畿内平定に大きな影響を与え、事実上の天下人として名乗りを上げる契機となった。

0777日本@名無史さん2017/02/17(金) 15:56:37.39
▽岐阜を進発
永禄10年(1567年)11月に正親町天皇から信長に綸旨が届いた。内容は尾張・美濃の不地行になっている皇室領の回復を命じるものであった。
正親町天皇からの綸旨をうけた信長は、いよいよ上洛と「天下布武」に向けて動き出した。越前にいる義昭を美濃の立政寺に迎え入れると、永禄11年(1568年)8月5日に岐阜城を出発、精鋭の馬廻り衆250騎を引き連れて、8月7日に佐和山城に着陣した。

0778日本@名無史さん2017/02/17(金) 15:59:23.60
▽六角義治
上洛する途上には観音寺城があった。信長は、義昭の近臣であった和田惟政に家臣3名をつけて、観音寺城にいる六角義治に義昭の入洛を助けるように使者を送った。しかし、義治と父の六角義賢はこの申し出を拒絶した。
信長は、再度使者を送って低姿勢で入洛を助けるよう要請した。これに対して、義治は三人衆の軍事力をあてにしていたのか、病気を理由に使者に会いもせずに追い返してしまった。7日間佐和山城にいた信長は、ここに至って開戦もやむなしと考え、一旦帰国した。

0779日本@名無史さん2017/02/17(金) 16:02:17.72
▽岐阜を進発
永禄11年(1568年)9月7日〈司馬は9月5日〉、軍勢を整えた信長は1万5千の兵を引き連れて岐阜城を出立し、これに三河の徳川家康勢1千、北近江の浅井長政勢3千が加わり、翌9月8日は高宮に、9月11日には愛知川北岸に進出した。この時の織田軍の総数は5-6万とも言われている。

0780日本@名無史さん2017/02/17(金) 16:05:00.51
▽松平信一
藤井松平家嫡流の初代。松平長親の五男・松平利長(藤井松平家始祖)の長男。松平清康の従兄弟にあたる。
永禄11年(1568年)からは織田信長の援軍の将として派遣され、9月12日の観音寺城の戦いに代表される対六角氏戦で、箕作城攻めにて本丸一番乗りを果たす戦功を挙げ、信長からも賞された。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは江戸崎にて佐竹義宣の動向に備えた。その戦功により戦後、常陸国土浦藩の初代藩主となり、3万5000石の所領を与えられた。

0781日本@名無史さん2017/02/17(金) 16:09:09.25
▽六角側の布陣
本陣の観音寺城に当主義治、父義賢、弟義定と精鋭の馬廻り衆1千騎を、和田山城に田中治部大輔らを大将に主力6千を、箕作城に吉田出雲守らを武者頭に3千をそれぞれ配置し、その他被官衆を観音寺城の支城18城に置いて態勢を整えた。
六角氏の布陣は、織田軍はまず和田山城を攻撃すると予測し、そこを観音寺城や箕作城から出撃して挟撃することを狙っていたと思われる。
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0782日本@名無史さん2017/02/17(金) 16:16:37.58
▽和田山城
田中治部大輔 vs 稲葉良通が率いる第1隊

和田山城は六角氏の居城・観音寺城の東約2kmにあり、愛知川と大同川の合流点の西に位置する和田山(標高180m)の山頂付近に築かれている。
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0783日本@名無史さん2017/02/17(金) 16:22:49.20
▽観音寺城
六角義治、父・義賢、弟・義定 vs 柴田勝家と森可成が率いる第2隊

観音寺城は、繖山山頂から南斜面にかけて大小100を越える曲輪群を配した近江守護六角氏の巨大城郭である。近世城郭に先駆けとなった織田信長の居城安土城も、この繖山の西に伸びる支尾根先端部に築かれいる。
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0784日本@名無史さん2017/02/17(金) 16:29:37.85
▽箕作城
吉田出雲守らを武者頭に3千 vs 信長、滝川一益、丹羽長秀、木下秀吉らの本隊

滋賀県東近江市五個荘山本町箕作山の山上に築かれた六角氏の城館
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0785日本@名無史さん2017/02/17(金) 16:32:13.95
戦端は箕作城でひらかれた。木下隊2千3百が北の口から、丹羽隊3千が東の口から攻撃を開始した。この箕作城というのは急坂や大木が覆う堅城で、吉田出雲守隊の守りも固く、午後五時前後には逆に追い崩されてしまった。
木下隊では評議を行い、夜襲を決行することになる。7時間以上戦ったその日のうちに夜襲を仕掛けてくるとは考えてもいなかったのか箕作城兵は驚き、必死に防戦したが支えきれず、夜明けを待たずに落城してしまった。かなりの激戦だったらしく、200以上の首級が上がった。
箕作城の落城を知った和田山の城兵は、戦わずに逃亡してしまった。

0786日本@名無史さん2017/02/17(金) 16:33:50.51
長期戦を想定していた六角義治は、戦端が開かれてから1日も経たずに箕作城と和田山城が落ちたことに落胆し、観音寺城の防備が弱いことを悟ったのか、古来の例にならい夜陰に紛れて甲賀へ落ち延びた。
当主を失った18の支城は、1つを除き次々と織田軍に降り、ここに大勢が決した。
この戦いの織田軍の損害は1500人ほどだと『フロイス日本史』に記載されている。

0787日本@名無史さん2017/02/17(金) 16:34:56.58
六角家老臣の蒲生賢秀は、敗北を聞いてもなお1千の兵で日野城に籠もり、抵抗する様子を見せていた。
しかし、賢秀の妹を妻としていた織田家の部将神戸具盛が単身日野城に乗り込んで説得した結果、賢秀は降伏し、信長に質子を差出して忠節を誓った。この質子が後の蒲生氏郷である。

0788日本@名無史さん2017/02/17(金) 16:36:44.69
▽最後に湖畔の観音寺城に対し、信長みずから陣頭で突撃して攻めつぶしてしまった。
以上、長々と読んでいただいたらおわかりになられたと思いますが、ウソです。

0789日本@名無史さん2017/02/17(金) 16:40:30.24
▽入京
京都を支配していた三人衆らは六角氏の敗北を聞いて浮き足立ち、織田軍と満足な戦もしないまま、京都から駆逐された。
信長は立政寺の義昭に使者を送り、戦況を報告して出立を促した。9月27日、信長と義昭は琵琶湖の三井寺に入った。
翌28日、入京した義昭は東山の清水寺に、信長は東福寺に陣し、細川藤孝は宮廷の警護に従事した。
こうして信長は畿内の覇権を掴み、義昭は念願であった征夷大将軍の座に着いた。

0790日本@名無史さん2017/02/17(金) 16:43:00.24
>>788
光秀が先鋒で京に入ったという叙述もウソですか?

0791日本@名無史さん2017/02/17(金) 16:44:16.45
もちろんウソです。『国盗り物語』は小説です。
光秀の『信長公記』への初登場は、永禄12年(1569年)です。

0792日本@名無史さん2017/02/17(金) 19:36:41.98
▽観音寺城の陥落については木下藤吉郎の奇略が功を奏して
これを言うなら箕作城の陥落でしょうね。観音寺城の六角義治および承禎親子は、一矢も報いずに夜逃げした〔>>786〕。

0793日本@名無史さん2017/02/17(金) 19:40:24.89
観音寺城と箕作城は2kmと離れていない位置関係にあるから、戦いは連携して行うべきだな。
箕作城の陥落を見て、和田山城と観音寺城が何もしないで逃げるというところが、いかにも中世だ。

0794日本@名無史さん2017/02/17(金) 19:42:17.43
映画やドラマだと、救援に行くけどね。常識的には自分の命が大事。
救援に赴いて自分の命を落とすなんて、実は基地外にしかできない。

0795日本@名無史さん2017/02/18(土) 05:21:31.06
>>789
>翌28日、入京した義昭は東山の清水寺に、信長は東福寺に陣し

『信長公記』だと東福寺ですよね。
ところで、「国盗り物語」等の小説や歴史書なんかには、「信長公は入洛して東寺に陣を敷き、足利義昭は清水寺に入った。」と記述してあるものが多いんですよね。
ありは、どの文献から引っ張ってきたものなんでしょう?

0796日本@名無史さん2017/02/18(土) 14:06:17.67
▽粟田口
洛中から三条大橋以東の東海・東山・北陸三道への出口または市中への入口のこと。京の七口の一つで三条口・三条橋口・大津口とも呼ばれる。
粟田口は軍事上の要衝で、鎌倉期以降は刀工粟田口鍛冶の居住地として名を馳せる。京の七口は室町期に関銭徴収した所である。
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0797日本@名無史さん2017/02/18(土) 14:06:36.52
▽三条河原
交通の要衝であったために、しばしば処刑場にされた(公開処刑)。
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0798日本@名無史さん2017/02/18(土) 16:05:31.13
>>764
その桜、観に行ったことがあります。

0799国盗り物語2017/02/18(土) 18:03:15.64
第47章 京の人々

お万阿はそのあと、二つ三つ物語してひきあげて行った。
(幾つなのか)
光秀は玄関まで見送りながらおもったが、見当もつかなかった。しかしあの老齢ではもう次に会うこともあるまいと思った。

0800日本@名無史さん2017/02/18(土) 18:15:43.45
★東福寺

▽信長の旅館
この小説では京都南郊の東寺にされているが、史実に従い東山の東福寺にしておく。東福寺に京都の大町人や、職人、医者、連歌師など、様々な人が東福寺に来て、祝辞を述べ、進物を捧げた。
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0801日本@名無史さん2017/02/18(土) 18:16:14.36
信長は9月26日に入京し、陣を東山の東福寺に置くと、9月28日には山城国南部から摂津国に至る諸城に拠る三好三人衆を討つために出陣した。三好三人衆の一人である岩成友通は京都南郊の勝竜寺城に拠っており、これに対して信長が勝竜寺城を攻撃した結果、勝竜寺城の戦いが発生した。
勝竜寺城の落城後は、織田勢は京街道を西進することが可能となり、信長は東福寺から山崎にまで進出している。
また、この戦闘の後、織田勢は京街道を西進し、芥川城の戦いが発生している。

0802日本@名無史さん2017/02/18(土) 18:18:05.50
京都南郊の東寺だと、いまだ三好三人衆の勢力範囲だから、戦なしには近づけないということですね。

0803日本@名無史さん2017/02/18(土) 18:19:38.73
油問屋の山崎屋(奈良屋)は東寺の近くだから、お万阿が信長を訪ねるには便利。

0804日本@名無史さん2017/02/18(土) 18:20:18.75
残念。お万阿は山崎屋をたたんで、いまは嵯峨野住まいだよ。

0805日本@名無史さん2017/02/18(土) 18:25:47.64
▽岩越藤蔵〈F〉
信長の馬廻り……『甫庵信長記』に登場する人物。名前からして、おそらく架空の人物。
狼藉を働いた織田家の小者某を逮捕した。

0806日本@名無史さん2017/02/18(土) 18:26:51.00
▽織田家の小者某
門前の木に縛り付けられて晒し者にされた。

0807日本@名無史さん2017/02/18(土) 18:32:42.07
▽里村紹巴
大永5年(1525年)- 慶長7年(1602年)。連歌師。里村姓は後世の呼称であり、本姓は松井氏。奈良の生れ。
天正10年(1582年)、明智光秀が行った「愛宕百韻」に参加したことは有名である。
40歳のとき宗養の死で連歌界の第一人者となるが、文禄4年(1595年)の豊臣秀次事件に連座して近江国園城寺(三井寺)の前に蟄居させられた。里村家は徳川宗家に仕え、幕府連歌師として連歌界を指導した。
※里村紹巴 / 西村晃 司馬遼太郎 Part6 [無断転載禁止]©2ch.netYouTube動画>2本 ->画像>863枚

0808日本@名無史さん2017/02/18(土) 18:44:15.13
▽下の句は、紹巴がつけねばならない。
史実によると、紹巴が下の句を発句とし、信長があとから長句(五・七・五)を「脇」で詠んでいる。司馬は、詠み手が逆になっている。

信長公の前に進み出た紹巴は、広げた扇を二本取り出し、「二本手に入る今日の喜び」と連歌の発句を信長公に掛けて来たのでございます。すると、信長公、少しも慌てず、「舞い遊ぶ千代万代の扇にて」と応じたのでありました。
これには、紹巴も思わず唸り深々と頭を下げたのでございました。

0809日本@名無史さん2017/02/18(土) 18:49:49.82
ここは、以前から疑問に思っていた。
まずは、ゆとりのために連歌の基礎知識から……。
「発句」…… 長句(五・七・五)
「脇」…… 短句(七・七)
「第三」…… 長句(五・七・五)
「第四」…… 短句(七・七)
このように「前句」と「付句」を交互に繰り返してゆくのが連歌である。
>>808で紹巴が下の句を発句としたのが不思議であった。

0810日本@名無史さん2017/02/18(土) 18:57:01.61
▽かつて尾張清洲城にあそびにきて、信長はよく知っている。
里村紹巴は、ここまで『国盗り物語』には登場していない。
織田信秀と親しかった連歌師・宗牧〔前スレ361〕は、何度も登場している。
宗牧は、天文14年(1545年)に没している。

0811日本@名無史さん2017/02/18(土) 18:57:48.36
>>809
それで司馬さんも混乱したのだろう。

0812日本@名無史さん2017/02/18(土) 19:02:36.27
▽妙鴦尼……お万阿
「いまの掌の感触がこの武士の心を溶かしてしまったものらしい」
※老婆の掌
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0813日本@名無史さん2017/02/18(土) 19:04:52.67
▽老婆の掌の感触で心を溶かされた門番
織田家の家来

0814日本@名無史さん2017/02/18(土) 19:22:36.11
お万阿様の美貌のピーク
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晩年
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0815日本@名無史さん2017/02/18(土) 19:34:33.20
>>808
「舞い遊ぶ千代万代の扇にて」という発句とともに、紹巴が二本の扇を信長に差し出し、
信長が「二本(日本)手に入る今日の喜び」という付句を詠んでいたら、話がきれいにまとまるのにな。

0816日本@名無史さん2017/02/19(日) 12:57:28.81
▽妙諦
みょうてい……すぐれた真理。そのものの真価。神髄。みょうたい。

0817日本@名無史さん2017/02/19(日) 13:07:36.11
▽修羅道
仏教において迷いあるものが輪廻するという六種類の苦しみに満ちた世界(六道)の中の一つ。
仏教では、輪廻を空間的事象、あるいは死後に趣(おもむ)く世界ではなく、心の状態として捉える。たとえば、天道界に趣けば、心の状態が天道のような状態にあり、地獄界に趣けば、心の状態が地獄のような状態である、と解釈される。

0818日本@名無史さん2017/02/19(日) 13:07:49.55
天道………天人が住まう世界。空を飛ぶことができ享楽のうちに生涯を過ごす。しかし煩悩はあり仏法を知らないため解脱できない。
人間道……人間が住む世界。四苦八苦に悩まされる苦しみの大きい世界。しかし自力で仏教に出会える世界であり、解脱し仏になりうる。
修羅道……阿修羅の住まう世界。修羅は終始戦い、争う。
畜生道……牛馬など畜生の世界。本能ばかりで生きており、使役されなされるがまま。
餓鬼道……餓鬼は腹が膨れた姿の鬼で、食べ物を口に入れようとすると火となってしまい餓えと渇きに悩まされる。
地獄道……罪を償わせるための世界。

0819日本@名無史さん2017/02/19(日) 13:11:26.69
▽梵天
帝釈天とともに仏法を守護する神。宇宙の最高原理を神格化したもの。
古代インドの神ブラフマーが仏教に取り入れられたもので、十二天に含まれる。梵はbrahmanの音写。
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0820日本@名無史さん2017/02/19(日) 13:16:35.16
▽菩薩行
サンスクリットのbodhisattvaを音写した「菩提薩(ボダイサッタ)」を省略した言葉で、その意味は「悟り(菩提、bodhi)を求める衆生(薩、sattva)」といわれています。
一般的に菩薩といえば観音菩薩や地蔵菩薩などを思い浮かべますが、最高の悟りを獲得しようと願う心を起こした人は、実はみな菩薩なのです。
しかし菩薩にはもう一つ重要な特徴があります。それは、決して自分だけが悟ればよいとは考えず、全ての衆生が悟りを得るまで自分も悟りを得ないと誓を立てるということです。
一切衆生と共に悟りを目指し、一人残らず平等に悟りを獲得するまで修行の歩みを続ける?この心構えこそ、菩薩行の根底に流れている精神なのです。

0821日本@名無史さん2017/02/19(日) 13:17:09.41
日本の大学で教鞭を取るようになって十六年が過ぎましたが、今でも不思議に思うことが多くあります。
たとえば授業中、学生たちに「質問はありますか」と聞くと、皆いっせいに黙って、私と眼が合わないように下を向きます。
アメリカの学生と違い、日本の学生はどうも授業で目立った振る舞いをすべきではないと無意識のうちに教え込まれているようです。
そのような学生たちに、私はいつも「質問することは菩薩行ですよ」と言っています。

0822日本@名無史さん2017/02/19(日) 13:23:29.82
▽松永久秀
三好三人衆との戦いは終始劣勢であった。永禄11年(1568年)6月29日に信貴山城が三人衆に落とされるまでになった(信貴山城の戦い)。
多聞山城に籠城していた久秀が打開策として考えたのが織田信長の上洛である。
※松永弾正 / 永井秀明
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0823日本@名無史さん2017/02/19(日) 13:25:40.83
永禄11年(1568年)9月、織田信長が足利義昭を擁立して上洛してくると三好義継と共にいちはやく降伏し、10月2日に人質と名物といわれる茶器「九十九髪茄子」を差し出して服属の印とした。
兄の仇であるという義昭の反対はあったものの、久秀の利用価値を認めた信長が義昭を説得し、幕府の直臣となり、大和一国を「切り取り次第」とされた。

0824日本@名無史さん2017/02/19(日) 13:30:03.25
大和の有力国人はほとんどが筒井順慶に属していたが、信長が10月に家臣の佐久間信盛、細川藤孝、和田惟政ら2万の軍勢を久秀の援軍として大和に送ると、この軍勢と協力して次第に大和の平定を進めていく。
永禄12年(1569年)も大和平定を継続し、筒井順慶は没落を余儀なくされていく。

0825日本@名無史さん2017/02/19(日) 13:37:56.48
※筆者注
山城・摂津平定戦については、時系列で書かれていない。
これでは、信長の戦略が理解できないだけでなく、各城塞の地理関係まで誤って認識しそうである。
まず最初に、勝竜寺城の戦いがある。

0826日本@名無史さん2017/02/19(日) 13:55:36.48
★勝竜寺城の戦い

▽勝竜寺城〔>>330
▽岩成主税助〔>>326〕…… この章では岩城主税助と書き間違えていない。
▽以前の持ち主である幕臣細川藤孝……ウソ

0827日本@名無史さん2017/02/19(日) 14:00:33.31
勝竜寺城は、南北朝時代に北朝方の細川頼春が築いた城といわれてきたが、歴史的根拠はなく、むしろ後に城主となる細川藤孝の所有の正当性を強調するための創作である可能が高い。
ゆとりのために解説しておくと、細川頼春の次男頼有の末裔が細川藤孝。

0828日本@名無史さん2017/02/19(日) 14:00:54.82
つまり、細川氏の先祖も、勝竜寺城の所有者であったことはないということですか?

0829日本@名無史さん2017/02/19(日) 14:02:06.40
山城守護畠山義就が郡代役所として築城したと推定されています。
戦国時代末期には松永久秀、三好三人衆の属城となっていました。

0830日本@名無史さん2017/02/19(日) 14:02:53.89
大正時代にも、ゆとり教育はありましたか?

0831日本@名無史さん2017/02/19(日) 14:04:54.36
▽勝竜寺城の戦い
信長は尾張衆の柴田勝家、森可成、坂井政尚、および美濃衆の蜂屋頼隆に先陣を命じており、この四人が9月28日に勝竜寺城に攻めかかった。
岩成友通も足軽隊を出し、城外でこれに応戦したものの敗れており、柴田らは首級50を挙げている。
この際、信長はまだ出陣しておらず、柴田らが挙げた首級は東福寺まで送られて実検されている。

0832日本@名無史さん2017/02/19(日) 14:08:00.19
翌9月29日、岩成は籠城を続けていたが、柴田らが攻城を開始したため、支えきれずに開城した。
なお、岩成友通は翌年の本圀寺の変では三好勢の一手として出陣しているし、天正元年(1573年)まで信長と戦い続けている。
勝竜寺城が落ちたことで、織田勢は京街道を西進することが可能となり、信長は東福寺から山崎にまで進出している。
また、この戦闘の後、織田勢は京街道を西進し、芥川城の戦いが発生している〔>>801〕。

0833日本@名無史さん2017/02/19(日) 17:42:05.26
▽勝竜寺城は阪急電車向日町付近にあり
地図で見ると、最寄の駅はJR長岡京駅である。
阪急京都線の駅で最寄は、長岡天神駅である。
西向日駅は、長岡天神駅のひとつ京都寄りの駅で、かなり遠い。

0834日本@名無史さん2017/02/19(日) 17:46:11.15
▽遺跡は竹薮になっている。
執筆当時は竹薮であったのであろう。
平成4年(1992)、勝竜寺城公園として整備された。
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0835日本@名無史さん2017/02/19(日) 18:51:37.15
★芥川城の戦い

▽芥川山城
大阪府高槻市の三好山にあった城。
当時の呼称は芥川城であるが、同じ高槻市殿町周辺にあった城も「芥川城」と呼称しており、現在多くの文献で芥川山城と呼称されている。
天文22年(1553年)、父・元長の従弟に当たる芥川城主・芥川孫十郎を退去せしめた三好長慶は、自身が城主となり摂津における拠点とした。
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0836日本@名無史さん2017/02/19(日) 18:53:19.88
永禄3年(1560年)に長慶は河内飯盛山城へ移り、息子の三好義興が城主となった。
しかし永禄6年(1563年)8月に義興は22歳の若さで急死し、翌永禄7年(1564年)7月、息子の後を追うように長慶も飯盛山城で没した。
三好義興以後は三好長逸〔>>327〕が城主になっていたようだが、永禄11年(1568年)9月28日(または30日)に織田信長が摂津に侵攻、高槻の天神馬場に陣取り芥川山城を攻撃、その日のうちに落城し長逸は細川昭元を連れて阿波国へ逃れた。

0837日本@名無史さん2017/02/19(日) 18:55:23.29
織田信長は翌29日に芥川山城に入城し、和田惟政を城主に据えた。
翌永禄12年(1569年)1月5日、三好三人衆は将軍足利義昭の住む屋敷を襲撃する事件(本圀寺の変)を起こした。
これに対し和田惟政がいち早く駆けつけ、三人衆の撃退に大きな役割を果たし、この功により高槻城も与えられることになる。
惟政は高槻城に入り、家臣の高山友照に芥川山城を預けた。

0838日本@名無史さん2017/02/19(日) 18:56:16.97
しかし、この頃より惟政は徐々に近隣諸国との間で確執を生じ、元亀3年(1571年)8月、白井河原の戦いで荒木村重・中川清秀に討ち取られてしまう。
その後高槻城は息子の和田惟長が継いだが、これを好機と見た高山友照・重友父子は元亀4年(1573年)4月、惟長を追放し自らが高槻城主となった。この時に芥川山城は廃城になり、60年に渡る歴史を閉じたと思われる。

0839日本@名無史さん2017/02/19(日) 19:06:51.16
★伊丹城

▽有岡城
兵庫県伊丹市にある。地図には伊丹城ではなく有岡城とある。まあ、どちらでもよい。
南北朝時代、摂津国人の伊丹氏によって建築された。
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0840日本@名無史さん2017/02/19(日) 19:18:14.82
▽伊丹親興
永禄7年(1564年)三好長慶が病死し、三好三人衆と松永久秀・三好義継の間で権力争いが始まると伊丹親興は久秀に味方し、永禄9年(1566年)5月摂津池田城の池田勝正を攻撃している。
しかし、同年8月17日に松永久秀の西摂の拠点であった滝山城が落城すると、翌9月5日に親興も三好三人衆に下った(東大寺大仏殿の戦い)。

0841日本@名無史さん2017/02/19(日) 19:19:47.26
永禄11年(1568年)9月、織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、三好三人衆は摂津の芥川山城、越水城を含む全ての畿内の拠点を放棄し、10月2日に阿波に撤退した。
この時、伊丹親興は池田勝正と共に信長に降り領地を安堵されている。
その後、近江の国人・和田惟政が芥川山城に入城し、和田・伊丹・池田の三氏は摂津の守護に任じられ、摂津三守護と呼ばれた。

0842日本@名無史さん2017/02/19(日) 19:26:05.69
★池田城の戦い

▽池田城
大阪府池田市城山町周辺の標高50mの高台に位置する。
豊島郡(現在の池田市、豊中市、箕面市周辺)を治めていた国人領主・池田氏の居城だった。
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0843日本@名無史さん2017/02/19(日) 19:30:03.54
▽池田勝正
司馬は勝政としているが誤り。
永禄7年(1564年)三好長慶が病死し、三好三人衆と松永久秀・三好義継の間で権力争いが始まると、池田勝正は三好三人衆と組み松永久秀と戦った(東大寺大仏殿の戦い)。
永禄11年(1568年)、池田勝正は織田信長に抵抗したが、織田軍の攻撃を受け落城した。しかし勝正は抵抗したお咎めを受けなかった上に逆に評価され、信長から6万石を賜って家臣となった。
和田・伊丹・池田の三氏は摂津の守護に任じられ、摂津三守護と呼ばれた。

0844coffee break2017/02/19(日) 19:38:58.00
《アンケート》
『E. C. Was Here / Eric Clapton』のジャケット写真で抜いたことのある中学生は、ageでお願いします。
そんなことした覚えのない中学生は、sage進行で……。
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0845国盗り物語2017/02/19(日) 20:15:21.59
第48章 大願成就

この年、永禄十一年。
京に冬をおもわせるような氷雨のふった十月十八日、流浪の武家貴族足利義昭は、信長の介添えによって将軍に任ぜられた。
(従四位下に叙せられ、参議・左近衛権中将に任じ、征夷大将軍に宣下さる、か)
光秀は、足利義昭があらたについた官位や官職を何度もつぶやき、つぶやくごとに感があらたにおこって、涙がにじんだ。

0846日本@名無史さん2017/02/19(日) 20:39:53.46
★御所

▽京都御所
京都市上京区にある皇室関連施設。14世紀から明治2年(1869年)までの間の「内裏(禁裏)」、すなわち歴代天皇が居住し儀式・公務を執り行った場所である。現在は宮内庁京都事務所が管理している。
現在の建物は安政2年(1855年)の造営である。紫宸殿を始めとし、清涼殿、小御所、御学問所、御常御殿など平安時代以降の建築様式の移りかわりをつぶさに見ることができます。
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0847日本@名無史さん2017/02/19(日) 20:45:15.39
この物語の始まりは永正十四年(1517)六月二十日であるが、当時の御所は青烏帽子ノ源八というあぶれ牢人が根城にしていた。
紫宸殿も宣陽門も荒れ放題に荒れていたのだが、いつのまにか将軍宣下ができるまでに整備されていたんだな。

0848日本@名無史さん2017/02/19(日) 20:50:47.74
ずいぶん早い時期から三好の侍が京の町をわがもの顔で闊歩していたから、内裏の修繕なんて朝飯前よ。

0849日本@名無史さん2017/02/19(日) 20:58:25.48
★本圀寺

▽本圀寺
昭和46年以降は、京都市山科区にある日蓮宗の大本山(霊跡寺院)である。
この物語の当時は、六条堀川にあった。
日蓮宗四世日静は光明天皇より寺地を賜り、六条堀川に移転した。寺地は北は六条坊門(現五条通り)、南は七条通り、東は堀川通り、西は大宮通りまでの範囲を占めた。
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0850日本@名無史さん2017/02/19(日) 21:01:53.59
▽管領
室町幕府における将軍に次ぐ最高の役職。将軍を補佐して幕政を統轄した。
足利氏一門の斯波氏・細川氏・畠山氏の三家が交代で就任し、「三管領」「三職」と称された。
これと侍所頭人(所司)に任じられた四職(赤松氏・一色氏・京極氏・山名氏)を合わせて「三管四職」と呼ぶ。

0851日本@名無史さん2017/02/19(日) 21:14:38.42
★東福寺

▽信長の宿館
細川藤孝が信長を訪ねた時の信長の宿は、筆者にもわからない。
芥川城の細川昭元、三好長逸(三好三人衆)を攻めて追い出した後は、信長は足利義昭とともに芥川城に入城して本営としていた。
松永久秀が名茶器である「九十九髪茄子」を献上し臣下についたのは、この芥川城在城時である〔>>823〕。
池田勝正の摂津国池田城を攻め降伏させた信長は〔>>843〕、10月14日に京都に凱旋した。
足利義昭も京都に戻り、本國寺に入った。さらに信長は細川昭元の屋敷を足利義昭の御殿に定めた。
信長自身は、おそらく東福寺のままだと思う。

0852日本@名無史さん2017/02/19(日) 21:15:47.54
永禄の頃はまだ引越しのサカイがないから、引越しは面倒だ。
東福寺のままでいい。

0853日本@名無史さん2017/02/19(日) 21:24:14.04
★本圀寺

▽大津、草津、堺への代官設置
信長は10月2日、摂津、和泉に矢銭を課した。石山本願寺が礼銭五千貫、法隆寺が防築銭千貫余に対し、堺は二万貫という巨額の矢銭である。
信長の威嚇的な矢銭の強要に対し、堺衆は断固拒否し、南北両荘一致して防戦の用意をした。
城楼をあげ、掘を堀り、北の口々に樋を埋めて、矢銭の徴収を延期させようと計ったのである。
ところが信長は正面からこれと戦うことをせず、京都に引きあげ、将軍義昭に対し、大津、草津と堺に代官を置くことを願ったと伝えている。
こうして20日もすると、堺は平静に帰したらしい。

0854日本@名無史さん2017/02/19(日) 21:27:23.56
このように信長の態度が軟化したかげには、和平派の今井宗久の決死的な嘆願のあったことを考えねばならぬ。『原本信長記』によると、信長が永禄11年10月2日、摂津の西成郡茂河に陣を張ったとき、今井宗久は天下にかくれなき松島という茶壷その他を献上した。
10月2日といえば、信長が矢銭を和泉にかけた日である。
今井宗久は10月27日、明智光秀にあてて手紙を送っているが、それによると、宗久が信長に堺南荘の実情を説明した結果、信長がこれを了解し、堺衆と会見することになったという。
今井宗久が信長に会うことのできたのは、信長の入京にあたっていち早く信長に接近した松永久秀の推挙があったからである。

0855日本@名無史さん2017/02/19(日) 21:36:35.14
▽義昭参内
10月22日、足利義昭はお礼言上の為に参内し、正親町天皇に太刀・馬などを献上した。
通常昇殿を許されるのは従三位までで、従四位下の官位ながら昇殿を許された義昭は異例であった。
信長はもちろん昇殿を許されていない。

0856日本@名無史さん2017/02/19(日) 21:38:39.48
▽観世太夫
観世流の始祖の観阿弥が、初代の観世太夫。
太夫とは、ある種の芸能人の称号あるいは敬称で、観世、金春、宝生、金剛の四座の家元をそれぞれ太夫と称し、観世太夫、金春太夫などという。

0857年表2017/02/19(日) 22:12:17.11
永禄11年9月29日……織田信長が、三好三人衆の一人岩成友通が守る勝竜寺城に攻め寄せる。
永禄11年9月29日……足利義栄が、織田信長に追われて摂津から逃げる途中で病死。享年31歳。
   織田信長が足利義昭と伴に上洛した頃、斎藤竜興は三好三人衆とともに行動していた〔>>520-521〕。
永禄11年9月30日……織田信長、山崎に着陣。
   芥川城の細川昭元・三好長逸、この日の夜に退散。越水城、滝山城も同じく退散。
永禄11年9月30日……織田信長、芥川城に足利義昭を動座させる。
   織田信長、芥川城に人数を入れ、五機内隣国の抑えとする。織田信長は10月14日まで芥川城に在城した。

0858年表2017/02/19(日) 22:13:00.43
永禄11年10月2日……織田信長、池田勝正が守る池田城へ攻め掛ける。池田勝正は降参し、人質を進上する。
永禄11年10月2日……織田信長が石山本願寺に対して5千貫文、堺南北荘に2万貫文の矢銭を課す。
   石山本願寺はこれに応じたが、堺は拒否して三好三人衆の力を頼みつつ、町の周辺に濠を掘り、櫓を建てて浪人を雇い入れる。
永禄11年10月14日……足利義昭、勝竜寺城以下、芥川城・越水城・滝山城など摂津の諸城を落としたことを知り、芥川城から京都に帰洛する。
   織田信長、芥川城より帰洛し、清水寺に逗留する。

0859日本@名無史さん2017/02/19(日) 22:14:02.16
>>851
>信長自身は、おそらく東福寺のままだと思う。

清水寺です。

0860年表2017/02/19(日) 22:14:32.38
永禄11年10月18日……足利義昭が、征夷大将軍に就任し、第15代室町幕府将軍となる。この時義昭32歳。
永禄11年10月22日……足利義昭、征夷大将軍補任の御礼のため参内する。
   この際、細川右馬頭藤賢・上野佐渡守信忠・一色式部小輔藤長・細川兵部大輔藤孝・三淵弥四郎秋豪・上野中務大輔秀政・和田伊賀守惟政らが巵従した。
永禄11年10月24日……足利義昭、織田信長の功を賞するため、管領斯波家の家督をさずけようとするものの、織田信長はこれを断る。
永禄11年10月26日……織田信長、岐阜へ戻るため、京都を出発。
   この際、京都には佐久間信盛・村井貞勝・丹羽長秀・明印良政・木下秀吉ら五千ばかりを残す。

0861日本@名無史さん2017/02/19(日) 22:25:46.15
京都留守居の将領たち
▽佐久間信盛:安藤三男 司馬遼太郎 Part6 [無断転載禁止]©2ch.netYouTube動画>2本 ->画像>863枚
▽丹羽長秀:北村晃一 司馬遼太郎 Part6 [無断転載禁止]©2ch.netYouTube動画>2本 ->画像>863枚
▽木下藤吉郎:火野正平 司馬遼太郎 Part6 [無断転載禁止]©2ch.netYouTube動画>2本 ->画像>863枚

0862日本@名無史さん2017/02/19(日) 22:29:44.63
▽村井貞勝
出身は近江国。生まれた年は不詳だが、永正17年(1520年)頃かそれ以前だと考えられる。
行政手腕に長けていたため、織田信長から厚い信任を受けて、早期より重用される。
天正元年(1573年)7月、信長より京都所司代に任ぜられる。

0863日本@名無史さん2017/02/19(日) 22:30:42.82
>>860
明印良政じゃなくて、明院良政だよ。
信長の近臣。右筆だが、各方面の奉行も務めている。

0864日本@名無史さん2017/02/19(日) 23:01:13.31
次章は、本圀寺の変だ。

0865国盗り物語2017/02/20(月) 10:29:39.43
第49章 洛中合戦

この変報を岐阜できいた信長がいそぎ京に入ったのは、事変発生後五日目の永禄十二年正月十日であった。
すぐ残敵を掃討し、乱しずまるや、論功行賞をおこない、光秀の武功を第一等とした。
光秀の織田家における位置は、この一戦をさかいに飛躍的に重くなったといっていい。

0866日本@名無史さん2017/02/20(月) 10:40:25.98
★本圀寺の変

▽永禄12年(1569年)1月5日
織田信長本隊は、義昭の本國寺の警護を明智光秀を中心とする近江、若狭の国衆に託して、前年の10月26日に美濃へ帰国した。
手薄となった畿内の織田勢の隙をついて、義昭を討たんとする三好三人衆に、流浪していた斎藤龍興らも加勢して本國寺を襲撃したことから、戦闘が始まった。

0867日本@名無史さん2017/02/20(月) 10:52:27.56
▽三好長閑
三好政康(宗渭)……三好三人衆のひとり。司馬は隠居名を長閑としているが、釣竿斎宗渭(ちょうかんさい そうい)の誤り〔>>325〕。
司馬さんの三好一族に関する叙述は間違っていると、頭から疑ってかかったほうがよいです。わやくそです。
なお、政康という名は一次資料には一切見られず、『細川両家記』の誤謬が伝播したものといわれ、一次史料によれば本名は政勝、政生(まさなり)となっている。
永禄11年(1568年)9月、織田信長が足利義昭を擁立して上洛してくると、城主であった山城木津城から退いた。

0868日本@名無史さん2017/02/20(月) 10:58:47.49
▽三好日向守
三好長逸(ながやす / ながゆき)……三好三人衆の筆頭格。
永禄11年(1568年)9月、織田信長が足利義昭を擁立して上洛してくると、長逸は細川昭元とともに芥川山城に籠城したが、あえなく阿波へ退散した。

0869日本@名無史さん2017/02/20(月) 11:09:50.75
▽三好下野守
三好康長(笑巌)……阿波国主の三好実休に仕えて、篠原自遁・加地盛時と共に実休の家臣として活動した。
司馬は下野守としているが、官位は山城守なので誤り。
なお、>>867の三好政康(宗渭)が「下野守政生(まさなり)」と一時期称しているが、三好康長の隠居名は笑巌であって、釣竿斎でも長閑でもない。
永禄11年(1568年)9月、織田信長が足利義昭を擁立して上洛してくると、10月2日に摂津越水城を放棄した篠原長房らと共に阿波へ落ち延びた。

0870日本@名無史さん2017/02/20(月) 11:15:20.06
司馬さんは、三好長閑を戦さ上手の総指揮官のように書かれているから、>>867の三好長閑=三好笑巌だと思うよ。
笑巌という名が覚えやすかったのか、司馬さんは三好長慶没後の三好一族の中心人物を笑巌とすることが多い。
笑巌を三好三人衆のひとりにしたり〈>>327〉、本章のように三人衆の上位に置いたりする。

0871日本@名無史さん2017/02/20(月) 11:17:06.05
三好長閑……三好康長(笑巌)
三好日向守……三好長逸
三好下野守……三好政康(宗渭)

0872日本@名無史さん2017/02/20(月) 11:44:23.04
▽篠原玄蕃
篠原長秀……篠原自遁〔>>869〕の子。
篠原自遁・篠原玄蕃父子は、司馬さんが本圀寺の変に参陣しているというのだから参陣しているのだろう。
もうどうでもよくなった。

0873日本@名無史さん2017/02/20(月) 11:46:43.18
▽奈良左近
当時天下にひびいた三好党の豪傑らしいですぜ。知らん。

0874日本@名無史さん2017/02/20(月) 11:49:18.94
「奈良」の筒井順慶に仕えていた「島左近」にインスピレーションされた創作名称なんでしょうかね。

0875日本@名無史さん2017/02/20(月) 12:03:36.83
史実によれば、本圀寺の変は、実休の家臣であった三好笑巌ごときの戦ではなく、山城・摂津を一時的に放棄した三好三人衆の戦です。
したがって、勝竜寺城の戦いに敗れた岩成友通も参陣しています。

0876日本@名無史さん2017/02/20(月) 12:04:09.83
>>872
篠原自遁・篠原玄蕃父子は、この戦いには参陣していません。
司馬さんは、越水城を放棄して阿波へ落ち延びた篠原長房を「篠原玄蕃」と勘違いされたのだと思います。
篠原長房は、自遁の兄、玄蕃の伯父にあたる人物です。

0877日本@名無史さん2017/02/20(月) 12:04:45.41
美濃を奪われた斎藤龍興のほかに、武田氏に信濃を奪われた守護小笠原長時の弟・小笠原信定も参陣しています。
なお、阿波三好氏は、信濃源氏の一族で、鎌倉時代の阿波守護・小笠原氏の末裔です。
つまり、三好は小笠原の遠い分家。

0878日本@名無史さん2017/02/20(月) 12:07:11.58
>>873-874
そこ、笑うところだよ。
司馬遼太郎は、忍法作家と呼ばれる前のデビュー直後は、ユーモア作家であった。

0879日本@名無史さん2017/02/20(月) 12:20:59.03
>>867
釣竿斎を長閑と書いたのも、笑うところなんですか?

0880coffee break2017/02/20(月) 12:26:21.66
昼めしじゃ。

0881日本@名無史さん2017/02/20(月) 13:13:49.73
▽籠城策
1月5日に三好勢は本國寺へ攻めかかり、明智光秀ら織田勢を中核とする義昭方は本國寺に立て籠った。
堅固ではない本國寺の陥落は時間の問題と思われたが、三好勢の先陣・薬師寺貞春の軍勢が、若狭国衆の山県源内、宇野弥七らの奮戦により、幾度も寺域への進入を阻まれた。
結局この日は、本國寺の陥落には至らぬまま日暮れとなったため、三好勢は兵を収めて翌日の戦闘に備えた。

0882日本@名無史さん2017/02/20(月) 13:16:44.16
▽所沢三助〈F〉
光秀の具足の草摺をつかんで姿勢を低くさせようとした家来あるいは与力の者

0883日本@名無史さん2017/02/20(月) 13:22:16.58
▽日静
南北朝時代の日蓮宗の僧。出身は駿河国。父は藤原北家の末裔上杉頼重、母は足利氏の娘と言われ、
姉の上杉清子が征夷大将軍・足利尊氏の生母であるため尊氏の叔父とされる。
暦応元年/延元3年(1338年)に上洛し、鎌倉本勝寺を京都六条堀川に移して本圀寺と改称した。

0884日本@名無史さん2017/02/20(月) 13:27:33.64
▽一切経
経・律・論の三蔵その他注釈書を含む仏教聖典を集成したものを「大蔵経」または「一切経」と呼びます。
インド発祥の仏教が中国へ伝わり、経典が漢訳されましたが、その大部分は、『大正新脩大蔵経』に収録されています。
足利義満〈1358-1408年〉が本圀寺に寄進した。

0885日本@名無史さん2017/02/20(月) 13:33:30.76
▽七条道場
金光寺……承平年間 (931-938) に空也が市姫の神勅により開基した。当初は、左京東市 (下京区七条堀川北西) にあった。
本尊は薬師仏を安置し、当初は天台宗だった。
現在は、京都市下京区本塩竈町にある時宗の寺院。
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0886日本@名無史さん2017/02/20(月) 13:40:16.25
▽半鐘
口径1尺8寸(約54.5cm)以上のものを梵鐘と呼び、それより小型のものを半鐘という。
高い音がするので、用途も仏事以外に火事などの警報目的で使われる。
大戸島ではゴジラの出現を半鐘で知らせた。
「半」は、半分というより「小」という感じですね。
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0887日本@名無史さん2017/02/20(月) 13:50:18.56
>>881
若狭国衆の活躍は、すべて光秀の活躍に変換されている。
小説では戦いは一日で終結しているが、史実では翌日に持ち越された。

0888日本@名無史さん2017/02/20(月) 13:50:36.87
▽細川藤孝……勝竜寺城から兵400の援軍
▽村井吉兵衛貞勝……北野天神から兵500の援軍。文官なのに、ご苦労なことです。
▽和田惟政……摂津芥川城から兵400の援軍

0889日本@名無史さん2017/02/20(月) 13:52:36.76
小説では、これらの諸将が三好勢を桂川まで押し詰めたところで、大津から丹羽長秀の援軍が駈けつけ、敵を一挙に潰走させている。

0890日本@名無史さん2017/02/20(月) 13:57:34.97
▼翌1月6日になると、細川藤孝や三好義継、摂津国衆の伊丹親興〔>>840〕、池田勝正〔>>843〕、荒木村重〈この時期はまだ池田勝正の家臣〉ら、急報を聞きつけた畿内各地からの織田勢の後詰を許してしまう。
このため、不利を悟った三好勢は退却を試みるも追いつかれ、足利・織田方の軍勢と桂川河畔で合戦に及んだ。
こちらの合戦は、優勢となった足利・織田方の勝利に終わり、三好方は客将となっていた小笠原信定〔>>877〕などが討死した。

0891国盗り物語2017/02/20(月) 16:14:41.83
第50章 九つの蛤

(九つの貝。九貝。……)
と反芻しているうちに、公界の意味だとわかってきた。
くがいというのはこの当時よく使われた言葉で、公、公式な場所、世間、世間体といった意味につかわれる。
「公界者」
といえば、世間に出してはずかしくない立派な男、という意味である。
(そのくがいが欠けている)
となれば、公界者の反対のことである。要するに、
「甲斐性なし」
という意味であろう。
――いまの将軍は馬鹿で、自分の住宅も他人に建ててもらっている。

0892日本@名無史さん2017/02/20(月) 16:20:48.70
★本圀寺

▽神速
1月6日、信長は岐阜で「本國寺が襲撃された」という報告を受けた。天気は大雪だったが信長は直ちに出立し、本来3日かかる行程を2日で走破した。
1月8日に10騎足らずの供を連れて本國寺に到着した。非常な寒さと急な出立により、信長配下の陣夫などには凍死者が数人出たという。

0893日本@名無史さん2017/02/20(月) 16:30:37.32
▽織田家の三老
筆頭家老:柴田勝家……大永2年(1522年)生まれ
林通勝(秀貞)……幼少の信長に付けられた一番家老
佐久間信盛……享禄元年(1528年)生まれ
以上の三名を「織田家の三老」というらしい。初めて聞いた。

0894日本@名無史さん2017/02/20(月) 16:36:17.84
▽二条ノ御所〔>>304
勘解由小路室町にある。今回もまた、司馬さんは「かげゆこうじ」と読み間違えている。
一度間違えて覚えると、その記憶は消えにくい。正しくは「かでのこうじ」である〔>>326〕。

0895日本@名無史さん2017/02/20(月) 16:37:45.84
長男の信忠は、二条ノ御所で自刃する。

0896日本@名無史さん2017/02/20(月) 16:47:23.02
▽新室町御所
本國寺に入った信長は、戦功のあった池田衆の池田正秀らを賞した後、本國寺防衛の脆弱性を危惧して、二条城の造営を開始することになった。
なお、二条城の建設には本國寺の建築物が解体・再組み立てされて用いられたという。

0897日本@名無史さん2017/02/20(月) 16:51:28.32
▽村井民部
村井貞勝〔>>862〕……室町御所建設奉行。官位は民部少輔、長門守。
本能寺の変では本能寺向かいの自邸にいたが、信長の嫡男・織田信忠の宿所の妙覚寺に駆け込んだ。
信忠に二条新御所への移動を提言し、同じく駆けつけた他の織田家臣らとともに、二条新御所に立て籠もって明智軍に抗戦したが、信忠とともに討死した。

0898日本@名無史さん2017/02/20(月) 16:54:16.09
▽島田新之助
村井貞勝とともに室町御所建設奉行となる。

0899日本@名無史さん2017/02/20(月) 16:59:01.39
★二条御所

▽真正極楽寺
京都市左京区にある天台宗の寺院で通称は真如堂である。
現在の場所に再建されたのは、元禄6年(1693年)であるから、物語当時は中京区二条通にあったのだろう。
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0900日本@名無史さん2017/02/20(月) 17:10:27.61
▽二条御所
京都御所の西側、現在の平安女学院大学の一帯には、織田信長が築いた二条城がかつて存在した。
その範囲は、北側が出水通、南側が丸太町通付近、西側が新町通付近、東側が烏丸通あるいは東洞院通付近(現在の京都御苑の中)までと推定されている。
平安女学院大学の敷地の一角には、「旧二條城跡」と彫られた小さな石碑が建てられている。
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※平安女学院大学の女子大生のみなさん
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0901日本@名無史さん2017/02/20(月) 17:13:18.69
▽慈照寺の庭
慈照寺の九山八海石は、信長が足利義昭のために二条御所に運び去った。
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0902日本@名無史さん2017/02/20(月) 17:15:27.66
▽三宝院の藤戸石
元は岡山県の藤戸の渡の川の中にあり、当時から有名であった。
これを足利義政が銀閣寺に運び、それを細川氏綱が運び出し、更に信長の二条城へ移り、秀吉が聚楽第に移し、最後に三宝院に落ち着いた。
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0903日本@名無史さん2017/02/20(月) 17:21:57.12
藤戸石は細川藤孝の旧邸から運び出したように書かれているが、ここは司馬氏の創作である。
史実では、細川藤賢の邸から運び出している。
細川藤賢は、>>902に書いた細川氏綱の弟である。ちなみに、細川氏綱は室町幕府最後の管領。
細川藤賢は、第13代将軍・足利義藤(後の足利義輝)に仕え、その偏諱を受けて藤賢と名乗る。
その後、足利義昭が15代将軍となると、京都に戻り義昭に仕えた。
京都に義昭の居城・二条城を作る際は。藤賢の屋敷の庭にあった「藤戸石」という名石が使われた。
この石を運ぶ作業の指揮は信長自らが行った。

0904日本@名無史さん2017/02/20(月) 17:30:42.37
▽一銭切
織田信長や豊臣秀吉が出した戦陣の禁制にみえる語で、乱暴、狼藉などを働いた者は「一銭切たるべし」と定めている。
その内容については江戸時代から二説ある。
その一つは新井白石の説で、たとえ1銭すなわち1文盗んでも死刑に処することを意味した、とする。
その二は伊勢貞丈の説で、「切」は限りを意味するとし、過料銭すなわち罰金を取り上げる場合、1文までも探して全財産を没収することと理解している。
司馬は、新井白石の説(通説)を採っている。

0905日本@名無史さん2017/02/20(月) 17:36:25.43
▽被衣(かつぎ)
平安時代以降、公家や武家の女性が外出時に頭からかぶって用いた単 (ひとえ) 。
かぶることを古語で「かづく」といい、かづく衣服であるので被衣という。
本来は「かづき」であるが、「かつぎ」でも間違いではない。
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0906日本@名無史さん2017/02/20(月) 17:39:27.54
▽相好を崩す
それまでの表情を変えてにこやかに笑い出すことをいいます。
もとは仏教用語で、仏の美しく立派な身体的特徴である「三十二相八十種好」を略した言葉だったが、それが後に顔つきや表情の意に転じたもの。
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0907日本@名無史さん2017/02/20(月) 17:59:37.90
▽永禄12年(1569年)4月14日
足利義昭、本圀寺から女子大生のいる二条御所に移転する。
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0908国盗り物語2017/02/20(月) 18:30:32.56
第51章 葉桜

「やはり、帰るのか」
と、義昭は、ほとんど涙声で叫んだのは、信長が暇乞いにやってきた四月二十一日のことである。
「都の花も済んだが、葉桜もまたひとしおの風情というのに、もう馬を返すのか」
「葉桜」
信長は、義昭の顔を穴のあくほどに見つめた。
「いまから伊勢征伐でござる」

0909日本@名無史さん2017/02/20(月) 18:40:55.89
★二条御所

▽お慶
足利義昭には正室はいなかったが、7人の側室がいた。
この小説に登場するお慶は、嫡子・足利義尋(ぎじん)を産んだ「さこの方」がモデルであると思われる。
さこの方は、この小説のように宇野氏の出であるとする説と、赤松氏の出であるとする説がある。
※お慶:木内みどり
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0910日本@名無史さん2017/02/20(月) 18:45:58.59
▽浦上氏
播磨国浦上荘を本拠地とした豪族の一つで、室町時代に入ると赤松氏の重臣として重代にわたって守護代を務めた。
戦国時代になると赤松氏が衰退するのを見て、浦上村宗は主君・赤松義村を下克上にて討ち、戦国大名として名乗りを上げた。
だが、村宗の死後、その後継者を巡って、その子である浦上政宗・宗景兄弟が争って、政宗は播磨に、宗景は備前国に根拠を置いて分裂することになる。

0911日本@名無史さん2017/02/20(月) 18:47:17.82
浦上政宗は播磨守護代として赤松氏を牛耳るが、永禄9年(1566年)に赤松政秀に襲われて滅亡する。
一方、弟の浦上宗景は赤松氏から自立して備前や美作国一帯に大勢力を築き、また織田信長と誼を通じるなどして最盛期を迎えたが、天正3年(1575年)に台頭してきた重臣の宇喜多直家によって宗景が追放されたため、滅亡した。

0912日本@名無史さん2017/02/20(月) 18:52:47.58
▽宇野氏
赤松家臣団の有力者には、宇野・佐用・小寺・別所などがあるが、やがて守護代浦上氏が実権を握っていく。

0913日本@名無史さん2017/02/20(月) 19:26:57.30
▽「側室にはいい女を」と、かれが光秀や藤孝にいったのは、義昭なりに理由はあったのである。いい女とは単に美人というだけではない。
義昭、ここへ行け。
【生活】見た目はタイプじゃないのに! なぜか惹かれる女子5選 [無断転載禁止]©2ch.net

0914日本@名無史さん2017/02/20(月) 19:28:54.45
▽上臈の局
江戸時代の大奥女中の役職名。単に上臈と称されることもある。
将軍や御台所への謁見が許される「御目見以上」の女中であり、大奥における最高位。

0915日本@名無史さん2017/02/20(月) 19:34:40.29
▽伊勢侵攻
伊勢は南朝以来の国司である北畠氏が最大勢力を誇っていたが、まず永禄11年(1568年)北伊勢の神戸具盛と講和し、三男の織田信孝を神戸氏の養子として送り込んだ。
更に北畠具教の次男・長野具藤を内応により追放し、弟・織田信包を長野氏当主とした。

0916日本@名無史さん2017/02/20(月) 19:39:57.95
そして翌永禄12年(1569年)8月20日、滝川一益の調略によって北畠具教の実弟・木造具政が信長側に転じると、信長はその日の内に岐阜を出陣し南伊勢に進攻、北畠家の大河内城を大軍を率いて包囲、篭城戦の末10月3日に和睦し、次男・織田信雄を養嗣子として送り込んだ(大河内城の戦い)。
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後に北畠具教は天正4年(1576年)に三瀬の変によって信長の命を受けた信雄により殺害される。こうして信長は、養子戦略により伊勢攻略を終える。

0917日本@名無史さん2017/02/21(火) 13:44:45.30
▼滝川一益
大永5年(1525年)、滝川一勝もしくは滝川資清の子として生まれたが、尾張国の織田信長に仕えるまでの半生は不明である。
甲賀出身という説の他に、婿の滝川雄利は伊勢国司北畠氏の一族木造氏の出身であること、長年伊勢攻略を担当し攻略後も北伊勢に広大な所領を与えられていることなどから、伊勢あるいは志摩出身とされる場合もある。

0918日本@名無史さん2017/02/21(火) 13:49:05.93
永禄3年(1560年)、一益は、北伊勢の桑名は美濃国との境であるため、桑名長島の地を得、北畠氏や関氏に対し備えることを信長に進言した。
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まずは尾張国荷ノ上の土豪で長島城主・服部友貞の資金によって蟹江城(愛知県海部郡蟹江町)を構築し、やがて友貞を放逐して蟹江城主となる。
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永禄6年(1563年)には松平家康との同盟交渉役を担う(清洲同盟)。

0919日本@名無史さん2017/02/21(火) 13:55:48.42
永禄10年(1567年)と同11年(1568年)の二度に渡る伊勢攻略の際には攻略の先鋒として活躍した。
源浄院主玄(後の滝川雄利)を通じ北畠具教の弟・木造具政を調略し、具教が大河内城(三重県松阪市大河内町城山)を明け渡した際には津田一安と共に城の受け取りを任され、戦後は安濃津・渋見・木造の三城を守備することを命じられた(大河内城の戦い)。
津田一安〔>>671〕は天正3年(1575年)頃から北畠氏の軍事行動を先導しており、一益と連携して越前一向一揆討伐や大和宇陀郡の統治を行っている。

0920日本@名無史さん2017/02/21(火) 13:59:25.81
▼北畠氏
伊勢北畠氏からは大河内氏、木造氏、坂内氏、田丸氏、星合氏、岩内氏、藤方氏、波瀬氏の諸氏が分かれ出て、それぞれ御所と称された。
木造御所は北畠庶流の筆頭であったが、木造御所の官位は北畠宗家・多芸御所を上回ることもあり、度々宗家と対立した。
その為、田丸御所・坂内御所・大河内御所の三家が北畠三御所となり、なかでも大河内氏は筆頭とされ、宗家が絶えたときは、これを継ぐ立場になった。

0921日本@名無史さん2017/02/21(火) 14:04:23.92
戦国時代に入ると、北畠晴具・具教父子が長野氏を従えるなど勢力を拡大し、最盛期を迎えた。
しかし具教の子・具房の代になると、伊勢国は度々織田信長の侵攻を受けるようになり、北畠家の旗下であった神戸氏、長野氏が次々織田家に服属した〔>>915〕。
永禄12年(1569年)、織田信長の侵攻を受け、信長の次男・織田信雄を北畠具房の養子とし、かつ先代・具教の娘・雪姫の婿に迎えた〔>>916〕。
信雄は天正3年(1575年)に北畠家の家督を相続する。

0922日本@名無史さん2017/02/21(火) 15:08:57.82
▼神戸具盛〔>>602 />>787
次男であった為仏門に入っていたが、永禄2年(1559年)に兄・神戸利盛が23歳で急死したため、還俗して家督を継ぐ。
当時の神戸氏は祖父の実家である北畠氏に属しており、父の長盛や兄の利盛は勢力拡大のため北伊勢や南近江にたびたび出征しており、元々の本家筋に当たる関氏や南近江の六角氏とは不和になっていた。
神戸具盛は当主になるとすぐに関氏当主・関盛信との関係を修復し、さらに六角氏重臣の日野城主・蒲生定秀の娘を娶り、その力を背景にしつつ戦争で疲弊した神戸氏の勢力の回復を図った。

0923日本@名無史さん2017/02/21(火) 15:14:43.95
永禄10年(1567年)、織田信長による北伊勢侵攻が始まると、具盛はよく防ぎ織田軍を撤退させた。
しかし永禄11年(1568年)再度信長軍が侵攻してくると、抗戦の利あらずとして、信長の三男・信孝を養子として迎えることで和睦した〔>>915〕。
その後、織田家の部将として転戦し、六角氏攻略の際(観音寺城の戦い)には、義兄である蒲生賢秀を降伏させるなどの手柄を立てる〔>>787〕。
しかし養子である信孝を冷遇していたため信長の怒りを買い、元亀2年(1571年)1月、具盛は蒲生賢秀に預けられ近江国日野城に幽閉を余儀なくされた。
神戸氏の家督は信孝が継承し、それに抗議した山路弾正忠をはじめとする一族や家臣の多くは殺害された。

0924日本@名無史さん2017/02/21(火) 15:19:44.44
▼長野具藤
天文21年(1552年)、伊勢北畠氏の当主である北畠具教の次男として生まれる〔>>921〕。
永禄元年(1558年)、父の具教が長野氏と和睦したとき、第15代当主・長野藤定の養子として送り込まれ、長野氏の家督を継承することとなる。
永禄11年(1568年)、織田信長が伊勢に侵攻して来ると、長野氏一族の細野藤敦と対立して内紛が発生し、具藤は藤敦に敗れて多芸城に逃亡した。
これにより長野氏は和睦派が主導権を掌握し、永禄12年(1569年)には信長に降伏し、信長の弟・信包を長野氏の当主として迎えたため、具藤は当主としての地位を失うこととなった。
天正4年(1576年)11月25日の三瀬の変で織田信雄の命をうけた土方雄久・津川義冬・日置大膳亮らによって田丸城において他の北畠一族もろとも殺害された。享年25。

0925日本@名無史さん2017/02/21(火) 15:24:31.94
▼木造具政〔>>916
享禄3年(1530年)伊勢国司を務めた北畠家の第7代当主・北畠晴具〔>>921〕の三男として生まれるが、木造具康の跡を継いで分家の木造家の当主となる。
永禄12年(1569年)5月に織田信長が伊勢国に侵攻して来ると、長兄・北畠具教に背いて信長に臣従し、北畠家の養嗣子となった信長の次男・織田信雄の家老となる。

0926日本@名無史さん2017/02/21(火) 15:29:53.92
▼北畠具教〔>>921
享禄元年(1528年)、第7代当主で参議の北畠晴具の長男として生まれる。
永禄6年(1563年)、嫡男の具房に家督を譲って隠居する。しかし北畠家の実権は依然として具教が握っていたようである。
永禄11年(1568年)、織田信長が伊勢国に侵攻し、神戸氏・長野氏など伊勢北中部の豪族を支配下に置いた。

0927日本@名無史さん2017/02/21(火) 15:30:05.22
そして、永禄12年(1569年)北畠領内への侵攻を開始した。
北畠軍は織田軍相手に奮戦したが、兵数に大きな差があり、具教の弟・木造具政が織田氏に寝返るなどの悪条件も重なり、次々と城を落とされた。
具教は大河内城(現在の三重県松阪市)に籠城して死守するも、50余日に及ぶ抵抗の末、遂に降伏した。
このとき、具教は降伏の条件として信長の次男・茶筅丸(のちの織田信雄)を具房の養嗣子として迎え入れることとなる。
具房にはまだ子がなかったため、具教の娘の雪姫が信雄(茶筅丸)に嫁ぐこととなった。

0928日本@名無史さん2017/02/21(火) 15:33:37.38
信長の台詞の中に一言出てくるだけの伊勢侵攻に時間かけすぎでねぇ?

0929国盗り物語2017/02/21(火) 15:47:57.16
第52章 秀吉

(闊達は無智のせいだ)
無教養な男ほどおそろしいものはないと光秀はおもっていた。藤吉郎が、主人信長の意を迎えることの機敏さ、ぬけめなさ、さらにはぬけぬけとしたお追従、それらも、無教養な者のみがもっている強さというものであろう。光秀にはとても真似はできない。
(あの男が)
やはり信長ほどの男でも追従ということは必要か、と光秀はおもった。

0930日本@名無史さん2017/02/21(火) 16:00:15.97
★二条御所

▽久我大納言
特定できない。久我通堅は永禄11年(1568年)に失脚している。
子の久我敦通は豊臣時代の武家伝奏として有名であるが、この時期、4歳の幼児である。

久我(こが)通堅……天文11年(1542年)に叙爵し、侍従に列する。
弘治2年(1556年)に源氏長者となる。
永禄11年(1568年)には解官された。京を出て和泉国堺に隠遁し、天正3年(1575年)に同地で薨去。享年35。

0931日本@名無史さん2017/02/21(火) 16:03:45.37
おそらく作者の脳内では、豊臣時代の武家伝奏として有名な久我敦通のつもりなんだろうな。
しかし、4歳の幼児では、どうにもならん。

0932日本@名無史さん2017/02/21(火) 16:09:10.01
▽京都代官
永禄12年(1569年)春、信長帰国のおりの京都守護を柴田でも丹羽てもなく、木下秀吉に命じたというので世人は篤いた。
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0933日本@名無史さん2017/02/21(火) 16:14:43.40
▽上野中務少輔
上野清信……室町幕府の幕臣である備中国鬼邑山城主・上野信孝の子。上野氏は河内源氏の流れを汲む足利氏の支流。
父・上野信孝は、明応2年(1493年)の明応の政変において将軍職を追われた足利義稙が復権した後、義稙の命を受けて西国へ下り備中鬼邑山城主となった。
その後、鬼邑山城に一門の上野高直、また備中松山城に上野頼久を封じるなど備中の要所を固めて帰洛し、再び幕府に近侍した。
以後、上野清信は父と共に室町幕府に奉公衆として出仕し足利将軍家に近侍することとなる。

0934日本@名無史さん2017/02/21(火) 16:18:25.85
義昭と信長が対立を深め、信長包囲網が信長の手によって崩されると、織田軍を前に上野清信は義昭の面前で徹底抗戦を訴え、降伏を唱える細川藤孝と口論に及んだという。
天正4年(1576年)、義昭が毛利氏を頼ると、清信は義昭と離れて織田信長に仕えた。これは、前年の天正3年(1575年)に備中の上野氏が毛利氏によって悉く攻め滅ぼされていたことによる。
本能寺の変以後は豊臣秀吉に仕え、馬廻となり文禄・慶長の役では秀吉に随行して肥前国名護屋城にあったという。
※上野中務少輔:北見治一
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0935日本@名無史さん2017/02/21(火) 16:20:20.64
▽円転滑脱
「円転」は丸く回る意。角立てずに滞りなく進むこと。「滑脱」はすべりぬける意。
言葉や行動が自在で角立たず、物事をすらすら処理していくさま。物事をそつなくこなすさま。

0936国盗り物語2017/02/21(火) 17:11:37.45
第53章 身の運

(幕府再興の望みも、去った)
光秀は顔を伏せながら思った。往年、幕府再興のためにあれほど奔走した自分が、いま皮肉にも「幕府を開くな」という誓約を義昭から取り付けている。
(すまじきものは宮仕えというが、まことに穿ち得たことばよ)
と思い、身の運を傷まざるをえない。

0937日本@名無史さん2017/02/21(火) 17:31:07.56
★秀吉

▼但馬出兵
永禄12年(1569年)5月に毛利元就が九州で大友氏と交戦(多々良浜の戦い)している隙をついて、同年6月に出雲国奪還を目指す尼子氏残党が挙兵し、山名祐豊がこれを支援した。
これに対して元就は信長に山名氏の背後を脅かすよう但馬国に出兵を依頼し、これに応じた信長は同年8月1日、秀吉を大将とした軍2万を派兵した。
秀吉はわずか10日間で18城を落城させ、同年8月13日には京に引き上げた。
この時、此隅山城にいた山名祐豊は堺に亡命したが、同年末には一千貫を礼銭として信長に献納して但馬国への復帰を許された。

0938日本@名無史さん2017/02/21(火) 17:45:57.08
▽伊勢征伐 / 大河内城の戦い
永禄12年(1569年)8月20日、上洛戦を終えて美濃に戻っていた信長は、総勢7万といわれる大軍で岐阜を出陣。23日、木造城に着陣した〔>>925〕。
北畠軍は既に木造城の囲みを解いており、天険の要害である大河内城とその支城に籠城した。北畠軍の兵数は約8千であったといわれる〔>>927〕。
8月26日、織田軍の木下秀吉が阿坂城を攻撃して落城させる。信長は他の支城は放置し、大河内城へ向かった。
8月28日、織田軍は四方より大河内城を包囲し、城の周囲に鹿垣を二重三重に作った。

0939日本@名無史さん2017/02/21(火) 17:46:13.64
9月8日、信長は丹羽長秀・池田恒興・稲葉良通に夜討ちを命じる。しかし雨が降り出して鉄砲が使用不能になったため後退した。
翌9月9日、信長は兵糧攻めを狙い、滝川一益に命じて多芸城を焼き討ちさせる。さらにその近辺にも放火し、住民を大河内城へと追い込んだ。
この後、1ヶ月ほど間が空く。滝川一益が魔虫谷から攻め込んだが失敗に終わったというが、詳細は不明である。

0940日本@名無史さん2017/02/21(火) 17:46:31.60
10月3日、織田家と北畠家は和睦した。この時の和睦の条件は、
@信長の次男である茶筅丸(織田信雄)を北畠具房の養嗣子とすること。
A大河内城を茶筅丸に明け渡し、北畠具房、北畠具教は他の城へ退去すること。
という、織田側に有利なものであった。

0941日本@名無史さん2017/02/21(火) 17:51:23.75
▽村井貞勝〔>>862 / >>897
▽朝山日乗
出雲国朝山郷の領主で尼子家臣だった朝山慶綱の子とされる。これらの事から出雲国出身で尼子氏の関係者であったと推測される。そのほか、比叡山で学んでいた時期もあるという。
荒廃した皇居の修理費を勧進する念願を上奏し、後奈良天皇から日乗上人の号を賜ったという。

0942日本@名無史さん2017/02/21(火) 17:55:01.10
山口に着いた朝山日乗は毛利氏に気に入られ、日蓮宗の小さな僧院を建立した。
建立の資金は、かつての遍歴中、唐物の金襴の布着れを「天皇からたまわった天皇自身の衣服だ」と偽って販売して得たものだったという。

0943日本@名無史さん2017/02/21(火) 17:56:56.25
その後、京に移った日乗は、松永久秀と三好三人衆の戦いに介入しようとし、毛利氏からの書状を久秀に届けようとして三好方の間諜に捕まった。
三好家臣である篠原長房〔>>876〕は日乗を堺に監禁した。
首に鎖をつけ、両袖に一本の長い木を通し、手首をその木に縛り付けて磔のような格好にし、与えられる食事もわずか、という状態で100日以上も過ごさせたという。
だが日乗はこの状態にありながら弁舌をもって周囲の人を動かし、法華経8巻を入手して近隣の人々に読み聞かせ、施しを得ていた。

0944日本@名無史さん2017/02/21(火) 17:58:11.05
永禄11年(1568年)、織田信長が上洛すると三好三人衆は退却し、日乗は自由の身となった。
日乗の罪状は勅命によって許され、4月16日に参内して朝廷に礼物を献上したという。
7月10日には近衛前久邸で法華経の講釈をしている。これを機に日乗は信長に接近していく。

0945日本@名無史さん2017/02/21(火) 18:03:10.85
永禄12年(1569年)1月、征夷大将軍となった足利義昭は、毛利元就と大友宗麟を和睦させようとし、松永久秀もこの動きに協力する〔>>937〕。日乗は久秀の使者として吉川元春の元に赴いている。

0946日本@名無史さん2017/02/21(火) 18:03:31.19
永禄12年(1569年)春、信長によって村井貞勝とともに皇居の修理を命じられているが、フロイスによれば日乗はこの頃から「すでにあらゆる諸貴人に知られていた」という。

0947日本@名無史さん2017/02/21(火) 18:04:43.72
4月19日、日乗は信長にキリスト教宣教師の追放を進言した。だがこれに先立つ4月8日、信長はすでに宣教師に滞在と布教を許可した朱印状を与えており、却下された。朝山日乗は、一貫して宣教師と敵対したため、「日本のアンチキリスト」とフロイスに評された。
朝山日乗は、天正5年9月15日(1577年)まで存命した。

0948日本@名無史さん2017/02/22(水) 05:46:01.28
★二条御所

▽黄楊
つげ……ツゲ科ツゲ属の常緑低木。日本の固有変種。
主に西日本の暖かい地域に分布し、伝統的に細工物の材木として貴重とされる。
※私達が「つげの木」と呼んで昔は櫛していたツゲの木ですが多くはこの「イヌツゲ」をツゲと呼んでいるようです。
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0949日本@名無史さん2017/02/28(火) 16:19:39.70
▽豊後の大友氏、安芸の毛利氏には蜜のごとく濃厚な態度で申し送った。
>>937>>945で述べた大友・毛利の多々良浜の戦いを、足利義昭が朝山日乗を使って和睦させようとした件。
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多々良浜の戦いは大友氏の勝利に終わり、毛利氏は北九州から撤退した。
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0950日本@名無史さん2017/02/28(火) 16:31:53.35
★妙覚寺

▽永禄12年(1569年)12月11日
伊勢平定の報告のため、信長上洛

0951日本@名無史さん2017/02/28(火) 16:34:00.31
▽京都御所
村井貞勝は、朝山日乗とともに皇居の修理を命じられている〔>>946〕。

0952日本@名無史さん2017/02/28(火) 16:40:30.39
将軍に就任した義昭は、義輝暗殺及び足利義栄の将軍襲職に便宜を働いた容疑で近衛前久を追放し、二条晴良を関白職に復職させた。
近衛家は義昭の生母であった慶寿院以来、将軍の御台所を輩出してきたが、前久追放による関係の冷却化によって正室を迎えることが出来なくなった。

0953日本@名無史さん2017/02/28(火) 16:40:43.29
▽永禄13年(1570年)正月23日
信長は将軍権力を制約するために、永禄12年(1569年)1月14日、殿中御掟という九箇条の掟書を義昭に承認させた。
さらに永禄13年(1570年)1月には五箇条が追加され、義昭はこれも承認した。

0954国盗り物語2017/02/28(火) 17:50:51.80
第54章 梅一枝

「光秀、顔が蒼い」
「さ、左様、茶に中傷り申したのでありましょう」
光秀は言いおわって、懐紙をとりだした。唇を、ゆっくりとぬぐった。
目の前の床の暗がりに一枝、白梅が活けられている。
花は五輪であった。
(義昭か、信長か。……)
どちらかを裏切ることなしに、光秀は今後を生きつづけることはできないであろう。

0955日本@名無史さん2017/02/28(火) 20:01:44.16
★二条御所

▽元亀
永禄の後、天正の前。1570年から1573年までの期間を指す。
この時代の天皇は正親町天皇。室町幕府将軍は足利義昭。
永禄13年4月23日(1570年5月27日) 戦乱などの災異のため改元。
元亀4年7月28日(1573年8月25日) 天正に改元。

0956日本@名無史さん2017/02/28(火) 20:03:31.27
▼元亀元年(1570年)
6月28日 - 姉川の戦い
8月26日 - 野田城・福島城の戦い……織田信長と石山本願寺との10年余に亘る抗争の発端

0957日本@名無史さん2017/02/28(火) 20:05:09.78
▼元亀2年(1571年)
2月から4月 - 甲斐国の武田氏による大規模な三河・遠江侵攻
5月 - 信長、伊勢長島の一向一揆を攻める。
9月12日 - 織田信長、延暦寺を焼き討ちにする(元亀の法難)。
12月17日 - 甲相同盟回復。

0958日本@名無史さん2017/02/28(火) 20:07:02.90
▼元亀3年(1572年)
5月4日 - 島津義弘が真幸院にて伊東軍3,000を300の寡兵で破る(木崎原の戦い)。
7月 - 信長、近江に浅井長政を攻める。
秋 - 甲斐の武田氏による西上作戦を発動。三河の徳川領を北・東の二方面から同時侵攻。
12月22日 - 徳川家康、遠江三方ヶ原の戦いで武田勢に大敗。

0959日本@名無史さん2017/02/28(火) 20:08:03.23
▼元亀4年(1573年)
2月 - 三河野田城、武田信玄に降伏。
4月 - 武田氏は西上作戦の途上で三河から撤退し甲斐へ帰国。信玄は帰途の信州で死去。
7月 - 信長、足利義昭を放逐、室町幕府の滅亡。

0960日本@名無史さん2017/02/28(火) 20:39:11.45
▽反織田同盟……第一次包囲網
本願寺(摂津、加賀) - 元亀元年(1570年)10月30日に和睦。
雑賀衆(紀伊) - 本願寺を支援。
六角義賢(近江) - 元亀元年(1570年)11月に和睦。
三好三人衆(摂津) - 元亀元年(1570年)11月21日に和睦。
荒木村重(摂津) - 三好三人衆の上陸を支援。
浅井長政(近江) - 元亀元年(1570年)12月に和睦。
朝倉義景(越前) - 元亀元年(1570年)12月に和睦。
延暦寺(近江) - 包囲網瓦解後も信長と対立を続ける。
筒井順慶(大和) - 信長方の松永久秀と対立を続ける。

0961日本@名無史さん2017/02/28(火) 20:48:45.86
▼朝倉家の上洛拒否
越前は美濃と京都間に突き出た槍という位置にあるため、信長は朝倉義景を服属させる必要があった。
そこで信長は、朝倉義景に対して2度にわたって上洛を命じる。しかし、信長に臣従することを潔しとしない朝倉家は上洛を拒否する。
このことは、義景に叛意ありとして越前出兵の口実を与えることになり、永禄13年(1570年)4月20日、義景は織田信長・徳川家康の連合軍に攻められることになる。

0962日本@名無史さん2017/02/28(火) 20:52:04.71
予習しているのかw?

0963日本@名無史さん2017/02/28(火) 22:25:41.75
▽下久世荘
山城国乙訓郡の荘園……京都市南区

0964日本@名無史さん2017/02/28(火) 22:31:50.99
★大津

▽福富平左衛門〔>>731-732
そろそろ世代交代が進んできていますな。
福富平太郎〔>>730〕の子が平左衛門。

0965日本@名無史さん2017/02/28(火) 22:52:59.72
★明智邸

▽旧三好長慶邸
光秀のこの屋敷は、かっては三好長慶の屋敷であった。もともと広壮であったうえに、光秀が手を入れてさらに立派な屋敷になっている。

0966日本@名無史さん2017/02/28(火) 23:00:15.48
★二条御所

▽石山合戦
本願寺は京都山科を本拠としていたが、一向一揆を背景として本願寺の影響力が強くなると、その武力を恐れた細川晴元は、日蓮宗徒の法華一揆らと結託し、天文元年(1532年)8月に山科本願寺を焼き討ちした(天文の錯乱)。
これにより山科は廃墟となり、本願寺は本拠を新たに定めなければならなくなった。
本願寺は当時、加賀に大きな勢力を持っていたが、加賀は信者の往来には不便であり、京都からも遠かった。
また、山科焼失の前年に大小一揆と呼ばれる本願寺一門内の内戦を加賀で起こしており、現地の門徒の間には本願寺への不信感があった。
そこで10世法主証如は京都に近く、交通の便の良い大坂御坊を本願寺の本拠とし、石山本願寺と改称した。
こうして、石山本願寺は本願寺の本拠として発展した。

0967日本@名無史さん2017/02/28(火) 23:02:19.04
永禄11年(1568年)に織田信長が足利義昭を擁して上洛に成功した。信長は上洛してすぐに畿内をほぼ制圧した。
信長は教行寺など畿内の本願寺系末寺に矢銭を要求し、応じない場合には取り潰しなどの措置をおこなった。
本願寺には「京都御所再建費用」の名目で矢銭5000貫を請求し、顕如はこれを支払った。

0968日本@名無史さん2017/02/28(火) 23:04:33.00
永禄12年(1569年)半ばから、信長と義昭との仲はだんだんと険悪になって行った。
この年の9月、信長は三好氏征伐を決行する。当時、義昭によって京都を追われ、石山本願寺を頼っていた近衛前久〔>>952〕は、顕如に三好氏支援を進言した。
ただし、前久は朝廷内・幕府内での対立関係からくる義昭の排除が目的であり、織田氏と直接の利害関係はなかったようである。
その証拠に信長が義昭を追放した後、近衛は京都に帰還し、一転して信長派の中心人物となっている。

0969日本@名無史さん2017/02/28(火) 23:09:03.59
司馬さんは、足利義昭が本願寺を対信長戦に踏みきらせたように書かれているが、誤りである。
本願寺を対信長戦に踏み込ませたのは、近衛前久である。
近衛前久は、義昭によって失脚させられており、義昭を排除するために、義昭追討を目的とする三好党と本願寺を組ませた。
つまり、前久は本願寺に義昭を討伐させようとしたのであり、義昭が信長を討伐するために本願寺を動かしたなどとは、間違いも甚だしい。

0970日本@名無史さん2017/02/28(火) 23:14:44.52
▽五輪の白梅
梅の花弁が5枚であるのは、ごくあたりまえのことで、珍しいものではない。
まれに花弁が6枚の梅がある。これは珍しい。
どうして「花は五輪であった」とわざわざ書かれたのか、意味がわからない。
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0971日本@名無史さん2017/03/01(水) 15:10:46.80

0972国盗り物語2017/03/01(水) 20:02:49.19
第55章 遊楽

信長は、天下を油断させた。
その数日後に京を発し、琵琶湖畔を急進し北へむかい、越前に入り、朝倉方の手筒城を攻撃し、京で能興行をした翌日から十日目にその城を奪い去っている。
(なるほど琵琶湖畔や京での遊楽は、こういうこんたんがあってのことか)
と、軍中で立ちはたらいている光秀でさえ敵城を攻撃しながら、それをおもうと呆然たる思いがした。
信長は、義昭を責めず、義昭がたよりにしている越前朝倉氏を討ちとろうとしたのである。

0973日本@名無史さん2017/03/01(水) 20:08:14.70
★明智邸

▽明智弥平次光春
天文6年(1537)生まれなので、33歳になる。
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0974日本@名無史さん2017/03/01(水) 20:15:31.07
朝山日乗〔>>941-947〕は、配役されていたよ。鈴木昭生(しょうせい)さん。
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0975日本@名無史さん2017/03/01(水) 20:22:48.91
★岐阜城

▽福富平左衛門〔>>964
国盗り物語では誰が演じていたか忘れたが、徳川家康では相沢治夫。
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0976日本@名無史さん2017/03/01(水) 20:27:56.70
▽三河殿
徳川家康は幼名を竹千代と言い、元服して松平元信と名乗ります。
今川人質時代に元服したため、主君である今川義元の名前を一字もらって元信と名乗ったのです。
その後、築山殿を正室に迎えると今度は松平元康と名乗ります。
康の字は弱小豪族だった松平家を中興した祖父の松平清康から取ったと言われています。

0977日本@名無史さん2017/03/01(水) 20:29:54.04
永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、松平元康は今川氏の混乱をついて岡崎城に入城し、今川氏真と決別します。そして、信長との間に結ばれたのが清洲同盟ですが、この時に義元から貰った元の字を捨てて、元康から家康へと改名します。

0978日本@名無史さん2017/03/01(水) 20:32:38.19
司馬さんは、家康が松平姓を徳川姓に改めたのは、「去年=永禄12年」としている。
例によって、大ウソである。
勅許され徳川氏に改姓したのは、永禄9年12月29日のことである。

0979日本@名無史さん2017/03/01(水) 20:33:56.38
もしかしてウソをつく病気じゃないの?
改姓の年なんて調べればすぐに判明するのに……。

0980日本@名無史さん2017/03/01(水) 20:46:37.99
▽浜松城
永禄11年(1568)、三河から東進し、今川領の制圧を開始した徳川家康。
家康は、駿府に攻め込んできた武田信玄の侵攻に備え、遠州一帯を見渡せる三方ヶ原の丘に着目しました。
天下を盗るためには、まず信玄を倒さなければならないと判断した家康は、元亀元年(1570)、岡崎城を長男の信康に譲り、三方原台地の東南端に浜松城を築城、駿遠経営の拠点としました。

0981日本@名無史さん2017/03/01(水) 20:55:25.71
▼駿河侵攻
天文6年(1537年)、信虎の娘定恵院が今川義元の正室となり婚姻同盟を結んだ〔甲駿同盟〕。
甲駿同盟の成立は今川・北条間で駿河富士郡抗争を生んでいたが(河東一乱)、武田氏は天文13年(1544年)に北条氏と甲相同盟を結ぶと今川・北条間の仲人を務め、三国の同盟関係は甲相駿三国同盟へと発展する。
武田は三国同盟を背景に信濃侵攻を本格化させ越後上杉氏と対決し(川中島の戦い)、今川は西三河地方において尾張の織田氏と抗争し、北関東において上杉と対決していた北条は甲相同盟に基づき武田と相互に出兵するなど、それぞれが同盟を背景とした軍事行動を展開した。

0982日本@名無史さん2017/03/01(水) 20:56:13.58
武田の信濃侵攻は永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いを契機として一段落する。
この頃には西上野侵攻の開始や、永禄8年(1565年)には諏訪勝頼の正室に織田信長の養女を迎え同盟を結ぶなど対外方針に変化が生じ、三国同盟は形骸化しはじめる。

0983日本@名無史さん2017/03/01(水) 20:56:54.67
一方の今川では永禄3年(1560年)に義元が尾張侵攻の途上桶狭間の戦いにおいて敗死し、氏真が当主になると三河国の松平元康が織田氏と結んで離反するなど領国の動揺を招いていた。
武田では永禄10年(1567年)に義元の娘嶺松院を正室に迎えていた嫡男義信が廃嫡される事件が起こり(義信事件)、嶺松院が駿府へ送還され甲駿関係は険悪化する。
同年3月の寿桂尼死後には今川家臣への調略や徳川氏への接近が行われており、同年12月には、武田氏は駿河への侵攻を開始した。

0984日本@名無史さん2017/03/01(水) 21:04:11.18
▽姉小路中納言
姉小路良頼……元々は飛騨守護の京極氏の一族で家臣だった三木氏。
永禄年間に北飛騨吉城郡の江馬時盛が甲斐・信濃を支配する武田信玄の援助を受けその傘下におさまると、嗣頼(良頼)はそれに対抗して越後・越中を支配する上杉謙信と誼を通じた。
しかし、永禄7年(1564年)、信玄の家臣である山県昌景や木曾義昌の侵攻を受けて降伏し、江馬氏に領土の一部を割譲するなど譲歩を迫られた上に武田氏の傘下となることを余儀なくされた。

0985日本@名無史さん2017/03/01(水) 21:07:06.58
元亀元年(1570年)、足利義昭を擁立して上洛した織田信長からの上洛命令を受け、嫡子自綱(頼綱)を上洛させて信長と誼を通じるなど、なおも独自勢力を維持した。
良頼自身も上洛し、4月14日には義昭や信長とともに能を鑑賞している。←本章に出てくる能

0986日本@名無史さん2017/03/01(水) 21:10:48.87
姉小路頼綱の妻は斎藤道三の娘だから、織田信長とは相婿の間柄になるな。

0987日本@名無史さん2017/03/01(水) 21:15:51.01
▽伊勢の北畠中将
北畠具房〔>>921〕……伊勢国司北畠家の第9代当主。信長の次男である茶筅丸(織田信雄)を養嗣子とする。
左近衛中将で伊勢国司であった。
天正3年(1575年)に養嗣子の北畠具豊(織田信雄)が北畠家の家督を継ぐと、中の御所と敬称されるようになる。

0988日本@名無史さん2017/03/01(水) 21:21:06.23
なお、父の北畠具教〔>>926-927〕は、元亀元年(1570年)5月に出家して天覚、更に不智斎と号し、三瀬谷(現在の三重県多気郡大台町)に移っている。
しかし、少なくとも天正元年(1573年)9月迄は具豊(信雄)に実権を渡しておらず、天正3年(1575年)6月の家督譲与まで具教、具房奉公人(教兼、房兼)の文書発給が続いている。

0989日本@名無史さん2017/03/01(水) 21:29:33.56
▽河内の三好義継〔>>322
永禄11年(1568年)に織田信長が足利義昭を擁立して上洛してくると、三好義継は、信長の上洛に協力した。
義継は久秀とともに織田軍降り、河内北半国と若江城の領有を安堵された。
抵抗した三好三人衆は居城を落とされ阿波国へ逃亡、義栄も上洛出来ないまま急死した。
永禄12年(1569年)1月に阿波から畿内に上陸した三人衆が義昭を襲撃すると、畿内の信長派と合わせて三人衆を撃退した(本圀寺の変)。
同年3月に信長の仲介により義昭の妹を娶る。
その後しばらくは信長の家臣として三人衆など畿内の反信長勢力と戦っていたが(野田城・福島城の戦い)、元亀2年(1571年)頃から松永久秀と手を結んで信長に反逆し、信長包囲網の一角に加わった。

0990日本@名無史さん2017/03/01(水) 21:31:41.04
追放された足利義昭を若江において庇護したため信長の怒りを買い、天正元年11月、佐久間信盛率いる織田軍に若江城を攻められた(義昭は直前に堺へ脱出)。
若江城は落城し、妻子と共に自害して果て、首は信長のもとへ届けられたという(若江城の戦い)。享年25。

0991日本@名無史さん2017/03/01(水) 21:35:03.58
▽大和の松永久秀
大和の有力国人はほとんどが筒井順慶に属していたが、信長が10月に家臣の佐久間信盛、細川藤孝、和田惟政ら2万の軍勢を久秀の援軍として大和に送ると、この軍勢と協力して次第に大和の平定を進めていく。
一段落した12月24日には岐阜へ赴き、さらに「不動国行の刀」以下の諸名物を献上した。
永禄12年(1569年)も大和平定を継続し、対する順慶は没落を余儀無くされていく。またこの年の本圀寺の変時には岐阜に滞在しており、事件の際には信長と共に上洛し駆けつけている。
元亀元年(1570年)、信長の朝倉義景討伐に義継や池田勝正らと共に参加し、信長が妹婿・浅井長政の謀反で撤退を余儀なくされると、近江国朽木谷領主・朽木元綱を説得して味方にし、信長の窮地を救っている(金ヶ崎の戦い)。

0992日本@名無史さん2017/03/01(水) 21:37:26.19
以後も信長の家臣として石山本願寺攻めに参加するが、次第に信長包囲網が形成されてゆくにつれて足利義昭に通じたと見られる。
もっとも、三好義継・松永久秀は名目上は将軍義昭の幕臣であり、信長とはあくまで協力関係にあり従属する義理も無かったとも言える。
元亀2年(1571年)の時点で甲斐国の武田信玄から書状が送られており、この時点で既に信長に対する不穏な動きが見て取れる。
元亀3年(1572年)、ついに久秀は信長に対する叛意を明らかにし、三好義継、三好三人衆らと組んで信長に謀反を起こした。

0993日本@名無史さん2017/03/01(水) 21:39:37.67
天正5年(1577年)に上杉謙信、毛利輝元、石山本願寺などの反信長勢力と呼応して、本願寺攻めから勝手に離脱。
信長の命令に背き、信貴山城に立て籠もり再び対決姿勢を明確に表した。
久秀は10月10日に平蜘蛛を叩き割って天守に火をかけ自害した。首は安土へ送られ、遺体は筒井順慶が達磨寺へ葬った。享年68。

0994日本@名無史さん2017/03/01(水) 21:53:25.84
次スレ
司馬遼太郎 Part7 [無断転載禁止]©2ch.net
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1488372192/

0995日本@名無史さん2017/03/01(水) 21:58:10.90
松永久秀の二度目の謀叛に関しては、司馬『果心居士の幻術』という短篇がある。

0996日本@名無史さん2017/03/01(水) 22:02:03.36
★安土郷

▽永禄13年(1570)2月27日
元亀元年は、4月23日から。

0997日本@名無史さん2017/03/01(水) 22:05:19.13
▽安土郷
信長が愛した水郷風景
司馬遼太郎 Part6 [無断転載禁止]©2ch.netYouTube動画>2本 ->画像>863枚
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0998日本@名無史さん2017/03/01(水) 22:09:40.96
▽常楽寺
滋賀県近江八幡市安土町常楽寺という地名は残っているが、常楽寺という寺は現存していないものと思われる。

0999日本@名無史さん2017/03/01(水) 22:12:25.52
▽木瀬蔵春庵
永禄13年(1570)2月、安土の常楽寺の相撲で行事をつとめ、 信長から服を下される。

1000日本@名無史さん2017/03/01(水) 22:14:07.41
『国盗り物語』第55章「遊楽」の続きは、司馬遼太郎 Part7 で。
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1488372192/

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